古代日本の隣保組織について

古代日本の隣保組織について
(三上)― 5
【研究会報告】
古代日本の隣保組織について
三 上
はじめに
喜 孝
で初めて木簡が発見されたことでも有名であ
る。
2004 年度の調査では、次のような釈文を持
本稿の目的は、古代日本(奈良~平安時代)
つ漆紙文書が出土した 3 )(図 1)。実際には紙
における隣保組織を、法制と実態の面から考
の表裏に文字があったが、ここでは、論旨に
察することにある。古代の隣保組織、いわゆ
かかわるオモテ面のみを掲出したい。
る「五保」は、古くは近世の五人組制度の起
源との関わりから関心を呼んだこともあった
・(オモテ面)
1)
宮城郷口壱拾陸人
が、その実態は、史料が限られていること
もあり、明らかではなかった。ところが近年、
隣保組織に関する出土文字資料も発見される
請稲□□貳[
]
〔丸カ〕
一保長□子部圓勝保口壱拾陸人 請稲□×
ようになり、従来の議論を再検討する素材が
揃いつつある。本稿では、それらの資料を紹
□戸主壬生部益成戸口弐人 請稲□×
介しながら、8 世紀から 9 世紀にかけての隣
保組織の存在形態について検討したい。
1
払田柵跡出土の「保長」漆紙文書
□戸主□部子□×
本木簡は断片ではあるが、冒頭に「宮城郷」
(出羽国置賜郡宮城郷か)という郷名と人数、
筆者が古代の隣保組織に関して検討するき
「請稲」の数、2 行目に保長の保口の人数と
っかけとなった資料が、筆者が調査にかかわ
「請稲」の数、3 行目以降に保内の戸主の人
った秋田県大仙市・払田柵跡出土の漆紙文書
名と戸口の数、そして「請稲」の数量が書か
2)
れており、全体として、次のような書式であ
である。払田柵跡とは、秋田県大仙市(旧
仙北町・千畑町)
(古代では出羽国山本郡)に
ったと考えられる。
所在する古代の城柵遺跡で、文献上で対応す
る城柵がみえず、古くからさまざまな説があ
った。最近では、759 年(天平宝字 3)に設置
○○郷口○人
請稲○束
一保長○○保口○人
請稲○束
された雄勝城が 9 世紀に移転した際の城柵で
戸主○○戸口○人
請稲○束
あるとする説が有力となっている。明治時代
戸主○○戸口○人
請稲○束
後期、古代東北の城柵遺跡として初めて実態
戸主○○戸口○人
請稲○束
が判明したもので、1931(昭和 6)には日本
6 ―ヘスティアとクリオ Vol.4(2006)
(注(3)文献より)
図1
秋田県払田柵跡出土第 6 号漆紙文書
古代日本の隣保組織について
(三上)― 7
次に内容について検討する。
「 請稲」は、
稲の出挙(貸付)を意味する表現と考え
ることができる。
この文書とほぼ同じ書式を持つものと
して、ル・コック氏がトルファンから将
来した「唐広徳三年(765)二月交河県連
保請挙常平倉粟牒」がある。五通が知ら
れているが、そのうちの 1 通をあげる 4 )
(図 2)。
(E断簡)
保頭蘇大方
請粟参碩「付大方領」
保内康質
請粟壱碩「付妻王領」
保内曹景尚
請粟両碩「付身領」
保内楊虔保
請粟両碩「付身領」
保内衛草束
請粟両碩「付身草束」
(注(4)文献より)
問得状称、上件粟、至十月加参分
納利者。仰答、如保内有人東西逃避、
不弁輸納、連保之人、能代輸納或否者。
図2
「唐広徳三年(765)二月交河県連保請挙常
平倉粟牒」
但大方等、保知上件人所請常平倉粟、
如至[
]均
代納。被問依実、謹
牒。
広徳三年二月
日
これは、唐代の中国において五家一保制
が実施されていたことを示す文書として
古くから注目されていたものである 5 ) 。
内容は、
「保頭」以下、五保の人物が、常
平倉の粟を各人一碩~三碩ずつ借用する
ことや、借用にあたり、保が共同連帯責
任を負うことを誓約した文言が書かれて
いる。粟の利息付借貸を「請粟」と記し
たり、保が単位となっている点などは、
払田柵出土の漆紙文書ときわめて類似し
た書式である。本文書が、保を単位とし
た稲の出挙に関わる文書であるとする推
定を裏付けるものである。
ところで、本文書の「保長」の上には
「一」という数字が付されている。これ
は郷内の保に付されていた番号である可
能性がある。
これまで、郷内の戸に番号が付されて
(『胆沢城跡 昭和五十九年度発掘調査概報』一九八五年より)
図 3 岩手県奥州市胆沢城跡出土の第 43 号漆紙文書
8 ―ヘスティアとクリオ Vol.4(2006)
いた例として、岩手県奥州市胆沢城跡出土の
隣保組織がどのような形で機能していたのか、
第 43 号漆紙文書が知られている(図 3)。こ
という点について、興味深い素材を提供して
の文書中の郷名と戸主名との間にみえる数字
いる。日本に律令制が導入されて以降、隣保
は、郷内の戸それぞれに付された「戸番」で
組織はどのような形で機能したのだろうか。
あるであると平川南氏は指摘している
6)
。平
川氏は、こうした戸番が、兵制の維持からと
次に、律令制度にみえる隣保組織の規定を確
認しておきたい。
りわけ重要であった陸奥国の地域的特殊性と
みる必要はなく、9 世紀において全国的に実
2
法令にみえる古代の五保制度
施されていた可能性もある、とも指摘してお
り、出羽国においても、同様の方法がとられ
古代日本の隣保組織に関しては、母法とな
ていた可能性は十分考えられる。すなわち「保
った古代中国の隣保組織も含めて、これまで
長」の上の「一」は、「戸番」ならぬ「保番」
に膨大な研究がある。まずは隣保組織の制度
であった可能性が高い。
的側面をおさえておく必要がある。
最後に、本文書が作成された年代について
いわゆる五保制度についての法的根拠は、8
ふれる。漆紙文書が出土した竪穴建物跡は、
世紀に定められた大宝令(701 年制定・施行)
915 年降灰の火山灰の下にあることから、10
や養老律令(757 年施行)の戸令に収められ
世紀前葉には廃絶したと考えられる
7)
。よっ
ている。大宝令は現存しないため内容は不明
て漆紙文書の年代もそれ以前と考えられる。
だが、養老令とほぼ同文であったと考えられ
文書は一定期間保管された後廃棄され、その
る。
後漆の蓋紙に転用したと考えられるから、お
そらくは 9 世紀末か、あるいは 9 世紀後半ま
でさかのぼる可能性がある。
本文書の意義をまとめると、次のようにな
【史料 1】養老戸令 9 五家条
凡そ戸はみな五家相保れ。一人を長とせよ。
な
以て相検察せしめよ。非違 造 すこと勿れ。
る。
もし遠くの客来たり過りて止宿することあ
①この漆紙文書の一次利用面は、
「 宮城郷」
(出
り、及び保内の人行き詣でる所有らば、並
羽国置賜郡宮城郷か)の「口」
(構成員)の、
びに同保に語りて知らしめよ。
稲の貸付額を記録した帳簿であると考えら
れる。帳簿の記載様式として、保や戸の内
【史料 2】養老戸令 10 戸逃走条
訳記載が認められ、郷―保―戸といった把
凡そ戸逃走せば、五保をして追訪せしめよ。
握が九世紀段階の出羽国で行われていたこ
三周までに獲ずは、帳除け。それ地は公に
とを示している。
還せ。還さざらむ間、五保及び三等以上の
②これまで、必ずしも明らかではなかった九
親、均分して佃食せよ。租調は代わりて輸
世紀段階の五保の実態をうかがうことので
せ。
〈三等以上の親というは、同里に居住す
きる資料として、大きな意味をもつものと
る者をいう〉戸の内の口逃げたらば、同戸
いえよう。
代わりて輸せ。六年までに獲ずは、亦帳除
③また、本文書の記載から、郷内の各保には、
け。地は上の法に准ぜよ。
番号が付されていたことが考えられ、これ
まで知られていた「戸番」に加えて、保を
【史料 1】は、古代の五保制度の中心とな
単位とした民衆把握においても同様の方法
る条文で、五家をひとつの保とすること、保
がとられていた可能性が指摘できる。
長を一人定め、保内の非違の検察をおこなう
このように、本文書は、これまであまり明
こと。保外からの来客や保内の人の外出につ
らかにされてこなかった、古代日本における
いても、同保の人間が把握するべきこと、な
古代日本の隣保組織について
表1
ど が 規 定 さ れ て い る 。【 史 料
2】は、戸の中で逃亡するもの
が出た場合、五保の人間が追
(三上)― 9
律令にみる五保・四隣の機能
〔法令にみる五保の機能〕
唐
日本
保内の戸口の相互検察
戸令10
戸令9
保内における逃戸の追補
戸令11
戸令10
の者が代わりに行うべきこと、
逃戸の租調代輸
戸令11
戸令10
が定められている。
保内の絶家の遺産処分
訪すべきこと、逃亡者の口分
田の耕作や租調の輸納は五保
なお、この戸令 9 五家条は、
『日本書紀』白雉三年(652)
の条にもほぼ同文の記事がみ
えている。表現じたいは大宝
令による潤飾の可能性が高い
保人の犯罪告発
闘訟律60
闘訟律60
保内における盗・殺人の告発
闘訟律59
闘訟律59
保内で人質をとった犯人の逮捕
賊盗律11
賊盗律11
逃亡者・寇賊の追補
捕亡令1
捕亡令1
唐
日本
賊盗律11
賊盗律11
〔法令にみる四隣の機能〕
が、7 世紀末に施行された飛
鳥浄御原令の段階で、すでに
五保に関する規定が存在して
いたことをうかがわせる。
喪葬令13
隣内で人質をとった犯人の逮捕
隣内の絶家の遺産処分
喪葬令13
隣内で死罪を犯した婦人の子の収養
獄令24
【史料 3】『日本書紀』白雉三年(652)四月
是月条
ところで、戸令に収められたこれらの規定
は、中国の唐令の条文を継受したものである。
是の月、戸籍を造る。凡そ五十戸を里と為
そこで次に、日本令に対応する唐令について
し、里ごとに長一人。凡そ戸主はみな家長
みてみることにしたい。
を以て為せ。凡そ戸はみな五家相保れ。一
人を長と為せ。以て相検察せよ。
【史料 4】『唐令拾遺』戸令復旧第十条
一〇甲〔開七〕四家為隣、五家為保、保有
実際、近年の調査では、奈良県明日香村の
長、以相禁約。
飛鳥京跡苑池遺構出土の 7 世紀後半の木簡に
「五戸」という表記がみえ、飛鳥浄御原令制
一〇乙〔開二五〕諸戸、皆五家相保、以相
下で五保制度が行われていたことが裏付けら
検察、勿造非違、如有遠客過止宿、及保内
れる。
之人有所行詣、並語同保知。
○奈良県明日香村・飛鳥京跡苑池遺構出土木
簡(『木簡研究』25)
・播磨国明伊川里五戸海直恵万呂
・俵一斛
唐令は、現在のところ逸文の形でしか残っ
ていないが、本稿で取りあげる対応する条文
については、基本的には養老戸令の条文とほ
行司舂米玉丑
156・31・6
ぼ同じであったと考えてよいであろう。
051 型式
ただし、復旧唐令には「四家為隣」という
日本令にはない表現がみえる。よく知られて
○奈良県明日香村・藤原宮北辺地区出土木簡
いるように、中国では、
「四隣」と「五保」と
(『評制下荷札木簡集成』奈良文化財研究所)
いう二つの隣組組織が存在した。この両者の
関係については、中国史の分野でこれまでに
〔穂カ〕
・飯□評若倭ア柏
多くの研究がある 8 ) が、現在までのところ、
・五戸乎加ツ
「四隣」を「各々の家から見て東西南北にあ
109・18・4
032 型式
る家との相対的、自然発生的な関係である」
10 ―ヘスティアとクリオ Vol.4(2006)
日本
ととらえるのに対し、
「五保」を「五家の間の
唐
連帯責任組織といい、固定的、人為的区分で
ある」ととらえる見方が有力である 9 ) 。
そこで、
「四隣」と「五保」の関係をいま少
し詳しくみてみよう。唐令や日本令にみえる
「四隣」「五保」に関する規定をまとめると、
表 1 のようになる。この表をみてわかること
は、四隣とくらべて五保の規定の方がはるか
に多く詳細であるという点である。このこと
から、唐においては五保が第一義的な行政組
織として期待されており、四隣がそれを補完
(吉田孝 注(10)論文より)
する役割を果たしていたと考えられる。なお、
日本の喪葬令や獄令にも「四隣」の語がみえ
る。対応する唐令が完全な形で残っていない
図4
日本と唐の行政区分の違い
ので明確なことはわからないが、少なくとも
これを日本の実態を示すものと考えるのは早
濃国大宝 2 年(702)戸籍である(図 5)。こ
計であろう。日本ではあくまでも「五保」の
の、美濃国戸籍にみえる五保に注目したのは
みが制度上保証されていた組織であったと考
石母田正氏であった。石母田氏は、美濃国味
えられる。
蜂間郡半布里と春部里の戸籍を例にとり、五
では、古代日本において「四隣」が継受さ
保の編成原理がどのようなものであったかを
れず、
「五保」のみが規定されたのはなぜなの
考察した 11 ) 。石母田氏がまとめた、半布里と
だろうか。これもよくいわれていることだが、
春部里における五保の構成は以下の通りであ
日本の律令では、唐の自然区分にあたる村落
る。
に関する規定を継受しておらず 10 ) 、その結果、
それに対応する「四隣」についても継受する
美濃国半布里
ことはなかったのではないかと考えられる
A保
県主族 4 戸
物部 1 戸
(図 4)。
B保
県主族 2 戸
県造 2 戸
県主 1 戸
さらにいえば、中国における四隣は地縁的
C保
県主族 3 戸
神人 1 戸
守部 1 戸
な組織と考えられるが、後述するように、古
D保
秦人 4 戸
代日本の地域社会内部においては、地縁的結
E保
県主族 1 戸
たと考えられ、そのことが、地域社会の内部
F保
秦人 4 戸
を強く規定していたのではないだろうか。そ
G保
県主族 3 戸
のため、日本では「四隣」という組織がなじ
H保
秦人 5 戸
まなかったと思われる。この点を確認するた
I保
秦人 4 戸
めに、次節では隣保組織に関する一次史料を
J保
県主族 2 戸
K保
秦人 2 戸
1戸
検討してみたい。
諸史料にみえる古代の五保
五保の制度が実際に行われている事例とし
てまずあげられるのは、正倉院文書に残る美
神人 1 戸
穂積部 1 戸
生部 1 戸
合によらない、別の結合原理が強く働いてい
3
秦人部 1 戸
秦人部 1 戸
神人 1 戸
不破勝族 1 戸
県造 1 戸
敢臣族岸臣
石部〔1 戸欠〕
県主 1 戸
〔1 戸欠〕
美濃国春部里
A保
秦人 1 戸
国造族 2 戸〔3 戸欠〕
不破勝族 1 戸
古代日本の隣保組織について
(三上)―
(『大日本古文書』第 1 巻より)
図5
美濃国大宝 2 年(702)戸籍(正倉院文書)にみえる五保の一例
11
12 ―ヘスティアとクリオ Vol.4(2006)
表2
平城京出土荷札木簡にみえる五戸
本
文
国
名
五保表記
貢進物
出
上五戸
赤搗米
木研 3-65 頁
五保
赤米
木研 3-65 頁
五戸
米
日本古代木簡選
五戸
俵
木研 24-160 頁
若狭国
五戸
米
城 12-7
丹波国
五戸
但馬国
五保
白米
木研 9-13 頁
伊勢国
五保
舂米
城 21-30
若狭国
田結五戸
御贄鯛
城 22-34
若狭国
氷曳五戸
御贄鯛鮓
城 22-34
若狭国遠敷郡青郷御贄貽貝富也交作一土鬲・氷曳五戸
若狭国
氷曳五戸
御贄貽貝
城 22-34
・車持郷御贄鯛鮓五升・○車持五戸
若狭国
車持五戸
御贄鯛鮓
14
・□沙石郷資□□・□六斗□□〔五戸ヵ〕□井
備前国
五戸
15
北宮御物俵余戸里五保
五保
16
漢部里五保□
・備前国上道郡沙石郷御立里・若倭部五百足同若倭部百足
合二一俵\○五戸秦部得丸
五保
1
・氷上郡井原郷上里赤搗米五斗・上五戸語部身
2
・播磨国赤穂郡大原□・五保秦酒虫赤米五斗
播磨国
3
・蛭田郷中□〔寸カ〕里・五戸物部真万呂五斗
遠江国
4
・播磨 ・五戸□部乎万呂俵□□
播磨国
5
小丹生里〈米七斗/秦人老五□〔戸カ〕〉
6
丹波国何鹿郡拝師郷柏五戸秦[
8
・御野郡出石郷白米五斗・天平勝宝八歳米五保倭文マ東人
9
・伊勢国川匂郡安麻手里五保 ・海部子首舂米一斛
10
・青郷御贄鯛腊五升・田結五戸
11
若狭国遠敷郡青郷御贄鯛鮓一土鬲・氷曳五戸
12
13
17
丹波国
備前国
典
木研 9-12 頁
城 31-28
城 31-30
俵
木研 12-23
城 27-21
五戸
俵
城 22-37
白米
城 24-31
18
上郷上小野五戸白米五斗
五戸
19
□木郷五□〔戸ヵ〕神直□一隻\神亀二年二月
五戸
平城宮 2-2292
20
上□〔郷ヵ〕上小野五戸白□
上小野五戸 白米ヵ
城 29-37
21
上郷下小野五戸□〔白ヵ〕米五斗
下小野五戸 米
城 29-37
※奈良文化財研究所ホームページ「木簡データベース」により作成(本文や出典の凡例も同データベースによる)
B保
ない、別の編成原理が働いていた可能性を示
国造族 5 戸
C保
春部 2 戸
都布江 1 戸
唆する。その上で、美濃国戸籍の五保の構成
C保
漢人 1 戸
六人部 1 戸(C保と接続
について、「国造族」「県主族」といった有力
か)
豪族や、
「秦人」といった渡来系一族が同保と
D保
「土師部 1 戸」(推定)
して編成されている事例が多いことに注目し、
E保
春部 3 戸
次のように述べる。
F保
六人部 2 戸(3 戸か)
G保
国造族 3 戸
H保
石部 1 戸
六人部 2 戸
〔3 戸欠〕
石作部 1 戸
「(美濃国大宝二年戸籍にみえる五保の記 載
から)少なくとも国造族・秦人に関するかぎ
〔3 戸欠〕
春日 2 戸
漢人 1 戸
り、家の隣接いかんを問わず同族的結合を基
礎として五保を編成したとみることもできる
のである(そうしてこの解釈は五保が後述す
石母田氏は、まず前提として「五保が五つ
るように相互の連帯関係で結合せしめられて
の隣接する戸によって構成されたものである
いた事実とも関連する)。事実、隣接すること
かどうかは一応問題とされてよいのである」
を五保編成の基準としないとすれば、同族や
「五保が四家と異なって必ずしも隣接する五
親属やの血縁的関係によって五保を編成する
戸から構成されないとすれば、五戸とは一体
のが、この時代の村落の状態から見て自然な
いかなる原則によって組織されたのであろう
方法でなければならない」
か。そこには隣接するという以外のなんらか
「郷里制は完全に戸を単位とする地域的な区
の五保編成の基準がなければならなかったは
画であったが、律令の村落編成のこの原則は
ずである」と述べ、五保が地縁的結合によら
五保の編成においてはそのまま貫徹すること
古代日本の隣保組織について
(三上)― 13
はできなかった。五保の組織は村落の最末端
国)の水陸交通の要衝にあたる。2006 年 6 月
の組織であって、村落の伝統や慣習と直接交
に、この遺跡から平安時代の嘉祥二年(849)
錯する場面であるからである。ここで郷里制
の年紀をもつ古代のお触れ書き(「 牓示札 」)
という上からの村落機構は旧来の旧い関係と
)
が出土した 13 。この同じ溝からは、小型の過
妥協して、五保制は必ずしも隣接する五戸を
所木簡と考えられるものが一点出土している
組織せず、同じ郷内ならば同族的結合の強い
(図 6)。
ところでは、そういう関係を基礎として五保
を編成したであろう」
このように石母田氏は、五保の編成が、必
ぼうじさつ
内容は、
「往還人である[
]丸は羽咋郷
長に率いられ、官路を作るので、召し遂うべ
からず(拘束しないでほしい)」というもので、
ずしも隣接する五戸により行われるのではな
裏面には「道公[
く、律令制以前からの村落の慣習や、同族的
咋□丸」の三名の名前と、「保長羽咋男□丸」
結合といった、別の編成原理により行われた
の名前、それと「二月廿四日」の日付が書か
可能性を指摘したのである。
]」「[
]乙兄」「羽
れている([ ]、□は判読不明)。羽咋郷は能
次に、出土木簡にあらわれた「五保」につ
登国羽咋郡であり、この木簡は道路構築の労
いてみてみよう。まず平城宮(京)出土の貢
働力として国境を越えるに際して、保長が三
進物荷札木簡の中に、
「保」の記載がみえるも
名の身元を保証する目的で作成されたものと
のをまとめたのが、表 2 である。この表から
考えられる。
は、次のようなことがわかる。
注目されるのはここに「保長」の自署がみ
第一に、保の記載のみえる木簡は、郡里制
えることで、これは戸令 9 五家条の「もし遠
下のものもみられることから、8 世紀初頭に
くの客来たり過りて止宿することあり、及び
はすでに五保が租税の貢進単位として機能し
保内の人行き詣でる所有らば、並びに同保に
ていたことがわかる。
語りて知らしめよ」という規定をふまえたも
第二に、五保として貢進されるものには、
のであると考えられる。本木簡の年代は 9 世
舂米や贄に関するものが多い。これは、舂成
紀と考えられるが、9 世紀段階において、令
労働や海産物の収取など、単なる租税のとり
に規定された「五保による保内の人の出行の
まとめだけだなく、共同労働の単位としても
保証」が規定通り行われていたことを示すも
五保が期待されていたことを示していると考
のであろう。
えられる。
ところで、加藤友康氏は、この木簡につい
第三に、五保の中には、独自の固有名で把
て、
「保長の保証行為の基底には、本貫地にも
握されている場合もある。「田結五戸」「小野
とづく人的関係による在地の支配秩序が存在
五戸」
「氷曳五戸」などである。この意味する
していたことを示しており、五保の編成原理
ところについては不明だが、五保がなんらか
には、
「地縁的結合」とは異なった別の原理が
の社会的結合を反映している可能性を示唆す
存在・機能していたことをみてとることがで
る。
きる」と評価している 14 ) 。保長は、在地社会
「保」の記載は、平城宮木簡だけでなく、
地方出土の木簡にもみられる。その中でも、
石川県金沢市加茂遺跡出土木簡を取りあげよ
う 12 ) 。
加茂遺跡は、古代の官道である北陸道と、
における旧来からの人的関係を根拠に、保内
の人物の移動を保証したのである。
最後に、平安時代の土地売券にあらわれた
「保長」についてみてみよう。これに関して
もこれまでに多くの研究がある 15 ) が、最近、
そこから分岐する道路、さらには西側に広が
加藤友康氏により詳細な検討がなされている
る河北潟へと通じる大溝などからなる遺跡で
)
ので紹介したい 16 。加藤氏は、近江国愛智郡
あり、いわば古代越前国加賀郡(のちの加賀
にみえる 9 世紀代の土地売券にみえる「保長」
14 ―ヘスティアとクリオ Vol.4(2006)
(注(12)文献より)
図6
石川県加茂遺跡出土木簡
古代日本の隣保組織について
(三上)― 15
「保子」に注目し、土地売券にみえる売買対
勅すらく、聞くならく、このごろ京中の盗
象地が近接している場合でも、保長・保子が
賊やや多し。物を街路に掠め、火を人家に
まったく重なっていない例にあらためて注目
放つ。まことに職司の粛清する能わざるに
する(表 3)。そして、売券にみえる保長・保
より、彼の凶徒をしてこの賊害を生ぜしむ。
子は、売人側の本貫地にかかわる五保とみて
自今以後、宜しく隣保に仰せて非違を検察
差し支えないと結論づけ、次のように述べる。
することもっぱら令条の如くすべし。其れ
「このことは、保が地縁的に結ばれていると
遊食博戯の徒、蔭贖を論ぜず杖一百を決せ
する考えにも再検討を迫るものとなる。売買
よ。放火劫略の類は、必ずしも法に拘わら
を証する保長・保子の連署が、土地所在地の
ず、懲するに殺罰を以てせよ。勤めて捉搦
地縁的結合をもとに構成される五保によるも
を加え、奸落を遏絶せん。主者施行せよ。
のでなく、なぜ売人所貫郷のものとなるのか
延暦三年十月二十日
という点からである。もし地縁的結合にもと
づいて五保が形成されているとしたならば、
当該地の土地売買の証を行なわない五保はど
【史料 6】『類聚三代格』大同 2 年(807)9
月 28 日官符
のような意味があるのか理解できなくなる。
太政官符す
五保の構成にあたって、地縁性は規定的なも
まさに両京の巫覡を禁断すべきこと
のではなく、あくまで所貫郷としての関係、
右、右大臣の宣を被るに偁く、勅を奉るに、
本貫地にもとづく五保構成が規定的なもので
巫覡の徒、好みて禍福を託し、庶民の愚、
あったこと、本貫を基軸とした人間関係を媒
仰ぎて妖言を信ず。淫祀これ繁く、厭呪も
介として売買の証がなされていたと考えるこ
また多し。積習して俗と成り、淳風を欠損
とができよう」
す。宜しく自今以後一切禁断すべし。もし
このように加藤氏は、五保の編成原理が、
深くこの術を崇び、なお懲革せざれば、事
地縁的結合にもとづくものではなく、律令国
あらわれるの日、遠国に移配せよ。所司こ
家による別の編成原理、具体的には本貫地に
れを知りて糺さず、隣保匿して相容れれば、
もとづく人的関係、という点に注目した。こ
並びに法に准じて罪を科せ。
の点は、これまでみてきた奈良時代の戸籍や
大同二年九月二十八日
出土木簡からも説明が可能であり、五保の編
成原理を考える上でしたがうべき論点といえ
よう。
長岡京・平安京遷都の初期の段階の史料で
ある。これらによれば、京中の非違に関して、
戸令 9 五家条が根拠となって「隣保」による
4
隣保制度の展開
取り締まりを命じたり、隣保による隠匿が禁
止されたりと、京中における「隣保」が意識
以上、古代の五保制度に関する諸史料の検
討から、古代日本の五保が地縁的結合によら
ない、別の編成原理で組織されていたと考え
され始めたことがわかる。
9 世紀半ばになると、京内においてさらに
「保」が意識されるようになる。
られることを指摘した。ところが一方で、 9
世紀以降、より具体的には長岡京・平安京遷
都以降、都を中心にして、これとは異なる保
の編成が行われるようになる。
【史料 7】『類聚三代格』貞観 4 年(862)3
月 15 日官符
太政官符す
まさに保を結びて奸猾を督察し、および道
【史料 5】『類聚三代格』延暦 3 年(784)10
月 20 日勅
橋を視守すべきこと
右、左京職の解を得るに偁く、
「謹んで戸令
16 ―ヘスティアとクリオ Vol.4(2006)
表3
保長・保子記載のある大国郷関係売券の署名者
(加藤康友 注(14)論文より)
古代日本の隣保組織について
(三上)― 17
を案ずるに、
『凡そ戸はみな五家相保り、一
右、去る貞観四年三月十五日の格に偁く、
人を長と為せ。以て相検察し、非違を造す
「左京職の解に偁く、
『 謹んで戸令を案ずる
なかれ』てえり。然らば則ち、結保の興り
に云わく、
《凡そ戸はみな五家相保れ。一人
は、姦濫を糺さんがためなり。司存の理、
を長とせよ。以て相検察せしめよ。非違 造
な
必ず遵行すべし。しかるに皇親の居、街衢
すこと勿れ》てえり。然らば則ち、結保の
相交わり、卿相の家、坊里猥雑なり。もし
興りは、奸濫を糺さんがためなり。司存の
官符を蒙りて直ちに此の制を施すにあらざ
理、必ず遵行すべし。しかるに皇親の居、
れば、不教の漸、輙く承引することなし。
街衢相接し、卿相の家、坊里錯雑せり。も
望み請うらくは、親王及び公卿の職事三位
し官符を蒙りて直ちに此の制を施さざれば、
已上は、家司を以て保長となし、无品の親
不教の漸、輙く承引することなし。望み請
王は六位の別当を以て保長となし、散位三
うらくは、親王及び公卿の職事三位已上は、
位以下五位以上は、事業を以て保長となさ
家司を以て保長となし、无品の親王は六位
んことを。然らば則ち皇憲通交し、隣伍相
の別当を以て保長となし、散位三位以下五
保ち、奸猾永く絶たれ、道橋自ずから全う
位以上は、事業を以て保長となさんことを。
せん。謹んで官裁を請う」てえり。右大臣
然らば則ち皇憲通交し、隣伍相保ち、奸猾
宣す。宜しく早く仰せ下して旧章を申明せ
永く絶たれ、道橋自ずから全うせん。謹ん
よ。右京職もまたこれに准ぜよ。
で官裁を請う』てえり。右大臣宣す。宜し
貞観四年三月十五日
く早く仰せ下して旧章を申明せよ。右京職
もまたこれに准ぜよ」てえり。左大臣宣す、
この史料でもやはり戸令 9 五家条が引用さ
勅をうけたまわるに、出格の後、年祀稍積
れ、京内の「姦濫」を糺すべきであるとして
もり、有司忍びて忘るるがごとし。奸濫行
いる。さらにここでは、親王・公卿職事三位
いて以て害となす。これすなわち徒らに条
以上は家司、無品親王は六位別当、散位三位
例を設け、未だ罪科を立てざるの致すとこ
以下五位以上は事業を保長に任用し、
「 督察奸
ろなり。宜しく重ねて下知し、件の保籍に
猾、視守道橋」を行わせることを命じている。
依り諸院・諸司、六位の院司・官人を以て
こうした法令が出された背景としては、北
保長となして、保内を粛清し、奸非を糺察
村優季氏が指摘するように、京内の非違検察
すべし。但し長なきの保は、隣近の保長各
にあたった坊令に代わり、新たに五位以上の
兼ねて督するを得よ。もし保長の本主外吏
貴族を家を京内治安維持にあたらせるねらい
に遷任し、以て任国に赴き、及び本宅を売
があったものと考えられる 17 ) 。その一方で、
却して他の保に移住せば、京織、保内の事
隣保組織という点からみてみると、ここでい
に堪えたる者を択びて、差し替えて行わし
う「保長」とは、明らかに京内の地縁的結合
めよ。自余の事条は、もっぱら前格のごと
を意識したものである。このことは、次の史
くせよ。もし制を下すの後、保長、督察に
料からも確かめられる。
勤めず、及び保人、保長の仰するところを
承引するを肯ぜざること有らば、みな蔭贖
【史料 8】『類聚三代格』昌泰 2 年(899)6
月 4 日官符
を論ぜず違勅罪に科せ。曽て寛宥せざれ。
昌泰二年六月四日
太政官符す
まさに結保帳に依り奸猾を督察せしむべき
この官符の主眼は、京内で「結保帳」に基
づいて保長を任じ、保内の粛清と奸非の糺察
こと
制帳二巻〈一巻は左京の料、一巻は右
にあたらせるというものだが、注目されるの
京の料〉
は、
「但し長なきの保は、近隣の保長各兼ねて
18 ―ヘスティアとクリオ Vol.4(2006)
督することを得よ」という表現である。これ
長を置き、察するに行来を以てし、詳らか
は明らかに地縁的組織としての「保」が念頭
にするに去就を以てすべし。またその市津
に置かれていることを示している。
及び要路、人衆猥雑の処、勤めて方略を施
このように、9 世紀半ば以降の平安京内で
し、多く偵邏を設け、募るに捕獲の賞を以
は、地縁的結合を意識した新たな保が編成さ
てし、示すに容含のことを以てせよ。奸濫
れ、治安の維持などの機能が期待されるよう
の徒をして、跡を留むるところ無からしめ
になる。これは、律令制当初の「保」が、本
よ。もし慎行を加えず、重ねて解体を致さ
貫地にもとづく人的関係といった点から編成
ば、必ず重責に処し、曽て寛宥せざれ。
されていたと考えられること、そして、もっ
ぱら貢納の単位や土地売買の保証として「保」
【史料 9】は、とくに畿内の治安が乱れた
が期待されていた、という点からすれば、大
ため、国司に下知して、郷ごとに保を結び、
きな変化であ るといえよう 。この変化は 、9
奸盗を督察すべきことを命じている。さらに
世紀半ば以降、平安京が都市空間として成熟
その翌月に出された【史料 10】は、五畿内七
してくることと軌を一にしているのではない
道に対し、治安維持のための保長を置くべき
だろうか。すなわち、京内の保長の再編成は、
ことを命じている。保長制の整備が、京から
平安京の都市性の確立と大きく関わっている
畿内、そして全国へと広がっていった様子が
といえるのである。
よくわかる。
京内において保長制が整備される中で、五
冒頭に取りあげた秋田県払田柵跡出土の漆
保の有効性が見直され、あらためて保や保長
紙文書は、まさに 9 世紀後半頃のこうした状
の整備が全国を対象に行われるようになる。
況の中で作成されたものである。最後に、こ
れまで述べてきたことをふまえ、あらためて
【史料 9】
『日本三代実録』貞観 9 年(867)2
月 13 日条
この漆紙文書の意味するところを検討してみ
たい。
十三日癸未、内外倹乏し、人庶飢を阻む。
なかんずく畿内は特に甚だし。盗賊群起し、
5
払田柵跡出土漆紙文書の再検討
或いは道路を遮りて人を脅し掠奪し、或い
は屋舎を窺いて火を行いて入り盗む。仍て
払田柵跡出土の「保長」漆紙文書の作成時
国司に下知し、郷ごとに保を結び、奸盗を
期は、出土した遺構の年代観から、10 世紀初
督察せよ。
頭以前、あるいは、9 世紀後半にまでさかの
ぼる可能性があることはすでに述べたとおり
【史料 10】『日本三代実録』貞観 9 年(867)
3 月 29 日条
である。前節でみたように、この時期は、五
保制度の有効性が見直され、あらためて保や
二十七日丁卯、五畿七道に下知す。頃年海
保長の整備が全国を対象に行われるようにな
賊を捜捕し、奸盗を督察するの状、頒ち下
った時期にあたる。とすれば、この漆紙文書
すこと数度。警告稠疊。しかるに今聞くな
は、そうした 9 世紀後半頃の保長制の整備の
らく、凶徒絶えず、侵盗なお多し。水浮陸
状況を示す重要な資料といえる。
行し、みな賊の害を憂う。実にこれ牧宰粛
ただし、地方社会にあっては、必ずしも平
清を勤めざるの致すところなり。それ「五
安京にみられるような地縁的組織としての
家は相保れ。一人を長となし、以て相検察
「保」のような、成熟した形態であったとは
せよ」と、載するに法条に在り。また盗賊
思われない。そこで、この時期(9 世紀)の
を容隠するは、罪を科すに軽きにあらず。
東北地方の戸の様相をみてみることにしよう。
然らば則ち事すべからく隣伍の内に必ず保
9 世紀の東北地方(特に出羽)のこの様相
古代日本の隣保組織について
(三上)― 19
(注(18)文献より)
図7
秋田城跡出土第 16 号漆紙文書(死亡帳)
表4
第 16 号文書の記載内容
(……は判読不明部分)
20 ―ヘスティアとクリオ Vol.4(2006)
(注(18)文献より)
図8
秋田城跡出土第 18 号漆紙文書(計帳様文書)
を知る上で興味深いのは、秋田城跡出土の漆
である。これは、9 世紀段階で、出羽国に北
紙文書である。秋田城とは、秋田市高清水の
陸地方からの移住者がいたことを示している。
丘陵上にあった古代の城柵で、山形県庄内地
そもそも、出羽国は、成立した 8 世紀初頭
方にあった出羽柵を、733 年(天平 5)に移設
から、多くの移民により成り立っていた国で
したものである。8 世紀後半に出羽国府を置
あった。712 年の出羽国設置以後の状況をみ
いたとする説がある。秋田市教育委員会によ
ると、以下の通りである。
って発掘調査が進められており、近年の調査
714 年(和銅 7)尾張・上野・信濃・越後等国
で漆紙文書、木簡、墨書土器といった文字資
の民 200 戸をを出羽柵戸として移住させる。
料が大量に出土している。1998 年の第 72 次
717 年(養老元)信濃・上野・越前・越後四
調査では、土坑から一括廃棄したとみられる
国の民各 100 戸を出羽柵戸として移住させる。
漆紙文書が多数出土した 18 ) 。なかには年号の
719 年(養老 3)東海・東山・北陸道の民 200
記されているものもあり、記された年号から、
戸を出羽柵に配する。
文書が作成された年代は天長~嘉祥年間(832
~850)ごろのものと考えられる。
この中で特に注目されるのは、
「死亡帳」と
すなわち、東海地方、関東地方、北陸地方
などから民衆が戸単位で移住させれているの
である。
いわれる 16 号文書である(図 7)。「死亡帳」
こうした移民系の戸は、現地の戸籍に登録
とは、前年度の計帳作成時から、本年度の本
される際に、おそらくはまとまった形で記載
年度の計帳作成の 1 年間に死亡した人間を書
されたのであろう。死亡帳に、「高志公」「江
き連ねたリストである。16 号文書には、某年
沼臣」といった、移民系の戸が集中してみら
度の各戸ごとの死亡者のリストが、上下二段
れるのは、そのことを示していると思われる。
書きで記されていた。おそらくもともとの戸
出羽国には、このほかに、服属した蝦夷も
籍から、戸の記載順に、死亡者を抜き出して
居住していた。そのことを示すのが、18 号文
書いたのであろう(表 4)。
書である(図 8)。
この「死亡帳」に記載された人物のウジ名
18 号文書は、記載様式から考えて、計帳と
に注目すると、興味深いことがわかる。それ
いう人民把握の台帳であったと考えられるが、
は、「高志公」「江沼臣」という、北陸地方に
注目されるのは、やはりそこに記載されたウ
由来するウジ名がみられることである。
「 高志
ジ名である。ここにみえる「和田公」
「小高野
公」は越後国古志郡に由来するウジ名であり、
公」は、秋田城周辺に今も「和田」
「小高」と
「江沼臣」は越前国江沼郡に由来するウジ名
いう地名が残っており、現地の地名を冠した
古代日本の隣保組織について
(三上)― 21
蝦夷のウジ名であったと推定される。すなわ
9 世紀半ば以降、あらためて保や保長の整備
ち、これは服属した蝦夷を把握するために作
が全国を対象に行われるようになる。払田柵
られた計帳である。
跡の漆紙文書にみえる「保長」という記載は、
詳細は別稿で論じたことがある
19 )
ので省
保長制の整備が地方社会においても意識され
略するが、このように、9 世紀の出羽国は、
るようになった、9 世紀後半頃の状況を示す
他地域からの移民や、現地の蝦夷といった、
重要な資料といえる。
異なる歴史的背景を持つ人々が混在する地域
ただし、地方社会にあっては、必ずしも平
であり、その把握のために、籍帳による支配
安京のような地縁的組織としての「保」のよ
が 9 世紀以降も行われていたと推定される。
うな成熟したものであったとみなすことはで
把握の仕方も、地縁的な結合にもとづくもの
きない。地方社会では、9 世紀以降も、在地
では不可能であり、集団のもとの本貫地や同
社会の人的関係にもとづく隣保組織が依然と
族的意識、といった原理が、とりわけ重視さ
して存在していたと考えられる。
れていたであろうと思われる。
付
ゆえに、払田柵跡出土漆紙文書にみえる「保
記
長」の記載は、9 世紀半ば頃の全国的な政策
としての「保」
「保長」の整備と関連すると考
本稿は、2006 年 7 月 22 日に東北大学東京
えられるものの、その実態は、
(平安京にみら
分室で行われた「コミュニティ・自治・歴史
れるような)地縁的結合の成熟を示すもので
研究会」第 6 回研究会で報告した内容をまと
はなかったと考えられるのである。
めたものである。
おわりに
注
最後に、これまで述べてきたことをまとめ
ておきたい。
古代中国では、自然発生的な地縁組織であ
る「隣」と、人為的な連帯責任組織である「保」
1) 三浦周行「五人組制度の起源」『法制史の
研究』岩波書店、1919 年。
2) 漆紙文書とは、古代において、漆の状態を
が存在したが、古代の日本ではそのうちの
良好に保つために漆に紙で蓋をしたため、
「保」に関する制度のみを継受した。日本に
その紙に漆がしみこんで腐蝕せず、地中に
おける「保」の実態としては、地縁的結合で
遺存したものである。その際に用いられる
はなく、律令制以前からの同族的結合や、共
紙は多くの場合、不要になった文書が使わ
同労働の単位としての社会的結合といった別
れるから、古代文書が地中から発見される
の原理が優先されていたと考えられる。
ことになる。漆紙文書は、1973 年に宮城県
長岡京・平安京遷都以降、より具体的には
多賀城跡で発見されたのをきっかけに、全
9 世紀半ば以降になると、京内において地縁
国から発見されるようになり、東日本を中
的組織としての「保」が形成され、治安の維
心として約 100 遺跡、700 点近くの点数が
持などの機能が期待されるようになる。これ
確認されている。漆紙文書の研究について
は、9 世紀以降、平安京が都市空間として成
は、平川南『漆紙文書の研究』吉川弘文館、
熟してくることと軌を一にしていると思われ
1989 年、同『よみがえる古代文書』岩波新
る。すなわち、地縁的結合にもとづく「保」
書、1994 年、などを参照。
は、平安京の都市性の確立と不可分の関係に
あったと思われる。
こうした中で五保制度の有効性が見直され、
3) 三上喜孝「払田柵跡第一二二次調査出土の
第六号漆紙文書」『払田柵跡調査事務所年
報 2003
払田柵跡
第 122~124 次調査概
22 ―ヘスティアとクリオ Vol.4(2006)
要』秋田県教育庁払田柵跡調査事務所、
集落』汲古書院、1996 年、初出 1990 年、
2004 年。
堀敏一「中国古代の家と近隣、家と集落」
4) 『 TU-HUANG AND TURFAN DOCUMENTS
『中国古代史の視点―私の中国史学
CONCERNING SOCIAL AND ECONOMIC
(一)』汲古書院、1994 年、初出 1990 年な
HISTORY』東洋文庫、1987 年。
ど。
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9) 宮崎市定「四家を隣となす」
(前注)など。
の唐代官粟貸付(五保)文書」『中国法制
10) 宮崎市定「中国における村制の成立」(注
史研究
奴隷農奴法・家族村落法』東京大
(8))、吉田孝「編戸制・班田制の構造的
学出版会、1962 年、初出 1936 年、那波利
特質」
『律令国家と古代の社会』岩波書店、
貞「東大隣保制度釈疑」『羽田博士頒寿記
1983 年。
念
東洋史論叢』東洋史研究会、1950 年、
11) 石母田正「古代村落の二つの問題」『石母
松本善海「吐魯番文書より見たる唐代の鄰
田正著作集』第 1 巻、岩波書店、1988 年。
保制」『中国村落制度の史的研究』岩波書
初出 1941 年。
店、1977 年、初出 1963 年。
12) 平川南監修・(財)石川県埋蔵文化財セン
6) 平川南「「戸番」付兵士歴名簿―胆沢城
跡第四三号文書」『漆紙文書の研究』1989
年。初出 1984 年。
7) 『払田柵跡調査事務所年報 2003
跡
ター編『発見!古代のお触れ書き
石川県
加茂遺跡出土加賀郡牓示札』大修館書店、
2001 年。
払田柵
13) 「 牓 示 札 」 の 検 討 に つ い て は 、 三 上 喜 孝
第 122~124 次調査概要』秋田県教育
「「平安時代のお触れ書き」を読む―「嘉
庁払田柵跡調査事務所、2004 年。
祥二年(八四九)加賀郡牓示札」」
『歴史と
8) 松本善海「鄰保組織を中心としたる唐代の
村政」『中国村落制度の史的研究』岩波書
地理
日本史の研究』205、2004 も参照の
こと。
店、1977 年、初出 1942 年、宮崎市定「四
14) 加藤友康「八・九世紀における在地秩序の
家を隣となす」
『 アジア史研究』4、同朋舎、
再検討―「五保」を手がかりに」『律令
1964 年、初出 1950 年、増村宏「唐の隣保
制」
『鹿大史学』6、1958 年、宮崎市定「中
国における村制の成立」『宮崎市定
ア史論考』中巻
アジ
古代・中世編、朝日新聞
社、1976 年。初出 1960 年、中川学「八、
九世紀中国の隣保組織」
『一橋論叢』83-3、
1980 年、山根清志「唐前半期における鄰保
制国家と古代社会』塙書房、2005 年。
15) 岸俊男「家・戸・保」『日本古代籍帳の研
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16) 加藤友康注(14)論文。
17) 北村優季『平安京―その歴史と構造』吉
川弘文館、1995 年。
18) 平川南「秋田城跡第七二次調査出土漆紙文
とその機能―いわゆる攤逃の弊を手が
書について」『秋田城跡
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堀敏一「中国古代の編戸制―とくに集落
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の変遷」『中国古代史の視点―私の中国
史学(一)』汲古書院、1994 年、初出 1988
平成十年度秋田
19) 三上喜孝「古代「辺境」の民衆把握」『歴
史と地理
日本史の研究』545、2001 年。
年、堀敏一「唐戸令郷里・坊村・隣保関係
条文の復元をめぐって」『中国古代の家と
(山形大学人文学部・助教授/歴史学)