“ピースボート”なかなかユニークな船旅でした(2)

“ピースボート”なかなかユニークな船旅でした(2)
松谷
操
ピースボートってなに?
ピースボートは 1983 年に設立されたNG
O(非営利団体)で、そのきっかけは 1982
年の「教科書問題」でした。教科書検定の際
「日本のアジアへの軍事侵略が『進出』と書
き換えられる」との報道に対して、アジアの
人々が激しく抗議し、国際問題となったので
す。この時「教科書では本当の歴史を学べな
いのではないか?」という疑問と「日本人は
いったいアジアでは何をしてきたのか?」という興味をもった若者たち4人が、実際に現地へいって自
分たちの目で事実を確かめようと考えたのが出発だったそうです。
また、ピースボートの船旅は、誰もが気軽に参加し、年齢・性別・職業・国籍・生活背景等の異なる
人たちが、世界中でおこった事件や、今、進行していることを「知る」ことのできる「場」であり、そ
れからの問題と奮闘している人たちと「出会うことができる場」であると思いました。
ピースボートに乗ったら、どんなことができるの?
各地のピースボートセンターでボランティアスタッフとして、乗船する前から活動しているメンバー
がいます。このメンバーにはクルーズ参加費割引が受けられるので、若者たちはこの制度をよく利用し
ています。そして、海外スタッフは港から港に乗船してくるゲスト(水先案内人)との交渉に、毎日走
り回っているようです。
さらに、ピースボートの旅を充実させるものとして「学ぶ」楽しみがあります。世界をめぐりながら
「実践的な形で『平和』を学ぼう」というものです。船内での講座やディスカッション、寄港地での体
験や検証プログラムなどを通じて世界の現実にせまる
ことができます。また、国際協力活動として人と人とが
出会ったり、日本国内で集めた文房具・スポーツ用品・
楽器などの支援活動や植林活動にも参加できたりしま
す。特に私が参加した 63 回クルーズではヒバクシャ 100
余人(広島・長崎をはじめ、カナダ・ブラジル・韓国か
ら参加)が乗り込み、各港で「証言」活動と交流を具体
化していき、おりづるプロジェクトを成功に導いていき
ました。
どんなゲスト(水先案内人)が乗ってきたの?
ピースボートではジャーナリストやミュージシャン・作家・大学教授など、国内外の各分野の専門家
が寄港地毎に乗船してきます。先生としてではなく「同航者」の一人として、ピースボートの船旅を導
くナビゲーターなので「水先案内人」と呼ばれていました。では私が出会った水先案内人を紹介します。
石川文洋(報道写真家)・・・1965 年から約4年間、フリーカメラマンとして南ベトナムの首都サイ
ゴン(現在のホーチミン)に滞在し、ベトナム戦争の状況を従軍記者として取材されています。
高遠菜穂子(イラク支援ボランティア)・・・2000 年以降、インド・タイ・カンボジアでストリート
チルドレンやHIV孤児のためのボランティア活動を行い、2003 年から、イラクで緊急支援
活動に携わり、2004 年4月に人質として拘束されました。様々なバッシングが繰り返される
なか、その後もイラクへの支援活動を続け、日本のメディアからは見えてこない「イラク」を
語り続けておられます。彼女の誠実さと粘り強さが輝いていました。
坂倉清(証言者・元日本陸軍軍曹)・・・1920 年生まれ。第二次世界大戦中の 1940 年、中国で旧日本
軍が行った三光作戦(殺しつくす・焼きつくす・奪いつくす)に参加するも、敗戦とともにシ
ベリアに抑留され、その後 1950 年、中国・無順の日本戦犯管理所へ送られました。そこで今
まで中国で殺戮・強奪などを行ったことへの反省と責任に気づき、二度とこのような戦争を引
き起こさないために帰国後「中国帰還者連絡会」に参加。以降、日本・中国各地で証言活動を
続けておられます。
東京ギャングスター(ミュージシャン)・・・ソウルフルな歌声と絶妙なトークが素敵なボーカルのパ
ギさんを中心に、4度目の来船となる今回は、ベトナムでのフェスティバルや船上ライブを実
施。船内でもゴスペル隊員を募集し、ワークショップで心地よい風を吹かせてくれました。
熊谷伸一郎(「無順の奇跡を受け継ぐ会」事務局長、岩波書店『世界』編集長)・・・元日本軍兵士の
戦争体験の聞き取りを進め、これまで 150 人の元兵士の証言をまとめてこられました。船内で
は、板倉さんをはじめ、元兵士が加害体験をなぜ今語るのか、また現在の日中関係について話
されました。
秋山豊憲(宇宙飛行士・ジャーナリスト・農家)・・・1990 年 12 月2日~10 日まで、日本人初の宇
宙飛行士として在職中にソ連の宇宙船ソユーズ、宇宙ステーション・ミールに搭乗。その後、
有機農業を営まれています。そして、私たちにとって本当に必要な技術とは何かを連続講演さ
れ、時に参加者の気持ちをなごませながら語られました。
ジョン・デバラジ(インドNGO「ボーンフリーアートスクール」代表)・・・3億3千万人のインド
の子どもたちのうち、1億8千万人は学校に通っていない現実をうけて、「ボーンフリーアー
トスクール」では、ストリートチルドレンやワークチルドレンにアートや読み書きを教えてい
ます。この学校の創設者のジョアンさんが、広島・長崎の原爆からの復興を描いた「白い花」
ダンスのワークショップを展開され、久しぶりに心や身体から動き出すダンスに出会うことが
でき、感動を共有しました。
エダ・ウズバカイ(プロダンサー・女優)・・・ドイツ人の母とトルコ人の父をもつエダさん。幼少の
頃より、バレー・モダンダンス・タップダンス・フラメンコ・ベリーダンス等を経験。船内で
も「フラメンコ」と「ベリーダンス」のワークショップが行われましたが、フラメンコは実に
難しく、途中でリタイヤしてしまいました。
ちゃんへん(在日コリアン・エンターテイナー)・・・ジャグリング・マジック・ブレイクダンス・ラ
ップなど、様々なジャンルを取り入れた独自のパフォーマンスを作り出す若いエンターテイナ
ーです。世界大会でチャンピオンになった事だけでなく、「自分がなぜジャグリングのとりこ
になったのか」「その中で自分がどう変わっていったのか」という在日コリアンとしてのトー
クもありました。ちゃんへんさんを7月 27 日、やまと郡山城ホールで開催される奈良県外国
人教育研究会主催の学習会にお呼びしますので、どうぞふるってご参加ください。
サンホ・ツリー(ラテンアメリカ専門家)・・・ワシントンにある「政治政策学研究所」のプログラム
ディレクター。アメリカが日本に原爆を落とすに至った過程を分析する研究・出版をされてき
ました。現在はコロンビアやアフガニスタンにおけるアメリカ主導の麻薬戦争とその戦争が
人々へ及ぼす影響を研究されています。船上では今後のアメリカ外交について話され、大統領
選の真っ只中だったので「きっと新しい風が吹くよ」「日本の皆さんもがんばれ!!」と叱咤激
励されました。
ジレニ・マテオ・ゴンザレス(ラテンダンサー)・・・カリブ海の中心に位置し、日本の九州ほどの大
きさの国ドミニカ共和国。中南米で最初にヨーロッパ人が定住し、1840 年に独立国家となり
ました。サントドミンゴに向かう船上では、ドミニカ出身のジレニさんから「メレンゲ」「バ
チャータ」「サルサ」等のレッスンがあり、参加者はリズムに乗って陽気に身体を動かしなが
ら中南米のリズムを楽しみました。
藤原幸一(ネイチャーフォトグラファー・国際海洋自然観察員協会理事)・・・南極・ガラパゴス諸島・
南米・北極圏などの「自然環境」をテーマに精力的な取材を行っているフォトグラマーです。
2007 年にピースボートと共同で、ガラパゴス諸島で植林プロジェクトを立ち上げ、生態系破
壊の原因となっている外来種の駆除と原生植物の保護と育成の重要性を話してくださいまし
た。
ガブリエル・テティアラヒ(タヒチNGO「ヒティタウ」代表)・・・フランス支配下にあるタヒチで、
先住民族マオヒのアイデンティティー復権と独立をめざして活動する、NGO「ヒティタウ」
を主催されています。フランスによる南太平洋の核実験への反対やフランスに依存しない経済
的自立を求め活動を続けておられます。マオヒ伝統のバニラ園やタロイモを育てながら先住民
の若者の育成もしておられ、私たちにも活動内容の紹介と共に、パレオの巻き方などの文化紹
介もしてくださいました。
ティパ・マフタ(マオリ教育者・マオリダンスグループ「カパ・ハカ」のメンバー)・・・ニュージー
ランドは先住民族マオリの言葉で「アオテアロア(白い雲のたなびく土地)と呼ばれています。
一般的にアオテアロアは、先住民族の権利が保障されていると言われていますが、マオリの土
地の乱開発や環境破壊、失業率の高さなど、解決されていない問題もあるといわれていました。
そして民族舞踊「ハカ」のワークショップもありました。
節子・サーロー(被爆経験者・平和活動家)・・・13 歳のとき広島で被爆。その後カナダのトロント市
に移住して、ソーシャルワーカーとして活動する傍ら、被爆の体験を若い世代に伝え、英語で
の証言活動や反核運動を国際的な規模で展開されています。今回は国連でも証言されました。
郭貴勲(韓国原爆被害者協会・前会長)・・・1924 年、日本占領下の朝鮮半島に生まれ、20 歳の時、
朝鮮人徴兵令により西部第二部隊に配属される。その後日本軍軍人として広島で被爆。戦後、
韓国へ帰国されましたが、1998 年5月に来日し、大阪府の病院で治療を受けた際「被爆者健
康手帳」を交付され、「健康管理手当」を受給しました。ところが、7月に韓国に帰国すると
大阪府は手帳を失権させ、手当支給を停止させたのです。郭さんは同年 10 月、国と大阪府を
相手に処分取り消しと損害賠償を求め、大阪地裁に提訴。地裁、高裁にて全面勝訴。日本政府
は上告を残念しました。
その結果 2003 年 3 月からすべての在外被爆者が適用されるようになっ
たそうです。
アスマロン・レゲッセ(「Citizens
for
Peace」~平和のための市民~)・・・国境紛争下のエチオ
ピアからエリトリアに追放された人々をサポートする団体(平和のための市民)で活動されて
います。アフリカで 15 年前に一番新しい国としてエチオピアから独立したエリトリアですが、
未だに深い戦争の傷跡が残っています。1998 年の国境紛争時に発生した難民・避難民、そし
て今もなお厳しい経済状況。夢をもてない若者など復興への険しい道のりを語ってくれました。
前田哲男(軍事ジャーナリスト)・・・「太平洋に無数の島々が散らばっていますが、ここはむかし侵
略と戦争でメチャクチャにされた地そのものです。もちろん多くの先住民が住んでいたのに、
日本とアメリカ連合国軍の主戦場となってしまったのでした。ハワイの真珠湾、ミッドウェイ
島、ソロモン諸島、ガダルガナル島、ラバウル・・・60 数年前まで「日本」であった太平洋上
の島々の歴史を振り返えなければならない」と、前田さんは力説されました。世界平和はまず
日本の歴史を学ぶことから始まると訴えられ、田母神論文についてもきびしく批判されていま
した。
キャロル・ノートン(イギリスの核軍縮活動家)・・・最終的に核軍縮への道は、政治的決断力のある
人たちにまかせなければならないかもしれないけれど、世論を味方につけ、一人ひとりが意識
を高め、核軍縮キャンペーンの一員となる必要があると彼女は訴えます。そして、首相から若
者まで、多種多様な人々を大規模なキャンペーンに巻き込む方法を教えていただきました。一
度挑戦してみる価値はあると思いました。
桃井和馬(フォトジャーナリスト)・・・世界 140 カ国をとび回り、「紛争」「地球環境」などを切り
口に取材を続けておられます。その中で、世界は今、どんな状況に置かれているのか、地球は
今どんな姿をしているのか、そして人間は今、この地球上で何をしているのかと問いかけます。
全ての答えは「この大地に命与えられし者たちにあるはずだ」と迫ってこられるのですが、な
かなか答えが出てきませんでした。
伊藤剛(ジェネレーションタイムズ編集長、NPO法人シブヤ大学理事)・・・「新しい時代のカタチ
を考える」をコンセプトにして食糧問題や核問題などの企画を立ち上げ、新しいプロジェクト
「ピースコミュニケーション」では「紛争解決」から「紛争予防」へ転身し、「失いたくない
日常」に気付かせようと話されていました。
城戸一夫(日本ユネスコ協会連盟評議委員・同世界遺産専門委員会委員)・・・世界遺産の解説におけ
る日本の第一人者「人と自然の共生」を大切にする世界遺産運動の精神に共鳴し、世界遺産の
啓蒙とその保護活動につとめておられます。
アナ・ソフィア・ピネド・トグチ(ペルー・ビジャエルサルバドル劇団「アレナ・イ・エステラス」代表、
沖縄からの日系移民2世)・・・16 歳のときに社会的、政治的に劣悪な状態のペルーで、芸術
や文化を使って立ち向かおうとする劇団『アレナ・イ・エステラス(砂とゴザ)』を創設。劇
団の命名は、砂漠のスラムであったビジャ・エルサルバドルにゴザをひいて始まった劇団だと
聞いています。演じるだけでなく『カサ・エスクエラ(家と学校)』で子どもから大人まで演
劇・サーカス・音楽・ダンスや芸術を教え、特に若者たちが人間として自己表現する場を得る
なかで、自分の存在を認識し、次世代を育てようというパワーを育てておられます。
計良光範・計良智子(アイヌ民族の研究・アイヌ人)・・・同じ日本に住みながら先住民に対する差別
だけが残されています。言葉を失い、文化を失いつつある先住民として、世界中に存在する先
住民と労働条件・教育・医療サービスはどうなっているのか、そして若者は何を感じているの
かを話してくださいました。また、アイヌの世界と南太平洋の先住民との出会いはどんなつな
がりを産み、どんな活動を歩ませてきたのかも話してくださいました。また、私たちは智子さ
んから刺繍を教えてもらい、作品を1~2完成させることができました。
カルロス・バルガス(コスタリカ大学教授)・・・日本国憲法の9条は実にすばらしいです。私たちの
国の憲法にも軍隊はありません。「軍隊がなかったら、どうやって国を守るのか」と問われる
時はありますが、「軍隊のない国へは戦争をふっかけてはきません」と返しています。私たち
は小さい頃から「差別はいけない」
「すばらしい憲法がある国だ」という事を教えていますが、
「日本ではどのようにして9条のことをいつから教えていますか?」と聞かれました。その返
事は残念ながら小さな声でしか返せませんでした。
* 63 回クルーズでいただいた資料や船内新聞の記事を参考にさせていただきました。他にもおられた
かもしれませんが、私が話を聞きに行ったり、ワークショップに参加してお逢いできたのは以上の
方々だったと思います。時間があまりなくて、講義を聞きにいけずこの紙面で紹介できなかった方々
には本当に申しわけありませんが、どうかご了承ください。