愛媛県の地域産業発展史からみた地方創生の可能性 白石史郎(法政大学大学院博士課程) Keyword: 地場産業、イノベーション、地方創生 【問題・目的・背景】 本稿は、太平洋戦争末期に発刊された地場産業研究の名 伊予絣は、江戸後期から松山地方の地場産業であった綿業 の発展形として、鍵谷カナが創始したものとされている。 著 『日本特殊産業の展相―伊予経済の研究―』 (賀川英夫編、 1943 年。以下「同書」という)を題材に、愛媛県における 図表-1 特殊産業に関する主な文献 地域産業の歴史的変遷を紐解くものである。そのなかから、 発刊 タイトル 対象地域 数々の困難な状況下においてイノベーションを成し遂げ、 1933 長野県の特殊産業 長野県 危機を脱するばかりか、大きな発展を遂げてきた歴史を振 1934 下伊那の特殊産業 長野県南部 り返り、現在の日本が抱える最も大きな課題の一つである 1934 和歌山縣特殊産業展望 和歌山県 地方創生へむけた示唆を得ることが目的である。 1934 管内に於ける林産物に関係あ 熊本県 る特殊産業調査 【研究方法・研究内容】 『日本特殊産業の展相―伊予経済の研究―』 1937 紀の川流域の特殊産業 和歌山県 1941 愛知県特殊産業の由来 愛知県 1950 我が国に於ける特殊産業とし 不明 ての寒天業 同書は、松山高等商業学校(のちの松山商科大学、現在 1943 の松山大学)創立 20 周年記念事業のひとつとして計画され たもので、7 人の研究者の論文集となっている。編者の賀 川英夫は松山高等商業学校の教員であったが、終戦間際に 戦死していると伝えられている。そのため同書が遺稿とい うことになる。 日本特殊産業の展相―伊予経 愛媛県 済の研究― 1951 地方特殊産業の構造 石川県 1955 諏訪の歴史「第四章 特殊産 長野県諏訪地域 業の勃興」 国立国会図書館サーチより 「特殊産業」とは今では使用されていない用語であるが、 現代で言うところの「地場産業」のことである。地場産業 のことを「特殊」産業というところは現在の感覚では乖離 があるが、当時の主要産業であった繊維産業や石炭などと の対比において特殊産業と呼称されていたようである。 戦前から戦後十年後くらいの間の文献においては、特殊 産業に関する記述がみられる(図表-1) 。 長野県、熊本県、和歌山県、石川県、愛知県など、現在 においても地場産業の盛んな地域と符合する。これらの特 殊産業に関する文献の中でも、 『日本特殊産業の展相―伊予 経済の研究―』は戦後においても、その緻密で丹念な研究 が高く評価されている。同書で取り上げられている主な地 場産業は、1.伊予絣(いよがすり) 、2.今治綿業、3. 伊予和紙である。 絣(かすり)とは、 「織物の技法の一つで、絣糸(かすり いと) 、 すなわち前もって染め分けた糸を経糸 (たていと) 、 緯糸(よこいと、ぬきいと) 、またはその両方に使用して織 り上げ、 文様を表すもの」 である (ウイキペディアによる) 。 明治 10~20 年頃から本格的に生産高が増え、日露戦争 (1904~)の頃には国内トップシェアとなった。しかし、 第一次世界大戦(1914~)をピークに、西洋化と洋装の普 及と相まって、次第に衰退し、同書の執筆時期においても 「尤もこのような衰勢は何も伊予絣に特有なことではなく、 絣木綿共通の原因にもとづくものであって、その製織上の 技術的関係から機械的大量生産に移り得なかったこと、お よびその需要が専ら国内に限定され、かつ文化の向上とと もに一般の嗜好に合わなくなった(一部現代仮名遣いに変 更) 」とある。江戸時代から松山藩の保護を受けた綿産業を ベースに、家内制手工業として発展し、松山地方の主要産 業のひとつともなっていたが、時代の変化に対応できなか ったために、衰退を余儀なくされている。現在では歴史的 保存文化として一部生産されているに過ぎない。 他方、今治綿業は現在の「今治タオル」 、伊予和紙は、四 国中央市を中心とする製紙産業として継承、発展している。 今治タオルと製糸業については後述する。 愛媛県内の地域間格差 い南予では 847 千円もの開きがある。東予は都道府県平均 では 15 位の香川県と同金額である。逆に南予は 47 位の沖 愛媛県は東西と南北にそれぞれ 160 ㎞に細長くのびてい る。愛媛県を 3 つの地方にわけ、東から、東予(とうよ) 、 中予(ちゅうよ) 、南予(なんよ)の 3 地域にわかれている。 縄県の 2,035 千円よりも低い。45 位の高知県の 2,252 千円 にも肉薄している低水準である。 四国内では、瀬戸内海側で関西に近い東予地方や香川県 が総じて高く、太平洋側に近い南予や高知県が低いという 図表-2 愛媛県の 3 つの地域 結果である。これらは、地理的優位性の高低によるものと して片づけられやすいが、同書を紐解いてみると、必ずし も地理的条件のみで片づけることはできない事実が浮かび 上がってくる。むしろ、時代の変化に対応できたか否かに よって明暗がわかれていたのではないかという仮説が成立 する。 図表-3 愛媛県の主要経済指標(2011 年度、2012 年度) 愛媛県ホームページより 産業面では、それぞれの地域ごとに特徴があり、第一次 前出 産業は、南予(宇和島市、八幡浜市など) 、第二次産業は東 予(新居浜市、西条市、四国中央市など) 、第三次産業は中 図表-4 愛媛県地域別人口と1 人当たり所得 (2012 年度) 予(松山市、伊予市、東温市など)とかなり明確な集積が 人口 1 人当たり 全国平均 みられる。 (人) 所得(千円) との比較 第一次産業の南予地域は、みかんなどの柑橘類、養殖業 東予 492,016 2,863 104.0 などが盛んである。第二次産業の東予地域は、四国中央市 中予 650,464 2,364 85.8 (旧・伊予三島市、川之江市など)を中心とした製紙産業、 南予 272,366 2,016 73.2 新居浜市、西条市の重化学工業、今治市の造船産業、タオ 県全体 1,414,846 2,470 89.7 ル産業がそれぞれ集積している。第三次産業の中予地域は、 前出 県庁所在地の松山市を中心にサービス産業、観光業などが 盛んである。 製紙産業の成立と発展 愛媛県の県内総生産は、5 兆 608 億円(2012 年) 、1 人当 たり県民所得は、275 万 4000 円となっている(2012 年)。県 現在、愛媛県内での製紙産業は、そのほとんどが四国中 民所得の水準は年による差はみられるものの、2012 年度に 央市に集積している。2013 年度の出荷額は約 6000 億円(工 おいては、全国を 100 とした場合、89.7 と 10 ポイント以 業統計)である。大王製紙、ユニ・チャーム、リンテック 上、差がついている。 (図表-3) 。全国の順位では 35 位と下 などの工場が立地している。 位に位置されている。 しかしながら、県内を地域別に見てみた場合、明らかな 愛媛県は、江戸時代より和紙の産地として有名であった。 全国約 40 か所の和紙産地中、土佐(高知) 、美濃(岐阜) 、 差異がみられる(図表-4) 。金額では、東予 2,863 千円、中 石見(島根) 、駿河(静岡) 、越前(福井)と並んで重要産 予 2,364 千円、南予 2,016 千円と、最も高い東予と最も低 地とされていた。四国では和紙の原料となるミツマタ、コ ウゾがよくとれているということも和紙の産地形成のきっ 今日の地方創生においても、とかくインフラ整備やさまざ かけとなっている。愛媛県内では南予の大洲、宇和島、宇 まな条件が整わないことを不振の理由として、補助金等に 摩郡(現在の四国中央市付近)が三大産地であった。その 依存して問題解決を図ろうということが多くみられるが、 うち、大洲、宇和島については江戸時代に藩主の保護政策 戦前においても当事者である事業者自らが主体的に研究開 と振興策によって発展した歴史がある。明治維新によって、 発を進め、 先覚者の意見に耳を傾け、 また製造だけでなく、 藩の保護政策が失われたことによって、大洲と宇和島は産 流通やマーケティングにも注力する仕組みづくりが重要と 地として衰退していった。同書においては、 「長年、保護奨 いうことである。 励の温床に育った大洲、宇和島の両地方が、明治以降の新 戦後においても高度成長による紙需要の伸びへの対応、 しい社会経済機構の出現とともに時代に取り残されたのに トイレットペーパー、ティッシュペーパーなどの商品開発 対し、四国中央市の製紙業界は、藩主の保護を受けなかっ とその製造などが活発に行われた。また、事務用品や文具 たことが、かえって事業者の自主独立心と研究努力を培い、 としての紙から新しい用途開発によって生活の質向上や産 その後の順調な発展をもたらした(趣意、以下同様) 」と分 業としての需要開拓に寄与している。たとえば、それまで 析している。また、 「元来、地方産業が発展するためには地 は海外製が主流であった生理用ナプキンの製造販売を国内 位・地勢・地質・気候・風習・経済情勢等の自然的・客観 で展開したユニ・チャーム(1961 年に前身の大成化工を創 的条件に恵まれることを必要とするが、これらにも劣らず 業、1963 年より発売)などもその例である。同社はその後、 必要なことは、先覚者なり、指導者なりに人財を得、当事 紙おむつなどで赤ちゃんのおむつ市場に進出し、また高齢 業者がこれに協力して製品品質の向上、経営方法の改善等 化の進展に伴って介護用パンツなども発売している。また にたゆまざる努力と研究を続けることである」としている。 海外展開なども積極的におこなっている。 四国中央市においては、 洋紙への対応、 機械化への対応、 木材パルプへの原料の変更、関西のみならず海外への輸出 今治タオルと改革の歴史 するなど、技術面、流通面での革新が行われ、その過程に おいて、家内手工業、問屋制手工業のから脱して大量生産 に適した資本政策も行われていった。 今治は奈良時代の頃からすでに織物が盛んであったと伝 えられている。江戸時代には今治で綿の栽培が盛んに行わ 同書では、明治から昭和初期の四国中央市での紙産業に れていた。瀬戸内海に面し、気候温暖で雨量が少ないこと ついて分析し、下記の 8 点が成功の要因と結論付けている。 が綿花の栽培に適していたからである。江戸時代後期には (1)港湾設備が整っているうえ、阪神、九州への海上交 今治藩が伊予木綿(白木綿)生産を督励したこともあり、 通が整備されていること (2) 高知県、 徳島県といった近県に原料の生産地があり、 かつ陸上輸送路も確保されていること (3)水質の良い川があり、原料の洗浄、漂白に適してい ること 全国に出荷していた。しかし、明治維新を迎え、大阪や兵 庫といった産地におされて不振となってしまう。そこで、 代替品として、矢野七三郎が和歌山で生産されていた綿ネ ル(毛織物のような風合いの綿織物)の技術を習得して、 改良を加え、 「伊予綿ネル」として 1886 年に完成させる。 (4)勤勉で安価な労働力が確保できること その後、綿ネル製造事業者の阿部平助が大阪で開発された (5)関連する紙加工業が発展したこと タオル織機を導入してタオルづくりをはじめた。 (6)先覚者や指導者に人を得たこと 以来、約 130 年にわたってタオルづくりが行われている。 (7)事業者が進歩的で研究熱心で、技術の練磨、機械化 今治のタオルづくりは技術革新の連続であった。1910 年に につとめ、かつ先覚者の指導に協力したこと 「二挺(にちょう)式バッタン」と呼ばれる、同時に二列 (8)生産と販売が独立し、生産者は生産に専念し、紙は、 のタオルを織ることができる織機を導入して、生産効率を 商人独特の手法を発揮し、市場開拓に努力したこと 飛躍的に向上させた。 1918 年には中村忠左衛門がジャカード織機を今治に導 このなかのどれもが重要ではあるが、そのなかでも、 入し、従来は、 「織る」→「晒す」→「染める」の順番の製 (7)と(8)が成功要因であり、逆に、同じ愛媛県内に 法であったのを、はじめに「晒す」→「染める」→「織る」 おいても宇和島、大洲においては、 (7)と(8)が不足し の「先晒し先染め」製法に改めた。この製法は、水を大量 ていたことが不振、衰退の原因であったと結論付けている。 に使用するため、良質で豊富な水が必要である。先に水で 「晒す」ことにより、やわらかい風合いのタオルに仕上げ 良いタオルとして、認知されている。 ることができる。この製法は現在にいたるまで、今治タオ 【考察・今後の展開】 ルの特徴となっている。水に関しては、西日本最高峰の石 「今治タオル」の特徴である風合いの良さの元となる「先 鎚山に連なる四国山地の山々から良質でかつ軟水の伏流水 晒し先染め」製法は、 「伊予絣」においても採用されていた が豊富にあることが、この製法を採用するに当たっては不 製法である。両者の関連性については定かではないが、同 可欠なことである。 県内にあって同様な特徴的な要素技術を持ちながらも、一 戦後も国内随一の織物産地としての地位を確保していた。 方では、環境変化に対応して生き残っているのに対し、他 高度成長期には、 「タオルケット」などのヒット商品にも恵 方では環境変化に対応しきれずに、産業としては消滅の憂 まれ、1960 年代にタオル生産日本一となった。しかし、1980 き目にあっている。それは生活の西洋化、服装の洋装化へ 年代後半より、安価な海外製におされて、1991 年をピーク の対応、手工業から機械生産への対応ができたか否かによ に、2000 年代には最盛期の 5 分の 1 にまで生産量が落ち込 るものが大きな原因であった。 んでしまった。そこで、組合では経済産業省にセーフガー また、製紙産業においても、伝統的な和紙を製造してい ドの発動を要請したが、発動はされなかった。組合では自 た江戸末期から明治期においては、大洲、宇和島、四国中 立して生き残るために 2004 年には新産地ビジョン策定委 央市の 3 地方で製造されていたにもかかわらず、四国中央 員会」が設置された。その頃は、海外勢におされていたこ 市以外は衰退してしまっている。それは、和紙から洋紙へ とに加え、OEM生産に頼りすぎることによる弊害が出て の需要の変化、手漉き和紙から機械による大量生産への対 いた。有名ブランドのOEM生産は数量の安定化ははかれ 応ができたかどうかということが岐路であった。 るものの、単価は供給先の言いなりである。また、タオル 終戦末期の昭和 18 年に同書が発刊された当時は、統制経 はギフト需要が多く、毎日使うものであるにもかかわらず、 済化が進んでいた最中に出版された。むろん当時の著者に ほとんど自分の手で購入することがないという商品となっ は、2 年後に訪れることになる終戦については、知る余地 ていた。高品質で安全な製品をつくっても、その価値を理 もないのであるが、激変する時代において、いかに変化に 解して購入されることが少なくなっていたのである。 対応していくことが重要であるか、イノベーションが重要 そうしたなか、2006 年に経済産業省の「JAPANブラ であるかを的確に述べている。 ンド育成支援事業」 (3000 万円の事業に対して 3 分の 2 補 21 世紀の現在、地方創生ということで、様々な施策が実 助)に採択され、クリエイティブ・ディレクターとして著 施され、補助金がつけられ、いわば、 「地方創生バブル」の 名な佐藤可士和氏に依頼することとなった。佐藤氏は、依 様相を呈している。しかし、本質的には、愛媛県の産業史 頼された当初は仕事を受けることに後ろ向きであったが、 に見られるように、製紙業においても「お上」の保護政策 お土産として渡されて、 「とりあえず使ってみてください」 に依存しすぎることは衰退の原因となっている。また、た といわれたバスタオルをその日に使ってみたところ、感動 ゆまない変化に対応できない伊予絣は衰退のほかなかった。 的な風合いと心地よい肌触りで、その品質の良さにクリエ 本書の示唆は現代にも十分に通じるものがあるといえよう。 イティブ・ディレクターとしての意欲が湧き、 これならと、 なお、本稿においては、東予地方の重要産業である新居 すっかり引き受ける気になったという。 浜市の別子銅山を発端とする鉱山事業及び、派生する数々 それからも組合内部の意見集約などに苦労するものの、 の新規事業群については触れられなかった。また、歴史か 今治タオルブランドのロゴマークを制定し、一定の品質基 ら得られるこれからの示唆の具体的内容については、今後 準を満たしたものにロゴの使用を認めることになった。各 更に研究を重ねて別に機会に発表したい。 社がバラバラでブランディングしていたものを「今治ブラ ンド」として高品質なタオルとして認知されるための様々 【引用・参考文献】 な取り組みを行った。伊勢丹での佐藤可士和デザインのタ 賀川英夫『日本特殊産業の展相―伊予経済の研究―』 オル販売、展示会の開催、南青山でのアンテナショップの (1943・ダイヤモンド社) 開店など、様々な取り組みが功を奏してブランドの知名度 四国タオル工業組合『今治タオル 120 周年記念』 (2015) が飛躍的に向上し、生産量も徐々に回復に向かっている。 佐藤可士和・四国タオル工業組合『今治タオル奇跡の復 今では、今治タオルはザ・リッツカールトン・ホテルを はじめとする高級ホテルで採用されるなど、国産の品質の 活』 (2014・朝日新聞出版)
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