1 坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニャ

坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ
齋藤 冨士郎
まえがき
戦前から昭和 40 年代までの日本のタンゴ界において坂本政一氏は早川真平氏と並び称されるマエスト
ロであった。しかしプロの演奏家と愛好家を含めた今日の日本のタンゴ界における両氏の取り上げ方は
極めて対照的である。
オルケスタ・ティピカ東京を率いた早川真平氏の活躍ぶりについてはその当時から現在に至るまでい
ろいろな新聞・雑誌・書物に紹介されてきている。またかつてのレコード録音もいろいろな形で CD 復
刻されている。これには歌手であった藤澤嵐子さんも一役も二役も買っていることは否定できない。
一方、坂本政一氏についてオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ(*)を率いたそのかつての活躍ぶりを紹
介する文章にお目にかかることは非常に少ない。大岩祥浩氏の「アルゼンチン・タンゴ アーティスト
とそのレコード」
(ミュージックマガジン社)や石川浩司氏の「タンゴの歴史」(青土社)にも早川氏の
名前は出てくるが坂本氏の名前は出てこない。レコード録音の CD 復刻もそれほど多くはない。早川氏
に比べると今日の坂本氏の業績に対する取り扱いは冷遇に近い。
早川、坂本両氏についてのこのような違いはつまるところ両氏のパーソナリティの違いによると思わ
れるが、そうかと言って、タンゴ研究を標榜する者にとって、それをそのままにしておくことは不公平
のそしりは免れないであろう。
そのようなわけで、ここでは乏しい文献・資料を頼りに坂本政一氏の足跡を探ってみた。
出生からオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤを結成するまで
坂本政一氏は 1909 年(明治 42 年)1 月 29 日、大阪市の生まれである。早川真平氏より 5 歳年長であ
る。実家は商家であったようで、当然、家業を継ぐことを期待された。しかし中学校卒業後、親の反対
を押し切り、大阪音楽学校に進んだ。但し、卒業はせず、予科のままで中退してしまった。大阪音楽学
校では始めはバイオリンを、その後でピアノを習った。
25 歳の時、両親が他界し、アルバイトのような形で、後年の音楽喫茶のハシリのような「中央商会」
という喫茶店で演奏活動を始めた。
1939 年頃のことである。
始めはクラシックのピアノを弾いていたが、
少しして 8 人編成のタンゴ楽団を結成し、活動を開始した。因みに、その「中央商会」では早川真平氏
も出演していたということだ。
1937 年に中国に渡り、上海で音楽活動をする。一度、大阪に戻った後、今度は大連に渡る。ここで坂
本氏は 300 円でバンドネオンを買われた。当時の 300 円が今の貨幣価値で幾らになるかは想像がつかな
いが、30 万円かそれ以上にはなるだろう。そして大陸生活を 4 年ほど経験した後で、1941 年春に大阪に
戻った。
戦時下でダンスホールは閉鎖され、楽士の招集も相継ぎ、洋楽楽団の経営は次第に苦しくなる。1943
年、桜井潔楽団のバンドネオン奏者の若林季朗が召集され、その後任として坂本氏が招かれた。そして
(*)
資料によって「ポルテニヤ」と「ポルテニア」の両方の表記がある。ここでは「ポルテニヤ」に統一し
た。
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戦時中に一時音楽活動を停止し、長野県でサラリーマン生活を送った期間を除いて、1948 年に退団する
まで坂本氏は桜井潔楽団のコンサート・マスターとして活動した。戦時下で召集を受ける音楽関係者は
少なくなかったが、坂本氏は身体不調を唱え続けて兵役を免れたという。
オルケスタ・ティピカ・ポルテニヤの結成と録音活動
桜井潔楽団を退団後、坂本氏は鎮目典幸の楽団「パムペーラ」や佐々木典年の楽団「シロー」でバン
ドネオン奏者として活躍した。そして民間放送開始の 1951 年に坂本氏はラジオ東京の新番組「ポルテニ
ヤ音楽」の専属に迎えられる。始めは「坂本政一室内楽団」といっていたが、発足当時のメンバーはバ
ンドネオン:坂本政一、岩見和雄、バイオリン:高珠江、天野祥三、チェロ:村上家偉、ピアノ:佐々
木典年の 6 人編成で、母体は楽団「シロー」であった。司会と解説は高山正彦氏であった。1952 年から
「ポルテニヤ音楽」は公開放送となった。またメンバーに村本慎二郎(バンドネオン)と山之内竹雄(コ
ントラバス)が加わり、楽団は「坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ」と改称した。この番
組は 4 年ほど続いた。因みにこの公開放送には当時まだ学生服であった蟹江丈夫氏が毎週来ていたとい
うことである。
画像出典:参考資料[1]
昭和 30 年代の「坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ」の主な活動拠点は音楽喫茶で、人気
第 1 を誇った。1959 年の中南米音楽誌のタンゴ人気投票では 1 位が「坂本政一とオルケスタ・ティピカ・
ポルテニヤ」
、2 位が「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」であった。
1953 年に「坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ」は SP レコードを 1 枚録音する。これが
氏の初録音である。カプリングは「カミニート」と「ベサメ・ムーチョ」であった。
「早川真平とオルケ
スタ・ティピカ東京」はこれに先立つ 1951 年から(藤澤嵐子さんの歌唱を含む)多数の SP を録音して
いるから、SP 録音に関する限り坂本氏は早川氏の後塵を拝したことになる。しかし LP 録音に関しては
坂本氏の方が 2 年早く、1958 年に日本ビクターに 25 センチ盤 1 枚を録音している。その内容は
楽団:坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ
メンバー:指揮:坂本政一
バンドネオン:岩見和雄
ほかの 9 年編成
A面
B面
2
バイオリン:仲間美枝子
ピアノ:鈴木雅晴
夜明け
エル・ウラカン
フェリシア
ラ・クンパルシータ
ロドリゲス・ペニャ
バンドネオンの嘆き
エル・チョクロ
アルゼンチンのアパッシュ
大きな人形
黄昏
(日本ビクター LV-24)
である。これに対して「早川真平・藤澤嵐子とオルケスタ・ティピカ東京」の LP 初録音は 1960 年であ
った。
この後、1959 年から「坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ」は民謡やその他の日本の曲を
アレンジした合計 5 枚の LP を録音した。これらの LP はタンゴそのものではなかったけれどもけれども
結構売れたそうである。しかし同時にそれらは日本のタンゴ愛好家を満足させるものではなかったと想
像する。これに対して「早川真平・藤澤嵐子とオルケスタ・ティピカ東京」はアルゼンチン・タンゴに
徹した。こうしたアルゼンチン・タンゴに対する姿勢の違いが後になって両氏に対する評価の違いとな
って表れたのではないだろうか。
「坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ」の大演奏旅行とその顛末
「坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ」1966 年から 1969 年に
かけて中南米、スペイン、米国を巡演する約 2 年に及ぶ大演奏旅行を敢行し
た。もっとも、当時の現地でのプログラムを見ると“ORQUESTA TIPICA
JAPONESA SAKAMOTO GIRA MUNDIAL 1966-1967”となっているか
ら、当初は 1 年未満の予定であったように思われる。それが、言葉は悪いが、
現地のプロモーターに踊らされた結果として約 2 年の大演奏旅行になったも
のと思われる。
この演奏旅行は長かったので、楽団員の何人かは途中で入れ替わっている。
画像出典:参考資料[4]付属写真
最初のメンバーは
指揮
坂本政一
バンドネオン 岩見和雄、小西福之助
森川倶志、門奈紀生
バイオリン
脇 精一、岩城喜一郎
阪田 護、佐々木 明
ピアノ
権正恭徳
コントラバス 青井 洋
歌手
阿保郁夫、国井敏成
高たか子(*)
の 14 人であった(参考資料[1]による)
。
一行は 1966 年 11 月 20 日、カナディアン・パシフィック航空で羽田を飛び立ち、ヴァリグ航空に乗り
(*)
現地の資料では理由は定かではないが TAKAKO KANAYASU になっている。
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換え、現地時間の 1966 年 11 月 23 日 14 時 05 分にブエノス・アイレスのエセイサ空港に
到着した。ジャンボ機が未だ飛んでいない時代であったから、飛行時間も長く、疲労は相当たまってい
画像出典:参考資料[2]
たに違いない。空港にはフリオ・デ・カロを始め、
オスバルド・プグリエーセとその楽団の全メンバー、
歌手のホルヘ・マシエルとアベル・コルドバ、アル
マンド・ポンティエルと歌手のエクトル・ダリオと
ネストル・レアル、アルフレド・デ・アンジェリス、
ロドルフォ・ビアジ、ホセ・リベルテーラ、リカル
ド・タントゥリ、エドムンド・リベーロ、ネストル・
ファビアン等、大勢のタンゴ人が詰めかけ、一行の
到着を待っていた。そして一行は彼等から大歓迎を
受ける。しかしこの後が大変であった。
すぐに空港ビル内でテレビ 13 チャンネルのための
画像出典:参考資料[2]
ニュース用フィルムが撮影された。そこで阿保郁夫は「コバルディア」を歌った。
その後、一行はバスで 13 チャンネルのテレビ・スタジオに直行し、ブエノス・アイレス到着後の僅か
2 時間後の午後 4 時から、その日の 9 時に放送するためのビデオ録画を行った。始めにオルケスタが「ブ
エノス・アイレス=東京」を演奏し、続いて 3 人の歌手はそれぞれ 1 曲ずつ歌った。オルケスタはその
後も夜の 10 時までスタジオに留まった。
それからやっと一行は宿舎となっているホテルで旅装を解いた。
十分休む間もなく、オルケスタと歌手たちは午前 2 時から
ブエノス・アイレスの中心にあるクラブ「レリエベ」にデ
ビュー出演した。「レリエベ」に出演中、楽団名を「オル
ケスタ・サカモト」に変更した。
一行はこの年一杯はブエノス・アイレスに滞在し、翌
1967 年にチリに行き、2 ヶ月ほど公演して、再びブエノス・
アイレスに戻った。そして 5 月にはスペインに渡った。参
考資料[1]によると、この演奏旅行については現地のエー
ジェントが弱体で、いろいろと人も入れ替わったりして、
画像出典:参考資料[2]
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最後は金と力と老獪さを身に付けたあまり信用できそうもないプロモーターに振り回されたらしい。
スペイン国内を 4 カ月ほど公演して、9 月にはプエルト・リコに飛び、首都のサン・フアンの「シェラ
トン・ホテル」に出演する。このあたりからステージは次第にショー化し、タンゴの演奏比率は減って
くる。
司会:アルベルト・フォンタン
画像出典:参考資料[2]
この後、北米に向かい 1967 年 10 月 23 日にニューヨークに到着する。ニューヨークには 1968 年 2 月
一杯まで滞在した。始めはハーレムの横にあったクラブ「カボロヘニョ」に出演したが、これが大変好
評で、そのお蔭で高級クラブであった「シャトー・マドリード」に連夜出演し。大成功を収めた。その
代わりにタンゴは隅に追いやられ、日本趣味を前面に出したショーに変身させられた。
1968 年 3 月にはニューヨークを出て、マイアミ、ベネスエラのカラカス、テキサスを経てメキシコ・
シティに入った。この頃になるとメンバーもいろいろと入れ替わり、メキシコでの楽団構成は
坂本政一:リーダー、電気オルガン
岩見和雄:バンドネオン、アコーディオン、フルート、テナー・サックス
岩城喜一郎、阪田 護、村上 功:バイオリン
唐木洋介:アルト・サックス、フルート
林
梓:ピアノ
青木高之:ドラム
ペドロ・フローレンス・デル・カンピオン:コントラバス
アルトゥーロ・ガルシア・ゴンサーレス:トランペット
ホセ高沢、三島ユミ江、石津ミキ子:歌手
グローリア&エドゥアルド:ダンス
と、およそタンゴ楽団とはかけ離れた構成になっている(参考資料[1]による)。楽団名も「オルケスタ・
フジヤマ」に変えられてしまった。しかし人気はもの凄かったという。その一方で坂本氏は自分の立場
を失ってしまったような状況に追いやられ、嫌気がさして 1 人でメキシコから帰国してしまった。残っ
た連中は更にチリに回り、再々度ブエノス・アイレスに戻ったが、そこでプロモーターに逃げられると
いう災難が起こり、楽団は現地解散の憂き目をみる。楽団員の立場では災難であるが、プロモーターに
してみればマエストロが勝手に 1 人で帰国してしまっことの方が問題ではなかろうか。たとえ影の薄い
存在になっていたとは言え、マエストロはマエストロである。マエストロが居なくなった楽団は船長の
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いない船、指揮官のいない軍隊と同じである。プロモーターとしてはそんな楽団の面倒をいつまでも見
るわけには行かない。だから「逃げた」というよりは「逃げ出した」と言った方が適当かも知れない。
楽団解散後、メンバーの中で岩見和雄と岩城喜一郎は帰国の道を選ばず、ニューヨークに向かった。
1970 年春のことである。そして二三の店を転々とした後で、1975 年にアルゼンチン人が経営する「ミ
ロンガ」のハウスバンドとして、たった 3 人の楽団ではあるが、活動を開始し、人気を博したという。
演奏旅行中でのレコード録音
終わり方は惨めではあったが、この一行は演奏旅行中に数枚の LP も録音している。ニューヨークで
の LP は CD にもなっている(CD:
「ORQUESTA SAKAMOTO DEL JAPON AT THE CHATEAU
MADRID」 Alegre SLPA-8660)
。但し残念ながら私はそれらの LP は所有していない。
坂本政一氏のパーソナリティ
坂本政一氏と早川真平氏のパーソナリティは好対照である。阿保郁夫氏によれば(参考資料[1])、坂
本氏は「優しい人」であった。リハーサルにおいても「おおむね良し」で済ませ、余り完璧を求めなか
った。これに対して早川氏は完璧な演奏を求めた。ポルテニョたちは「早川真平とオルケスタ・ティピ
カ東京」のコピーを完璧に徹底させた演奏にも喝采を送ったが、一方、それほど完璧なコピーではない
けれども、温和な日本人の心をありのまま出した「坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ」の
演奏にオリジナリティを見出した、という。
ある人によれば、早川氏は高山正彦氏とも親交を深めてタンゴを勉強し、またそうすることによって
楽団経営に関する有益な情報などを得ていたという。一方、坂本氏はそういうことを一切しなかった。
言ってみれば、早川氏は優れたミュージシャンであると同時に、優れた経営者であり、政治力も持ち合
わせていたのに対し、坂本氏は経営や政治は不得意な生来の「ムシコ」であったのだろう。
その後の坂本政一氏
早川真平氏が「オルケスタ・ティピカ東京」と共に南米演奏旅行から帰国した時はさながら凱旋将軍
で、帰国公演だ、パーティだ、と大変であったそうだが、坂本氏の場合は事情が事情だけに、帰国した
ことも誰も知らなかったらしい。阿保氏は 1968 年の夏ころ、街頭で坂本氏の姿を見掛けたが、声をかけ
るのも気の毒に思った、と回想している(参考資料[1])
。
参考資料[3]によれば、帰国後、坂本氏は阿保郁夫氏と共に新楽団ヌエバ・ポ
ルテニアを結成し、6年間にわたって演奏活動を行ったとある。グラシエラ・
スサナの日本録音 (LP CA32-1256, CD ETP-9092A-B)には伴奏楽団として
「坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニア」と記載されており、これが
ヌエバ・ポルテニアのことかもしれない。帰国後はそれなりの活動はしていた
とは言え、決して華やかなものではなかっただろう。そして何時のことかはわ
からないが、坂本氏は胃を全摘する大手術を受け、恐らくそれと前後して引退
生活に入られたと思われる。亡くなられたのは 1995 年 5 月 2 日である。享年
85 歳。ライバルの早川真平氏よりは 5 年早く生まれ、早川氏よりは 15 年長生
きをしたことになる。
画像出典:参考資料[4]付属写真
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いろいろな意見はあると思うが、昭和 20~40 年代にかけて早川真平氏と共に日本のタンゴ界を引っ張
ってきた坂本政一の名前は忘れられるべきではない。
参考資料
[1] 青木 誠、
「ぼくらのラテン・ミュージック ものがたり日本中南米音楽史」
、((株)リットミュージ
ック、1996 年)
(この資料のことは西村秀人氏に教えていただいた。
)
[2] 中南米音楽、1967 年 1 月号、p.39「坂本政一オルケスタの第 1 日」
[3] 坂本政一‐Wikipedia
[4] 蟹江丈夫、
「日本のタンゴ楽団(1)02 坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ」、
Tangueando en Japón, No.24 (2009) p.91
[5] 蟹江丈夫、
「日本のタンゴ楽団(7)26 日本のタンゴ史の一面」、Tangueando en Japón, No.30
(2012) p.110
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