抒情詩に就て

抒情詩に就て
蒲原有明
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を趁ふの童となりて牧童を携ふるに宜しかるべく、乳臭
背にははやく既に荊棘を負はされしにあらじをや。花香
み。世はかくまでに寛容なり、殊に識らず、抒情詩人の
と乳臭と徒らに孰れか多きやの悪譃を贏ち得て止まむの
認むるなからむとするも、今遽かに誰にか訴へむ。花香
と穉き歌なればなり。幸に一分の進境ありて、世の之を
と雖もなほかた 生 ひの歌なり、こゝろさへ 言 さへなほい
盻を冀ふに値するや否やを問ふは愚なるべし、そは新し
たじ。かゝる時に際してかのはかなき抒情詩の他が一顧
嘆じぬとも、やがてその声の空しかるべきは言ふをも俟
解し得ざらむとするも理なり。こゝに世の趣味の卑きを
たゞこれ消閑の為めにして、詩の意義のかたはしをだに
るあり。かくの如くにして得たる書に眼を曝らすものゝ、
観相をのみ崇みて、ひたぶるに己が心を虚うせむと力む
し得むとするは、 詩の第一義を誤りたらずや惑ひあり。
して、漫りに黒暗々の淵に沈み、かの性慾の裸身を摸索
共に可ならざるはなし。しかも世相の真を描写すと声言
苦悶あり、情緒揺曳して悲愁暗涙あり、詩のこゝに出でゝ
可からず、或は心神恍惚たり、或は衷に道念寤めて懊悩
肆なるはそが 態 なりと、然して歓楽そが被衣たるを 遺 る
忌むところあらむや、敢て言ふ、性慾は自然にして、放
既に業に独語に過ぎし、されば矯激の言さへ何の憚り
や。
たゞかの倒瀾に対ひて独寂しく語らむもおもしろからず
る潮のこゝに流れ、いかなる調のこゝに伝ふかを問はじ。
き調とぞ言ふなる。今この無人の渚に佇みては、いかな
ゆく時劫のすゝみをして声あらしむるは、大海の限りな
ふなく、白沙遠く埋めて途なきが如し。聴かずや、過ぎ
砕くるには、強ても知らざるを 為 す。この岸には人の訪
まね
の児となりて琴声を摸ねばむに、絶えて覊せらるゝなき
抒情詩の境に言ひ及びては切りに熱情を称す、天火一度
ことば
をや。かゝる歓びの再びすべからざるをしも辞まば、そ
胸に燃えてこそ、幽玄の琴絃初めて高調を弾するに堪へ
お
が徳に報ゐざるの罪はかの詩人にありぬべきをや。され
たれ。かの 油火 のおもてにのみ焼けむが如きはねがふと
あぶらび
わす
ど人の世の海に万波の起伏を詳にせむとして、仍且つ茫
ころにあらず、况してや酒間の乱舞徒らに情を激すべき
すがた
洋の嘆あらむとこそすれ、近く磯頭を劃りて一波の毎に
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命、華やかなる思想を汲まむにも、克己制慾、冷静にし
欲せず、偏に真なる感情に拠りてこそ、わかゝりし世の
これを浮華にするを欲せず、また之を衒ふが如かるを
しへなるに似たらば、そは悲しき極みなり。
云ふ古の狂王が一炬に聖殿を燼きて、冥界のなやみとこ
煽りて霊台に及ぼさば悔ゆともまた効なかるべし、伝へ
みならず、悪趣味を布くの媒たらざらんや。狂念慾火を
しもなりなば、啻に詩風の醇なるべきを※すの惧あるの
かは。今のごとくにして彼と此とを一列に措くが慣ひと
る人心の傾向相縁りて、暗流横溢の外に立たじとするこ
となす、所謂世慾に適するや否やを知らずと雖も、かゝ
故らに性慾の陥穽を按排し、以て真実の研鑽に出でたり
世と相触れ相関せざるあらむ。かの世相の一面に着して、
はその意義を悉くしてさながらに迫り来らむなり。何ぞ
夢寐の幻想を去りて、摯実なる感情の寤むる時、人生
るべし。
かの神秘の教ふるところに就ては、仍改めて言ふをりあ
の生ひさきの美しかるべきは期して俟つべきなり。殊に
︵新声 第四編第七号 明治三十三年十二月︶
そ極めて人情に遠きなからんや。独語して感あり。
もと
て至上の光を仰がむにも、危うげならぬ境地に住するを
得るなれ。また﹃君こそはいにし世にわがものなりけめ、
うなじ
そは幾代隔てつとは知りあへし、さあれ今燕の翔りゆく
を見て、君が 頸 をめぐらしつる態によりぞ、覆ひの布は
おもひで
脱ちたる。げにそは昔知りしところ。﹄といひ、はた﹁智
慧さへ、追
憶 さへ、深き悲みには要 むるところなし、たゞ
一事の学びえて忘られぬあるのみ、この野の小草こそは
一茎三花を着けたれ。﹂といふが如き、幽微なる感情のか
げをたどりて、ほのかに神秘のにほひの薫ずるなど、かゝ
るゆかしき思想の、今にしてわが抒情詩を化育せば、そ
底本:
「蒲原有明論考」明治書院
1965(昭和 40)年 3 月 5 日初版発行
初出:
「新声 第四編第七号」
1900(明治 33)年 12 月
入力:広橋はやみ
校正:小林繁雄
2010 年 12 月 28 日作成
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