忘れられた東アジアの玉虫装飾文化に関する融合研究

平成 27 年度アジア文化造形学会
総会大会 in 富士市
忘れられた東アジアの玉虫装飾文化に関する融合研究
―法隆寺の玉虫厨子の再発見―
21 世紀地域文化遺産保全研究所
張 大石
はじめに
人類における「飾る」という行為は文化形成要素の一つとして位置づけられる。
「飾る」素材 は自
然界に存在する普遍的なものが取り入れるが、ある地域や文化圏に特別な意味を成し得る場合、材料
の選択は特異性を有する。特異材料は産地、入手条件、文化背景などが限定され、本研究にかかわる
玉虫―ヤマトタマムシ/東アジアに分布する Chrysochroa fulgidssima―はその代表例の一つであろう。
身近な昆虫を観察し、生物学的な特性や能力を文化に受容するといった事例は世界各地からみられ
る。その代表格は古代エジプトにおけるスカラベである。丸い糞を土の穴に運び、その中で産卵・孵
化し、成虫となって穴から姿を現すフンコロガシという昆虫を、古代エジプト人たちは再生と復活の
シンボルとして崇めていた。また、現地に棲息する緑色のタマムシを勝利の女神に関連付けてその形
を首飾りにする民俗が既に存在していた。何れも昆虫のもつ色や形、習性などの特徴を捉え、それに
類似する概念や風習、物語への転化は、いわゆる類感呪術(Homoeopathic magic)の文化受容の一
形態として注目される。
一方、南方文化に隣接している東アジアにおいても関連する文化事象は古くから存在していた。玉
虫の装飾文化は何時、何処で、何の目的から見いだされ、近隣地域にどのように伝播していったのか。
そして玉虫装飾文化のもつ文化人類学的な意義はどこにあるのか。現時点でこれらの問いに関する総
合的な研究事例はともかく、玉虫装飾文化という言葉に接する機会すら殆どないのが現状と言えよう。
本研究では、忘れられた東アジアの玉虫装飾文化の発生と起源、伝播などの諸実像を明らかにし、
アジア地域につらなる基底文化の再発見を行う。また、関連文化遺産の保全、研究・活用に関する総
合的な知見を見出すことを目的とする。ただし、今回は、玉虫が学術研究の対象として初めて世に知
られるようになった法隆寺の玉虫厨子を取り上げ、歴史・民俗および材料・技法上の特性から考察し
た内容について報告を行う。研究方法としては人文・科学の融合研究の視点から論じることにする。
2 玉虫の文献学
文献学的に玉虫という字が確認されるのは中国の唐時代に遡る。唐代の著名な文人の韓愈が著した
「詠燈花同侯十一」編に「敍頭綴玉蟲」という句が見られるが、これは甲虫類の昆虫そのものを示す
よりは玉製装飾品を意味する1)。昆虫としてのタマムシの初見は博物書で見いだされる。唐代の陳蔵
器は「本草拾遺」を著し、そのなかで「吉丁蟲」について記述している。後に明代の李時珍の著した
「本草綱目」にも「吉丁蟲」に関する記述が見られ、「陳蔵器曰く」という表現で引用されている。
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唐代には朝廷による「唐本草」が成立していたので、陳蔵器もこれを参考にした可能性は高い。また、
「唐本草」も漢代に集大成された「神農本草経」が元とされる。これもまた秦始皇の仙薬を求める嗜
好や、それ以前から伝わる不老不死、神仙思想に関係した道教の影響を受けていたと考えられる。
本草学は神仙にはなれずとも無病長寿を手に入れるための実用学であり、悠久の時間をかけて体得、
蓄積されてきた東洋医学の根幹とも言えよう。ただし、なかには現代医学とは無関係の呪術的な意味
合いをもつものも多く含まれている。この際、呪術的な薬剤は類感、共感や感染呪術の範疇に含まれ
るものであり、吉丁蟲が本草学に取り上げられている伝統からして、漢代以前から薬剤としての認識
がすでに存在していたことが窺い知れる。実際に「本草綱目」をはじめとする各書には、玉虫が男女
相愛を促すとともに、媚薬として用いられるという記述が目立つ2)。
ところが、吉丁蟲と玉虫(ヤマトタマムシ)が昆虫学的に全く同種なのかを確証づけるのは難しい。
「本草綱目」では吉丁蟲の特徴を背中が緑色であるとしているのみで、形や色の細部を触れていない
からである。日本における玉虫は緑地に赤褐色の縦縞線の入ったヤマトタマムシを指すわけで、その
特徴からすれば吉丁蟲は東南アジアの広い範囲に棲息するエグリルリタマムシ(Chrysochroa vittata
fabricius)に似た種類と考えられる。18 世紀の初めに貝原益軒により編纂された「大和本草」には
タマムシのことを金亀子として表記して紹介しているが、その多くは吉丁蟲をタマムシと訓読みし、
ヤマトタマムシと同意語として扱われていた。が、日本では玉虫という字は、昆虫名の他に人名、地
名、歌などにも広く使われ、玉虫の文化が古くから根付いていた形跡が見受けられる。一方、中国で
は吉丁蟲という字が玉虫の代名詞として認識されていたことを考えると、少とも昆虫名としての玉虫
という字は日本で見出された可能性が高い。韓国では玉虫のことをビダンボルネ(비단벌레)と称す
る3)。直訳すると錦織の蟲を意味し、光彩を放つ独特の色に因んだ命名と考えられ、玉の虫という意
味は入っていない。台湾ではヤマトタマムシのことを彩艶吉丁虫とも呼ばれるが、帝王家の装飾に用
いられたことに因んで玉柱虫とも称されていたという4)。このように、昆虫学的に同種のタマムシを、
中国では「吉丁の虫」、韓国では「錦織の虫」、そして日本では「玉の虫」という意味で呼ばれている
点は、東アジアの歴史・文化形成と関わる事象として大変興味深い。
3 玉虫厨子の研究史と問題提議
明治新政府は神仏分離、社寺の縮小整理などを通して旧体制からの脱皮を図ったものの、社寺は伝
統文化及び天皇を中心とする近代国家体制の根幹に関わるとして、古社寺保護体制づくりに力を入れ
ていくことになる。法隆寺の玉虫厨子が近代的な学術研究対象として知られるようになったのも、明
治 21 年(1888)に宮内省が実施した全国宝物取調がきっかけとなった。この調査ではじめて玉虫の
存在が確認され、翌年に皇典講究所の月例講演会を通して世間に告知された経緯がある。
東京美術学校の創始に関わった岡倉天心や、アーネスト・F・フェノロサもこの調査に参加し、前
者は「日本美術史」(明治 23 年)の講義で推古時代の絵画遺品として、後者は「中国美術と日本美
術との諸時代」(1912)の著述で玉虫厨子について触れている。また、日本建築の父と呼ばれる伊東
忠太も玉虫厨子を研究し、『東京帝国大学紀要』(1898)のなかに「法隆寺建築装飾論」としてまと
めている。以降、この日本美術史及び建築史からの視点は玉虫厨子研究における主な手法として確立
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され、博物館展示の際はこの 2 点に視野が絞られている。
しかし、玉虫厨子の理解は、その名前の由縁たる玉虫という装飾材料に焦点を合わせることが肝要
である。このことにいち早く関心を寄せていたのは国学者たちであった。開明直後の明治政府は、ヨ
ーロッパに習って近代国家に欠かせない博物館設立事業に乗り出した。その一環として全国的な調査
が行われたが、最たるコアは天皇や皇族ゆかりの遺品であり、推古天皇や聖徳太子ゆかりの法隆寺も
重要調査対象の一つであった。この調査を際しては、天平 19 年(747)成立の『法隆寺伽藍縁起并
流記資財帳』と、鎌倉時代の法隆寺僧の顕真が記した『聖徳太子伝私記亦名古今目録抄』が主な準拠
資料となったが、なかでも顕真の記録には、「向東戸有厨子推古天皇御厨子也 似玉蟲羽似銅透彫唐
艸下臥之 此橘寺減之時所送也 内一萬三千佛御高七尺」と書かれ、国学者として調査に参加した小
杉榲邨、黒川真頼らが他より玉虫厨子に注目する契機となった。当時、両者は別行動をしており、法
隆寺金堂内の玉虫厨子から玉虫の存在を初めて目撃したのは小杉であった。暗闇の中から金銅透彫金
具の下に伏せられた玉虫の翅を発見した両者は、その感激を、翌年の明治 22 年 3 月と、4 月の皇典
講究所で開催される講演会で初披露している。彼らが玉虫厨子の玉虫の存在を意識しなかったら、当
時の歴史的な発見はなかったのは言うまでもない。
国学者である彼らが玉虫厨子に関心を寄せていたのは何故か。尊王思想や、先人たちの記録の正し
さを確かめたいという国学者としての一念があったにしても、その動機にはより根深い文化的背景が
関わっていると考えられる。江戸時代に、法隆寺の玉虫厨子のことをあえて玉厨子と記すといった具
合に国学と尊王思想は不可分の関係であった。玉の厨子という解釈は、玉虫と玉の象徴性を照らし合
わせて玉虫厨子の本来性を考える、という点で重要な意味をもつ。何れにせよ、明治の国学者にとっ
て法隆寺の如何なる珍宝よりも玉虫厨子が重要だった、しかも玉虫の存在に重みを置いたことを彩認
識する必要がある。
4 玉=魂の文化と玉虫厨子
日本における代表的な玉虫装飾文化は、法隆寺の玉虫厨子を筆頭に、同じく金堂内の四天王像、聖
武天皇ゆかりの正倉院宝物、宗像大社にまつわる沖ノ島祭祀遺跡(6 世紀頃)からも見ることができ
る。また、5 世紀頃に成立した宮崎県西都原古墳発掘からも確認され、これが日本における玉虫文化
を示す最古事例となっている。これらの遺品は何れも日本史上もっとも重要な地域と重なっており、
古代史と玉虫の文化との関連性が覗われる。つまり、飛鳥時代の玉虫厨子は、少なくとも 5 世紀頃
から存在した玉虫装飾文化を受け継いだかたちで成立したと言えよう。
一方、玉という字は絶大的な存在を象徴するが、日本では魂と根を同じくする言葉として知られる。
「人を見守って助ける働きをもつ精霊の憑代となる、まるい石などの物体」5)が玉の原義とすれば、
玉虫は特別な呪力をもつ憑代としての信仰がかかわって生まれた言葉と言える。縁結びや永遠性、保
存性、豊かさなどの権能を有する玉虫だが、その根幹には魂の憑代としての認識が存在していたと考
えられる。この魂と関連して、日本列島文化形成とも関係の深い台湾のパイワン族においては、日本
語のタマシイ tamashii に該当する言葉にツマシ tsumash がある6)。アイヌ語のタマサイ thamasai
は玉の首飾りを指す。また、古い韓国語のなかにくっ付いて共に生きるという意味のタマサリ
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thamasari という言葉が存在する7)。タマシイの漢字は魂であるが、その原字は鬼とされる。鬼は死
体の頭から・が抜け出す様子を象った字である。これらは共通して thama、tsuma という語根を有し、
霊魂観と結びついている。玉=魂の視点から、タマという言葉が東アジア文化の形質学的な特徴を知
るうえで重要なキーワードである可能性が示唆される。
玉虫の生態と関連して、一般に玉虫の光彩は天敵から身を守るため、または直射日光を反射させ体
温を維持するため、と言われている。しかし、玉虫の構造解析や自然界での生態を観察した結果、光
彩はカップリングに役立つ可能性があるという知見を得た。ひと夏のはかない命であるが故に、玉虫
たちは必死に飛び回り次へと命をつなぐ。この際、昼の太陽と翅とには、光を一定の高さに反射する
相関性があると考えられる。一斉に羽化し、榎の頂上部に飛び交う玉虫たちは太陽光を反射して輝く。
この光景は古代の人々が玉虫を魂の虫と捉えていた理由を説明する。
玉虫厨子の装飾技法は金銅透彫板の下に玉虫の翅を並列させている。翅の幅と長さを考慮すると、
透かし彫りの背景となる空間は制約を受け、結果的に玉虫の光彩は殆ど目立たない。つまり、玉虫を
材料に用いた目的は、玉虫そのものを見せる工芸材料的観点よりも、玉=魂の憑代としての呪術的観
点がより重要だったと考えられる。翅の装飾が塔身部にはなく、頂上部=アタマの宮殿にのみ施され
ているのもこのことと関連する。
5 結び
本発表では法隆寺の玉虫厨子を取り上げ、忘れられた東アジアの玉虫装飾文化の実在性を試みた。
玉虫文化の体系は東アジアにおける本草学のなかから見出され、命名は違っても同じ甲虫が共通の文
化基盤にかかわっていることは今後において重要性を増す。玉虫文化における類感呪術はその生態に
因んでおり、タマ=玉=魂というキーワードを通して東アジア文化の形質学的な特徴を見出す。また、
装飾材料の選択性は、必ずしも光彩効果を目的としたものではない可能性が今回はじめて示唆された。
玉虫厨子の再発見は、玉虫とその文化の理解にかかっている部分が大きい。従来の日本美術史及び建
築史の研究範疇に留まらず玉虫装飾文化という裏打ちの部分から細密な検討を重ねることで、本来姿
につながる知見が得られると考えられる。
1) 「玉蟲翅飾考―慶州金冠塚の遺物と玉蟲厨子」、濱田耕作、白鳥博士還暦記念東洋論叢、1925
2) 「本草綱目」巻四十一 蟲部化生類[付録]吉丁蟲 拾遺(蔵器曰)甲蟲也 背正緑有翅在甲下 出嶺南賓澄
諸州 人取帯之 令人喜好相愛媚薬也
3) 錦織虫という名の由来は戦後における韓国国内の生物学界から命名されたとする説が有力か。
4) 彰化県精誠高級中学自然科教師の李志頴氏の見解で、玉柱虫と玉虫の語源との関連性については現時点で確証
を得ない。
5) 岩波古語辞典
6) 「高砂族における霊魂観について」、台湾原住民研究第15号、日本順益台湾原住民研究会編、風音社、2011
7) 『朝鮮語辞典』、大阪外国語大学朝鮮語研究室編、角川書店、昭和 61