マニラ戦とその記憶

CsPR レクチャー・シリーズ
第7回
科学研究費補助金(基盤 B)「マニラ戦の実像と記憶」第3回研究会
2007.12.7
南京事件とマニラ戦──真実と和解の模索──
プログラム
10:30am – 12:30pm
映像資料の上映とディスカッション
(司会・中野聡/一橋大学社会学研究科教授)
13:00pm – 14:30pm
マニラ戦とその記憶
(中野聡)
14:45pm – 16:15pm
スペインとアジアにおける第二次世界大戦
(フロレンティーノ・ロダオ/マドリード・コンプルテンセ大学教授)
16:30pm – 18:00pm
世界から見た南京事件
(笠原十九司/都留文科大学教授)
映像資料の紹介
NHK 放映(BS Hi 2007/8/5 19:00-20:50)
「証言記録
マニラ市街戦〜死者 12 万人
制作/担当ディレクター
焦土への一ヶ月〜」(株)バサラが
金本麻理子さん;フィリピン側インタビューでは、
篠沢ハーミーさん;日本側インタビューでは神直子さん;米側インタビュー(米
公文書館調査)では柳原みどりさんが協力されました。
CsPR レクチャー・シリーズ
第7回
科学研究費補助金(基盤 B)「マニラ戦の実像と記憶」第3回研究会
2007.12.7
南京事件とマニラ戦──真実と和解の模索──
マニラ戦とその記憶
一橋大学社会学研究科
中野
聡
1.何が起きたのか
フィリピンにおける戦争末期の日米戦は、1944 年 10 月 20 日に米軍がレイテ
島に上陸して本格的な地上戦が始まり、翌 45 年 1 月 4 日に米軍はルソン島北西
部のリンガエン湾に上陸して、ただちに南下してマニラをめざした。ダグラス・
マッカーサーにとってマニラ市の奪回は作戦上の必要を超えた至高の目的であ
った。2 月 3 日、日本軍の不意を衝いてマニラ市を南北に分かつパシグ河の北岸
を急襲・占領した。ここから始まったのが「マニラ戦」である。この戦いで日
本軍は――山下奉文将軍指揮下の陸軍主力が北部ルソンの高原都市バギオに
「転進」した後も市内に残留した――マニラ海軍防衛隊と幾つかの陸軍部隊が、
パシグ河南岸の、スペイン時代の城塞に囲まれた旧市街イントラムーロスから
市中心部エルミタ・マラテ地区のビル・民家を陣地化して徹底抗戦した。これ
に対して第 37 歩兵師団を中心とする米軍は、兵員の損害を最小限に抑えるため
に重砲火による事実上の無差別攻撃で街区を次々と破壊していったi。
戦いは日本兵が完全に掃討されるまで 4 週間にわたって続き、アジアでは最
大の、第二次世界大戦全体を見わたしてもスターリングラード、ベルリン、ワ
ルシャワに次ぐと言われる大規模な都市破壊によって、マニラは文字通り灰燼
に帰した。日本軍はごくわずかの投降者をのぞいて全滅した(1 万 6665 名の遺
体を確認)。米軍戦死者は 1010 名、負傷 5565 名と記録される。むろん最大の
犠牲者はマニラ市民であったが、イラク戦争と同様に民間人犠牲者数の公式統
計は存在しない。戦前のマニラ市の人口は 60 万人強(一九三九年国勢調査)で、
東京裁判・山下裁判などで日本軍の残虐行為の責任を追及した検察側は、民間
人犠牲者の総数を約 10 万人と算定した。米軍戦史などもこの数字を採用してい
るii。もちろん残虐行為を含めた戦争被害はフィリピン全体に及んだ。戦後フィ
リピン政府の算定によれば、1939 年の総人口約 1600 万人に対して戦争犠牲者
は全土で 111 万人余りにのぼり、物的被害も 58 億 5000 万ドル(1950 年価格)
に達した(人的被害を合算して約 80 億ドルと算定iii)。
しかしこうした犠牲者の数以上に深刻なのは、生き残った者をも生涯苦しめ
続けてきた、日本軍の蛮行による苦痛と死の記憶である。市内随所で繰り広げ
られた日本軍による殺戮と陵辱は、その規模と方法において単なる非戦闘員殺
害の範囲を超えたジェノサイドであった。しかも、それら残虐行為の被害事実
が(加害者の特定には至らずとも)確度の高い証言と記録で裏づけられていた
点も「マニラ戦」の大きな特徴であった。それらは米軍の目と鼻の先で「解放」
直前に発生したがゆえに、ただちに検証と捜査の対象となった。また戦前のエ
ルミタ・マラテ地区は、外国人(非フィリピン人・アメリカ人)多数を含む富
裕層の住宅街を含み、大学・総合病院などが集中する地区でもあった。このた
め残虐行為の生存者と目撃者には、その経験を記録と証言に残す方法と手段を
知る人々が潜在的には多数含まれていた。東京裁判や山下裁判などに提出され
た宣誓供述書には、単なる目撃証言を超えて、いわゆる二次被害を考慮すれば
語ることに勇気を必要とした内容にわたり、日本兵の蛮行の事実が証言されて
いる。いまひとつ見逃してはならないのは、
「マニラ戦」をめぐって長年タブー
視されてきたもうひとつの記憶――米軍の無差別砲撃による大量死である。近
年の戦史研究は、民間被害の 6 割を日本軍による殺戮、4 割を米軍の重砲火によ
る死亡と推定し、マニラ市民がほとんど哲学的とも言える諦観をもって米軍砲
火による犠牲を受忍したと述べるiv。近年では、「マニラ戦」の記録・回想の出
版点数の増加とともに、米軍の強引な砲撃に対する生存者や遺族の怒りも語ら
れるようになっているv。
「マニラ戦」は単に首都の破壊だけでなく、スペイン時代から育まれてきた
植民地都市の豊穣な文化を滅亡させ、多国籍的な魅力に富む生活様式を抹殺し
た戦いであった。物理的復興にもかかわらず文化が再建できなかったのは、そ
の文化を担った人々じたいが抹殺されたからである。生き残った人々も、被害
体験や死の記憶と結びついたその場所で文化を再建する意欲を失った。戦後、
富裕層はエルミタ・マラテ地区を放棄して、現在の新都心地区にあたるマカテ
ィ地区周辺に武装警備員が守る巨大な邸宅街を構築していった。歓楽街だけが
残ったエルミタは、マルコス戒厳令時代以降、グロテスクにも日本などからの
セックス・ツァーの舞台となっていった。
「マニラの破壊」の深刻さ、生存者の心的外傷の深刻さを理解するためには、
個々の被害事実に立ち入ってその経験と記憶を受けとめることが必要である。
小論はあえてそこには立ち入らない。またここでは「マニラ戦」に焦点をしぼ
ったが、フィリピンの戦争被害は政府算定によれば死亡者数にして「マニラ戦」
の 10 倍にのぼっている。BC級戦争裁判が示すように日本軍による残虐行為の
範囲も中南部ルソン、パナイ島さらにはフィリピン各地にわたっている。それ
らの破壊の質的な深刻さと被害感情についてどれだけ想像力を働かせることが
できるかによって、戦後フィリピン人の対日姿勢に対する評価も自ずと異なっ
てくるのである。
2.マニラ戦の「真実」をめぐる問題
「歴史問題」の焦点とされている南京事件(1937 年)と較べると、ほとんど
問題にされることがないマニラ戦であるが、その「真実」をめぐっては潜在的
には「歴史問題」に発展しても良いような問いがいくつもある。
まず避けることができないのが、マニラ戦において頂点に達したとフィリピ
ン側では語られている日本軍将兵によるマニラ在住女性に対する性的残虐行為
の問題である。この問題にどのような説明を日本側の研究者は与えることがで
きるだろうか。
次にマニラ戦の民間人犠牲者の総数 10 万人という数字について、実は明確な
積算の根拠が示されていない(東京裁判、山下裁判に際して用いられた数字だ
と考えられる)。死臭の街マニラについての記憶はさまざまに語られており、大
量死があったことは確実であるが、10 万人の根拠は示されていない。次に、日
本軍による殺害と、米軍の重砲火による殺害の比率について、漠然と6:4あ
るいは7:3という数字が示されるが、これも根拠が示されていない。この割
合は、マニラ戦の実像という意味では見逃すことができない問題である。
いずれにせよ、これほどの破壊、これほどの民間人の大量死が起きるという
ことは、事前には、日米比三者のいずれもが予想していなかった。だとすれば
この悲劇の原因と責任はどこに求めることができるだろうか。これも潜在的に
は「歴史問題」に直結する問いである。
マニラ戦が山下裁判の主たる訴因となり、結果として山下将軍が処刑された
こと、そこにマッカーサーの強い政治的意志が働いていたことから、山下裁判
には冤罪論がつきまとう。その延長線上に陸軍無罪論があり、もっぱらヒール
役をつとめる、撃沈された「霧島」の生き残った艦長である岩淵海軍少将と「マ
海防」
(マニラ海軍防衛隊)という存在が語られてきた。この点には重大な修正
が必要である。
一方で、マッカーサーの個人的で政治的な意志によってマニラ解放が急がれ
たことが無理な包囲線の原因となり惨禍を拡大したという指摘が、戦史家の間
から提起されている。この点も十分な検証が必要である。全米に中継された 2
月 28 日の「マニラ解放」記念式典で、マッカーサーは嗚咽した。この嗚咽の意
味を解くことからも色々なことが分かるだろう。
3.和解と忘却(口頭)
4.忘却への抗議
「お詫び」と「厚意」の互恵関係の実践がおよそ不可能な場所がマニラ市旧
中心部である。戦後日本人がアジア諸国にどのような顔を見せてきたか、どの
ように対話をしてきたかという問題を考えるうえで、1945 年 2 月の「マニラ戦」
から未だに回復できていない人々の問題はどのように考えれば良いだろうか。
2005 年 2 月 12 日、
「マニラ戦」の民間人犠牲者を追悼し、記録を後世に伝え
ることを目的に 10 年前に発足した市民団体「メモラーレ・マニラ 1945」の主
催で、
「マニラ戦」非戦闘員犠牲者の追悼ミサが、イントラムーロス構内のサン・
アウグスチン教会で行われた。毎年 2 月の追悼ミサは、1995 年に慰霊碑が建立
されてから 2005 年で 10 周年を迎えた。
1994 年から 95 年にかけて客員研究員としてフィリピン大学で一年間を過ご
した私は、慰霊碑の除幕式とイントラムーロスのマニラ大聖堂で行われた第一
回の追悼ミサを見学する機会があった。このときはフィデル・ラモス大統領(当
時)が除幕式に参列し、マルコス政権崩壊時に大きな役割を果たしたフィリピ
ンで最高位のカトリック教会聖職者であるハイメ・シン枢機卿(2005 年死去)
が執行した追悼ミサでは、
「マニラ戦」被害者の遺族・生存者の代表がその思い
を訴える祈祷文を詠みあげ、その痛切な内容に私は深い感動を覚えた。しかし
当時、阪神大震災の報道一色に染まっていた日本のメディアは「マニラ戦」50
周年を一顧だにしなかった。3 月にオウム真理教・地下鉄サリン事件が発生する
と、もはや 50 周年報道は吹き飛んでしまった感があった。
それから 10 年が経った。
「マニラ戦」60 周年はふたたび日本では一顧だにさ
れなかった。また、フィリピンの新聞報道によれば、政府・議会の関係者さえ
追悼ミサには姿を見せなかったという(アメリカ、EU大使は列席vi)。その一
方、「マニラ戦」の記憶回復の動きはこの 10 年の間に徐々に進んでいる。有力
紙には二月を中心に体験記録が取材・寄稿により掲載されるようになった。日
本大使館が毎年二月を日比友好月間と定めてマニラで多くのイベントを企画す
ることには以前から批判があったが、今年は「マニラ戦」遺児から抗議の投書
が大手紙に掲載されたvii。これまで北東アジアの「歴史問題」摩擦にほとんど関
心を示してこなかった各紙オピニオン欄にも、日本政府に対する批判が、ぽつ
りぽつりと現れるようになった。
「マニラ戦」はその戦場の記憶に一歩でも立ち入れば、南京大虐殺と同様の
衝撃や怒りで人々の感情を沸騰させる事実に充ち満ちている。だからこそ、フ
ィリピン戦後社会の喪失感の起点とさえなっている「マニラ戦」の記憶回復の
方向性は、これから重大な意味をもつ可能性がある。
5.真実と和解の模索:マニラ戦科研プロジェクトについて(口頭)
戦争の記憶をめぐる戦後の比日関係史は、戦争の過去に拘束された現在とし
て「戦後」をとらえ、そのような意味での「戦後」を終わらせようとしてきた
日本人の営みに、フィリピン社会がある種の互恵関係への期待をもって協力し
てきた歴史として捉えることができる。しかし、両者の和解の行き着く先にあ
ったのは、
(日本側における)戦争の記憶の無惨なまでの忘却による、互恵関係
の基礎の流失である。現在、むしろ求められているのは、より質の高い和解を
実現できるような、そして終わらせることを目的としないような「戦後」をあ
らたに作りなおす営みである。
マニラ戦科研プロジェクトはこのような問題意識に基づいて、戦争の記憶を
風化させることによる和解と忘却ではなく、より質の高い和解を達成するため
の記録・記憶の維持・保存・公開・交換と対話可能性を追求しようとしている。
具体的なアジェンダは下記の通りである。①「マニラ戦」の実像の究明――
当事国である日本、フィリピン、アメリカ三カ国さらには関係国スペインの研
究者による冷静で客観的な学術共同研究を通じて、史資料と歴史認識を共有す
ること。とくに、これまでアジア・太平洋戦争史研究で成果をあげてきた日本
の現代史研究者を日米比のフィリピン研究者との共同研究に組織することによ
り、
「マニラ戦」の実像の解明に迫る。②オーラル・ヒストリーを含めた史資料
の収集・整理と相互翻訳――学術研究上の史資料収集はもちろんのこと、本研
究では、専門研究者が収集し選定した日本語史料の英訳と、英語・フィリピン
諸語史料の日本語訳と公開(出版)を通じて関係諸国民が「マニラ戦」をめぐる対
話ができる環境の整備に貢献することをめざす。③「マニラ戦」の記憶再構築
の現状の研究――戦争の記憶をめぐる歴史学・政治学的研究や対象喪失論・ト
ラウマをめぐる社会精神医学研究の近年の著しい進展をふまえつつ、日米比ス
ペインなどの現状を批判的に観察・分析する。④共同研究国際会議・シンポジ
ウムの開催。⑤追悼行事の参与観察・民間団体との交流――「マニラ戦」をめ
ぐる追悼行為や記念行事を参与観察するとともに、記録保存や対話・和解をめ
ざす民間団体のプロジェクトに、専門研究者の立場から積極的に関与・交流し
てゆく。以上のようなプロジェクトの展開を通じて、過去の戦争に関する記憶
や記録を保存しつつ、偏狭なナショナリズムを超えた平和の維持を実現し得る
相互理解に結びつくような「より質の高い対話と和解」のための学術的研究上
の基盤構築をめざす。
i
近年の代表的戦史として、Richard Connaughton, John Pimlott, and Duncan Anderson, Battle
for Manila. London: Bloomsbury, 1995.一日毎に戦闘・残虐行為のあとを記録した次の書も広
く読まれている。Alfonso J. Aluit, By Sword and Fire: The Destruction of Manila in World War II
3 February – 3 March 1945. Manila: National Commission for Culture and Arts, 1994.
ii
戦死者統計は以下を参照。Robert Ross Smith, United States Army in World War II. The War in
the Pacific: Triumph in the Philippines (Washington DC, 1963), pp.306-307.
iii
吉川洋子『日比賠償外交交渉の研究』勁草書房、一九九一年、三八六~三八七頁。
iv
Battle for Manila, p.121, 174.
v
ビブリオグラフィ参照。
vi
vii
Ma. Isabel Ongpin, “Ambient Voices,” Today, Feb. 19, 2005.
“ Not in February! - IF memory serves, it was in February 1986, during the first...” Manila
Bulletin, Feb.22, 2005.