法然上人鎖仰会 - 法然上人鑽仰会

三種目郵便物館
町内“月二四占日澗行}
昭和十年五且廿目
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巻
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法然上人鎖仰会
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月
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年末年始には 讃仰 会の施本で
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ろこぱるれ
四十年度暦
一
T 十円
十八円
,
宝
一部二十五円
宮部以よ単価
品げ土宗信徒心得
一枚起消文
悠・図表その他
謄記事満載
・
見本は切手一エー円御送ワ下さい
修養ひめくり
四十年
度版
東京都千代田区飯田町ーのこ十一
探謎東京八二一八七番 電話(262) 5944
法 然 上人鎖仰 会
表紙の解鋭
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十
円
ベンガル出土 十世紀
しかも土沼の民 間 信仰や
。
全体的にふくよかさ
、
教 のそれとご く似かよったものが多くムら
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五十部より単価六五門
O円
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般地問を結ぶ仏陀
、
ガンジス河口の三角州を中心とするベンガル地方に仏教がひ
ろ まる のは比較的 遜く
、
社会の荻野台に立つより 民間信仰の中に
、
特す
に
教のタントラの影崎町をうけた密教が中心になっていま
回数の俊入以後は
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かくれ込むような形で続いて来たとも言えま。すし たがって仏
教美術もヒ
ここにあげた仏像にしてみても
、
h つよい ものを感じ ま せん 。両 側の脇待に
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、
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しても
円
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十
用紙十七枚
四十年度目限表付
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格
裁
連事監
に現われる減紳とみまがうばかりになって来ています
、
容
土
百部より六
.
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にすわる仏陀の衣はマ トウラ仏などと悶じ織に一向くひだが平行
、
、
、
弥軌
制限佐官
に走っていますが マトウラの調和のとれたなめらかさは失わ
。
十世紀と検定されるこの仏像は 間定化したベン
れています
朝師陣式の中で
はみる べきものですが
147
、
勝山氏純〉
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内
価
体
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、
。
を始めとする密教の仏 申告磁は 全くヒンドワ!の 神 々と交錯
している感があり ます
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一
月
号
自
次
重量
筒
•
蝕十印を給ぶ仏.~
… 山口節存 ・ 白土わか ・ 安居醤山… ( 2 )
懇
仏容をと華経じて ・ H ・ H ・. .……….. .・ H ・ H ・ H ・. .…巌
亡誌について …. .
.……・・・・・・…・・…・・・・…-・・ 樋
一.
妻名監
、
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念仏の時 悪業のおもはるる事は
法然よ 人御法語
一切の凡夫のくせ也。
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•
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勝
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亮
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三
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言
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三
薮内彦瑞僧正・・・・・…. .
.
.
.
.
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続-
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和… (8)
J如何アジア旅行記・ H ・ H ・ . .
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行
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御法揺をいただく ・ H ・ H・. ...・ H ・. .…. .
.・ H ・. .… (7)
三
表紙の解説 …. ..・ H・. . . . .・ H ・ H ・ H ・. .
.
.
. ・ H ・. .… (1)
三
一 ・ ー ・ ー・ ー
úl仰の乎びき .. ..・ H ・.. .・ H ・-….. .・ H ・.. .
..・ H ・- 宮
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三
窓 口 始
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、
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、
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大
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車か
、
一入あわただしく思われるのも
私た
安
われわれの生活から
居香山
〈大正大学総筒》
もし涙を取り去った
、
さぞ無味乾燥なものになることであろう
、
これらにはみな涙がつい
、
ら
、
、
が 浄土宗名越派の資料を劉べるのに
て
、
、
はや 山遣には
将の穏
、
雨ののちの輩くずれもあって幾人運転は必一
、
、
、
更に徳一法師が興したという。この地
、
、
、
。
、
かつて私は 犬の涙を見たことが
、
、
自に漢をためていたことがあった。
「犬にも涙があるのだ」
、
、
人間が感情を
、
いつわりのない表現で
この人間の涙は
一入感慨に耽ったものである。
ともあれ
しい・本裳におまい表現する最も卒箆で
と
怒り
た私を迎えて わが家の犬が夢中でしっぽを
、
のかどうか知らないが 久し振りに帰って来
、
ある。来して 犬が喜怒と共に 涙を出すも
うである
され
れるのであるが
かつての名刺 市守称中一寸も如来寺もいたく荒
れる夜策が
師走を飢に感ぜさせられるのである。
、
東北の山らしい。
、
や萩がむらがり また時折 吾木香や撫子が
十三日は事始ハことはじめ〉である。この
か心もとなかったが
、
たへ
山上の赤井級薬師は 天平の頃の草創とっ
、
町家では主家へ鏡餅を一 見え 機や織の木々も見え出して さすがは
、
から正月の仕度を始める。各分家が本
ご家
B
、
へ 弟子が師 匠 へ
、
組 裏白とゆずり楽で飾り 持4
9して歳暮の
品を贈答する習慣が今も行なわれている。
、
とりわけ紙簡衝では 芸舞妓さんの キレイ
新
方の鐙場であった。品寸域
二は
十年ほど前に焼
弁上流京鮮の家元井上八千代さん
、
、
、
転げる程おかし い笑 い で 笑 い が
と まら
変 ったのでは 「笑い泣き 」 という涙もある
私たちはお 竜踊胤
岨切に腰をおろし ある。
、
どころが
、
けてきびしくなったが
、
の宅ゃ 芸事のお師匠などへ 独特の京こと
りしてのち
、
、
下方 、山 なみをへだて て 模湖とした町や村 叉
京ならではの歳末風景 た。ここは山の一端で巨木の杉の校がくろく
、
ばで挨拶に廻る風習は 華麗な中にどことな
、
、
世奥行の初日で はなやかに始まる。大ぎな
、
人間生活のすべては 喜怒哀楽愛慈欲で表現
、
涙
の郷里 東北の東南陽に来られたときのこと
、
夏の休暇も終りの八月の末 京都の G教授
白
丸い紅矯鑓の灯が加茂のせせらぎにゆれ て流
、
故
たさまに心痛めつつ 更に教授の希望もあっ ている。
阿武殴 山中の赤井出獄に車を走らせた。大 勿論 涙は人間にだけ限った事ではなさそ
、
わけても十二月の京開聞はまず南座の綴見
都としての ゆかしい行壊が生一ぎている。
、
郵
想
答諦 り
随
山 事
京都は伝統の街である。今もなお玉城の
の
くっつましきのある
で は なかろうか。
.
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2 ー
-
京
をこえ
、
、
のである。かたわらの小さな割問にも常陸の
、
、
いの止まらぬ苦しさに出る涙かも知れぬが
、
すがすがしさを
味わったことはなかった。テレビの節商一杯
お奄燈場は、人々がお徳りをして拝んだ所な液ほど、人間の漢の尊さと
しかし、今度のオリンピック東京大会での
鋸にかくれる。品目は、夜録、お竜燈があの川 全く調子よく涙は出るものである。
、
太平洋の水平線を見はるかすとこで ぬ時 波がでることもある。これなどは、笑
事始め忘れし忽のおもはるる〈青々》
ある。一条の夏井川が海よりさかのぼって山
、
平素は忘れがちな 主家から分けられた
、
「のれん」のお世益
降事に厳しかった師匠の
、
ご思と、弘の今日あることを感謝し喜ぶことを海から怒って この赤井HU
に途したといい
、
事始めという古来の行事に当って
始めの串応援であろう。
も、事
年々
、
、
選手自身にしてみれば
、
この栄光の為に今
、
赤水なる人が 無数に 川を遜って 赤井胤酬の に映し出されてくる様々な涙に自震度か私
、
私という存在が無訟の恩によって在らしめ
しかし
今の人々には竜燈も陰火も見えな
、
現われてきたのであろう。これを見つめてき
忠敬の先鉱をなした地理学者だそうである。 日まで努力して来たその感激が、減となって
赤水という人は、教授の言葉によれば、伊能
も泌をさそわれた。
杉聞に消える除火を見たと記している。この
三笠の四恩が
・
mえ
uばこの世に生をうけて
、
られていることを思うことも噂いことであ
、
る。仏教に父母 ・国王 ・衆生
税かれているが
今日まで、大自然の恩恵はもとより、す べて
、
、
、
、
巨
た肉身
、
、
、
、
、
白
これを場いて来た敏句。そこには
くなってしまった・が
それ ぞれの感僚があるのであろうが 等しく
もしこの山訟に
の大息に生かされていることを知らされるの
大な輔副をつって朝な夕なについたらと 山
、
である。
銭高な凝である。県い人も 貿色い人も
、
姥の幻想が ふとよぎって、掻氷をもって
京賂を更に結けば、サ一日終い山弘法・サ五
ふるさとの人々の心には念っとしみゆくにち
た。いや
勝者ばかりでない。敗者にしても
、
鐙の苛は、総の人々に逮せぬであろうか。 乎も、此の自のためにためておいた綴であっ
、
い人も、人間である以上 この涙には変りが
、
日終い天神 ・知恵院のお身拭式 品川}日除夜 といったら 、今な らサイレンスイヲチですよ
一万八千貨の大舗の低く長く
無い。東洋の開処女といわれたパ
lレ
の女子選
、
と教授がいった。
の鎖となる、寛永十三年品川二世維世間鐙巌大僧
正の鋳造した
、
響く鯨音が「ご恵 ご息」と鐙きおさめられ
それに応えていななくだろう。馬
、
涙が人間に共通である嫌に 万人には差別
があってはならない。オリンピックにみた線
、
の走るスロープがゴルフ場にくグられてしま
多彩な師走を終えて新し 馬たちは
、
そ の謂
慨は銭高であった。
る。この頃から八坂神社内紙鴎社〉の「おけがいない:::。少くとも阿武隈の放しがいの
ら」穏りとなって
い容の暦に変るのである。
に、世界は平和であって欲しい
。
ったいまも。
随想
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勝雄
〈祐天寺住職〉
ウインドは他の国々よりも 貿紫で商品
惑はせて居る 。シ
、
他の閣と銭円った綜囲気を感じながら 古めかし
gl
節」団長駒大総長保坂玉泉師以下三十名が欧 米十七ヶ国を
も淋しく飾られて居る。時々労働服を若た女性が道路掛川婦や
、
訪問した。これは昨秋デンマークより日本の仏教界に二千仰
トラックを動かして居る療や、長蛇の列をつくり配給を受け
、
の型世が贈られて来たので その答礼を兼ね大正新修大蔵経
て居るのだろうと忠われる御鋪人速を見かける。いくつかの
今その中から見たこと
感じたことを
、
、
この閣
、
た。これがヨロホスカヤギリシャ正数々会である。教会の門
、
椅子府には敬度な態度で信徒が者席し共の後方
、
して居る群集。あるいは土下座しながら十字をきり三拝九拝
には立ちながらその厳粛な行事に吸い込まれるようにお祈り
りを捧げ
われるこの教会は満員 であ った。正面段上には大司教がお祈
祭」であるとのこと。
一戸行は案内され入口に立って驚いた。数千人も入ろうと息
を人々は繁く出入して居るので聞いて見ると今日は「聖霊
ー
4
-
、
友好を深め、人類の拳領と世界一の平和に共に貫献せんとの念街角を曲り
、
、
、
の宗教事情及び国柄などに特に興味を持ち何ものかを見極
めたい意欲にかられた。街路の両側には菩提樹が立ち並び
ことでパスに来 った。私はソ連闘であると云うので
六月二十二日暑い日である。一行は教会を訪問すると云う
一、モスクワのギリシャ正教々会を訪問して
拾っ て記して見ることにした。
ただいたのであるが
願から出たものである。訟は浄土宗から只一人参加させてい
い洛ちついた教会の搭が 空高く建 って居る街角にや って来
、
等千五百冊の仏容を贈呈すると共に仏 基の相互理解と親善
、
去る六月十日より五十五日間「訪日ア仏書問皇国際親普使 枠内の樹々からは白い花を宮のように降らせ 往き来の 人々を
仏
回目圃圃園田園園田理型間帯過
こるて俄こ
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、 れちのの央張兵処魁挨兵なでこ品尉別
ここた並居人のをがにり拶が衣あかロて府
こ年。び域ロ道党巡出陪をニ裳るらをく大
を交こ大でよをえ祭た段済人を。歩パれ使
通代の礼あり否なし。をま立つ宮いスたの
りに国}j!iる
、 米がてこ笠せつけ殿てにの厚
放般にに。エ位ら店こつこて
、
のもてで意
け衝は身長レ歩梢りにてこ居捻入二出
、 に
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、 は中をたを口十発ーよ
と任隊正廊 1 正怠少武庭通。もに分し行り
法をはし下タ面れし演のり一 つ は位たは
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のけいー幾に物中緊たるけは街鹿処こ衣べ
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して居る者 入口の両側に安置されて居る いくつかの聖な
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る像にロ lソクを供養して居る者。死者の遺体を花にうずめ
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今日の法会に迩わせんとして店る者等老若男女が熱心にこの
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行事に参加して居る姿は一体私速に何を教えたであろう。
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・・・・・・・・・・・・・・.r:子
圃・・・圃・・・・・・・圃・・・1\1
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、
私は鉄のカーテンを通 し想像して居たソ巡の宗教組を民め
に法学の四
来阜手立階
てにの派で
居思礼な降
仕
った。このように熱狂的宗教への憤僚
ソ避の宗教事情は
.... :.~ ,..II・ __ . ~- ででて一一ご
て見直さざるを得なか
、
信仰は自由
、
仏教等各々地域を具に
、
の益は他の国々では見られなかった。後刻政府の宗教担当副
ユダヤ教
って居るが日本と金く似て居り
、
委員長他委員と会見懇談したのであるが
経済組織等は異
、
でキリスト教各派 同教
し現作盛んに行われて居ると云うことである。又ソ辿は宗教
に反対することも自由である。然し如何に反対しようと厳然
としてこの国に生きつづけて居る諸示教を政府としてもどう
することも出米得ないのが現況であろう。統制下にある人々
、
の求めて居るものは究極するところ生の問題であり政治や
っ
経済の問題以上に心の安住を願 って止まないのが真実の姿で
斯くあ
、
あろう。私はこの教会を訪問して戦後漸ゃく落ちつを
きとり
、
、
共に
戻したこの国の人々の心の中に 白白と真実を求めて止まな
、
、
い息吹きが やがて大容く波ぷし 宗教的自党に立ち感聞と
反省と人類史のょに枇芥の人 々と結びつき
て欲しいと願ったものである。
診が行つの
って接せられ
記念品として
、
メ タ ル を下
され
か」の間いを以
、
窓臣とも思われる方々が出迎え玉座の聞に楽内してくれ
、
なごやかな涼囲気の 中 に一同記念撮影をして二十五分 に互る
、
た。小砲の後 謁昆の問に案内され着席して居ると-行の
、
会談
終面
り 退去したのである。
後方の中央通路より長身の法皐は白衣の法服を身につ
けを正
、
、
、
lジを説み
、
、
これに対し法皇も立っ てメ
つづいて
、
圃園圃園F
田
昨・
1
、
、
、
ド徳と世界の平和をもたらすものであり
、
て人類袋に立脚する 克谷と和合が人瓶の
、
の道理を眼前にして 戦前よりて炉前進し
、
のは共に傷つき 和するものは共に栄える
一 始めて居るのではなかろうか。対立する
E 川
圃圃・圃圃凋日d L
三三らずかにつき認識と自党のよに真剣に
、
園胡州
如何正
に利し
益をさ
もたと
到高生きることの
、
、
の玉座に活き 笑顔を以 って我々を迎えてくれた。側近者の 誠に歴史的会見であり 感激の一場面でもあ った。私 は今
ンワ
ペルク ロー
までの各国の宗教関係者との懇談今又法皇との会見により思
中には日本に長く居たと云うマレラ枢機卿と
い併せ 今の世訴は何か共通 した考えの 上
EEEBEEド司教が居り g本からの留学神父の東門氏が悶HMmu
に立 って全世界が一つの世界になるのであ
圃圃園田園開 園・・・・・E
通訳をしてくれた。保坂団長先きに立ち
両国園町 る。これは第一 第 二次世界大戦を経験 し
闇闘醐咽悶聞 ・・田
「仏 基の相互理解 親善友好とを計り人類の
本福と世界平和に共に貢献すべく努力して闇
怠闘
り聞酒圃聞 圃圃闘附制闘4 た各国の人々が 小我的考えを姶て大我に
度 い」眠目回目
セ
旨を述べ挨拶し
7
、
、
ょう
し」
人類の幸福と世界平和のため責任をつくして参りま
、
、
、
あるにしてもやがて世界の思想を導き 大きな カ とな
れてくるような気配少感じざる得なか ったのである。
との要旨を以 って挨拶された。ついで臼本からの贈呈口聞を
何祭
献上し、 一人 } 人法皇 の前に進み握手を交し「貴下は
って現
お瓦いの利訴になると云う考え方が 開叩々様々な処で感じと
派は勿論他の宗教者の方もここに米ていただけるように必え
られるのである。即ち仏教的物の見方 者え方が幾多の委 曲
て居る。団長の申されましたことには向感でお
あ互
りいに
「U本の仏教代表者の訪問主び 日本の同民 間岡留阻掴 跡 叶国E聞
を特に尊敬して居る」と賛え「必ずや批芥の利回闇闘
盤聞蹴圃圃TE 一闘
副
拡のために資任をつくしてくれることを灯闇
じ圃
て圃園田国 --rri
岡田 崎
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-E教各
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民る」と述、「今訟の方の考えはキリスト
、
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-
法語を
、
、
いた
だく
、
念々相続してお念 出品とおもへば一定する事なり」
、
は
のご法鱒がそれであります。「やがて」
「家にいても外にいても
仏を陶・していますが いつの間にか自然と心
直ちにという愈味であります。往生できない
、
が外れて他のことを考えています。こんな具
と回ゅう人は即ち往生でをません。本願カによ
、
いう
そこで阿弥陀さまを心から信仰すると
できるのです。
って往生でぎると信ずる人はそのまま往生
合ではとても往生はできないでしょう」
、
これに対する法然上人のお容が このご法
心から阿弥陀さまを信仰している者である
、
「かの仏の本願
は、 いかなる罪 人をもすてず
お念仏を・申しながら間々他のことを ことは
ならば
、
べからず。ハ十二倍条問答
V
符えたにしても 往生には少しの支障になら
、
、
ふかくたのみて
なぎを申 す也」
往生すと
、
俗に苦労知らずの人間というJm燃がありま
すこしの疑ひも
ないようなものだというのです。凡夫である
す。苦労したことのない人は もの療を深く
、
利欲のこと食物のこと等々 ねといわれました。その続明に綾子の情震をただ名号をとなふる事一戸までに決定して
、
、
子供が少し位いたずらをしても またロ返
とは正しくないこと曲ったことをいいます。
時によって宣る心が起きましt う
、
からには
、
しかしここに一切の凡夫といわれたことに注
また股が立って怒りに苦しむこともあり 察することができません。それと同じように
、
し
強い信仰を得る こ
、
反省する度合が浅 い人は
一人残らず総ての人の ましょう。だからといって阿弥陀さまは念仏
に違いないけれども
申すまでもなく肉分が凡夫であると
、
とができません。この反省とは何をいうかと
いえば
いうことの反初であります・部潟大師の「自
て反古にはなさらぬといわれました・
要するに大切なことは阿弥陀さまの本願を
身は現に楚れ罪悪生死の凡夫」といわれた言
、
こでは縫い意味で、阿弥陀さまに帰命する心
償ずるかどうかの点であります。人間の行為
、
以外のこと 常に頭から去らね欲望という怠
築の通り反省の深さにさい限がありません。
〈村瀬秀雄〉
の善悪問題でなく信仰の問題であります。
「往生は不定におもへばぞがて不定なり。
味でよいでしょう。
は殺生や爺み等の惑い行為のことですがこ
持っている想性であるというのです。悪業と する衆生を救って下さるというお約束を決し
、
窓したいと思います。つまり正しくないこと
、
凡夫のくせ也」と仰せられました。「くせ」答をしても 相棋が子を怨う心に何らの変りが と示されました。
きます。こうしたことを法然上人は「一切の
何か他のことがかけめぐっているのに気がつ 例にあげられました。
はいつの間にか
ロではお念仏を申していながら頭の中で
ありて念仏せば ゆめゆめさはりとはなる
凡夫のくせ也@さりながらも往生の心ざし
俗でありました。
念仏の時 悪業のおもはるる携は 一切の
‘ー
ある人が次のように質伺しました。
一
- 7-
_.・
名
簸
内
大阪には普から宗政
界に大きな足跡を残し
、
職であって 昭和十二年修行の知恩院の一二上人遠忌のとき
、
そして背の高い人であった
は丁度執事長の要職にあったのである。
簸内僧正は鶴のように細く
、
た人が多かった。
が
ったものである。
、
すこぶる童顔で 終始笑をふくんだ口もとは愛くるし
大正から昭和にかけ
か
、
その頃
、
一宗の管長である山下現有門主
が
この僧正は当時百万遍の法主であった林彦明大僧正との
浄土宗の祭政を大
て
きく動かしたのは大阪
、
親交があって
、
百万遍の林彦明 法主の二人の方を推せんする動きがあ
、
の郷俊定僧正で・あり
、
林彦明法主は 一宗の管長は按争してまでなる
、
ものでないということでその辞表を提出することになった
ったときに
と
逝去して そのあとの門主にというので郁邦随円黒谷法主
簸内彦瑞という人
、
その郷僧正と共に乾順
澄
たちも大阪が生んだ宗
政界の大ものであると
それをあずかったのがこの薮内僧正で その辞表の扱
、
が
、
いえる。その外六花真
いに苦心された逸話は老僧正の正義感を知る上にとっても
、
哉僧正 前回聴典僧正
、
興味あることである。なぜなら 林彦明法主の辞表を受理
、
一心寺の歴
などいう
して宗務に提出すると 後任の法主となってくる。すると
、
いずれに
、
代があるが
この簸内僧正に落ちつく可能性があるの筆
で内僧正は人
り断るのになかなか苦労されたのである。
、
してもその頃の大阪は
の辞表を提出してそのあとで自分が推せんされることにな
。
祭政界では人物が競っ
った
わしは悪いことばかりし て 法主になるようなよいこと
ていたようであ
その一人厳内彦瑞僧
はしてません。それで断りますわと 例の大阪弁で法主の
、
正は大阪市天王寺区八
推せん者を圏らせたらしいのである。
、
丁目中寺町醤福寺の住
8-
正
イ普
瑞
彦
交
世
高橋良和
〈中外臼報取締役〉
、
、
この簸内僧正が知恩院の執事長に新任すると間もなく
あのものすごい室戸台風が吹いたのである。
したのである。
、
当時知恩院さんの百万円遠忌といわれて東西本願寺も
、
ったし
、
ことばの 上 にもそんな
いつでも後進を育てるということ
ではなかなか骨を折られたのである。
た林彦明法主のところに来られたのであるが
っ
、
ニ
ただ二人がにこに
、
ただ暑い
三時間を過ごされるということ
・
この僧正は 人の悪口を一切いわ ず
、
、
当時わたしは林僧正の常修をしていたので お二人の話を
、
世間話に
、
祭政のはなしなど一つもなく
、
聞く座につらなったのであるが
没談で
ことして
ったが
、
、
。
まだ生合ているわ あんたも逮者か。
、
、
と手を盤られたあの感触が今もなお掌に残るような気が
をみて
大阪府下の練聞の守からわざわざ上阪されたときわたし
終戦後間もなく 上宮学園の滋成法要の導師に杖をついて
に思えて
典、いのはなしをたのしくすすめる其からの人情家のよう
青年の頃のわたしの心を捕らえた
人 であ った。
であ
、
そのはなしたるや会くの
時に親交あ
った
この簸内僧正はまことにやさしい人であった。またその
るといえるのである。
こ
知恩院も相当な被警をうけてその修理にも巨額の費用を 驚くほどの大遠忌が修行出来たのはカ
での
あ 簸内ぽ
、
必要としたのであるが 昭和十二年の三上人の大遠忌の法
っ
要予算は門末会の議決を経たのがたしか三十五万円であ
、
ったので
戸からうける感じもほんとうに柔和な方であ った。め
にいやという顔もされなか
、
たと記憶している。
三十五万円といっても 昭和十二年の頃である。今にし
ことばはなか
なんと
大方丈の屋根に
、
、
てみれば相当な予算である。また知恵院としてはおそらく
って
背のびをしたいわゆる精一ぱいの予算であったが
それが決定して間もなくの台風であ
、
は穴があき 槍葺の屋根はとんでしまったのである。
、
大遠患の修行の促進を図ると共
、
一時は遠患の延期説までとび出したのであるが 簸内儀
正は断 聞 として延期せず
、
になんと大遠忌予算の三十五万円を 更 に堂宇の修理と改
、
築ということで八十五万円に増額したのである。
、
これをよう可決しない門末会ならわしが 先にやめる。
、
ったのはこ
薮内僧正の決意は聞く 遂に門来会を動かして見事八十
五万円の予 算 を可決し
この遠忌修行に踏みき
の執事長の信頼感の厚かったことによると思うのである。
この三上人の大遠忌は大盛況に終ったが募財は百万円を
ー
-
9
突破して 庫裡の新築をはじめ堂宇の大修理を見事に完成 するのである。
.
、
ア
、ノ
ア
旅
(七)
記
佐
行
、
信
のうち二百九十四が鋭かれ 阿弥陀絡もここ
、
〈大正大学講師 v
藤
中間含百五十制限のうち六十五
作曲剛
2一U五十
行
、
、
バケツ一っぱいの湯を貰い 制酬を洗 うが
、
、
木のつづく噴火しい風景の道路であった。
、
うである。そのあと
合街綬跡を見学した。
、
、
ここは釈尊在役の時 波幅制限王援にA
琉M
王の
訴とした地である。ここも笑必の案内絞など
ありよく乎が入っていた・それからまたレス
、
、
トハウスに帰り 長食後何物をまとめて パ
スでゴンダ迄行った。この遊もなかなか美し
たので
ここで駅前の馬車に乗ってみたりし
、
い風景であった。ゴンダですこし時闘があっ
•
、
た団員もいた。ゴンダより三時間積汽市中に
夜八時半ラタノウに到浴した。ラタノウ
り
、
まことに
入ることが凶
来
タ
l
内サへlaFV
はこの地方の州のや
U
都であり、歴史的にも布
玄笑三波法師が七世紀に訪れたころは 名なところで
、
、
いる。そして背の術院の跡などよく判る。こ
、
この紙肉料合は 合側削減の酎間にあ払
り柑狐 こに現在中間のキがあり 老比丘が盆wd
りを
、
さつばりした
一人一人
語でなにか親しげに話しかけ団民
l
我々の泊
、
叉
、
に握手してくる。このお幼さん現在中印国
、
独長者が敷地一ぱいに敷ぎつめた金貨を代償 していた。この比丘笑開館は話さないが中国
、
として紙陀太子から勝入し 釈噂とその教聞
のために彩納した林苑(渓沢では紙樹給孤独
ったカ
ホテルのコツ
、
町に出てロ物も出来ないそうで 肱U段は人も
クは、自本
と
尋ねて釆ずn給白足で苦労しているそうだ。
、
釈尊はこの場所を 境紛争以来 印度人は中国人を敵彼するため
、
、
ここで治されたと云われている。
、
問 v に建てられたもので
、
ここで説法されたお経
は数多く、 そこに我々が尋ねたので大変喜んでくれたよ 印度の聞を往
、
りに御風呂に
って朝食をすませてからパスで紙図精舎と合 すでに荒廃していたと伝えられる。しかし現 ある。我々は
衛械に向った。紙回制含までは約一-一並
十分在は発抑制され整理された一大公闘となって ここで三日ぶ
れから
昨晩巡かったもので 起きたのが八時。そ で授かれた。もとは七日
mの建物があったと云
+一月二十八日
南
非常に好まれ 二十四年間 雨期の安局のあい
だだけを
したがって
10 ー
-
東
、
復する汽鉛のコヲクをやったとか云う人で
、
。
ニユ デ
迄は 二時間
リ l
まで祭燦で 飛行機もずいぶん古 い型 のヴァ
イ カウントであった
し てくれ
我々日本人のロにあうように料却を
、
初めて印波大陸をよ安から見
際 であったが
。
た。このような本絡的な ホ テルに泊る の は ベ
まことに伏的であった
、
我々の
約 二年ぶりの再会でなつかしか
、
丸 山者がおり 小生を出迎
に外務省に入った
・
九山氏が絞初に去 ったことは
。
えてくれた
った
、
、
トラベル
・
、
間体位旅行社が 乎ぎわよく 飛行場に織を
、
、
71 キュリ
・
サー
ナレス以来 で あり
、
用窓させており すぐホテルに行けるようし
、
。
又
、
、
、
ホテ ルもアシヨカホテル
、
この ぶ テ
っばだった。 しかし現夜東京に出米た新しい
、
ルも印度最刈のホテルだそうで なかなかり
た
のいままでみた印刷戊どの町よりも災しかっ
さすが
ビス等の御援と感謝している。
印度途邦の首府 エユデリーは他
会の橋本氏と
しかし食事は夜九時半であったためあと何
、
く
ビ ス のサガー
孜々に同行して
、
。
ておるのは珍らしいとの事 これも日本旅行
、
物の整理 手紙技ぎなどしたら
るのが十一時半になってしまった。
十一月二十九日
、
タから
ー
タにMm
るため、我々
ッ
・トラベルサ
ここでカルカ
キユリ
フ
今朝は七時に起ぎ 八時に粉食となった
、
l
ここまでカルカ
れたマ
ル氏が
そう驚
、
ホテルを御覧になってる皆さんには
。
聞を悶り労をね智らった
としても感謝の組 n
、
を聞きながら
、
バイキングスタイルの食事を
、
する。さすがに印刷及はベジタリアンのバイ
、
ホテルで昼食の後休恕した。このホテル
く稼ではない。本日は午後から自由行動のた
、
ラ
、
この
印度で旅行するのに一番困燥な地方を
、
め
、
我々は 獄で飛行場に向った。
、
本銚空の招待で日本に行くのだそうだ。
B
それから
間
ようにスムーズに旅行出来たのも この人の
門}
ン ドの
は 昼食時も食堂にはバンドが入り 際音楽
《ユユデ リーのイ
ベットに入
、
御陵であった。これからサガ1 ルさんは二週
、
-11 ー
、
に出発した
l
、
、
、
メリカ人始め 外国人も多く
悶際的な感じ
、
丸君
小生の弟と同期 のホテルであった。今日は午後五時に山
十五分到ム指した。ここでは
間あがりのニユデリーに十一時四
であった。 一
キングもあった。ここは回開放も多く食事もお
クノウは時間の関係でどこも見物出来なかっ
た。九時四十五分発のインデアンエアライン物出来 又 途中簡にも会い変化のある飛行 いしく伏的であった。又観光客のようなア
-コーポレイシヨンでエユデリ
、
この国内飛行機は 飛行中は 最初から終り
•
が迎え に来てくれ るまで
、
レス
ト
風呂 に入
、
ラン
ったり
、
、
タと云う中
・ ヨ i
ベットに績に な ったりして休んだ。夕方 丸
山活の 案 内で
ー
はネ
l
ル首相のおひざ
闘で知人 に会うのは附惜しいものである。
同抑 +一月三十日
にあるが
、
、
英国王
、
、
ジョ
ハーディングに命じ
このニユデリーは
、
、
都市計闘により建綾されたそうで広々
ージ五役がインド総督
て
、
、
・ウツ
、
デイ
・
l
タタ
ン
ャ ンドラ
、
こ
ヒンズー風に 又は同教風 に
高さ 52 地よ∞・叶2あ
4 る鉄柱にはチ
王 紀元四OO年頃の勝利が記録されてい
る。もう一つは
、
、
郡上に登ればデリ
、
l
市内の
、
苅い第で 苅さ Jas 臨径
は三・0ヨもあり
、
・
ルであった。寺院は 十二役紀末の
l
、
とした街絡が緑樹や芝生の広壮な附泌物の聞を
プミナ
町である。ま ず最初に訪れたところは
前中料理尽に食嘆に行った。途中1ネ
ル品川和の
、
バンドが入っており
、
貫いて走っている・会く英国風に政計された
大であった。
このレストランも
クトウプ
イスラム時代
立したもので
、
、
も
あるいは
廃麹に残る石材の一つ一つに
、
食事をしながら踊ったり出来るようになって
アイパタがデリーを占領したときの紀念に建
、
設々の行っている時も
、
女が夢中で踊ってい
mm
、
紛舗な彫刻が施してあって興味が深い 。こ
、
た。小生は 丸 山おと久しぶりに会い 時間
ニユデリ
一つは箆径82
に有名なものが 二つある
、
中泰料理は大変おいしかった
。この丸 山君の
、
馳刊に沼類の販売はうるさいそうだ。小
話しでは
もと
、
生の方は しばらく臼本の新測も続んでいな
。
のたつのも忘れる稼であった@しかしここの
アメリ力人の遊い
スを楽しむところで
いた。しかし酒類は出さず ただ食務とダン
、
官邸の門前を通ったが 内の感じは奥深く広
《タタプ・ 2 ナ 1 ル〉
、
ルが
、
、
本日は一日中市内見物である。八時に朝食金の中央に王の御霊室があり
周閣の禅師品の
、
い大連石で建てられた回教のお金で このお
、
展望が炎しい。ここをまず見学したあと フ
ケネディ大統領暗殺富市件ゃ
自本の
、
ホテルならピ
向笠の渦飼
、
l
いので
、
ユ!?ンの廷に診諾 した。纂と云っても美し
一緒にホテルにmmり
衆議長選参の結衆等を聞いた。それか彼
ら
と
飲めるので甜即座にlピルをとり
、
、
、
エユデリー
、
政庁大通りを隔てて二分された
それぞれ大
、
先生などと一一緒に又話し合った。その夜は 後 ガイドが迎えに来て取に分然して町に出彫刻も俊れている。次に今度は印度の中央
十 一時頃ベヲトに入った。なんと云っても災 た。我々の泊っているホテ ル は
- 12-
ここは炎しい大通りで、
、
次は
。
l
に入って
、
の
レッド
ここは旧市内情
2
今度旧市内一アリ
フす|トをみに行った
、
ドームをなす堂々たる建物がある印度の心段
キ ングウュ ィ
、
館
l
特績を楽しんでいるよ
、
ここの中に入るのには微
。
・
レ タド
住とよ郊の
、
フォードの中に
、
、
デイワ
ハ l ス宮殿があり 内部の内援は宝
、
形との調和がよくとれて壮腐を
e わめ
内部は後墜にそって玉箆 があり
アーチ
・ィ
ている。又
ニ
その他宮廷内 の疲厳な同数寺院内
γ 真珠
ことに美し
。
肢かに水をたたえた池
、
い
、
石をちりばめ 、そ の玉座の問は
寺
、
城内の博物館と共に見逃すことが出来な
、
総崩側、草花の地点
、
も
。
、
。
、
ルド
、
一アワー
・
こ の市内見物は
寸!
ならびに 町
四位に感心さ
ただただムガール様式の
い美しきであった
さ
侶市内
也物の強さと時間巧
せられた。
、
ら父物 で める
本自の最後は
を取 の内か
、
、
アフガニスタンから南下したム
のままが名所としてある感じであった。その
、
イギリス佼略の遺跡と 丁度、印刷決の歴史そ
、
ガール王朝の遺跡 シーク教の制開閉それから
民族の遺跡
云わば名所は みな敗戦記念物で三千年前に
、
ホテルに帰り昼食となっ
、
をぬぐわけだが歩くところも大理石の張り
り
、
、
ガンジー胸 ラジガ lトに診詣し
・
、
に向う酬明になっている。
、
、
あとホテルに帰り夕食となった・夜は又 丸
山骨相が尋ねて米てくれ
夕食のあとまた雑談
、
《7a マン乏の陵》
た・ここはガンジスの支
流ムナ 川 の河
ジゃ
口にある。ここは国家的な聖地にな名
っ所て
おりり、アー チ形のラホ 1 ル門は 赤色
であ
の一時を過した。十二月二回の午後アグラ
悶見の宮殿があり、 この
、
、 で
芝生の緑が美しいところ
印度人の尊敬を 砂岩の城壁に連なって赤色の大城壁をなして
ハトマ
午後は二時頃から まず印度独立の、
父マ
た.
中の見物は終
さかのぼる。北西から攻め下ったア l リアン
、
つめた床で曾れいにしであった。これで午前
しい 建物であった
の仏殿があり印度の赤色砂石と白大理石の美
、
タ シ品 ミナ ラヤン寺院に袋内された。
ここは
中央にヒンズー教 両側にジ十イナ教と仏教
うである。次に宮家ピルラが建てたと云うラ
ろうに 、役人 だけが
、 うで
山越小尽に住んでる人が多いよ
住宅難だ
、
おここまで行 く途中 問地があったが、 これ
は、役人の築関住宅地だそう・だ
、
印刷成は
山畑
議事堂等があるところを市掛から見物した。な
ル線式に綬件さ
則れた大統領官廊、 国会
ムガ
。
一身にめつめたガンジーの期にふいさ
わ門し
かるっ
る。
を入
と
13 ー
-
fご
林左馬衛
《宮内庁図穫祭》
蝋伸
ヨヲイヅルハシトナドカセザラム
己上、遺心和歌集
、
逃心和歌集は 約尾高山寺閉山明感聖人の
、
ある。父為過が久此吋元年六月十四日に三十­
、
m
浪人よりは
才で泌じているのをみると 同明恵
十八才以上年長でなければならない。祖父伊
、
、
、
僧としてどれほど偉大な人であ
路島"な家柄を掛円品川に持
通は太政大臣になり 叔母国霊ずは近衛天皇の
この人が
聖人自作自剛酬の歎値揮である。高崎市っは
た、
俗であった.
州知子高僧が探集した明恵上人歌集の附例年を
后占
となっているから
める
、
この遺心和歌集につづけて もとめうるに従
のべている。
、
、
、
そうした点が変って
ないい方になるが 、そ の放にこそ跡を誌すこ
の栄光に裟まぎれてのことであった。逆説的
泊四大きが後世に跡を残したのは、突は他の人
、
って明恵の歌を録してゆき先師の作ロ闘を集 ったか 詳しいことは分っていないが 後の
、
大成した次第を 明恵上人歌集の省中及び序
に
、
高信繁の原本は かつて佐々木信網先生の
、
e
、
戦後コロタイプ版として刊行された刷新酬
いるといえばいえる人である
解説をそえ、コロタイプ版として公刊されて とができたのであって
いるが、これによると、ここに掲げた邸分は
この巻子本中間紙にわたることなく完全に
}
、
恩師聞の自戒築二休宗純の著作〉の・中にこ
、
紙の上に書写されているから もともと遺心
の性樽の歎〈ケガサジトV が 明恵上人詠歌
、
として引用されている。歌は 冊子中余白と
、
和歌集の本文であったことが分明である。
、
大目窓史料五編の第七巻 貞治元年五月十
なった半楽に、大島官〈ひらがなで岱かれてい
、
九日高崎m ハ明恵〉自寂の条下には 明恵に関
冊子中の余白ごとに誌された
る。.原本をみていないので言
断を控えなけれ
、
ら
、
、
この節分も 恐らく}休の由同継なのでは
いて 、そ の郵分が一休自筆らしく思われるか
一休の奥曾きがおなじくひらがなで脅かれて
、
係ある史料が類淡されているが この節分は
、
ばならないが
そこにも、官同弁と位制仰という顕注を伴ってあ
らわれている。
、
由 脈によると 坊
性欄押という人物は柑骨咋分
、
問問則前になった人で
門為通の子で 仁和島寸の
,
茶 道と歌道
生
テツカハセル・
ケガサジトヲモフ心ノアルキミハ
ヌラスソデエゾカゲハオツラム
クモルヨニソラガクレスル月ナレパ
返
ヨヲワタルハシトナルゾカナシキ
ケガサジトオモフミノリノトモスレパ
オグレテヌラススミゾメノソデ
イニシへノワカレノニハニアワヌミハ
性
-14 ー
禅
二月十五日チカクナルコロヲヒ、ヨ号、
茶の湯に生きた人びと
ないか
と思われる。
、
、
その銀総の出発点は 遺心和歌集自
、
慈浦和尚御敬二
、
世ワタルハシトナルゾカナシキ
帽瞬間助者が一休家純であったかどうかは別と ケガサジト忽フ御法ノ供スレパ
しても
、
、
桑関由仙掴杭氏こ
はの茶鵬首名物岨揮を検討され
これが山上宗ニ紀という名称で伝写れ
さてい
た彼物の一異本であることを明らかにされた
、
すでに
此歌ヲ 宗 勿
n 串屯常ニロ吟ニテ候。世上宋 桑田氏によるならば、野笛本における「態
、
、
体であったようだ。この歎が 明恵におくら
これは
、
よるならば
V とい
、
、
、
作者和品開は当然抑僧として予想されるはこ
といわなければならない。
こ
、
、
に天台宗のお僧と手をに揮官って茶道界に君
、
今回ま
、
高崎市第の遺心和歌集が
すでにこの歎の作
、
物が性神であることを鉦明し また
、
、
しないことを考えると 茶道史が この歌の
でに判明している慈鎖の作歌にこの歌が存在
p
a
かの群曾・本においてあたかも縛
、
茶袋名物集の奥曾きというべき部 宗気分の中に怨没していたかにみえた歎は
、
た}本も 世に紹介されている。この紹介に
口惜次第也。鈴今閑事・柵宮駅「紛今関事」以下幡宮市云々という卸分を欠い
、
ノ役二成候テ 宗口勿ヲ始〆我人茶湯ヲ作詞調棚」和尚は「恕鋭」和尚であり
又
、
れていなかったならば、第一 明感自身の作
、
過エ仕破
、
歌と線認される事態は起らなかったろうし
俊
、
之限 可留守也。
ll
後世に伝承されるとともな
、
。
、
また、明恵がその自撰歌集に採用することが
なかったならば
かったものと思わなければならな い
、
分の一部であるが この段落の前後に禅穏を ほほ完全に郷宗の埼外に凶てしまいにわか
、
樹仰は文学者としては 無く無名の歌よみで
、
めぐる口伝に関する文ながあり この歌自体
この A ケガサジト
、
gmの悶械をもっぱら必要とするという話の 臨しようとする勢いをみせてくる。
口頭に引用した逃心和歌集品以来も蝋
、
あったにすぎなかったのだ。
ところで
、
尽の性蝿神高弁問答歓が
茶道史を湾えるよで 引合いに出されているところからみて歌の
みおとせないのは
、
びになっている
、
、
明らかである。
山上宗二紀の原本自体がは な
、
してしまっていたことは
このことは
、
もともと利休の茶を樽 伝承にあたって はなはだしい綴解を前提に
、
と考えられる。従って
う歌が、千の利休および山のよの宗ニによっ
の伝承によるならば この歌は かねてより
、
て醐
噛みしめられてしまったからである。しか
し、そ の時も性得は裟をみせることがなかっ 樽に深かった利休ーー
、
の茶として仰いでいた宗二 という線でかみ
、
もっと意外なことには そ の歌の中継
、
しめられなければならない必要性を色濃く常
たし
者であった明恵さえいつしか忘却されようと
、
茶皿曲名物集における懸珊
。
るのだというのであるとしても
同本
期が怒鉱
、
和尚というのがもしかりにすなわち性郷であ
ることを佼明する
する動きの中にあった。統制肘愈新聞協同等
び第
て五
いた
百ようである・ここにとりあげた統制叶
はだしい思い違いのよにものされたものであ
、
を一つの了解務墳としてでなければ絡しえな
六十九に収められた願締山よ宗ニの茶務名物 校定者の段落のわかち様などは その可能性
集 に は、 左のごとくある。
いものである
3
、
、
、
、
、
、
、
あたかも毎日
、
一切の教養社会の権威が出刷機し
らない日本文化の実態をあらわにみせていた
文盲老たち自身の手で持続成きれなれ
けばな
時代は
存在だった、といわなければならない。
、
のように適されることを得た歌道史上稀な
出会っているごく親しい人物なのでもあるか
もしくはそれにまぎれやすい草体の文字に転 まい 無名という業を負って文化史に生容な 主観的な燦択販をくぐりぬけ
、
、
あろう。
利休は
、
、
紫朴に この歌の内容に 後らは
た。ただ
そして家こは 性俸を知らなかっ
写されうる人名として表記されていたことは ければならなかった男の 哀しい後世への生
少くとも原本に「性微」と明記 ぎ方の影であった とみなすべぎものなので
格実だから
さ れていた気遣いだけは絶対にない、 わけで
ある。
、
、
決して積極的に茶道史に登場して来ベ 同感し 傾倒したのであ った。この歌に 彼
、
慈鋲和尚は 歌通史のよでは熟知の人であ
るが
、
らは現実生活の中で不当な屈辱感を予儀なくその再構成の事業に諸手するために いわば
、
全力かけて
き人ではない。また 利休の教餐というもの
、
自分自身をたたきつけるようにして拙同化する
また
されている彼ら自身を見
の軟に辿りついたのであった。
、
、
、
しに
この文官打者同志の師弟の聞に交流しえた感開
情き覚えた歌の中にそれを様相凧遂
それだけであった@そこ
、
こ
ったことを知っている。そして この場合も
社会の限からみてそれほど高級なものでなか
ぼくらは、別休の歌に関する撹泌が 数発
、
感じさせない作品の磁かさをみたのだった。縫えうる歌が必要であった。利休は自分が
、
を考えてみても この和尚の歌を「常にロ
ことができる。そうした激しい鑑賞の漆勢に
、
吟」しなければならなかったほどの歴史的人自分をぶつけていってもなんらの危なげすら
、
双って
、
絡的必然性を予期することは 困難なようだ
、
慈鎖和尚の場合は いうなれば
、
作品唱がつまり維なのかという
、
は、ほとんどただ
すでに
、
歌の内容が、
、
どれほどのものを得ることがで
8たかは疑問である。問題は
・
ない。しかし
その放にこそ利休の燥しえた
、
そして燥さねばならなかった文化史的宿命の
、
宗ニの心をとらえていたものは 歌よりも
、
窓さを 不当に評価すベぎではない。
彼ら文有者のやみくもな荒々しい期待に答え
、
に当を得ない。あまりに
、
、
ロ吟」していたというだけで歌の価値は絶
,
16 ー
-
||
、
、
では
偶然にも茶の湯に生きてしまった
、
かの怒厳祭の名知織の作品で
、
後役愛唱されるためには
、
これら数多くの文化人によっ ることができるかどうかというところにしか
、
、
ことから
さらに
やはり
、
その例外たりえないことを飽めなければなら
利休が それ以よ作者和品阿佐仰について鈍
うでもよくなっていたのである。
ようなややこしい知紬棚上の問思は
いわばど
、
と削ゅう。
、
、
こと
そうした教委社会か まず 師の利休であった。その利休が「常に
なかった。作者位制停は
決して性樽の罪深さによるのである らみるなら ばま
、
後援されつづけなければならなか った。
、
それは
て
歌は
もないとしても
なく
茶総名物集の暗示するごとぎ縛僧のものでも べてみても
歌が かの天台宗の高僧の作でなく また
、
人であった、ということになるのではないか
、
山上宗ニ紀に綴を幽したのであり そうした
•
a
、
、
とを変した ということなのではない。彼に
、
それは
、
は、後なりに 彼の正しさを保舵してくれる
、
ただ過去の文
対的であった 宗こが心から利休を背骨政しそ
の旦に過 se
なかった。いうなれば
の口辺から洩れる片言隻句をずらのがきず
次らでもよかったのであり
どち
、
今日 山上宗ニ記のどの一本を袈んでみ 分だったのだ。
、
、
、
身辺の人々から霊んぜられた利休は 必ず
々紀憾につとめようとした茶人であったこ化
と史上の伶人であることさえ磁かならば、十
心のよすががあった容なのだ。
は
、
るだけでも十分に察しがつくのであるそ
が
、
、
、
休は その人自身師匠思いであり 道統を窓
た
利休 は、 この歌が もともと遣心和歌集の や人々を露んじた人であったに違いない。ま
門下に幾多の師匠思いな弟子をもった利
結梁においてそ
、
中 において 、明恵 塑人から能くっきはなされ
、
められ
の彼が 自分の先生の愛唱歌の作を
者慈銭も
よ っ て たしな
返歌に
、
しくは慈痛にもっていっていること作
は者
張であった。彼自身としてはいくらか文
へ官
、
んずる人であったに違いない。彼のに
文対
化
、
によってこの歌の価値を顕彰しようとした
とを 知 らなか った。そして
に対する誤解が利休においてすでに決定的
ので
安易な心墳をた たきのめされた歌であるこ
と
する主張は すべて、そ の点に限界を 持つ 主
、
、
、
つぎはなすこと
、
あったことを暗示しているので
は ないか
思われる。
、
、
、
、
さらに弟子に伝えるとい
、
、
、
、
、
、
、
その歌を
ではなかった 。性郷の歌に新しい生命をもり
、
、
利休にこの歌を教えた人絡は おそらく
、
その生命を保証する人物の一人
利休の茶の生命につながる人格であったろ
う・そして
、
たいことであるように考えられてならない。
誰
、
に利休が述人があったとしても それは
たんなる歌人や僧侶の知識のままにつたえら
、
の質 問もえら れず過去から狐立して生ぎるこ
- 1
7-
、
利休は あるいは 明恵といおうとして
明恵聖人の僚さを穆解しえなかった。それが の傾ぎを持ち 広く知識を帰納す る よ り は
まちがえて慈鍛といってしまったのかもしれ野人利休の哀しい限界であった。
狭〈知織を限って深く吟味し減釈してゆた
く
ない。しかし
、
そうした云いまちがいが起っ 歌そのものの内容に利休が同感した時そ ちの生活軒目学者だった利休にとっ和
て歌文
明宮崎上人歌集を絞みこなこには 作者はなく 和歌そのもののもつ迫 学の倣界を直接再評価し俄択する任は適当
たの は、 もともと
利休とそ
、
力だけがあった
ということは
していなかったからで、すべてをまたee の
こみえたのが彼であったとしても
の内容をむすんでくれた別の人絡があったこ
ーー
うろ覚えにまかせていたからなのである。
、
し
制問団地高山寺の開祖明恵聖人の刷
名利
は休の とを物綴るものではないかと思う。利休がこ彼に教えたのは 彼自身ではなかった。
、
幼少時には すでに茶人の聞に著名であった の歌を常にロ吟
、
う熱の入れ方をあえてしたのは その歌を利
、
大茶人として大成した利休
は
容だ。しかし
、
休に示した人絡 が 利休にとってかけがえの
、
茶祖としての明恵を怠殺しながら
客観的に
、
追求することなく すべてを直観と暗示に絞 ない人絡であったことを怠味している。いか に利休の茶の飾匠が存在したことも動しが
、
遠く点滅 する文化
、
りすぎていたのであった。彼にとって明感
そ の人 は、悠鋲と同じく
•
そこに
、
、
もしくは
に
、
スギタルハ
、
、
この面から
聖人の心をや
、
タルシクモナキナリ」と する見
訟として却隣忘紀巻上に引かれた「心ノ突ニ
、
若干国内線な気配を感ぜざるを得ない。こ とめようとしたのだ。特徴の歌は明恵の歌
、
、
の歎 は、もしくはこの歌の問答は 明恵にと
この歌を明恵の作品と信じ誌した ってなにか心の底ふかくのこるものがあった
、
れたにしては利休の蹴噛みしめ方が盤
il
い
、
そうぼくは思う。ぼくは
そ の楽に
条
一一
- 西実隆に回診して和歌を学
ものではなかろうか。
っていた 、と
、
きして不都合ない作品であった というべき
や動揺させるところのあった歌あると考えて
のだ・その贈答の経過をめぐって 国明恵の心 解につ含あたり
、
、
-休宗純と
かひら め いて いた答なのだ。
をとらえ去った歌の生命じみたものが なに
。
と息
んだ利休の師武野紹聞の影を認めた、い
aI
、
歌人としてあまり有名でなかった位機は
一休や紹鴎や利休がそ
れを知
、
、
であった。彼らに共通していたことは 一一切
に至つては A慈鋲と思いこむことがせい一杯
この歌を哩曝していたにすぎなかった。家ニ
心の琴線にふれる いうのではない。彼らは 明恵の名において
しばしば手放しでとりみだし
、
逃心和歌集もしくは遺心和歌集を中にふくむ 徒然草の作者がいみじくも的をついたよう
、
明恵型人という人は
に
、
明恵上人歌集においてしか 歌の倣界におけ
ことがあると
、
る自己を会うしえなかった人である。そして
とりみだし
感受性のすぐれた高僧であった。
、
てしまう
、
C として
位機は 明恵のわ #役
、
、
そ こにおいて
、
役郷は この二台の軟によって
さし
一度登婚したにすgない存容でしかなかっ
、
、
、
ll
、
ここで
性仰である以
、
上に明恵自身であったような気配が
さ れ たのは
のではなかったろうか・明恵
、
彼らの野般的味に富んだ迫の追求泌
よしとした以外のことであったのではない。
しかし
金容縛幽の長男七郎氏勝に柳生仮同地守宗
、
、
、
カクレガトノミタノム身ゾウキ
ワタルワザノナキユへ兵法ヲ
ヲ
とある.
世
た。その冒頭に
般がおくつたとする 兵法道歌}一替を収録し
は
してはならない。古典文豚の中時泡世道歌集
、
伎を露呈させるところへ追いこんでしまうこ が 後世和歌史の }h"
を夜いえたことを否定
持前の負けん気な気
、
。。
た来てにすぐれた歓を献むという状況に明恵の教獲を欽念にして この叫献を内容の一則から
、
た。この場合 明恵の歌の出来栄えも
その位どりにみすえ
、
を迫いぞることに は失敗したようだが 明恵
、
その真相を悟りえないに
、
てかんばしいものであるとは思えないのだが
、
心の低どりが僧備として少くとも性微より高 がいささか聞くなって
くすえられているため
、
、
、
この集中の他の贈答歌に比し は 色汲く感ぜられるようだ。それが
ぼくは
、
の歌によって叱吃
られて 性嫡仰の歌の位がいちじるしく低いと
位に成功した
、
躍に綬定されている かの感が深い。
しかし
もかかわらず
、
明恕 は、 これを正面からうけ
、
った深い傷を呈して 、明恵と対決した
て明恵聖人からなんらの深い向感も儀礼的な性禅の歎の似打ちであった。性側押は
みずか
共感も与えられなかったかにみえるこの贈答 らの負
、
歌が 選心和歌集の最末尾を飾っていること のだ。 そ して
,
、
オリンピ
ッ
、
、
明
、
のとして活用することによって 新しい信仰
こういう立婚に立って
、
、
とするためではなかったろうか」と去ってい
、
、
著者のように解釈すれば 現代
、
人にもよく上人出家の理由がくみとれるとい
、
と
鎌倉での所街地に関する訴制訟
、
、
粉飾で現実陥れした史
ー - かく法然伝や宗史をいじくるものの注
で敗けたのが本当の理由であったように
りではなくて
級をあげて従の無常を応じたという伝説の通
著者は宗銀法然上 うものである。熊谷底突の出家がwT数袋の首
、
いずれもよ人の思怨を追い
人の思怨信仰を 現代という場で羽解させよ
会十窓のうち
変りはなく
ク中継の旬、波が地球 告白の学としての宗学を起さなければならな る点が箇白い。品目も今も人の予の出世欲に
空には宇宙船が放たれ 海には原子力潜水
位が航行し
、
と
法然上人の宗教を理解させること
、
のまわりを一一腕にしてかけめぐることをご
い。それが著者の宗教学者らしい学
宗
一 研究の
く日常の文明と覚えならわされている現代人 姿融初である。
に対して
、
は、なかなか難しい問題である。しかし
、
日を導き
もすれば科学に制り 宗教心とは無線になり うと努めている。
、
、
一意すべき点は
一料を満容みにしがちなことである。忠
一想でも行突でも啄突を曲げてはいけな
、
、
一 いが 常に人間的な感覚でとらえ そ
、
古い浴を新しい草袋に盛
一れを現代人にも納得のゆく袋現で伝え
|一ることこそ
、
る手法である。念仏の歴史は省く時代とと
、
総は 現代人としても理解できるよ
もに老いようが その生命はいつまでも若く
、
、
、
うな念仏の意義を探求しているのであるが
、
新しく脈打つことが必要である。『法然上人
、
私の興味深かったのは 例えば第二章 宗教
ながら
1
t
がちな現代人であればこそ 今
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
この二つを互に柏崎側うも「突は役間並みに 学問によって散に出ょう
、
、
を傾けて訴える綬法の叫びでもある といえ
ば大裟獲にすぎるであろうか。
知恩院宗学研究所発行・定価二OOl
-19-
日の問題を解決するに足る原理を信 |
仰の中からつかみ出してぞることが、一
宗教家に与えられた宿命的な雌税務とい
一
ってもよいであろう。それが家学の究一
極目的でもある。一
氏によれば「わ
11
路戸紫純氏の『法然上人の現代的理一
、
、
解』という著禽も この線にそって宗一
学を見直そうとしたもので
、
その必要さが痛感されている
、
が国宗教研究で 今まで不当に緩んぜられ
、
紹
学問」が京学である。何となれば明治以後 心の開発と発展の項で 答者が よ人の宗教 の現代的理解』は 宗学を現代に生かす一つ
の宗教研究で 新しい尖狂的な宗教的方法を 心は偶然な事情で削発されたと指摘している の方法として、著者が宗教学的見地から
掛
勲
川
現在もっとも
.
採用した結集 その業績は高く評価すべきも 点である。普通 上人の出家の動綴は 父の
神学的方法論が忘れられていたためで 死や遺言によるといわれているが むしろ
一方
はないか・そこで
,
, 、
家
康
、
と
、
、
室
天
一
、
・ーー・・・
~
ー---'・.
湛
泉
、
す故 帥獄は茶が仕りまする」
と申し出た。
、
変転つねない戦国の世とは云え 余り に も
箆の中には目蹴を亦くしている者がいた。
,,ヰツ
、
改めて案内役に命じた浅井に 副都市械は更に
、
「先頭のそちは 長級明を応ょに鯵げ持っ
,
、
て道を失うこともあるまい。更に}了間隔に
、
の指婦に当れ・一宵然官円
叩を
く例え 一人過
w
、
酷堅中突破はザ堂島騎
齢馬
構の
な者が長総明を馬上に拷げて
後仰の兵
我が鋲地を裂いて必ず報いようぞ」
、
とまで云わしめたほど
は
ぃ、熊取虎口を脱することが出来た闘にば後につづく者も心得て先の総明の燈に従っ
、
「共方が先導となってよく余の般雌離をて
救、四つ辻、絞れ道知熔に打ち扱そ
れうすれ
家康は、召し出された浅井をかえりみて
- 20、
辺は 臨即ち鶴岡った織田の務カ下にあったか
をら
途う時は、大勢必ず道に迷うものである。
くに在った大河械の周
うちに退去すべきと }決すると、伊良市の本多 ことであった。敵地mm
に止まるべきではない。敵の包囲に迩わない
誉
早い時努の推移に 老人の大久保忠俊など家 脱出に都合のよい易一つない閣空となった。
登
大町械の守備はもはぞ無用である・一刻も械
後冗
- が討たれたという窃突が判明した以上
時に自が怒れ来ててからであった・
を飛ばして畿元討死の急を報じて来たのは
岡崎から留守居の家臣烏弁伊賀守が 汗尽
-‘-
、
、
、
、
難所があるぞ、危険な処ぞと次ぎつ夕、に教え
うことも覚悟しなけれ ばならなかった。
夕方から どんより曇っていたその夜は て行け。ただし徒の者共は松明を持つことは
、
ここに
も十分あったし 野武士ゃ 乱磁の制捜寧に逢 先手に進む騎馬一人長松明を搾げて
、
い縮、沼、小川などある所に至った時には
「父助太夫忠俊の手の者を怒きつれて居りで
まある。脱出の途中敵の大第に襲われる憂又
修理光忠は
田
--、、
鶴
、円【--、-、-
.
.
ー← ,
なら向。却って邪鬼にこそなるものぞ」
、
ぞ正しく今川の敗軍の倣兵と覚えたり。一人
の
、
、
スワと浅井六之助 馬をかけよ
」
、
半六どのか
、
、
、
い@相手の武士も この奇遇に驚いている容
、
彼 は刈回以辺の野武士の顕自であったが今
きれば
たので
、
、
日開制その方と
は健闘怒の聞なれど
こ れより後は
、
、
遊を紡ぐ者はなかった。
、
「これより先は岡崎領ゆえ、拙者ここにて
、
今村の郷まで来ると 浅件汁は家康に
、
家康等の隊伍は釦州市苧ここを返ること
、
半{ハの命に彼等は底ちに道を左方に闘い
くって命じた。
自刃をねぎつらねた手
下 の方へ 顎をしゃ
過ちあっては相ならねぞ」
「ここへ来られしは味方なるぞ。共の方ら
、
の宮殺を事実と凹むって
特Hぎ附いて根が単純な野武士の半六 浅井
と威高らかに呼ばわった。
、
幅削礼をすれば容赦はならねぞ」
も
、
、
もここを通すことは相ならぬ。怒って手柄に
その戸に
と呼ばわった。
敵はおろか足元にまで警戒しな 至してくれようぞ」
と察側に下知した。
こうして
ければならなかった。
、
部隊の隊伍を笠え終ると 更に相印相宮業
?
刈底の城主水野殿の借家人浅
、
?
を定めて教えた。これは万一燭夜に敵に逢っ せきっと松明をかざしあげ その武士の顔
、
、
かくゆすは
「おお 後 れ かと思いしに
た時 同志討ちを避けるための用心であった をのぞきこんだ.
、
道は文目も分らぬ時きとなり 唯一の
、
聞にまぎれて械を出たが途中南さえ降り出
して
、
「おお 浅井どのか
道しるべである燈の松明さえ雨にたたかれて 弁六之助なるぞ」
消され勝であった。
、
この持、家脱側近の大久保忠俊は、開却を部二人 は、 かねて顔見知の間柄であったらし が出来た。
、
隊の前方に駈けさせ 或は後方に馳せ 戸を
度々乗り返して兵をまとめることに専念
、
からして兵を部隊からはぐれさせ向ょう叱砲子であった・
し
、
った。
待ち様、えていたのであ
と感動般に別れを告げた。
、
後のことであるが 浅井のとの時の 案 内の
彼に絵盗w、
d太刀に所領
功を 食 した家康は
、
浅井 は、相手が野武士の半六と知ると
、
事きつれた手下の帯 千余人を遣に伏せて
お暇いただをまする」
していた。忠俊の努カによって寧い一人の兵 川方の夜食品唱を打ち留めて手柄にせんものと
、
も遣に迷うこともなく 池飽鮒の駅に出るこ
とが出来たのであった。
、
而し池鍛鮒 をすぎて間もなく 前方のくら
、
一雛去った家燦は 悠々と郷皐岡
柏崎を添えて与えたという。
、
、
七
崎城へ帰ることが出来たろうか・
かくて
「半六どの 何をかく そう。般の仰せを絞
織 田殿 の加勢に趣舎、橋狭間の合戦に後手ん
り
、
を迫討 せよとの殿の厳命によって道を急ぐ
も
を目出度く打ち取り 只今三回門勢wのm
ち行く
閣の中におびただしい馬蹄のひび含が問えて
、
この進にか か る は誰なるぞ。 こ れ
、
来たと息うと 相即時怖の先頭に立ち世帯
た騎
がっ
、
馬の武士が大行あげて
「夜
半
-
ー- ?1
、
義元は岡崎減に 間部
、
、
、
の労苦をねぎらうためにも 郷阜の妥子ゃ
、
、
、
とを己の大任としていた。かつて洛中の一心
、
風鋭舵僚でお円相があったよ
大カ無安であっ
、
き其の後大樹寺に位した。佐賀至って濠快
それ故、ひとまず需品を解ぎ、うちつづく合戦
院内第四散 v に住し、又、下位怯に往生院を開
三浦 飯田地等の
2一 どんな紛争が巻ぎ起るかも知れなかったし
既に綴元討死
、
低ちに岡崎へ戻るこ
、
将を入 れて 守らせてあったが
してしまったとしても
、
とは経本の感があると思ったのか 家同械は一 相続併え帰したのかも知れない。
、
三河に彼の家隠も加わるほどな旺盛な一向一
、
、
善戦の末主従十八酷刷身を以っ
て艇をさけ寺に逃れたとも云われている。
傑僧であった@
、
、
登故田上人はおもむろにロを開いて
中に生を求めらるベし。担拍ながらどうして恥
「かかる時こそ男児たるべぎものまさに死
、
とまず大樹寺に入って入械の時期を待つこと 尚一鋭には 家康が大出術品寸に入ったのはたという。その上総略もあり 道線も隻屈な
とした。
、
よ
、
間協が勃発した時之を柑制圧しようとして戦っ
大樹寺は家康の組 松平副続由かがたまたま三
、
河に遊化していた勢誉上人〈真慈社忽底知恩 て利あらず
院第品目三世〉に帰依し浄土の法門
eを
舎
、
、
いずれかを選ばねばならね事態に立ち至
、
った。大樹寺を妨れたことは家康としては
一代の大be
な飢算であったか。
、
大出側品寸の住登持誉上人の前に総坐してい
亦設が法門の厄に係っているとも
、
同様であった。これで家康の生後も終りかと
、
倣の官凶に陥ち入った今は 袋の中の瓜も
浄土の布教も一時頓鈍するわけである。
知れない恐れも十分あった。車寸を焼かれると
内。
の4
ろこびの余り批判字を建てて邸を関山となしいかなる寝悠が起った場合でも、沈着で息 辱を受けてよいものか。我が償制陥の危畿に逢
わるるは
、
天窓のいうように AV
は家康一個人の問題
早急にここまで敵が追って来るとは考えてい いうべきもの::・」
、
大樹考と号して寺領五百石を寄進したに始ま つ術策に長じていた家康ではあるが よもや
、
る。かうして大樹寺は貌忠以来 松平家五世
の容悼平院であり近くは父広忠も葬られていな
たかったかも知れない。今はいさぎよく狩っ
、
、
、
るはなかった。考に火をかけて焼かれるかも
廿一目 家康主従が大樹寺に入ったことを て出て祈り死するか 個也先の悠一郎で切腹すで
、
、
探知した信長敵"は早くも寺を臨み始めた。 か
、
この時 大樹寺を訪ねたのは 家康初め石
、
川家成 大久保忠俊 本多平八等主従十八騎
であったという。
、
、
、
、
守っていた大高城を捻てた時の家康勢は る家康主従の顔は いずれも沈論としている 思うと 米だ一政是ない一子一-一郎信市械や婆
相当の部隊であったろうが、大樹血寸に入った笠世田上人円借恕社、天正二年六月十七日叙
が}
桧に浮ぶ。従うものは いずれも肢の底か
、
ら信じ切っている露臣たちである。大切な家
は天窓と号し 相州小回収の人と云うのみで
、
、
時、何故脱が十八人であったかの想曲は明ら
、
人をむざむざこのまま殺してなるものか、さ
、
し
かでない。或は岡崎凶械が末だ今川方の武将姓
の氏は醐明らかでない。幼少の時に出家志
を立て
すがの家成も然慮の思いが 胸}杯にひろが
、
浄土の教を布き 然生を済度するこ
管理下にあったので臨ちに城に入ることは
ってくる
。
、
、
、
師 、勝っときは大 国の主となって
を
窓四海に
、
、
これ非情の武カにて 云はば劫賊でござる
、
かかる忽かなる心は 全て貧りの心より起
、
、
を極むと云え 忽ち死に赴く時は 。がて軍部
若者らしく凝然として答えるき築 り来るもの。園都を従えて-sgをなし栄龍平
、
、
大久保忠俊は 自を細めて聞いている。
、
家康が
には周期台が逮ばれ ねたり 威を世ょに援うことが出来まする」
平ぞくも自は暮れて os
ていた。
、
その時
、
、
を受くるは
一筋に
倣にただ勝ちたいとのみ男み給 れまする」
、
、
そ
、
必然の道理にて免るることは出
、
「御首相年の背より数削除の家に向わせられ
「た
官 四海にわたり 曲械を扱って何の為にさ 慾に入りて恥めを受け その迷訓制限りなき警
天笠は、家康に向って
が
、
来ませね」
何のわけもなく
、
、
胸をそらしてこう答えた。
、
、
といえどもその名を郷かし
亡 bc
、
「而るときは その家を興し 父母あればも
とより
、
、
「微を打ち亡ぼしては その所領を制旬又次
と胸にこたえ迷い初めて来た。
、
天室にこう説きつけられて 家康はギクリ
、
それとも
いずれを先にし給
天主は 烈しくき含返した。
、
、
うたか
この二つの綾地
家康は
、
向う敵を減らさず切り払わんとのお心でござ
ったか
われたか」
武功の大なるものにございませぬ
、
、
、
、
、
畿なきことと存じまする。きれば この点
上人の御教示を承りたいと存じまする」
、
は疎きことにございます故 当来の浮沈は余
とのみに心を傾けて仏法後世の用意について
、
て勝たんことを旨といたしますれば このこ
、
の身は名を後代に止め、栄曜を子孫に伝え 第に領地をふやして威を示したときは武士の
」
?
、
ときいた。
か
これこそ
し入、古今珍らしくはありませね。きれば 道でござれば その計略 明半期唱を常に心がけ
、
こと新しく尋ね
、
天盆は 家艇にぴたりと視線をすえて そ
、
以って万民を司る人は、そ
「身に貯うる徳
bE
、
家康は低頭すると 真惨な面持でたずねず
、
8 びしい紛舗で滞々と説
にはいられなくなった。
夫議 は形を改め
初めた。
be
「伏上の武士をすべて劫燃と取すのではござ
23 ー
-
家康は言下に
、
、
「これこそ、武士たるもの 常の志にて 更
、
に珍らしからぬこと 何故
給うか」
、
武士たるもの 常織を取あたらしく容さ始 の小さい北見をあわれむように
める天窓の営楽を解しか ねてぎさかえした・
、
「きればおたずね申そう。では微を討ち亡ぼ め栄も累代に及んで久しくはござるが ただ
武カの強盛を奴うて人に勝っときはその勝
、
事舗は天より受くるを以
、
して何の為にかし給う?」
れまする。されば
利を保つこと久しからずして、叉人に亡ぼさ
、
その領地即ち帰伏いたしま
、
「その心は 武威を盛んにして隊を討ち械を
乗り取ると念は
、
ち従えし者は 織程もならずして茨うもの。
する。これ小分の紛でござる・火山ほの武将は
って第一と数しまする・ただ計略のみにて討
その針樋も大にして為すことも
亦大 でござれ
八
らね。元来
これを普業と
、
、
ませねど
、
、
、
浄土の法門 信を以って婆と
、
法門 に帰依まします。拙納 今当宗の法怠を
申し上ぐれば
、
いたしまする。死なば浄土に生れ 生きては
ぎに従うて自ら意に計り度らず心お怨に住
、
かせ 兵 b用
E いること進退管共に時のよろし
、
骨作品中なりとして憂いの心なく一に仏カに任
、
怒悲の心は更に捨て 勝利を得ん。死は紫より期するところ生も
、
、
之を見て忍ぶに止むことを得ず
、
かかる時こそ
よ いよ盛んになり行くものにご
悲の道破ると思ってそのままに捨て低くとき
その所作には棉智恵は待り申さ はびこり散を騒がし乱をなす時にもかの慈
、
、
ず。只その人の心を取・す。若しその心法に
、
、
ざれば
通う時は 日夜に万刃を絞って殺断すともい は その乱い
、
昼夜に念仏仕るとも
、
ささかも態業にあらず。叉 常に仏の経典を
続部し
、
は云いませ向。ただ方寸の}法にござる。こ 訟は言葉を以って戒めなどすれど かの悪徒
、
、
ロに仏号を唱えて余念を
、単
綜
万え
直ず
その下命に従わざるときは 速にこれをこら
、
、
又 は殺伐することは
の義理を会得すれば 武士のなすところは、
、
し、
或 は流刑 に処し
しめ
、
すべて菩磁の梁に違うことなく 悠悲の行法
万するとき は、強敵の長給 大個別といえでも
、
聖者の普.巧方便ともなり申す。きれば古人な
のすべき定ま れる法にして これまさしく殺
、
、
mを館市びた天獲の言々句々は門家康の心を
働
何刊紙のことがござろう」
を以って殺を俗むる所以 即ち前官即胞の行にし
、
恐れなが
、
緩に司天下は}人の天下にあらずして 天下
、
て慈悲の一行にござる・柚畑納今
、
の天下なり』と云いまする。されども天下
ら公に示し診る べし。逆乱の苦難を払い向う
、
二百三句もぎぎもらす まい
大ぎくゆさぶり動かして行った。並居る家臣
、
も関騒を呑んで
所の勝勢をして正道に品開せしめ紛い国家安泰
-守曹、
に於てそのふさわしき主君の司なりときは
、
、
、
't
、
、
心から祈るように去った。
、
}ス室は家康の自をじっとみつめながら
万民明君の山山朝引を思うこと串冊子
この
とに心がげられよ」
、
、
家印刷にも、今の緩も光りもない乱世を
一
、
と be
き入っていた。
間
T
円の紺を解き 弓を袋 にしたまわ
タグシ
ただ公の御心にござる。織内錯乱す 「公は 民衆の沓忠を救う救世の型将となる
万民ほしいままに行いて争乱止むことなし
、
而るに主活 天下を投物となし栄市中を極めん にして
ために庶民を貧り苦しむと舎は国人主君を澱 んこと
、
ると舎は
、
み副都むに歪りまする。若し主聖
君道を行い
、
怒母を慕う如きもの。そもそも先に申し上げ
、
臨吋は
長を燐み 神仏を柑骨祭し道行なわる
し夜道の道を行なわせ給いなば御避の関か
、
その仁徳四方に至るを以って怨敵更にありま
せ給わんこと更に俊みござらぬ。兵nH
収り国
、
よ
、
せね。人宕たる者は 天地の心を体して
、
、
、
その恋
、
、
より代々仏教を信じさせ給い わけて浄土の
肺併を削聞かして、
、
白
帥同士をめぐみ民を憐み給うべし。会は御先君 天室の教剛酬を金
河で感じとった家肢は 明叫
、
く万民の心を推し 老人廃疾の者までも哀感 都安隠ましまさんには 平常に専ら浄土往生 日も早〈楽土にしたいとの一つの悲願に似た
何を以って品同含怨む者がありまの御心を起き せ給わんこと第一。第こ には
希い が勃然として湧いて来ていた。
t
、
民は欲心をほしきままに して
うぞ。務しその受道に掛円
bc
て土は逆心を
するときは
し
なし
74 一
-
,,
、
「武とは北を止めるを本殺とすとのお教え
大きな誠の戦を致しとうございます
、
この家出掛骨肉にしみてございまする。これか
らは
る」
狭い視野からお然脱け出たと息われる家康
、
を
赤
、
し
て
し、
等 は務しく受けて称名を唱えた。
、
「なみあみだぶつ :::南無阿弥陀仏
ll 」
、
これまで経験したこともないおち
ふれて来たものらしい。
、
、
、
「ウム 今日 は家康にとって新しい生涯の仕
、
事の手始めになるぞ 皆の者 覚悟 は よい
か」
莞砺としてうながした。
「ハハツ」
、
、
ニコッと互に見交す家匿の顔々は 既に愈
気軒以却たるものがあった。
が
、
、
、
、
家出械の新らしい八
Tの
時旗印が しっかと
、
握りしめられていた。
、
'・
AY
ae MV
、
、
心から測した。
「恭う 存じまする」
と目頭を然くして
た。
、
いずれも廊強なつわものと変っ
、
既にこの時 大樹寺の周聞は織田勢が幾窓
にも取り閤んでいる様子であった。
、
門外では敵兵が門内に打ち入ろうと門扉
を押し開こうとしてひしめいている。しかし
問が特設が頑丈に作られているのでピグともし
p・、。
ZL
寺僧中に縫悶という六十人カあると噂され
給は
一番
、
この銀河が ! 」
、
た勇惇な荻僧がいた。身にいかめしい甲mH
を
、
よろい大刀を併びた烏よの彼は
「いざ
、
家康に会釈して胞を鳴らすと 砂煙をたて
寺門目ざして駈け出した。
「エイワ!」
.
.
、
、
「日頃 養い泣きましたる寺僧等も 伽判加融宵 破れるような声で 俸の問に一刀をあびせ
、
見る間に尽を乗りすてた組問 門m に走り
かに 宮〈箆が鍛を奴ってしたためて作った柑酬
より強万を抜曾放って揃伸身のカをこめ
鍍太く「阪総積土 欣求浄土」と応促あざぞ
将来の運命を開こうとする真舶な祈りが 回鉱山酬の後に控えている近侍の手白
に布に
、
と十度唱える 一念一念 に 称名のうちに
も
、
こめられているふうであった。
家康は
、
ついた新しいカが 胸中にむずむずと湧いて
来るのであった。
、
を伺めると
骨品大な影響を与えたと思われる 数多の寺僧も法衣を脱いで一度び甲mHに身
この時の天窓の削減は、 後年の家康の思想
形成のよに
ほど貸窓なものであった。
九
、
庭 に片膝つい
の宮楽に 天室 は倹心の笑をほぼに一一杯たた 明けては 廿 二 日の払鹿 大樹寺の廻廊に武
真
、
自
目持に白
を河
固 めて立 った家康は
り
、えて、
ま
、
あ
て鍛えている家 臣を眺め渡し
の
念死念仏とは 死を凝視することによって
、
、
た。さしもの頑丈な問も 哀つ二つに切断さ
れたと問時に寺僧は門原をギイツと霊いきし
-2
5-
、
動
「拙納も その言葉を承って安堵いたしまし
感
天笠は おもむろに十念を授けると 自家康
、
等
も
8諮った局衝を打解し切り抜いて行くこと
行・
仕ろう」
、
天窓の好意ある言楽に 家康は
'v
箆
にあるという浄土宗の教えの核心に 、家康も
.,‘
fニ
。家
L
fニ
、
、
みを立て 左右に捌いた。それを期間に敵兵
は門内に雰紛れ込んで来ようとした。
、
年末・年 始の 施本
家臨峨主従を無事脱出さすために寺川市がいか
、
、
六才
し
郷笠岡崎械の主となることが出
ll
m頁一都知
-
患臼早見袈
・
.
すみません
笑いばなし
・
仏典のこころ
信の風光
・
えとなる施本です。
中山
向
父母息 露経
信仰の芽ぱ
、
書 房
02一二八
電話〈阻〉八四九四
振替東京一八
仏教性邸
東京都文京区湯島三組町十三
発行所
、
・
目本の正月、鼓と羽子厳
俳句
.
仏教の生活質問帳
-
・
新年頭に仏法ありや
親と予のきずなとは何か
田部以上一部ロ門 -T
笑倹
A5版
仏教の生活
に乎強い敵に向って 九月も捻て勇戦激斗した
、
ホ寸僧とカを併せてよく戦い敵の包闘を破っ
強刀を絞りかざし阿修滋のとによっても推祭せられる。
、
か逆
は かこの時 寺僧が七十八人も対たれたこ
ひらり馬の背にまたがった組問、同川を
り出ると
立てmm
、
ようにあばれ廻り 数の幾人 かは岡地足にかけ
、
に駁府に退散してしまっていたので 無事岡
の才
とき母が離別となり
=一・
崎の地に凱旋することが出来たのであった・
、
てあやうく危地を脱することが出来た家印刷主
られな g倒されて行った。
内容
と期を計っていた精枠な武 役は 今川方から佼わされていた城代等が疑
それま で 、じっ
、
将のような面がまえの天袋
「それっ ! 」
、
・
思えば
と一剣を績に振って号令した。
、
、
ここに始めて長い人質 の生活 を脱
時れて
終
由民究のうた
-
、
}家そろって楽しく
途路 俄同氏の父織図信秀の捕虜となって四時四京
、
の等
時 今川緩元の併へ入賞となって送られる
戸に応じて家康の陛下始め大樹寺の寺僧
、
我れおくれじて自刃をかざして ウワッと一
、
へ伴い行かれ 八才のとき父広忠が他界した
ので一時岡崎へ品川ることを併されたが更に
て
、
ったほど酷薄な人生をつぶさに味って来た家
、
斉に突撃したのであった。
迫うもの追われるもの 一瞬にして大樹寺
級元の入賞となって駿府に赴か
ねばならなか
、
の型地の内外は激斗の巻と化した・
、
死を
家康の家臣はもとより串守備既
等にも
、
敵にぶつつかって行った。
千の抗野 康も
恐れてはいなか った。文字通り一騎当
で
、
よ り は殆んど戦いな れた 宿
ll
時に家康十九才氷齢制三年五月サ=一自のこと
日頃から武士を募り集めていたと一まわれ来
るたので あ った。
、
、
天窓が作戦し 寺僧を拘叩岨押する
であった。
天窓 には 兵略の心得もあったらしい。この
合戦のとぎ
、
態度 は 僧と云う
のようこ・ーであった=
・ρ われている。
p
o
.,
n
,“
~空私
つは
霊
体化
草案け
察研
経に
験っ
しい
たて
て見
つ
述た
てで
ベ訳
樋 口亮栄
《大正大学主事
V
じをたた念中 に残って居るおかずをふたをと
って食べる為である療が判った。又ある時は
、
てんらしぎ動物が滞閣をついて 白押却の底綴
を飛んで行くのを見た・
こんなことは総て大正年間の住職しば
たか
りの未だ大学生で大学へ遭って居る頃の事で
っ
この 様
逆に昨年三十 八年一月七日
、
ったと思われる。その後は 全く
た。前者は二年間程無住であった時の亡
あ
、
聞の話ではな い、
大ぎきも人間位で 人間の姿
鐙であ
、
、
の様で人間とは違う 体全体の色は全部ねず
、
な嘆 はな くなり
て
み色一色で 人聞の絡な足も手もなく顔らし
し、
b、
fニ
亡
てお
に究
っし
いて
みな
、
とである。弘は大正十一年七月に現在の寺に僚な恐ろしい峨相ではない こちらも別に惑
今年は何が起るかと気が気でなかったが。三
い綴はあって舗にうす気味悪いだけで餓鬼のには珍らしくも七福神が現われた初夢を見た
それば弘が今の自坊に住職した頃の出来ご
o
、
、
って寺は相当に荒療されて
、
、
特に二年間も無
、
よ
、
、
、
とんと普がするので起ぎて 薄暗い電気をつ
、
亡窓の現われた頃は何となく暗く陰気であ
、
ったが 最近はす っかり明るく必ず る稼 にな
。
、
当時は四 O 償措WのW
例措仲村久本であったが
の功徳の貌れと深く信じている。
亡鐙の現われなくなった棋 は平紫の経典続摘
下へ玄関の戸のす含聞からこそこそと逃げて った容は歩務者一同の怒られる通りである・
i 長く
あった。総よりmhH大ぎく腕体は少々 細
やはりねずみ色一色であった・それは夕食の
人間の揺し戸の様であって而も人 終った鉄鋼のふたのよへおいた木のおしゃも今では 千三百戸の川崎市久本と時
は移っ た
、
お盆の隅 勝裂の片隅で続人かずつ
、
く見ると
こそこそと癒しているけはいがするので
中に
或る娩のこと真夜中午前二時頃夢うつつの 行く取数向一娩に続いた。こんな事も何回か
た。
住であった為かかなりきむしい荒考であっ けて見ると之れは徹かにむじなであって縁の
、
名の住職が代り 無住時代が約二年間余であ た。之れとは別にある夜中に台所でとんとんに依 って初夢がばれた。
御老師遷化されて私が多るまで十三年間に凶こんな事は今は忘れたが二回や三回はあっ 凡百万円以上のものが本尊様へ畿納された取
、
聞く所に依れば明治四十二年六月桑門と云う考えて凡るとこれが所初亡震かと思われた。
ぞれ別々の施主で奉納があり金額にして大
会り 翌大正十二年四月住職の任命を受け現 いことをして居らないので持に恐ろしいとは 月になって本盆へ水引一張の滋納があり次で
思わなかった 別に逃げようともしない よく
水越山崎金の台付一対格裟建て一畿なそ
どれ
が
在に至って庖ります。古老の撹従総代償ぜより
-Z7 ー
u 、治2
仰
O
ー
選択集も
、
の
、
、
即ち建久九年に撰述されたものであり 浄土宗の開
、
、
、
、
、
念仏の篤信者であった前関白 九条球史公が
、
、
、
この
使いのものを遣わして引きこもっておられるうちに
、
ことをいたく心配されました。やがて法然上人が恢復され
あられ
京宣言であ っ て 日本仏教にあたえた影容は ばかりしれな
いほど大きいものでありました。
この本がしたためられる前 すなわち法然上人が病いにて
引き鈍っておられたときのことですが 法然上人の外灘者で
のとき
人が六十六才
上然
願念仏集」というのであります。これは法
一般に「選択袋」といわれていますが正式には「選択本
手
込C
う。
、
辞謝 する に
この事を指しているので
、
この選択鈍が述作されても 法然上人在役中に公
ょ
ところなし 」 といわれているのは
ありまし
、
•
、
、
、
、
門弟の浄土宗の ニ祖であられ
これも九条兼実公のふかい配慮からでた
及ぶべからず」として
、
、
刊行されなか
、
っ
、
、
たのであります。
、
さずけて写つさせ
ついで 勢観 鉦空 税構 などの各仰に
も綬けられました。しかし「源笠従生の問は 秘して他具に
、
る型光店舗m
阿に授けられ また元久元年には 長楽ヤ降究に
ものでありました。この年に
けるためであって
表されませんでした。それは 悶仏教からの圧迫や誤解を避
しかし
、
彦
(
大正大学助教授〉
昭
一
一
一
、
--
{呂
、
林
,,-‘、
末尾に「しかして今 図らざるにおおせを家り
り
、
この害集であります。選択鈍の
、
、
、
この書物が公刊されますと 旧仏教系のおおくの学者たち
によって誹諒したり論難されたのであります。三井寺の公胤
然上人がお亡くなりになられた年でありました。
、
「お形見に浄土の要文を集めて給うべし」と懇附されたので選択集が開版されましたのは 建貯二年がはじめてで 法
たので
た
ぴ
ヵ:
の
法然上人は弟子の安楽房や 其観房などに執簸さ
できあがったものが
、
あります。
、
そこで
せて
-28-
信
、
、
、
ついに朝廷に訴えて 選択築を禁止させたばかりでな
間尾の高弁らは大いにこの袋を破斥し 定照は嘉株 三
とか
、
、
、
、
ったのであります。
、
この選択集が 当時の思想界 仏教界にあた
版木を焼きすてさせたほどでありました。
、
年に
く
それほどに
えた影響は大きか
O
、
それにくらべると
、
この曹は
会仏教
、
後雑で難解なものも
、
、
というより純粋化をはかつており ただ
、
選択鈍の説いているところは きわめて簡明直披でありま
、
す。ほかの包師がたの論替のなかには
単純化
非常に多いのですが
、
、
必要で
、
ロ称名号の一行だ
、
、
うか
t
。
、
無量寿何症に説くところの法蕨窓口躍が諸行のなか
いなにを 示 すのでありまし
、
、
衆生をして極楽に往生させるために 選択せられた本
それは
から
、
、
法政菩薩が
願の称名念仏すなわち 南無阿弥陀仏ということでありま
す。ただの念仏というだけではまだ宮 いたらず
選択した本願の念仏ということであります。
選択した本願の念仏とはどういうことでありましょうか。
、
その仏の説法を開いて発心し
、
、
、
国をすて王位をすてて
彼自在王仏が世にましましたころ一人の国王があ
経典はつ g のようにものがたつています。
、
むかし
って
、
、
、
、
、
なし遂げて仏となり 理想の仏国を築いて 苦しみ悩む一切
の衆生を救いとってさしあげたいとおもいます。それには
、
いかなる仏国を建設したらよいのでありましょうかとみ仏
、
にたずねました。み仏は 二百一十億という多くの諾仏の国
、
考えて
、
、
、
それらの国々のよいところを悉く摂取し
、
再びみ仏のもとにいたって
、
、
それらの計画にした
理想国土強投の計画をお立てになったのであります。
、
ながい問
て
そして
29 一
-
の筒索化
、
、
仏教のなかから
、
沙門となり 法成比丘と名のったのであります。そして 仏
一すじに念仏して 浄土に往生せよ と説いているだけであ
いかなるきびしい修行であろうとも
会仏教を「南無阿弥陀仏」のロ称の一行に のもとに詣でて
必ず
ります。それば
選取と選拾であって
しぼっていったのです。
、
適当でないものを選びすてて
、
選択とは
ないもの
けを選.ひとつていくのであります。
、
った
この都物は 十六章段から成りたっておりますが
いまは
々のよいところ
患いところを見せてくださって
仏国土建
このうちから・浄土の教えの大切な問題をいくつかとりあげて
設の参考をお示しくださいました。法蔵比丘は五劫という
はじめに「選択本願念仏築」という標題は、
い
、
その手.ひきといたしたいと思います。
まず
。
が
、
で仏国土をつくりあげるために 厳しい修行をして仏と
つ
なって
、
、
を示すものでありましょう。
、
、
O
、
、
かならず一切の衆生を教おうと替われたのでありま
選択・窓願念仏は法蔵菩雌が修行のときに開普万行のなか
世に超えた誓いであります。
から選びとられた 衆生済度のための 約束の念仏 という
した。それは
、
法蔵菩随の四十八願といわれますが その中でも第十八
、
、
仏国土を建設するための普いは四十八ケ条あります。これ
ことであります。
は
、
、
ったならば
、
至心に信頼して、我 が国に生れよ
、
、
、
、
称名正行を
、
正定業を留守らにして 助業
、
浄土門のなかでは 雑行を拾てて正行に帰し 正行
、
、
、
を傍らとするのであります。こうして 最後に
の中では正 助のニ行を区別して
に帰し
お釈迦さま一代の聖教のなかから 型道門をすてて浄土門
、
願の念仏往生の願に 法蔵菩醸の誓願が端的に卒直に表わさ つぎに 法然上人は金仏教のなかから ロ称念仏の一行を
これを本願の中心とみるのであります。そ
選び出していく過程をあきらかにしておられます。
、
れていますので
れは
「
我れ仏とな
、
、
う願って 十念するならば 必ず生れさせてやろう」
という箸顕であります。
、
もし衆生あって、心 から阿弥陀仏のみ
、
、
、
も っともよく表わされている
、
、
・
ということ
浄土門に帰する
、
うか。
ょ
型道 門を すてて
、
、
、
、
その根本に
いかにすぐれた教えであるとい
五濁の惟であります。教主止どはな
、
時代に相応した歴史鍛と人間探求ということがで
、
う。型道の締教は
ょ
お釈迦さまが亡くなられて迩速な現在においては
、
、
歴史は悪役になっていきます。浄土教の
末法といわれ
、
れるにしたがって
いまは
なかなか実践しがたいことであります。
っても
きまし
それは
あるものはなんでありまし
しからば
み仏と
その後 法蔵菩躍はながい聞の修行に報いられて
も って、仏の本願に順応した極楽往生の唯一の行として選ぶ
なって現に西方にましますのであります。それが「阿弥陀 のであります。
仏」です 。ですから
必ずその国に生まれることができるので
、
、
相対的な存在である人間に対して生きた働きか
よびかけが
、
この第十八顕が 本願の中心となることは ここに絶体
、
無盆寿経に脱かれている本願の観話であります
、
からであり
本願によって約束されたことがある
名を よぶならば
す。それは
、
以上が
,。f.
古4F
が
、
者から
け
30 ー
-
、
、
、
それに応じて 切実な人聞の実存の反省がおこなわれて
、
根底には 独特の宗教的な歴史把握がよこたわっており ま
た
、
。浄 土教に
う
、
、
さ らに
っ
て名づけ
正定業と助業とが分けら
、
ります。これ以外の行は みな雑行とされます。
この五極の正行の中で
、
、
、
を問わず、念々に捨てざるを 正定業と名づける
、
かの仏の
長いあいだ骨を刻み 身 を削ぐよう
、
、
「一心に専ら弥陀の名号を念じて 行住坐臥に 時節の久近
、
制限経疏には
、
れます。正定業とは 普導大師の「観経疏」によ
、
現にあるがままの人聞を追求して 罪悪生死の凡夫 五逆十
られたもので
、
k
あるぺき理想の人間の把揮ではなくて 現にある
、
悪の凡夫、愚痴の凡夫として見きわめるのであります。
それは
がままの現実態の人間への目醒めでありまし
こういう自己のいつわりない反省から
本願に願ずるが放に」
、
mmするという決意は
すが
、
、
称名怠仏 が正定案として選取されたのでありま
、
なに放にひとり称名念仏をもって正定業とされたか
こうして
行きあたり余行をすてて一 向専修に帰したのであります。
、
な研究と苦しい修行とのすえに ついに普導大師のこの文に
とあります。法然上人は
、
聖浄ニ門にわけて 浄土門に帰したのであり
、
生まれるのであります。
、
当然に浄土宗正依の経典が定められることになり
このように
ますから
天親菩監の往生論とであります。
、
0
。
J
<
それを 三経一論とされたのであります。それ が さきに述べま
した浄土 三部経と
これを修すればかの仏願に乗じて必
、
というと「彼の仏願に順ずるが放に」として称名念仏は仏
、
O
の本願の行であるか ら
、
浄土門のなかで、雑行と正行とを区別して、雑行
さらに
根本
、
と鋭明しているのであります。まこ
、
「順彼仏願故」は 浄土宗のよりどころであり
、
、
ず往生を得るのである
、
、
往生極楽のために必要な行宮取り 不必要な
、
ハ称
、
・浄土教のおしえは安心、起行 作業として制組織されて
い
、
この「故に」 の文字はまことの信仰の世芥のおく深さを示
の信条であります。
とに
を拾てて正行をえらび取るのであります。それは 修行の極
類 を区別して
、
行を姶てるということであります。正行とは 一心 に場 ら三
部経を読むこと〈読踊〉一心に専ら極楽のみ仏と国土の宥様
、
をおもいうかべること(観察〉一心に専らかのみ仏を礼する すものといえまし主う
、
一心に専らかのみ仏を讃歎供養すること の五種類であ
ことハ礼拝)一心に専らかのみ仏のみ名を称えること
名
、
、
心がまえ
、
をいう
起行は、実践的な修行をいい、作業は五極類
、
ます。安心とは 念仏行者の心のもち方
のです。また
、
そのなか
、
思想的な
、
の正行の修し方をいうのであります。このおしえは 選択娘
において基礎づけられているのですが
、
、
生を摂取したまうこと疑いなくおもんばかりなし かの願カ
に乗じて定んで往生を得」
、
、
お釈迦さまのおしえ 十方
という文によっているのであります。ただし務導大師の信法
は阿弥陀仏の本願ばかりでなく
、
、
、
、
一切の普い行いを まごころをも
それは
とともに
、
、
、
こで仏となり
って回向して極
そ
そのま
自分も人もよりよき真実と窓悲の世界に生き
、
、
私たちが「無量点押」をねがう
、
無限にのびゆく「無量光」をもとめているからで
いくものであ ります。それは
まとどまるものではありません。無限にその向上を祈念して
、
およそ信仰は 決して信仰に入ったかうといって
O
たいと闘う心ともいえましょう。
すと
て大慈悲として 一丹びこの訟に還って 人生警に悩む衆生を
救済したいと願う心(
回向発 心願)であります。いいかえま
三には
諸仏の証誠をも信ずることまでもふくめているのです。
安心の三つの心のもち方であります。
、
、
内容をもつのは
、
それに二つの商
、
、
楽へ生れたいと願い 極楽に生れたならば
、
、
三心とは
一には まごころ 真実の心(至誠心)であり
ます。信仰にと って まごころが必要なことは
いまさら言
、
、
といいますと
うまでもありません。こに 深く信ずる心(探心) でありま
す。なにを謀かく信ずるか
、
があります。一つは信機といって 機根の無カ さを信ずるこ
、
み仏の本願の救済カによらな
水述に 人生の苦しみよりぬけでるこ
、
替導大師からそっくりうけつが
、
とみきわめることであります。法然上人は
、
、
とです。人聞の現にあるそのままの姿を如実にみきわめて
、
常に流転して
、
自身は煩悩具足の凡夫であり
ヴれば
とができない
ありのままの人聞の見方を
れたのです。
、
ありましょう。ゆえに、念仏称名は一生涯を通じておこなう
、
つg に 探く信ずる心の第二の面は 信法ということであ
ことが大切であります。うやまい(恭敬修)念仏を中心とし
、
.
四十八願をも って衆
、
実人生の在り方と
、
らかな澗いを味得することができるのであります。
、
修〉の実践過程のなかに 私たちは
安
、
と深く信じて疑わないことでありま て(無余修〉たえまなく(無間修)一生涯を通じて(長
、
阿弥陀仏の本願によって 念仏を称えるも
、
必ず救済される
、
ります。それは
のは
す。これも善導大師の
「決定して深く信ぜよ かの阿弥陀仏
、
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