応用力学研究所研究集会報告 No.17ME-S2 「非線形波動および非線形力学系の現象と数理」(研究代表者 梶原健司) Reports of RIAM Symposium No.17ME-S2 Phenomena and Mathematical Theory of Nonlinear Waves and Nonlinear Dynamical Systems Proceedings of a symposium held at Chikushi Campus, Kyushu Universiy, Kasuga, Fukuoka, Japan, November 9 - 12, 2005 Article No. 09 確率共鳴による微弱信号検出と その応用 石渡 信吾(ISHIWATA Shingo),小泉 一弥(Koizumi Kazuya) (Received March 1, 2006) Research Institute for Applied Mechanics Kyushu University May, 2006 確率共鳴による微弱信号検出とその応用 横浜国立大学大学院工学研究院 石渡信吾(ISHIWATA Shingo) 横浜国立大学大学院工学府 小泉一弥(KOIZUMI Kazuya) 確率共鳴によれば、閾値応答素子の並列化によって、それらの応答の集合平均として、ノ イズに埋もれた微弱信号波形を再現できる。まず、電気回路による予備実験でこれを示す。 次いで温度計測への応用を試みるために、16ch の熱電対温度測定系を構成し、微弱な温度変 化の測定を行った。各 ch の応答特性を揃えることによって、確率共鳴による集合平均の効果 を確認することができた。 1.確率共鳴 確率共鳴(Stochastic Resonance)は 1982 年、大氷河期の周期的到来を説明するために導 入された概念であるが1)、その後、電気回路2)やレーザー系でこの現象の存在が確認された。 さらに、1993 年、ザリガニの尾の有毛細胞における刺激応答において見いだされた3)。初期 には双安定系の力学モデルが提案されたが、生物系、特に神経系への拡張に際して、単安定 系で議論されるようになった。ここでは単安定系の確率共鳴について簡単に触れておく。図 1に示すような、閾値 U0 を持つ単安定系(興奮系)を考える。信号が閾値を越えるとこの系 は励起し、しばらくして基底状態に戻る(パルス応答)。しかし閾値以下の信号に対してはこ の系は応答しない。ここにノイズを付加する。ノイズ強度を徐々に大きくしていくと、ノイ ズが閾値を越えてパルス応答するようになる。その応答は一見ランダムであるが、長時間計 測すると、信号に確率的に同期していることがわかる。(共鳴より同期という方が適切であ る。) これは、信号に重畳したノイズが信号の山で閾値を越える確率が高くなり、信号の谷 でその確率が低くなることを反映しているからである。さらにノイズ強度が増すと、信号の 山・谷に関係なくノイズが閾値を越えるようになり、応答は信号と同期しなくなる。このよ FFT N S/N 信号周期を検出 図1 単安定系における確率共鳴 -1- うに同期には最適のノイズ強度が存在する。このことを定量的に見るには、長時間の応答パ ルス列をフーリエ変換して、背景ノイズ N と信号の周波数成分 S との比 SNR を求め、ノイズ 強度 D に対してプロットすればよい。理論的には、 SNR ∝ (AU0 /D )2 exp(-U0 /D ) (1) で表される上に凸の曲線となる。ここで A は信号強度である。確率共鳴で特に強調されるの は、SNR 曲線のピークに至るまでの領域(D<D *)である。すなわちノイズ強度を増すと SN 比 が向上する領域が存在するということである。このことから確率共鳴は、閾値応答素子にお いて、閾値以下の信号にノイズを付加することで検出可能にする現象と捉えることができる。 2.Collins 2.Collins らの方法 1素子では高々、周期信号の周期が得られるのみである。そこで J. J. Collins らは信号 波形そのものを検出する方法を提案した4)。閾値応答素子を多素子化して並列処理すること で波形を再現するのである(図2) 。信号 S(t)を N 個の閾値応答素子 EUi に入力する。入力の 直前で N 個の独立なノイズξi(t)を付加する。そしてそれぞれの応答パルス列を加算器Σで 足し合わせる。彼らは閾値応答素子としてニューロンの FitzHugh-Nagumo モデルを用いた。 ノイズは gaussian white noise である。また信号 S(t)は 閾値以下の微小信号であり、その 変化は応答パルス幅に比べて十分緩やかであるとする。このとき、入力信号 S(t)と応答パル ス列の和 RΣ(t)との相関 C3 がノイズ強度に対して上に凸の曲線を描くこと、素子数 N の増加 。 に伴って最適ノイズ強度以上の領域で相関 C3 の減少が抑えられることを彼らは示した(図3) シミュレーションの結果、N=1000 ではほとんどのノイズ強度で高い相関(C3~1)が得られる ことがわかった。1素子の確率共鳴では実用上ノイズ強度を最適値にチューニングする必要 があるが、この方法ではチューニングを必要としない。彼らはこれを”Stochastic Resonance without tuning”と称した。またこの方法は周期信号だけでなく非周期信号に対しても有効 である。 図2 図3 ノイズ強度と相関 C3 A summing network (文献 4)より転載) (文献 4)より転載) -2- 3.電気回路による模擬実験 Collins らの方法を確認するため、次のような模擬実験を試みた。1素子の閾値応答素子 を使い、その応答の時間平均によって信号の再現性を調べた。閾値応答素子にはオペアンプ による単安定回路(閾値+0.5V)を用い、デジタルオシロスコープで入力信号および出力信号 を測定した。用いたデジタルオシロスコープの縦軸の分解能は 8bit である(1div を 25 分割) 。 任意波形発生器によりあるパターンの信号波形を周期的に生成し、これにノイズ発生器から 得られるノイズを付加し、信号波形と同じタイミングでオシロスコープに取り込む。図4で は、オシロスコープの1画面に2波形が収まる時間スケールで測定した。図4(a)はそのシン グルショットである。最上段は信号に同期したトリガー信号である。この立ち上がりを基準 に掃印する。2段目が信号波形で、3段目はこれをノイズに埋め込んだ波形である。信号に 対して約 20 倍のノイズを付加している。4段目が単安定回路の応答波形である。それぞれの 目盛りは上から 10V/div, 0.2V/div, 5V/div, 10V/div である。応答パルスは信号の存在し ない部分にも現れ、この単独の応答からは信号波形は読みとれない。図4(b)は図4(a)のよ うなシングルショットを 50 回平均したものである。平均にはデジタルオシロスコープ特有の アベレージング機能を使った。各ショットは信号に対して同じタイミングで取り込まれるた め、信号はコヒーレントである。これに対してノイズはインコヒーレントであり、各ショッ トで異なる。すなわち同一の信号に独立なノイズを付加したことに相当し、各ショットは 50 素子の応答を模擬する。図4(b)の4段目の波形が図2の RΣ(t)に対応する。入力信号の上半 分をよく再現している。 (これは上に閾値のある素子で受けたことによる。下半分を再現する には下に閾値を持つ素子で受ければよい。) 一方、単安定回路を通さず単純に平均したもの が3段目の波形である。ノイズが非常に大きいため、通常の平均化ではノイズは除去できな い。単安定回路を通した方が遥かに再現性がよいことがわかる。この結果は Collins らの結 果をよく表している。 trigger signal Signal +noise output (a) single shot (b) average (50) 図4 確率共鳴の時間平均 -3- 4.温度計測への応用 Collins らの方法を実際の微弱信号検出に応用することを考える。ここでは測定対象に温 度を選び、素子数 16ch からなる温度測定系を構築した。温度センサーには銅-コンスタンタ ン熱電対を用い、室温付近の水槽の温度変化を計測する装置を作製した。1系統の測定回路 は、熱電対の熱起電力を増幅する回路(増幅率 2000 倍程度)、ノイズ源にトランジスタの熱 ノイズを使ったノイズ発生器、これらを加算する回路および閾値応答回路から成る。閾値応 答素子にはオペアンプの基本動作であるコンパレータ回路を用いた。これを 16 系統用意し、 それらの出力の平均を取る。熱電対の出力を増幅した後に現れるノイズと同程度の強度のノ イズを付加した。ノイズのスペクトルは温度変化の時間スケールでは十分フラットであり、 各系統で独立である。すべての熱電対の測温部は水中で接近して配置されており、温度変化 の信号は各系統でコヒーレントであると考えてよい。恒温部は 16ch を束ねて断熱材で覆った。 その温度変化は測定中、十分に一定とみなせる。装置の概略を図5に示す。 T 16ch To 図5 16ch 温度測定系 まず、1系統のコンパレータ動作について説明する。ここで用いたコンパレータは閾値 0V で、正の入力電圧に対しては+15V(飽和電圧)を、負の入力電圧に対しては-15V を出力する。 (a) T > To (b) T~ ~To 図6 コンパレータ動作 -4- (c) T < To 図6は測温部の温度 T が一定の場合における ch1 のコンパレータ前後の波形とそれらの和で ある。1段目は ch1 のコンパレータ前(入力)、2段目は ch1 のコンパレータ後(出力)、3 段目はコンパレータ前の 16ch の和、4段目はコンパレータ後の 16ch の和である。図6(a) は恒温部の温度 T0 より測温部の温度 T が高い場合、図6(b)はほぼ等しい場合、図6(c)は測 温部の方が低い場合である。各図の2段目に注目すると、(a)では上側の+15V にある確率が 高く、(c)では下側の-15V にある確率が高い。中間の(b)では±15V をほぼ同じ確率で変動し ていることがわかる。 各コンパレータ動作を統合し、水槽の温度変化の測定を試みた。温度変化は白金抵抗体で モニターし、16ch 温度測定系と比較した。0.2℃の温度変化を与えたときの 16ch 温度測定系 の応答を図7に示す。各段の波形は図6と同じである。温度上昇に伴って、ch1 のコンパレ ータ出力が-側から+側にシフトしていく様子がわかる。3段目のコンパレータ前 16ch の和と 4段目のコンパレータ後 16ch の和に対して、傾きΔV とノイズ強度 D の比ΔV/D(SN 比相当) を比較すると、コンパレータ前で 2.8、コンパレータ後では 7.9 となり、2.8 倍の SN 比の向 上がみられた。すなわち、通常の平均化よりもコンパレータ回路を介した平均化の方が SN 比 は高く、Collins らの方法の有効性を示している。 ch1 前 ch1 後 Σ 前 2.8 Σ 後 7.9 図7 温度変化の検出 しかし実験の当初、コンパレータ後の和に対してこのような SN 比の向上は得られなかった。 その理由は、付加したノイズに偏りがあり、その直流成分がコンパレータ動作を正または負 に偏らせていたためである。これにより、実験的に与えた温度変化の範囲では半数の素子し か正常なコンパレータ動作を行っていなかったことがその原因と考えられた。図7の結果を 得るためには、ノイズジェネレータの off-set 調整が必要であった。Collins らのシミュレ ーションではノイズに偏りはなく、すべての閾値応答素子は同等の動作をするはずで、この -5- 場合はノイズの強度も off-set も調整は不要である。これに対して実際の測定系では、 off-set の調整は不可欠である。一方、素子数が十分であれば、このバラつきは必ずしも不 利にはならない。正に偏った素子は低温側でコンパレータ動作をし、負に偏った素子は高温 側でコンパレータ動作をすることによって、バラつきは逆にダイナミックレンジを広げる効 果を持つと考えられるからである。 5.まとめ 電気回路における模擬実験では、Collins らの方法、すなわち確率共鳴の平均化の効果が 顕著に現れた。実際の温度測定においてもその有効性を示すことができた。しかし素子数が 限られていたため、素子のチューニングが必要で、”without tuning”とはならなかった。 Collins らのシミュレーションのように数 100 素子になれば”without tuning”が実現する ものと思われる。 以上の結果をザリガニの立場で眺めてみる。ザリガニの尻尾に生えている毛の本数が有毛 細胞の数であり、閾値応答素子の素子数にあたる。Moss らは、有毛細胞は他の体細胞より noisy であると報告している5)。個々の素子に付加されるノイズは外敵のバスが出す接近音に 重畳される環境ノイズというよりは、むしろこの細胞内部のノイズである可能性が高い。わ ずか 1cm 四方の尾部に密集する有毛細胞に独立な環境ノイズが付加されるとは考えにくいか らである。また、個々の有毛細胞は、その数が十分であれば、同一の性能にチューニングさ れるよりは、バラついていた方が広いダイナミックレンジを覆うことができ、かえって有利 であるかも知れない。個々の特性を精度よく揃えるより、バラつきがあっても数で補う。生 、7),8) 物にとって確率共鳴は非常に好都合な方法ではないだろうか 6)、7), 。 最後に一つの疑問を挙げる。閾値応答素子は入力信号を2値化する。そもそも、 「なぜ2値 化させた方が SN 比が高くなるのか?」 物理的に納得できる説明はまだ得られていないよう である。 参考文献 1) R. Benzi, A. Sutera and A. Vulpiani, J.Phys.A 14, L453 (1981) 2) S. Fauve and F. Heslot, Phys. Lett. 97A, 97A 5 (1983) 3) K. Wiesenfeld and F. Moss, Nature 373, 373 33 (1995) 4) J.J. Collins C.C. Chow and T.T. Imhoff, Nature 376, 376 236 (1995) 5) F.モス、K.ビーゼンフェルト:日経サイエンス 10, 10 126 (1995) 6) E. Simonotto et al., Phys. Rev. Lett. 78, 1186 (1997) 7) D.F. Russel et al., Nature 402, 402 291(1999) 8) A. Priplata et al., Phys. Rev. Lett. 89, 238101-1 (2002) -6-
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