今年は終戦70周年の節目にあたり、映画界では半世紀ぶりに「日本のいちばん長い日」がリメイクされた。 67年の東宝版は原作どおり7月26日のポツダム宣言受電から始まり、岡本喜八監督は天皇の聖断で粛々と 無条件降伏の手続きを進める政府と、なんとしてもこれを阻止し本土決戦に持ち込もうとする軍部強硬派の 対立をドキュメンタリ・タッチのみごとな群像劇に仕上げた。 今回の松竹版(原田眞人監督)は、鈴木内閣誕生前夜から描いている。冒頭、首相を辞した東條英機陸軍 大将が次期首相候補の鈴木貫太郎海軍大将に「海軍出身の総理では陸軍はソッポを向きますよ」と忠告す る。やにわに奥から大の東條嫌いとして知られる重臣の岡田啓介海軍大将が出てきて東條を痛罵する。両 者とも東條の大先輩である。これは原作にも旧作にもない場面だ。それから、東條が参謀本部の若手将校た ちを鼓舞して本土決戦を煽るとか、無条件降伏を決断した天皇に直接まみえて撤回を求め逆にたしなめられ 東條英機 る場面が出てくるが、いずれも原作、旧作にはないエピソードである。なぜ東條を持ち出したのか。 そこで、思い当たるのは78年のA級戦犯の靖国合祀。旧作が撮られた時点ではまだ合祀の話は出ていなかった。元侍従の日 記によると天皇は合祀に不快感を示したといい、東條に対してあまりよい感情をもっていなかったようだ。原田監督は昭和天皇と 東條の確執を描きたかったから原作にないエピソードを挿入したのではないかと私は推察するのだ。それで、天皇は合祀が行わ れて以降、靖国神社への参拝をやめてしまった。おそらく、天皇は自身の戦争責任を痛感していて、それゆえにA級戦犯の罪業を 重く受けとめていたのではないか。今上天皇もまた平和憲法を誰よりも深く理解し機会あるごとに二度と戦争の過ちを繰り返して はならないと衷心から誓いの言葉を口にされる。困ったことにその大御心をわからない連中がいる。 ところで、気になったのは新作では昭和天皇や阿南惟幾を美化しすぎた一方、東條や大西瀧治郎海軍中将を極端な悪役とし て描いている点。大西は特攻の考案者として悪名高い人物だが、旧作で扮したのは知的な二枚目役の多かっ た二本柳寛。狂気じみた2,000万人の特攻作戦を主張する一本気で極めて単純な熱血型軍人を滑稽気味に熱 演した。ここは客観的に描いて、自然と観客に反感をもたせるというのが正しい方法だった。 新作は原田監督自身が脚本を書いていて、登場人物を絞り込んだことでかなりプライベートなエピソードまで書 き込んでいるが、政治史の実録ものとしては首をかしげざるを得ない。原作がNHKの大河ドラマみたいに小説 ならそういう描きようもあるだろう。しかし、これはノンフィクションであるから旧作のごとく淡々と事実のみを描写 すべきだった。原田監督はオーソドックスで丁寧な映画作りでは定評があり、「駆込み女と駆出し男」(15年)の ような江戸の庶民生活の喜怒哀楽を描かせると実にうまい人だから惜しい気がする。旧作は黒澤明作品の脚 本で名高い橋本忍が2時間40分という長尺を飽かせず、原作に忠実にうまくまとめたといってよい。 旧作にあって新作にないのが役名を示す字幕である。新作ではこれが省かれたために気をつけて台詞を聞い ていないと人物が誰なのかわかりにくい。旧作では登場人物が多いということもあって、ひとりずつ字幕で紹介 阿南惟幾 した。のみならず仲代達矢のナレーションまでついたのは親切だった。 天皇の描き方が今回は大きく違った。旧作の天皇(先代の松本幸四郎)はほとんど後姿と声だけの登場だった。当時まだ昭和 天皇は存命中だったこともあるので、描写にはことのほか配慮したのだろうが、天皇の言行がいろいろと明らかになるのは崩御の あとだったという事情もある。新作では本木雅弘の天皇は出番も台詞も多い。天皇が帝国ホテル爆撃の報に接し、阿南陸相の娘 の結婚式をどこで行うのだろうと気遣うエピソードが設けられていて、これもどうかと思った。 最後に配役について不満を述べたい。旧作は阿南陸相に三船敏郎、対立する米内海相に山村聰、鈴木首相に笠智衆、東郷 外相に宮口精二、下村情報局総裁に志村喬、森近衛師団長に島田正吾、田中東部軍司令官に石山健二郎、決起する青年将校 に黒沢利男、高橋悦史といった具合で、天皇以下錚々たる顔ぶれだった。ところが、新作は天皇以外では 阿南が役所広司、鈴木が山崎勉、迫水書記官長が堤真一、青年将校のひとりが松坂桃李というあたりが大 物級で、あとは知名度の劣る俳優が扮した。せめて、何かというと阿南と対立する米内光政には大物俳優 を起用して欲しかった。それと、鈴木にしてみても、つかみどころのないとぼけた味は笠智衆のほうが実物 に近く、山崎努ではあまりに剛健に見える。実際の鈴木貫太郎は、ポツダム宣言を受諾して戦争の早期終 結を望む天皇の意思を汲んで、これに徹底的に抵抗する軍部強硬派を相手にふにゃふにゃ言いながら、 結果的に無条件降伏という結論に持っていってしまうのだから、その飄々とした人柄が「忠臣蔵」の大石内 蔵助ではないが周囲を油断させたのである。 当初大宅壮一名義で刊行された原作を実際に書いたのは半藤一利であった。原作が描きたかったの は、今日の日本の繁栄があるのは天皇およびその側近、外務省など無条件降伏受諾派の献身的な努力が 鈴木貫太郎 本土決戦、1億玉砕を主張する軍部の抵抗に阻まれながらも最終的に主導権を握って和平を勝ち得たから だということだろう。歴史にもしもは禁物だとはいえ、阿南陸相が最後は天皇の聖断に従い自決したが、そう でなく万一陸軍のクーデターに与していたなら和平は実現しなかっただろう。あるいは、鈴木首相が陸軍の横槍にくじけて内閣を 投げ出していたとしても同様である。さらに、戦前の超エリート集団であった軍部がそれ故に暴走を重ねた結果、理性と自浄能力 を失って行く過程も描きたかったことのひとつだろう。ただ、軍人の本分は天皇制の護持と国防すなわち国土と国民を守ることで あって直接政治に首を突っ込んではいけないという建軍以来の美風が鈴木や阿南、米内の肌身に染み込んでいて、クーデター許 すまじとの気概が押し寄せる障害を乗り越えるエネルギーになったことは間違いない。まだ、多くの将軍の心の中に立憲君主制と いう明治の精神が生きていたのである。(2015年9月1日)
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