2010/03/14糸数慶子氏講演録

NPO日野・市民自治研究所 九条と基地を考える研究会
2010 年 3 月 14 日 14 時~ 於日野市勤労・青年会館
第3回基地問題連続講演会
平和を希求する沖縄県民の心を語る
参議院議員 糸数 慶子
はじめに―平和ガイドから政治の世界へ
皆さん今日は。ご紹介いただきました糸数慶子でございます。初めてお目にかかる方もいらっしゃる
と思いますが、私がバスガイドで、まだ沖縄でバスに乗っていろんな所をご案内していたときからお目
にかかった方も今日この会場にいらっしゃいますし、そういう意味では永い永いお付き合いで私を支え
てくださった方もこの会場にいらっしゃいます。ご紹介いただきましたように、もともと私は沖縄県の
読谷村という基地問題や沖縄の戦跡の話になると、必ずこの名前がでてくるところでございますが、読
谷村の生まれで1947年生まれです。今年で62歳ですが、子供が3人、女の子ばっかりですが、い
ま孫が4人います。間もなく5人目の孫が生まれる予定でありまして、沖縄の地で生まれて、沖縄に育
って、そして平和ガイドとして、バスに20年ほど乗っていました。お陰さまで観光バスに乗っていた
関係で、全国の方々と触れ合うチャンスが20年ほどありました。で、ちょっとオーバーかもしれませ
んが、全国だけではなくて海外からも勿論通訳つきではありますけど、香港やシンガポール、韓国、台
湾、東南アジアの、勿論中国の方も、沢山の方々にお会いするチャンスもございました。思いもよらな
い観光バスのガイドから県議会へと、私の人生の設計の中には全くなかったことなんですが、1992
年沖縄県議会議員として沖縄の地元のローカル政党であります沖縄社会大衆党から3期連続で働かせて
いただきました。その後、参議院議員に当選いたしましたが、任期半ばに大変な仕事を仰せつかりまし
て、沖縄県知事選挙、今の仲井真知事と争いました。残念でしたけど、準備期間のほとんどない状態で、
11月の選挙に9月の下旬に君が出なさいということになりまして戦いました。
でもこの後、再び参議院議員としていま国会の方に戻ってきておりまして、今日このようにして皆さ
んにお話させていただけることを大変感謝しております。私自身の一つの目標といいましょうか、先ほ
どのジュゴンの海をみておわかりだと思いますが、ほんとに美しい、涙が出るほど美しい、のっけから
こんなことをいいますと、すっかりうけるかも知れませんね。とても大変な危機に瀕している沖縄の海、
でもいま大変な状態です。
今日ここに、今朝8時の飛行機で、那覇を飛び立ちまして羽田には10時40分ぐらいの到着で、1
時間以上電車にゆられてこちらに参りましたけど、今朝の沖縄の新聞です。琉球新報にこのように載っ
ておりますけど、さきほど皆さんにご紹介ありましたジュゴンの棲んでいる大浦湾、あの海も沖縄県民
にとってそして皆さんにとっても、世界の自然を大事にする方々にとっても、とっても大事な海なんで
すね。ジュゴンがあぁいうふうに棲息している素晴らしい海ですけど、この辺野古の海だけではなくて、
沖縄の海も陸地も狙われてきています。大変怒りがこみあげてまいりますけど、海を見ていますと、や
っぱりあぁいうコッコさんがズゥット、テレビの中にでてきたジュゴンに対する語りを、そして最後に
は沖縄の歌を唱っていましたけど、あの歌を私の祖母はいつも唱っていまして、101歳で亡くなりま
した祖母はとても元気者でいつも私たちを寝かしつけるときに、あういう歌を唱って、歌の意味はあな
たのお母さんはどこにゆくの、
(……沖縄の歌をうたう)沖縄の歌は講演で私は唱ったことないんですけ
ど、あの映像に触発されまして、涙がでてくるのも祖母がダブリました。私の祖母も息子をやっぱり戦
場に陸軍としてとられて、摩文仁で一人の息子を亡くしています。
私の父は防衛隊にとられて、無事に帰りましたので、私がこうやって戦後2年目で生まれてきており
ますので、私はこのように元気でおりますけど、わたしの従兄はこの歌の中にありますようにあなたの
お母さんどこに行くのと問いかけたら、私のお母さんは山羊の草刈りに行くんだよと答えて、その山羊
の草は春先のあの野山に若い新芽の草を刈って、そして山羊のえさにあげるよ、コッコさんはこの中に
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コッコって囃し言葉がありますけど、ここからとって名前を名付けたという沖縄では良く知られている
シンガーソングライターですが、彼女の歌を聞きながら思ったことは101歳で亡くなった祖母や、も
う亡くなって30年以上もたちます私の両親もそうですけど、ほんとに沖縄戦の犠牲になった県民のど
なたも沖縄の戦争を体験された方は家族の一人か二人、あるいは一家全員亡くなったお家のあるぐらい
戦争の犠牲になっています。あの祖母がいつも語っていたのは村の中に戦争に行くのを棄避してご自身
の手の、小指の関節といいましょうか筋といいましょうか、そこを傷付けて戦場にいけないように、ま
ず鉄砲をもてないように、そんなふうにしてでも抵抗して戦場に行かない人がいたんだよと101歳で
亡くなった祖母はずぅっと話してくれていました。
それから私と両親は先ほどいいましたように、沖縄戦には父は防衛隊としてとられていったんですけ
ど、亡くなった伯父は、ちょうどサトウキビ畑の歌とまったく一緒なんですね、私の従妹はちょうどお
母さんのお腹の中に身ごもったあと、お父さんは戦場に行ってますから、彼女が生まれた時には、この
お父さんはこの世には存在しなかったんです。ですからサトウキビ畑の歌の中にザワワザワワというそ
の歌の歌詞にあるように、抱かれたことはないけれど自分のお父さんの声がどこかで聞こえてくるよう
な気がするというのは、まさに私の従妹も同じような思いをもって沖縄戦を、ほんとにまあ残念ながら
父親は戦争が終わっても戻ってこなかったわけですが、私の家にそのお母さんと従妹は戦後しばらく一
緒に暮らしました。ですけどやっぱりお母さんもまだ若い、そして赤ちゃんも成長していく中で親子だ
けで暮らせないからというわけで再婚を、叔母は再婚されたんですが、彼女は私より2歳先輩なんです
ね、戦争中に生まれていますので、父親の存在は私にはないよと彼女はいつもいっていましたけれど、
一つだけ語ったエピソードが、その沖縄戦が終わって彼女が嫁いでから訪ねてきた方がいて、実はあな
たのお父さんに摩文仁の濠の中で助けられたっていうおばあちゃんが訪ねてきたそうです。そしてあな
たのお父さんのご仏壇に線香をぜひとも上げたいからって言ったときに初めて彼女はさめざめと泣きま
して、私にも父親がいたんだねっていうふうに言ってました。
で、私たち一緒になって、私は両親に恵まれ父も無事に帰ってきましたが、彼女は写真でしか父親を
知りませんので、一緒に沖縄南部の健児の塔に降りて行く坂の途中に風部隊の慰霊の塔があるんです。
日本陸軍の中の亡くなった方々が刻銘されている碑があるんですけど、私たち兄弟家族そろってそこへ
いって、彼女の父親の名前、伯父の名前が刻まれているところに、彫られているところに手をあてて、
一緒に泣きました。沖縄戦というのはそんなふうにして家族、誰か必ず犠牲者がいるんです。
私がいま皆さんに伝えたいのは、また戦争するような日本の国に戻すんですかということなんです。
基地は何のために必要でしょうか。基地はやっぱり戦争のために、戦争を準備するために、その訓練を
するために必要であるということは申し上げるまでもないことです。平和のために戦争するんだとか、
あるいは見えない敵を想定してその準備をするんだというんですけど、ほんとに北朝鮮の脅威であると
か、中国や台湾海峡の脅威とか、いま戦争したい人たちがおっしゃるんですけど、そういうのがいまほ
んとに必要なんでしょうか。
突然浮上した勝連沖埋立て案
今大変心配しておりますのは、さきほどの映像にでてきました名護市の大浦湾というのは、こちらに
なるんですね(地図を指しながら)
、いま米軍の基地がこちらにありまして、最初はキャンプシュワブの
この辺りから海上に基地をつくるということでしたが、今話がでておりますのは、陸上案といいまして
キャンプシュワブという基地の中の陸上部分に基地をつくろうという話がつい4日前までは新聞を騒が
せましたけど、今日さきほど新聞を紹介しましたのはまた新たに別の基地がここを(地図を指しながら)
埋め立てて浮上してきたんですね。勝連沖に基地をつくるといってもピンとこないと思いますが、この
場所は、沖縄本島の中部にうるま市というのがございますが、うるま市は合併になりまして、ここに津
堅島という人参の産地として知られていますけど、そこの潟を埋め立てしまして、こちらですね。沖縄
の米軍の基地はこの那覇の空港に一歩降り立ったらお分かりだと思いますが、那覇空港のすぐ横に自衛
隊の基地があります。いまの那覇空港は軍民共用で自衛隊といっしょに使っていますが、すぐ横に港が
ありまして、那覇港は復帰のときに軍港は返還されるという予定だったんですが、返還後ここを民間の
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大きな貿易港として使っていくということで、歴代の県知事、勿論復帰したのは1972年ですから、
その前は県知事ではありません、行政主席といっておりまして、屋良行政主席、知事になられる前は行
政主席で、はじめて1972年復帰して県民によって、選ばれた県知事として誕生しましたけど、屋良
主席から屋良知事になったときに、ここの那覇港は返還される予定だった。ところが返還されずに、遊
休化した米軍の使っている那覇軍港、そして民間で使っております那覇港、ここは軍民共用ですが、そ
こを返還するから、その代わりホワイトビーチというアメリカ軍の使っております軍艦の入る、原潜も
入ってくるようなホワイトビーチのすぐ横にある津堅島付近の海を埋め立てて、ここに今問題になって
おります普天間の基地は移すということが、実は平野官房長官やいまの内閣のなかでは、こういうふう
な案もあるよということが出はじめております。
昨年、私たちが政権交代したいということで、うんと運動して沖縄では1区から4区まで、衆議員選
挙は自公政権以外の候補者が勝ちました。鳩山首相も北部の第3選挙区においでになったときには、少
なくとも県外ですということをはっきりおっしゃって選挙を戦ったんです。勝ちました。結果どうでし
ょうか、この6ヶ月間の鳩山内閣の迷走ぶりというのはもう申し上げるまでもありませんけれども。と
りわけ名護市長選挙が今年の1月にありまして、勝ちました。稲嶺さんという素晴らしい市長さんが誕
生しました。実は昨日、ジュゴンが棲んでいる大浦湾を目の前にして、辺野古地区では新しい市長を囲
んで、こちらに新しい基地を移さないという、200人余りの人が集まって大きな集会といいますか、
市長当選のお祝いと私たちの運動に対する、一応「海上案」というのはいまのところ消えましたという
ことになっているので、このことを地域の坐りこんでいる住民のお年寄りの方や、運動家の皆さん、世
界からジュゴンの海を守ろうというふうにエールを送り続けている方々といっしょになって大きな集会
があったわけですが、そのこともことごとく否定されようというのが、実は国会の大きな動きなんです
ね。
改めて皆様に申し上げますのは、政権が変わったということに対する県民の期待がもし裏切られると
いうことになれば、沖縄の県民はそのまま黙ってはいないというのが、つい先週のことでした。私も含
めて沖縄県選出の国会議員は、与野党問わずに一緒になって沖縄県議会の皆さんと一緒に、県議会で採
択されました決議文をもって、11日です。国会、それこそ政務三役を含めて沢山の政策を決定する方々
に沖縄の思いを受け止めてくれということで、行動を展開したのですが、正直言いまして、どなたから
も、沖縄の県内に基地は造らせませんよという決意は聞かれませんでした。ほんとに残念ですが、結論
から申し上げますと、この言葉の端々に皆さんのおっしゃることは理解していますとか、あるいはその
決意は受け賜ってちゃんと上に伝えます、あるいは検討委員会ができていますから、そこに提案して3
月いっぱいに政府案は決まりますのでということで、ある意味で体よくといいますか、ほんとに丁寧に
受け止めてはいただくのですが。県議会や、県民代表として9名の代表の方々が、勿論自公の方もいっ
しょですが、参りました方々が心強く気持よく羽田から那覇へ帰ったわけではありませんでした。正直
いいまして、民主党の県会議員ですが、もし普天間の基地を県内移設するようでしたら、離党するとい
う決意まではっきりと官房長官にも、前原沖縄担当大臣にも申し上げて、帰ってまいりました。そうい
う状況から考えていきますと、今日日曜日お忙しい中を私の話を共有しようということで集まっていた
だいたことに心から感謝申し上げます。
残念ながら国会のなかでも、参議院242名、衆議院480名いらっしゃいますけど、そのなかに、
沖縄の県内に普天間の基地を造らせないというふうに、沖縄の県民と一緒に行動できる議員が何名いら
っしゃるかということなんです。結論から申し上げますと、総論はやっぱり沖縄は大変ですよね、戦後
65年間もアメリカ軍の基地を、それこそ復帰後も75%も引き受けるというのはほんとに大変ですね。
騒音の問題からいえば横田もいっしょですし、そしていま沖縄の基地が95年の少女暴行事件をうけて、
現在5つの本土の各自衛隊の基地に演習だけが移転していますよね。北海道・宮城・山梨・静岡・大分、
まあこうやって米軍の基地が沖縄に75%ございますけれど、95年の少女暴行事件のあと、それじゃ
演習の負担は軽減しましょうということで、155ミリりゅう弾砲で山に向かってばんばん実弾を撃ち
込むような演習は本土のいろんな地域に移転しました。移転しましたけれども、沖縄県内でやっていた
演習よりも時間的にはかなり増えているのが実態でありまして、それはその地域、その地域でさすがに
負担であるということもあるわけです。いまの普天間の危険な基地が、世界一危険な基地であるという
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のはアメリカのラムズフェルド長官も認めておりまして、実際に普天間の上空を飛んでアメリカの高官
がびっくりするという大変な基地なんですね。まさか町のど真ん中に、こういった飛行場が存在すると
いうのはアメリカにはない、私も実際アメリカへ行って見ておりますけれど、民間地域とはかなりかけ
離れて米軍の基地が存在しますから、アメリカではこういう基地が閉鎖されるよといったら、その地域
の方は反対をして、どうぞおいで下さいと。ただし、なぜこういうことを言うのかという意味がよくわ
かりました。サンフランシスコでもデンバーでも、どんなところへ行きましても町と無縁なところに基
地がありますから、民間の人と直接関係がありませんので、基地が去ってしまっては困るんですね。で
すから基地は存続してほしいというのが、私たちがいろんなところを見てまわった状況なんです。普天
間の基地はそうではありません。ご覧になっておわかりだと思うのですが、ほんとにフェンスひとつに、
もう目の前に小学校がありますし、沖縄国際大学があります。おわかりだと思いますが、5年前にヘリ
が墜落いたしました。ほんとに死者が出なかったのが奇跡だと思うぐらい、民家と隣り合わせに学校が
あり、学校の隣に、もうほんとにこう離発着するヘリコプターの兵士の顔が見えるようなところにお家
があるわけですから、それを考えてみますと、危険と隣り合わせになっている基地をどうぞ自分のとこ
ろに持ってきてくださいという方はいらっしゃらないのです。実際にはパフォーマンスでいろいろおっ
しゃいますよね。税収がよくなるからとか、補助金がここにくるのでどうぞと声をあげるんですけれど、
じゃ具体的にそこへ話をもっていったら、地域住民が反対しているからということで、結論から申し上
げますと、総論賛成各論反対ということで、ですからいま、社民党、国民新党、勿論民主党も、一緒に
なって各地域を探してみたけれど、普天間の代替基地はどこも受け入れないというのが現状ですね。東
京に受け入れていただけませんか。
海兵隊はもともと沖縄にいまの数がいたわけではありません。復帰前、沖縄はなんといって本土復帰
をしたのでしょうか。お分りの方いらっしゃいますか。核抜きですね、沖縄を揺るがしたあの復帰19
72年です、沖縄の県民はとっても喜びました。あの当時は100万人県民ですから、沖縄県民の運動
を屋良知事を先頭にして、それこそ全国を行脚してまわって、沖縄の基地の実情を訴えて、多くの国民
の皆さんが一緒に闘っていただきましたが、まあそのなかで、復帰が実現するという私たちのスローガ
ンといいましょうか、目標が「核抜き、基地抜き、本土並み」ということで、確かに100万県民は本
土に皆さんに訴えて運動しました。1972年忘れもいたしません、土砂降りの日でしたが5月15日、
県民は復帰に対する強い憧れをもっておりましたので、復帰が実現するということを大変喜びました。
醜い日本人―変わらぬ基地被害
でも一部の学校の先生方を中心とした市民の中には、運動をしていらっしゃる方々の中には反対をし
て与儀公園で雨の中をシュプレヒコールをあげて、こういう形の復帰は反対だという声があったことも
事実です。それはこれからお話いたしますけれど、まさに若泉敬さんが、なくなられましたが、
「他策ナ
カリシヲ信ゼムト欲ス」のあの著者です。佐藤栄作さんの密使となって、アメリカに渡っていたあの方
が、ほんとにおっしゃいましたように10年たち、20年たち、30年たてば、おそらく自分は密使と
してアメリカへ行ってほんとに水面下で密約を結ぶために駆けずり回ったけれども、その駆けずり回っ
たことが必ずや県民にとって最終的にはいい方向にいくだろうと信じて他策はないということを信じて、
この復帰調印するために駆けずり回ったわけですが、10年たっても沖縄の基地は減らない、20年た
っても減らない、果ては95年の少女暴行事件、3人の米兵が小学校5年生の女の子をレイプした。と
にかくそういうふうなちぃっとも変わらない現状を憂れいて、彼は沖縄県にきて、大田知事にも手紙を
差し上げたそうです。大田知事が県知事時代にあの平和の礎を造られて、沖縄の南部の摩文仁の丘にい
かれた方ならお分りだと思いますが、敵味方を超えてこういう愚かな戦争はしてほしくないということ
で、23万人もの多くの方々の名前を刻銘した平和の礎がございます。そこでほんとに死のうと思った
ようなんですね。自分のやった行為が、密使としてアメリカに行ってやった行為がほんとに正しかった
んだろうか、復帰後もずっと苦しめている基地の実態を思ったときに、自分が県民のためにやった行為
は、結局は県民を苦しめることに繋がっているんだということで、そこで自決をされる、言葉は少しち
がうかもしれませんが、死んでしまいたいとほんとに思ったようですが、ところが死ぬこともできずに、
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与那国島までいかれて、彼がやっぱり自分で書いたその本を英訳して、それを仕上げて、それをアメリ
カの人にも是非読んでほしいということで、実際に、福井県の実家にお帰りになった時に、その英訳を
してくれた翻訳をしてくださった方々といっしょにお酒を酌み交わしたときに、その水を飲みましょと
いって、その飲んだ水のなかに、実は薬が入っていて、それを飲んで、その場で倒れて亡くなったとい
うことなんですね。結局は、自ら死を選んだということを最近になって、東京新聞の方が新聞にちゃん
と書いておられます。
私どももそれは聞かされていたんですけれども、実際にその息子さんに話を聞いて、そのことが明る
みにでたんですが、皆さんそんなふうなことがあってもなおかつまた、こういうことなんですね。です
から、沖縄のこれまで受けてきた沖縄県民の痛みや県民の思いということは、どうして国策のために、
いつでも翻弄されて、そしていつでも犠牲を被らなければいけないんですか。何故でしょうか。
私は国会にいまして、沖縄社会大衆党という沖縄だけのローカル政党は、今年10月になりましたら
結党60年という節目を迎えます。沖縄ではこういう米軍の基地の存在をみんなで無くしていくために、
沖縄社会大衆党というのが結成されまして、一時期は県知事を擁するような政党になる。もっとも沖縄
の地元の政党ですから、ちゃんとした政党の要件を満たしておりません。国会議員5人がいなければち
ゃんとした政党としての条件を満たすことができませんので、あくまでも政治団体ローカルパーティと
いう位置づけですが、私はそちらから国会へくる時には、まさに民主党、社民党、沖縄のローカルパー
ティである政党そうぞう、そして共産党がありましたが、社会大衆党というのは共産党から民主党まで
ひとくくりにして、沖縄県民の意思を反映させることができるということで、
「平和の一議席」をキャッ
チフレーズに国会へ参りました。
しかし国会にきて思うことは、ほんとの意味で、これだけの国会議員のなかで、やっぱり沖縄の立場
にはある程度の理解は示しても、理解は示しても引き受けようという県や県から選出された国会議員が
いるかというと、いらっしゃらないんです。正直いいまして。
ですからいま、沖縄の復帰から35年という時間の流れのなかで、皆さんから考えたらそんなことな
いだろうと思うかもしれませんが、地元ではもう独立しようかという、ほんとにそうしない限り県民の
思いというのはちっとも実現しないというところなんです、本音を申し上げますと。ただし、130万
という県民がいまして、じゃぁ沖縄が独立したときに財政はどうなるんですか、というところに、言葉
の出したときに、そこに大きな壁が立ちはだかっていますので、このもやもやとした思いや怒りをそう
いう形でぶっつけて、実際に琉球独立をということを旗印に選挙を闘っている方もいらっしゃるんです
けれど、このことも県民にはまともに受け入れらないというのは、やっぱり財政の問題で、そこには大
きな課題が立ちはだかっているからなんですね。
私も沖縄社会大衆党の副委員長として、いま国会に県民の皆さんに送っていただいたことは事実なん
ですけど、やっぱり中央に系列を持っていないと国会の中で発言ができなということもありますし、民
主主義は数の力ということで、その多数派になりきれていないということを考えますと、これだけ県民
から求められて出来上がった復帰政党と一時期いわれた政党なのに、ローカルパーティですが、結局は
復帰直後はみんな本土と系列のあるところへ、大きいところへ向かっていきまして、沖縄のローカルパ
ーティはどんどんどんどん風前の灯といいましょうか、ほんとに気持ちや志をもっているんですけど、
決して無力ではないんですけど、力は微力なんです。
でも、それをなんとか少しでも本土の皆さんに分っていただきたいということもありまして、今日も
実は出てまいりました。勿論活動の拠点は国会でございますけど、国会議員が一人しかいない政党で、
しかも県議会議員が2人減ってしまいまして現在2名、あと市町村議員がいますけど、一時期は県知事
が擁立されて、県議会のなかでも48名中で18名も県議を擁するような私たちのパーティであったん
ですが、どんどん系列化されていく中では、国単位で政治をやっていくところから考えていきますと、
そういう意味の力の無さも感じます。ただし、ここからが大事なんですけど、本土の多くの皆さんにど
んなところからでもお声がかかれば、北海道にも参りますし、沖縄地元では与那国でこういうことをし
た後、与那国から那覇空港に着いて、那覇空港から羽田、羽田から北海道、北海道から京都といったこ
とも経験しており、どこからでも呼ばれたら、行って沖縄の心を伝えていくということで頑張っており
まけど、こんなふうにして集まっていただく方は、今日の皆さんには決して当てつけではありませんの
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で誤解のないように申し上げたいのですが、もう何千人と会場あふれるほど集まることはないのです。
で、100名とか200名、時々は労働組合の皆さんで700~800名ということもございますけれ
ど、やはり大事なんですね、一人でも二人でも呼んでいただければ飛んでいきますよということで活動
しています。
少し話がはずれますが、私が冒頭に申し上げましたは、こういう沖縄の基地がなぜこんな小さな沖縄
に、必ず海上でなければ陸上ということで、沖縄の海でなければ陸というふうに考えていくかというこ
となんですね。で、国会のなかで、あるいは討論会にでて言われることなんですけど、北朝鮮の脅威で
すとか、中国、台湾海峡というふうに言われますと、必ず沖縄は地政学的にという二言目には、どんな
軍事評論家でも沖縄の側に立たない方々は、必ず地政学的にいうことを持ち出すんですね。地政学的に
ということで、北朝鮮ということで話をしていただくのであれば、むしろ沖縄よりも九州の方が近いじ
ゃありませんか。長崎や、あるいは佐賀空港なんてどうでしょうかと申し上げたいところなんですけれ
ど、あまり赤字で飛行機も飛ばないようですので。
それから何日前に開港いたしました茨城もありますし、静岡の飛行機は少ないと聞いていますし、考
えてみますと新たに空港をつくらなくても、すぐ使える空港が本土にはいくらでもあるんです。赤字・
赤字というふうにおっしゃってるわりには、じゃぁ黒字にしたいために、地域の皆さんの命や財産のこ
とはこっちへおいて、財政というのであれば基地を皆さんに買ってくださいと申し上げたいのです。が、
国の補助金付き、その代わり女性の身辺を守れないような危険付きというところなんですけど、どうぞ
皆さん買ってくださいと申し上げたいのですね。ところがやっぱりいざとなったらそういうことには目
をつぶる醜い日本人、これは私が申し上げたわけではありません。以前の沖縄県知事でいらっしゃいま
した参議院議員として国政でもがんばられたのですが、大田昌秀先生が30年も前に書いた本の中にき
ちんとそういうのがあります。沖縄戦を体験された大田先生が、そして戦後、琉球大学でずうっと政治
学・マスコミ学の教鞭とられた先生がお書きになった本の中に、結局は沖縄の歴史をずうっとずうっと
遡っていくと最終的にはまたすべて沖縄に押し付けてくるというのが醜い日本人という言葉の通り日本
人なんだよということを書いていらっしゃるのです。いまどうですか。違いますか。少なくともお集ま
りの皆さんは私は違うというふうに信じております。そうでなければ今日ここにわたしどもと問題を共
有しよう、そして平和憲法9条をしっかり守りながら、その憲法の理念に基づいた日本の国をつくって
いきたいという気持ちになっていらっしゃらなければ、今日ここにはお運びくださらないと思いますが、
まだ残念です。今参議院選挙が終わったら、国会のなかでも、いわゆる改憲の動きがでてくるのではな
いかということも、とっても危惧しているんですね。
読谷村で起きた棚原隆子ちゃんの死・95年の少女レイプ事件
話は前後しますが、私もこの沖縄戦で家族を失くした者の一人なんですけれど、私の漫画(「平和の風」)
の中にも書いてありますが、読谷村で生まれて、昭和22年1947年生まれですので、沖縄戦が終わ
って2年後に生まれておりますから、皆さんびっくりされかも知れませんが、私の周辺には不発弾がご
ろごろ、私の先輩たちは小学校のころ、高校生のお兄さんやお姉さんたちは学校に行く前に近くから米
軍からあるいは日本軍が使ったあとの鉄クズ、なかには不発弾もありますよね、それをかき集めて学校
へ行く前に近くの鉄クズ屋さんに売りさばいて、それでお小遣いを稼いで学校へ行くなんてことをほん
とにやってたんですね。私も住んでいるお家のすぐ近くに読谷補助飛行場がありまして、飛行場の周辺
は米軍の演習をずうっとやってますから、小学校から中学校に歩いて約40分で中学校にいくんですけ
ど、中学校に行くときには米軍のこの読谷村の補助飛行場で演習があるときには、一人では決して登校
しないようにと公民館のスピーカーで集団登校してくださいという放送があるんですね。と言いますの
は三角テントを私の通学路のすぐ近くに張った米軍の演習のテントがいくつもあるんですね。そこから
米兵がでてきて近くの読谷村の楚辺という鳥居ステーションという陸軍の施設があるところなんですが、
私の同級生のお母さんがレイプされたこともありましたし、またもう一つが私の漫画の本の中にもかい
てあるんですが、小学校5年生の棚原たか子ちゃんという私の後輩でお友達でもあったんですが、その
彼女がパラシュートの公開演習をよくやるんですけど、このパラシュートにトレーラーがぶら下がって、
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パラシュートが開かずにトレーラーが落下して、たか子ちゃんはそれをみて、お父さんとお母さんがお
家の中にいることがわかっていたので、走ってお家へいって、お父さんお母さん危ないからそこにいて
てと言っている間に、彼女は開かなかったパラシュートから落下してきたトレーラーに押しつぶされて
圧死して亡くなった、ということもあったんです。私は高校生でした、ほんとにあの時は、私の実家は
お店を営んでいましたから、たか子ちゃんもよく買い物にきたんですね。今も彼女のその顔がちらつき
ます。ほんとに忘れることができないです。一緒に学校で遊んだり、通学の途中で私のうちに立ち寄っ
て、お菓子を買ったりしていた子がこんなふうに亡くなった。ですから、戦争中の私の家族の体験もと
ても大変だったんですが、これが65年前のことだと片付けられないのが、いまの基地問題です。95
年の少女の事件も、有事ではないですよね。いまほんとにこの日本の国内で、戦争が起こっているわけ
ではないんです。しかし、米軍の基地というのは、そこで訓練されることは有事を想定して兵士たちは
訓練を受けますから、ましてや海兵隊というのは高等学校を卒業したばかりの、もうお分かりだと思う
のですが、沖縄に送られてくる海兵隊は、学校を卒業したばかりで、しかもアメリカで就職できないほ
んとに貧困家庭の子供たちが、海兵隊に応募して採用されたら、3か月ほど訓練されたら、すぐ沖縄に
やってくる、という若い兵士たち。そしてまず、母親の存在を否定していくというところから訓練され
て、心理的に女性や子供たちに対するいわゆる否定をしていく訓練をされたそういう兵士たちが、基地
から外に出て、基地外にでてまさにやっている行為というのが、あの95年の少女暴行事件のなかにあ
らわれています。
この少女の事件のときにも裁判が始まって、沖縄においでになった3人の米兵の親御さん、お母さん、
それから米兵の奥さん、それに兄弟、それぞれが証言したのが、いや、うちの夫は子供思いで、ほんと
に優しい夫です、うちの息子が教会の献金係をして、ほんとに心の優しい敬虔なクリスチャンです、と
いう証言をしたのですけど、確かに米本国にいる間はそういう優しい人だったと思うんですけど、実際
にこういう訓練をされたら、人殺しをする訓練をされるわけですから、結果的にはやっぱり彼らのとっ
た行為というのが、有事であっても平時であっても、それらの訓練されている人たちのその訓練が表に
でてくると、ああいうふうになるんだということが95年の少女事件だと思います。でもこれはもちろ
ん沖縄だけにあるわけではなくて、イラクでもアフガニスタンでも、いま父親がわからない子供が随分
生まれているということは沢山証言がありますし、また実は沖縄戦が終わって沖縄でも無国籍児が多か
ったですね。復帰して、このことがいろんな活動のなかで、きちんと戸籍を有するような状況まで解決
されたんですけども、そうではない状況がずっと続いていたということを考えていきますと、基地が存
在するということに対する思いは戦争前も戦争中も戦後も沖縄にとって変わらないということなんです。
軍隊は決して住民を守らない
そして私は平和ガイドをしておりますときに実際に思ったことは、この沖縄戦はけっして軍隊は住民
を守らなかったということを語っています。食糧がなくなって沖縄県民がどんな状況にあったかという
と、この沖縄にある日本の軍隊の基地というのは沖縄本島はもとより離島にも随分あったんですね、そ
この波照間という沖縄の最南端の島、そこの島は日本の軍隊が基地をつくらなかったです。そこにはい
わゆる稲作がありますのでお米も豊作です。もちろんお芋もありますし野菜もそだてたり、家畜も育て
ていた島なんですが、日本軍はこの島から村人を追い出して、石垣島の近くにある竹富町西表島といわ
れるんですが西表島に集団疎開をさせて、500人以上の人がそこへ移動したんですね。移動したとこ
ろで何が起こったかというと、そこがマラリアの媒介になる蚊が生息している島で、移動した人たちの
ほとんどが亡くなっているんです。それで追い出した島はどうなったかというと、そこにある畑の作物
や、牛・馬、燻製にして兵士の食糧になったということで、この島には日本兵が陣地構築をしていませ
んので、そのままにしていればアメリカ軍がけっして上陸することのなかった島なんです。事実、沖縄
に上陸したアメリカ軍は日本軍の陣地があるところにはことごとく上陸していますけど、こういう島に
はほんとに戦争が終わっても米軍は上陸していないんですけど、沖縄では戦争マラリアと呼ばれている
のはいわゆる移動しなければこのマラリアに感染して亡くなることもなかったんですが、家族全員が亡
くなった家もありますし、一人か二人生き残った方もいらっしゃるんですけど、これが西表島には識名
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という小学校の校長先生がこのことを石碑(忘勿石の碑)にきちんと彫りこんであるんですね。こうい
ういうことがあったということが書いてありまして、戦争中の枚挙に暇がないんですけれどこういう話
を一つ二つとエピソードを語っていきますと時間は終わってしまうんですけど、それぐらい日本の軍隊
は日本の国体を護持するために、沖縄の島を切り捨てて、最初から国体護持のために、見捨てていった
島なんです。
牛島軍司令官、牛島満中将を中心したこの陸軍62師団が沖縄を守れといった。実際米軍が上陸した
のは1945年3月26日、沖縄の慶良間列島に、離島です、ホエールウォチィングで有名なところで
すが、そこに米軍が上陸して島全体が壊滅状態になって、それから中部の西海岸の北谷、嘉手納、読谷
と私の故郷ですが、この中部の西海岸に米軍が上陸しています。1945年4月1日です。ここに上陸
した米軍がこのあたりを中心にして、南と北と分けたわけですが、上陸して80日に渡る戦いが展開さ
れています。なぜ切り捨てたかと申し上げますと、アメリカ軍は沖縄の島を取り巻く兵力が、なんと5
4万人、実際に迎え撃つ日本軍がたった10万人だったということなんです。応援部隊がくるというが
けっして応援部隊はこなかったんです。10万人の弱小部隊、しかも中国や台湾を経て沖縄にやってき
た米軍と日本軍の戦力を言葉で表しますと、米軍が火炎放射機などを持って、それに食糧などをもって
戦いを展開するのに比べると、日本軍は防衛隊という名のもとに下は16歳から上は60歳までの男性
を、そしてひめゆり学徒というふうに譬えていけばお分りだと思うのですが、下は13歳から上は40
歳までの女性たちも女子挺身隊として駆り出されて沖縄戦に参加した。この数がおよそ1万人ですね、
地元の防衛を含めて。だから日本の軍隊10万人のプラス1万、合計11万の日本の兵力は、たとえば
アメリカ軍を大学生と例えるならばもう保育園といっていいぐらいに戦力に差があった。ものすごい戦
力に差がある戦いを展開していますけど、米軍が沖縄本島に上陸したときに、沖縄の人たちは日本の軍
隊と一緒にいれば助かるだろうというふうに思って、まずこのあたりからずっと最南端の摩文仁あたり、
6月23日の牛島司令官が亡くなる、自決して亡くなるそのときまで軍とついて回れば助かるんだとい
うことで行動を一緒にした人たちもいらっしゃるわけです。ところが日本の軍隊は先ほどの話のように、
食糧を奪う、そして安全な濠に入っている人を濠から追い出して、そこで食糧を奪ったり、泣きやまな
い赤ちゃんを目の前で母親に濠から追い出してこい、沢山の人の命を助けるためにはこの赤ちゃんの命
なんてほんとに始末をしてこいということで、結局はその親が自らが命を絶ってしまうという事実、そ
んなこともある沖縄戦だったわけです。ですから軍隊が、目の前の日本の軍隊が沖縄の住民の方々を決
して守ってくれなかった。かといって米軍はなおさら大変な状況でありますし、そういう地上戦を繰り
返して、形の上で6月23日に沖縄戦は終わったわけなんですね。
戦争が持つ被害と加害の側面―朝鮮人「慰安婦」・軍夫の恨
ところがもう一つのこの沖縄戦を考えるときに、どうしても皆さんと一緒に考えていかねばならない
のが、いわゆるアジア、近くの韓半島から動員された男性たち、女性たちのことです。沖縄戦を語ると
きに、沖縄の人たちが犠牲になったということは事実としてありますけど、沖縄の人たちが被害者であ
るのと同時に加害者という立場にも実は立たされていたというのが沖縄戦です。米軍が読谷村に上陸す
る前に慶良間諸島に上陸しております。これは1945年3月26日ですが、ここには朝鮮から強制連
行されたいわゆる韓国、北朝鮮、まあ一緒にして韓半島の朝鮮の男の人たち、軍夫と呼ばれた人たちが
陣地構築をしたり、ここにある日本の軍隊の仕事をしていたり、女性たちもいわゆる挺身隊として連れ
てこられてきた人たちが結局は「慰安婦」という形でこの島にも配置されて、この小さな沖縄の島に1
33か所も慰安所があったということも事実なんですね。しかし、慶良間諸島の戦いというのはあっと
いう間に米軍に占領されて、沖縄本島へとやってきたわけです。私が被害と加害と両方の側面があると
いうように申し上げましたのは、この慶良間諸島に上陸した米軍はこの島を三日間攻撃をしていますけ
ど、米軍が上陸する前に1944年昭和19年、朝鮮から強制連行されてきた軍夫たちの中には日本に
行けば腹いっぱい食べさせてくれるというので来た。ところが日本の軍隊のいわゆる労働の3倍も4倍
も強制労働を強いられた朝鮮人夫たちは最初のうちだけお給料はあったようですが、一カ月二カ月もた
つと日本の戦況もどんどん悪化してきて、食糧も十分に配られなくなった。おにぎり一個だけあてがわ
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れた。おにぎり一個だけでこの暑い沖縄の島で、いわゆる軍需物資を船から運んで、山の高い所へ運ん
でいくようなそういう仕事をさせられて、お腹もすいてくる。どんなことをしたかというと、このおに
ぎり一個を飯合のなかに入れて、水をいっぱい入れたその飯合を一日表にだしておくと、仕事が終わっ
てやっと戻ってきて、一個のおにぎりが飯合いっぱいにふえて、それを一日一回の食事としていただく
わけですが、それだけではとてもお腹を満たすことができないということで、結局は部隊から抜け出し
て生の芋を掘り起こしてそれを畑で食べている、それを地元の人に見つかってしまって、地元の人も食
糧がないという状況のなかで、結局は朝鮮の方々が日本の軍隊に訴えられて、捕えられて12名の方が
海岸近くにズラッと目隠しをされて、整列をさせられた。そしてそこで日本の軍隊は彼らに対して強制
連行してきたその人たちに対して、いわゆる地元の人を脅かした、そして食糧を盗んだということで、
それだけの罪で銃口を向けた。最後に何か残しておくことはないかと声をかけたときに、目隠しをされ
たその軍夫のなかの一人が、十分に食糧のない状況の中で強制労働をさせられて、芋一個取っただけで
銃殺にされるんですかというふうに言葉を返したそうです。そしたら返ってきた言葉が、やっぱり貴様
らは三等国民だ、最後まで死の直前まで食いもののことしか頭にないのかということで、銃口を向けら
れた人たちが亡くなっているんです。ただしお一人だけ急所をはずれて助かってるんですね。なぜ助か
ったかというと亡くなった人たちの墓場を掘って埋めたのも実は朝鮮から強制連行して連れてこられた
仲間なんですね。一人だけ倒れているんですけども、急所をはずれてまだ呼吸をしていることがわかり、
こっそり連れ出して助けたんです。で、日本軍はそのあとどうしたかというと、いよいよ米軍が上陸し
てきたときに、こういう人たちを先頭にして、軍人もそれこそ裸になって、この朝鮮の方々に「I
m
a
Korean」といわせて、そのあとを次々と続いて、朝鮮から連れてこられた女性たちを先頭に
して降伏していっているんです。これはしっかり記録に残っていますが、そうやって国元に帰った方々
が1986年に沖縄にいらっしゃいました。沖縄大学で土曜教養講座というのがありますが、そのとき
にこの方々が戦争が終わってほんとに20年30年もたって、あのときに沖縄戦で亡くなった方々を埋
めて帰ったけれども、できればあの人たちの骨を拾って国元に帰りたいという、そういう申し入れがあ
りまして、そのことをたまたま明治大学の海野福寿という先生が京城大学に1年間客員教授でお出かけ
になっていたときに、農村調査をしていたら、そこに太平洋同志会といって日本のいわゆる沖縄で戦後
を迎えた人たちが約1000人、強制連行された人たちが1000人が米軍のその船に乗って国元に帰
ったんですね。もちろんハワイに連れて行かれたりいろんなところをまわって、最終的には沖縄から国
元に帰ったんです。日一日一日と経っていくうちに気がついたら何十年もたっていた。でも悔しくて悔
しくて亡くなったあの人たちの恨も晴らしたいということで、是非沖縄に来たいと思っている方々が一
つのホームをつくってその農村に住んでいる。その方々の体験を目にした海野先生が沖縄に大学の教え
子がいるということで、沖縄大学の新崎盛暉先生を通じて沖縄でなんとかこういう人たちを呼んでいた
だけないかということで、きちんと外務省を通して5人の関係者をお招きをしたんです。
お招きして私もそのとき平和ガイドとしていっしょに沖縄の島をまわったんです。残念ながら埋めた
はずの骨はみつかりませんでした。実際に阿嘉島に渡って、このあたりに埋めたとおっしゃたんですが、
やっぱり30年の歳月は彼らの記憶が定かでなかったか、あるいは骨が風化してしまって沖縄の土にな
っていたのか、残念ながら彼らはそこから小石を拾って持ち帰りました。そして翌年、慶尚北道慶山郡
南川面邑という小さな村に、丘の上にちょうど5月でございましたが、私も沖縄大学の先生方も5人招
かれて、阿嘉島の少年兵として実際この島にいた方も招かれて、慰霊祭を行いました。ただこの慰霊碑
のなかにおさめられているのは決して亡くなった戦友の同胞の骨ではなかったんです。沖縄から持ち帰
った小石なんです。でもそれを埋めて慰霊祭を行ったんですが、その時日本語を話せる多くの方々が私
たちに近寄ってまいりました。
あの頃はまだやはり日本に対する相当な反発のあるときです。今年はおりしも日韓併合100周年と
いうことで節目でわたしも何度も韓国を訪れていますけど、1987年に向こうへいったときには、ソ
ウルの町の中を歩いていると、ゾロゾロ私たちが群れをなして歩いているのをみると、地下鉄でも沢山
の人が振り返って睨みつけているという状況でしたが、オリンピックが終わった後かなり交流もあって、
いまではむしろ韓国辺りには沢山の日本人が、またあちらからも日本にやってくるという状況ですけれ
ど、当時は大変な反日感情もあるときでしたが、話しかけてくださった日本語で声をかけてくださった
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お年寄りのおじいさんたちは、沖縄は大変だったねと、同じ痛みをもっているということで声をかけて
くださいました。そういうことから考えていきましても朝鮮から強制連行されてきた男の人たちや女性
のことを考えていきますと、私たち沖縄の県民も加害者の一人で、そして加害の立場にも立たされてい
たというのが沖縄戦です。そしてそれは皆さんもご存知のとおり、松代大本営、あの長野県の地下壕を
ご覧になったらお分かりだと思います。いわゆる天皇を中心とした日本の国体を護持するために、あち
らにとても大きな地下壕を掘った、それをほとんど朝鮮から連行されてきた男性たちが掘ったというこ
ともいわれております。まあそんなふうにして戦争を語るときには、今もそうですが被害者も加害者も
ないという状況です。ですからいま有事ではないにしても沖縄で95年に少女暴行事件が起こったとい
うことは、つまり軍隊の持つ本質的なものは何かということを皆さんと共有したいと思うからなんです。
つまり基地をつくるということは、そこで私たちの税金を使って戦争につながるものを、そして戦争に
つながる人たちを育てていくということなんですね。それがいいことなのかどうかということをぜひ考
えていただきたいのです。
米軍ひき逃げ事故―日米地位協定改定が必要
実は沖縄ではこのあいだも読谷村で轢き逃げ事件がありました。外間さんという読谷村に住んでいら
っしゃる方が、早朝、この読谷補助飛行場の近くをジョギングしていたんです。酔っぱらった米兵がそ
こでこの沖縄の方を轢いたんですね。轢いたという事実がなぜわかるかというと、DNAを鑑定すると
ちゃんとその兵士の車に外間さんの血液型とマッチする結果がきちんと出たんですね。事故を起こした
兵士は直後すぐ近くの車の修理工場に、この事故で使った車を修理のために入れているんです。ですけ
どもまだ否定をして、自分は轢いたんじゃないと。何カ月たっても、ほんと4カ月たってもまだこの米
兵は私が事故を起こした、申し訳なかったとおっしゃらないですね。この地位協定の壁に阻まれて、い
わゆる日米安保条約の中にある地位協定のその壁にぶつかって、沖縄で起こった事故ですから沖縄の県
警がしっかりと立ち会って調査をするといっても基地の中に入れませんし、身柄を引き渡してくれない
ですね。これは5年前の普天間のヘリの墜落事と一緒なんです。沖縄国際大学に落下したあのヘリに対
する調査を県警にさせませんでした。入れなかったんです、事故現場の中に。おかしいですね。
日本の国で起こった事件や事故というのは、勿論日本の国の中に米軍が存在しているわけですから、
日本の国の警察の捜査権及ぶはずなんですが及ばない。95年の少女事件のあと好意的行為によって身
柄を引き渡しましょといっているんですが、引き渡してくれないという実態があるということを考えま
すと、戦争中の軍隊の状態、これは日本軍も米軍も変わらないということを先ほど申し上げました。そ
れから戦争が終わって65年たっていまの沖縄に現存する海兵隊、海兵隊だけではありません、今4軍
沖縄に常駐していますけど、陸軍も、海軍も、空軍も、海兵隊も、一番事件・事故が多いのが海兵隊で
すが、どこの軍隊にどこの部隊に所属しているからということでもなく、いろんな事件や事故はおこっ
てくるんですね。それを考えますと、日本の今の国のあり方、ほんとに米国に対するきちんとした対等・
平等な外交をはっきりいって行っておりません。行うのであればこんなことはないと思います。
つい1週間前も読谷村に行きました。その亡くなった方の奥さまにお会いしました。言葉のかけよう
がないんです。みなさんも考えてみてください。交通事故で夫が死んでしまった。明らかに犯人が目の
前にいるのになにも結果が出てこない状態です。いま皆が心配しているのはこの米兵がこの沖縄に滞在
する任期が終わって帰ってしまうではないかということも心配しています。これまで何度もありました。
迷宮入りになって。高校生が青信号で横断歩道を渡っているにも拘わらず、米軍車両がその高校生を轢
き殺したんです。でも、逮捕されずに米兵が本国へ帰ったりということは、復帰前の沖縄にはありまし
た。復帰後そしていま政権も変わったので、私たちはきっとこれまでの日米の外交のあり方も変わるだ
ろうとおもったんですが、密約の問題もなんとなく有耶無耶にされてしまう。密約を暴きだす理由は何
ですか。
これだけ対等・平等な外交をしていないということがはっきりし、お金ですべて、日本がアメリカの
いいなりになって、沖縄が祖国日本に復帰するというその平和憲法のもとに復帰するという大義名分は
結局お金で日本はごまかされて、そして先ほども申し上げました復帰の三原則も完全に裏切られて、し
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かも交渉にあたった方が命を絶って訴えても聞きいれられない国なんでしょうかね、日本の国は。私は
そうでないと信じて、いま国会のなかにいます。これからさき3月いっぱいで普天間の基地がちゃんと
県民が望んだとおりに県外・国外に移設されるのか、あるいは普天間にそのまま残るのか。普天間は現
状維持をするのか、これが5月末までに鳩山総理が結論を出すということになっていますが、裏ではも
うすでにアメリカには陸上案を約束したという話もあります。そしてさきほどのように勝連半島の浅瀬
を埋めるという話しもあります。こういう状況が続いてきますと、たかだか130万県民ではあっても
日本国民です。ほんとに国全体の犠牲になって再び沖縄をおしつぶすんでしょうか。亡くなった喜屋武
真栄先生は沖縄から参議院議員として国会で働いた方です。小指ほどの痛みでも沖縄の痛みは現存して
いますとおっしゃっています。そして足を踏まれた人たちは踏まれた足の痛みは決して忘れない、そし
て踏んでいる人たちは簡単に無視していくと。再び沖縄がそういう状況にいくのかどうかというのは、
これから問われていることなんですが、私は今日ここにいらしてる皆さんは同じ思いを共有し、そして
私たちの大きな財産である日本の国の平和憲法をしっかり守っていく。長崎で原爆で亡くなられた永井
隆先生の言葉を覚えていらっしゃいますでしょうか(「いとし子よ」参照)。私はほんとにいまの平和憲
法がほんとに日本国民にとって大事な大事な宝物であるということを強く感じることはない。そして世
界に広めていきたいと思います。
自分の息子や娘に対するメッセージということで、これから先日本の国の平和憲法がどれだけ大事で
あるかということを皆様と共有しまして、そして今日はこんなことを申し上げると失礼かも知れません
が20代、30代、40代、50代、60代、70代の方お手を挙げていただきたいのです。はい、こ
んなふうにして年齢のことをお伺いしましたのも沖縄もいっしょでして、どうしても若い皆さんにほん
とに皆さんの世代をどうやって平和な世の中にしていくかということで、今私は国会の中で働いている
んですよという話を地元の大学でもよくお話いたします。で、その時に大学生であれば在学中は18 歳か
ら23歳という形で若い皆さんいらっしゃるんですけど、でもそういう彼らはあまり政治のことに関心
がない。結局は遠い国会の中でのことでしょとか、議員の皆さんががんばっているからと思いがちです
が、でも私たちがつくっていく法律は次の世代にほんとに何を手渡していくかということですよという
ことで、もう皆さんは戦争というのは再びもう日本ではないだろうと思っているかもしれないけれど、
いわゆる教育基本法も変えられて、そして勿論いま政権は変わっていますけど、いまの民主党のなかに
もそう自民党と変わらないというような思いの議員が正直いって多いということを考えていきますと、
やっぱり憲法が改悪されていくというのもこれは危惧しておりますけど、実際にはあるかもしれないと
いうとこまできております。もちろん福祉のことも教育のことも私は大変大事に思っておりますし、い
ま国が一番お金をかけて力を入れていくのが、子供たちの教育、子供手当のことも勿論ありますけど、
軍事費よりも、あのフィンランドが30年前に改革したように、国家の一番大事なことは子供たちの教
育を無償化して、そして親の経済格差に関係なく子供たちが平等に大学まで等しく教育を受けられるよ
うにする、という29歳の文部科学大臣が宣言をした結果、30年後は世界一のいわゆるOECDの中
でも学力を有する国になり、失業者が減って、GDPにおいても経済大国に肩を並べた素晴らしい国に
成長したということを知っています。ですからいまの日本の国が目指す方向はどこかといいますと、鳩
山政権もいまはフィンランドのことをしっかり取りいれてやっていくとはおっしゃっていますけど、そ
れを続けていくにはまず、軍事費に金をかけていくということをストップしない限り費用をどこから捻
出してくるかということなんです。
感覚的に唯単に消費税をあげればいいということにはならないということも考えてわかるとおりに、
やっぱりここで腹をくくって国がどこの方向を目指していくかということをしっかり決意しないと、政
権はかわったけれども、とても危ない状況に進んでいくというのも事実でございます。
ぜひとも皆さんといっしょに心を一つにして、沖縄もそして日本の中の憲法をこうやって大事にする
方も一緒になって、決して希望を失うことなくこつこつとがんばっていきましょう。
そして若い皆さんに伝えていただきたい。ほんとに皆さんのお子さんやお孫さんにもぜひ宜しくお願
いしたいと思います。私もつい三日前も日大の若い学生さんが、女性なんですが大学生の新聞の中に沖
縄のことを紹介したいということで、彼女が言っていたのはひめゆりの皆さんのことをぜひ紹介してく
ださいといってました。自分と同じ年の若い人たちが、この戦争に対することを自分と同じように危機
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感をもって感ずるにはどうやって新聞をつくったらいいかとおっしゃっていましたけれど、それはちょ
うど東京大空襲の記念の日にもなっていましたので、あなたの周りからまず自分のこの東京での空襲の
状況のことを家族に聞いてごらんといいましたら、おばあちゃんが実はほんとに防空壕の前で沢山の人
が亡くなっていくのをみたと、自分も一歩遅れたら亡くなっていただろうけれども、よく助かったと、
そのおばあちゃんが助かったお陰で私もいまいるんですねって、涙をこぼしてましたけれど、そういう
話を皆さんのお友達のなかで、お父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃんから聞いてごらんなさいと、
そういうところから始めていったらどうですかってことで、お別れをしました。
と同じように、皆さんもぜひ今日聞いていただいたことを、私の話の拙いところもいっぱいございま
すけどぜひ補っていただいて、私たちは平和に勝るものはないということをぜひ確認をして、皆さんと
いっしょにこの建物から一歩でましたら、ぜひ語りかけていただきたいなあと思います。
ほんとに今日はありがとうございました。
質疑応答(要約)
① バスガイドの糸数さんは説明がうまいし、歌がうまいし、そしてガマに入っても泥が付いていないの
は糸数さんだけだった。
② 少女暴行事件とSACO合意
普天間移設の問題はSACO合意のなかででてきた。普天間は古
い・老朽化している。もともと大浦湾に移したい。老朽化しているが金がないので移せない。レイプ
事件ではクリントン大統領は真っ先に謝った。クリントン―橋本の会談で真っ先に返してもらいたい
のは普天間である。2015年に基地をなくすと、大田知事は国際都市計画を提案した。
③ 名護市の市長選について。98年住民投票では基地移設反対が多かったが、99年市長がかわり、基
地受け入れを表明する。2010年、反対派の新しい市長・稲嶺氏が誕生した。
完
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