他立国ウクライナ

他立国ウクライナ
・ボリシェヴィキのお蔭
過激な言い方をするなら、ウクライナはこれまで自立した独立国家であったことは史上
一度もなく、ソ連から独立して二十五年余り経つ現在もいわば他立国家である。
............................
現状の国境を史上一度も自力で決定し守り通したことのない国が、どうして真の意味で
独立国家と言えるのか。ここに現在のウクライナ問題の本質がある。
ソ連崩壊後にウクライナのことが話題になるとロシア人はよくこんなアネクドートを語
っていた。いわく「今日のウクライナがあるのは、ボリシェヴィキたち、すなわち、レー
ニン、スターリン、フルシチョフのお蔭である。レーニンは民族自決を唱え、ウクライナ
民族共和国を作ってやった。スターリンはヒトラーとの取引によってガリツィア地方等の
西ウクライナを獲得してやった。フルシチョフからはクリミアをただで譲ってもらった」。
これを聞いた時の平均的なウクライナ人の反応は悲憤慷慨まちがい無しであろうが、い
くら切歯扼腕しようと、残念ながら否定しようのない厳然たる事実である。
民族自決はソ連建国時の大義の一つであり、当時においては先進的で画期的なものだっ
た。この民族自決の思想は、それを唱道したドイツの社会主義者やアメリカのウィルソン
大統領などはヨーロッパ域内の被抑圧民族(具体的にはオーストリア帝国治下の東欧諸民
族や英国領アイルランド等)を念頭に置いたものだったが、第二次世界大戦後には民族解
放運動=植民地独立運動としてアジア・アフリカを覆い尽くすことになるのである 1)。
ソ連は実質的にはソ連共産党の支配する独裁国家であったが、この民族自決の原理に基
づいて建前上は独立した各民族共和国の連邦体の体裁を取り、各共和国には擬制的な国家
制度と国境が与えられ、憲法によってソ連から自由に離脱する権利が保障された。そのさ
いレーニンはスターリンのロシア共和国内での民族共和国の自治化案を斥け、各共和国の
地位を平等とした。さらにレーニンはスターリンの反対を押し切って各共和国の離脱の自
由を保証したが、ソ連崩壊時にはこの条項が効力を発揮し、各民族共和国は大方の予想に
反して平和裏に(換言すればタナボタで)独立を達成することができたのだった。
ソビエト政権は、帝政時代にウクライナの正式名であった「小ロシア」というウクライ
ナ人にとって屈辱的だった名称を永遠に葬り去ってくれた。一方、第一次世界大戦後の混
乱期を経てポーランド領に組み入れられた西ウクライナのガリツィア地方はポーランド政
府によって公式には「東小ポーランド」と呼ばれた。
ソビエト政権初期には、民族自決の原則に基づくウクライナ化政策が推進された。ウク
1)
使い勝手のよい「民族」という言葉を自由に使いこなしている日本と違い、諸外国(特に欧米)におい
ては不自由極まりない。民族自決の「民族」は、ウィルソンの時代には nation が使われていたのが、国
連では people となり、1970 年代頃からは ethnic group が使われ始めて、この使い勝手の悪い言葉が全
世界で市民権を得て現在に至っている。アメリカやカナダくんだりには「オレたちは nation だ」と言い
張り、パスポートを発行して nation ごっこに励んでいる先住民族が存在するそうな。でも、元はと言え
ば、彼らの集団を"Five Nations"とか"Six Nations"とか呼んでいた植民者に罪があるのかも。日本では「五
族連合」とか「六族連合」とか呼んでますけど。
1
ライナ語の普及が図られ、文化一般、教育、行政の分野でウクライナ化は相当の成果を上
げ、いわば国民国家創設の条件を整えるものであった。その後スターリン体制の確立に伴
ってロシア化政策への揺り戻しの時代が到来するが、このソビエト政権初期十年間の遺産
は独立後の政策に直接引き継がれたものだった。
まさにレーニンさまさまであると言って過言でないのが真実なのである。もしレーニン
主導による民族共和国の成立や民族語としてのウクライナ語の確立がなかったならば、今
日に至るもウクライナは統一国家として独立できていないかもしれないし 2)、ウクライナ語
もロシア語の一方言の地位に甘んじていたかもしれない。このレーニンの遺徳を知る人ぞ
知るのか、独立以来現在は第三次レーニン像引き倒し大ブームの真っ最中なれど、今もウ
クライナには二千体以上のレーニン像が健在であるとか。
スターリンは農業の集団化の過程でウクライナ地方に何百万人もの餓死者を出すという
大罪(後にホロドモールと呼ばれる)を犯しているが、ヒトラーとの闇取引によってポー
ランドには悪夢の東部国境のカーゾン線を復活させて西ウクライナ(ガリツィア・西ヴォ
ルイニ地方)を獲得し、苦難の独ソ戦の戦勝後にはそれを国際的に認知させた。特に、一
世紀半に亘ってオーストリアとポーランドに支配されてきたガリツィア地方を取り戻すこ
とができたのだった。さらに、スターリンはカルパティア山脈奥地をチェコスロヴァキア
から、北ブコヴィナとベッサラビア南部をルーマニアからかっさらって、ウクライナに帰
属させた。ハンガリー人が比較的多く住むカルパティア山脈奥地はモスクワから見てカル
ザ
パティア山地の向こう側という意味で後カルパティア地方と呼ばれたが、キエフ政権もそ
れを踏襲している。また、ウクライナの地図を見ると、黒海有数の港町オデッサから南西
に延びている細長い海岸地帯があるが、それがベッサラビア南部地方である。本来なら地
理的にも民族的にもモルドワ(当時はソ連邦内のモルダヴィア共和国)に帰属させるのが
自然であったが、ロシアに次いで信用の厚かったスラヴ民族のウクライナへの帰属が選ば
れたのである。おかげで今日に至るもモルドワは陸封国の運命を甘受している。
タナボタ式に領土拡大のできたウクライナにとって虐殺者スターリンは恩人中の恩人で
もあるのである。おまけに、国連ができるとスターリンの類まれな膂力または横車によっ
てウクライナはその創立メンバーに名を連ねるという栄誉に浴している。やはりスターリ
ンさまさまなのだ。
フルシチョフはスターリン死後にソ連共産党のトップの座に就き(在職期間 1953~1964
年)
、スターリン批判を行ない、東西冷戦の雪解けと平和共存時代を演出したが、党内では
ヴォランタリズム
独裁的な権力を振るった。後にその独断専行的な恣意主義を批判されて辞任に追い込まれ
ることになるが、1954 年にクリミアをロシア共和国からウクライナ共和国の管轄下に移す
という決定も、そのフルシチョフの発意によるものだった。
2)
ウクライナはロシア革命後の混乱期のドサクサまぎれに独立宣言したことがあり、それを今でも金科玉
条としている(民族の記憶として後生大事に思うのは分からないでもない)が、とても国家と呼べるよう
な体制ではなく、当時の状況の中では長持ちすることなぞ思いも及ばぬこと。たとえドイツ、ポーランド、
ロシア等の外国勢力の軍門に下らなくとも、内紛によって自壊してしまったであろう。
2
2014 年 3 月のクリミア帰属騒動のさなか、この陽気な独裁者フルシチョフのアメリカに
移住している息子のセルゲイがクリミアのウクライナへの移譲の真相について語っている
3)。
「ウクライナがロシアに再統一されて三百周年に当たる」
(ウクライナ人にはとうてい容
認できない表現であるが、長年このように言われていた)のを祝ってウクライナ人へのプ
レゼントとして移管されたとする説がこれまで一番有力であったが、セルゲイは要約すれ
ば次のように言っている。当時は、大風呂敷フルシチョフの主導する、ドニエプル川に既
カスケード
設・新設の発電所と貯水湖を階 段 状に配置するという自然改造の巨大プロジェクトが計画
中だった 4)。
(クリミアのウクライナ共和国への移管の理由について)私の父がウクライナ人に迎合
したとか、ウクライナ人であった私の母に対する贈物であったとか色々と言われている
が、実際は政治的な決定でもイデオロギーが介在したものでもなかった。純粋に経済的
な決定であり、特に農業政策に関連したものだった。ドニエプル川に整備する発電所と
貯水湖からの電気と水の供給先としてクリミア半島を含めるのが合理的だったのだ。そ
れでクリミアをウクライナの管轄下に置いたわけだ。
言われてみればコロンブスの卵みたいなもので、当時の事情を勘案するなら、これが一
番納得できる説明である。水源となる川がなく、長年渇水に悩んできたクリミアは水と電
気が一気に確保できることとなり、住民にとっては待望の計画であり、その当時は行政区
画の変更が後に国を異にする大問題になるとは誰一人思わなかったのである。
プーチンは電撃的にクリミアをロシアに取り戻してしまったが、元々フルシチョフのウ
クライナへのクリミア移譲は経済合理性の追求以外の何物でもなく(ロシアにとって巨大
な真田丸の如きクリミア半島の地政学的・戦略的位置は一顧だにされなかった)、現在も電
気と水は依然としてウクライナ本土が頼りである。クリミアのこの「経済合理性」の問題
は今後も色々と頻繁に両国間の懸案となることであろう(すでに供給中断事件が何度も勃
発している)
。
世の中、タナボタ式の僥倖がそうそう続くわけがない。ウクライナは好事魔多しでクリ
ミアを失ってしまった。しかし、まだまだボリシェヴィキの遺産は有り余るほどある。今
日ウクライナライナが国家として成立しているのは、やっぱりボリシェヴィキのお蔭なの
である。
・マリオネット
マイダン広場での反政府のデモ隊と政権側の治安部隊との対立が激しさを増していた
2014 年 2 月 4 日に或る動画がユーチューブにアップロードされた。正確には動画ではなく、
3)
4)
http://www.voanews.com/content/khrushchevs-son-giving-crimea-back-to-russia-not- an-option/
1865752.html
因みに不吉なチェルノブイリ原発はウクライナ領内のその最上流に位置する。
3
会話を録音したもので、音声に合わせた字幕がついていた。ロシア語で Марионетки
Майдана(「マイダン広場のマリオネットたち」
)と題され、字幕もロシア語であったから、
最初からお里の知れたものだった。字幕に発言者の名前がヌーランドとパイエットと明示
されていて、国務省報道官時代にテレビでお馴染みだった現国務次官補(欧州・ユーラシ
ア担当)のヴィクトリア・ヌーランドと在ウクライナ米国大使のパイエットの電話会談の
一部であることは明らかだった。二人の会話の中で最近のウクライナ情勢に関して米国と異なる EU の対応をヌーランド
女史が罵っていて、何事につけ慎重で変化球を投げたがる欧州に対して単刀直入で直球勝
負の米国の苛立ちのひとコマに過ぎなかったが、女史がいわゆる四文字言葉を使っていた
から、そのことで世界の耳目を集めた(日本のマスコミでは「EU のくそったれ!」と表現
された)
。
しかし、この通話記録を漏洩したロシア側の真意は別のところにあった。
1 月当時、キエフのマイダン広場で激しさを増す騒乱を治める妥協策の一つとしてヤヌコ
ヴィチ大統領は内閣の辞任を約束したが、その後釜の人選に欧米側が容喙し、EC もアメリ
カも候補者の面接を行なっている。アメリカはヌーランド女史が野党の三人の党首と面談
することになっていたが、それに先立ってパイエット大使が予備面接を行ない、その結果
を話し合っているのが電話会談の内容だった。ロシア側は内政干渉を強調したかったので
ある。
1 月下旬のことと推測されるこの漏洩電話会談でパイエット大使は、野党三党のトップ、
すなわち、獄中のティモシェンコ女史から党首の地位を譲り受けた祖国党のヤツェニュー
ク、元世界ヘビー級チャンピオンのボクサーであるパンチ党のクリチコ、2012 年の選挙で
スヴォボダ
三十七名もの議員を当選されたウルトラ右翼の自由党のチャグニボクと予備面談を行ない、
自由党首とポピュリストのパンチ党首が入閣するのは「良い考えではない」と指摘し、ヤ
ツェニューク(発音しにくいせいもあるであろうが、「ヤッツ」と気安く愛称のように呼ん
でいる)を首相として推奨していた。
2 月 6 日にキエフを訪れたヌーランドは野党ビッグスリーと会談し、大使の予備会談の結
果を追認したことと思われる。この時後の大統領ポロシェンコがスポークスマン的役割を
果たしている。
ヌーランドとウクライナ大使との漏洩電話会談は、その後のウクライナの政局に大きな
影響を与えた。俎上に載せられた野党党首三人自身にもウクライナの世論の帰趨にも。
首相に擬せられたヤツェニュークは天にも昇る気持ちになって、ますますその気になり、
たとえティモシェンコが獄中から解き放たれても彼女の創設した祖国党のリーダーの地位
を譲る気はさらさらなくなり、首相へと一直線状態(この辺の経緯は、日本の戦後直後、
首相就任を目前にして公職追放の憂き目を見た鳩山一郎が自由党党首の地位を吉田茂に一
時預けた気でいたが、吉田に居座られることになる話と相通じるところがある)。
4
左からヌーランド、チャグニボク、
パイエット大使、ヤツェニューク、ク
リチコ(パイエットの 2014 年 2 月 6 日
のツイッターより)
まるで人事問題でアメリカ本社から
出かけてきた女性 CEO を出迎えるウク
ライナ支店の面々という風情。
(http://www.peremeny.ru/books/osmi
nog/8929)
面接試験後はみんな仲良く「はい、
チーズ!」。
( http://rus.azattyq.org/content/article/25
257410.html)
二日前の 2 月 4 日にも野党三人衆は
EU 幹部の外務・安全保障政策上級代表
キャサリン・アシュトンの面接を受けて
いた。
相思相愛の EU 幹部とウクライナ次
期首相候補
( http://ru.tsn.ua/politika/lidery-oppozicii-p
ogovorili-s-eshton-i-vstretyatsya-esche-raz-3
47397.html、上掲写真も)
5
ヤヌコヴィチから副首相の地位を匂わされていたクリチコはアメリカ人によってそれが
阻止されたことを知って、それ以後はアメリカに対して腹に一物持つようになり、またポ
スト・ヤヌコヴィチの大統領候補として第一の人気を誇っていたが、これを契機としてキ
エフ市長を迂回して大統領を狙う方針に切り換え、後そのように行動している。
ヌーランドとパイエットから閣僚を狙うなど問題外だと言わんばかりの扱いを受けた自
由党首チャグニボクではあったが、外国のボスたちから有力な野党仲間として認められた
のが嬉しくて、以後偽装的に行動を慎み、それが認められて、政変後に自由党はヤッツ内
閣に四人もの党員を送り込んだ上に検事総長という枢要なポストを手に入れることができ
た。欧米の当局者はどんな情報を得ているのか知らないが、全ウクライナ連合自由党はフ
ランスのル・ペン父娘の国民戦線や日本の一心会などの友党としてエールを交換した仲で
ある(ただし、娘ル・ペンがクリミアを強奪したプーチンを称賛したことを知ったチャグ
ニボクはフランスの旧友党との関係を断ってしまったが)。この自由党所属の大臣四人(国
防相代行を含む)が名を連ねているにもかかわらず欧米が官民挙げて支援する新政権をロ
シアはこちらも官民挙げて「ファシストだ!」
、「ネオナチだ!」と罵っているが、日本の
ごく普通の感覚から言えば、このロシア側の反応が理解できなくもない。自由党は元々国
粋主義的な政策を掲げ、ロシアの経済圏に入るのは反対であるのは当然として、EU 加盟に
も反対していたのだから、入閣を果たしたものの元来の支援者の支持を失い、他の極右勢
力と競合する中で精彩を欠き、右傾化するウクライナの世論の中で次第に埋没して、10 月
の議会選挙では 5%のバリアを越えられず、一人の議員も当選させることができない体たら
くぶりとなる。
ユーロマイダンの最中、大群衆の集まるキエフのマイダン広場を欧米の要人が続々と訪
ねていたのだが、それをロシアのメディアが次のように戯画化している。
ある時キエフの独立広場に次のお歴々が集まった。
米国、フランス、スペイン、ドイツ、デンマークのそれぞれの全権大使、
米国国務次官補ヴィクトリア・ヌーランド、
米国上院議員ジョン・マケインおよびクリス・マーフィー、
ドイツ外相ギド・ヴェスターヴェレ、
EU 外務・安全保障政策上級代表キャサリン・アシュトン、
グルジア前大統領ミヘイル・サアカシュヴィリ、
オランダ外相フランス・ティマーマンス、
欧州議会代表ヤツェク・プロタセヴィチ、
リトアニア外相リナス・リンケヴィチュス、
リトアニア国会議長ロレタ・グラウジニエネ、
ポーランド元首相ヤロスワフ・カチンスキ、
チェコ上院議員ジャロミール・シュテティナ。
6
そして、全員が声を揃えて、「ロシアよ、ウクライナの内政に干渉するな!」5)
ロシアのメディアが揶揄するように、キエフのマイダン広場では実際にもこれに近いこ
とが起こっていたのだが、何のことはない、時移り時代が変わり、ロシアとは役割が替わ
っただけではないのか。過去何世紀にも亘ってもっと露骨に干渉していたのはロシアだっ
たのだから。
しかし、パトロンが西であれ東であれ自国の進路、政策、次期政権担当者を外国に選ん
でもらう、外国に口を出させると言うのは、独立国として最も恥ずべきことである。恥を
恥と思わないウクライナは国家として一番肝心かなめなところがマヒしているのだ。
2014 年 2 月の政変後欧米諸国の期待を担ったヤツェニュークは首相となり、5 月には一
年前には無聊をかこち泡沫候補ですらなかったポロシェンコが欧米の支援を得て大統領に
当選した。めでたし、めでたし、ご同慶の至りと言う以外にないが、10 月の議会選を経て、
12 月 2 日には第二次ヤツェニューク内閣が成立した。その主要三ポストに外国人が登用さ
れた(ウクライナ系で米国国籍のヤレスコ財務相、リトアニア国籍のリトアニア人アブロ
マヴィチュス経済発展通商相、グルジア国籍のグルジア人クヴィタシヴィリ保健相)
。
その直前にポロシェンコ大統領はこの三人にウクライナ国籍を与え、自分のフェイスブ
ックに「ウクライナは改革に待ったなし」と書き、こう付け加えた。
私たちはいつにもまして国家統治、汚職撲滅、財政計画、危機対策マネジメントの国
際的な実践例を必要としている。往々にしてこの経験例をもたらすことができるのはウ
クライナ国外からの専門家だけである。
私たちはそのような人物を見つけ、今日ウクライナ市民とする用意を整えた。従って、
私は三人の高度にプロフェッショナルな外国の専門家にウクライナの国籍を与える大統
領令に署名するものである。
外国から学ぶ必要はあっても、外人を連れてくれば済むような問題ではない。サッカー
や野球の助っ人とは限りなく違うのだ。この安直過ぎる大統領の言葉ほど他立国ウクライ
ナの致命的な病状を露呈しているものはない。ソ連崩壊後激減したとはいえ未だ 4,200 万
有余の人口を擁する「ヨーロッパの大国」の大統領ではないか。それなのに、自国に人材
が払底していると決めつけ、自国民を無能呼ばわりしていると同然ではないか。独立国の
大統領としての矜持があったら、とても口にできる言葉ではない。やはり万事が他国頼り
の他立国の大統領なのである。
摩訶不思議なことに、外国人の大臣起用にウクライナ国内にさしたる反対はなかった。
最高会議が大臣を承認するときも、この問題に対する議論は起こらず、ポロシェンコが新
設の情報政策大臣に自分のクムを任命した件が縁故登用として問題視されただけであった。
5)
http://novorus.info/news/interesno/14149-odnazhdy-na-maydane.html
7
ヤツェニューク首相は早速閣議を開いた。当然ながら「国家語」であるウクライナ語を
使用した。しかし、簡単な話柄ならともかく、話が少し込み入り細部の理解を必要とする
事案となると、外国出身の三人の大臣は一知半解。そこで、首相は得意の英語に切り替え
た。ヤツェニュークはウクライナ西部の英語学校の出身で、この語学力がどれだけキャリ
アに役立っていることか。ところがである。グルジア出身の大臣は英語には全くの不案内。
そこで首相は、仕方なく泣く泣く、使用言語を憎っくき敵性語のロシア語に切り替えて閣
議を無事終えることができたそうな。
第二次ヤツェニューク内閣が誕生してから一年以上が経過した。しかし、全ての面にお
いて改善の兆しは見えない。大統領の期待する内戦の和平のためのミンスク合意で約束し
......
た地方分権に関わる憲法改正の目途は立たないし、IMF やドナー諸国からやいのやいのと
せっつかされている汚職対策は、議会に次から次へのそれらしい委員会を作ってもミイラ
取りがミイラになるスキャンダル続出で、有効な対策は打ち出せない。住民の唯一の救い
だった安い公共料金は当然のことながら「市場価格」へ向かって値上げが目白押し。
こんな状況の中で今年の 2 月に入るや、外人閣僚の一人である経済発展通商大臣(4 年ほ
ど前のヤヌコヴィチ大統領時代にはこの同じ地位にポロシェンコ大統領自身が就いていた)
のアイヴァラス・アブロマヴィチュスが「この国では、どんな汚職も罰せられるというこ
とがない。露骨な汚職を隠す衝立になったり、昔通りのやり方で国の金をくすねる輩のた
めの便利なマリオネットになったりするのは、もう真っ平だ!」と辞表を叩きつけ、堪忍
袋の緒が切れたとばかり、手下を利権たっぷりの実入りのいい地位につけるよう自分に圧
力をかけ続けた大統領側近を口を極めてこき下ろした。目の上の敵はコノネンコという大
統領与党の大幹部で、大統領とは軍隊時代から友情で結ばれた長年のビジネス・パートナ
ーだった。
昨年の暮れには、ヤツェニューク首相の右腕で盟友の最高会議人民代議員が汚職容疑で
議員辞任に追い込まれてしまっていた。ウクライナの原発業界のドンで議会のエネルギー
問題委員会議長の任にあるマルティネンコが、ウクライナに納める原発施設の商談でチェ
コのメーカーから巨額の賄賂
7)
を提供された疑いで銀行口座のあるスイスの検察庁から動
かぬ証拠を突きつけられ(チェコでは自動車五台分の書類が押収されたとか)
、スイスの法
7)
3,000 万スイス・フランとされる(http://www.epravda.com.ua/rus/news/2015/12/28/574297/)から、
日本円にすると 35 億円という大金。これだけの金額がキックバックされるのだから、ウクライナ側はチ
ェコのメーカーの要求額を気前よく支払っているに違いない。この国では万事ツケは国庫に回される。日
本は 2014 年の政変以来ウクライナの国庫に相当な金額を貢いできた(2015 年度の外交白書には、
「2014
年 3 月以降の表明ベースで日本の対ウクライナ支援額は世界最大規模で、max 約 18.3 億米ドル」と自慢
げに(?)記されている)。とすると、その中の幾分かは『ロシアの声』(2015.03. 3)が主張するように
「日本の対ウクライナ援助は金をドブに捨てるようなものだ」ということになる。メディアはチェコの原
発装置メーカーを Skoda JS 社であると伝えている。日本の ATOMICA には、「チェコのシュコダ JS 社
は 2004 年からロシアの重機械メーカーOMZ の子会社」と記載されている
(http://www.rist.or.jp/atomica/data/ dat_detail.php?Title_No=14-06-07-02)。とすると、ウクライナ
のドブは巡り巡ってロシアにまで注ぎ込んでいるのだ! これって、結局、どういうことになるのかな?
8
律では罰金 100 万スイス・フラン、禁固 5 年の刑が見込まれる収賄と資金洗浄の容疑で起
訴されるのが必須であると報道されたのである。
この首相のスキャンダルに次いで今度は大統領本営に火が付いたのだ。
「外人閣僚、ウク
ライナの汚職に耐えきれずに辞任!」のニュースは世界のマスコミを駆け巡ったが、この
外人閣僚は批判がコノネンコ個人に集中するのを見て、
「これは一人の人間、一つのケース
の問題ではない。汚職体制が国全体を支配しているのだ。汚職は、官庁、国営企業、裁判
所、検察、財務局、その他ありとあらゆるところに蔓延している」と主張をエスカレート
させ、「私の辞任が国家指導者たちにとって冷水シャワーとなって欲しい」と元の同僚たち
に覚醒を呼びかけた。異国の冷水シャワーは日本の冷や水とは反対の働きをすることを期
待されるらしい。
ウクライナの政界ではこの主要経済閣僚の辞任はすでに既成事実と見なされ、大統領与
党では早くも後釜の人選を進め、後任者の名前まで公表されていた。
しかし、他の国では決して見られない椿事が起こった。キエフのドイツ大使館が大臣の
辞任に反対する声明を出すと状況は一変したのだ。この声明 8)には賛同する西側諸国の大使
も名を連ね、それに米国国務省も加わった。声明では、
「エンデミックな」汚職の蔓延する
ウクライナ(ということは、ウクライナの汚職体質は風土病や特産品みたいなものなのだ)
において「ウクライナ人の利益を自分たち個人の利益よりも上におく」専門家のチームを
率いて奮闘し、改革の実を挙げてきた大臣の辞任に遺憾の意を表明し、ウクライナの政治
リーダーには、「パロキアル(parochial)な違いを捨て」、つまり、偏狭な地域主義を克服
して、改革に邁進するように訴えていた。しかし、この声明文は字義通りではなく、リト
アニア人大臣に「奮闘ご苦労! でも、IMF とドナー諸国の輿望を担った監視人として送り
込まれているのだから、辞任などまかりならぬ」と言っていると読み解くものらしい。
はたせるかな、この声明が発表されると、決めていた後任人事のことなどどこ吹く風の
ポロシェンコ大統領は、早速辞任を表明した大臣を呼び寄せ、密談を終えると、「私は大臣
の改革を支持してきた。辞任を思い留まるよう説得すると、彼は『考えさせてほしい』と
言って退出した」とフェイスブックに書いた。翌日大統領は声明を出した西側の大使一同
を大統領府に招き入れ、「大臣には留任してもらい、改革を続行する」と表明して、一件落
8)
この件はロシアのメディアの記事(http://pronedra.ru/globalpolitics/2016/02/03/protiv-otstavkiabromavichusa/、http://www.ng.ru/cis/2016-02-05/1_poroshenko.html 等)を参考にして書いているの
だが、当然含まれているはずの日本に対する言及がない。そこで駐キエフ日本大使館のサイトで調べると、
「平成 28 年 2 月 3 日掲載」とする記事が見つかり(http://www.ua.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/00_000138.
html)、その題名をコピペすると、「アブロマヴィチュス・アイヴァラス経済発展・貿易省の辞任に関す
る声明」。はたせるかな、この声明文には日本を含め西側諸国の 10 名の大使が名を連ねている。しかし、
あまりにも常識外れの稚拙な日本語なので、駐キエフ米国大使館のサイトで、英文のものを読んでみた
(http://ukraine.usembassy.gov/statements/abromavicius-02032016.html)。こちらは含蓄のある達意の
文章。しかしである。米国大使館の声明文には、その前文においても本文においてもジャパンの J の字も
ない。完全シカト状態! 日本はよほど印象が薄いのか、意識的にバカにされているのか、どちらかなの
だろう。それどころか、全世界のマスコミは上記の声明に署名したのは「9 ヵ国の大使」と報道し、完全
なる日本外しの完全シカト状態、嗚呼!
9
着。泰山鳴動してネズミ一匹も出ない有様だった。外人大臣辞任が引き金となって、喫緊
のガラガラポンへのとば口が開けたかもしれないのに。
ウクライナでは現在、大統領も内閣も議会も手詰まりのデットロック状態。2015 年暮れ
のキエフ国際社会学研究所(KMIS)の世論調査によれば、大統領の支持率 16.8%で不支持
率が 64.9%(就任時とは正反対の結果なのだそうだ)、ヤツェニューク内閣の支持率はわず
か 8.7%で不支持率が 75%、最高会議(議会)に至っては支持率 6.2%で不支持率 78.6%。
どう見てもガラガラポンをして、選挙で新しい「選良」とかを選び直す必要があるのだが、
「ウクライナ人の利益よりも自分たち個人の利益を上におく」輩ばかりらしく、
「国民の審
判」を怖れおののき、手をこまねくばかり。選挙をした場合の予想では、特にヤツェニュ
ークの国民戦線党は比例区で当選できる 5%のバリアを超えることができず、首相はじめ全
員が枕を並べて落選の憂き目に……。一年数か月前の 2014 年 10 月の議会選挙では、好戦
気分の横溢する中で和平党の大統領与党と袂を分かち、戦争党の国民戦線党を結成して、
国民から支持され、比例全国区では 22%強を獲得して大統領与党をしのいで比例区の第一
党となったのが夢のよう。現在一番威勢のいいのは、クチマ元大統領の言う「ウクライナ
政界でただ一人の男」である懐かしきティモシェンコ女史。長らく賞味期限切れ状態で、
前回の選挙では祖国党は 5%バリアをやっと超えただけで 20 人に満たない議員しか当選さ
せられなかったのだから、捲土重来を待望する今日この頃であるが、多勢に無勢、ポピュ
リズムの塊のような舌鋒は相変わらず鋭いものの政界を動かすだけの力はない。
何事も自分では決められないウクライナのことだから、外国に決めてもらわなくてはな
らないのだが、肝心の欧米諸国は他に大問題噴出でそれどころではない。おまけに「ウク
ライナ疲れ」気味で、短気を起こした目付け役の大臣を慰留して静観するほかないようだ
から、ドナーたちも八方ふさがりで手の打ちようがない様子。もしかしたら、憎っくきロ
シアと闇取引してしまうのではないかという観測も出る始末。その間にも経済は悪化の一
途をたどり、他立国ウクライナは『ウクライナの実状』で言及した EU 運営サイトに出て
いた不吉なカットのように、クラッシュして奈落に落ちる日が近づいているのであろう
か?
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