Maranatha May 第五巻 第百十一篇

第五巻
第百十一篇
る。そのみわざは尊厳と威光。その
義は永遠に堅く立つ。
﹂
︵二、三︶
第百十二篇
﹁ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐
れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。﹂
︵一︶
この﹁大いに喜ぶ人﹂とはだれの
ことでしょうか。当然、主イエスで
す。すると歌っているのはだれで
しょうか。 聖霊なる神であられま
げられる。
﹂
︵九︶
この﹁彼﹂をただの信仰者と見る
べきではありません。この﹁彼﹂は、
主イエスにしか適用され得ません。
第百十三篇
﹁ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほ
めたたえよ。主の御名をほめたた
えよ。
今よりとこしえまで、主の御名は
ほめられよ。
﹂
︵一、二︶
このようにイスラエルの民の残り
の者たちに呼びかけておられるの
す。
﹁繁栄と富とはその家にあり、 彼
は、この篇の内容から判断して、主
イエス以外にありません。
の義は永遠に堅く立つ。
主は直ぐな人たちのために、光を
彼らを、君主たちとともに、御民の
貧しい人をあくたから引き上げ、
主は、弱い者をちりから起こし、
身を低くして天と地をご覧になる。
やみの中に輝かす。主は情け深く、 ﹁だれが、われらの神、主のよう
あわれみ深く、正しくあられる。﹂ であろうか。主は高い御位に座し、
︵三、四︶
け与えた。 彼の義は永遠に堅く立
﹁彼は貧しい人々に惜しみなく分
つ。その角は栄光のうちに高く上
(1)
﹁ハレルヤ。私は心を尽くして主
喜ぶすべての人々に尋ね求められ
﹁主のみわざは偉大で、みわざを
れる歌です。
けを回顧して御父を賛美しておら
にご自分に与えられた御父の御助
て千年王国を目前にしてそれまで
第百十一篇は、主イエスがやが
主イエスです。
この﹁私﹂とはだれでしょうか。
と集会において。
﹂
︵一︶
に感謝しよう。直ぐな人のつどい
Maranatha May
私たちの神は、絶対的主権者であ
らのことです。エマオ出版訳エペ
によって贖われた私たちはなおさ
されたのであれば、神の御子の血
民が神の住居とされ、所有財産と
トから贖い出されたイスラエルの
過越の小羊の血によってエジプ
の保証です。そしてそれは、神の
私たち︶の贖い︵の日︶に至るまで
られ、
︵神の︶その獲得物︵である
の所有財産であることの保証であ
この御方︵聖霊︶は、私たちが神
証印によって封じられたのです。
の御方の中に、約束の聖霊による
たがたは、あなたがたが信じたそ
君主たちとともに、王座に着かせ
られ、最高権威者であられるのに
ソ人への手紙第一章十一節から十
る﹂のです。
られる。
﹂
︵五∼八︶
﹁身を低くして天と地をご覧にな
四節までを引用します。
何と憐れみ深い御方でないで
栄光の称賛となるためです。
すなわちあなたがたの救いの福音
(2)
しょうか。
﹁私たちも、このキリストにおい 栄光の称賛のためです。
﹂
第百十四篇
て、ご自分のみこころの決意に
第百十五篇
﹁イスラエルがエジプトから、ヤ 従って全てを実行される御方の目
コブの家が異なることばの民のう 的に従ってあらかじめ定められ、 ﹁私たちにではなく、主よ、私た
ちから、出て来たとき、ユダは神 ︵神の︶所有の民とされたのです。 ちにではなく、あなたの恵みとま
ことのために、栄光を、ただあな
それは、
︵あなたがたより︶早く
エルはその領地となった。
﹂という
﹂
からキリストに望みを置いていた たの御名にのみ帰してください。
私たち︵ユダヤ人信者︶が、神の ︵一︶
真の神を信じる者と偶像礼拝者
意味は、神がユダをご自分の住ま
分の所有財産にされたということ
を聞きました。そして実に、あな
いとされ、イスラエルの民をご自
です。
しかし、偶像信者の神は、
﹁銀や
またあなたがた︵異邦人信者︶も、 との違いがここにあります。 真の
キリストによって、真理のことば、 神を信じる者は、神をあがめ、神
に栄光を帰します。
﹁ユダは神の聖所となり、イスラ
領地となった。
﹂
︵一、二︶
の聖所となり、イスラエルはその
マラナ・タ 5月号
拝しています。実際的に彼らが拝
えない。
﹂実に空しい愚かな物を礼
あっても語れず、目があっても見
金で、人の手のわざである。口が
した。
﹂
︵一∼八︶
足をつまずきから、救い出されま
を死から、私の目を涙から、私の
まことに、あなたは私のたましい
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
にも、
﹁死に至るまで忠実であれ﹂
すから主は、ご自分のしもべたち
御父に忠実であられたのです。で
主イエスご自身が死に至るまで
んでいるものは、サタンです。
感謝することが私たちにふさわし
︵黙示録二 一:〇︶と命じておられ
るのです。全生涯を主にささげて
得ません。
いのです。 ︵次号に続く︶
この﹁私﹂は主イエス以外にあり
せよ。この方こそ、彼らの助け、ま
﹁主が、ことごとく私に良くして
﹁主を恐れる者たちよ。主に信頼
た盾である。
﹂
︵一一︶
の全体を見渡して、そこから教訓
チャンが旧約聖書の壮大な広がり
なのです。
﹂
︵ローマ一五 四:︶
この短いみことばには、クリス
しによって、希望を持たせるため
それは、聖書の与える忍耐と励ま
ちを教えるために書かれたのです。
﹁昔書かれたものは、すべて私た
︵第1部、前半部︶
C・H・マキントシ著 前田大度師
くださったことについて、私は主
ヨシュア記五章より
に何をお返ししようか。私は救い ﹁ギルガル﹂
の杯をかかげ、主の御名を呼び求
る所で。
﹂
︵一二∼一四︶
この尊い主イエスの身代わりの
死によって救われた私たちも、 こ
の神に、私たちの救い主、主イエ
スと共に﹁何をお返し﹂すべきで
しょうか。
﹁主の聖徒たちの死は主の目に尊
い。
﹂
︵一五︶
(3)
第百十六篇
﹁私は主を愛する。主は私の声、私
助け出してください。
﹄
めた。
﹃主よ。どうか私のいのちを
そのとき、私は主の御名を呼び求
みの中にあった。
怖が私を襲い、私は苦しみと悲し
死の綱が私を取り巻き、よみの恐
う。
私は生きるかぎり主を呼び求めよ
の願いを聞いてくださるから。
めよう。私は、自分の誓いを主に
主は、私に耳を傾けられるので、 果たそう。ああ、御民すべてのい
Maranatha May
て、また、自分の霊的必要の性格
分に与えられた能力の量りに応じ
れています。クリスチャンは、自
論の余地もないほど明らかに記さ
と励ましを集めるべき理由が、 異
聖書の力を弱め、神のいのちに
それどころか、私たちの魂に働く
す。空想力を働かせて、荒っぽい
私たちは、ヨルダン川を死の型と
に警戒しなければなりません。そ な性質のためには何よりも健全で
のようなものには何の益もなく、 さわやかであると知るでしょう。
考えや奇抜な解釈に陥らないよう
して見ることになじんできました。
そして、ギルガルの空気が、霊的
らしい教訓を学べることでしょう。
を空にすること、そして、聖書の
いつも注意深くあることと、 自分
え﹂を集めましょう。過ちを犯さ
目し、そこに語られている貴い﹁教
描かれた感動的で有益な場面に注
皆が持っている宗教的な考えは、
も照らすなら、ヨルダンについて
たちの魂に注ぐ真理の光に一瞬で
に全く達していません。聖書が私
経験は、真のキリスト信仰の標準
けれども、このような考え、感情、
岸よりわれを脅かすことあらじ。
水も
ヨルダンの流れも、冷たき死の洪
彼方に景色を見んと欲す。
モーセの立ちし所にわれも立ち、
何度も見聞きしたことでしょう。
と深さとに応じて、そうすべきで
さらに私たちは、ローマ一五章四
信者がこの世を去り、天国に行く
れた別の書簡にも、同様の明確さ
節に記された、﹁昔書かれたもの
あって私たちが成長するのを妨げ
でこう記されています。
﹁これらの
は、すべて私たちを教えるために
す。このことを保証するみことば
ことが彼らに起こったのは、 戒め
書かれた﹂という大原則を、決し
ことです。読者も次のような詞を、
のためであり、それが書かれたの
て、一時たりとも見失ってはなり
ることになるからです。
は、世の終わりに臨んでいる私た
ません。このみことばの力によっ
著者であられる聖霊から直接教え
なければ、ヨルダンの川岸に素晴
(4)
をさらに必要とするなら、霊感さ
ちへの教訓とするためです。
﹂︵1
ていただくように拠り頼むことで
新約聖書を読む時もそうですが、 と共に学び、そして共に、そこに
コリント一〇 一:一︶
て、読者の皆さんに呼びかけます。
旧約聖書を読む時に必要なのは、 ヨシュア記の最初の部分を私たち
マラナ・タ 5月号
るので、正義の胸当てをつける必
す。神の義が永遠にとどまってい
やかに垂れ下げられているからで
具も帯も必要ありません。衣が緩
ません。そこには争いがなく、武
たず、清く聖なる地に警報は鳴り
るのみです。大海にさざ波一つ立
言葉に尽くせない永遠の平和があ
す。一例を挙げると、信者が死ん
のではないでしょうか。確かにそ
でもヨルダンは死を表している
は子供でも理解できることです。
において開始されたのです。これ
とって本当の戦いは、カナンの地
クと戦いました。しかし、彼らに
す。確かに彼らは、荒野でアマレ
時、彼らの戦いが始まったからで
うか。そのようなはずがありませ ん。それは単純に、イスラエルが
ん。天国は休息と平安の場であり、 ヨルダンを渡り終えたまさにその
で天国に行き、そこで戦うでしょ
の通りです。信者はヨルダンを渡
召天を意味することはあり得ませ
ですから、ヨルダンが信者の死と
しかし真のヨシュアであるキリ
知るのです。
に導くことができなかったことを
ら、律法は決して民をカナンの地
からモーセをその役割から見るな
渡ることを禁じられました。 です
お取り扱いによって、ヨルダンを
りません。モーセは、神の政治的
キリスト信仰のどこにも、見あた
キリストの福音のどこにも、 天的
う考えは、神のことばのどこにも、
束の地を見渡したように、クリス
モーセがピスガの頂に立って約
のです。
要はありません。美しく幸いな地
らなければならないのではないで
ストはヨルダンを渡り、しかもた
剣もありません。
には荒野もいばらもないので、 靴
しょうか。そうです。しかし川は
全く不十分であることがわかりま
は不要です。火矢が飛んで来るこ
ご自分の民のために道を開いて下 靴を濡らさずに通って天のカナン
さったからです。この道を通って、 へ入れるようにして下さったので
(5)
チャンもまた同じ場所に立つとい
とはないので、盾も要りません。神
すでに干上がっています。それは、 だ渡っただけでなく、そこを道に
命の君が最も深い所に下られて、 変えてしまわれ、贖われた軍勢が
のです。かの明るく幸いな場所に
民は永遠の相続地へと渡っていく
す。クリスチャンが召されたのは、
は、敵もなく、悪もなく、それゆえ
いのかぶとをかぶらなくても良い
の永遠の救いが達成したので、 救
Maranatha May
は、あなたがたの行くべき道を知
るためである。あなたがたは、今
に!
では、この重大な主題についての
死の川の岸でふるえて立ち、 これ
から先どうなるだろうか不確かで
ます。第一にエジプトでの血の塗
までこの道を通ったことがないか
られた門であり、第二は紅海、第
聖書の教えを、さらに詳しく調べ
三がヨルダン川です。さて、こら
いるためではありません。死の川
ヨシュアは翌朝早く、イスラエル
ら三つは各々、キリストの死の
は信仰によって枯らされています。 てゆくことにしましょう。どうか
人全部といっしょに、シティムを
様々な側面を表す型です。ご存じ
らだ。
﹂
︵ヨシュア記三 一:∼四︶
イスラエルの歴史において、読者
出発してヨルダン川の川岸まで行
のようにキリストの尊い死には
聖霊ご自身が直接、私たちを教え
き、それを渡る前に、そこに泊まっ
様々な側面があるので、その奥義
その力は去ってしまいました。 ほ
た。三日たってから、つかさたち
を学ぶことはクリスチャンにとっ
がよく注目すべき場面が三つあり
なんと栄光ある、開放的な事実で
は宿営の中を巡り、 民に命じて
て何よりもふさわしいことであり、
て下さいますように。
しょう!このゆえに主をほめたた
たの神、主の契約の箱を見、レビ
を尽くして、主をあがめましょう。 言った。
﹁あなたがたは、あなたが
えましょう。贖われた力のすべて
人の祭司たちが、それをかついで
またこれ以上に魅力ある学びはあ
むべき主は、
﹁死を滅ぼし、福音に
を賛美しましょう。彼こそ、死の
いるのを見たなら、あなたがたの
り得ません。ただ永遠という時間
よって、いのちと不滅を明らかに
とげを抜き去り、悪魔という死の
いる所を発って、そのうしろを進
のみが、この奥義の高さと深さを
私たちの霊をかき立てて、この方
示されました。﹂︵Ⅱテモテ一 一
:
力を持つ者を滅ぼし、いのちと光
まなければならない。あなたがた
それに近づいてはならない。それ
聖書の完全な光に照らしてこの主
たちを導いて下さったお方です。 と箱との間には、約二千キュビト 明らかにすることができます。 で
どうか私たちの実際的な歩みが、 の距離をおかなければならない。 すから、力強い聖霊の働きのもと、
このお方の栄光となりますよう
(6)
〇︶
と不死と栄光の広がる領域へと私
マラナ・タ 5月号
題を探り、私たちの内なる人の原
そこに集まっているユダヤ人たち
ヤでも先ずユダヤ人の会堂に行き、
﹁そのために兄弟たちは直ちにそ
ベレヤのユダヤ人たちは初めて
動力・励まし・心の爽快とするこ
とは、実に私たちの喜びとすると
の夜の内にパウロとシラスをベレ
聞く福音に耳を傾けました。 パウ
に福音を語りました。
ころです。
ヤに送り出した。彼らはそこに着
過越の子羊の血によって表され
ているキリストの死を見るとき、 くとすぐに、ユダヤ人の会堂に行 ロが語っていることは、それまで
き始めた。ここのユダヤ人たちは、 彼らが聞いてきたユダヤ教の教理
にしるしとなる。わたしはその血
る家々の血は、あなたがたのため
たしは主である。あなたがたのい
べての神々にさばきを下そう。 わ
初子を打ち、また、エジプトのす
るまで、エジプトの地のすべての
地を巡り、人をはじめ、家畜に至
す。
﹁その夜、わたしはエジプトの
らかばうお方を見ることができま
たちが信じた。
﹂
︵使徒の働き一七
人や男の中からも、少なからぬ者
ギリシヤ人の立派な家柄出身の婦
そして、聞かされたことが本当か
界中何処を探しても、自分こそ宇
いう点でした。
は、聖書が神のみことばであると
素直であった。彼らは非常な熱意
しかし、彼らとパウロとの間に一
をもってみことばを受け入れた。 つだけ共通点がありました。 それ
テサロニケのユダヤ人たちよりも
宙の創造主なる神のことばである
聖書を調べていた。それで、彼ら
彼らも聖書こそ神の唯一の啓示
の中から大勢の者が信じた。また、 の書である確信していました。 世
どうか︵を確かめるために︶毎日
: と主張している書は聖書以外にあ
りません。もし聖書が神のみこと
つとき、あなたがたには滅びのわ
ようにしてベレヤに来ました。い
パウロはテサロニケから逃げる
しかし、もし聖書が神のみことば
ど人騙しの書は他にありません。
ばでないならば、世界中で聖書ほ
とはずいぶん異なっていました。
を見て、あなたがたの所を通り越
一〇∼一二︶
ざわいは起こらない。
﹂︵出エジプ
つもパウロがしているとおりベレ
(7)
そこには、私たちを神のさばきか
そう。わたしがエジプトの地を打
︵続く︶
ト一二 一:二∼一三︶
Maranatha May
神の啓示の書はなく、聖書こそ私
であるならば、聖書以外に絶対に
﹁だれか良い注解書を持っていま
とにしました。
彼らはこのようには考えません
ま丸呑みすればいいのですよ。
﹂
のですか。なんて失礼な。そのま
ら語ってくれます。聖書は生きて
せんか。だれが書いた注解書が最
る教師を呼ばなければならないの
います。少年サムエルのように、主
たちが真実な服従心をもって受け
ご自分の被造物である人間に、 し
ですが、だれが信用できるでしょ
をお語りください。しもべは聞い
でした。彼らは聖書そのものを信
かもご自身が聴く能力を人間にお
うか。聖書にはいろいろな解釈が
ています、と言いましょう。聖書
も信用できるでしょうか。あなた
与えになったのに、その人間に語
あるらしいですが、どれが本当の
のことばを聞きましょう。
﹂
入れなければならない、唯一の神
られないはずがないからです。
解釈かさっぱり分かりません。ど
これがベレヤのユダヤ人の思い
頼していたのです。
ベレヤのユダヤ人は、パウロの
のようにして聖書を調べましょう
でした。彼らは注解書ではなく、解
はどう思いますか。だれか、聖書
メッセージを聴いてどう反応した
か。みんなで読んで、一人ひとり
説書でもなく、有名人の著書でも
の書です。そして、唯一の人格神
でしょうか。
感じたことを言って、多数決で決
﹁聖書は神のみことばです。しか
彼らは、
﹁今まで聴いてきたもの
めましょうか。それも不安ですね。 なく、聖書を開きました。
に詳しい方はいませんか。聖書は
とは違う。ユダヤ教の教理と、こ
﹁大丈夫ですか。間違いなく聖書
が人類に向かって語られた神のみ
のパウロの教えることとは全く違
どうしましょう。わかんなくなり
が解りますか。自分の理解力をそ
も、聖書は神の霊感を受けていま
う。だから信用ならない。
﹂と言う
ました。
﹂
んなに信頼できるのですか。 今ま
す。聖書は、聞く耳のある者に、自
ような態度はとりませんでした。
﹁えぇっ。パウロ大先生のメッセ
でのユダヤ教の教師を呼んできた
するかも知れないから、信頼でき
彼らは本当にパウロが聖書に基
イージを正しいかどうかと調べる
(8)
ことばであるはずです。人格神が、 自分たちで読んでも間違って解釈
づいて語っているのかを調べるこ
マラナ・タ 5月号
方が、安全だと思うのですが。
﹂
や男の中からも、少なからぬ者た
者は呪われるべきであると宣言し
さて、現在にも異なる福音、偽の
ています。
何とすばらしい結果でしょうか。
福音が語られていますが、まだ十
ちが信じた。
﹂
す。私は自分の理解力も信頼して
神はご自分のことばである聖書を
分な知識のない初信者はそれをど
﹁いや、私は聖書を信頼していま
いません。神が私に理解させてく
信じる者を必ず祝福されます。
のようにして見分けることができ
ださると信じます。聖書は、聖書を
信頼している者を、決して裏切ら
偽札を見分けることが見分ける
るのです。
ないのでしょうか。その方法があ
るのでしょうか。見分ける方法は
﹁それで、私は、二つのものの間
ピリピ人への手紙第一章二三節
ないと信じます。聖書自体に、愚か
な者をも賢くする力があると、私
のような者にも理解力を与えてく
に板ばさみとなっています。︵こ
ローマ・カトリックも語ります。彼
かに優れているからです。
﹂
れていれば本物かというとそうで
ガ ラ テ ヤ 人 へ の 手 紙 を 読 む と 、 はありません。偽福音も語ります。
います。聖書の力を信頼しましょ
う。
﹂
彼らはこのような態度で聖書を読
す。なぜならば、そのほうがはる
のです。キリストの十字架が語ら
偽物ではないもです。
しかし、聖書は私たちに本物と偽
(9)
れると信じます。だから心を静め
使徒パウロの時代にもすでに異な
らは三位一体も、処女降誕も、復
ことが非常に難しいように、 偽福
み、調べたのです。
る福音が語られていたことが分か
の世を︶離れ、そしてキリストと
﹁そして、聞かされたことが本当
て、聖書を読みましょう。聖書は生
かどうか︵を確かめるために︶毎日
ります。パウロは、その異なる福 活も、地獄も語ります。偽物とす
音を、 福音ではないのであって、 ぐ に 見 分 け が つ く よ う な も の は 、
音を見分けることも本当に難しい
聖書を調べていた。それで、彼らの
偽物であると断定しています。そ
共にいることを私は切望していま
中から大勢の者が信じた。また、ギ
してそのようなものを宣べ伝える
きています。そして力強く語って
リシヤ人の立派な家柄出身の婦人
Maranatha May
物とを見分ける方法を教えていま
正しい本物の福音は、聞く者を早
中に出て来る他の人のように、 キ
者になろう、あるいはその小誌の
じて、ヒルマン監督のように成功
く天に行き、キリストと共にいた
リストを信じて、この世での成功
はるかに優れているからです。
﹂
﹁彼らは世に属しています。この
い願いを持たせます。
す。
ゆえに、彼らは世に属することを
には、キリストが神の御子であら
語っていることを聞き入れます。
﹂ 上げたことですが、パワー・
︵Ⅰヨハネ四 五:︶
フォー・リビング︵生きるための
﹁彼ら﹂とは偽預言者のことです。 力︶という題で小誌が無料である
偽預言者は世に属していますので、 ところから配られました。その中
具体的な例として、先回でも取り
らば、そのほうがはるかに優れて
とを私は切望しています。なぜな
れ、そしてキリストと共にいるこ
者になってみようという思いを与
語っており、そして世も彼らが
世のことを語ります。ですから本
れることも、贖いも、復活も、キ
その小誌の著者に﹁
︵この世を︶離
を信じようと思わせます。
﹁
︵この世を︶離れ、そしてキリス
ります。
しょう。それでピリピ一 二:三に戻
する内容との差について考えま
では、天に属する内容と、世に属
いと願うようにならせられる人は
早く天に行き、キリストに会いた
ように読んでも、その内容は、こ
この測りは、私たち自身の信仰の
の世での成功者になるための福音 ピリピ一 二
: 三を測りにして測る
であるのです。あの小誌を読んで、 と﹁目の足りない﹂ことが明らか
の世での生きるための、しかもこ
歩みを測るために非常に有効です。
正しくはありません。なぜならば、
けれども、彼が語っていることは
(10)
え、成功者になるためにキリスト
物と偽物との見分け方は、語って
トと共にいることを私は切望して
いません。むしろ、キリストを信
にされるからです。
います。なぜならば、そのほうが
いる者が語っている内容が世に属 リストを信じないで死んだ人間の いるからです﹂という思いがない
することであるか、天の属するこ 死後のさばきについても、少しは、 ことは明らかです。間違いなしに、
とであるかを聞き分けることです。 語られていました。しかし、どの その人もクリスチャンでしょう。
マラナ・タ 5月号
本当の信仰者は、この地上で生き
クリスチャンは、この地上に望み
い主イエスがおられます。本当の
に過ぎません。天には、すばらし
に過ぎません。ただ単なる通過点
世は天に行くまでの一時的な旅路
実なクリスチャンにとって、 この
る天に行きたいと願望します。 真
は間違いです。それは目的さえよ
と恐れる人もあります。その考え
に適ったメッセージはあまりに分
しかし、中には未信者にこの基準
に従って語るべきであるのです。
また福音を語るときも、この基準
について考えなければなりません。
次にこの結婚がいつ行われるか
てつまずきを与えないだろうか、 あるということが分かります。
かりにくくないだろうか、かえっ
第十九章一節に﹁この後﹂とあり
すので、キリストと教会の結婚で
この結婚は、小羊の婚宴とありま
ついて考えたいと思います。まず、
この招かれる者が誰であるかに
黙示録第一九章九節にあります。
い。
﹄と言い、また、
﹃これは神の
を置きません。
﹁主よ、早く来てく
ければ、手段は悪くても構わない
ますので、第十八章の出来事の後
自分のメッセージの善し悪しを判
ださい﹂が心からの叫びであるか
という間違った考えから発してい
に起こることが分かります。第十
真実のことばです。
﹄と言った。
﹂と
らです。ですから、もしこの世で
ます。どうか私たちのなすこと、語
八章において、主イエス様は、大
断すべきです。
の何かを望みとするならば、 それ
ること全てによって主の御名があ
称教会を滅ぼしてしまわれるので
す。それはご自身と偽教会とは全
(11)
るよりも、早くキリストがおられ
は、この世で主に喜ばれることを
バビロンを滅ぼされます。この大
バビロンとは、カトリックを中心
がめられますように。
またこの測りは、メッセンジャー
とした偽教会です。主イエス様は、
行うことだけです。
にとっても、大変重要な測りとな
かれた者は幸いだ、 と書きなさ
あることを明確にするために、自
私たち教会がご自身の真の花嫁で
く人々に、早く天に行ってすばら
しい主イエスに会いたいという願
いを与えるだろうかを基準にして
﹁御使いは私に﹃小羊の婚宴に招
ります。自分のメッセージが、聞
Maranatha May
く関係が無いことを明らかにする
ためです。
ここで患難時代が始まる前に起
こることを整理しておきたいと思
います。
争が起こり、先の十人の王の後に
3.ローマ帝国のなかで、権力闘
からなります。
国が復興されます。これは十カ国
2.地中海一帯を囲むローマ帝
にイスラエルが神様を拒み、サタ
年間の患難時代が始まります。公
てしまうのです。この時を境に、七
タンの立てるキリストを受け入れ
い換えれば、公にイスラエルはサ
トと七年間の契約を結びます。言
5.イスラエルが、この偽キリス
は、黙示録第一一章に記されてい
います。その二人の働きについて
くべき奇跡を行う力を与えられて
お立てになります。この二人は、驚
めるに導くために二人の預言者を
2・神様は、イスラエルを悔い改
与えになります。
しする働きを再びイスラエルにお
に引き上げ、この世界で神様を証
1・ 神様は、
携挙により教会を天
ましょう。
何が起こるかに目を留めて見てみ
同時に、この時代にイスラエルに
に偽教会を滅ぼしてしまいます。 ば、ある程度の時間、また期間があ
るということになります。
これが第十八章に記されているこ
とです。
これらはすべて携挙後に起こり
ます。まだ患難時代は始まってい
十一番目の王が現れ、先の十人の
ンを受け入れたのですから、神様
ます。
ません。
王の中の三人を倒します。これが
も公にイスラエルをさばかれるの
1.まず空中再臨が起こり、教会
偽キリストです。偽キリストは、携
です。
4.その後、偽キリストは、自身
手中に収めます。
す。そして十カ国すべてを完全に
アップを受けて高い地位に昇りま
うことは、地上での感覚からすれ
る前に天で行われるのです。とい
てすべて起こり、患難時代が始ま
後四番までの出来事が地上におい
キリストと教会との婚宴は、携挙
が宜べ伝えられます。
を通して、全世界に神様の御言葉
また悔い改めたイスラエル人たち
イスラエル人が悔い改めに導かれ、
3・この二人を通して実に多くの
(12)
が天に携え挙げられます。
挙のあと残った偽教会のバック
にすべての権力を集中させるため
マラナ・タ 5月号
通らなくてはならないイスラエル
スラエルであるゆえに患難時代を
さて、初めの聖句に戻りましょ
人にとっては、なんという大きな
です。
しては、神様を拒み、前述したよ
う。
﹁主にあって招かれる者は﹂と
4・しかしイスラエル民族全体と
うに偽キリストと契約を結んでし
それでは、この出来事について聖
祝福、望みでしょう。
くとは言いませんから、これは旧
書の他の箇所は語っていないで
あります。すでに天にいる人を招
5・このときに、イスラエル人は
約時代の聖徒たちではありません
まいます。
信仰を持っていても、患難時代を
しょうか。マタイの福音書二十五
﹁そこで、天の御国は、たとえて
し、またもちろんキリストの教会
十字架につけて﹁その血の責任は、 私たちは花嫁です。旧約の聖徒た
言えば、それぞれがともしびを
である私たちではありえません。 章一∼一三節までを引用します。
ちも、すでに天にいるのですから
のようです。そのうち五人は愚か
通らなくてはなりません。イスラ
かかってもよい﹂︵マタイ二七 三: 列席するでしょうが、招くという
五︶と言ったからです。ですので、 表現からすると当てはまらないと
で、五人は賢かった。愚かな娘た
エルは、二千年前に、彼らの主を
考えるべきです。では、いったい
ちは、ともしびは持っていたが、油
それは、携挙後、教会の婚宴まで
たちは、自分のともしびといっ
を用意しておかなかった。賢い娘
︵黙示録一四 一:三︶と言われるほ
どの患難ですが、イスラエルはこ
もお出来になる方です。これは、イ
りませんが、神様はどんなことで
どのような方法によってかは分か
ら、花婿だ。迎えに出よ。
﹄と叫ぶ
た。ところが、夜中になって、
﹃そ
で、みな、うとうとして眠り始め
(13)
われわれとわれわれの子孫の上に
信仰を持っていても、イスラエル
誰でしょうか。
の間に救われたイスラエル人の中
しょに、入れ物に油を入れて持っ
持って、花婿を出迎える十人の娘
人は、イスラエル人であるがゆえ
ないからです。特に、七年間の後
からある者たちが選ばれて婚宴に
の患難を通らなくてはならないの
あって死ぬ死人はさいわいである﹂ 招かれることを意味しています。 ていた。花婿が来るのが遅れたの
半については、﹁今から後、主に
に、この報いを受けなくてはいけ
Maranatha May
が来た。用意のできていた娘たち
で、買いに行くと、その間に花婿
て、自分のをお買いなさい。
﹄そこ
足りません。それよりも店に行っ
がたに分けてあげるにはとうてい
は答えて言った。
﹃いいえ、あなた
えそうです。
﹄しかし、賢い娘たち
ください。私たちのともしびは消
言った。﹃油を少し私たちに分けて
が愚かな娘たちは、賢い娘たちに
自分のともしびを整えた。ところ
す。言い換えればあるものたちは
婚宴に入れてもらえなかったので
のために花婿が迎えに来たときに
の油は十分でなかったのです。そ
持っていたのですが、ある者たち
はともしびのための油をみんな
ことが分かります。そして娘たち
直前に花婿が娘たちを迎えに来る
ます。この箇所によると、婚宴の
はイスラエル人を指すことになり
うことは花嫁は教会です。娘たち
花婿は当然主イエス様です。とい
ことが分かります。人間は、自分
十九章を読むと最低数年間はある
すが、エゼキエル書の三十八章、三
間ですのでそうは長くないはずで
くらいの時間があるかは、準備期
挙後、患難時代が始まるまでどれ
して眠り始めた。
﹂とあります。携
のが遅れたので、みな、うとうと
拝にまで陥るのです。﹁花婿が来る
ヤ書によると異邦人並みに偶像礼
経済的に大変に繁栄し、またイザ
ます。携挙後、イスラエル民族は、
待っている群れがいることになり
えに来てくださることを知って、
は、彼といっしょに婚礼の祝宴に
十分な油を持っていたために婚宴
の思う以上に弱いものです。 回り
たを知りません。
﹄と言った。だか
て、
﹃確かなところ、私はあなたが
い。
﹄と言った。しかし、彼は答え
さま、ご主人さま。あけてくださ
に耳を傾けて、また聖書を学び患
立てになった預言者のメッセージ
常に暗い時代にあって、神様のお
エル民族全体としては、霊的に非
ということは、携挙後の、イスラ
おられます。
む者に神様は大きな報いを備えて
あっても聖書に目を留め続けて歩
しかし、そのような情勢の中に
分な期間です。
(14)
声がした。娘たちは、みな起きて、 ないからです。
﹂
行き、戸がしめられた。そのあと
に入れてもらえたのです。
ら、目をさましていなさい。あな
難時代の始まる前にイエス様が迎
に影響されて心が世に向くには十
たがたは、その日、その時を知ら
で、ほかの娘たちも来て、
﹃ご主人
マラナ・タ 5月号
中再臨が間近であることは、 誰が
えて見ましょう。主イエス様の、空
それでは私たち自身について考
主にお捧げしましょう。
でありますように。心からの愛を
実な良いしもべだ。
﹂と言われる日
せんでした。
その時の蛇は、動物中で最も美し
く、賢かったのです。全てが完全でし
た。
病気を起こすようなものは何一つ
ありませんでした。
地球上の環境も完
全で、
災害などは全くありませんでし
た。
ところが、
アダムとエバが罪を犯し
た時、地球は呪われたのです。人間も
死ななければならないものになりまし
た。蛇も、現在のような姿に変えられ
ました。
その後、人類が一層邪悪な者にな
り、暴虐で地を満たしてしまったの
で、
神はその時の世界を大洪水で滅ぼ
してしまわれました。
それがノアの大
(15)
どのように読んでも、明らかです。
造したのですか。もしそうならば、天
地創造の時から海底火山があったので
すか。
それは文字が読める限りすべての
問 クリスチャンは、
神が全ての生物
信者が否定することが出来ません。
を創造されたと信じていますが、
生物
私たちは、主イエス様の空中再臨
の中には、
人間に病気を起こす害のあ
に前兆が無いことを忘れてはいけ
る微生物もします。また、海底火山の
ません。ですから、それは待って
噴火口の熱湯の中にしか生存できない
いない者にとっては、思いがけな 微生物もいます。
また動物に寄生する
い時に来るのです。しかし、私た 害虫もいます。神はそのようなもの
ちはみことばに目を留めましょう。 も、
そのような環境で生きるように創
かえって、主から﹁良くやった。忠
たのです。私たちは幸いなことに、 答 神が地球を人類が生きる場として 洪水です。その結果、地球上の環境が
信じているクリスチャンすべては 備えられたとき、
すなわちアダムとエ 一変し、人間も含めて、全ての生物が
天に引き上げられます。しかし、そ バを創造された時、地球上は、その上 呪われてしまいました。
の時が、私たちにとって、御前で に生きるために造られて生物と共に、 現在の地球は、
神が創造された時と
恥じ入る時になりませんように、 完全な状態でした。人間に、また全て は全く変わってしまっているのです。
の生物に害を与えるような生物はいま 動物も植物も、
全く変わってしまった
かり、私はすぐに来る。
﹂と言われ
日は近いのです。主ご自身が﹁し
私たちが主イエス様とお会いする
Maranatha May
のです。
さて、
神が全ての生物を創造された
時、
全てをあらかじめ知っておられる
神は、
全ての生物に変化した環境に対
応できる能力をお与えになりました。
神は、
全ての生物が種に従って繁殖
するように生殖細胞に遺伝子というも
のを与えられました。
その遺伝子とい
ド象もアフリカ象も象なのです。
種は
変わらないのです。
す。
今は絶滅しているマンモスもイン
寒冷地には、
食物になる植物が繁殖で
す。現在の害虫の元の形の虫が、それ
が絶滅してしまっているために、
どの
きなくなりました。それで、マンモス
は滅びました。しかし、暖かいところ
に適していた象は、今も生きていま
今は有害な虫も、
また微生物も元は
害のない虫、
微生物であったと考えら
れます。
しかし、
人間の罪のゆえに、
地
マンモスは分厚く密生した毛を遺伝
的に得たために、
寒い気温の低い地域
E-mail:[email protected]
00960-0-57854
(16)
うものは、非常に数が多く、それらの
組み合わせによって子孫への遺伝が決
万個の場合もあります。 たとえば、
チューリップの原種は、
非常にみすぼ
らしい野草ですが、その単純な花に
は、
現在世界中で栽培されている何千
で生きることができました。しかし、
大きな体躯のために大量の草を必要と
しました。マンモスが生きていた時
は、
気温が低くても繁殖し得る植物が
-
球が呪われた時、環境が激変したた ような虫であったかは分かりません。
害
め、それらは遺伝し得る範囲内で、神 現 在 の 害 虫 、有
な 微 生 物 は、人間
が与えられた変化の可能性に従って、 が罪を犯したために呪われた結果であ
無数の変化型を産み出したのです。
そ るのです。
して、
自分に適した環境を見出したも
という種類の変化が出て来たのです。
もう一つの例は、牛です。日本の牛
も、ホルシュタイン乳牛も牛です。そ
して、
毛がほとんどない水牛も同じ牛
大量に存在していました。ところが、
再び気候が変化し、
マンモスに適した
のが、その環境の中で生存し、生存し
得る環境を見出せなかったものは、
滅
んでしまったのです。
であり、
チベットやモンゴルにいる細
くて長い毛が密生しているヤクも牛で
められるのです。
その組み合わせの数
は、
数個の場合もありますが、
何千、
何
マラナ・タ 5月号