日本基督教団銀座教会 2009/02/28 聖書セミナー ―黙示録を学ぶ― 第十一回 藤井清邦 ■第二部 「大いなる都」を裁く神 「最後の七つの災い」 ヨハネの黙示録 15 章1節∼16 章 21 節 ◆最後の七つの災い 15:1 わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、 神の怒りがその極みに達するのである。2 わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に 勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。3 彼らは、神の僕 モーセの歌と小羊の歌とをうたった。「全能者である神、主よ、あなたの業は偉大で、驚くべきもの。諸国の民の王よ、あなたの道は 正しく、また、真実なもの。4 主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての 国民が、来て、あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、明らかになったからです。」5 この後、わたしが見ていると、 天にある証しの幕屋の神殿が開かれた。6 そして、この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来た。天使たちは、輝く 清い亜麻布の衣を着て、胸に金の帯を締めていた。7 そして、四つの生き物の中の一つが、世々限りなく生きておられる神の怒り が盛られた七つの金の鉢を、この七人の天使に渡した。8 この神殿は、神の栄光とその力とから立ち上る煙で満たされ、七人の天 使の七つの災いが終わるまでは、だれも神殿の中に入ることができなかった。 ◆神の怒りを盛った七つの鉢 16:1 また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた。「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に 注ぎなさい。」2 そこで、第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の 像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。3 第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その 中の生き物はすべて死んでしまった。4 第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源に注ぐと、水は血になった。5 そのとき、わたし は水をつかさどる天使がこう言うのを聞いた。「今おられ、かつておられた聖なる方、あなたは正しい方です。このような裁きをしてく ださったからです。6 この者どもは、聖なる者たちと預言者たちとの血を流しましたが、あなたは彼らに血をお飲ませになりました。 それは当然なことです。」:7 わたしはまた、祭壇がこう言うのを聞いた。「然り、全能者である神、主よ、あなたの裁きは真実で正し い。」8 第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。9 人間は、激しい熱で焼かれ、この 災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった。10 第五の天使が、その 鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇に覆われた。人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ、11 苦痛とはれ物のゆ えに天の神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった。12 第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐ と、川の水がかれて、日の出る方角から来る王たちの道ができた。13 わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者 の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。14 これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのとこ ろへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。15 ――見よ、わたしは盗人の ように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。――16 汚れた霊どもは、 ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に、王たちを集めた。17 第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から 大声が聞こえ、「事は成就した」と言った。18 そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が 地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。19 あの大きな都が三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町 が倒れた。神は大バビロンを思い出して、御自分の激しい怒りのぶどう酒の杯をこれにお与えになった。20 すべての島は逃げ去り、 山々も消えうせた。21 一タラントンの重さほどの大粒の雹が、天から人々の上に降った。人々は雹の害を受けたので、神を冒涜し た。その被害があまりにも甚だしかったからである。 1 ■15章 最後の七つの災い ◇2 節-4 節・・・勝利者たちの天上での讃歌 この箇所では正しい審判と裁きをされる神が讃美されており、そのことによって、神を神としない者た ちの処罰と、キリスト者の救済の出来事が切り離すことのできない一体のこととして語られている。1 「火が混じったガラスの海のようなものを見た。」 ・ ・ ・Sr 今道は混沌とした神に敵対するもののシンボルで あった海が「火が混じった」ことによって清められていく姿が記されていると解説する。2 「火の混じったガラスの海とは、神に敵対する力のシンボルである海が、神によって清められ、エジプ ト脱出のときの比ではなく、新しい法にもとづくまったく新しい被造物である海となることの象徴で す。」3とある。 「彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。」・・・Sr 今道の解釈に沿って理解するな ら、清められたガラスの海の傍らに、贖われた信仰者たちは神から与えられた讃美を携えて立っている。 海の岸に立っているとは出エジプトの葦の海の出来事が念頭にあると思われる。 この信仰者たちは、迫害する力に勝利して神の御言葉と信仰を守り通したものである。立っていると はキリストの復活の象徴。黙 5:6「小羊が立っている」参照。 「神の竪琴」4・・・ここでは単なる琴ではなく、わざわざ「神の竪琴」と言われていることに注目。それが「神 の」琴であることが重要。この楽器は人間が持っている人間の楽器ではなく、ケアードやクラフトが言う ように「神から与えられた琴」である。 「モーセの歌」「小羊の歌」・・・モーセの歌は出エジプトの出来事を想起させ、Ex15:1 以下の御言葉との 関係を見出すことができるだろう。一方の小羊の歌は、小羊であるキリストを讃える歌というよりも、 小羊の勝利という恵みの出来事によって、歌うことを可能とされた讃美の歌という理解。5 「主なる神、全能者」「諸国民の王」・・・前述の称号は 11:17 ほかに記されているが、「諸国民の王」とい う称号はここにしか出てこない。また神を王と呼ぶ箇所はこの箇所以外には 17:14、19:16 にある「主の 主、王たちの王」しかない。黙 15 章でこの称号が用いられている背景には、神の終末における全世界的 支配の確立を先取りしていると考えることができる。また「諸国民の王」とはエレミヤ 10:7 に依拠して いると考えられるだろう。6 「聖なる方は、あなただけ」(4 節)言語の意味に「契約に忠実である」との意味を見出すことができる。 神が、信仰者との救いの契約をしっかりと守ってくださり、迫害する者を裁き、御自身の民を救ってく ださるという恵みが示されている。 ◇5 節「天にある証しの幕屋の神殿が開かれた」 1 佐竹明著『ヨハネの黙示録下巻』現代新約注解全書、新教出版社、2009 年、179 頁参照。 今道瑤子著『ヨハネの黙示録を読む』女子パウロ会、2006 年、215 頁。 3 前掲箇所より引用。 4 【琴・解説】古代イスラエルで用いられた弦楽器には琴と竪琴がある。ソロモンの神殿でそれらの楽器を用いて讃美が 捧げられていたことが詩篇の記述からも判る。これらの楽器には指ではじくことによって演奏するものと、バチのようなも ので叩くことによって音を出すものとがある。バチで叩くことによって音を出す楽器は音量も大きく、野外や礼拝の場等 で用いるのに適していたと思われる。 5 佐竹明著『ヨハネの黙示録下巻』現代新約注解全書、新教出版社、2009 年、185-186 頁参照。 6 佐竹明著『ヨハネの黙示録下巻』現代新約注解全書、新教出版社、2009 年、189-190 頁参照。 2 2 幕屋は本来、出エジプトの旅路にあるイスラエルに与えられた移動可能の礼拝施設に安置された十戒 を納めた箱であり、それゆえにその礼拝施設は「あかしの幕屋」と呼ばれた。「幕屋」という表現が用 いられるとき、そこには出エジプトの出来事の想起があることは容易に推測できることであろう。7 またここは神の臨在の場でもある。 ◇6 節「神殿から」・・・神のご意思によってということ。 ◇8節「8 この神殿は、神の栄光とその力とから立ち上る煙で満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまで は、だれも神殿の中に入ることができなかった。」 「煙で満たされ」・・・旧約聖書では煙は神の栄光の現れとして考えられ、神の現存のしるしとして理解 される。(出 40:34、列上 8:10-11、歴下 5:13-14、イザヤ 6:4、エゼキエル 44:4 ほか) まとめ ヨハネの黙示録は、正しい裁きをして神に逆らう悪しき力を滅ぼし、キリストの贖いの恵みに預かっ た者を救われる神の姿を描き出している。しかし主キリストは、ヨハネ 3:16 で「・・・一人も滅びない で永遠のいのちを得るためである」と仰せになる。つまり一人残らず、すべての者のためにキリストは 十字架にかかってくださった。すべての者がキリストの十字架によって神の御救いに預かるようにと招 かれていることに違いはない。であるから、「あの人は救われる人、この人は救われない人」とか、「あ んなに悪いことをしているんだから裁かれ滅ぼされて当然だ」などと聖書の裁きの箇所を振りかざして 発言するのは愚かである。キリストはすべての者のために十字架にかかり、救いを成し遂げてくださっ た。その恵みに応えるかどうかはそれぞれに委ねられたことであるので、万人救済ということは簡単に は言えない。しかし少なくともわれわれがその裁きをするべきではないし、であればこそわれわれは神 を礼拝しキリストを指示し、福音を宣べ伝えなければならないのではないか。 また前回の講義で触れたが、ヨハネ黙示録の書き方は、善と悪があり、神に従う信仰者と神に敵対す るものという非常に二元論的書き方をしている。使徒パウロの場合とは正反対のことを語っているよう にも感じられる。前回の講義録を参照頂きたい。 ■16 章 神の怒りを盛った七つの鉢 ◇概説 七つの封印、七つのラッパの幻と並ぶ、七つの鉢の幻(最後の七つの災い)が記されている。 鉢の幻の特色 ①特に最初の四つにおいて、ラッパの幻における災いとの共通点が多い。 ②出エジプトにおいて神がエジプトに下した災いを思わせる ③ラッパの幻と比べて、災いの程度が限定されていない 7 佐竹明著『ヨハネの黙示録下巻』現代新約注解全書、新教出版社、2009 年、192-193 頁参照。 3 ◇1節「わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた。「行って、七つの鉢に盛られた神 の怒りを地上に注ぎなさい。」」 1節では、神殿からの声が発せられ、七人の天使に神の怒りを地上に注ぐようにと命じられる。鉢に神 の憤りが満ちていることは15:1、15:7で既に明らかにされている。 旧約聖書において、人間に神の怒りが注がれ滅ぼされるという考えについては、詩69:24、エレ10:25、 エゼ22:31、ゼファ3:8などに語られる。 七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注げと神殿から聞こえる大きな声とは、神様のご意思によって 発せられる声である。それが「「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。』と告げる。そ して、7つの鉢が順に注がれていくこととなる。 ◇2節以下・・・2節以下では災厄の記述が規則的になされる。 ◇2節 一つ目の鉢「第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間た ち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。」悪性のはれ物については出9:8参照。 ◇3節 二つ目の鉢 「3 第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の 生き物はすべて死んでしまった。」第二のラッパの幻と酷似。出7:17参照。ほか詩78:44、105:29。 ◇4節 三つめの鉢「4 第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源に注ぐと、水は血になった。」 *5節の水の天使についてはⅠエノク66:2参照。 *天使の声に応えて、祭壇が神の審判の御業を讃美する。祭壇は6章9節以下、8章3節以下などにあるよ うに、殉教者たちの声の役にあたる。 ◇8節 四つ目の鉢 「8 第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許され た。」 ◇9節「9 人間は、激しい熱で焼かれ、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜した。そして、悔い改 めて神の栄光をたたえることをしなかった。」 彼らは悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかったとある。次の第五の鉢の箇所でも「11苦痛 とはれ物のゆえに天の神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった。」と同様のことが語られてい る。彼らは災いのゆえに悔い改めることをしなかった。 佐竹明は「彼らが災害のゆえに自分たちの罪を認め、悔い改めることは、黙示録では一度も前提 されていない」8という。更に「人々は神を冒涜することにより、自分たちが獣の崇拝者であり、大 淫婦に属する者であることを顕にする。」9という。 しかしフランシスコ会訳聖書の15章1節の注には「・・・二頭の獣と、それらを礼拝する者を回心 させるために、しだいに激しくなる七つの災害の前ぶれのようなものである」10とある。 8 9 佐竹明著『ヨハネの黙示録下巻』現代新約注解全書、新教出版社、2009 年、204 頁引用。 前掲箇所。 4 ◇10節 五つ目の鉢 「10 第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇に覆われ た。」・・・鉢が直接「獣の王座」に注がれていることに注目。闇に覆われたとは出10:21以下参照。佐 竹明は、闇に覆われるとき獣の支配の衰微と獣に属する者の大きな苦痛を示していると注解する。11 ◇12節 六つ目の鉢「12 第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれて、 日の出る方角から来る王たちの道ができた。」 ◇13−14節「13 わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三 つの霊が出て来るのを見た。14 これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て 行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」 竜と獣と偽預言者の口から、カエルのような汚れた霊が出てくる。この汚れた霊は「全能者である 神の大いなる日の戦い」に備えて、全世界の王たち、つまり獣(ローマ皇帝)の支配下にある者を集結 させる。 ここに「しるしを行う悪霊」とあることに注目。別の訳の聖書では「奇跡」。神に敵対する勢力が 人々を惑わそうとして、人々が驚愕しその心を惹きつけるような、驚くような業を行う。人々を惑 わす業である。 汚れた霊の招集によって集結した者たちは「全能者である神の大いなる日の戦い」に備えている。 これらの箇所で事柄の牽引役は獣と獣たちから出た汚れた霊にあると思われるが、しかしその戦い の日とは「全能者である神」の大いなる日である。つまりそのイニシアティブをとっておられるのは 主なる神御自身であることが明らかである。12 佐竹明はここでこのように注解する。「全世界の王たちが戦いのために集められたとあれば、そ れを迎え撃つとか、それから逃れる準備をするとか、対処の仕方についての勧告があってよさそう に思えるが、著者は読者に、それとはまったく別の事柄のために備えることを勧告する。ここでは 何を最も重大なことと判断するかが問われている。その判断次第でその人の生き方が決定される。」 13 ここに出てくる「偽預言者」とは、神に反抗して神に敵対する悪しき道を教える教師。新約聖書 で主イエスは偽預言者を警戒するように教えられた。(マタイ7:15、24:11、ルカ6:26、Ⅱペトロ2:1、 Ⅰヨハネ4:1など参照)。 「蛙」については、レビ11:10-12などにあるように、清くない動物の一つ。かえるによるエジプ トの第二の災いが想起される。(出7:26-8:11) ◇15節「15 ――見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている 人は幸いである。――」キリストの勧告を想起させる。(マタイ24:42-44、ルカ12:39-40、Ⅰテサロニケ5:24、 Ⅱペトロ3:10など参照)。 10 フランシスコ会聖書研究所『原文校訂による口語訳・ヨハネの黙示録』1971 年、99 頁。 佐竹明著『ヨハネの黙示録下巻』現代新約注解全書、新教出版社、2009 年、204-205 頁参照。 12 佐竹明著『ヨハネの黙示録下巻』現代新約注解全書、新教出版社、2009 年、210-211 頁参照。・・・終末における戦 いについてはゼカリヤ 12-14 章を参照。 13 佐竹明著『ヨハネの黙示録下巻』現代新約注解全書、新教出版社、2009 年、212 頁引用。 11 5 ◇17節 七つ目の鉢「17 第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は 成就した」と言った。16:18 そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が 地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。」 ◇ハルマゲドン ハルとはヒブル語の「山」をギリシャ語で表記したものであり、マゲドンとはおそらく歴史の中で度々 戦いが行われた場所であるメギドという地名のことであると思われる。つまり、ハルマゲドンとは佐竹 明が言うように純粋なヒブル語ではなく、その名前は秘密めいた印象を与えることを目的としていると 考えることができ、であれば、特定の地球上の場所を週末の最終戦争の場所として特定するような意図 は全くこの黙示録においては有り得ないということである。14 ■解釈と黙想 このような厳しい裁きについての聖書の箇所を読んでいくと恐ろしい気持ちがしてくるかもしれない。 わたしたちのイメージしている、憐れみ深く、いつくしみ深い神様のイメージとは違い、また善き牧者 である主イエスのイメージとは異なっている。 しかし、この16章を読むにあたってはっきりしておかなければならないことがある。それは、どのよ うな事情、どのような背景においてこの御言葉が語られているのかということである。 第一には、ヨハネの黙示録は一章の冒頭で、「この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たち に示すためキリストにお与えになり」と書き出しているように、この黙示録の御言葉は、神の僕、つまり洗 礼を受けて、キリストのからだである教会に結ばれた信仰者に、キリストの十字架によって罪の赦しと 救いの恵みを頂いて、その恵みの中に生かされている信仰者へと向って語られているんだということで ある。この黙示録が宛先としているのは、また読まれることを目的としているのは、神様を礼拝する信 仰者であるということ。であるから、これらのヨハネの黙示録の御言葉を通して語ろうとしていること とは、信仰者への励ましであり、信仰者が地上で激しい苦しみや迫害の中にあっても、キリストを仰い で生きていくように、そのことが語られている。この16章もこうした背景で記されていることを覚える べきである。 次にこの七つの鉢の災いはどうして下されているのかということを知ること。ヨハネの黙示録は大き く分けて1-3章までが手紙の形をとり、教会が、悔い改めつつキリストのもとにたえず立ち戻って生きて いくようにと勧められている。4章以降では、天上の礼拝の光景が描き出され父なる神様のみもとに捧げ られ、幸いな礼拝の姿を知ることができる。そこでキリストは、十字架にすべての罪の贖いとして死に、 復活し天に挙げられた「神の小羊としてのキリスト」として描かれている。この小羊であるキリストが 十字架の上にすべての罪の贖いを成し遂げてくださった、その恵みの事実によって、7つの封印で閉じら れた誰も開くことの出来なかった巻物が開かれ、その小羊であるキリストの十字架の贖いの故に、終末 14 佐竹明著『ヨハネの黙示録下巻』現代新約注解全書、新教出版社、2009 年、214-217 頁参照。同頁において様々 な解釈が取り上げられて論じられている。詳細は割愛したが、参照されたい。 6 の災いや、さまざまな出来事が起こる。つまり、黙示録の5章以降に示されている七つの災いの記事、そ して裁きの出来事というのは、いずれもが、キリストが十字架でわたしたちの罪の贖いのすべてをなし 終えてくださり、わたしたちをキリストのものとし、救い出してくださった、その勝利のゆえにこそ、 その勝利によってはじめて、神様のご支配の下で許されている出来事として書かれている。 黙示録の今日の箇所も同様であって、裁きがなされるのは、救われたわたしたちが、わたしたちを苦 しめている暗闇の力、悪しき力から解放され自由にされて、救いの喜びに与るようにと、神様の恵みに よって与えられている裁きの出来事であり、神様が、神様に反抗する悪しき力をまったく滅ぼし、救い を与えてくださる、そのような出来事であるということに気付かされる。 ◇災いが降された対象物 そこで、この七つの鉢の災いが降されたものが何であったかに注目をすると、第一の災いは地上に、 第二の災いは海に、第3の災いは川と水の源に、第四の災いは太陽に、第五は獣の王座に、第六は大き な川に、第七は空中に注がれている。いずれもが信仰者を苦しめ、飲み干そうとする悪しき力、混沌と した海や川、国の東西を問わず偶像礼拝の対象とされてきた太陽15、獣の王座、空中16なども、悪しき力 の支配する場が見つめられているといえよう。 こうした、信仰者を苦しめ、神の民を苦しめてきた神の逆らう悪しき力が、神ご自身の恵みによって 裁かれ、打ち砕かれていくという出来事が語られている。つまり、わたしたちがこの箇所から聞くべき メッセージとは、わたしたちのために正しい裁きをし、これらの悪しき力からまったく解き放って下さ る神の恵みであるということ。 ◇信仰者の居場所 そこで、わたしたちは今日の16章の御言葉を通して、一つのことが気がかりになるのではないか。そ れは、信仰者の姿がどこにあるのかということ。16章の御言葉を聞く中で、神の民はどこにいるのかと いうことが気になる。16章には直接はそのことが記されていないが、14章を見ると小羊と共に14万4千人 の人々がいたと記されている。小羊と共に小羊の、つまりキリストの十字架の贖いに与った信仰者たち がいる。小羊の守りの中に、神様を礼拝する礼拝者として守られている。そのことに気付かされるので はないか。また7章の9節以下を見ても、そこでも、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集 まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小 羊の前に」いたと記されている。ここでも礼拝者として、神の民は守られている。 ◇まとめ ヨハネの黙示録の御言葉を聞いた信仰者たちは、決して幸福な満足のいく生活を送っていたいわゆる 幸せな人々ではない。この御言葉を聞いた信仰者、また教会は苦しんでいる。痛みを抱えている。しか しそういう痛みの只中で、実は、あなたたちはいることには違いないけれども、小羊の十字架の贖いの 15 黙示録では太陽というのは非常に注意深く扱っているが、特に神の都には太陽がないことに注目。ここでは人々が太 陽を神として礼拝をしてきたそのことが意識されていると思われる。 16 【空中】・・・「空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのであ る。」エフェソ2:2参照。 7 恵みを頂いて、神様を礼拝しつつ、その小羊と共にあり、神様のご支配のもとにあって守られ支えられ ている。いま痛みがあっても、悲しみがあっても、たとえ悪しき力が取り囲み飲み干そうとしていたと しても、しかし、それは決して永続的なものではなくて、神様が正しい裁きをして滅ぼしてくださり、 それらからまったく自由にしてくださる。そういう恵みが力強く告げられ、語られている。 地上に災いが下されているのは、決して悪魔が力を得ていよいよ激しくその勢力を増してきたからで はない。キリストが勝利してくださったからこそ、災いが下されるのであり、悪の力は自らの終わりが 近いことをしってあがいている。けれども、こうした災いがくだされることの背後には、キリストの十 字架の救いの恵みがはっきりと示され、その救いの喜びの中にわたしたちが生かされている、そのこと を覚えるべきだろう。17 17 16 章の黙想と解説については銀座教会での藤井の正午礼拝説教をもとにしています。 8
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