博物館 博物館 - 安城市歴史博物館

ニュース
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安祥文化のさと
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Anjo City Museum of History
2013.6
No. 89
▲安城町鳥瞰図(部分) (パンフレット
「産業の安城」より)
:本館蔵
▲
博物館
ニュース
ISSN 1344-266X
吉野蔵王堂前で:
新美南吉記念館蔵
新
美
南吉
生誕百年記念
特 別 展
事
「南吉が安城にいた頃」
業
平成25年7月 20日(土)~10月6日(日) て送っています。
争を題材にした作品で当時の時代背景を感じ取るこ
この色紙を受け
とができます。
観覧無料
取った教え子が
「新美先生にとり
南吉が安城にいた頃
今年は童話作家新美南吉が生まれて、ちょうど
その中でも、南吉が力を入れて指導していたのは
まして、忘れられ
南吉が安城高女に勤務し始めた昭和13年(1938)
100年になります。これを記念して、歴史博物館で
とりわけ作文の指導でした。当時の教え子の作文帳
ない詩であったに
は、前年の日中戦争の勃発により戦時体制が強化さ
は特別展「南吉が安城にいた頃」を開催いたします。
には、南吉の添削やコメントが丁寧に書かれ、教え
違いありません」
れ始めていた頃でした。
南吉の最も有名な作品である童話「ごんぎつね」
子が書いた作文を丹念に読んだ様子が見てとれます。
と話すように、南
安城町内では防空訓練が行われており、宿直をし
は19歳の時に書かれ、現在日本中の小学4年生に読
しかし、今回の特別展の資料調査で、これまであ
吉にとって特別
ていた昭和14年5月16日の日記には「防空訓練第一
まれています。国語の教科書に初めて掲載されたの
まり注目されていなかった英語の授業に関する資料
な詩を教え子に送
夜。サイレンや警鐘による警報をききとどけて県か
は昭和31年(1956)のことで、以来徐々に掲載教科書
が発見されました。南吉が作成した英語の問題用紙
る、教師としての
ら来ている表に記入しなければならぬのでおちおち
は増え、昭和55年からはすべての国語教科書に掲載
です。
愛情にあふれた南
と眠れぬ。」と記しています。
されています。延べにすると国民の二人に一人が読
写真③ 色紙(個人蔵)
吉の一面を垣間見ることができます。
んでいることになります。
また、学校の行事として勤労作業が行われ、校舎
内や農場試験場、群農会、警察署の掃除をしたこと
この国民的童話作家ともいうべき南吉と安城が関
作家としての南吉
わりを持つようになるのは、昭和13年からのことで
南吉が安城にいた頃には数多くの代表作品を残
に生徒を連れ、福釜の戦死した兵士の家へ手伝いに
す。南吉は約5年間にわたり安城高等女学校(以下、
し、生涯のなかでもっとも輝いていた時期であった
訪れています。
(『見聞録』より)
安城高女)に教師として勤務していました。
とされています。南吉初の童話集『おぢいさんのラ
そのほか宮城遥拝、明治川神社への行軍、慰問袋
ンプ』が刊行されたのもこの時期でした。
の作成などが行われました。
童話だけではなく、詩も多く創作しています。詩
その後、南吉は戦争終盤の重苦しい時代を迎える
には安城のこと、生徒のこと、下宿のことなどを題
一歩手前の昭和18年3月に亡くなりました。
教師としての南吉
昭和13年(1938)3月6日、南吉は安城高女への赴
任が決まりました。
写真② 南吉が作成した英語の試験問題(個人蔵)
が日記に記されています。南吉は昭和15年11月18日
材にしたものも見受けられます。
例えば、詩「百姓家」。
「おききよ この百姓家か
今回の特別展では、彼の作品に少なからぬ影響を
昭和16年に入学した22回生が長い間保管していた
ら もれてくるハモニカの声を 誰かが風呂にはい
与えたと思われる安城の町の様子やその時代を再現
資料で、問題用紙は全部で4枚ありました。写真②
りながら ハモニカを吹いているのだ(中略)
そんな
します。展示資料は戦時中の資料や絵葉書のほか、
は、左上に「2年英語」と書かれていることから昭
若い者がここの家にはいるんだ こんな見すぼらし
昭和15年当時の安城町町並み模型を展示します。ま
和17年の英語の考査試験のときに使われた問題用紙
いかやぶきの 百姓家だが、ここには明るい幸福が
た駅前商店街の地図や市内の南吉が訪れた場所をパ
です。南吉は昭和17年に1、2、4年の英語を担当
あるのだ
(以下略)
」
。南吉は昭和14年(1939)から学
ネルで紹介します。
しているため、南吉がこの問題を作成したことがわ
校の方針によ
また、童話や詩の自筆原稿、手紙とともに英語の
かります。
り、安城町出郷
問題用紙などを展示し、作家であると同時に教師で
英 文 は き れ い に 整 っ た 筆 記 体 で 書 かれていま
(現 在 の 安 城 市
写真① 教員免許状(新美南吉記念館蔵)
す。問題は英文や単語を「解釈シナサイ。」という
新田町)で下宿
この夏、安城の新美南吉に会いに来てください。
形式がほとんどですが、別の問題用紙では「I am
しています。こ
(鳥居 直)
その3日後、初めて安城高女へ足を運んだ南吉は
doing.」に対し「次ノ文ハ何形カ」、
「Itハ何人称カ」
の詩は、南吉が
「さて、僕は女学校の先生です。何だかヌクヌクし
や「kハ母音カ子音カ」などが出題されています。
その下宿での事
て歩いている。この間まで感じていたあの運命的な
作文の指導だけではない、教師であった南吉の一面
象を詩にしたも
素寒貧-あれはどうしたというのだろう。こうあっ
をうかがわせる資料です。
のとされていま
さり人間は一つの運命から他の全然異なった運命に
授業以外でも、南吉が教師として生徒と交流をし
す。
住みかえられるものか」と隠し切れない喜びと高揚
ていたことを示す資料があります。
また、戦時色
感を日記に記しています。
写真③は、19回生が昭和17年3月に卒業するにあ
を色濃く反映し
着任して早々に、南吉は入学した19回生の担任を
たって、南吉が書いて送った色紙です。
た詩もありま
します。南吉は東京外国語学校(現・東京外国語大学)
この2か月後、卒業した19回生に配られた級報
の出身だったので、この年の担当授業は全学年の英
「雪とひばり」の最後に「三年前のノートから」と
語でした。また1、2年の国語と農業も担当してい
題して、この詩が掲載されています。南吉は、3年
詩』(国民国書刊行会刊)には「裏庭」「大東亜戦争
ました。
前、つまり昭和14年に作った詩を思い起こし、書い
勃発の日」の2篇が掲載されています。いずれも戦
-2-
写真④ 『少国民のための大東亜戦争詩』
(本館蔵) もあった南吉の姿に迫ります。
す。
『少国民のた
めの大東亜戦争
写真⑤ 慰問袋を囲む安城高女の生徒 (『16回生卒業アルバム』より)(個人蔵) -3-
村絵図を歩く Ⅵ ですが、台地上の開析谷に開
館長
高 山 忠 士
かれた田と林地との間に稲干場
が分布し、坪井と呼ばれた小さ
な用水池が数多く点在していま
通ったり村々を結んだりする道
実は、絵図に基づいて安城が
みると、字花の木だけで溜池が
原を復元するためには補足の資
17か所、合わせて300坪、稲干
料が必要になります。絵図はそ
の描かれた目的によってデフォ
場や用材林の中にあった井戸や
用水溜が35か所、合わせてやは
木
花ノ
池田池
丼
下
田
山
大
上小入道池
丸まや池
五斗まや池
ながやま池
山田池
す。例えば、地籍帳で確かめて
(朱色)が通っていました。
花ノ木
池
寺田
池
満虫
池
ルメされていたり、生活に関わ
り300坪ほどの広さであったこ
梔池
はまくて池
天草池
りが少ない部分が省略されてい
とが分かります。また、開析谷
たりし、近代になって成立した
に開かれた字大山田 下 丼(現在
地形図等と違って現状との比較
のクラボウ安城工場から桜町西
がしにくいからです。
交差点辺り)でも溜池、用水溜、
これまでもたびたび使ってき
井戸合わせて47か所680坪もの
た補足資料に明治23年(1890)陸
灌漑用の水源があったことが分
地測量部が作成した地形図と、
かります。これら灌漑用の井戸
明治17年に作成された地籍図と
や溜池は明治用水通水以前から
があります。地籍図は当時の政
安城が原の開発のために営々と
府が地租を課すために作った図
築かれてきたものです。絵図の
で、図とは別にある、一筆一筆
時代から幕末にかけて、安城村
の土地の地番と地目、広さ、地
の 新 田 は18haあ ま り 増 え た と
しもどんぶり
価が記された地籍帳とセットに
〔図2〕明治17年(1884)地籍字全図(安城村)
なっています。
〔図1〕天明7年(1787)安城村絵図写(西尾町内会所蔵)部分
いう記録がありますが、これら
多くの灌漑用の井戸や溜池が
明治17年といえば、天明7年
村絵図はその様子をよく表しているといえます。ま
新田開発には欠かせなかったのでしょう。
から100年ほど過ぎた時代です。明
た、
「山」を縫うように水田化された谷筋があり、窪
用水通水後これらの灌漑施設は不要になり、やが
これまで数回にわたって天明7年安城村絵図写に
治用水が引かれて4年がたち、安城が原の開発が本
地に田が開かれていたことも分かります。しかし、
て耕地化されていくことになります。図2で用材林
よって村絵図を歩いてきました。「歩く」といって
格化し始めた時代です。それでもまだ用水通水前の
絵図と地籍図を比較してみると、絵図の方は東西方
や草生、稲干場であったところも明治用水の恵みに
も、村絵図に記された状況が現在の風景の中にどん
名残が色濃く残っています。絵図で示されたため池
向がかなり狭く表現されています。安城が原は絵図
よって耕地化がすすみ、かつての安城が原の姿はや
な形でのこされているかを巡る散歩とでもいうよう
(黄土色の部分)であったところは水源としての必要
で表された以上に広かったわけです。それに比べ、
がて失われていきます。
なものでした。
がなくなったことから排水され、草生になっていた
本村である西尾や東尾、そして沖積低地に広がる田
安城を中心とする碧海地方は大正から昭和初期に
今回はこれまでとは少し趣を異にし、これまで触
り、試作田になっていたり、早くも田となっていた
や島畑の様子は絵図と地籍図との違いはあまり見ら
かけて日本デンマークと呼ばれる農業先進地になり
れてきたことも併せて、かつて「安城が原」と呼ば
りします。用水通水以前から田であったであろうと
れません。
ます。その要因には様々なことがあげられますが、
れた地域の様子をできるだけ復元してみたいと思い
ころの様子も読み取れます。そのため土地の高低差
また、絵図では安城が原にある田の割合が小さい
その根底にあるのは、近世から水利に乏しい安城が
ます。安城が原は碧海台地上に展開する未開発の平
は示されていませんが、ため池の形や開析谷の様子
ように表されていますが、地籍図で見る限り、安城
原を、労力をいとわず切り開いてきたこの地方の
らな原野というイメージがありますが、果たしてそ
など台地上の凹凸が地形図以上によく分かります。
が原中の開析谷に開かれ田はかなりの広さになり、
人々の営みにこそあったのではないでしょうか。
うだったのでしょうか。実は、碧海台地は平坦面で
図2はその地籍図の地目ごとに着色し、その当時
用水通水以前から開析谷での水田開発が進んでいた
村絵図を歩く安城村編はひとまずこれで終わり、次
はなく、その中に起伏があったり開析谷が入り込ん
の土地利用状況が分かるようにしたものです。緑色
ことが容易に想像されます。もちろん用水通水後に
回からは他の村を歩いてみたいと思っています。安
だりして、結構凹凸が多く多様な表情をもった地域
が田、黄色が畑、橙色が用材林、水色が草生、赤色
田や畑は増えているでしょうが、通水わずか4年後
城市域の町はその変化が激しく急なため、絵図を歩
でした。
が宅地、紫色は稲干場等に色分けしました。
のことですから、新たな開発としては、水利の乏し
くことはどんどん難しくなりそうです。(高山忠士)
図1の左半分、緑色で表されたあたりが安城が原
地籍帳を作成するときに、安城が原の「山」と呼
かった「山」や「原」部分の耕地化や、池であった
と呼ばれた地域です。江戸時代中期の絵図からも
ばれたところが用材林、
「原」と呼ばれたところが
ところを排水して耕地化することの方が優先された
分かるように池が点在し、その水を利用した水田
草生として地目指定されたものと思われます。
はずです。
これを見ると、安城が原には広く「山」が広がり、
図2では縮小されているために分かりにくいの
(灰色の部分)が谷に沿って開かれ、作場(耕作地)に
くさばえ
-4-
-5-
参考資料:『新編安城市史2通史編 近世』
明治10年調安城村地籍帳
昭和12年愛知県碧海郡安城町全略図
こ う さ く
安城と山田耕筰
~耕筰の家系~
見 学 学 習 紹 介
日本の音楽家として有名な山田耕筰は、明治19年
(造)と碧海郡榎前村(市内榎前町)の士族高橋秀則の
(1886)、東京で生れました。耕筰が作曲した童謡「赤
姉久(届にはきさとあり)の結婚による送籍願と縁組
歴史博物館の「基本方針」の一つに「博学連携」
火起こし体験では、4名程度で一つのグループを
とんぼ」や「この道」は誰もが耳にしたことがある
届(写真)もありました。これにより山田耕筰の父と
があります。この基本方針を具体的に表す代表的な
作り、全員が分担・協力して火起こしに挑戦します。
有名な曲です。耕筰は日本オーケストラの父ともい
母が今の安城市で結婚したことが確認できました。
ものとして見学学習があります。対象学年は小学6
昔の人々の苦労に思いをはせながら取り組みます。
われています。
また母方の祖父、馬術指南役の高橋清吾ですが、
年と中学2年ですが、他の学年も数多く来館し、学
火がついたときには全員が歓声を上げ達成感を味わ
耕筰には、姉にイギリス人と結婚したガントレッ
前述の『板倉藩士略譜』には、下級武士にあたる足
習の場として利用しています。また、見学を通して、
います。当館独自の活動で、希望する学校も数多く
ト恒(恒子)の名前で知られている婦人運動家がいま
軽としてその名前がみられます。この足軽の高橋清
児童・生徒が安城の歴史や自分たちが現在生活して
あります。
つね
す。恒は、明治6年に三河国碧海郡箕輪村で生まれ
いる地域の歴史を形取る「ひと・こと・もの」に興
ました。両親は今の安城市箕輪町に住んでいたので
味・関心を抱き、当時の様子に思いをはせたり、今
す。しかし、恒が生まれてまもなく一家は東京に移
後の学びを広めたり深めたりする大きな契機となる
住しました。
ことをねらいとしています。
父は、山田謙三、母は久といわれています。恒の
主な学習内容として、常設展の見学や埋蔵文化財
伝記『七十七年の思ひ出』によると、謙三の父山田
センターの見学、火起こし体験、鎧・古代着試着体
精一は重原藩の御殿医、久の父高橋清吾は、重原藩
験があげられます。ほかに、学校の要望に応じてビ
主の馬術指南役として藩の領地替えにより福島から
デオ視聴や講話も行っています。
三河へ来たとあります。
明治6年 山田謙造ときさ(久)の縁組届
重原藩は明治に入り陸奥福島藩
(福島県福島市)が
常設展の見学では、4名のボランティアガイドが
4か所を中心に、小学生を対象に展示物や掲示物な
今の知立市上重原町を中心に刈谷市や安城市・豊田
吾が三河に移住したことは書かれていません。ただ
どの解説を行います。中学生は調べ学習プリントを
市の一部を領地替えとしてできた新しい藩です。そ
し高橋清吾の息子の一人唯吾は榎前村井杭山に移住
基に自主学習に取り組みます。見学を通して安城の
のため福島から藩士たちが西三河へ移住してきまし
していることが『明治村史 下巻』にみえます。榎前
歴史の変遷を具体的に実感することができ、学校で
鎧・古代着の試着体験では、当館学芸員やボラン
た。安城市域では、市域西部の野田村
(字二本木)や
村は重原藩領でした。また、久の妹で恒を養女にし
の歴史学習にも大いに活かされています。
ティアガイドの説明を聞いた後、3人一組で試着を
箕輪村・福釜村・榎前村・大浜茶屋村が重原藩領で
たかねは「西端村士族家族土地取調帳」に「愛知県
行います。鎧を装着することの大変さや、身につけ
した。しかし明治4年には廃藩置県となり、俸禄を
士族高橋唯吾妹」とあり、高橋清吾の娘と考えられ
たときの重量感などが体感できます。同時に古代着
失った藩士たちの生活は苦しく、役職などにつけた
ます。秀則と唯吾が同一人物である確実な資料はあ
の試着を行い、古代人の生活の一端を感じ取ること
もの以外は、福島へ帰る者や東京へ出る者などあり、
りませんが、母方の祖父が士族であることは間違い
ができます。
三河の地に残る者は少なかったといわれています。
なく、そこから両親の出が重原藩の士族として恒は
恒の伝記には、耕筰の祖父は山田精一といい重原
記憶違いしていたと考えられます。
藩の御殿医とあります。詳しく書かれていませんが、
ちなみに久の妹かねは、西端藩(碧南市)の大塚正
祖父精一は彼女が生まれたときにはすでに没してい
心と結婚して東京に住んでいました。謙三と久はか
ます。しかし『福島市史資料叢書第62輯板倉藩士略
ねと正心を頼りに東京へ出ています。医者の家系で
譜』にも山田精一なる御殿医はいません。
あった正心は、早くに洋学を学び、明治に入るとキ
恒の伝記によれば、東京に移住した一家は母久の
リスト教の伝道師になり、その後目黒村(東京都目
埋蔵文化財センターでは、土器の修復作業や修復
妹夫婦の住む家に身をよせ、恒が2歳の時にこの叔
黒区)にハンセン病施設である慰廃園の監督者とな
された土器のトレース作業などを見学したり、復元
母夫婦に養女として引き取られ、後に寄宿舎付きの
りました。正心死後も患者の世話や理事として経営
土器を見たり触れたりする体験も行っています。
女学家塾(桜井女学校)へ入学しました。このため三
まで任されたかねは、救らい事業に関心のあった貞
河でのことや祖父母のことなどが不明確なのです。
明皇太后(大正天皇皇后)から「目黒のとしより」と
本館所蔵の箕輪村文書に耕筰の祖父山田精一の名
呼ばれました。
前があることは以前から知られていました。嘉永7
150年近く前に、遠く福島から三河の地へ藩士たち
また、
「博学連携」の一環として、各学校に出向い
年(1854)3月に尾張国海東郡蟹江本町(海部郡蟹江
が移り住み、多くが離散していきました。音楽家山
ての「出前授業」を実施したり、市内外の中学校の
町)から「医業渡世ニ御座候」と医者を生業にして
田耕筰は、東京で生まれましたが、彼の家系や親戚
職場体験の受け入れを行ったりして、各学校との連
いる山田精一が妻子を連れて碧海郡箕輪村へ越して
は当地域に関係のあることがわかります。山田耕筰
携がより深まるように努めています。(鈴木豊幸)
きたことがみえる史料です。さらに箕輪村文書には
の両親や重原藩士について少しでも解明できるよう
明治6年3月に箕輪村の医者山田精一の長男謙三
今後も調査を進めていきたいと思います。
(水谷令子)
-6-
火起こし体験「少し煙が出てきたかな」
常設展の見学「顔の入れ墨がよくわかるね」
鎧の試着「ひもを結ぶのに力がいるね」
復元土器さわり「少しざらざらしてるね」
-7-
聖徳太子絵伝
一年に2幅ずつ制作してきた聖徳太子絵伝の模写
の持ち物でした。間違って渡されていたのです。そ
も、3年目が終了しました。昨年度はみどころの多
こで太子は法隆寺の夢殿にこもり、魂を衡山へとば
い第1幅と第8幅が完成しました。第8幅には太子
して慧思の法華経を衡山から持ち帰りました。太子
絵伝全体の中でも特に重要な、中国・衡山の場面が
は7日間も夢殿から出てこなかったといいます。再
登場します。画面には東シナ海の大海原と、小野妹
び妹子が衡山へ出向くと、僧たちは妹子に、太子が
子がのる遣隋使船、雪をいただく聖地衡山が雄大に
青竜のひく車にのって衡山にあらわれたときの様子
描かれています。
を語りました。
こうざん
さん
衡山の説話は、聖徳太子が書いたといわれる『三
ぎょう ぎ しょ
ほ
け
しょうまん
ゆい ま
経 義疏』(法華経義疏・勝鬘経義疏・維摩経義疏の
総称)に関係し、太子の前世を説明するもので、多
絵伝の場面
くの太子絵伝で取り上げられるものです。
画面中央には遣隋使船が描かれます。よく見ると
本證寺の太子絵伝では、ほとんどの箇所で下から
黒い束帯の小野妹子の姿もあります。この場面につ
順に場面がならべられますが、この部分では海と
いて、今回の模写では、外国の官人を思わせる服装
山、法隆寺夢殿と立ち上る雲をゆったりと配置し
の人物が乗船していることから、隋の勅使を送りか
て、ひとつの場面に仕立てています。このため話の
えす2度目の遣隋使を描いていることがわかりまし
順番どおりに場面がならびません。他にも第1幅の
た。
誕生や第2幅の百済僧日羅の場面などが、順番を無
画面の左には衡山があります。山道を登る様子や
視して大きな一場面を構成する箇所で、この構成を
慧思の弟子たちに面会するところなど、細かく場面
とる箇所が、重要な内容の説話と考えられます。
が描き分けられます。黒い束帯姿はどれも妹子です。
画面全体の右下が届けられた法華経を太子がみる
場面です。その上が夢殿です。屋根から湧き上がる
説話のストーリー
雲の中央には青竜がひく車に乗る太子が描かれま
不思議なことですが、聖徳太子の死後まもなくか
す。まわりは貴人たちがとりまき、四天王が一行を
ら、太子は観音菩薩がこの世に生まれ変わった姿と
先導しています。 (天野信治)
考えられていました。この話は奈良時代にはさらに
え
し
発展し、前世は中国の高僧慧思
(中国で天台宗を開
ち
ぎ
く智顗の師)であったと説明されていました。日本
に仏教を普及させるため、慧思が日本に皇子として
生まれ変わった人物が聖徳太子と考えていたので
す。
歴史の教科書などでは、天皇が隋の皇帝にあてた
国書をとどけ、交流をはかることが遣隋使の目的と
あります。しかし太子絵伝のもとになった中世の聖
徳太子伝では、太子が小野妹子に指示したのは、前
世で大切にしていた仏像と法華経を、慧思が住んで
いた衡山へ受け取りに行くことでした。聖徳太子36
歳のことです。
翌年、妹子が衡山で受け取った法華経をたずさえ
て帰国します。ところが太子にみせると、実は弟子
聖徳太子絵伝 第8幅(模写)の衡山説話部分
博物館ニュース №89
平成25年6月発行
編集・発行 安城市歴史博物館
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