ハンセン病患者に対する終身隔離政策 ―「らい予防法」にみる人権侵害―

政治・政策ダイアローグ(2002.7.)
ハンセン病患者に対する終身隔離政策
―「らい予防法」にみる人権侵害―
森田 喜志子(元国立療養所多磨全生園・看護師)
政治学専攻 2002 年 3 月修了
1.「らい予防法」の隔離政策
はじめに
わが国は、ハンセン病患者に対し、世界に例を
明治維新政府は、コレラ患者発生に対し、隔離
見ない終身隔離政策を実施した。隔離政策の根
政策を実施した。開港地におけるコレラ患者感染
幹である「らい予防法」は、約 90 年間存在したので
爆発に対し、衛生警察は、コレラ患者を強権的に
ある。2001(平成 13)年、5 月 11 日、熊本地方裁判
避病院へ隔離した。
所は、その違法性を指摘した。終身隔離政策は、
他方、放浪徘徊し、市井で生活していたハンセ
1907(明治 40)年、法律第 11 号「癩予防ニ関スル
ン病患者は、維新政府の欧化政策によって目障り
件」の公布に遡る。放浪・徘徊するハンセン病患者
となり、「癩予防ニ関スル件」の公布により療養所
は、療養所に隔離され、結婚の条件として、1915
に隔離されていった。終身隔離政策のはじまりで
(大正 15)年からは、違法な断種が行なわれた。
あった。
[1]
また、地方自治体を中心に、「無らい県運動
が展開され患者狩りに発展する。懲戒検束
[2]
」
(1)明治政府の伝染病対策
によ
コレラ対策 維新政府の急激な近代化は、横浜、
って、患者は、園長や職員の恣意のまま処罰を受
長崎といった開港地におけるコレラの猖獗を招く。
けるようになった。戦後、米軍政下の沖縄では、国
コレラによる死者は、明治 12 年、19 年に約 15 万
際的動向に沿い外来治療と社会復帰が推進され
人に至り、公衆衛生の無力さが露呈された。衛生
た。しかし、本土復帰後、隔離政策は継続された。
警察は、コレラ患者の強制隔離、消毒、交通遮断
[3]
の開
をしてコレラの流行を防いだことから、警察力は拡
発により治癒する病となったが、わが国では、国際
大した。避病院は、「隔離のための強制収容所」の
的に批判を浴びながら隔離政策を採り続けた。
様相を呈した(笠原 1999:48)。ハンセン病患者に
戦後、ハンセン病は、結核同様、治療薬
日本のアウシュビッツといわれた特別病室事件
対する施策を暗示していた。
に関連した国会答弁において、1948(昭和 23)年、
[4]
放浪者の取り締まり 外国人宣教師たちは、路上
は、予防法改正と患
で放浪・徘徊するハンセン病患者たちの悲惨な姿
者の社会復帰に言及したが、隔離政策を堅持する
を目にし(三宅 1991:47)、救いの手を伸べた。マ
東龍太郎厚生省医務局長
[5]
光田健輔国立長島愛生園長
の反対で実現しな
ザー・テレサの実践した博愛精神があった。日本
かった。日本が、ファシズムに向かった社会背景
各地には、外国人宣教師によるハンセン病患者の
が、「らい予防法」を存続させたといえる。「らい予
施設が設立されていった。放浪するハンセン病患
防法」の廃止が、1996(平成 8)年に至った要因を
者たちは、1907(明治 40)年の「癩予防ニ関スル
考察する。
件」の公布により、公立の療養所に隔離収容され
(ハンセン病は、これまで「癩(らい)」ともよばれて
ていった。「らいに対する国の施策の黎明を迎える
きたが、以下、原則としてハンセン病という。)
ことになった。しかし夜明け前が最も暗いといわれ
るごとく、施策の黎明期は新しい暗黒時代の始まり
であった」(大竹 1996:20)。ハンセン病患者に対し、
絶対隔離政策が推し進められていく。療養所に収
容され監視の対象となっていった(全患協 1977:
17)。
203
ハンセン病患者に対する終身隔離政策(森田)
(2)ハンセン病患者に対する締めつけ
患者たちは、懲戒検束規定によって、些細なこと
無らい県運動 1929(昭和 4)年、内務省衛生局は、
で取り締まりの対象となった。治療の場ではなく収
「癩を根絶し得ないやうでは、未だ真の文明国の
容所といわれた。職員の多くが、警察官経験者で
域に達したとは云えない。この意味に於いて、日
あったことからも、監視は厳しいものであった。
本人の文明はまだ半途である。癩を以って仮に文
検閲 熊本裁判のきっかけをつくった、原告で作
明の尺度とする時、吾等は日本の現状を顧みて、
家の島比呂志は、著作『癩院監房』を、園内の検
忸怩たらざるを得ない」(藤野 2001:126)と国民に
閲によって出版できなかった。しかし、1947(昭和
呼びかけ、ハンセン病患者の根絶が文明の証しで
24)年、鹿児島の療養所の機関誌に、新憲法によ
あると宣伝された。全国的に「無らい県運動」が繰
って基本的人権の保障と治癒する病となった喜び
り広げられ、患者は、在宅で居られなくなった。
を著した。当局におもねた入所者から掲載を反対
ハンセン病患者と結核患者の格差 ハンセン病と
された一文であったが、隔離政策からの開放への
結核は、同じ抗酸菌の疾病であり、兄弟の菌ともい
期待であふれていた。しかし、ハンセン病患者の
われる。治療薬のない時代、両者とも、偏見・差別
基本的人権は無視され続けた。
の対象であった。戦後、治療薬が開発され、両者
(2) 「特別病室」という名の重監房
とも治癒する病となった。しかし、結核は、治癒す
「特別病室」事件 群馬県草津にある国立療養所
る病として一般に認識されていったが、ハンセン病
栗生楽生園に設置された「特別病室」では、1947
患者に対する偏見・差別は根強く残っていった。
(昭和 22)年に発覚するまで、92 名監禁され、14
要因として、終身隔離政策と患者数の違いを上げ
名が獄死、出所後 8 名死亡している。寒さと餓えに
ることが出来る。ハンセン病患者総数は、約 3 万人
より、患者を抹殺するに充分な施設であった。無断
といわれた。結核患者総数は、約 100 万人から
外出や熊本県本妙寺のハンセン病患者集落が解
150 万人(1950 年代)であった。結核死亡者数の
体され、その指導者たちが投獄されたように、見せ
最高は、1918(大正 7)年、約 14 万人であり、いわ
しめの役割が大きかった。
ゆる、亡国病とも称された。しかし、治療薬開発以
「特別病室」事件の国会報告 特別病室事件は、
後、結核は治癒する病として国民に浸透していっ
「楽生園問題」として国会で取り上げられ、虐待死、
た。ハンセン病は、隔離政策によって強烈に怖い
監禁の事実等が明らかにされた。しかし、一松厚
伝染病として定着し、忌み嫌われるようになってい
生大臣は、ハンセン病患者への人権蹂躙を認め
った。ハンセン病患者の多くは結核で死亡したが、
ながら、患者運動の沈静に役立ったと、矛盾した
ハンセン病患者は、結核患者を羨むようになって
発言をしたのである。
いった(『差別としてのライ』)。
東龍太郎厚生省医務局長は、国会で、「旧法改
正案・社会復帰案」に言及した画期的な答弁であ
2.旧らい予防法改正案・社会復帰案
った。しかし、翌年の所長会議において、光田園
ハンセン病患者迫害の最たるものが、群馬県草
長の、「軽快者だとて出してはいけない。遺言とし
津栗生楽生園内に、1938(昭和 13)年に設置され
ておく」とした主張の前に挫折してしまった。「所長
た特別病室であった。実質は、重監房であり、『日
会議メモ」として残されているが、光田園長の発言
本のアウシュビッツ』(高田 1999)であった。特別病
を支持する日本社会の土壌があったことも否めな
室事件は、戦後、選挙権を与えられた患者たちが、
い。
来園した候補者に直訴したことから発覚した。1948
(昭和 23)年,東龍太郎厚生省医務局長は、「旧ら
3.「人間回復」の闘い
い予防法改正案と社会復帰案」を国会で答弁した
「療養所でなく収容所」といわれたハンセン病療
が、光田健輔たち療養所派の医師の反対で立案
養所の医療体制は不十分であり、療養所は患者
されなかった。
たちの作業[6]によって運営が成り立っていた。
(1)懲戒検束規定と基本的人権
プロミンの出現により、治癒する病となったにも拘
わらず、光田園長ら 3 園長証言[7]にそい、1953(昭
患者取り締まり 療養所に収容されたハンセン病
204
和 28)年、「らい予防法」は改定された。
は、根強く残っている。2000(平成 12)年、鹿児島
1998(平成 13)年、「らい予防法」は違憲とした判
大学皮膚科の学会雑誌には、ハンセン病と診断さ
決が、熊本地方裁判所において下された。不条理
れた 90 歳女性の自殺が掲載された(全療協 2001:
な人生を歩まざるを得なかったハンセン病患者た
130)。
ちによる人間回復の闘いの成果であった。
ハンセン病に関する国際会議 わが国のハンセン
(1) 「らい予防法」廃止の問題点
病患者に対する隔離政策は、第 1 回国際会議に
「らい予防法」制定 戦後、治癒薬の出現、人権に
おいて遺伝説から伝染説が確立されてからであっ
目覚めたハンセン病患者たちは、旧「らい予防法」
た。しかし、国際的にもわが国のハンセン病患者
廃止に向けた患者運動を活発化する。世論を巻き
に対する終身隔離政策は、人権侵害であり特異的
込み壮絶な廃止運動を展開した。しかし、「近き将
であった。戦前、戦後の国際的動向から、わが国
来改定する」という付帯決議が付され、旧法の文語
の閉鎖体質を概観することができる。
体が口語体になっただけという「らい予防法」が、
戦前の国際会議
1953(昭和 28)年制定され、隔離政策が継続した。
1 第 1 回国際らい会議、1897(明治 30)年、ベルリン。
ローマ会議と社会復帰 1956(昭和 31)年の、ロー
「ハンセン病の伝染説が確立され、病原菌は、らい
マ会議は、「らい予防法」成立 3 年後に開催されて
菌によるものと認定され、隔離の是非が論じられ
いる。「ハンセン病患者の救済及び社会復帰に関
た。」北里柴三郎、土肥慶三が出席。
する国際会議(ローマ会議)」であり、世界 51 カ国
2 第2 回国際らい会議、1909(明治42)年、ベルゲン。
から 250 名が参加した。「差別の撤廃、早期発見、
らい菌の感染力は弱い。子供は伝染しやすいの
早期治療、隔離主義の是正、社会復帰の必要」等、
で分離することが好ましい。」と決議された。
いわゆる「ローマ宣言」が採択された。日本からの
3 第 3 回国際らい会議、1923(大正 12)年、ストラス
出席者は、浜野藤楓協会理事長、林多磨全生園
ブール。わが国の隔離政策推進者:光田健輔出席。
長、野島大島青松園長であったが、「ローマ会議」
「らいの蔓延がない国は、隔離に対し承諾のうえ実
の内容は、患者側に伝えられなかった。患者たち
行する。流行地では隔離が必要だが、人道的に支
は、カトリック教会を通じて2カ月後、情報を得たの
障のない限り、その家庭に近い場所におく。隔離
であった。「故意に隠し、発表しては困るというよう
ができない浮浪者たちは、病院、療養所で十分な
な態度はとっていない」と、山口公衆衛生局長は、
治療をする。患者の子供は、両親から分離し継続
国会質問に答えるに留まったように、「ローマ会
的に観察する。」
議」の内容は封印されていた。『花に逢はん』の著
伝染性患者と非伝染性患者とでハンセン病予防
者(伊波敏男、1943 年生れ)は、ハンセン病患者
対策を区別する考え方が主張された。
を対象にした高校への入学時、「ローマ会議」の決
4 国際連盟らい委員会、1930(昭和 5)年、バンコク。
議を目にし、「らい予防法」との乖離に愕然とする。
「隔離が唯一でない。隔離は伝染の恐れがある患
療養所内のハンセン病患者を、「濫旧惰眠」であ
者のみ適用。隔離は、患者の隠匿となり、診断・治
ると、『差別としてのライ』の著者(森幹雄:職員)は、
療を遅らせる。感染性のない患者は、可能な限り、
療養所から社会復帰すべきであると著し、社会の
外来治療をすべきである。」
5 第 4 回国際らい会議、1938(昭和 13)年、カイロ。
偏見・差別の無理解の前に入所者の反発を買っ
日本不参加。「強制隔離から自発的隔離に推移し
た。
こうしたなか、自ら社会啓発運動を実践するととも
ている国がある。らい患者と働いても、注意を払え
に、地元の国民宿舎建設と地域の振興に尽力した
ば殆ど感染しない、という事実は、歴史が証明して
鈴木重雄(園名:田中文男)は、宮城県唐桑町長
いる。」と決議。
選挙に立候補し、193 票差で惜敗した(田中 1977)。
戦後の国際会議
鈴木は、特別病室事件に関連し、患者の待遇改
1 第 2 回汎アメリカらい会議、1946(昭和 21)年、リオ
デジャネイロで開催。ファジェットが、スルフォン剤
善の陳情書を提出した人物であった。
であるプロミン、ダイアゾンの治療効果を報告。「6
平成の現在でも、ハンセン病に対する偏見・差別
205
ハンセン病患者に対する終身隔離政策(森田)
ヶ月の治療で 25%、1 年で 60%、3 年で 75%、4 年
あり、且つ治療しうるものである。」と決議。日本の
で 100%が軽快、4 年間の治療で 50%が菌陰性に
強制隔離政策や優生手術について各国代表から
なる。」ファジェットの研究成果が評価された。
激しい集中攻撃を受けた。差別法の撤廃や社会
復帰が提唱された。
2 第 5 回国際らい会議、1948(昭和 23)年、ハバナ。
日本不参加。この会議でもスルフォン剤の著効が
8 第 7 回国際らい会議、1958(昭和 33)年、東京。イ
確認された。「外来治療の推進。ハンセン病患者
ンド代表の T・N ジャガジン博士は、ハンセン病回
を特別な小島に隔離することは無条件に責められ
復者であり、分科会の議長を務めた。「早期発見・
るべきであり、伝染性の患者は隔離し、非伝染性
早期治療・外来治療が重要とされた。未感染の子
の患者は監視下におく。退所できる患者に、社会
供は患者から遠ざける」と勧告された。会議は、
復帰上の援助を与えること。」
「強制収容は廃止すべき」という見解にたっていた
3 WHO 第 1 回らい専門委員会、1952(昭和 27)年、
が、小沢龍医務局長は、「未収容患者の収容が望
リオデジャネイロ。スルフォン剤の治療効果が確認
まれる」と、国際的動向に逆行した隔離政策を主張
された。「強制隔離の再考、ハンセン病患者と乳幼
した。
9 WHO 第 2 回らい専門委員会、1959(昭和 34)年、
児の接触は避ける、強制隔離は人道上好ましくな
ジュネーブ。「ハンセン病患者隔離の偏重から共
い。」在宅治療の可能性が強調された。
4 第 6 回国際らい会議、1953(昭和 28)年、マドリッド。
わが国の、「らい予防法」成立直後の会議であった。
生対策とする。特別の法制度の廃止。」が提唱され
た。
過去12 年間における、スルフォン剤の臨床実験結
10 第 8 回国際らい会議、1963(昭和 38)年、リオデ
果、効果が証明され、在宅治療の可能性が強調さ
ジャネイロ。「ハンセン病に対する特別法の破棄。
れた。
無差別の強制隔離は時代錯誤であり、廃止されな
ければならない。」と特別法廃止が強く提唱され
5 MTL 国際らい会議、1954(昭和 29)年、ラクノー。
イギリスの MTL(Mission To Leper)、アメリカの
た。」
ALM(America Leprosy Mission)の合同国際会議。
以上のように、第 1 回国際会議において、伝染説
ハンセン病医学の世界的権威が参加。特殊ならい
は確立し、当初から、隔離に対しては人道的配慮
法例の廃止、社会復帰は入所の時点で開始する。
があったことが明確であった。日本の隔離政策は
①強制収容の廃止・施設入所は患者の合意のもと
国際的にも非難を受けていたのである。
行なう。②施設入所は、治療を目的とした一時的
「らい予防法」廃止の問題点 1996(平成 8)年、
なものとし、軽快者を速やかに社会復帰させること。
「らい予防法」は廃止されたが、熊本裁判の原告
③外来治療で十分な治療をし、療養所だけでなく、
者、島比呂志は、①廃止法には、国の責任が明記
一般病院、保健所、他の医療機関における外来治
されてない。②ハンセン病患者に健康保険証が無
療が強調された。
い。③職員に危険手当(24%)がついたままである。
6 WHO編『近代癩法規の展望』、1954(昭和29)年。
④ハンセン病療養所という呼称が使われている。
WHO が、各国のハンセン病に関する法制度を纏
⑤「福利増進を図り、社会復帰の促進」と廃止法に
めた。わが国の「らい予防法」は入ってない。「隔
明記されながら、社会復帰促進が図られず、廃止
離は、再検討を要す。結核より伝染性が少ないの
法は隔離政策の継続を意味するもの、と問題点を
に反対の施策をしている処が有る。職員に伝染の
指摘した。
危険は殆ど無い。実験的感染に成功しない。隔離
訴状提出 「らい予防法」における人権侵害を問い、
政策が自由な所では、らいは消失し減少している」
国の責任を明確にする裁判を、1998(平成 10)年、
と、隔離政策の正当性、有効性に疑問を投げかけ
熊本地方裁判所に起こした。入所者 13 名による訴
ていた。
状であった。「療養所における強制労働、断種・堕
7 らい患者救済及び社会復帰国際会議(いわゆる
胎、数多くの人権侵害。隔離政策により、ハンセン
「ローマ会議」)1956(昭和 31)年、ローマ。マルタ
病患者とその家族は、偏見・差別に苦しめられた。
騎士修道会主催。「らいは、伝染性の低い疾患で
強制収容・終身隔離政策の展開と放置に対し、
206
「らい予防法」廃止の遅れた要因は、医師や官僚
「国の責任と損害」を求めた。
勝訴決定 2001(平成 13)年、5 月 11 日、熊本地
が、隔離政策の過ちに気付きながら、軌道修正し
裁は「ハンセン病患者に対する隔離政策は違憲」
なかった点に尽きる。惜しまれるのは、特別病室事
とした判決を下した。同日、朝日新聞(夕刊)の判
件に関連した、東龍太郎厚生省医務局長の国会
決骨子は、「①遅くとも 1960 年以降においてハン
答弁であった。
セン病は隔離政策を用いなければならない特別な
ハンセン病患者の人権を無視した終身隔離政策
疾患でなくなり、すべての入所者及び患者につい
の過ちを二度と繰り返さないためにも、シンク・タン
て、隔離の必要性が失われた。厚生省としてはこ
ク等から積極的な医療政策に関する、専門的な政
の時点で、隔離政策の抜本的な変換をする必要
策提言が期待される所以である。GHQ は、農地開
があった。らい予防法(新法)廃止までこれを怠っ
放、財閥解体に着手した。なぜ、ハンセン病患者
ており、厚相の職務行為に国家賠償法上の違法
に対する開放政策が無かったか、今後の研究課
性及び過失があると認めるのが相当である。②隔
題といえる。
離規定は 60 年には合理性の根拠を全く欠いてお
り、違憲性が明白になった。65 年以降に、新法の
注
隔離規定を改廃しなかった国会議員の立法上の
[1] 無らい県運動―愛知県の方面委員が愛生園で
不作為につき、国家賠償法上の違法性及び過失
患者の生活を視察し、帰県してから愛知県より
を認めるのが相当である。③除斥期間の起算点と
らいを無くそうという民間運動を始めたことが発
なる「不法行為の時」は、違法行為の終了した新
端となって全国に広がった運動。これより各県
法廃止時と解するのが相当で、除斥期間の規定
の衛生当局は警察の協力のもと、住民の投書
の適用はない。」とした。
や村民の噂を根拠にして犯人探索のごとくしら
みつぶしに、らい患者を見つけ出しては各地の
療養所に送りこんだ(『人としての尊厳を』)。
おわりに
ハンセン病国家賠償訴訟は勝訴した。現在、全
[2] 懲戒検束規定―1916(大正 5)年「療養所ノ長ハ
国の国立療養所 13 カ所、私立療養所 2 カ所に約
命令ノ定ムハ所ニ依リ入所患者ニ対シ必要ナ
4300 人の元ハンセン病患者が生活している。平均
ル懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得」として、所長
年齢 74 歳である。ハンセン病は、感染症の一種で
に警察、検察、裁判、刑執行の権限が与えられ
あり、その伝染力は微弱である。生活水準の向上
た。樹木や建物、備品、衣服を損じる、ケンカ、
によって発病しない。
口論は、「譴責、叱責、30 日以内の謹慎」。職員
本研究の目的は、「らい予防法」の廃止が遅れた
の命令を聞かない、ばくち、職員の懲戒検束執
要因を考察することであった。「癩予防ニ関スル
行妨害は、「7 日以内の食事二分の一減食か謹
件」制定前のハンセン病患者は、歴史的に、忌み
慎」。逃走、逃走未遂者、職員への暴行脅迫、
嫌われる側面を持ちながらも、一般社会で生活す
他人を扇動して秩序を害す、は「30 日以内の監
ることが出来た。ハンセン病患者の隔離について
禁か減食」。監禁は 2 か月まで延長できた。悪
は、第 1 回国際会議から是非論があった。わが国
質者対策としてできたのが「特別病室」であった。
では、ハンセン病患者の根絶が企図され、強制隔
減食の項は、1947(昭和 22)年 5 月 2 日削除さ
離、強制労働、断種・堕胎、懲戒検束規定等、囚
れた。
[3] プロミン−らい治療の革命をもたらした治療薬。
人のように扱われた。
1943 年米国で開発された。ハンセン病は速や
明治維新政府の積極的な欧化政策は、社会の
かに治癒するようになった。
あらゆる分野に及んだが、西欧社会の根底にある
博愛精神を学ばなかったといえる。かつて、中世
[4] 東龍太郎厚生省医務局長:1891(明治 24)年
における西欧社会でもハンセン病患者に対し、酷
~1983(昭和 58)年、大阪。1917 東大医学部卒
い仕打ちがあった。しかし、日本より 50 年早く人権
業。GHQ のサムス公衆衛生福祉局長は、専門
問題に目覚めたと言われる(大谷 1936:471)。
知識のない事務官(東大法学部出身)との交渉
207
ハンセン病患者に対する終身隔離政策(森田)
を拒否し、東大教授東龍太郎を医務局長に就
大竹章 1996、『無菌地帯』、草土文化
任させた(笠原英彦『日本の医療』)。IOC 名誉
大谷藤郎 1996、『らい予防法廃止の歴史』、勁草書
房
委員、日本赤十字社長。東大、茨大名誉教授。
島比呂志 1991、『らい予防法の改正を』岩波ブック
医学博士。東京オリンピックの招致と開催に功績。
レット NO199、岩波書店
元東京都知事(1959~67)。
島比呂志 1993、『らい予防法と患者の人権』、社会
[5] 光田健輔:1876(明治 9)年~1964(昭和 39)年、
評論社
山口県生まれ。明治 42 年全生病院の創立で同
病院医長となった。1914(大正 3)年、全生病院
島比呂志 1998、『国の責任』、社会評論社
長。傍ら保健衛生調査会委員、内務部社会課
島田等 1985、『病み棄て』、ゆみる出版
勤務、らい予防視察のため欧米各国などを回っ
全患協 1997、『全患協運動史』、一光社
た。1931(昭和 6)年、国立長島愛生園開設に伴
全療協(予防法廃止後、全患協改め全療協) 2001、
『復権の日月』、光陽出版社
い初代園長。治療に尽くすと共に、予防のため
の患者の隔離収容を推進、その影響は大なるも
高田孝 1999、『日本のアウシュビッツ』、ハンセン病
のがあった。昭和 26 年に文化勲章を授賞、32
国倍訴訟原告団(草津)・ハンセン病国賠訴訟
年 3 月 31 日に退官し長島愛生園名誉園長とな
支援する会(草津)
る。正一位勲一等瑞宝賞を授与。ともあれ、らい
高山文彦 1999、『火花』、飛鳥新社
に明け、らいに暮れた光田健輔の足跡は是と
田中一良 1977、『すばらしき復活―らい全快者奇跡
の社会復帰』、すばる書房
するも非とするも、日本のらいの歴史のなかで
福田眞人 1995、『結核の文化史』、名古屋大学出版
一つの時代を画した生涯であり、その時代的背
会
景を見ずして語ることはできない(『ハンセン病
藤野豊 1993、『日本ファシズムと医療』、岩波書店
資料館』)。
[6] 患者作業―重症者の付き添い、運搬,炊事、食
藤野豊 1996、『歴史のなかの癩者』、ゆみる出版
事運搬、有毒地帯内の清掃、ガーゼ・包帯の洗
藤野豊 2001、『いのちの近代史』、かもがわ出版
濯・再生、風呂焚き、教員(患者先生)、煙突・ト
松居りゅうじ 2001、『レプラなる母』、晧星社
イレ掃除、汚物運搬、消毒、下水掃除、汚物焼
三宅一志 1991、『差別者のボクに捧げる!』、晩聲
社
却、理髪、水くみ、郵便配達、薬ビン整理、不自
由者の風呂入り介助、死者の納棺、火葬,漬物
森幹雄 1993、『差別としてのライ』、法制出版
作り、図書館係、車の油さし、うどん製造、豆腐
山本俊一 1993、『日本らい史』、東京大学出版会
づくり、マキ割り等 308 種類昭和 9 年。昭和 52
柳橋寅雄・鶴崎澄則 1957、『国際らい会議録』長濤
会
年 30 種の作業が残っていた(国立大島青松園
『差別者のボクに捧げる』)。各園特有の作業と
『判例時報』、2001、NO1748、判例時報社
共通した作業があった。
『人としての尊厳を』2001、4 月ハンセン病違憲国賠
訴訟全国原告団協議会・ハンセン病違憲国倍
[7] 3 園長の国会証言―第12 回国会参議院厚生委
訴訟弁護団連絡会
員において参考人 5 人が発言したうち、林芳信
(多磨全生園長)、光田健輔(愛生園長)、宮崎
『朝日新聞』、2001、5 月 11 日 夕刊
松記(恵楓園長)ら三園長の発言が、ハンセン
『朝日新聞』、2001、5 月 23 日 朝刊、夕刊
病患者の強制収容や断種の励行、患者逃走防
鈴木重雄(園名:田中重雄) 「癩患者の待遇改善に
関する陳情」第 402 号、1948 年
止のための罰則強化等を内容とするものであっ
東龍太郎国会答弁、「第 3 回国会衆議員厚生委員会
たことから患者の中で大問題になった。全患協
審議録」第 5 号、1948 年
は園長らを追及し、患者たちによる、らい予防
法改正の気運を高めた。
参考文献
伊波敏男 1997、『花に逢はん』、NHK 出版
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