2014年12月号企画情報とやま220

富山県建築士会
会員・賛助会員
各位
公益社団法人
会 長
「2015年 建築富山
富山県建築士会
中 野 健 司
新年交流会」 開催のご案内
拝啓
時下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
さて、来春も恒例の建築関連団体による合同「新年交流会」を、富山県知事 石井隆一 様を
はじめとするご来賓をご招待して開催することといたしました。
2015 年の初春を迎え、各団体の会員及び賛助会員の皆様が一堂に集い、
「建築界の躍進」をモットー
に大いに交流し、新しい年への活力源としたいと思います。
皆様には、お忙しいことと存じますが、是非ともご参加いただきますようお願い申し上げます。
記
1
日
時
平成 27 年 1 月 23 日(金) 18 時 00 分∼20 時 00 分
2
会
場
富山電気ビルディング
5階大ホール
富山市桜橋通り 3 番 1 号
電話 076−432−4111
3
会
費
お1人
5,000 円
4
申込締切
平成 26 年 12 月 24 日(水)
5
申込方法
添付の専用払込用紙による振込にて、申込みの受付とさせていただきます。
新年交流会当日、勤務先別の参加者名簿を配布致しますので、「通信欄」に、
ご出席者の勤務先名と氏名を必ずご記入ください。名簿の原稿となります。
複数でご出席の場合は、各々の氏名を名簿記載希望の順にご記入願います。
払込手数料は払込人にてご負担願います。
また、専用の払込用紙が無い場合は、郵便局備え付けの振込用紙を使用し、
裏面の記載要領に従い記入して下さい。
なお、申込期限は厳守願います。期限以後の申込の場合は、参加者名簿に
記載できないこととなりますのでご注意願います。
6
申込み先
一般社団法人 富山県建築士事務所協会
富山市安住町 7-1 電話 076-442-1135 FAX 076-442-1180
7 そ の 他
複数の団体に所属されている方は、各会から同様の案内が届きますが、いずれか
一つの払込用紙でお申し込みください。
当日、マイカーでのご来場は自粛願います。
8
一般社団法人 富山県建築士事務所協会
問合せ先
電話 076-442-1135
平成 26 年 11 月 吉日
建築富山
新年交流会参加団体
□(公社)富山県建築士会
□(一社)日本建築構造技術者協会 中部支部北陸部会
□(一社)富山県建築士事務所協会
□ 富山県建築設計監理協同組合
□(公社)日本建築家協会 北陸支部 富山地域会
□ 富山県設備設計事務所協会
□(一社)日本建築学会 北陸支部 富山支所
□ とやま住まいとまちづくり推進懇話会
-1-
≪注意≫ 古い用紙は使用できません
払込取扱票の記載例
新年交流会の当日に、参加者名簿をお配りします。
払込取扱票にご記入いただいた内容が名簿の原稿になりますので、記載例にならって、
明記くださいますよう、お願いします。
勤務先の所在地・電話番号
....
ふりがなを必ず記入
5000 円 ×参加人数
※ 勤務先のない場合は所属団体を記入
参加者全員の氏名
参加者名簿イメージ
会 社 名
㈱安住町建設
氏名・所在地・電話
富山市安住町 7-1
076-123-4567
立山 一郎
富山 次郎
越中 三郎
磯野工務店
氷見市波野側 555-555
0766-34-5678
…
磯野佐々江
〈勤務先のない場合の掲載例〉
日本建築学会富山支所
富山市安住町 7-1
…
建築 太郎
-2-
076-432-1234
企画情報とやま
富山県建築士会
TEL 076-482-4446
公益社団法人
2014 年 12 月号
FAX 076-482-4448
ホットライン 第 220 号
E-mail [email protected]
■女性建築士協議会 女性事業案内
女性建築士協議会では、地元の素材研究をテーマに上げてい
ます。砺波地域風土で長い間培われた「アズマダチ」その周
りの屋敷林の使用のされかた。新技術を世界に発信している
新光硝子工業(株)の工場見学。地元材料で大正時代に建てら
れ、現在に蘇った若鶴酒造(株)の大正蔵等、地元の素材の長
い歴史とその継承の様子を勉強します。
内容:一日目 15:00∼18:00
テーマ ∼ 素材から見る伝統技術と最新技術 ∼
県指定文化財「入道家」散居村の伝統家屋「アズマダチ」の
建築技術を砺波土蔵の会会長 尾田武雄様の解説のもと見学
します。
「新光硝子工業株式会社」北陸新幹線等の曲げガラ
ス・樹脂合わせガラスのトップシェアメーカー。工場にて巨
大炉や工程を見学します。
二日目
9:00∼11:30
テーマ ∼時をこえ 心酔いしれる空間∼
創業文久 2 年(1862)の若鶴酒造が所有する大正蔵。再生の設
計者である蜂谷俊雄先生(金沢工業大学教授)に話をお聞き
します。
定員:一日目、二日目共 各 30 名
参加費:13,000 円(参加・懇親会・宿泊・朝食・見学料)
砺波ロイヤルホテル宿泊
建築 CPD:全プログラムで 6 単位(一日目、二日目 各 3 単位)
問合先:青年建築士協議会と同様です。
◆ 青年委員会からのお知らせ
建築技能者連携研修事業講習会開催のご案内
本年度、富山県建築士会青年委員会の建築技能者連携研修事
業といたしまして、富山県建築組合青年部の皆様と様々な情
報交換を行いながら、仕事におけるスキルアップを図るとと
もに、交流を深めてネットワークを形成したいと考えていま
す。
日時:平成 26 年 12 月 13 日(土)15:30∼17:30(受付 15:00∼)
会場:富山県総合福祉会館サンシップとやま 501 号室
富山市安住町 5-21 TEL:076-432-6141
内容:設計、施工の視点から互いの意見や提案を協議する
定員:先着順 30 名(どなたでも参加できます。)
参加費:無料
申込先・申込期限:平成 26 年 12 月 6 日までメール又はファッ
クスで下記まで
E-mail:[email protected]
FAX:076-468-3578
問合先:建築士会青年委員会 担当:奥井良樹 090-9764-1779
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ホットライン No.220
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ホットライン No.220
職人アーカイブ No.053
<コンクリート杭打設>
さいさき
昭和 16 年8 月生れ 72 歳
ふ じ お
才崎 富士男
さん
射水市小杉町出身。中学卒業後、様々な職
業を経て、伸栄工業(株)に就職。
射水市上野
コンクリート杭打設を 30 年間にわたり従
事し、役員の後退職。
「見えない地盤に建物を繋ぐ」
若い頃は色々な仕事を経験
射水市小杉町出身の才崎さんは中学卒業後、プレス加工、
土木建設、タクシー運転手など様々な職業を経験し、35 歳
のときに伸栄工業(株)に就職され、コンクリート杭打設業
に 30 年間従事された。
就職当時は打込み杭工法から埋込み杭工法へ技術が変わ
る頃で、社長と二人でコンクリート杭打設の仕事を切り盛
りされた。
打込み杭工法から埋込み杭工法へ
打込み杭工法は、既製杭の杭頭部を打撃して地中に埋め
込む工法で、施工速度が速く、経済的でもあることから、
古くから多く採用されてきた。オイルが飛び散り、打撃中
に既製杭が割れたり折れたり、杭の「高止まり」の切断に
苦労された。また、アースオーガーを併用してのモンケン
(重錘)打撃打込み工法の現場も多く、
「あれは危ないがや
ちゃー」と当時を振り返り、安全管理の重要性をお話しさ
れた。
騒音や振動など、都市化が進む市街地では打込み杭工法
は困難となり、埋込み杭工法が採用されていく。
埋込み杭工法は、アースオーガーで掘削し、ベントナイ
現場:小矢部市立石動小学校 工法:ハイパーメガ工法
トを注入しながら支持層内に到達すると今度は根固め液に
で、ベントナイト注入のタイミングなど工程管理と時間管
切り替え、オーガーを引き上げ、杭を掘削孔内に建て込み
理には気を張られたそうだ。
圧入し支持層に定着させる工法。現場によっては吸い込み
現場での苦労
があり、ベントナイトの量を調整するのが難しく、大手
現場での苦労はいろいろ。
建設会社の現場は定時に仕事を終えなければならないの
ある現場で、既製杭の運搬中、杭にヒビが入りその杭が
現場に届かず、仕事がストップした時は参ったとのこと。
これまでを振り返り「杭打ちが必要な場所は軟弱な地盤、
常に危険と隣り合わせのうえ精度も要求される。地味な仕
事ではあるが、職場のコミュニケーションも良く、また、
病院や学校など公共施設の杭打ちも多く、仕事に対する愛
着や満足はあった。
」と、感慨深げにお話された。
安全管理第一
インタビューの最後に、後輩技術者への助言をいただく
と、
「なんといっても安全管理。事故なく安全に杭基礎工
事を行い、工事全体の工程に気を配ること。
」
「そしてコミ
ュニケーションを大切にすること。これは仕事の満足度と
技術の向上につながりますね。
」と、笑顔でお話しされる
才崎さんの懇篤な言葉が印象的だった。
現場:JAいみず野 低温倉庫 工法:スーパーニーディング工法
(取材:千代固志・福村仁志、文・写真:福村仁志)
-5-
職人アーカイブ No.054
< 左官業・鏝絵師>
昭和17年生れ 72歳
中学卒業後、父のもとで左官業の修行に就い
いしざき
かつのり
たが、21歳の時に父を亡くし、その後は山田
石﨑 勝紀さん
忠心氏に師事した。鏝絵の技術も学び、左官
業とともに竹内源造の鏝絵の修復も手掛け、
南砺市岩武新
様々な文化財の壁の修復にも携わり現在に至
「源造の仕事に学んで」
父のもとで修業に就く
中学に通う頃から父の仕事であった左官業の手伝いをして
いた。小さいころから家業を継ぐ事を約束させられていたの
で、中学卒業後に家業の三代目として父のもとで左官業に就
いた。21 歳の時に父が突然に亡くなり、工事途中の仕事を何
件か引き継いだが、まだ一人前ではなかったので父の仕事仲
間だった山田忠心さんにお願いして仕事を教えてもらった。
山田さんについて
山田さんは鏝絵師としても有名な左官職人の竹内源造のお
弟子さんだった。山田さんからは鏝絵の技術を学んだ。土蔵
の妻面の上部に作る紋に「水」と描く仕事も最初はうまくで
きなかったが、教わったことで良くなった。23 歳頃に山田さ
んが作った蔵に描かれた鏝絵を見てすごいと感じた。山田さ
んは昭和 30 年頃の金沢城の石川門の修復の責任者も務め、6
年間にわたり金沢の職人を指導して仕事をしたそうだ。冬場
は京都や大阪へ出稼ぎに行った
そうだがそこで「富山出身ならば
竹内源造は知っているか?」と聞
かれ「自分は弟子だ」と答えると
驚かれたそうだ。県外では源造は
有名だったようだ。山田さんの仕
事では若鶴酒造の本宅の蔵は特
に秀逸だ。自分はその蔵が永い間
の経年変化で傷んだ部分の修復
もさせてもらった。
漆喰壁を塗る
材料に関して
壁の材料となる土は栴檀山や婦中の山泥を専門の業者さん
に発注して手に入れていた。土は福野の寺家泥が良質と言わ
れていた。現地の土をみて良ければ
現地のものを使うこともあった。竹
やすすきやにごなわ(=みご縄。稲
の穂の芯を綯った縄)
、麻縄、石灰、
ふのりなどは材料屋さんに発注し
ている。それぞれ、現場まで持って
きてくれた。ふのりは北海道産が良
い。他のものは安いが粘りがでな
い。泥の調合は今でも工夫してい
る。
る。 (一般社団法人日本伝統職人技術文化
研究会会員)
道具に関して
半焼き、本焼き、油焼きの三種類の鏝があって、これがステン
レス製に変わったが、漆喰は鉄の鏝でないと塗れない。鏝は専
門のお店があって、そこで微妙な調整や新しい形の鏝も作って
くれた。しかし、自分で道具を作ることもある。特に、梁通し
という鏝は梁の裏側を塗るための鏝だがこれを使った作業が難
しかった。
石﨑氏の道具箱
仕事の仕方について
左官の仕事はいろいろあるが、これまで、コンクリートの土
間を抑える仕事は断って来た。あくまでも壁を塗る仕事にこだ
わって来た。
思い出に残る仕事
国宝となった瑞龍寺の修復工
事、内山邸の修復工事、山町筋
や金屋町の民家の修復工事にも
携わった。名越家の蔵に描かれ
た竹内源造の龍の鏝絵を射水市
の竹内源造記念館へ移設して修
復した。この記念館に展示され
た源造作品は全て自分が修復し
たことも思い出深い。
石﨑氏の龍の鏝絵
これからの左官仕事について
自分がやっているような左官仕事を後世に残すには文化財の
ような建物の修復だけではだめだ。普通の建物で仕事がないと
後継者は技術を
習得できない。
左官工事をした土蔵
にごなわの原料の稲穂の芯
(文・写真:林 芳宏)
-6-
職人アーカイブ No.055
< 木製家具製造 >
かき たに
ただし
柿 谷
正
昭和 23 年 1 月 28 日生れ 66 歳
20歳で富山大学工学部を中退し
兄 誠氏と粟巣野にスキーロッジを開設、
そのロッジの家具を自分たちで製作し始め、
家具製造を開始した。
KAKI工房 代表
富山国際職芸学院 マイスター
さん
富山市原(粟巣野)
「KAKI」ブランド家族で育て守る
始まりはスキーロッジ
紅松(家具の木材)
正さんは 20 歳の時、大学紛争で休講続きの状態に嫌気を指し、
当初から紅松を使っている。これは
中退した上、5 歳上の兄(誠さん)と一緒に粟巣野でスキーロッジ
丈夫でムラのない木材であり、年輪が
を開設した。
密で美しく、使い込むと飴色に変化し
ロッジ経営の
てくるのも気に入っており、加工性に
ためにヨーロ
も優れている。
ッパのスキー
また、当時シベリアから大量に原木が輸入されており、良い材
学校に短期留
料が容易に入手できたことも大きな要因であった。乾燥に 2∼3 年
学し、ヨーロッ
かけ、当初は雨掛かりの野積みから屋根のある材料置場を経て、
パの文化や家
最後は十分乾燥した工房内へと、徐々にその家具が使用される環
具に接した。ホ
境に近づけていく。最近は紅松が入らなくなったが、国内にある
テルやロッジ
在庫を調達したり、代用種として雪松を使ったりしている。
の家具、古道具
この椅子を作りたいからナラの原木を買って 10 年寝かす。その
粟巣野のKAKI 工房
屋での様々な
間に他の材料で試作する。この過程が職人としての大きな喜びで
家具を見聞きし、その魅力に強く引き付けられたのだ。その体験を
あると微笑む。
もとに、シーズンオフに自分たちのロッジの家具を自ら製造し始め
KAKI らしさ
たのがこの仕事に入るきっかけであった。
KAKI の家具はヨーロッパの田舎風だと
誠さんは武蔵野美術大学の油絵学科卒であり、デザインを中心に
よく言われる。木の特性を考え、木の温も
受け持ち、正さんは工学部ということで、構造や加工の技術的分野
りが感じられる丈夫で長持ちする家具づ
を担当し、趣味やセンスの合った仲の良い二人三脚で開業時の苦労
くり、従ってがっしりした家具というのが当初のKAKI らしさであ
を乗り切られたようである。
った。もちろんこれに拘りつつも、最近は日本的な小空間にもマ
初めての大量注文
ッチするように断面を細くした、柔ら
かい感じの家具づくりにも取り組ん
事業を開始して間もなく、銀座
のビアホールから大量の注文を受
ている。また、顧客の希望を取り入れ、
けた。椅子 80∼90 脚、テーブル、
材質も地元のスギやナラ、タモ、ケヤ
ベンチなど大型トラック2 台で輸
キなどにも挑戦している。
送した。
この仕事を終えて初めて、
春を背負って
自分たちは家具製造でやっていけ
立山を舞台にしたこの映画に協力
るという自信が湧いた大きな出来
した。工房での撮影の他、製作した椅
事(作品)であった。
子は親友が主人公のために菫小屋ま
辛い時期を乗り越え
映画のスピンドル椅子
で運んでくるシーンなど、重要な小道具として使われた。
デ
2004 年に誠さんが亡くなり、
KAKI 工房の家具はどれも温もりが感じられる人にやさしい家具
ザインも含め全てのことを自分で
であることを、あの見る目の厳しい木村大作監督が肌で感じてく
行わざるを得なくなったこと、そ
れたからの採用だと思われる。
の半年後に火災で工房を消失し、
材料や設計図面が全てなくなっ
KAKI ブランドの継承
銀座のビアホールに納めた椅子
柿谷誠というアーティストの精神を引き継ぎ、顧客のニーズを
た時が最も辛く、事業も困難な時期であった。
掴みつつも、自分の作りたい家具を作り続けてきた。これは工房
富山市民芸館の安川慶一初代館長には KAKI の家具をほめてく
の仲間である弟さんや息子たちに確実に受け継がれていくことだ
ださり、多くの助言や指導を受け、力をいただいた。
ろう。
最後に柿谷一家のご婦人方の製作するマザーズキルトと家具と
のコラボも是非現地でお楽しみください。
( 文・写真:山本 幹史、水野 久枝 )
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職人アーカイブ No.056
< 石工 >
浜田 長作
さん
昭和25年9月19日 生れ 63歳
高校卒業後、18才でこの職につく
富山市水橋堅田
文化財石垣保存技術協議会 所属
「たたく技術を残したい」
富山県石工技能士会 副会長
浜田石材店 代表
石材業の近代化の中で
本家の濱田石苑(上市)では最盛期に工員が 100 人程(内磨
き工の女性が 20∼30 人)もいた。昭和 38 年頃からダイヤモン
ド工具が普及し機械化が進むにつれ、加工に人手が掛からなく
なり、多くの工員が独立していった。それまでの石の加工は、
原石を割って製品の大きさにし、割り肌の表面をノミで、ハツ
って、ビシャンたたきして平らにし、さらに砥石をつかって平
滑にし磨きまで仕上げていった。そのため大変な人手が掛かっ
ていた。ダイヤモンド工具により、割るからスライスする感覚
となり、原石から一機に平滑な面が仕上がることになった。電
機や機械が好きだった私の父も、その独立した者の中の一人だ
った。
それでも当時はお墓が 1 基 15 万円ぐらいだった時代に、ダ
イヤモンド工具(16 インチ丸鋸刃)が 5 万円もしていたので、
まだまだ人手に頼る面が多かった。独立のタイミングを、私の
高校卒業に合わせたのも、父が私を当てにしていたためだっ
た。当時、私は自動車関係の仕事に就きたいと考えていたが、
兄は体の都合が悪く、自分も石職人の道を選ぶことになった。
半分鍛冶屋
10 本以上あるノミも 2 日で切れなくなる。その都度、鞴(ふ
いご)を吹きながらコークスでノミを焼き叩いて直していた。
忙しい時期には、毎日でも鞴を吹いていた。半分鍛冶屋みたい
なもの、
と石の職
人の間では言っ
ていた。昭和 50
年頃にはタンガ
ロイが普及し、
ど
この石屋にもあ
ったコークスと
鞴は見なくなっ
た。
タンガロイなどの超硬合金製工具
職人の個性
昔かたぎの、父は、
「職人の技術は見て盗むもの」と、教え
てもらえなかった。石の加工は「欠け」
(失敗)を経験しなけ
れば、上達しない。定番の造形物(お墓の蓮華(レンゲ)など)
を作れるまでには 3∼4 年、遅い人でその倍はかかった。
見せて見て技術を承継したためか、お墓の蓮華(レンゲ)な
どは職人一人一人の個性が、形に表れた。墓地で、お墓をみれ
ば、どの職人のものか、大体見当がついた。
県石材組合
(現在は活動していない)
の共同購入
(2000∼3000
才/年)で石材の調達に大阪港までポルトガル産など外材(外
国産石材)を見にいっていたこともあった。戦後 50 回忌のタ
イミングでのお盆前はつらかった 1 週間寝ずに仕事に明け暮
れたこともあった。その後、さらに時代が変わり、今では海外
工場で磨きまで仕上げた製品が入ってくるようになった。
轟音
が鳴り響いていた工場は、
ひっそりとし鳩などの鳥の休み場と
なった。
お城の石垣
80 歳まで現役だった父の引退後、晴れて自由が利く身とな
った。そんな折、尊敬する滑川の金山忠義(金山石材)さんか
ら声を掛けられ金沢城五十間長屋(平成 17 年 7 月完成)の石
垣工事(和田石材(大阪)
)を、手伝うことになった。国の文
化庁管轄の仕事は
地元の石を昔なが
らの手の作業で仕
上げる仕事であっ
た。
セメントを使わ
ない石積みで、
石の
表面の巾の倍以上
控えがありそれが
アンカーとなって
石垣の強度を持た
せた。
金沢城の石垣用石材戸室石
震災後の調査でその強さが証明されている。
コンクリートを
裏込めにする練り積みは、面が一体化されているため、正面方
向の揺れに弱く、柔軟性のある伝統工法の耐震性が立証され
た。その後、同じく金沢城の河北門や、静岡の駿府城の石垣工
事に携わり経験を積んだ。
今も文化庁認定の文化財石垣保存技
術協議会に所属し
研究を重ねてい
る。
富山城の石垣工
事にも携わった。
構造は、現代的な
工法によるものだ
が、地元の石を使
い、手仕事による
仕上げとなってい
る。
富山城址公園石垣 常願寺4 割:早月6 割
機械化最盛期
さらに昭和 50 年頃から機械が大型化し、ダイヤモンド丸鋸
刃も、50→72→100 インチと大きくなっていった。原石手配も
大きなものが、扱えるようになり 35 才(立方尺)2.6t以上の
ものを手配するようになった。それでも 3 割は歩損となってし
まう。
技術の伝承
仕事は楽しみながらやることを大切にしている。
跡継ぎの息
子達に、たたく技術や割る技術伝承していくためにも、今も年
に一度は鞴を吹いている。
(聞き手:稲垣英優・文/写真:藤田秀樹)
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