中 「 危機管理 における外交 と力の 限界 …… ケ ー ススタデ ィとしての コソポ紛争」 河 野 健 and Force in Crisis Management― A Review ofthe Conユ ictin Kosovo aS a Case‐ Study" “ Li■lit of正 )iplomacy Kenichi KOHNO 1 は じめに コソボはセルビア共和国の 自治州で人口約200万 人 ,面 積 は岐阜県 とほぼ同じ 1万 849平 方キ ロ メー トルである。 この地で生 じた民族紛争は多数の死者 とおびただ しい数の難民 ・国内避難民 を 出し,ボ スニア ・ヘルツェゴビナ内戦に次 ぐバルカンの悲劇 となった。 この紛争には米国をはじ め英国,フ ランス, ドイツ,/タ リアな ど欧州の中核国,そ して ロシア と中国 とい う世界の主要 国のほ とん どが関与 し,危 機処理の外交能 力が試 される場 となった。 しかし停戦 と紛争解決 に向 けた外交努力は実を結ばず ,北 大西洋条約機構 (NATO)は 「 人道的介入」を大義名分 にユー ゴ連邦 に対する空爆作戦 (∽ ι 紹肪%4′ 鯵冴局 窟 )を 実施 した。国連安全保障理事会 の承認を得 ない まま実施された空爆に,米 国は各種 ハ イテク器を投入 し,絶 頂 に立 ったその軍事力を世界に 見せ つけた。 だが,圧 倒的な武力は紛争解決の「魔法の杖」 とはな らなかった。空爆 は最終的 にはミロシ ェ ビ ッチ大統領 (当 時)を 屈伏 させた ものの,ア ルバエア系住民 への加害を激化させて犠牲者 を増 や し,誤 爆や巻 き添 えでユーゴの民間人を死傷させた ことで批判を受けた。 空爆終結 か ら 3年 余 り。 コソボは国連統治下 で再建 に取 り組んでい るものの ,民 族間の対立 は 解 けず,難 民の帰還 も遅 々 として進 まず,将 来の政治的地位 も定まっていない。 コソボ紛争はバ ルカンの特異性を超 えて,人 権価値 と国家主権の衝突 ,武 力 と外交 の関係 ,国 連な ど国際機関が紛争の防止や危機管理 に果たす役割な ど,広 く世界の平和 と安全 に関わる多様 な問題を提起 した。21世 紀を迎 えて,国 際社会 はテ ロや大量破壊兵器の拡散 とい う新 たな脅威 に 直面 し,こ れまでの戦争観や安全保障概念 が大 きく揺さが られて い る。 この新たな脅威 に取 り組 む際にも,コ ソボ紛争 が提起 した問題が避けて通れない。 以上に述 べた ことを念頭 に置 いて,硬 軟合 わせて多角的なパ ワーゲームが演 じられた コソボ紛 争の具体的展開 に即 して,外 交 と武力が果 たした役割 とその限界を検証するのが本稿の狙 いであ る。 2 外交努力 とその限界 コソボの民族紛争 はチ トー大統領 が死亡 した直後 の 1980年 代初めか ら燻 り続けていたが,1989 年の ミ歯シェビッチ大統領による自治権の剥奪 ,90年 代 に入っての旧ユーゴ連邦 の解体 と内戦の 続発 で一気に緊張が高ま った。 97年 か ら98年 にかけて武力による新 ユーゴ連邦 (セ ルビア共和国 ―-55-― 県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要 第 3号 とモンテネグ ロ共和国で構成 )か らの独立達成を呼号するアルバニア 系武装組織「 コソボ解放 同 盟」 (KLA)と ユーゴの連邦軍 ,治 安警察部隊 との 内戦が激化する過程で,強 制追放や略奪 ,暴 行 ,処 刑な どアルバエア系住民に紺する迫害 ,人 権侵害がエスカレー トしてぃった 。 外交努力の検証対象を旧ユーゴ解体に伴 う内戦勃発以降に限定 し,さ らにそれを 96年 ① 以前② ユーゴ軍 とKLAの 武力抗争 とアルバエア系住民 への迫 が ともにエス 害 カレー トした97年 か ら空 爆開始の99年 3月 24日 まで③空爆開始か ら停戦合意が成立 した99年 6月 10日 までの 3期 に分け る。以下 ,順 を追 って検証する。 2-(1) 失われたチ ャンス (第 1期 ) 紛争は生 き物である。武力抗争が長 引 き犠牲者が増えるに従 って相手 への憎 しみも 深ま り,停 戦 と和解はより困難になる。紛争を未然に防 ぐことが最良の手段であ り,紛 争が起 こった場合は 迅速かつ効果的な対応で犠牲が小 さい うちに火を消 し止めるこ とが肝要だ。それでは ,コ ソボ内 戦 とそのエスカレーシ ョンに伴 う大規模な人権侵害を未然に防 ぐ手立てはあったのか 。 スウェー デンのペ ーシ ョン首相 (当 時)ら のイニシアチプで設け られ,コ ソボ 紛争を中立的な立場から分 析 した独立国際委員会の報告書は,政 治解決のチ ャンスはボスエア紛争を停戦に い 導 た 1995年 の デイ トン合意締結時にあった と指摘する。米 国の先代ブ ッシュ政 は コ 権 ソボがは らむ危 険性を察 知 して92年 12月 ,ミ ロシ ェビ ッチ大統領に対 して「 コソボで紛争を起 こせば ,セ ル ビアに対する 武力行使 も辞 さない」 との “ク リスマス警告 ″を発 した。報告書によれば ,95年 当時 ,警 告の牽 制効果はまだ残 っていた。また,コ ソボのアルバエア系住民の間では非暴力による 自治権回復を 求める穏健派が主力を占め,武 力による独立達成を主張する急進派はご く 少数だった。だから デイ トン合意に合わせて 自治権の回復な どコソボ問題解決の道筋を示す合 意をミロシェビ ッチ大 統領 と結んでいたな らば,交 渉で決着を図る可能性はあった というのだ ところが 。 ,デ イ トン合 意からコソボが外されたことで ミロシェビ ッチ大統領は意を強 くし,ボ スエ ァでの敗北を コソボ で埋め合わせる抑圧策に出た。 この結果 ,ア ルバエ ア系住民の間では 非暴力運動 への幻滅 が広が り,武 力による独立を主張するKLAの 台頭を許す結果になった と 報告書は結論づけてい る∝ 1)。 米ブル ッキングス研究所の Ivo Daalderと Michea1 0'Han10nも 同 じくデイ トン合意締結時が チャンスだった とみる。それを米欧が生かせなかったのは,ボ スエ ァ内戦の処理に疲れてコソボ まで手を回す余裕がなかったことと,ボ スェアのセルビア人 勢力にデイ トン合意を履行 させるに は ミロシェビ ッチの協力が必要 との思惑から,コ ソボ問題 ?解決を強 く迫 るのを避ける「宥和策」 を とったか らだ と指摘する鮭 2)。 , クリン トン政権は NATOに よるセル ビア人勢力の軍事拠点空爆の い 勢 をかってボスエァ内戦 の三 当事者を米本上 の空軍基地 内に呼び集め,い わば力づ くでディ トン 合意をま とめた。それで いなが ら先代ブ ッシュ政権の警告を生かせず,コ ソボ紛 争を未然に防 ぐ手立てを講 じなかった。 国際的な危機管理では,先 見性がいかに重要であるかを示す苦 い教訓である 。 2-(2) 後追い外交 と中途半端な「 脅 し外交」の弱 さ (第 2期 ) ユーゴ軍 とKLAの 武力闘争が激 しさを増 した97年 か 99年 ら 3月 の空爆開始までの間,国 連や 米欧は問題の政治解決に向けてかな りの努力を重ねた といってよぃ 。 まずイエシァチプ を とったのは,米 国,ロ シア と欧州主要国で 構成する国際調整グルー プ (コ ンタク ト・グルー プ)だ った。 97年 の時点で コソボに 目を向け ,ユ ーゴ政府 とアルバエア系指導 部 の双方に対話による解決を呼び掛けた。空爆直前に行われた99年 のランプイエ 交渉の枠組みを 決めたの もコンタク ト・グループである。 ―-56-― 河野 健一 :「 危機管理における外交と力の限界……ケーススタディとしてのコソボ紛争」 国連安全保障理事会 では,ユ ーゴに対する経済制裁や後述する空爆の脅 しをめ ぐって米欧 とロ シア,中 国 との間に意見対立があった。それにも拘 らず安保理は紛争の拡大防止 と政治解決をめ ざして 3度 にわた り決議を採択 して い る。 とくに98年 9月 採択の安無理決議 1199号 はアルバニア 系住民 に対する抑圧の停止 ,ユ ーゴの連邦軍 と警察治安部隊の コソボか らの撤退 ,人 権擁護のた めの国際監視団の受け入れ,政 治対話の 日程の決定な どを求め,ユ ーゴに対 して厳 しい 内容だっ た。 この決議を受けて同年 10月 ,ホ ルブル ック米特使がミロシ ェビッチ大統領 との直接交渉で停戦 合意をま とめた努力も評価 してよい。 これによりNATOは 予定 していたユーゴに対する制裁の 空爆を見送 り,全 欧安保腸力機構 (OSCE)の 人権監視団2000人 が コソポに展開 した。 しかし,ホ ルブル ック ーミロシ ェビッチ合意は 2か 月後の 12月 に破れ,激 しい戦闘 が再開され た。 KLAが 停戦合意に乗 じて武力を増強 して挑発を繰 り返 し,こ れにユーゴの連邦軍 と治安警 察部隊が応戦 したからである。戦闘再開に伴 い,ア ルバエア系住民の追放や虐殺が相次 いだ。政 治解決の最後の期待をかけたランブイエ交渉 も決裂 し,NATOは 空爆に踏み切 った。大 きな流 れで いえば,外 交は停戦 と問題の解決 という目的を達成することができなかったわけだが,そ の 理由は何か。 前述の独立国際委員会の報告書 は,外 交 が暴力の エスカレー シ ョンを後追 い し,後 手後手に回 った ことが挫折につながった と指摘する。報告書 によれば ,ミ ロシェビッチ政権の コソボ政策の 本質は「 )││の 民族別人 口構成を変 えることを 目的にした,ア パル トヘ イ トにも似た差別」であ り 98年 以降 ,ア ルバニア系の抑圧 。追放を容赦な く進めた。他方 ,KLAは 「 コソボの完全独立」 , とい う最大限の要求を掲げて妥協 を拒んだ。 この ように状況が急テンポで悪化 して い く中で 「後追 い外交 が功を奏す るチャンスはほ とん どなかった」 (報 告書)の である。 報告書 は,米 欧 が ミロシ ェビッチに「 あいまいなシグナル」を送 り続け,そ れ も政治解決を挫 , 折 させる一因になった との見方を示 してい る。98年 に紛争がエスカレー トしてい く過程で NAT Oは ユーゴに対 して空爆の脅 しを頻繁にかけるようになったが,空 爆の是非をめ ぐって同盟内部 に亀裂 があった。米 ,英 が積伍的であったのに対 し,ギ リシャとイタリアは否定的であった。 こ の内部対立が,ミ ロシ ェビッチ大統領に「 NATOは 空爆をやれないだ ろう」 との誤 った判断を させる結果になった。 空爆の脅 しをかける一方で,ク リン トン大統領が「 地上軍は投入 しない」 と繰 り返 し言明した ことも,ユ ーゴ側の判断を誤 らせた。 ミロシ ェビ ッチ大統領 が最 もおそれたのは,NATOの 地 上軍 との戦争 で敗北 し,自 らが支配者の座を追われる ことだった。 NATOの 盟主の米国が地上 軍投入を否定 した ことで,「 武力介入の脅 しは信愚性 (credibility)を 失 い,脅 しに実効性を持た せるには空爆を実施するほかな くなった」 (報 告書)の である。 Daadlerら は,ク リン トン政権が NATO内 部をま とめる強力な リー ダシ ップを発揮 し,「 が っしりした信憑性のある (rObust and credible)軍 事的脅 しに裏付け られた外交」を展開 してい たな らば,空 爆 に訴 えないで問題解決 がで きた と分析す る。ヤマ場は30万 人のアルバエア系住民 が追放 された98年 夏の攻勢 よりも前の同年春 で,そ の時点な らコソボヘの 自治権回復 とKLAの 武装解除を含む小規模の平和維持活動 を着地点にす る妥協が成 り得た と主張する。ちなみに Daadlerら は98年 秋の時点 でもまだ政治解決の余地があった との興味深 い見解 を述 べて い る。米 欧が「 コソボを当面 ,国 際的な保護地域 にする」 と決めたのは99年 になってか らだった。完全独 立を棚上げ した この案を98年 秋 に提示 していれば,ミ ロシ ェビッチ大統領が受け入れる可能性が あった とい う帷 3)。 , この ような指摘 が的を射 ているとすれば,コ ソボ紛争は一直線 に破局 への コースをた どったの ―-57-― 県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要 第 3号 ではな く,武 力介入 という最終手段 に至 らないで政治解決を図るチャンスが何度 もあった とい え る。その機会を生 かす ことができなかったのは,ボ スニア紛争で定着 した「 ミロシェビッチは冷 酷非道な独裁者」 というイメージに,現 実 に コソボで展開される無法な人権侵害が重なって, リ ア リスティックな外交感覚を鈍 らせたか らではないか。 ちなみに筆者が 1999隼 10月 ,ア テネでインタビュー したヘ レニ ック財団付属研究所長のタノ ス ・ベ レ ミス教授 (国 際政治学 )は ,「 米欧はバ ルカンに “火薬庫 "だ の “ 民主主義を知 らない ″ 田舎者 だの といったいったレ ッテルを貼 り,同 じヨー ロ ッパの一員 とは認めなかった。そうし た蔑視が複雑な コソボ紛争の構造を入念に分析する手間を省 いて,ミ ロシ ェビ ッチは悪玉でKL Aも 含めてアルバニア系は善玉 と単純化 し,性 急な武力介入を発動 させる結果 となった。我 々は ワシン トンや ロン ドン とは違 った 日で コソボを見てきた」 と語 った。孜授の指摘 を裏付 けるよう に,99年 6月 1日 時点の世論調査では,英 国やフランスな ど西欧主要 国で空爆支持 が過半数であ ったのに対 し,ギ リシャでは支持がわずか 2%,反 対 が97%で あった。 この数字に,バ ルカンの 一 国であるギ リシャと他の NATOメ ンバー との深 い認識ギ ャップが示 されてい るに 4)。 2-(3) 一極主義の限界 (第 3期 ) コソボ紛争 への対応では,国 連安保理決議の根回しをはじめ とする外交折衝か ら空爆による武 力介入まで米国が主導権を とった。それは,「 世界の秩序を取 り仕切 るのは米国」 とい う一極主 義的発想 と,欧 州が 自力で解決できなかったボスニア紛争 を決着させた 自負に基 づ くものであっ た。 ロシア と中国が反対することを見越 し,NATOが 国連安保理の同意を得ない まま空爆実施 に踏 み切 った ことも,「 世界を動かすのは米国」 とい うワシン トンの意思の反映であった。 しかし,い かに強大な米国 とはいえ,そ の力に限界があるこ とは空爆開始後 に明 らかになった。 後述 するように,空 爆はユーゴの連邦軍や治安警察部隊の軍事力を思ったほどには減殺すること がで きず,ア ルバエア系住民に対する迫害の先頭に立 った民兵組織には全 くといってよい ほど無 力だった。 ミロシ ェビッチ大統領は屈伏するどころか,ヤ ヽ わゆる「民族浄化」を強め,国 連難民 高等弁務官 (UNHCR)事 務所の推計では空爆期間中に約 1万 人のアルバエ ア系住民が暴行 ,処 刑な どで命を落 とし,約 146万 人が居住地を追われて難民や国内避難民 となった。空爆は当初の 予定を大幅に超 えて長引 き,攻 撃汁象 も軍事 目標から鉄道 ,道 路 ,橋 脚 ,変 電冴や石油精製所 テレビ局な どの民用施設 に広げ られて いった。相次 ぐ誤爆や民用施設攻撃に伴 って民間人の犠牲 が増 え,空 爆の合法性 と正当性をめ ぐって国際的な論争 ,NATO批 判が巻 き起 ったに 5)。 , 空爆の長期化 と作戦規模の拡大 はNATO内 部の不協和音を強め,同 盟の危機を招 きかねない 状況 となった。行 き詰ま りを打開 したのは,外 交の力であった。それ も米国一国のみの外交努力 ではな く,欧 州や ロシアの応援を得 ることでユーゴに コソボか ら手を引かせることに成功 したの である。 この米欧露協調の外交工作の口火を切 ったのは,EU議 長国 とG8議 長国を兼ね,ロ シア と太 いパ イプを持つ ドイツであった。99年 4月 ,フ ィッシャー外相 らがモスクワを訪ね,空 爆反対の NATO批 判を続けていた ロシアを翻意 させ米欧側に引 き寄せた。 エ リツィン大統領はユーゴ間 題担当を反米のプ リマコフ首相からクリン トン政権に人脈を持 つチ ェルノムイルジン元首相に変 えた。それ以降 ,米 のタルボ ット国務副長官 ,チ ェル ノムイルジン大統領特使 ,EUの 次期議長 国であるフ ィンラン ドのアハ ティサー リ大統領の トロイカで米欧露の立場を調整するとともに , ユーゴ側 との折衝を行 った。 最終的には,① ユーゴ連邦軍 と治安部隊の コソボか らの撤退②国連統治下での難民の帰還 と戦 後復興③ 5万 人規模の国際治安維持軍 (KFOR)の 展開 ………を柱 とする安保理決議案をG8で 承 ―-58-― 河野 健一 :「 危機管理における外交と力の限界………ケーススタディとしてのコソボ紛争」 認 し,こ れにユーゴが同意 した ことで 内戦が終結 した。 G8案 に同意 させるうえで,ユ ーゴ と独 自のパ イプを持 つロシアが果た した役割は大 きい。空 爆 が想定 したような効果をあげないこ とに焦 ったNATOは 5月 末 に至 って,地 上部隊の投 入を 本格的に検討 し始めた。チ ェル ノムイルジン特使は ミロシ ェビ ッチ大統領 との会談 で,「 ロシア は NATOの 地上部隊投入を阻止する ことはできない」と引導を渡 した。これが決め手 となった。 唯― の味方 と思っていた ロシアに見放 され, ミロシ ェビ ッチ大統領 は ヨソボか らの全面撤退に応 じるほかなかったのである。 この外交 ドラマ は欧州の安全録障問題に ロシアを関与 させる ことの重要 さを米欧に再認識 させ た。 ロシアが実利で動 く国であ り,見 返 りがあれば協調 して くる ことも米欧は確認 した。ちなみ に,ロ シア外務省代表 として国際調整グルー プでの折衝を経験 した 01eg Le tin氏 によれば,ロ シアには コソボ問題で米欧 と本気で ことを構 えるだけの力はな く,「 NATOと の協調」を求め た ドイツの誘 いは大国 としての面 目を保 つ うえで「渡 りに舟」の救 いだった。それ にもかかわ ら ず,米 欧は旧ソ連時代の残影 に引 きず られ,ロ シアを過大評価 した面があった とい うに 6)。 しか し,過 大評価 して ロシアの面子を立てた ことがよい結果 を生んだ ともいえる。外交の妙 である。 空爆 と同時進行で展開された協調外交工作は,世 界最強の軍事力 と経済力を有する米国 といえ ども,一 国だけでは複雑な地域紛争 に効果的に対応で きないこ とを示 した。その教訓を現ブ ッシ ュ政権が どこまで継承 してい るかは定かではない。 しかし,少 な くとも2001年 9月 の同時多発テ ロ事件 とそれに続 くアフガニ スタン戦争で,ロ シア との意思疎通を重視 した ことは間違 いない。 3 武力とその限界 米国を盟主に19か 国を束 ねた NATOは 世界最強 ・最大の軍事同盟 である。加盟国の軍事費 と 経済力 (GDP)を 合計すれば,い ずれ も世界全体のざっと 4分 の 3を 占める。その NATOが 結成以来初めて本格的な武力行使 に踏切 り,人 口約 1000万 人のユーゴに対 してベ トナム戦争 ,湾 岸戦争 に次 ぐ規模の空爆を行 ったのが Operation Allied Forceで ある。 空爆は「人道的介入」を大義名分 にしなが ら少な くとも短期的にはアルバエア系住民の受難を 劇的にエスカレー トさせる結果 となった。空爆は当初予定を大幅 に超 えて長 引 き,誤 爆 による民 間人の殺傷や民用施設の破壊 は作戦の合法性 と正当性をめ ぐる国際的な論議を呼び起 こした。 N ATOの 武力は最終的 にはミロシ ェビッチ政権を屈伏 させ,コ ソボを迫害 か ら解放 したが,停 戦 後 ,セ ルビア系住民 に対する「逆民族浄化」 が行われる皮肉な結果を招 いた。 これ も武力介入の 限界を示すものである。以下 ,論 点を絞 って検証する。 3-(1) ハ イテク兵器は万能ではない 空爆作戦は軍事的 に二 つの特質を持 って い る。 第一は,NATOの 名を冠 してはいた ものの実質的には米軍主導の作戦 であった ことだ。米軍 機 は参戦航空機 の59%を 占め,爆 弾 ・ ミサイルの83%を 投下 ・発射 した。作戦は NATO欧 州連 (SHAPE)の 指揮の もとに遂行 された形 になって いるが,実 際 には立 案 か ら実 施まで米国防総省 (ペ ンタゴン)が 取 り仕切 った。 第二は,米 軍 がこの作戦に最先端のハ イテク兵器を投入 し,ユ ー ゴはその威力を確認する実験 合軍最高司令部 場 となった ことだ。 ステルス爆撃機 B-2を この作戦 でデビュー させたのをは じめ,24時 間連続 で敵地 を低空飛行 して リアル タイムで画像を送 って くる高性能無人偵察機 ,レ ーザ ーや GPS (全 世界位置測定 システム)の 誘導 で命中率を格段に高めた精密誘導爆弾 ,遠 方か ら目標を正確 に撃破 する巡航 ミサイルなどの stand― or weapOn, ITを 駆使 して戦域情報 を瞬時に画像化 し最 ―-59-― 県立長崎シーボル ト大学国際情報学部紀要 第 3号 適の防衛 ・攻撃手段を指示する先進の C31(指 揮 ・管制 。通信 ・情報システム)な どである帷 7)。 ちなみに,精 密誘導型の爆弾 とミサイルが投入総数に占める比率は湾岸戦争では 5%で あったが ユーゴ空爆では29%に 増 えた。ジ ョンズホプキンズ大学の Eliot Cohen教 授の表現を借 りれば ユーゴ空爆 は「新形態 の戦争 へ の変化の凝縮」であ り,21世 紀型戦争 へ の移行の象徴であ っ た∝ 8)。 , , 第二 は,武 力行使を空爆のみに限 り,地 上兵力 との連携を当初か ら拶,除 していた ことである。 この点については別途 ,述 べ る。 国防総省は圧倒的な軍事力でユーゴ側をあっけな く屈伏 させ られると踏み,当 初の攻撃 目標を 3日 分 しか選定 していなかった。 しかし,短 期決着の読みは外れ,ユ ーゴは コソボに増援部隊を 送 り込み,KLAへ の攻撃を強めるとともに強制追放な どアルバエア系住民 への迫害 を一挙にエ スカレー トさせた。 NATOは 「人権侵害を可能にしてい るユーゴの軍事力を減殺する」 という 介入 目標を短期的には達成で きなかったのである。 その主な理 由は,隠 蔽 ・退避が可能な戦車や装甲車の撃破率が低かったことだ。 NATOは 当 初 ,撃 破率を30%程 度 と発表 したが,空 爆終結後の現地調査の結果 , 7∼ 10%に 下方修正 した。 実際は もっと低かった と指摘する軍事専門家 もい る。暴行 ,虐 殺 ,略 奪などアルバニア系住民に 対 して最大の加害者 となったのはセルビアの民兵組織であるが,小 火器で武装 し,小 集団で行動 する民兵組織に対 して空爆は全 く無力だった。 焦 った NATOは 空爆開始か ら 1週 間後の 3月 30日 ,攻 撃対象を鉄道 ,道 路 ,橋 脚など民用施 設を含むユーゴ全土に広げた。表に示 したように,こ れ ら施設は甚大な被害を被 った。表 には載 っていないが,NATOは 送 ・変電施設 も攻撃 し,首 都 ベ オグラー ドでは長期の停電で水道施設 が運転で きな くな り,市 民生活を苦境 に陥れた。空爆で破壊 された橋脚の瓦礫が航路をふさいだ ため ドナウ川はユーゴ内で航行不能 とな り,ユ ーゴのみな らずオース トリア,ハ ンガ リー,ル ー マエアな ど流域国の物流 に重大な支障が生 じた。米海軍大学の Alberto Coll教 授が指摘するよう に,ジ ュネープ条約違反の疑 いが濃 い民用施設の攻撃はユーゴ国内において NATOへ の反感 と 愛国意識を強め,ミ ロシェビ ッチ大統領 と国民の離間を狙 った米国の思惑は外れた儀 9)。 ユーゴの産業 ・インフラの空爆による破壊度 産業部門 ・インフラの種類 損傷 ・破壊 された ものの比率 (%) 100 70 50 100 100 50 石油精製 ドナウ川を跨 ぐ道路橋 ドナウ川を跨 ぐ鉄道橋 セル ビア とモンテネグ ロの連絡鉄道 セルビア とコソボの連絡鉄道 セルビア とコソボを結事主要道路 (出 典 :Ivo Daadier et al.“ フ物を 坐カ ーハИ TO`″ ″ ヵ磁ν FOsο ω"よ り抜粋) 人権団体の推計では誤爆や民用施設爆撃の巻 き添 え となって約 500人 の民間人が死亡 した。 こ れ も,空 爆 への批判を強めた。列車が通過中の鉄橋の爆撃や難民の車列を軍用車 と間違 えて攻撃 し,多 数の死者を出した事件は弁明の余地のない重大なミスである。 3人 の死者を出した中国大 使館誤爆は深刻な外交 問題 となった。 ハ イテク兵器を投入 しなが ら誤爆が相次 いだ理 由は,NATOが 対空砲火や ミサイルによる 撃 墜を避けるため,有 人機は 1万 5000フ ィー ト (約 4600メ ー トル)以 上の高度で飛行 させたことで ―-60-― 河野 健一 :「 危機管理における外交 と力の限界………ケーススタディとしてのコソボ紛争」 あ る。 この高度 か らでは ,地 形 や天候 に よって 目標 の誤認 が生 じやす い。 NATO欧 州連合軍最 高 司令官 (SACEUR)の クラー ク大将 が告 白す る ように,い か に命 中率 の高 い精密誘導 兵器 であ って も「 目標 の捕 捉 と特定 に ミスがあれば ,誤 爆 は防 げな い」 のであ り,ハ イテ ク兵器 は万能 で はな い のだ ∝Ю)。 「 人道的介入」 を掲 げなが ら,自 軍兵 上 の生命 を民 間人 の生命 よ り重 く見 た NATOの 姿勢 は 「 偽善」 のそ し りを免 れず ,こ れ も国際世論 の批判 を招 き,NATO内 部 の不協和音 を広 げ る一 囚 とな った。 3-(2) 地上兵 力投入 を排除 した ことへ の疑 問 国防総省 が武力行使を空爆一本 に絞 ったのは,① 自軍の損害を最小限 に抑えることが可能なの で,議 会や世論の批判を受けないで済 む②ハ イテク兵器をフルに活用できる③ コス トが安 く,作 戦の規模 や内容を自由に変 えられる柔軟 さがある………の三つの理 由か らだった。 つま り,空 爆が 米国に とって最 も望ましい戦争の形態 であったのだ。 空爆が期待 したはどの軍事的成果をあげる ことができず,誤 爆な どへの批判が強まぅたため 英国のプ レアー首相は 4月 後半 ,地 上軍の投入を米国に進言 した。 しかし,国 防総省は これをか , た くなに拒否 した。 NATOの 試算では,ユ ーゴの連邦軍 と治安部隊を州外に追 い出し,コ ソボ を制圧するには 17万 5000人 の兵力を必要 とするし,セ ルビア本国まで攻め入ってユーゴ政府を圧 迫 し,問 題解決を迫 るには20万 人の兵力が必要 になる。 こうした大兵力を動 かすには長期の準備 を要するし,多 数の損害 も覚悟 しなければな らない というのが,地 上軍投入のオプシ ョンをり,除 した主な理由である。また, ドイツやイタリアが地上軍投入に否定的な姿勢 を示 し,無 理押 しで きな い事情 もあった。再びクラーク大将の言葉を引用すれば ,「 NATOは 19頭 (加 盟国数 )で 引 く馬車のようなもので,足 並みをそろえなければ前に進めない」 のである。 しかし,地 上作戦 にはい ろい ろな規模 ,形 態 があ り得 た。前述 の Daadlerら は,隣 接のマ ケ ド ニア とアルバニアに駐留する兵力を増強 してユーゴに圧力をかけた り,KLAの 武装解除 と州内 の平和維持を 目的にした国際部隊を コソポに投入する選択肢を検討すべ きだった と主張する。 と くにKLAの 武装解除を盛 り込んだ後者の選択な らば,ミ ロシ ェビッチ大統領が受け入れた可能 性があ り,そ の場合の必要兵力は 2万 7000人 程度で足 りた とい う。また, ド/ツ やイタリアが反 対するのであれば,地 上軍投入に前向きな英仏の支援を得 て米 国を含め 3国 だけで部隊を編成 し , NATOの 旗の もとで作戦を実施する選択肢 もあった と主張 してい る。 空爆の限界を思 い知 らされた NATOは 5月 末 になって,地 上兵力の投 入を検討 し始めた。そ の動 きがミロシ ェビッチ大統領を揺さが り,コ ソボか らの撤退を決意させるファクターになった ことは前述 した通 りである。 ちなみに,ア フガニスタン戦争 では米軍は空爆 と北部 同盟に よる地上作戦 を連携 させ ,自 国の 特殊部隊 も投入 した。アルカイダ とタリバ ン軍の掃討には地上戦が避け られないか らであるが コソボの経験がアフガン作戦 にどう影響 したかは今後の検証にまたなければな らない。 , 4 コツボの現状に照 らした外交 と力の総括評価 米欧を主体 とする外交努力 とNATOの 武力介入は,コ ソボの民族問題の解決 にどこまで貢献 したのか。空爆終結か ら 3年 以上を経 た コソボの現状 に照 らして,検 証 を試みる。 停戦後の コソボの統治体制 と戦後復興 の枠組を定めたのは,G8案 を基に国連安保理で採択 さ れた決議 1244号 である。決議 によリコソボは国連 コソボ暫定統治機構 (UNMIK)の 管轄下 に置 かれ,ユ ーゴの支配 が及ばない国連保護領 となった。 UNMIKの 任務 は コソボに平和 と民主主 -61- 県立長崎シーボル ト大学国際情報学部紀要 第 3号 義 と安定 を実現 し,1244号 に うたわれた「 実質 を伴 う自治」 を担 う能 力 を育成 す るこ とであ る。 国連事務総長特別 代表 を トップ とす る UNMIKは 察 を 国連 ,民 主化 を OSCE,復 四 つ の下部機構 を持 ち ,一 般行政 と司法 ・警 興 と経 済 開発 を EUが それぞれ担 当 して い る。 また ,国 際治安 軍 (KFOR。 4万 7500人 )が 展 開 し,紛 争 の再 発 防止 と治安維持 を支援 してい る。 2001年 ■月 に コ ソボ議会 ,2002年 4月 に暫定 自治政府 が発足 したが ,そ の権 限 は限 られ ,重 要事項 の決定 権 は UNMIKが 握 って い る。 最大 の課題 であ る民 族 間の和解 と治安 回復 の歩 みは遅 い。約 20万 人 を数 えた コ ソボの セル ビア 系住民 の半分 強 が ユー ゴ軍撤退後 ,州 外 に 出て行 った。 この結果 ,コ ソボの人 口の 95%が アル バ エ ア系 で 占め られ る結 果 とな った。 残 ったセル ビア系住民 に対 す る報 復 の暴 力沙汰 は収 ま って きたが ,憎 しみは解 けていない。 セ ル ビア系 はセル ビア本 国 との境界 に近 い北部 3地 域 では多数 を占め るが ,他 の地域 では圧 倒 的 な 少数派 であ る。東部 や南部 に残 ったセル ビア系 は 自衛 のため に数百人単 位 で ま とま って住 み ,一 種 のゲ ッ トー を形成 して い る。 ゲ ッ トー は KFORに よって守 られ ,兵 士 の護衛 な しでは遠 出で きな い状態 が続 い てい る。北部 の 中心都市 ミ トロ ビッ ァは セル ビア人地 区 とアル バエ ア人地 区 に 分 断 され ,暴 力沙汰 が絶 えない。 2002年 4月 にはセル ビア系 が UNMIKの 国際警察 隊 を襲 い , 22人 が負傷 す る事件 が起 こった。 アル バ ニ ア系 に よるセル ビア系住民 の住宅 奪取 な ど財 産権 をめ ぐる訴 訟 が 多数 ,提 起 されたが ,審 理 の遅 れで大 多数 が未決着 の ままだ。 こ うした情勢 の中 ,セ ル ビア系 の難 民 ・避難民 の帰還 は進 んでいない。 アナン国連事務総長 が ,安 保理 で行 った報告 に よれば ,2002年 前半 に コ ソボ に帰還 した難民 ・避難民 はわず か997人 , うち セル ビア系 は439人 だ った。他方 ,268人 が コ ソボ か ら出て行 った。停戦 以来 の累 計 で見 て も,帰 還 したセル ビア系 は推 計 2600人 に とどま って い るに1つ 。 2002年 7月 犯罪 も多 い。殺 人 ,強 盗 ,放 火 ,誘 拐 な どの 凶悪事件 は全 体 として減少 に転 じた ものの ,レ イ プ ,売 春 目的 の女性 の人身売 買 は増 加傾 向にあ る。 UNMIKが とりわけ手 を焼 い てい るのがア ル バ エ ア系 マ フ ィア組織 で ,タ バ コの密輸 ,床 薬取 引 な ど欧州各 国 に網 を広 げて暗躍 して い る 。 首都 プ リシ ュテ ィナ をは じめ都市部 では小 売商 を中心 に流通 部 門が復 活 して きたが ,製 造業 の 復興 が進 んで い な い。 治安 が悪 い うえ,社 会主義 時代 の公営企 業 の民営化 が遅 れてい るため外資 が入 って こない のだ。 2002年 7月 ,ベ オグ ラー ドとプ リシ ュテ ィナを結 ボ鉄道 が ようや く 運行再 開 に こぎつ けたが ,内 戦 と空爆 で破 壊 された イン フ ラの復興 はまだ道半 ば にあ る。 失業率 はアル バ エ ア系 で50%,セ ル ビア系 で85∼ 90%に 達 し,国 際機 関 な どか らの支 援 と外 国 に住 む 出稼 ぎ労 働者 か らの送金 で幸 うじて生活 が成 り立 ってい る。 ミ ロ シ ェビ ッチ政権 が倒 れた 後 も,コ ソボの将 来 は未定 の ま まであ る。 安保理 決 議 1244号 は 「 ユー ゴ の領土 的一 体性 を損 なわない形 で コ ソポ に実質 を伴 う自治 (substantial autonomy)を 認 め る」 とうた い ,コ ソボの独 立 に歯止 め をかけて い る。 しか し,ア ル バ エ ア系 が 自分 たちを追 い立 てた ユー ゴの主権下 に復帰 す る見込 みはゼ ロで あ る。 さ りとて ,セ ル ビア が 系 多数 を 占め る 地域 をセル ビア領 に組 み入れ ,ア ルバ ニ ア系 が多 い地域 のみで独立 させ る とい う分割 案 に も難点 が あ る。耳ヒ部 に住 むアル バ ニ ア系 ,南 部 や東 部 に住 むセル ビア系住民 をそれぞれの民族地域 に移 住 させ なければな らな くな るか らだ。勝 ち組 のアル バ ニ ア系 は コ ソボ全 体 としての完全独立 を要 求 してお り,分 割 に反 対 してい る。 コ ソボの分割 は ,多 くのアル バ エ ア系 人 口を抱 えるマ ケ ドニ ア に新 たな分離運動 を呼び起 こす恐 れ もあ る。 アナン事務総長 は安保理 での報告 で「 コ ソボ にはまだ 自治能 力が備 わ っていない」 と問題 を先 送 りした が ,無 期 限 に 国連保 護 領 の ま ま据 え置 くこ とはで きな い。 フ ラン スのバ ル カン専 門家 」acques Repunik氏 は現実 的 な解決策 として ,憲 法 に よる全住民 の人権 の保 障 ,武 力行使 の禁 止 , -62- 河野 健一 :「 危機管理における外交と力の限界……ケーススタディとしてのコソボ紛争」 (ア ルバニア との合併な ど)国 境の変更 をしない とい う条件を付 した うえで独立を認めるとい う 「条件付 き独立案」を提示 している感121。 だが,こ の案 とて もアルバエア系 とセルビア系が互 い に許 し合 い協力することが必要であ り,そ の実現には長 い時間がかかるだろう。 2000年 10月 ,ミ ロシ ェビッチ政権が崩壊 し,ユ ーゴはコシ ュトニ ツア新政権の もとで民主化の 道 に向かい始め,米 国や EUと の関係を修復 した。 しかし,コ シュ トニ ツァ政権 もコソボが独立 する ことは認めていない。 以上に述 べたような コソボの現状に照 らせば,米 欧露の外交努力は停戦 を実現 させ ,安 保理決 議採択 の基盤を固めた ものの,多 民族の平和共存 とコソボの政治的地位の確定 という道 筋 を示す には至 らなかった。紛争後のボスニアの国家構造を曲が りな りにも示 したデイ トン合意 との大 き な違 いである。 NATOの 武力介入は ミロシ ェビッチ大統領にコソボから手を引かせ,ア ルバエア系住民に対 する組織的な人権侵害を止めさせた。その功績は認めなければな らないが,他 面で空爆は短期的 にせよ,ア ルバニア系への追害を強めさせ,多 数の難民 ・避難民 と 1万 人の死者を出す結果 もも た らしてい る。また,誤 爆で民間人に多 くの犠牲者を出した ことと,戦 争法規違反の疑 いが強 い 民用施設の攻撃 で国際的批判を招 いた ことを考 えれば ,「 人道的介入のモデル」 とはいえない。 また,約 10万 人のセルビア系難民 ・避難民の帰還が今後 も進展 しなければ,空 爆の産物 ともいえ る逆民族浄化で生 じた民族別人口構成の変動が是正されないま既成事実化 されるわけで,こ れ も 重 い問題 として残 る。武力介入が外交同様 ,根 本問題解決の道を切 り開 くには至 らなかった こと はい うまで もない。 総括的結論をいえば ,コ ソポ紛争は外交 と力が試 される試金石であったが,双 方の限界 が露呈 する皮肉な結果 となった。空爆 についていえば,前 述のクラーク大将は「 二度 と繰 り返 した くな い作戦」 と述 べている感19。 民族紛争 への対応において武力が限定的な役割 しか果たせないこと を思い知 らされた司令官の言葉 として重みがある。 5 今後の課題 コソボ紛争を通 じて,国 際社会 が外交 と力に関する幾 つかのルールづ くりに取 り組む必要があ る ことが明らかになった。 まず第一に,力 はあ くまで政治 目的を達成する手段 に過 ぎず,粥 確に 目的を限定 して政治の主 導のも とに行使されなければな らないことを国際的 コンセンサス として確立する ことが重要 であ る。米国の単独行動主義 ,す ぐに武力に訴えようとする傾向に歯止めをかけるためにも,こ うし た コンセンサスを固めることが急 がれる。 「 人道的介入」に限 ってい えば,1990年 代 になって国連で認め られるようになった新 しい概念 であるが,ど の ような場合に武力行使を禁 じた一般原則の例外的措置 として介入が許 されるのか 法律的な詰めが十分 になされていない。安易 な武力介入を防 ぐためにも,「 人道的介入 とは何か」 を明確に定義 した原則的枠組 と,人 道上の破局 が予期される場合に国際社会が とるべ き対応のガ , イ ドラインを設定する必要 がある。その作業 は国連の国際法委員会が中心にな って公正な立場 か ら行えば よい。 第二に,人 道的介入の承認 は国連のみの権限であることを再確認す る必要がある。個別の国や 地域組織が独 自の判断で人道的介入を行 うのを許せば,特 定の国や組織 が人権や人道に名を借 り て 自らの利益 のために他国に武力行使する ことに道を開 きかねない。 第二に,国 連の危機管理能力 を強め,地 域紛争や人権侵害 に外交 と力の両面で迅速かつ効果的 に対応する態勢を固めなければな らない。前述 した ように,介 入の時期を失すると, 目的達成が ―-63-― 県立長崎シーボル ト大学国際情報学部紀要 第 3号 困難になる。迅速な対応を可能にするには,国 連の機構改革が避け られない。その第一歩 として 安全保障理事会の決定を送 らせることがで きる常任理事国の拒否権を廃止 し,加 重多数決による 決定手続 きを導 入すべ きである。拒否権廃上に常任理事国が反対するのであれば,国 連総会の下 , に危機管理を担当する部局を設けることを検討 して よい。 第四に,国 連の機能を補完するために,紛 争の未然防止 と迅速な危機管理を担 う地域機関を育 てる必要がある。紛争で荒れた地に平和 と安定を定着させ ,和 解を進めるために,事 後の支援態 勢を強める ことも大切である。 欧州についていえば,ま だ不十分な態勢なが ら,欧 州安保協力機構 (OSCE)が 設けた紛争防 止 セン ターや少数民族 高等弁務官の活動は紛争の未然防止を 目指す ものである。 EUが 2003年 発 足を 目指 している緊急対応軍 (6万 人)は ,外 交を補完する牙 として危機管理に当たることにな る。また,EUは 5万 人規模の文民警察官を派遣する態勢 づ くりにも取 り組んで い る。停戦後の 最重要課題である治安維持 に果 たす警察の役割が極めて大 きい ことを コソボで学んだか らであ る。 コソボの経験は,ア ジアやアフ リカにおいて も紛争の未然防止 と迅速な危機管理 を担 う地域組 織 づ くりに真剣 に取 り組む時期が来てい ることを示 唆 している。 [光 と ] (1)Independent lntemational CommissiOn on Kosovo,“ Kosoυ οR卵 カーGο %ガケ θ %α ′ ち物之知,筋ο Rセψ ο盗 ら と斜 οηS L切 婢 ″ "(2000 0xfOrd University Press) (2)IvO Daalder and WIichae1 0'Hanlon,“ %ゲ %ξ 覧 η「ゲ ttο α 酌 ―ス効θ /チ οsα υ ικOSOυ ο" `TTち (2000 BroOkings lnstitution) (3)Daalder et al.“ Ⅳ械ケ ηg夕 ξ妙" ニ (4)ヘ レ ック財 団は空爆最 中の 1999年 4月 ,セ ル ビア ,コ ソボ をは じめ マ ケ ドエ アアル バエ ア ギ リシ ャな どバ ル カン諸 国の政策担 当者 ,学 者 ,ジ ャーナ リス トを招 い て ,コ ソボ紛争 をテー , マ に国際 シンポジウムを 開催 した。財 団か ら刊行 された下 記 の シンポの記録 は コ ソボ紛 争 を バ ル カンの識者 が どう見 たかを知 る うえで有益 な資料 であ る。 “ るο sο tt α η′励ιスど う α%力 ηDゲ ηι ηs力 η励 励ιSθ %筋 ι αs修 陶 β%角 妙ι r ttι η ι ″ ヵ ″宅gゲο %α ′ dι θ ″打ゥ α%冴 ε ο 2/Jゲ θ チ´兜υ ι ηナ ゲ ο η"(Edited by ThanOs Veremis and Dimitrios Tttamtaphyllou, ELIAMEP,Athens 1999) (5)空 爆 の合法性 と正 当性 をめ ぐる論 議 については下記 を参照。 Adam Roberts,NATO's`Humanitarian War'over Kosovo(IISS,S%効 ゲ υ αみvol.41,no.3, Aummn 1999) Alberto Coll,“ Kosovo and he Moral Burdens Of Power"(Edited by Andrew Bace Eliot Cohen,肋 ″θ%″ Fosο υら 2001 COlumbia U c and versity Press) Catherine Guicherd, `International Law and the Warin I(osovo'(IISS,翫 ″ υ 崎転ちv01.41,no. 2,Summer 1999) (6)01eg Le tin,“ Inside Moscow'S Kosovo Muddle"(HSS,S筋 ″υゲ υ αみ vol.42,no.1, Sping 2000) (7)ユ ー ゴ空爆 に投 入 された先 端兵器 につい ては下 記 の 2点 が詳 しい。 "(2001 RAND) Beniamin Lambeth,“ 凡4TO'sス ″ T,吻 ″ ο ヵγttθ Sο υ Eliot Cohen,“ Kosovo and he New Ameican Way of War"(Edited by Baceic et al.TTち Xθ sθ 鉤) ―-64-― ″(効 ι γ 河野 健一 :「 危機管理における外交と力の限界 一―ケーススタディとしてのコソボ紛争」 「軍事 における革命」 (RMA)と 呼ばれるハ イテク兵器導入の全般状況 と,そ れがもた らし た戦争 ・戦略の変容については次の 3点 が内容に富む。 Lawrence Freedman,“ The Revolution in h/1ilitaり Affairs?"(HSS,4諺 妙カゲ兌砂ι γ∂ど ∂) gゲ a2′ C力 α Michae1 0'Hanlon,“ α R夕 attη ο 云 %を α %'筋 を 陀 F%減 万 力 %"(2000 Brookings ln― 祟 平 9デ ″ stitution) “aθ ι υ αtts αRι 切励″ο%励 И ケ ″カヮ 勒 ケ 密 ?"(Edited by Thierry Gongola and Har』 d van Lie電loff,2000 Greenwood Press) (8)前 掲 Cohen論 文 (9)前 掲 Coll論 文 '(Pubhc Arairs,2001) tO Wesley Clark,`Wattgれ わ諺陶 TT珍 ヶ ‐ 琢物″力 げ 励ιS9確 カヮ Gttη ι 紹′ο %励 ιttEttaハ 物肋体 物形ヵ物 スα物力た,物 肪%Miss力 η励 tゆ θ sο 切'(S/2002/779,Secば ity Council,United Nations) υ αちvol.43,no.2,Summer 2001) CD Jaques Repunik,“ Yugoslavia a■ er Milosevic"(IISS,S%効 ゲ 19 前掲 Clark 論文 ―-65-―
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