第45話 世界のElegy(悲歌)

「キャプテンカタヨセの肩ふり談話室」片寄 洋一
45.世界の Elegy(悲歌)
危険な港町でも代理店や郵便局に行かなければならにので、カメラ、腕時計、財布等金目のもの
は持たず、必要経費の最小限の現金をバラで持ち、これは内ポケットに入れ、$10 を上着の両ポケ
ットに 1 枚ずつ入れておく、これは強盗様用で、遭遇したら自分で手渡しは駄目、強盗本人に盗ら
せるのが鉄則です。その理由はこちらがポケットに手を入れるとナイフが出るかピストルが出るか
判りませんから、強盗さんもビクビクなんです。
特に日本人が危険なのは、我々は内ポケットに財布を
入れてるのが普通ですが、欧米人は普通ズボンの後ろ
ポケットに入れています。ですから我々は強盗の要求
①
に応じて内ポケットの財布を取り出そうと、手を入れ
ると途端にズドンとやられます。これはピストルのホルダーが腋の下にありますから、ピストルを
取り出そうとしているのだと勘違いしてしまうのです。ですからホールドアップではなく、両手を
頭の後ろで組んだまま、強盗さんのセルフーサビスでやらせるのが一番安全です。
私の新記録はハイチではありませんが白昼強盗に 1 日に 5 回襲われたことがあります。路上です
から人通りもあり、助けを求めたところでニャニャしているだけ、極端な話は警官がいても無視、
後で代理店の係員に尋ねたところ、警官が強盗の上前をハネテいるのだそうで、日本人の常識は一
切通用しませんからご用心。外国人だけ狙ってやっているんだから出歩いている外国人の方が悪い
とのことでした。強盗・泥棒という手段で貴重な外貨を稼いでいるのですから立派な職業かもしれ
ません。ですから怪しげな所には絶対に足を踏み入れないこと。移動は必ず車ですること。しかし、
これでも駄目なことがあります。
これはあるアフリカのある街での出来事ですが、代理店の車で移動中、交差点で停止したところ
警官が寄ってきて車の中を覗き込み、私の顔を確認してから、運転手に何か大声で注意らしきこと
を言っており、その時運転手が何事か言い返しましたら、激怒したらしい警官は、ドアーを開け運
転手を引きずり降ろし、警棒を持って猛烈な勢いで叩き出しました。運転手は泣きながら、早く罰
金を払ってくれと私に哀願します。驚いて 50US ドルを差し出すと、かぶっていた制帽をぬいで差
し出しこれに入れろという仕草、それで一件落着、これは外国人とみると警官が演じる小遣い稼ぎ
の一つだそうで、警官に呼び止められたら直ぐドルを払ってくれなきゃ駄目だと運転手君には文句
を言われ、一方、警官の方にも言い分がありあます。満足な給料はもらえず、強請・たかりは給料
の一部として公認されているのだそうで、江戸時代の岡っ引きと同じです。「郷に入れば郷に従え」
しかし 50 ドルは多すぎで相場は 10 ドルだそうです。
この強盗さん達には国が違っても共通の鉄則があります。それは絶対に自国の金は受け取らない
こと、必ず US ドルを要求します。仮に日本で強盗に遭ったとき1万円札を差し出したら、それは
いらない US ドルを出せと言う強盗がいるでしょうか。しかし、これは日本の常識、それは自国の
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通貨‘円’を絶対的に信用しているからです。アフリカ諸国では自国の通貨を全く信用しておりま
せん。ですからドル信仰は絶対で、US ドルだからこそ強盗をやる価値があり、それを持っている
外国人を狙うのは当然の行為です。
かって社会主義国家が多数あった頃、大きな街やホテル内には必ず国営のドルショップがあり、
商品購入での支払いは US ドルだけという商店がありました。お釣りがある場合は現地の通貨です
からもらっても使い道が無かったのです。ホテル代もドル払いです。
これらの事例に対して日本の事例を述べますと、紐育での知人が、東京での仕事を終えタクシー
で成田へ行き、支払いをドルで支払おうとしたところ運転士さんは日本円でなきゃ駄目だと受け取
り拒否、円の持ち合わせが無かったのでトラベラーチェックでやや多めの額で支払って勘弁しても
らったと苦笑しておりましたが、USドルでの支払いを受け取らないのは世界中で多分日本だけの
現象で、世界一の借金国家であっても自国の通貨‘円’に対する信用は絶大です。
もう一つ例を挙げると、日本国内で起きたことです。私が住んでいる近くの大和市にベトナム難民
のキャンプがありました。1975 年南ベトナムが崩壊し多数のベトナム人が船で脱出し、洋上を漂流
したボートピープルを通りかかった船舶が救助し、香港やシンガポールに収容されたのですが、そ
の内何%かは我が国にも収容され、大和市にキャンプがありました。そして日本中から慰問品や見
舞金が届けられました。そうしましたらベトナム難民の人達が奇妙な行動を取り始めたのです。日
本人から贈られた慰問品の衣料や食料品を持って近所を行商して売り歩き、そうして得た少しばか
りの円で、なんと‘金’を買ったのです。それを知った日本人は善意を踏みにじる行為だと怒り出
しました。これが平和国家に住む日本人の常識、しかし、難民にしてみれば日本に永住できるわけ
ではなく、近いうちまた追い出されて、世界を流浪しなければならないとき我が身の安全を保証し
てくれるのは世界共通の通貨である‘金’だけが頼りなのです。これが世界の常識。
もう一つボートピープルについて、1975 年 5 月初旬頃の話ですが、タイのバンコックで車を陸揚
げし、空船でチャオプラヤ川を下り、波静かなシャム湾を航行し、ベトナムのパイプン岬を航過し
変針点の頃からどうも異様な雰囲気なのです。なにしろベトナム戦争のまっ最中で要注意の海域に
入りましたから緊張しておりました。私自身も何年か前まではこの近海を LST で航行していたので
すから、何故か戦争の臭いが濃厚なのです。レーダーを監視していた当直航海士が「前方にもの凄
い数の船がいます」と報告があり、スコープを覗いてみると確かに何十という船が集結しているみ
たいですが、夕闇が迫る頃なので双眼鏡ではなんも見えません。すると眼の良い甲板手が「あそこ
に発光信号が見えます」というので双眼鏡で見ると微かに「SOS」信号と読めます。更に近づくと
無数の懐中電灯で SOS の渦です。
ベトナム戦争末期
南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)が陥落したのが 1975 年 4 月
30 日ですから、多分その日の後 5 月の初め頃で詳しい日付は記憶にありません。
更に近づくとあらゆる種類の船に溢れんばかりの人々が甲板上にいます。難を逃れて船でメコン
川を下り、南シナ海を漂っていたようです。救助しようとしたのですが乗船していた船が PCC(自
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動車専用船)なので舷側が六階建てのビル位あり、乗り移ることが不可能、しかも外海ですからう
ねりがあり、船が接舷も出来ないのです。どうすれば良いか思案していると、国際 VHF(16ch)で
アメリカ海軍の艦艇から呼び出しあって、直ぐそちらに行くから指示に従ってくれとの要請があり、
待つこと間もなく緊急の赤色回転灯とサイレンを鳴らしながら米海軍の哨戒艇が近づき、士官がメ
ガホンで近くにアメリカ海軍の輸送艦が多
数待機しているのでそこまで曳航してくれ
ないかとの要請、こちらの船尾から曳航索
を渡し、水兵さん達が素早く 10 隻位数珠繋
ぎの曳航準備をしてくれて、哨戒艇の誘導
に従って微速で曳航して無事引き渡し、ま
た引き返して次の船と何往復かを繰り返し
翌朝までやってなんとか終了、帰途に就き
ました。
②
私の場合は幸いにもこれで済んだのです
が、アメリカ海軍が引き上げた後で救助した船は多数の難民を乗せてそれぞれの寄港地へ向かった
のですが、寄港地ではどこも引き取りを拒否、入港さえ許可しなかったのです。国連がシンガポー
ルと香港に難民キャンプを造りましたが‘焼け石に水’勿論日本も難民受け入れ拒否でしたが、世
界の世論におされて渋々前述の大和市に僅かな難民キャンプを設けたのみでした。
困ったのは救助した船で、当時は便宜置籍船が少なく、これらの船は日本国籍の船舶が多かった
のですが、食糧や水は乗組員分しか載んでいませんから、直ぐになくなってしまい、入港が出来な
いので補給も出来ないのです。後刻当事者であった船長に話を聞きましたが、切羽詰って自決をし
たら何とかしてくれるのではないかと思い,決行しようとしたと話をしておりました。結局国連の
担当官の奔走でなんとか解決しました
が、一人か二人救助すると英雄的行為
といってマスコミや政府が誉め讃えま
すが、多数救助すると余計なことをす
るなとばかり我関せずです。会社から
もメコンデルタ沖合、その近海には近
づくな、大きく迂回せよと指示があり
ました。
戦争がなくとも故国を捨てて外国へ
逃亡しようとする人々が絶えません。
ですから入港時より出港時の方が厳し
い検査があります。乗組員を1箇所に
③
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集め、それから船内全てをサーチします。時には軍用犬も参加しますが、これらのサーチは陸軍の
特殊部隊がやっているようです。サーチ終了、出港許可となるのですが、部屋に戻ってみると、密
出国者をサーチするのに何故か机の引き出しが開いており、ボールペンや鉛筆が無くなっておりま
す。まあその位で済めばご愛敬で仕方ありません。
ブラックアフリカの某港を出て三ッ日後、「デッキを黒人が歩いております」と、当直航海士か
ら船内電話があり、仰天して行ってみると、確かに黒人がおり、尋ねるとステベ(荷役労働者)と
共に船に乗り込み船首にあるボースンストアーの中でロープの輪の中に潜り込んでいたらしく、腹
を空かして出てきたのです。早速食事を与えると猛烈な食欲です。その時の最初の寄港地がベルギ
ーのアントワーペン港だったので、エージェントに内密に相談したところ、密入国者は受け入れな
いし、強制送還するとしても送還費用は船会社負担になるといわれ、幸いにもブラックアフリカ諸
国との就航でしたからまた同じ港へ寄港することがあるだろうから、それまで甲板員として働かせ
たらとアドバイスがあり三ヶ月後同港へ寄港、夜半に上陸させ暗闇の中へ消えていきました。
翻って 1945 年 8 月 15 日終戦となり、満州、中国、南洋その他の地に民間人が行っておった人々
が、そこに住むことが許されず、全て追われるように帰国の途に付いたのですが、あの混乱期スム
ースに帰国できるわけがなく、大変な苦労しながら国破れて山河ありの故国へ帰ってきたのです。
そこには他国へ亡命しようとか逃亡しようとかの選択は無く、ただひたすら故国を目指して歩き続
けたのです。
それは国は破れても日本人であるこに誇りを持ち日本政府を信じていたからでしょう。
自国の政府が信じられなくなったから悲劇は起きるので、国を捨てなければならない国民の苦渋は
大変なものでしょう。
さて再び世界のワルに戻ります。この
強盗・泥棒の類はアメリカやヨーロッパ
でも結構出現します。紐育での陸勤して
いたとき通勤には地下鉄の M・K ライン
を利用していましたが、午後 8 時になる
と1車両毎に警官が警戒に乗車します。
ですから何時も警官の傍に立っておりま
した。8 両連結ですがそのうち 2 両か 3
④
両は電車の中の照明が切れており、真っ
暗な中に乗客が平然と乗っておりますか
らこれが世界一の紐育かと驚きです。さらに夜の地下鉄の車内は強烈なマリファナの臭いが充満し
ており、黒人のアンチャン達が車内で吸っているのですが警戒中の警官はしらんふり、マリファナ
は取り締まりの対象にはなりません。電車を降りて地上へ出るまでの薄暗い長い地下道が危険地帯
で何処に強盗が潜んでいるか、無事我がフラットにたどり着けるか幸運を祈るだけです。
ブラックアフリカでは陰干しで乾燥したグラスを売りにきます。野生のマリファナは規制がありま
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せんからいくらでもあるのだそうです。絶対に買っては駄目だと乗組
全員に通達し、チョッサー(首席航海士)に指導監督を厳命していた
のですが、ある日
異変がありました。朝食を摂るため食堂に行きま
したら、何時も給仕するサロンボーイがおりません。どうしたんだと
司厨長に尋ねると、実はといってサロンボーイの部屋に案内されまし
⑤
た。すると部屋の中に座り込んでトローンとした眼だけこちらを向い
て、なんの表情もありません。腰が抜けた様になって動けないんだそうです。昨夜韓国人グループが
この部屋でマリファナを吸ったら一番若いサロンボーイが急性マリファナ中毒になり、昨夜から座っ
たままだと言っており、ほっとけばそのうち醒めますよ、と気にもしていません。なるほど夕方には
何事も無かったように働いておりました。しかし数多くのゴキブリが仰向けになって動けなくなって
おりましたから矢張り毒性はあるのでしょう。
ヨーロッパでも地中海に面した処は危険が多く、特にイタリア南部は危険で、世界の観光地ナポリ、
‘ナポリを観て死ね’と言われておりますが、3 ヶ月滞在しているうち、何度泥棒やヒッタクリにあ
ったことか、鞄を身体にくくりつけていたら鞄をヒッタクラレ、泥棒にひっぱられるままに一緒に走
った珍風景を演じました。諦めた泥棒氏は路地奥に姿を消しましたが、面白がって一緒に伴走して付
いてきた子供達にはご苦労さんとキャンデーを買ってやりました。でも何故かナポリが懐かしいのは
詐欺師の様な取引相手と必死の攻防戦が連日続いていたからでしょう。
ここでの失敗談を一つ、本場の最高のナポリタンを食べようとホテルのレストランでナポリタンを
オーダーしたところ、ウェーターがキョトーンとしており、全く理解できない表情なので、オレのイ
タリア語じゃあ駄目かと思い、英語のできるウェーターに云っても駄目、それでケチャップで炒める
んだといったら、それはアメリカ料理かと訊かれる始末、イタリアでは生のトマトだけを使用し、ケ
チャップは絶対に使わないとのこと、後で知ったのですがナポリタンの発祥の地は実は横浜だそうで、
まぎらわしい名前を付けるからとんだ恥をかきました。
強盗、泥棒さん達が出没する位は驚きに値しません。パレスチナ、バルカンや中東の一部では何処
から狙撃されるか解らないから気を付けろと言われても、自衛の手段がありません。仕事ですから何
処へでも行かなければなりませんが、移動は車だけ、絶対に歩いては駄目です。ともかくワルや危険
の列挙でしたら数限りなく続きます。
日本に帰ってきて最大の仰天事項は深夜若い女性が一人で平気で歩いていること。電車の中で酔っ
払いが寝込んでいること。(外国なら完全に身ぐるみ剥がされています)
しかし、あまりにも平和すぎる日本、安全が当たり前だと思っている我が同胞の方々に、かえって
ある種の危険性を感じてしまいます。
写真
①
米国は銃社会で 2 億余挺位の銃が(3 分の 1 がピストル)所有されています。街には Gun Shop が
有り本物が商品で、身分証明だけで手軽に購入できます。
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②
サイゴン陥落時のボートピープル、洋上を無数の小舟が助けを求めておりました。
③
昭和 50 年 4 月 30 日朝日新聞夕刊「サイゴン陥落」南ベトナム政府崩壊
④
紐育の地下鉄、全車両落書きだらけで、車両の中も落書きばかり、外側の落書きは車
忍び込んでやるみたいです。但し現在は落書きを直ぐ消せる金属を使用した車
両基地に
両に替わり綺麗
な車両が走行しています。但し全車両、㈱川崎重工製の車両です。
⑤
アメリカの麻薬撲滅のためのキャンペーンポスター。
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