1 雪のクリスマス 第二章 125% で 御 覧 く だ さ い 2 佐藤美雪と高野優二の結婚式が近付いていた。クリスマスに挙式することが、 彼女の子供の頃からの夢だった。しかし大人になるに連れて、その夢は実現さ れない夢だと思うようになっていた。ところが、彼女は運命の人と出会い、夢 が現実へと歩み出した。 一月に再会した二人は、本当の愛を深めていった。彼は入院している彼女の 病室に毎日通い、テレビを見たり、図書館で借りて来た絵本や写真集を読んだ りして、深夜まで起きていた。眠たくなったら眠り、カーテンのすき間から朝 日の明るさが入る頃、二人は目覚めて缶コーヒーを飲んだ。彼女が朝食済まし、 彼が後片付けを終えると、彼は仕事探しに向かった。個室病室は小さな二人の 愛の城になっていた。 彼女の楽しい入院生活は二月で終り、三月から仕事に復帰した。彼は仕事を 探すことを止め、エリと二人で喫茶店を始めることにした。彼は母親の生命保 険金でエリの五百万円の借金を返済し、残金を頭金にして店舗付き住宅を三十 年 ロ ー ン で 購 入 し た 。 店 名 を 彼 の 大 好 き な 画 家 ボ ナ ー ル の 名 を 取 っ て 、『 ボ ナ ー ル』とした。 店舗は美雪と美咲がデザインし、広々としていてセンスが良かった。大きな ドアを開けると、左側がカウンターと調理場、右側がテーブルと椅子。カウン ターの席は八席。最奥は彼の席になっている。テーブルは四人用が八台。壁に 沿って置かれている。壁には画家ボナールの絵のレプリカが飾られている。カ ウンターとテーブルの間隔、テーブル同士の間隔は広く取ってある。テーブル を片付ければ、ライブが出来る程広いスペースになっている。店の奥には、美 雪が使っていたピアノを置いた。奥にある扉を開けると、トイレ。その横の扉 を開けると、居住空間になっている。1LDKで台所と浴室がある。居住側の 出入り口を開けると、マンションの駐車場がある。 六月に喫茶店『ボナール』がオープンした。鈴木エリはそこに住み込むこと 3 にした。美雪は仕事の帰りに必ず喫茶店に寄り、彼のたてたコーヒーを飲んだ。 そして、彼に私鉄の改札口まで送ってもらって家に帰る。その途中、二人は公 園に寄り、かつてのようにベンチに腰掛けて会話を楽しんだ。 十二月になっても暖かな日々が続いている。最近の二人がデートする場所は、 佐藤家の屋内だった。彼女の部屋で、二人は絵本作りに熱中していた。彼が自 分の小説の中で、彼女が絵本作家になると書いたからだ。二人で物語を考え、 彼女は絵を描き、彼は文を書いた。二人が作る『天使の絵本』シリーズは、ひ と月に一冊のペースで出来上がっていった。しかし、その絵本は佐藤家の者以 外目にすることはなかった。三時になるとみんなで居間に集まりティタイム、 六時には夕食、八時から大型液晶テレビで映画鑑賞。彼はすっかり佐藤家の一 員になっていた。 彼は彼女の両親と同居することにした。それは、一文無しの彼の希望であり、 また、一人娘を持つ佐藤家の要望でもあった。十二月第三日曜日、八時から引 越が行われる。荷物を積んだ軽トラックが、佐藤家に着いた。 「お父さん、お母さん、引越の車が着いたわよ」 「あら、もう着いたの」 「だって、荷物が少ないんだもの、仏壇とパソコンと着替えと本とCDぐらい かな、三階の右側の部屋をもらうからね」 「 ど う ぞ ,右 で も 左 で も 、 今 月 か ら 生 活 費 二 十 万 円 い た だ き ま す か ら ね 」 「ひどい、わたしの給料ほとんどよ、それじゃあ貯金出来ないわよ」 「二人でマンションでも借りて生活したら二十万円では足りないわよ、大きな 家があって、食事を作ってもらって、掃除もしてもらって、子供が授かったら 子守もしてもらって、クッキー焼いてもらって、それで二十万円なら安いわよ」 「わたしがいなくなると寂しいと思うから一緒に住んであげるんだよ、もっと 4 安くしてよ」 「ダメよ、世の中厳しいのよ、これ以上安く出来ないわよ、不満だったら同居 しなくてもいいのよ」 二人が言い合いしているところに、佐藤と高野が仏壇を抱えて入って来た。 お金のことで言い合ってる二人を見て、いつもの事かと思って佐藤は笑ってい る。 「母さん、最初に仏壇を運ぶそうだ、美雪、仏壇の安置場所決めているのか」 「南向きだから、部屋の右端に置いてね」 二人は仏壇を運び入れ、部屋の右端に仏壇を安置した。高野の荷物の運び入 れは、一時間余りで終わった。そして、買っておいたベッドやタンス等を隣り の部屋から運び入れ、部屋の左端に置かれた。八時から始まった引越は、十時 半に終わった。荷物を持って動けば、汗ばむような陽気だ。四人は三階の部屋 で窓を開け放して休憩し、缶コーヒーを飲んでいた。 「美雪、お坊さんは一時に来てくれるのね」 「そうよ、三百年続いているお寺の住職さんで、東條先生と言うのよ、大川神 父さんの同級生だって」 「一時まで時間があるから、ご近所の人にあいさつに行っておきなさいよ」 「えっ、わたしが行くの、お母さんが行って来てよ」 「ダメよ、本人が行かなくては・・優二さんと二人で行ってらっしゃい、引越 そばがデパートから届いているでしょ」 「はい、わかりました、二人で行って来ます」 「優二さん、ネクタイしていってくださいね・・美雪も、ジーンズはダメよ」 高野は快く返事した。缶コーヒーを飲み終えると、佐藤と美咲は部屋の片付 けと掃除を始め、美雪と高野は着替えを始めた。美雪は彼に買ってもらったベ ージュのワンピースに帽子、高野は彼女に買ってもらったブラウンのスーツ。 5 着替えを済ますと、近所へのあいさつ回りに出た。最初は右隣りの家を尋ねた。 門扉のチャイムを押すと中から中年の女性が出て来た。白いスラックスに橙色 のセーター、小さなダイヤのネックレスをしている。二人が立っている門扉の 所まで出て来ると、美雪の顔を見て門扉を開けた。 「おばさん、こんにちは」 「あら、美雪さん、お久し振り、結婚するんですってね、おめでとう・・その 人がご主人になる方?」 「はい、そうなんです、高野優二と言います、今日佐藤家に引越してきて、そ のごあいさつに来ました」 高野は深々と会釈した。その中年女性も軽く会釈を返した。 「りっぱなお婿さんね、体格が良くて、いい顔立ちで・・小さい頃ハゲだった 美雪ちゃんが結婚するのね、良かったわねえ」 「おばさん、今でもわたし、ハゲですけど」 「あらっ、そうなの? まだ生えて来ないの?」 隣りの夫人は驚いたように美雪の頭を見たが、帽子をかぶっている彼女の頭 にハゲを見つけることは出来ない。高野は話題を変えようと、持参した引越そ ばを差し出した。 「これ、引越そばなんですけど、皆さんで召し上がってください」 「わざわざごていねいに、ありがとうございます」 「お正月はお披露目のパーティやりますので、ぜひ遊びに来てください・・で は、失礼します」 二人はあいさつを済ますと、次の家に向かった。いつも親しくしている十軒 ほどの隣人にあいさつに回った。どの家も裕福そうな家庭ばかりで、好人物だ った。あいさつを終えて自宅に戻ると、正午近くになっていた。 「お母さん、疲れた! お腹空いた!」 6 「美雪、ちゃんとあいさつ出来たの」 「もちろんよ、もう一人前の女なんだから、近所の人にあいさつぐらい出来な くてはね・・ウフフ」 「優二さんがみんな一人であいさつしたんじゃないの」 「そんなことないわよ、ちゃんと二人であいさつしたわよ」 「ウソを付いてもダメよ、双眼鏡でのぞいていたんだから」 「バレタか! お母さんは本当に悪キツネね」 「美雪こそ、うそつきウサギよ」 「言い合いはそれぐらいにして、引越そばを食べようじゃないか、一時にお坊 さんが来るんだろ」 四人はせわしなく引越そばを食べ、僧侶の来訪に備えた。一時を過ぎた頃、 東條という僧侶が現れた。高野が三階まで案内し、早速仏壇に魂を入れるため の読経が始まった。その後、亡母の一周忌の法要が行われた。法要が終わった のは、二時半だった。美雪はお茶と菓子を用意した。 「先生、お茶を召し上がってください」 「先生、これ、日本一おいしいようかんです、どうぞ」 「ありがとうございます・・お母様は若くして亡くなられたんですね」 東條僧侶はお茶を飲みながら、高野に話しかけた。去年の出来事がいろいろ 思い出されて、高野は感傷に浸っている。 「そうなんです、五十五歳でした、五十歳でガンだと宣告されて、一年は生き られないと言われましたが、それから五年近くよく生きてくれました、その間 に妹も弟の結婚して子供を授かって、母も安心出来たと思います」 「ご主人の方は・・」 「僕達は今週の土曜日に結婚します、大川神父の教会で」 「それはおめでとうございます、大川さんとは幼馴染でね、二十代の頃はジャ 7 ズバンドをやってました、私がサックスで、大川さんはピアノ、ジャズ喫茶で ライブ活動してましたよ、結婚式でオルガンを聴かせてもらうといいですよ」 「そうですか、ジャズ喫茶でライブですか、いいですよね、僕も友人と喫茶店 を営んでいるんですよ」 「お店の方は順調なんですか」 「それがなかなかもうからなくて・・ワハハ」 みんなの雑談はしばらく続いた。 陽が沈み暗くなった頃、中島良夫と小林真弓がやって来た。結婚式の打合せ をするためだ。二人を合わせて六人が食卓に着き、焼肉パーティが始まる。グ ラスにシャンパンが注がれた。 「高野君、何かあいさつしろよ」 「僕でいいんですか・・じゃあ・・美雪さんと出会って二年余り、いろんな事 がありました、でも、こうして無事に最高のフィナーレを迎えることが出来ま した、いつもみんなに助けてもらってばかりで、本当に感謝しています、みん なの幸せが百年続きますように・・」 「いいあいさつだ・・乾杯!」 「さあ、いただきましょ」 グラスが高くかかげられて、シャンパンが飲み干された。美咲が肉をどんど ん焼き始めた。 「みなさん、いっぱい食べてね、今日の焼肉は優二さんのおごりですから、た れはわたしの特製ですよ」 「美雪ちゃんもやっと結婚か、いいね・・」 「新婚旅行はどこに行くの?」 「お金が無くてどこにも行けないの」 「去年のことで、式場の費用全額こちら負担だし、西山さんの慰謝料やら美雪 8 の医療費やら、なんだかんだで大出費なのよ」 「ごめんなさい」 「僕が悪いんです」 「でも、お二人さん、美雪ちゃんと一緒に暮らせるんだ、幸運だと思えよ」 「そうなんだ、美雪がこの家からいなくなると思うと死ぬ程寂しかったね、美 雪が結婚を止めると言い出した時はガッツポーズをしたな」 「まあね、いろいろあったけど、終り良ければ全て良しね・・優二さんには損 をしたお金取り戻してもらうから、がんばってね」 「本が売れたらまとめてお返しします」 「それで、あの本売れてるの」 「初版の五千部完売したんだけど、お金がないから増刷できないんだ、出版社 から出せるようにいろんな所と交渉してるんだけど、とにかく今は喫茶店でが んばらないと」 「この間、喫茶店に行ったわよ、あのコーヒーおいしいわよね」 「そうだろ、お母さんの推薦で、天然素材の無添加コーヒーなんだ」 佐藤家では、取り留めのない会話が夜遅くまで続いた。 めざまし時計が六時のベルを鳴らした。窓の外はまだ暗い。高野は時計のベ ルがなる前から目を覚ましていた。美雪はネコのように彼の胸の中で丸くなっ て眠っている。 「美雪ちゃん、僕、お店に行くからもう起きるよ」 「うん・・」 彼はベッドから出て着替えると、一階に下りた。一階では台所で母親が朝食 の支度をしていた。 「お母さん、おはようございます」 9 「優二さん、おはよう・・美雪は?」 「まだ寝ていますけど」 「ダメね、わがままウサギは・・優二さん、朝食は?」 「お店で食べます、残り物を食べないともったいないから」 「そうね・・缶コーヒー温めてあるから持って行ってね、一つ七十円だけど」 「あのう、これ二つで百円のやつじゃないの」 「手間賃もらうから・・冗談よ・・ちゃんと生活費の中に入ってるから・・行 ってらっしゃい」 「じゃあ、行ってきます」 彼が玄関に下りて靴をはきかけていると、パジャマ姿のままの美雪が慌てて 階段を下りてきた。そして、彼の胸の中に飛び込んだ。 「きのう抱いてくれた?」 「ちゃんと抱いてあげたよ!」 「酔っぱらって忘れちゃった、お仕事終わったらここに帰って来てね」 「もちろんだよ」 「泣いていい?」 「いいよ」 「・・・・・」 「・・・・・」 彼女は彼に抱きしめられてしばらく泣いていた。気が晴れるまで泣くと、彼 を門の外まで見送った。彼は彼女に手を振りながら、自転車に乗って自分の喫 茶店を目指した。日の出前の街並は、陽の明るさより街灯の方が明るい。彼が 喫茶店に着いたのは六時半、すでに扉は開けられている。エリは薄暗がりの中 で、玉子をゆでていた。有線放送で軽音楽が流れている。カウンターの端には、 美雪が活けた花がある。 10 「エリさん、おはよう」 「優二さん、おはよう」 「もう引越は片付いたの」 「荷物なんて大してないから、午前中で片付いたよ、午後からお坊さんに来て 仏壇にお経あげてもらって、夜は焼肉パーティ、余りいい肉じゃなかったけど ・・エリさんも来ればよかったのに」 「家の主に呼ばれていないのに図々しく行けないわよ」 「遠慮なんかするなよ」 「朝からバカなこと言ってる・・朝御飯まだなんでしょ、すぐ作るから、残り 物でいいでしょ」 「土曜日はエビフライだったかな、トーストは二枚欲しいな」 「新しい生活はどう?」 「まあまあだよ」 「おれは世界一幸せだと顔に書いてあるわよ」 「この幸せがいつまで続くかが問題だ、世の中甘くないからね」 「幸せを守るためには、とにかくお金を稼ぐことね、今日は何人お客さんが来 るかな」 彼は朝食を取りながら、モーニングサービスの準備を始めた。喫茶店の開店 時間は七時。その少し前に、階上のマンションの住人達が数名やって来る。 「エリさん、おはよう」 「皆さん、おはようございます」 扉が開いて、六名の客がやって来た。皆は中年のサラリーマンで、休日には 軟式野球をしている仲間だ。 「いつものでいいですね」 「みんな、いつものでいいよ」 11 「マスター、結婚するんだってね」 「そうですよ、クリスマス・イブに」 「へえ、マスターはエリさんの彼氏と思っていたけど」 「最初から違うって言ってたでしょ、僕達は中学時代の先輩後輩なんですよ」 「あやしい関係じゃないのか」 「そんなことは絶対ありません、エリさんも彼氏募集中ですから」 「わたしはお金持じゃないと嫌よ、だって今は貧乏だもん」 「そうそう、この間もらったクッキー、すごくおいしかったと内の娘が言って たよ、もうないの」 「あれねえ、マスターのお嫁さんのお母さんが手作りで焼いているのよ、天然 素材だけ使っているから変な味がしなくておいしいんだって・・そうよね」 「そうですよ、お母さんのクッキーは本当においしいですよ、また焼いてもら っておきますから」 朝は話し好きの客が集まってにぎやかになるが、売上は上がらない。彼らが 仕事に出て行くと、店内はまたエリと高野の二人きりになる。 「朝の一仕事が終わったわね、まだ七時半か」 「そうだな、店の前で呼び込みでもするか」 「それじゃあ、風俗店じゃないの」 「エリさんは美人だし、コーヒーはうまいし、なのにどうして客が来ないのか なあ」 「不景気だから、喫茶店でコーヒー飲むお金が無いのよ」 「いいこと考えた・・お母さんにクッキーの焼き方を教えてもらってクッキー をサービスで出したり、売ったりするんだ」 「そうね、何でもやってみましょうよ」 正午になると、道路を挟んだ向かいの広告会社の社員達が昼食を食べにやっ 12 て来る。文庫本や雑誌を持って入って来て、食事をしながら読書をしている。 その客が出て行くと、後はほとんど客は来ない。 「エリさん、後片付けは僕がするから、休んできたら」 「そうするわ、後はお願いね、手が空いたら小説書いててね、優二さんの小説 おもしろいわよ」 「これでも天才ですからね」 エリは奥の部屋で仮眠を取った。昼食時の後片付けを終えると、彼はパソコ ンのスイッチを入れ、小説を書き始めた。この時間帯は二人にとって一番安ら ぐ時間だ。彼が小説を書いていると、女性が一人入って来た。 「いらっしゃい・・あっ、藤子さん」 「やっぱり高野さんね、急に行方不明になったと思ったら、喫茶店なんか始め たんだ」 「ごめん・・派遣会社には連絡していたけど」 「ごめんで済まないわよ・・いつ喫茶店を始めたの」 「半年前から・・どうして僕がいることわかったんだ」 「会社は目と鼻の先よ、いつもこの道を通っているんだから、偶然にしても、 見られて当然よね、見られて困るんだったら変装でもしておけば良かったのに」 「なるほど・・」 「わたしと結婚する約束はどうなったの」 「結婚の約束ねえ・・」 「あのハゲと結婚するの」 「まあね、クリスマス・イブに・・」 「別れるんだったらはっきり言えば良かったのに、恋人も仕事も何もかも放り 出して逃げ出したりして、卑怯者ね」 「どうせ僕は卑怯者です・・ご注文は?」 13 「コーヒーでいいわ、それとサンドイッチはある?」 「サンドイッチはないけど、一度トースト食べてみてよ、綿菓子みたいにフワ フワなんだ」 思いがけず藤子と再会して、彼はばつが悪かった。震える手でコーヒーを入 れ、彼女に差し出した。 「どうぞ、コーヒーとトースト」 「ところで、本は売れているの」 「五千部は完売したけど、増刷するお金がないんだ、出版社から出版出来るよ うに交渉してるんだけど、うまくゆかなくて」 「このコーヒー、おいしいわね、トーストもフワフワ」 「そうでしょ、このコーヒー、天然素材の無添加で、普通のコーヒーの三倍す るんだけど、口当たりがいいし、胃腸にやさしいんだ、トーストも一流ホテル で使っている物だし、トースターもドイツ製のものなんだ」 「それでお店はもうかっているの」 「いいえ、さっぱり」 「いい気味よ・・あなたって本当にお金もうけが下手ね、小説もダメだし、喫 茶店もダメだし、高野さんと結婚しなくて正解かな」 藤子は怒っている様子はなく、彼と再会出来て嬉しそうだった。彼も過去の 重荷が一つ無くなったように思った。藤子が帰りエリが仮眠から戻って来た。 「お客さんが来ていたみたいね」 「そうだよ、藤子が嫌味を言いに来ていたんだ」 「社長の娘さんね、どうしてここがわかったのかしら」 「三百メートル先に会社があるからね、遅かれ早かれ見付かると思ってたよ、 とにかく藤子と仲直り出来てほっとしたよ、会ったら殺されると思ってたか ら」 14 「本当に仲直りしたの? 恋の恨みは恐ろしいよ」 二人は雑談をしながら、来る予定もない客を待った。昼食時を過ぎれば、時 折隣りのブティックから注文があるぐらいだった。それでも二人は喫茶店を始 めて良かったと感じていた。五時半になると、美雪がやって来た。 「エリさん、こんにちは」 「美雪ちゃん、どう? 新婚気分は」 「毎日愛してもらえるから楽しい!」 美雪はそう言いながら、カウンターの隅にある花瓶の水を替えた。 「エリさんも結婚式に出席してくださいね」 「ええ、ぜひ」 一日の仕事を終え、自宅に戻ったのは七時頃。彼が門のチャイムを押すと、 美雪がドアの外まで出迎えた。彼の顔を見ると、胸の中に飛び込んだ。しばら く彼女の抱擁に身を任せていた彼も冷たい空気に寒さを感じた。 「寒いから家の中に入っていいかな」 「うん」 「もうみんな食事は終わったの?」 「まだよ、お父さんが残業でさっき帰ったところだから」 「じゃあ、御飯食べさせてくれる」 「うん、ちゃんと生活費払っているから・・今夜も抱いてくれる?」 「もちろんだよ」 「早く食べてベッドに行こうね」 二人が家の中に入ると、早速食卓に着いた。食卓には、カレーライスを盛っ た皿とサラダを入れた大皿とビールを入れたグラスが並んでいた。 「優二さん、お腹空いたでしょ」 「そんなに空いていません、喫茶店の残り物を食べていますから、でもカレー 15 大好きだから二杯食べようかな」 「今夜は美雪が始めて作ったカレーライス、と言っても、野菜の皮をむいて炒 めてなべに入れただけだけど」 「ウフフ・・わたしも今日から主婦ですから、料理もやるわよ」 「お母さんの料理って、おいしいですよね」 「食べもしないうちからお世辞はいいわよ・・おいしいのは天然素材の無添加 の食品を使っているからよ、もちろんわたしの料理の腕もいいけど・・お店の 方はどうなの」 「まあまあ、というより、赤字ではないけど、もうかっていません、固定客を 増やす方法をあれこれ考えているんですけど」 「お客さんは何しに喫茶店に来るの」 「それは、コーヒーを飲むため、昼食を食べるため」 「目的がそれとはっきりしているんだったら、おいしいコーヒーとおいしい食 事を用意すればいいのよ」 「その理屈はわかるんですが・・お母さんのお陰でコーヒーはおいしいという 自信はあるんですが、食事の方がねえ、おいしいのを作るにはコストがかかる し」 「優二君、こうしたらどうだ、料理を一つに絞ってとことん味を追及したらど うだ、ピラフとか、スパゲティとか、カレーライスとか」 「いい考えだと思いますよ・・何がいいかな」 「ピラフはどう? 材料費は安いし、料理法も簡単だし、いろんなバリエーシ ョンが出来るでしょ」 「じゃあ、そうします・・そうそう、お母さんのクッキーとても評判がいいん ですよ、作り方教えてくれますか、店で売ろうと思うんです」 「いいわよ、でも授業料高いわよ、しっかり稼ぎなさいね」 16 「お母さん、ひどいわよ、お金を取るなんて」 「美雪、世の中甘くないのよ、お金を稼ぐためには投資は付き物よ」 「じゃあ、お願いします」 「明日から始めるわよ、材料を用意してお店に行くから、ピラフの作り方も教 えてあげる」 佐藤家の三人の屈託のない笑顔を見ていると、高野は心が重くなってきた。 月々の支払いは三十万円以上、売上は二十万円足らず。月々大幅な赤字になっ ている。誰にも秘密にしている負債は日々増えてゆく。 「優二さん、ボウッとしてどうしたの」 「別に・・ピラフ、うまく作れるかなって思ってたんだ」 「早く御飯済ませて部屋に行きましょ」 彼は急いで食事を済ませてシャワーを浴び、部屋に行った。美雪はすでにベ ッドに入っていた。掛け布団から顔と手を出して本を読んでいる。 「九時になってないのにもう寝てるの、テレビは観ないの」 「意地悪! は・や・く!」 パジャマを脱いで、彼もベッドに入った。性欲を感じているわけではなかっ たが、彼女のパジャマを脱がせ、愛撫を始めた。彼女の体はほっていて、ぬれ ている。そして、二人は愛し合った。 起きるべき時間が来ると、彼は自然に目が覚めた。まだ眠っている彼女を見 ると、軽くくちづけをしてベッドを出た。一階に行くと、やはり美咲は起きて いて台所で動き回っている。 「お母さん、いつも早いですね」 「優二さんも早いわね、余程お店に行くのが楽しいみたいね」 「自分達の店ですから、じゃあ、行ってきます」 「出て行く前に、これを飲んで行ってね、特性のスープ、スタミナが付くわよ」 17 「飲みますけど、若いから毎晩でも大丈夫ですよ・・何のスープですか」 「ミネラルたっぷりの牛のテールスープ・・他で元気出したらダメよ」 「はいはい・・じゃあ、行ってきます」 「あら、わがままウサギが下りて来たわよ」 美雪が目をこすりながら、階段をフワフワと下りて来た。パジャマの上から ガウンを羽織っただけの姿で。 「優二さん、行ってらっしゃい」 「今日は泣かないの」 「うん、結婚式にいっぱい泣かないといけないから・・ハイ、忘れ物、大好物 の缶コーヒー・・わたしと缶コーヒー、どっちが好き?」 「もちろん美雪ちゃん・・じゃあ、行って来るね」 「ウフフ・・行ってらっしゃい」 彼は缶コーヒーで手を温めながら自転車を走らせた。缶コーヒーを飲み干す 前に喫茶店に着く。 「エリさん、おはよう」 「おはよう、朝御飯作るわね、トースト二枚よね、ここでコーヒー飲むのにど うして缶コーヒーなんか飲んでるの」 「缶コーヒーのデザインが好きなんだ・・そうそう、今日の午後、お母さんが クッキーとピラフの作り方を教えに来てくれるから」 「ピラフって?」 「昨日みんなで話し合ったんだけど、一つの料理に絞って味を追求した方が繁 盛するんじゃないかって結論が出たんだよ、それでピラフなんだ」 「繁盛するかどうかは知らないけど、いろいろ料理覚えるのは大変だから、ピ ラフだったら簡単でいいわ」 「僕もちゃんと料理覚えるからね」 18 「ハイ、朝御飯出来たわよ」 彼はスポーツ新聞を読みながらトーストとハムエッグの朝食を食べた。七時 前になると、いつもの常連客がやって来た。そして、今朝は別の男性客も二人 やって来た。四十歳程のがっしりとした男と二十歳代の細身の男だ。エリは新 しい客の方から水とおしぼりを持っていった。高野は常連客と野球の話をしな がら新顔の男性客に視線を投じる。エリは精一杯の愛想笑いをして二人に話し 掛けた。 「初めてのお客様ですね」 「いつも行っている喫茶店が急用で休んでいるから」 「そうですか、お二人様、ついてますよ、ここのコーヒーはおいしいんですよ」 年上の男の方が答えて、年下の男もうなずいていた。二人は仲の良いコンビ のようだった。 「これからはこの店にしてくださいね・・ご注文はモーニングセットでいいで すか」 「はい、モーニングセットで・・おれは吉弘広志、この男は田中茂る」 「吉弘様に、田中様ですね」 「僕、田中茂る、どうぞよろしく」 「わたしは鈴木エリ、よろしくね、まだ独身ですから」 「あの男の人、ご主人じゃないの」 その言葉を聞いて、コーヒーをたてていた高野は言葉を挟んだ。 「僕はエリさんの弟みたいな者ですよ、中学時代の先輩後輩で・・次の日曜日、 他の女性と結婚しますから、ご安心を!」 エリと高野は大急ぎで八人分のコーヒーを入れ、トーストを焼いた。三台あ るオーブントースターをフル活動させた。モーニングセットが出来ると、エリ は再び新しい客のテーブルに行った。 19 「お待ちどうさま・・吉弘さんと田中さんは近くの方ですか」 「おれは尼崎、茂るは堺・・駅前のショッピングセンターの警備員をしている んだ」 「そうですか、どうりで見たことがあるような気がしたのね、わたしいつもあ そこのスーパーで買い物するんですよ」 「それはそれは・・茂る、いつもの喫茶店よりこっちの方がコーヒーうまいね、 これからこっちの喫茶店にしようか」 「そうですね、吉弘さん、ウエイトレスさんも美人だし、ここにしましょう」 「ここのコーヒーはね・・天然素材の無添加で、普通のコーヒーの三倍するん ですけど、口当たりが良くて、胃腸にやさしいのよ」 朝の客達が帰ると一段落した。高野は汚れた食器を片付け、エリはテーブル を拭いていた。 「エリさんのごますり作戦、成功したね」 「明日から朝は八人ね、新しいお客さんが増えると嬉しいわ」 二時を過ぎると、美咲が両手に荷物を抱えてやって来た。小説を書いていた 彼は、ノートパソコンをしまった。 「お母さん、いらっしゃい」 「車に荷物がまだあるの、取って来て、落とさないでね」 「はーい・・」 彼が車からダンボール箱を運んでいると、仮眠していたエリも起きて来た。 三人ともエプロンを着け、キッチンで料理教室が始まった。 「これ、クッキーの本よ」 「クッキーって、こんなにたくさんの種類があるんだ」 「そうよ、百種類以上」 「一夕一朝でマスター出来ないね」 20 「おいしいクッキー作るには十年はかかるわね、わたしも高校生の頃からだか ら三十五年もクッキー焼いているのよ」 「なるほど、お母さんのクッキーはおいしいはずだ、急においしいクッキーな んて焼けないな」 「こうしたらどうかしら、わたしが家でクッキーを焼いてきてあげるわ、その 方がいいでしょ・・最近デザインの内職が無くてお小遣いがないの」 「優二さん、その方がいいわよ、わたし達では売れるクッキーを焼くのは無理 だから」 「じゃあ、お母さんにお願いします」 「でも、自分達も作れるように練習しておくといいわ、今日は材料持って来た からやってみましょうね」 美里は手際よくクッキーの生地を作り始めた。他の二人は驚きの目でそれを 見ていた。 「この本に動物の形をしたクッキー載ってるでしょ、これ作るの難しいんです か」 「そうでもないわよ・・金型でくり抜くだけだから」 「天使の形をしているクッキーも作れますか・・美雪ちゃんと天使の絵本描い ているでしょ、エンジェルクッキーというブランド名で販売した方が付加価値 を付けられるんじゃないかな」 「名案ね・・家に帰ったらデザインを考えてみるわ、大ヒットしてがっぽりも うかるかもね」 「それは楽しみだわ」 三人は夕方までクッキーとピラフの作り方を研究した。それなりのおいしい ピラフが作れて、三人は納得していた。 21 結婚式の当日が訪れた。クリスマス・イブでもある。おとといから寒波に見 舞われた街は、薄っすらと雪化粧になっている。高野はいつもと同じ時間に起 きた。美雪はまだ眠っている。彼が一階に下りると、母親も起きていて台所で 動いていた。 「おはようございます」 「もう起きて来たの、九時まで寝てればいいのに」 「いつもの習慣で、早く起きてしまいます」 「お赤飯炊いているから、朝御飯はそれからにしてよ」 「いいですよ・・缶コーヒーさえあれば」 彼は台所で缶コーヒーを飲みながら、スポーツ新聞の映画評に興じていた。 そこへ父親がやって来た。 「早いね、いつも」 「夜の九時に寝てますから、早く起きてしまいます」 「母さん、私も缶コーヒーをくれないか」 「はいはい・・お赤飯炊いているから食事は九時まで待ってね」 「いつもお母さん一人で大変ですね、僕も手伝いましょうか」 「そう、じゃあ、おすまし作ってくれる? 作り方教えてあげる・・おすまし って簡単だけど奥が深いのよ、今日ははんぺんと三つ葉のおすましよ」 「母さん、弟子が出来て良かったな」 「美雪より優二さんの方が役に立つわね、お嫁さんもらった気分よ」 高野と美里は、台所で料理を始めた。そこにパジャマ姿の美雪がやって来て、 二人の様子を他人事のように見ていた。 「どうせわたしなんか役に立たないわよ」 「やっと起きて来たの、部屋を出る時はパジャマから着替えておきなさい、い つも言ってるでしょ、早く顔を洗って料理を手伝ってよね」 22 「今日の主役はわたしなんだから、手伝わなくてもいいでしょ」 「手伝わないと鯛の塩焼きあげないわよ、美雪の大好物でしょ」 美雪も渋々手伝って、朝食の支度が出来た。食卓には、赤飯と鯛の塩焼きと だし巻きとほうれん草のおしたしとおすましが並んだ。そして、四人は食卓に 着いた。 「父さん、祈りの言葉、お願いします」 「主よ、願わくは我らを祝し、また主の御恵みによりて、われらの食せんとす るこのたまものを祝し給え、われらの主キリストによりて願いたてまつる、ア ーメン」 「アーメン・・」 「食事する前に、もう一言・・美雪ちゃん、昨日練習したこと・・」 「何を練習したんだ」 「ごあいさつ・・えっと・・お父さん、お母さん、今まで育ててくれてありが とう、美雪は今日嫁いで行きます・・おしまい・・ウフフ」 「あいさつはそれで終り? 変なあいさつ」 「いいじゃないか、これで、一所懸命練習したんだろ・・美雪、私達こそ、生 まれて来てくれてありがとう、お陰でハラハラドキドキの楽しい人生が送れて るよ・・さあ、食事にしよう」 食事が済むと、美雪はウエディングドレスに着替え、高野もタキシードに着 替えた。そして、四人は家を出て教会までの三百メートルの道程を歩いて行っ た。通り過ぎる人達は四人をジロジロ眺めた。美雪は得意顔で歩いていた。教 会に着くと、花嫁は花嫁の控え室に、花婿は花婿の控え室に入った。高野は控 え室で一人、スポーツ新聞のクロスワードをしていた。 教会は古くて小さな教会だった。青色の屋根に、白色の外壁、扉はレンガ色 のアーチ型。扉の東側は自転車置き場。扉を開けると、左右に木製の長椅子が 23 祭壇に向かって十二列並ぶ。教会には、壁画もステンドグラスも蜀台ない。祭 壇には、十字架と演台と花瓶を置いたりするテーブルがあるだけ。その教会は 佐藤家が祖父の代から通っている教会で、美咲は結婚後からキリスト教徒にな り、美雪は子供の頃から礼拝している。 高野がクロスワードの答えを考えていると、エリがやって来た。コバルトブ ルーのドレスに着た彼女は、いつもより美しく見えた。 「ちょうどいいところに来てくれたね、北極グマを英語で言うと?」 「北極グマ? 白クマだからホワイトベアじゃないの」 「あっ、そうだ!」 「花婿さんの部屋は、優二さん一人、親族の人は誰も来ないの」 「親戚中から嫌われているからね、誰も来ないよ、連絡もしていないし」 「先に花嫁さんにあいさつして来たの、美雪さんって本当にきれいよね、あれ でハゲじゃなかったら女優になれるわよ」 「ハゲじゃなかったら僕なんか相手にされなかったわけだ・・もう参列者は集 まっているの」 「ええ、たくさん来ているわよ、佐藤家の人ばかり、高野家はわたしと常連客 のいつもの六人と警備員の田中君と吉弘さんの九人、あなたが誰も来ないと言 ってたから頼んで来てもらったのよ」 「ありがとう、気を使ってくれて、僕ってエリさんがいないとダメだな」 「今更口説いてどうするの・・いつかわたしも結婚出来るかな」 「出来るとも、過去のことを忘れたらね、田中君はどうかな、真面目で二枚目 でいいじゃないか、あれから毎日来てくれているし、きっとエリさんに気があ るんだよ」 「でも、とにかく喫茶店を繁盛させないと、何をするにもどうにもならないわ よ・・そろそろ式が始まる時間よ」 24 二人は控え室を出て礼拝堂に入った。すでにたくさんの参列者が席に付いて いた。高野はみんなに会釈して、指定の場所に付いた。しばらくすると、大川 神父が現れた。そして、パイプオルガンから自動演奏で音楽が流れて、花嫁は 父親と共にバージンロードを歩いて来る。高野はそんな二人を見つめていた。 二人が祭壇に上がると、大川神父は聖書を開いて、言葉を発した。 「高野優二、なんじは生涯この女を愛すると誓うか?」 「誓います!」 「佐藤美雪、なんじは生涯この男を愛すると誓うか?」 「誓います!」 「神から与えられた権限により二人を夫婦と認める・・指輪の交換をどうぞ」 二人は指輪の交換をした。 「あのう、神父さん、くちづけはしなくていいんですか」 「したければどうぞ」 二人はくちづけをした。 結婚式は無事終わった。そして、参列者はそのまま披露宴会場の近くのレス トランに向かった。貸切のレストランは、すでに準備が出来ている。披露宴と いうよりパーティという雰囲気だった。中島のあいさつと乾杯の音戸以外、何 の演出もない。美雪と高野は参列者にビールをついで回りながら、得意のウソ 話に興じていた。彼女は彼に寄り添ってニコニコと笑っていた。一通りのあい さつをすますと、彼はマイクを取って叫んだ。 「誰か隠し芸をやりませんか」 「私がサックスを吹きましょう」 そう名乗り出る男性がいた。東條僧侶だった。東條はカバンからサックスを 取り出すと、舞台の上に上がった。東條が舞台に上がると、参列者のみんなは 舞台に注目して静かになった。 25 「優二さん、美雪さん、ご結婚おめでとう、私は立場上結婚式には出席出来ま せんでしたが、この場で一曲プレゼントしようと思います、プロじゃありませ んからつたない腕前ですけど、聴いてください」 東條僧侶が『この素晴らしき世界』を吹き始めると、レストランの隅からピ アノの音が響いて来た。中島がピアノの伴奏を始めたからだ。レストラン内に 歓声が起こった。誰もがこの名曲に、この演奏に耳を傾けた。その曲が終わる と、拍手が鳴り止まなかった。 「東條先生、素敵なプレゼント、ありがとうございました、拍手が続いていま すけど、何かもう一曲お願いできますか」 「いいですよ、聴いてもらうのが大好きですから、こういうのはどうですか」 東條僧侶は『虹の向こうに』を吹き始めた。やがて、サックスの演奏も終り、 東條僧侶は舞台を下りた。そして、美雪と高野の二人が舞台に上がった。レス トランの全ての照明が消され、舞台にスポットライトが当った。美雪はマイク の前に進み出た。 「お父さん、お母さん、産んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう、 子供の頃から、自分はハゲだから恋愛は出来ない、結婚も出来ないと思ってい ました、近所の人にからかわれて、学校でいじめられて、いつも産まれて来な ければよかったと思って泣いていました、そしてお父さんやお母さんに八つ当 たりしていました、教会に行って『神様、どうしてわたしから髪の毛を奪った のですか』と尋ねてみましたが、答えてくれませんでした、高校卒業式の夜、 偶 然 お 母 さ ん の 日 記 を 見 て し ま い ま し た 、『 美 雪 、 ハ ゲ に 産 ん で ご め ん ね 』 と 書かれていると思ったら、そんなことは書かれていませんでした、産まれて来 てくれてありがとう、元気に育ってくれてありがとう、幸せを届けてくれてあ りがとう、神様とわたしへの感謝の想いが毎日書かれていました・・・・・ やがてわたしは愛してくれる男性と出会いました、神様がわたしのためにあつ 26 らえてくれたような男性でした、優しくて、貧しくて、ロマンチストで、小説 家で・・もしわたしがハゲでなかったら、お父さんやお母さんのそんな深い愛 を知らずに生きていたでしょう、もしわたしがハゲでなかったら、もっと早く 恋愛して結婚して、そのすばらしい男性ともめぐり逢えなかったでしょう、や っぱりハゲは嫌ですけど、神様からの贈り物ですから、これからも仲良くして いこうと思います・・お父さん、お母さん、そして神様、命を授けてくれてあ りがとう、今日結婚式に来てくださったみなさん、この場にいないけど遠くで 祝福してくれているみなさん、ありがとう、そしてそして、高野優二さん、わ たしと結婚してくれてありがとう・・ウフフ・・」 「今日は僕達の結婚式にお越しくださってありがとうございました、東條先生 と中島氏のコラボレーションは最高でした、盛り上がりましたね、今日はクリ スマスですから、早く帰って家族のみなさんとお過ごしください、男性のみな さんは決して変な所に寄り道しないでください・・そうそう、年始はパーティ ーやりますので遊びに来てください・・では、失礼します・・」 参列者は帰り、佐藤家と高野だけがレストランに残った。静まり返ったレス トランで店員達が後片付けに追われていた。 「あっ、黒田さん、高校の時の黒田さんでしょ」 美雪は一人の女性店員に声をかけた。その店員は彼女に顔を見られないよう に避けていたが、それが余計に美雪の気を引いた。美雪に声をかけられて、仕 方なく彼女は美雪と視線を合わせた。 「佐藤さん、いい披露宴だったわね、感動したわ、高校の時はいじめたりして ごめんなさいね」 「いいのよ、昔の事だから・・今どうしてるの、そうか、このレストランで働 いているのね、料理はとってもおいしかったよ」 「いじめたりして、本当にごめんなさいね」 27 「いいのよ、何度も謝らなくても・・どうしたの、泣いたりして、そんなに感 動したの」 「ううん、何でもないの」 二人が話している所に、レストランのオーナーシェフの尾藤が近付いて来た。 「料理の方は満足していただけましたか」 「うん、とってもおいしかった・・黒田さんも料理を作っているんですか」 「黒さんはここに来てまだ三年ですから、お客様に出す料理は作っていません けど、まかない料理はみんなに好評ですよ」 「そう、早く一人前になっていい男を見つけて結婚しないとね」 「黒さんには子供さんがいるんですよ」 「そう、黒田さんも結婚してるんだ、良かったわね」 「黒さんは四年前に離婚して、今一人で子供さんを育ててるんですけど、その 子供さんは病気で・・」 「オーナー、それ以上は言わないで、折角の結婚式だから・・」 黒田詩織は尾藤の口をふさいだ。しかし、高野も興味深々で、三人の話の中 に入っていった。 「今日はクリスマスだよ、もし困っている事とか苦しんでいる事があったら、 話してみれば、助け合える事があるかも知れないから」 「・・・・・」 「黒さんの子供さんは小児ガンなんですよ、三ヶ月前に余命半年と言われてい て、今は第三市民病院に入院していますよ」 「可哀想! どうして?」 「中学、高校といろんな人をいじめたから、神様の罰が下ったのよ」 「神様は罰なんか与えないわ、そうよね、お父さん、お母さん・・今からお見 舞いに行きましょうよ」 28 「そうだね、差し支えなかったら、行こうか・・黒田さん、どうですか」 「香織の夢はお嫁さんになることだから、本物のお嫁さんが行ってくれると、 きっと喜ぶと思うわ」 「お父さん、お見舞いに行って来ていいかな」 「いいとも、ぜひ行ってやりなさい・・私達は先に帰るけど」 美雪と高野と黒田詩織はレストランを後にして第三市民病院に向かった。美 雪は両手に花束を持っていた。六人部屋の病室に入ると、母親の来るのを待ち わびていた香織が笑顔で出迎えた。 「ママ、お帰り」 「香織、ただいま」 「そのお姉ちゃん、誰?」 「本物の花嫁さんよ、今日結婚式を挙げたの、ママの高校の時の同級生よ」 「お姉ちゃん、クリスマスに結婚式を挙げたの、きっと幸せになれるよ、ママ はクリスマスに結婚式を挙げなかったから幸せになれなかったのよ」 「すごくおませな子供さんだね」 「香織ちゃんもクリスマスに結婚式を挙げなさいね」 「ダメなの、香織、病気だからもうすぐ死ぬの」 「そんな事ないわよ、今夜神様にお願いして来る、香織ちゃんの病気が治って 大人になったらクリスマスに結婚式が挙げられるように」 「ホント? 約束してくれる」 「うん、約束するよ・・それと明日、クリスマスのプレゼントを持って来てあ げる、何がいい?」 「明日も来てくれるの? 「わかった! じゃあ、絵本、ここにいると退屈だから」 明日のお昼にね」 二人はしばらく香織と話をして、病室を出た。すると、詩織も付いて来た。 29 「本当にありがとう、高校の時いじめてばかりいたのに、どうして優しくして くれるの」 「わたしはハゲだったからいじめられても仕方なかったから・・十一時から教 会でクリスマスミサがあるから来て、みんなで香織ちゃんの病気が治るように 祈りましょ」 「ありがとう、必ず行くから」 「ミサが終わったら、みんなでラーメンを食べに行こうか」 高野の冗談で三人は笑った。そして、二人はエレベーターで一階まで降りた。 病院の外に出ると、美雪は彼の胸の中に飛び込んだ。 「泣いていい?」 「いいよ」 「香織ちゃんが可哀想!」 「・・・・・」 彼は彼女が泣き止むまで抱きしめていた。そして、手をつないで家路を歩い て行く。五時を過ぎて、急に当りは暗くなっている。二人は冬木立の中を進ん だ。 「病室で香織ちゃんと話している美雪は、天使に見えたよ」 「優二さんが去年なぜ五百円募金したか、今よくわかった・・あの五百円はこ ういう人達のために使われるのね」 「違うよ、幸運が舞い込むためのおまじないさ」 二人が家に着いた頃は、すっかり夜らしくなっている。両親は着替えをすま せて、居間のソファーでくつろいでいた。 「ただいま」 「お帰り、お二人さん」 「黒田さんの子供さんはどうだったんだ」 30 「結構元気そうだから、安心したわ、後三ヶ月死ぬなんて思えない、明日クリ スマスプレゼントを届けるって約束したの・・黒田さんも今夜のミサに来るか らね」 「ミサまで時間があるから、先にお風呂入りなさいよ」 「うん・・お風呂から出たら、わたし達、初夜だからのぞかないでね」 「毎日していて、まだそんなことを言ってるの」 「今夜はクリスマスで結婚式で誕生日だから、いつもの三倍!」 「シーツ汚さないでよ」 「ウフフ・・汚しちゃうかも・・優二さん、行こう」 二人は一緒に入浴を済ますと、ベッドに入った。ベッドに入ると、二人は愛 し合った。そして、まどろんだ。母親が起こしに来たのは、十時を過ぎていた。 「美雪、そろそろミサの時間よ、起きなさい」 「もう起きてるわよ」 「ウソばっかり・・」 二人はベッドから出た。二人の体から熱気が出ている。彼女は衣服を着なが ら彼に問い掛けた。 「夢に天使が出て来たの」 「天使が出て来て、クリスマスプレゼントをくれたんだね」 「いいえ・・わたしが天使に香織ちゃんの命を救ってやってくれるように頼ん だ ら 、『 神 様 は そ ん な 事 は 出 来 な い 』 っ て 言 う の 、 わ た し が ど う し て と 尋 ね る と 、『 神 様 は 人 間 に 生 き る 意 志 と 死 ぬ 意 志 を 与 え て い る か ら 』 っ て ・ ・ ど う い う意味かな」 「夢に意味はないと思うよ・・でもその言葉の意味は生きることを選べるとい う意味だと思うよ、香織ちゃんはまだ死ぬって決まってないんだ」 「じゃあ、香織ちゃんは助かるの」 31 「僕にはわからないよ、ただ生きるという信念と希望を持つことだね、そうす れば助かるかも」 「そうか、がんばらなくては」 「美雪ちゃんががんばってどうするの」 「毎日お見舞いに行って励ますのよ」 彼の言葉を信じて美雪の顔は晴れ晴れしくなった。 美雪達は教会に向かった。夜更けになって気温が下がり、雪が降ってきた。 教会はたくさんの人が訪れていた。佐藤家の四人は最前列の椅子に腰掛けてい た。しばらくして、黒田詩織もやって来て、美雪の隣りに腰掛けた。十一時に なると、大川神父が祭壇に立って、話を始めた。 「昼間、ここで結婚式を挙げました、私の目の前にいる高野優二さんと佐藤美 雪さんです、美雪さんはみなさんもご存知ですよね、彼女は子供の頃、神様ど うしてわたしから髪の毛を奪ったの、といつも泣いていました、しかし神様は 人から何かを奪ったりしません、奪ったと思える事も、本当は与えていた事な んです、美雪さんはその事に気付いて幸せになりました、自分や家族が病気に なったりするのは、健康や命を奪うことではありません、何か与える事なんで す、リストラされ収入が少なくなる事は、生活の楽しみを奪うことではありま せん、新しい何かを与える事なんです・・」 大川神父の話とミサは続いた。ミサが終わると、五人は教会を出た。深夜の 街は冷え切っている。 「寒いね、みんなでラーメンを食べに行こうよ、ギョウザでビール、うまいよ ね、今夜は、クリスマスで結婚式で誕生日、眠るのがもったいない」 「そうよ、今日はクリスマスで結婚式で誕生日で、黒田さんに会えた日で、す ばらしい一日よ、行きましょう、ラーメン屋に」 高野はみんなを引率して、駅前にあるラーメン屋に入った。みんなは二階の 32 座敷に上がって、一息付いた。 「黒田さんはビール飲めるの」 「ええ、少しなら」 「店員さん、生ビール五杯とギョウザ五人前・・ラーメン食べたい人は好きな のを自分で頼んでね・・僕はトンコツラーメン、大盛で」 「わたしとお母さん、ショウユラーメン」 「私もショウユラーメン・・黒田さんは?」 「わたし、トンコツと焼き飯、午後から何も食べていなかったから」 注文を終えると、高野は得意のウソ話を始めた。 「さっき美雪ちゃんが天使の夢を見てね、彼女が天使に香織ちゃんの命を助け てくれるように頼むと、天使は助けると約束したそうだ」 高野が話している時、ビールとギョウザが運ばれて来た。 「ビールが届いたから乾杯しようか・・優二君、出来の悪い娘だが、末長く連 れ添ってやってくれ・・乾杯!」 「優二さん、女性の甘い言葉にはくれぐれも気を付けてね、浮気に借金に犯罪 はタブーよ・・乾杯!」 「お父さんお母さん、僕を信じてくださいよ、必ず美雪ちゃんを幸せにします ・・乾杯!」 「いつまでもどこまでも優二さんに付いて行きます・・乾杯!」 「今日、みなさんに会えたこと、感謝します・・乾杯!」 一人一人が祈りの言葉を述べ、祝杯を挙げた。そして、ラーメンを食べなが ら、美雪の高校時代の事に話題がいった。 「美雪はよく黒田さんにいじめられたわよね、カバンの中にゴミを詰め込まれ たり、制服を焼却場に捨てられたり、お弁当に唐辛子を一杯ふりかけられたり、 家まで来て石ころを投げ込まれたり・・」 33 「ごめんなさい」 「いいの、わたしみんなにいじめられていたから、でもハゲだからいじめられ ても仕方ないと思っていたの」 「だからわたしは神の罰が下って、こういう人生を送っているんですよ、美雪 さんは怒ったり恨んだりしなかったから、神に愛されてこんな素敵な人と結婚 して幸せになるんですね」 「神様は罰を与えたりしないぞ」 「じゃあ、わたしはどうしてこんな人生を・・」 「黒田さんの想いを僕達に聞かせてもらえませんか」 詩織の言葉をさえぎって、高野は彼女に尋ねた。 「わたしは中学、高校と不良でした、周囲の人を傷つけたり、物を盗んだり、 何人もの人と関係を持って・・そして、二度中絶したけどまた妊娠して産まれ たのが香織です、三度目の妊娠をした時も両親に打ち明けました、中絶しろと 言われてわたしもそのつもりでいましたが、好きな人が出来て、その人もわた しを受け入れてくれて、結婚して香織を産みました、結婚は最初の頃は幸せで した、でも夫が愛人を作ってその事でとケンカするようになり、三年前ついに 離婚しました、離婚してから今のレストランで働くようになり、仕事も慣れて 楽しくなってきたと思っていたら、二年前香織が小児ガンを発病して・・ごめ んさい、こんな嫌な話を聞かせてしまって」 「黒田さんの人生はまだ二十七年間でしょ、自分の人生を『こんな人生』と嘆 くには早いんじゃないかな」 「きっと神様の導きがあると思うよ、私達に何が出来るかわからないけど、力 にならせてもらうよ」 彼等の慰めも励ましも、黒田詩織の苦悩を取り除くことは出来なかった。苦 しみを話したことで心が晴れたのかどうかそれさえも彼女自身にはわからなか 34 った。ラーメン店を出ると、詩織は高野達と反対方向の道を行った。彼女の住 居は古びたマンションのワンルーム。部屋狭しと家具が置かれている。彼女は 服を着たまま、ベッドに倒れ込んで眠りに着いた。 詩織は妊娠していることに気付いた。三度目だった。両親に打ち明けること は心苦しかったけれど、彼女には中絶の選択しか思い浮かばなかった。男と別 れて家路をたどっていると、彼女は吐気をもようして座り込んで街路樹で吐い ていた。その時、バイクで通りがかった若者が彼女に声を掛けた。 「どうかしたのか」 「何でもないわよ、早く行きなさいよ」 そう言われても、若者は立ち去らなかった。そして、彼女の様子を心配そう に見ていた。ゲロを吐くだけ吐くと、彼女は少し気分が良くなって立ち上がっ た。 「あんた、まだいたの、どっかに行けったら」 「言われなくても行くよ、お前、妊娠しているんだろ、体、大事にしろよ」 「大きなお世話よ、どうして妊娠しているってわかるのよ」 「おれの姉ちゃんと一緒だからな」 「あんた、お金持ってる?」 「ああ、持ってるよ、千円でいいか」 「バカにするじゃないよ、そんなお金で中絶出来ないよ」 「中絶って、どうして、お前、まだ学生か」 「そうだよ、高校生だよ」 35 「中絶する金、貸してやるから、明日そこの公園まで取りに来いよ」 「本当かい」 「だまされたと思って取りに来いよ」 詩織は若者の言う通り、翌日授業が終わると公園まで行ってみた。公園には 誰もいなかった。彼女は若者にからかわれたと思って公園を後にして、昨日歩 いた道を歩いていると、バイクに乗っている若者とすれ違った。 「なんだ、お前か、仕事は五時までだ、公園で待っててくれ」 「どうせからかっているのよね」 そう言われると、若者はポケットから封筒を出して見せた。彼女はその中に お金が入ってると思って納得して公園で待つことにした。一時間程待つと、若 者がやって来た。バイクから降りて彼女に近付くと、彼女の手に封筒を握らせ た。 「十万円あるから、これで足りるだろ」 「あんた、何の仕事をしてるのよ」 「昼はバイク便で、夜は居酒屋だ」 「このお金、要らないよ、そんな苦労して稼いだなんて」 「遠慮するなよ、おれも何年か前、高校生をはらませた経験があるんだ、あの 時は友達みんなからカンパしてもらって中絶させたんだ、よくある話だ」 「ありがとう、借りておくよ」 「もう二度と中絶なんかするなよ」 「わかってるよ、三度目の正直って言うからね」 「お前、これで三度目か」 「そうだよ」 「だったら、中絶は止めろ、二度と子供が産めなくなるかも知れないぞ」 「構わないよ、子供なんか嫌いだからね」 36 「何バカなことを言ってんだ、ちょっと、おれのバイクに乗れよ」 「どこに連れて行くのよ」 「いいから乗れよ」 二人はバイクにまたがると、小さなマンションまで走った。若者は彼女の手 を引っ張って三階まで上がった。そして、ある部屋のチャイムを押した。 「姉ちゃん、おれだよ」 彼がインターホンに言うと、ドアが開いた。 「真吾、どうしたの」 「姉ちゃん、赤ちゃん、見せてくれよ」 「昨日の日曜日ゆっくり見たでしょ」 二人は部屋に上がり込むと、赤ん坊が眠るベッドまで行った。 「彼女、ガールフレンド? 高校生じゃないの」 「お前、どうだ、かわいいだろ、手を握ってやれよ」 詩織は彼に言われるまま、赤ん坊の手を握った。その時、言葉に出来ない想 いが全身を駆け巡った。 「どうだ、かわいくてかわいくて仕方ないだろ・・中絶なんかするなよ、こん なかわいい宝物がもらえなくなるんだぞ」 彼の姉はその言葉を聞くと、弟のほおを力一杯叩いた。 「真吾、また女の子を妊娠させたの」 「お姉さん、違うんです、この人はただ・・」 詩織は昨日からのことを彼の姉に話した。 「そうだったの・・ごめんね、ぶったりして・・二人とも御飯食べて行きなさ いよ」 二人は赤ん坊の横でカレーライスを食べ始めた。姉は子供がどれほどいとお しいかを詩織に話して聞かせた。 37 「でも、相手の男、金持のお坊ちゃまでわたしなんかと結婚するはずがないし」 「おれが父親になってやるよ・・いいだろう、姉ちゃん」 「バカなことを言うのは止めなさいよ」 しかし半年後、詩織と真吾は全ての人の反対を押し切って結婚した。 翌日は、みんな昼近くまで寝ていた。二重のカーテンは朝の日差しをさえぎ っている。目覚まし時計で逸早く目覚めた高野は、美雪を起こそうとした。 「美雪ちゃん、もう十時を過ぎてるよ、クリスマスプレゼントを届けるだろ、 早く起きないと」 「うん・・先に一階に下りて、コーヒー入れておいて、すぐ行くから」 彼は急いで着替えて、一階に下りた。母親もまだ起きていない。台所で、彼 は四人分のコーヒーを入れていた。しばらくして、母親が二階から下りて来た。 「寝過ごしたわ・・優二さん、起きてたの? エッチウサギははまだ寝てるの」 「すぐに起きてきますよ」 彼がそう言っていると、美雪がコートを片手に慌てて階段を下りてきた。 「もう十時半、コーヒーを早く」 急いでコーヒーを飲み干すと、二人は出て行った。そして、駅前の書店に入 って、絵本を探した。 「どれがいいかな、やっぱりサンタクロースかな、クリスマスだし」 「サンタクロースじゃあ、ありふれているだろ、この『テディベアの冒険』は どうかな、絵が暖かそうだろ」 「それもいいけど、この『赤鼻のトナカイ』は? 38 クリスマスはやっぱりクリ スマスらしくね」 「じゃあ、二冊買えば」 「二冊で四千円か」 「僕がお金を出すよ」 二人は絵本の支払いを済ますと、病院に行った。病室は日曜日ということも あり、見舞い客がたくさんいてにぎやかだった。二人が病室に入って行くと、 香織は起きて待っていた。 「あっ、やっぱり来てくれた」 「そうよ、来たわよ、クリスマスプレゼントを持って」 美雪は香織のベッドの横に椅子を置いて座ると、一緒に絵本を読み始めた。 読んでいると、同室の子供達が集まって来た。彼女は恥ずかしそうに絵本を読 み続けた。 「お姉ちゃん、本を読むの上手ね」 「うん、お姉ちゃんも本は好きだから」 「また来てくれる?」 「うん、また来るね」 一時間程絵本を読んで、二人は病院を後にした。病室を出る時、子供達は二 人に手を振り続けた。 「良かったよ、天使に見えたよ」 「何を話していいかわからなくて困っちゃった」 「上手に話していたよ」 「そう言ってくれて嬉しい・・これからどうするの」 「映画に行こうよ」 「うん」 二人は梅田に向かった。街は年末商戦で活気を見せている。二人はウインド 39 ウショッピングをしながら地下街を歩いて行く。 「何の映画観るの、クリスマスの映画がいいなあ、サンタクロースが出て来て 恵まれない子供達にプレゼントを贈るの」 「残念ながら今日はマイナーな映画で、中国作品なんだ・・ホームレスのよう な男がいて、その男は実は気功の達人で、人知れず他人の難病を治していたん だが、それが政府から危険人物とされて命を狙われるんだ・・後は観てのお楽 しみ!」 映画館は数十人程の観客がいるだけだったが、娯楽性もあり、十分楽しめた。 映画を観た後、彼は駅ビルに入って行った。エスカレーターで三階まで行くと、 中国気功治療院という看板が掛けられた部屋に入った。中に入ると、白衣を着 た若くて美しい長身の女性が出て来た。 「こんにちは、趙です・・初めての人ですね、治療に来られたんですか」 「そうですけど、あなたが趙先生ですか」 「いいえ受付ですけど、どうぞ、ソファーに掛けてください、システムのご説 明をしますから」 高野と美雪は勧められるままにソファーに腰掛けた。二人は部屋の中を見渡 した。壁には安っぽい掛け軸が飾られ、机には壷が置かれ、本棚には中国語の 本が並んでいる。 「随分日本語がうまいんですね」 「日本で生まれて育ちましたから、日本人と中国人の混血なんですよ」 「ところで、突然ですけど、気功でガンは治るのですか」 「ガンが治るなんて一言も言ってませんけど、看板にもパンフレットにも書い てないでしょ」 「さっきこの映画を観てきたんですけど、主人公は気功師でどんな病気も治す んですよ」 40 彼はそう言いながら、六百円で買った映画のパンフレットを見せた。趙はそ のパンフレットを手にしなかった。 「知ってますよ、わたしもその映画を観ましたから、その主人公も知っていま すよ、祖父の修行仲間でしたから、と言っても、修行仲間千人の中の一人でし たけど」 「その話、聞かせてくださいよ」 「祖父は八十歳で、元気で香港にいます、祖父は若い頃、中国の気功学校で気 功の修行に励んでいました、生徒は千人以上いたでしょう、その中に卓越した 気功師が出現して、学校どかろか国中の評判になりました、その気功師は政府 の役人達の病気を治すことを強要され、それが嫌で逃げ出したそうです・・先 ほどの質問ですが、気功でガンも治ります、しかし、余程の達人でないと無理 でしょう」 「そういう達人はどこにいるんですか」 「さあ、どこにいるんでしょう、でも、わたしの父もそれなりの達人ですよ、 治療を受けられてはいかがですか」 「あなたの祖父は達人ですか」 「もちろん、父以上のそれなりの達人です、でも、日本には絶対に来ませんか ら」 「どうしたら日本に来てもらえますか」 「今言ったでしょ、絶対に来ません」 「どうしてですか、日本が嫌いなんですか」 「もちろん嫌いです、でも他にも理由があります・・父が香港にいた頃、ある 日本人女性が旅行に来たんです、そして父と仲良くなって、父は両親を捨てて 日本に行き、結婚しました、授かった子供がわたしです、しかし母はわたしが 小さい頃亡くなりました、父は祖父に母の病気を治すように頼んだけど、祖父 41 は頼みに応じませんでした、それで仲たがいしたんです、わたしは時々香港に 帰りますけど、父と祖父は二十年以上会っていません」 「事情はわかりましたけど、じゃあ、ここの先生は病院まで来て治療してくれ ますか」 「それならいいですよ、商売ですから、しかしガンは治せまんよ、たとえ父で も祖父でも」 「わかりました、それでは明日連絡します、よろしいでしょうか」 「はい、お待ちしています」 「あなたのお名前は? 僕は高野優二、隣りは妻の佐藤美雪と言います」 「よろしく、昨日結婚したんです・・ウフフ」 「おめでとうございます・・わたしは趙和泉、父は趙玄徳」 「握手してもらえますか」 「いいですよ」 「和泉さんも気功の修行をやっているんですか」 「もちろんです、まだまだ未熟ですけど」 彼は握りしめる和泉の手に熱いものを感じた。二人は名刺とパンフレットを 受け取ると、中国気功治療院を後にした。 「本気であんな事を考えてるの、気功でガンを治そうなんて」 「そうだよ、こうしたら助かるという希望を持てば、余命も伸びると考えたん だ、本当に気功でガンが治るんなら世界中からガンが撲滅しているけど、みん なで奇跡を信じよう・・あのレストランに寄って黒田さんに話してあげよう」 「でも、趙先生に来てもらうとなると、お金がかかるでしょ・・本が売れたら とか映画を作ってなんてウソ話は通用しないわよ」 「何とかなるよ」 「わたしの貯金は充てにしないでね、子供が出来たらお金が掛かるんだから」 42 「わかってるよ」 二人はお金のやりくりを話しながら、枯木立の中を駅に向かってブラブラと 歩いた。レストラン『フィレンチェ』に着くと、佐藤と美咲はテーブルに着い て雑談していた。高野と美雪も席に着いた。 「映画、おもしろかったの」 「うん、参考になったけど」 「へえ、どんな映画?」 高野は二人に映画のパンフレットを見せ、映画のあらすじや気功の説明をし た。美咲は即座に反論した。 「気功なんかでガンが治るわけがないでしょ」 「そうかな、病は気からというから効果はあると思うよ」 「父さんまで何を言うの、気功でガンが治るんだったらガンは撲滅しているは ずよ・・最近のあなたはすぐ優二さんの絵空事の味方をするんだから」 「そういうわけでもないが、希望を持つことはいいんじゃないか」 「希望を持つだけならね、その希望にはたくさんの出費が付きまとうのよ・・ 優二さん、治療費は高いんでしょ」 高野は更に自分が考えていることを話した。しかし、美咲の賛成は得られず、 彼女が費用を貸してくれる淡い期待を無くした。 「それより、お腹が空いたから早く食べましょう、何かおいしそうなもの、あ りますか」 「イタリア語って難しいわね、何が書いてあるかわからないわ」 「パスタとピザがわかればいいのよ」 四人が話しているところに、黒田詩織がやって来て、深々と頭を下げた。 「今日は香織が絵本を買ってもらって、ありがとうございました、すごく喜ん でました」 43 「うん」 「良かったら、座りませんか、香織ちゃんの事で話があるんです」 「いいんですか・・その前にオーダーを伺っておきます」 「ペスカトーレとナプリチョーザ、デザートにかぼちゃのタルトね、それと、 ワインね、バローロ・リゼルヴァ」 「お母さん、そのワイン、六千円もするのよ」 「いいわよね、優二さん・・自分のお金でこんな高いワイン飲めないもの」 「もちろん・・それと生ビールを二つ、一番でかいヤツ」 料理と飲物が運ばれて来て、詩織も席に着いた。 「お話って何でしょうか」 「今日映画を観て来たんだ・・これ、その映画のパンフレットとチケット、ぜ ひ見に行ってください、観てみるとわかるけど、気功で難病を治す気功の達人 の話なんだ・・香織ちゃんも気功の治療を受けさせてみてはどうかな」 「可能性があることなら何でも試してみたいけど、でもお金が無くて」 「お金は神様が何とかしてくれるよ」 「そうよ、きっと優二さんが何とかするから」 「はい・・」 詩織は困惑の表情をした。しかし、成り行きに任せるしかないと思った。 「名刺あるから、明日電話してくださいね、いつ来てもらえるか、費用はいく らか、相談してくださいね・・香織ちゃん、必ず治りますよ」 彼は詩織に中国気功診療所の名刺を渡すと、今日見た映画の事に話題を変え た。詩織は熱心にその映画の話に聞き入っていた。 クリスマスを挟んだ三連休は騒々しく終わった。次の朝、高野は六時に起き、 喫茶店に向かった。佐藤も七時に会社に向かった。美雪も七時過ぎに家を出た。 44 それぞれの普段の生活が始まった。 高野は昼の忙しい時間が終り、カウンターで原稿を書いていた。そんな時、 電話のベルが鳴った。 『はい、喫茶『ボナール』です』 『高野さんですか? 黒田ですけど、今気功の先生が来てくれたんですけど』 『僕もすぐに病院に行きます』 彼は電話を切ると、急いで自転車にまたがった。病室に入ると、趙親子と詩 織が香織と話していた。趙玄徳は野性味のあるがっしりとした体格の男で、ス ポーツ選手のような容ぼうだった。 「趙玄徳先生、初めまして、高野と言います」 「こんにちは、趙です」 「ここで治療を受けられるでしょうか」 「いいですとも・・早速始めましょう・・あなた方は出ていてください」 趙玄徳は気さくに返事すると、上着を脱ぎベッドを区切るカーテンを閉め治 療を始めた。病室を出た高野と詩織と和泉は、待合室に行った。 「ガンというのは子供さんだったんですね」 「そうなんですよ、子供だから半額でお願い出来ませんか」 「先生と相談しておきますけど」 「詩織さん、悪いけど缶コーヒーを三つ買って来てくれないかな」 詩織は彼から小銭を受け取ると、缶コーヒーを買いに自販機に行った。彼は その隙にポケットから封筒を出した。 「治療費は一日二万円でしたね、取り合えず年末年始五回来ていただけますか、 ここに十万円ありますから」 「じゃあ、お預かりしておきます・・高野さんは物好きですね、人のために大 金を出すんですか」 45 「子供の頃からお節介なヤツでね、困ったもんですよ」 「わたしの夫だったら大ゲンカですね」 「彼女には絶対気功で治ると言ってほしいんです、僕が全て責任を負いますか ら、趙先生にもそう言っておいてください」 「ウソを付くのは感心しませんけど、そう言われるならそうしますけど」 詩織が缶コーヒーを持って戻って来ると、彼が彼女に封筒を渡すところを見 た。和泉は慌てて封筒を隠した。 「治療費払ってくれたんですか」 「まあね・・」 「ありがとうございます」 「とにかく元気になることが先決だ」 「必ずお返ししますから」 「詩織さん、香織ちゃんは必ず治りますから、安心してください」 「ありがとうございます」 「じゃあ、僕はお店がありますから、これで失礼します・・三日、パーティや りますから、ぜひ香織ちゃんを連れて来てくださいね」 平穏に年が明けた。元旦は教会に足を運び、二日は佐藤の会社の部下があい さつに訪れ、三日は美雪が勤める会社の同僚があいさつに訪れた。高野と知り 合う以前の美雪は誰とも付合いがなかったが、今は次々と仲間が増えて行く。 居間では幾つものテーブルが用意され、母親と美雪の手料理が並べられた。美 雪は真弓や同僚の女子社員に囲まれ、猥談に花を咲かせている。高野と佐藤夫 婦は中島や会社の男達と競馬や酒や高野のウソ話に興じている。その時、チャ イムが鳴った。黒田親子尋ねてきた。美雪と高野は門まで出迎えた。 「お邪魔します、旧年中は大変お世話になりました」 46 「お姉ちゃん、新年おめでとうございます」 「香織ちゃん、おめでとう、お年玉あるからね・・どうぞ!」 黒田親子が居間の中に入ると、みんなは二人に注目し静けさが訪れた。今ま で高野が黒田親子の事を話していたからだ。やせ細って髪の毛がない香織をみ んなは同情の視線を注いだ。高野は二人を自分の前にエスコートして、みんな に紹介する。 「みなさん、紹介します、黒田詩織さんと香織ちゃんです、見た通り二人とも 美人です」 「美人のお二人さん、おれ達のテーブルに来いよ」 中島は二人に手招きして、自分の隣りに座らせた。 「香織ちゃん、おじさんがみんなからお年玉をせしめてやるからな」 「ありがとう、百万円欲しい」 「香織、そんな行儀の悪いこと言ってはダメよ」 「香織ちゃん、百万円で何を買うんだ」 「ママが病院に払うお金が無いって」 「子供はお金のことは心配しなくていいよ、神様が届けてくれるから」 詩織は恐縮して下を向いた。詩織が困惑しているのを察して、高野は話題を 変えた。 「黒田さん、香織ちゃんの体の具合はどうなんですか」 「ええ、監査の結果は小康状態で、でも気力はすごく充実みたいでよく食べて よく笑うようになったんです、きっと気功の治療が効いているんです、今年の 正月は帰宅出来ないと思っていたのに・・」 「良かったですね」 「それで、お礼にと思って・・」 「いいんですよ、お礼なんて・・」 47 「オーナーの知合いが東京の文芸作家社という出版社にいて、高野さんの小説 を出版してくれるそうです、とりあえず発行部数一万部だそうです」 「本当ですか、嬉しいなあ・・みなさん、聞こえたかな、僕の小説が再び本に なりますよ」 「優二さん、一万部だと印税はいくらになるの、売れなくても発行するだけで 印税はもらえるのよね」 「お母さん、止めてよ、いきなりお金の話は、恥ずかしいから、そんな事は後 でこっそり聞くものよ」 「一万部だと定価千五百円として百五十万円・・」 「ヤッター! わたし達、お金持ね」 爆笑が起きて、雰囲気が盛り上がった。夜遅くまで雑談が続いて、黒田親子 は佐藤家で泊まった。 喫茶『ボナール』は四日からの営業だった。北風が冷たい中を、高野は自転 車で走った。缶コーヒーの温かさが手袋を通して伝わってくる。 「エリさん、おはよう、冷えるね、今日は」 「おはよう、朝御飯は?」 「三が日食べ過ぎたから、今日は要らない・・正月は何していた?」 「藤子さんに柴犬の子犬もらって・・」 「タロウが産ませた子犬だろ、聞いたよ」 「今日からコタロウも家族だから」 「タロウの子供だからコタロウか、いい名前だね・・どこどこ? ここにいた のか、コタロウのお陰で繁盛するかもね」 「 す ご く 恐 が り な の よ 、 コ タ ロ ウ は 、 い つ も わ た し の 後 ろ に い る の よ 、『 ボ ナ ール』の名物になるといいのにね」 子犬のコタロウは、きれいなベージュ色の毛並みをしている。彼はコタロウ 48 をひざの上に乗せて遊び始めた。七時を過ぎると、階上のマンションの住人夫 婦が子供を連れてやって来た。 「いらっしゃいませ、今日はお出かけですか」 「USJに行くんだ」 「朝食作ってる暇がないから、モーニングセット三つお願いね、子供にココア あるかしら」 「ありますよ、クッキーも付けときますね」 「何かクンクン言ってるわね」 「そうなんですよ、奥さん、年末から子犬を飼ってるんですよ」 「健ちゃん、ワンコ見せてもらいなさい・・この子、犬を飼いたいと言うけど、 ここのマンションは賃貸だからダメでしょ」 「お母さん、この犬、目が大きくて可愛いよ・・名前何ていうの」 健と言うその子はコタロウを抱き上げると、ほおずりをした。 「タロウの子供だからコタロウというのよ」 「コタロウと遊びたかったらいつでも来ていいよ」 「ホント、嬉しいな、散歩に連れて行っていい?」 「もう少し大きくなってからならいいよ」 「ハイ、モーニングセット出来ましたよ・・あっ、吉弘さんと田中君の天然コ ンビが来るわよ・・年末、万引犯を捕まえようとして、弾みで隣りの女性客の 胸をつかんで平手打ちされたそうよ・・ショッピングセンターで藤子さんと出 合ってお茶を飲んでその話をしていて、子犬をもらうことになったのよ」 「相変わらずドジばかりしているんだな、あの二人は」 間もなく吉弘と田中が笑顔で喫茶店に入って来た。 「いらっしゃいませ」 「エリさん、おはよう、しばらくエリさんの顔を見なかったから寂しかったよ、 49 一緒に初詣に行こうと思って電話したのに出てくれなかったね」 「あらっ、そう・・モーニングセットでいいんですね」 「何だよ、その愛想のない返事は?」 「言ってるでしょ、わたしを口説いてもダメよって」 「ワハハ・・ほう、子犬がいるじゃないか」 「そうよ、藤子さんにもらったのよ、今日からこの『ボナール』のマスコット よ・・ハイ、モーニングセット二つ出来ましたよ」 「あのう、藤子さんと親しいんですか」 「何? 田中君、藤子さんに興味があるの? 藤子さんの事だったら優二さん の方がすごく詳しいわよ」 「どうして詳しいんですか」 「そんなに驚くなよ・・この喫茶店をやる前、山村印刷で働いていたんだ、こ の店は母が亡くなって、その生命保険金で始めたんだ・・それで、僕にどうし て欲しいんだ」 「何とかしてくれとは言ってないけど・・藤子さんは彼氏がいるのかなあ」 「いるんじゃないか」 「優二さん、意地悪言わないの・・ウソよ、彼氏はいないわよ」 「良かった!」 「でも、藤子は楽しい男が好きだからな、田中じゃ彼氏になるのは無理だな」 「田中君、ウソよ、藤子さんは真面目な人が好きよ」 「いい事、思い付いた、ここでジャズの演奏会をやろう、そもそもライブが出 来るようにゆったりとしたスペースにしたんだ、来々週の金曜の夜がいいな、 田中、きっと来いよ、藤子も来るから」 「藤子さんが来るなら、絶対来るよ」 「田中だけ、チケット一万円だぞ」 50 「どうしてですか、僕だけ」 「お前と藤子を会わせるために演奏会やるんだぞ、演奏者に出演料払わなけれ ばならないだろ、一万円でも足りないぐらいだ」 「そうか、出しますよ、それで藤子さんと仲良くなれるなら」 「共同経営者のエリさん、どう思う?」 「もうかりそうにもないけど、宣伝がてらにやってみましょうか」 「二十人来るとして、チケット二千円で四万円、田中の一万円足して売上五万 円、料理に二万円と演奏者に二万円支払って、利益が一万円か」 「自分勝手な都合のいい計算ね、計算通りにゆくかしら」 高野の思い付きで第三金曜日にジャズの演奏会が開かれることになった。客 が帰った店内のカウンターデで、彼がパンフレットのデザインを考えていると、 美雪達がクッキーを持ってやって来た。 「早いですね、今日は・・お父さんも一緒ですか」 「買い物がたくさんあるから、早く出て来たのよ」 「私は荷物持ちだ」 「すぐにコーヒーを入れますから、エリさんもカウンターに座って休憩しろよ」 高野は四人分のコーヒーをたて始めた。食器棚には各人の専用カップがあり、 それを並べてコーヒーが出来るのを待った。 「何描いているの?」 「『 ボ ナ ー ル 』 で 第 三 金 曜 日 に ジ ャ ズ の 演 奏 会 を す る こ と に し た ん だ 、 そ の チ ラ シとポスターのデザイン」 「ジャズねえ、昔、父さんとよく聴きに行ったわね、あの頃はいろんな所にジ ャズ喫茶があったものね・・いい考えだわね」 「良かった、認めてくれて・・ハイ、コーヒー入りましたよ」 「どうしたの、誰かクンクン言ってるわね」 51 「藤子さんから子犬もらったのよ、タロウの子供だからコタロウと言うのよ」 「可愛い柴犬ね・・お母さん、佐藤家でも犬を飼いましょうよ」 「ダメよ、わたしが一人で世話することになるもの、そのうち子供が出来たら 犬どころじゃなくなるし、わがままウサギでたくさんよ・・コーヒー飲んだら 早く出かけましょ、福袋が売り切れるわよ」 美雪達は慌しく出て行った。 翌日から、美雪も佐藤も仕事が始まった。結婚後も変わらず美雪は無口だっ た。しかし、高野と一緒に生活することによって、他人といても苦痛ではなく なり、彼女の内面は少しづつ変化していた。 五日の初出勤の日、二つ速い電車に乗った彼女は八時五分に会社の前に着い た。会社のシャッターはまだ開いていなくて、その前で待っていると、真弓が やって来た。 「明けましておめでとう、そうか、新年のあいさつはもう済んでいたわね」 「うん、おめでとう、真弓さんがいつも会社の扉を開けていたんですか」 「中島専務と結婚してからはね、会社の鍵はわたしが開けることになったの、 管理職の連中が来る前にコーヒーもたてておくのよ」 「重役婦人なのにそんなこともするの?」 「実るほど頭を垂れる稲穂かな・・ってね、意地悪おばさんのままじゃダメな のよ」 「もう意地悪おばさんなんて呼ばない、親切おばさんって呼ぶことにするから、 わたしもこれから設計部の人にコーヒー入れることにしよう・・ウフフ」 二人で会社の鍵を開けて回り、給湯室に行って、コーヒーをたて始めた。コ ーヒーが出来上がった頃、他の社員が続々とやって来た。美雪の設計部の社員 達も入って来た。コーヒーを入れたポットを持って、美雪は設計部に戻った。 52 「みなさん、明けましておめでとうございます」 「佐藤さん、おめでとう」 「結婚もおめでとう」 「うん・・今日から朝はコーヒーを入れさせていただきます」 「それはありがたいね、自分で入れるより美人に入れてもらった方がうまいも んな」 「主婦になると、変るもんだね」 「うん・・ウフフ」 美雪は一人一人にあいさつをしながらコーヒーを出して回った。 佐藤は私鉄から環状線に乗り換えて駅を降りた。工場への送迎バスを待って いると、見知らない女性がやって来た。 「みなさん、おはようございます」 「おはよう」 佐藤はみんなと一緒に彼女にあいさつをした。送迎バスに乗ると、佐藤は一 番前の座席座った。隣りは空いているが、社員は遠慮して座らない。ところが、 さっきの女性が隣りに座った。佐藤は驚いて彼女の顔を見たが、彼女は素知ら ぬ面持で座っていた。佐藤は部長らしく声を掛けた。 「君は初めて見る顔だね」 「はい、出社は今日が初めてですから」 「そうですか、佐藤です、よろしく」 「わたし、製造部の飯田直子です、よろしくお願いします」 「今日はお弁当ですか」 「えっ」 「会社の弁当を頼む時は、タイムカードの横にある名簿に●印を付けておく約 53 束だから・・お昼食べられないと困るだろ」 「ありがとうございます、お弁当を作って来てるんです・・佐藤さんもお弁当 ですか」 「私も弁当を持って来てるんだ・・わからないことがあったら、部屋に尋ねて 来るといいよ」 「何室ですか」 「部長室だよ」 「佐藤さん、部長なんですか、大阪工場で三番目に偉いんでしょ」 「そんなことないよ、君より三十年長く勤めているだけだ」 「厚かましく隣りに座って失礼しました、部長さんが送迎バスに乗って来ると は思わなかったから」 「気を付けるといいよ、時々本社の社長も乗ったりするから・・ワハハハ」 「なんだ、冗談ですか、信じてしまったわ」 送迎バスが工場に着くと、みんな別れて行った。昼休み、佐藤は食堂で弁当 を食べ始めた。すると、向かいの席に飯田直子がやって来た。 「ご一緒させていただいていいですか」 「いいとも、私のボックス席じゃないから」 直子は椅子に座ると、弁当を開けた。小さなお結び四つと玉子焼きとブロッ コリーの弁当だった。 「佐藤部長のお弁当、豪華ですね」 「でもないが、いつも夕食の残り物だ、この弁当で三百円ぐらいのコストかな」 「いつもコスト計算しているんですか」 「妻がね、今日のお弁当は二百円だとか三百円だとか計算するんだ、それを小 遣いから引かれるんだ」 「すごい奥さんですね、普通は小遣いを浮かせるためにお弁当を作るのにね」 54 「仕方ないよ、結婚する時に小遣いは昼食費を含むという契約だったから」 「佐藤部長のお小遣いって、月百万円ぐらいですか」 「そんなことまで聞くのか・・そんなに給料もらってないぞ、小遣いは十万円 だ」 「多いのか少ないのか、よくわからないわ」 「少ないとは思わないけど」 二人は休憩中ずっと食堂で話していた。今までと同じように仕事が始まり、 そして何事もなく一日が終わった。彼が送迎バスと環状線で私鉄の駅に着いた のは七時頃。携帯電話でメールの確認をしていると、女性の匂いがしてくる。 振り返ると、直子の顔がそばにある。 「佐藤部長はいつもこの時間なんですか」 「大体これぐらいだが・・君は残業だったのか」 「いいえ、二日に一度、デパートでお惣菜の買い物をするんです」 「そうか・・」 「急行が来ました、わたし、急行なので乗りますけど・・」 「飯田さん、そこでコーヒーでもどうだ」 「はい、喜んで!」 二人は駅の構内にあるカウンターだけのコーヒーショップに入った。窓ガラ ス越しに電車の行き来を見ながら、彼は彼女に話し掛けた。 「管理職になると皆から煙たがられて、中々親しく話する相手がいないんだ」 「そうなんですか、寂しいですね、わたしで良かったら話相手になりますけど、 わたしも一人暮らしで人付き合いも少ないし」 「そうか、何の話をしたらいいかな」 「映画とか音楽とか趣味とかがいいんじゃないですか」 「まるでお見合いみたいだな」 55 「それじゃあ、部長さんの趣味って何ですか」 「付き合いでゴルフやっているぐらいかな、昔は屋上で天体観測をしていたけ ど」 「天体観測って、大きな望遠鏡で星を観るんですか」 「晩食が済まして、妻と二人で屋上に上ってビールを飲みながらただ星を観る んだ」 「どうして止めたんですか」 「娘が出来たからだよ、それからは娘が趣味だ、その娘もクリスマスに結婚し て、今は無趣味だ・・飯田君の趣味は?」 「わたしですか、衛星放送で映画を観るぐらいですね」 「映画館には行かないのか」 「行きたいんですけど、ワーキングプワですから」 「それは大変だな・・そうだ、第三金曜日、ジャズの演奏会やるんだけど、聴 きに来ないか」 「ジャズって聴いたことありませんけど、行ってみたいです、どこですか」 「娘婿がやっている喫茶店なんだ」 「楽しみです」 「そろそろ帰ろうか・・娘達にケーキでも買って帰ろうかな、食べるかい、君 も」 「一つだけなら・・」 佐藤は駅内のケーキ屋で四つづつケーキを買って、箱の一つは直子に持たせ た。 「ありがとうございます」 「急行が来るよ、それに乗れば」 「はい、そうします」 56 佐藤は彼女が乗った急行電車を見送り、自分は次の普通電車に乗った。管理 職になってから、佐藤が女子社員と親しく話するのは初めてだった。彼の心に 新鮮な思いが湧き出してきた。家に戻れば、美雪も高野も帰っていた。 「ケーキを買って来たよ」 「お父さん、お帰り・・珍しいわね、ケーキを買うなんて」 「父さん、何かやましい事あるんじゃない?」 「そんなことないぞ、ケーキ屋の売り子さんが可愛かったから、つい買ってし まっただけだ、やましいと言えばやましいかな」 「お父さん、やっぱり怪しい、彼女が出来たんでしょ」 「そんなわけないだろ」 「父さん、真面目過ぎるから、ガールフレンドぐらいならいてもいいわよ、今 度連れて来たら」 「そんなのいないよ・・美雪、ビール飲もうか」 「うん、タダでお父さんのビール飲もう」 第二日曜日、仏壇の月参りの日だった。東條僧侶が午後一時に訪れた。高野 と美雪が仏壇の前で控えていた。 「披露宴の時は、ありがとうございました」 「喜んでいただけて、こちらも嬉しいです・・では、お参り始めさせていただ きます」 東條僧侶の読経が終わると、母親と父親がお茶と和菓子を持って現れた。そ れを五人で相伴しながら、雑談が始まった。 「高野さん、新婚生活の方はどうですか」 「はい、いつもみんなに迷惑かけて、申し訳ないと思ってます」 「と言うと・・」 57 「生活費稼ぐ能力もない上に、いろんな事をやらかして・・」 「何かをやらかしたんですか」 高野は黒田親子のことを詳しく話した。 「高野さん、そう自分を責めないように」 「ところで、図々しいお願いがあるんですが」 「協力できる事があれば、協力しますけど」 「第三金曜日の夜に、喫茶店でジャズの演奏会をやるんですけど、先生の演奏 聴かせていただけませんか」 「私の演奏で良かったら・・私も人に聴いてもらえる機会がなくて寂しいと思 っているんですよ、他の人と一緒に演奏するほどの腕前もないし」 「ギャラは一万円という事でお願い出来ますか」 「そんなに出していただかなくても・・いろんな事をやらかしてというのは、 この事ですか」 「これもその一つです、ハハハ・・」 「先生、美雪とわたしがピアノ弾かせてもらいますから、一度お時間がありま したらリハーサルを・・」 「先生、わたしはともかく、母は結構上手なんですよ」 第 三 金 曜 日 、 高 野 、 美 雪 、 美 咲 、 エ リ 、 藤 子 は 、『 ボ ナ ー ル 』 に 六 時 に 集 ま った。寒波が押し寄せている大阪は、凍えそうな程寒い。しかし、店内は暖房 が最強にされ、春のように温かい。テーブルにクラッカーとチーズと赤玉ポー トワイン、そしてパンフレットが並べられている。 「準備はよし・・でもお母さんがジャズピアノを弾くとは意外でしたね」 「ジャズピアノじゃないわよ、普通に弾いているだけよ、下手だからジャズっ ぽくなっているだけ・・わたしもギャラ、一万円いただくわよ」 58 「親子なのにギャラ取るの」 「もちろんよ、生活費もよこさないんだから、ギャラぐらいもらうわよ」 「優二さん、わたしのギャラ、二千円でいいからね」 「美雪ちゃんまでギャラを取るの?」 「もちろんよ、生活費全部わたしが出しているんだから」 最初にドアを開けたのは、田中と吉弘と成田だった。寒い寒いを連呼しなが ら、三人は高野達に近付いて行った。 「いらっしゃい、隊長と隊員のみなさん、と言っても二人だけか」 「コート、こちらに預かりましょう」 「ありがとう、エリさん、いつもおきれいですね」 「成田さん、その気持悪いお世辞は止めてもらえますか・・成田さんは吉弘さ んと隣り同士、後でわたしが横に座れらせてもらいますから・・田中さんは藤 子の隣り、後で高野が座りますから」 間もなく、佐藤と中島と真弓と飯田直子がやって来た。店内のみんなが直子 に注目した。特に美咲は、犯人を見る刑事のように彼女の全身を物色した。佐 藤は直子をみんなに紹介した。 「会社の部下の飯田さんだ、ジャズが好きだと言うから連れて来たんだ」 「今晩は、飯田直子です」 「初めまして、この『ボナール』の店主で高野優二です、彼女が共同経営者で 鈴木エリです、彼女が妻の佐藤美雪です、彼女が母親の佐藤美咲です、彼女が 友達の山村藤子です、彼女のひざの上にいる子犬がコタロウです、以上です・・ 寒かったでしょ、このテーブルにお座りください・・中島さん、真弓さんもど うぞ」 「今夜は久し振りに美咲のピアノが聴けるな」 「中島さんがあんなにピアノが上手だとは思いませんでしたよ」 59 「佐藤達が結婚してから佐藤の家で三人そろって習い始めたんだ、おれは女を 口説くのが目的でね、一生懸命がんばったけど、佐藤は女を口説く必要がなか ったから途中で断念した」 「中島は歌もうまいんだ、アンディ・ウイリアムスに似ていて」 「誰ですか、アンディ・ウイリアムスって・・良かったら歌ってくださいよ」 「今夜の曲目は何なんだ」 「ムーンリバー・ハロードリー・オーバーザレインボウ・テネシーワルツ・運 がよけりゃ・A列車で行こう・星に願いを・バラ色の人生・マイファニーヴァ レンタイン・それとボディガードのあの歌、有名な曲ばかり集めたんですよ」 「そうか、わくわくするな、じゃあ、ムーンリバー・ハロードリー・テネシー ワルツを歌うよ」 「ムーンリバーは僕が書いた歌詞があるんですけど」 「じゃあ、英語の歌詞と高野の歌詞と両方歌おう」 二人が話していると、黒田詩織がウエイトレス仲間三人と注文したピザを持 って現れた。 「お待ちどう様、十分前に焼けたところなんですよ」 「ありがとう、おいしそうだね、ピザも詩織さんも」 「ピザはおいしいけど、わたしはおいしくないですよ」 「みなさん、どうぞ掛けてください」 そうして、階上のマンションの常連四人と東條僧侶と家族がやって来て、定 員二十名となった。八時になっていないが、高野はステージに立った。 「こんなにたくさんのお客さんに来ていただいて、感謝しています・・ピザが 冷めないうちに召し上がってください、みなさんが食べ終えるまで、しゃべっ ています・・このピザはそこにいる黒田さん達が勤めている『フィレンチェ』 というイタリアレストランで焼いて来てもらいました、予算の割にはすごく豪 60 華 な ピ ザ で 、 満 足 し て も ら え る と 思 い ま す 、『 フ ィ レ ン チ ェ 』 は 帝 塚 山 駅 の 近 くにあります、駅員に聞いてもらえればすぐわかります、駅員に聞いてもわか らない場合は『フィレンチェ』まで行って尋ねてください・・赤玉ポートワイ ンは日本で最初に作られたワインです、僕は子供の頃、正月にはこのワインを 飲みました、甘いのでぶどうジュースとばかり思っていました、子供の頃から 飲んでも酔わなかったんですねこの赤玉ポートワインは佐藤幸夫さん、僕のお 父さんですけど、彼が勤めている会社の商品です、安くておいしいワインです ・・僕がジャズを初めて聴いたのは、山村印刷にいる時、藤子さんに誘われて 行ったのが最初です、その時の印象は知っている曲なのに新しい曲というもの でした、とっても新鮮でいて懐かしい、ブルーノートを出る時にはすっかりジ ャズファンになっていました・・今夜の演奏会を企画したのは、ただの思い付 きでした、何とか店の売上を増やそうと考えて、でもこんなに楽しいものにな るとは思ってもいませんでした・・今夜の演奏者はサックスの東條さん、ピア ノの伴奏は佐藤美咲さんと美雪さんの美人姉妹です・・ピザは大体食べられま したか」 高野はステージを降りて、東條がそこに上がった。 「自己紹介しますと、近くでお寺の住職をしています、大学は仏教の大学なん ですが、大学でこのサックスをやるようになって、大学を卒業後、しばらくサ ックス奏者をしていましたが、それではとても生活できないので、僧侶になり ました、私も結婚してから長い間演奏はしていませんでしたが、息子も娘も結 婚して子供を授かり、父親の勤めも終わったことだし、サックスを再びやり始 めました、しかし人前で演奏したいと思うものの、今更演奏会というのもなん だしと思っていたところ、高野さんから話があり、こうしてステージに立つこ とになりました・・ジャズというのは、演歌やクラシックといった曲のジャン ルではありません、ジャズという演奏の仕方なんです、だから映画音楽や民族 61 音楽、ポップスやナツメロもジャズになるんです、以前江梨チエミさんが黒田 節をジャズとして歌っていました、そういうのもジャズになるんですね・・ 話はこれぐらいにして・・A列車で行こう・マイファニーヴァレンタイン・星 に願いを・バラ色の人生を演奏したいと思います」 東條と美咲は軽妙に演奏を始めた。三曲の演奏が終わると、東條は再び話し 始めた。 「 A 列 車 で 行 こ う は 、 1941 年 の ジ ャ ズ の 大 ヒ ッ ト 曲 で す ・ 星 に 願 い を は 、 誰 で も 知 っ て い る 曲 な ん で す が 、 何 の 曲 な の か 知 ら な い 人 も い る と 思 い ま す 、 19 40 年 に 作 ら れ た デ ィ ズ ニ ー 映 画 『 ピ ノ キ オ 』 の 主 題 歌 で す 、 バ ラ 色 の 人 生 は 、 オードーリーの『麗しのサブリナ』の主題歌です、一度聴いたら忘れないとい う曲ばかりですね、音楽の世界遺産といったところでしょうか・・次は、ハロ ードリー・オーバーザレインボウ・運がよけりゃ、ミュージカルの名曲です」 東條は美咲と一緒に演奏を始めた。演奏が終わると、高野がステージに上っ た。 「みなさん、トイレ休憩です、今夜は冷えるてますから・・そうそう、ピノキ オは木製の操り人形なのに、どして生きているのか知っていますか・・ジョゼ ッペさんは若い頃、好きな女性がいました、プロポーズしよう思っていると、 自分の兄が先にプロポーズしたため、ジョゼッペさんは沈黙を通しました、し かし自分の想いをある木にハートマークとして刻み込んだのです、やがて数十 年が過ぎ、ジョゼッペさんも年老いて、兄は亡くなりました。ある日、ジョゼ ッペじいさんが人形を作るため森の中に入ると、木に刻んだハートマークが赤 く膨らみ、ドキドキと脈っていました、ジョゼッペじいさんはその木を切って 帰り、ピノキオを作りました、それからの話はアニメや絵本の通りです・・ そろそろ、次の演奏をやりましょうか、ピアノは佐藤美雪さん、ボーカルに中 島良夫さん、曲はテネシーワルツ・オールウェイズラヴユー・ムーンリバー」 62 東條と中島はステージに上がって、演奏を始めた。 演奏会も無事終わり、高野は東條や中島達を送り出した。店内では高野と佐 藤達とエリと藤子と田中が残って、残り物のピザでビールを飲み始めた。 「みなさん、今夜はお疲れ様・・こんなもので良かったかな」 「こんなもので? 何か不満? わたし達のピアノじゃ」 「不満じゃないけど、二人ともすごく上手なんで驚いたよ、中島さんもプロ並 の歌唱力だし、また来月やりましょう」 「そうね、毎週だっていいわよ、ギャラ一万円くれるんだったら」 「うん、わたしももっと練習して腕を上げておくね」 「ところで、どうしてこの人が隣りにいるの」 そう言いながら、藤子は隣りにいる田中を不思議そうに眺めた。高野は田中 に何か言うように目配せしたが、彼は何も言わなかった。 「田中、まだ何も言ってなかったのか」 「何よ、それ」 「藤子さんとデートしたいんだって」 「あら、そう」 藤子は田中にも高野にも素っ気無く返事した。 「田中、藤子が好きなんだろ、デートを申込めよ」 「人前でそんなこと言わないでくださいよ」 「せっかくお前のために苦労してライブ開いたのに」 高野は再び冷蔵庫から缶ビール四、五本を出して来た。 「お前みたいな男に藤子はもったいない・・藤子には僕みたいな、話上手で楽 しくて夢のある男がお似合いなんだ」 「何がお似合いよ、いつもお金がなくて、いつもウソばかり付いて、無責任で 浮気者で、挙句の果てにわたしを捨てて他の女と結婚して、田中君の方がずっ 63 と増しよ」 「じゃあ、デートしろよ」 「お断りよ」 「じゃあ、こうしよう、中島工業の印刷物を発注するから、田中に一度チャン スをあげてくれよ」 「あなた、中島工業の何なの、そんなこと決められるの」 「藤子さん、佐藤美雪が約束します、お願いだからデートしてあげてください、 藤子さんにもわたしみたいに幸せになってほしいんです」 「あなたに、幸せになってほしいなんて言われたくないわよ・・でも仕事の注 文は欲しいわね」 「じゃあ、デート成立だな・・日曜日の一時、天下茶屋駅で、二人ともわかっ たな」 高野はそう言うと、佐藤達と逃げるように店を出て行った。カウンターには エリと藤子と田中が残っていた。 「もう、優二のヤツ! 仕方ないわね」 「無理にデートしてくれなくていいんですよ」 「無口でおもしろくない男と一緒にいると疲れるのよね」 「お二人さん、コーヒーでも入れようか・・一度だけデートしてあげたら」 「仕方ないわね、一緒に映画観るだけよ」 エリはコーヒーを温めて直して、二人に差し出した。 第四日曜日、藤子と田中はミナミの繁華街を歩いていた。先週の寒波も少し 和らいで、日差しも暖かだった。 「どうして何も話さないの、わたしのこと嫌なの」 「いえ、嫌だなんて・・生まれて始めてのデートなんで」 64 「あなたもう三十歳でしょ、なのに初めてのデート? 疲れるわね、そういう 人は・・」 「ごめんなさい」 「それで、どうするの、これから」 「映画観ましょうか」 「温かい物、飲みたいわね」 「では、スターバックスに行きますか」 藤子は急に振り返って叫んだ。 「そこのバカ、出てきなさい!」 電柱の陰から高野が出て来た。 「何よ、人の後なんか付けたりして」 「そうじゃないよ、チーズケーキを買いに行く途中だ」 「ウソっぽい言い訳」 「田中、うまくやってるかい」 「はい、まあまあです、スターバックスに行くんですけど、一緒にどうですか」 藤子達は高野と三人でスターバックスに入って、カウンターに席を取った。 「後ろから見ていると、二人お似合いだよ、オーラ出てるよ」 「何? オーラって、体からにじみ出ている生命エネルギーだ、相性のいい二 人にはピンクのオーラが出るんだ」 「またいつものウソ話ね、いろいろ思い付くわね」 「田中、今日は何の映画を観るんだ」 「『 三 丁 目 の 夕 日 』」 「どんな映画だ」 「・・・・・」 「初めてのデートだから緊張して話せないんだって」 65 「誰だってそうだよ、特に藤子は美人だし余計に緊張するよな、二、三度デー トをしたら緊張もなくなるよ」 「またデートしなければいけないの」 「一度デートしてもらえただけで満足ですよ」 「なあ、藤子、田中は謙虚だろ、それが彼のいい所なんだよ、じゃあ、僕は行 くからね」 高野が店を出て行くと、和らいだ雰囲気がもとに戻った。話そうと思えば思 うほど、田中はくちびるが動かなくなった。藤子も一緒にいて気まずく思った。 しかし、二人は映画に行った。映画が終わった頃は夕方。二人は駅に向かう道 を歩いていた。すると、背後から近付いて来た男二人組みが、藤子のショルダ ーバッグをひったくって走り出した。田中はすぐに追いかけたが、道端に置い てある大きなゴミ箱につまづいて転倒し、バイクと衝突した。バッグをひった くった男達はバッグを田中に投げ付けて逃げ去った。藤子は彼に駆け寄った。 しかし、バイクに乗っていた女性もケガをしていた。藤子は救急車を呼び、彼 らと一緒に病院に行った。病院に行くと警察がすでに来ていて、しばらくして 高野と美雪が現れた。藤子は待合室で治療が終わるのを待っていた。 「わたしがちゃんとバッグを持っていたら・・」 「藤子さんのせいじゃないよ、あの田中がドジなんだ、バケツにつまづいて道 路に飛び出したんだって」 「ゴミ箱だけど」 「でも藤子さん、ケガがなくて良かったわね、藤子さんがケガしたらデートを させた優二さんの責任だから」 「どうしてバッグを投げ捨てて逃げたのかしら」 「ひったくりだけならともかく交通事故や傷害事件がからむと捜査が厳しくな るからじゃないか」 66 「そうかな、不に落ちないなあ」 しばらくすると、バイクの女性と田中が診察室から出て来た。バイクの女性 はかすり傷だったが、田中は頭部と腕を縫っていた。 「どうもすみません、迷惑かけました、バイクの修理はこちらに請求してくだ さい」 高野はバイクの女性に頭を下げた。そして、藤子と田中を乗せて、美雪の車 で家まで送ることにした。 「ごめんな、今日は僕のせいでこんな事になって」 「心当りがあるのね」 「あのひったくりの二人、僕が頼んだんだ、田中にいいところ見せさせてあげ ようと思って」 「あきれた男ね、田中も知ってたの」 「知らないよ、知ってたらあんなドジをしなかったよな、なあ、田中」 「でも田中君、わたしのバッグのために必死になってくれて嬉しかったわよ」 「じゃあ、ケガが治ったらまたデートしてくれる?」 「考えとくわ」 「ヤッター!」 「優二さん、まるで自分がデートするみたいね」 「田中も喜べよ、デート出来るんだぞ」 高野は無邪気に喜んだ。田中も彼に言われて喜んでみせた。 翌 日 、 午 後 、『 ボ ナ ー ル 』 に 一 人 の 女 性 が 入 っ て 来 た 。 深 紅 の ヘ ル メ ッ ト を 抱 え、紺色のライダースーツを着ていた。 「いらっしゃいませ」 「あのう、昨日ミナミで・・」 67 「あのバイクの方ですか・・エリさん、朝話した人」 「そうですか、ご注文はコーヒーで」 「はい・・バイクの修理代、いただけるんでしょうか」 「もちろんです、僕の責任ですから、いくらですか」 「バックミラー二つと、車輪のスポークが三本折れていて、一万円ほどなんで すけど」 「はい、すぐに支払ますよ、コーヒーでも飲んでください、手焼きクッキーも あるから」 「ごめんなさいね、ご迷惑おかけして」 「わたしの方こそ、修理代なんていただきたくないんですけど、お金が無くて、 バイクがないとバイトに行くのに交通費がかかりますから」 「ハイ、コーヒー入りました、クッキーも」 「あのケガした男の方、大丈夫ですか」 「大丈夫だよ、今日も仕事に行ってるから、今朝もここでコーヒー飲んで行っ たし、気にすることないから、あいつはバカだけどタフだから」 「わたしも前方不注意だったし、お見舞いに・・」 「駅前のショッピングセンターで警備員をしているんだ、三時頃巡回に行くは ずだから、そこに行けば会えると思うよ・・君、名前なんて言うの?」 「アオバショウコ、青い葉っぱに飛ぶという意味の翔子、青葉翔子、結婚式場 で働いているんです、バイトですけど」 三時前になると、青葉翔子は店を出て行ってショッピングセンターに向かっ た。彼女がそこでウインドショッピングをしていると、田中警備士が巡回にや って来た。彼女は彼に近付いて行って頭を下げた。 「あのう・・昨日はすみませんでした」 「昨日って、何のことですか」 68 「昨日バイクではねてしまって・・」 「ああ、昨日の女の人、いいんですよ、僕が急に道路に飛び出したからバカな んですよ」 「いつもこの時間見回りしているんですか」 「二時代か三時代には巡回していますけど」 「仕事のお邪魔をして失礼しました」 田中警備士は彼女と視線を合わそうしないで、周囲を見渡していた。少しの 会話だけで、二人は別々の方向に歩いて行った。田中警備士は巡回を続け、翔 子は喫茶店に戻った。再び彼女が店に入って来たので、高野は驚いた。 「忘れ物ですか」 「いいえ」 「田中と話したんですか」 「はい、ほんの少し」 高野は彼女の素振りを見て事情を察した。 「ココアでも飲む・・田中は彼女がいるんだ、僕が紹介したんだけど、横槍は 困るんだな」 「横槍だなんてそんなつもりは・・ただ・・」 二人が話しているところに、休憩していたエリが入って来た。 「そんなの優二さんの身勝手よ、誰を好きになろうと大きなお世話よ・・ねえ、 青葉さん、田中さんはまだ一度しかデートしていないのよ、それもデートの相 手は優二さんが頼んで無理にデートしているのよ、わたしから見ると、藤子さ んより青葉さんの方が田中さんにはお似合いかも」 「エリさん、余計な事をいうなよ、僕の顔がつぶれるだろ」 「ちょっと、二人とも・・わたし、何も言ってないんですけど、憶測で夫婦ケ ンカしないでください」 69 「わたし達はただの共同経営者です」 「そうだよ」 「わたしはただ、道路でぶつかって出会うなんて、運命的だなと思って、ちょ と興味を持っただけで、好きとかそんなのではなくて・・」 「翔子さんの言う通りよ、昔から袖擦り合うもタショウの縁というものね、多 かれ少なかれ縁があったから道路でぶつかったのよ」 「タショウの縁というのは、多少という意味じゃなくて、他生といって、前世 からの縁という意味だよ」 「それがどうしたの」 二人が口ゲンカを始めたので、翔子は帰って行った。次の日もその次の日も、 彼女は田中に会いに行っていた。 翌日の過ぎ、藤子が昼御飯を食べにやって来た。 「どうだい、田中との進展は?」 「毎日メール送ってくるわよ」 「どんなメール、ラブレター?」 「いいえ、また会いたいとか、どこに行こうとか」 「それでいつデートするんだ」 「うるさいわね、いちいち、大きなお世話よ」 「心配なんだよ、藤子が・・あのバイクの女性、田中に気があるみたいなんだ」 「いいじゃないの、その女性と付き合えば」 「何バカなことを言ってんだ、あんな女に男を取られていいのか」 「いいわよ、別に田中なんか好きでもないし」 「それならいいよ・・でもきっと後悔するよ、やっぱり田中が恋しいなんて」 「ムダ口聞いていないで早くピラフ作りなさいよ・・エリさんはどうしたの」 「昨日この事でケンカして、今日は有給休暇だそうだ、朝から僕一人でやって 70 るよ」 「何でケンカしたのよ」 「エリは田中には藤子より青葉翔子が似合いだと言うから」 「じゃあ、二人が付き合えばいいじゃないの、何も問題ないじゃないの」 「でも田中は藤子が好きだと言ってるし、藤子の幸せのためにもそれがいいし、 実は天使に頼まれたんだよ、藤子と田中を結婚させるように・・あれは一月の 始めかな、トイレから戻って来ると、一人の中年オヤジがカウンターに座って いたんだ、コーヒーを注文したからコーヒーを出していろいろ話をして、その 時、頼まれたんだ、その中年オヤジがドアを出て行く時、背中に透明の例の天 使の羽根がキラキラ輝いて見えたんだ・・」 「またウソ話が始まったわね・・天使だったら人に頼まなくても自分でやれば いいのよ」 「そんな屁理屈言うなよ・・ハイ、コーヒーとピラフ」 「コタロウはどうしたの、クンクンが聞こえないわね」 「エリと一緒に出かけたよ、エリのことを母親だと思ってるから、くっついて 離れないんだ、寝る時もベッドで一緒に寝ているよ」 「エリさんにも彼氏が出来て良かったじゃないの」 土曜日の十時頃、田中と翔子が入って来た。田中はブレザーを着ていて、翔 子も清楚な服装をしていた。 「マスター、今日は彼女とデートするんですよ」 「彼女とデート? じゃあ藤子はどうなるんだ」 「メール送っても返事はくれないし、振られたんでしょう、僕は・・彼女はあ れから毎日僕に会いに来てくれたんですよ、それでデートしようってことにな って、デートのために仕事まで休んで・・」 71 「まあいいけど・・藤子も田中も後悔するよ」 「良かったわね、翔子さん、あなた達お似合いよ」 「ありがとう、エリさん、バイクでぶつかった事が運命だと思ったんです」 「そうよ、運命と思える事が運命なのよ・・と隣りのオジサンが言ってわ」 「あのう、この間もらったバイクの修理代、お返ししたいんですけど、株でも うけたので、それと茂るさんのコーヒーチケット百枚と、合計四万円ですね、 コーヒーチケットの領収書をもらえますか、両親に見せておかないと」 「田中さん、コーヒーチケット買ってくれるって、百枚も、いいの」 「翔子さん、ありがとう」 「ハイ、領収書・・翔子さん、株やってるの」 「株といってもミニ株ですけど、父親が証券会社で勤めていて、高校生の頃か ら始めたんです、自分の必要なものはほとんど株で稼いだお金で買っているん です」 「じゃあ、結婚式場で働かなくてもいいじゃないか」 「結婚式場は母が経営しているからお手伝いに、ゆくゆくはわたしを経営者に しようと思っているらしくて」 「へえ、ちょっとしたお嬢様ね、翔子さんは・・隣りのオジサンはすごくお金 もうけが下手なのよ、だから貧乏なのよ」 「でも本を出しているんでしょ、読みましたよ、カッコいいですよね、きっと 売れっ子作家になれますよ」 「このオジサンでは無理よ」 「じゃあ、僕達、デートに行ってきます」 「お好きにどうぞ」 翔子と田中は出かけて行った。エリは二人の交際を自分のことのように喜ん だ。しかし、高野は不満だった。 72 「いい子じゃないの、わたしの予想通りね」 「フン、話が出来過ぎだよ・・最初に来た時は、バイクの修理代がないと言っ ておいて、今度は株でもうけたからお金があると言うのか・・つじつまが合わ ないよ」 「バイクの修理代がないというのは、田中さんに会うための口実だったのよ、 相変わらず女心がわからないのね、いいじゃないの、うまくいったんだから」 「何かおかしいな、あの女は・・」 二人が話しているところに、美雪と美咲が入って来た。 「おはよう、エリさん、もう機嫌が直ったの」 「直ったわよ、さっきね、田中さんと翔子さんが今日はデートだからって来て くれたのよ、それで株でもうけたからってコーヒーチケット百枚買ってくれて、 バイクの修理代も返してくれたのよ・・ハイ、お母さんにクッキー代二万円」 「ありがとう・・すごくいい子じゃないの」 「そうでしょ、でも優二さんは不満なのよ、田中さんと藤子さんをくっつけよ うと思っていたから、天使に頼まれたって」 「もういいよ、僕が間違っていたよ」 そう言っても、高野は自分の勘が間違っているとは思わなかった。そして、 翔子の素性を調べようと考えた。 日曜日は朝から美雪の部屋で、美雪と高野は絵本を作っていた。三月になっ たら絵本大賞に応募する目標があった。平凡な時間だが、二人にとって一番幸 せな時間でもある。美咲はピアノのレッスンに励んでいる。佐藤は庭でゴルフ の練習をしている。しかし、三時を過ぎると、ティタイムのためにみんなは居 間に集まった。 「美雪、賞に応募する絵本は出来たのか」 「大体ね」 73 「天使シリーズか」 「そうだけど、今度は香織ちゃんのことを描いているの、香織ちゃんの病気を 天使が救ってくれるの」 「天使が病気の子供を救うというのは安易じゃないのか」 「みなさん、紅茶が入ったわよ、今日のおやつはシュウクリーム、百二十円の が八十円なのよ」 美咲も紅茶とおやつを運びながら、話の中に入ってきた。 「救う方法を工夫すればいいんじゃないの」 「それは優二さんが考えてくれたの、香織ちゃんが病気を治るためには、天使 の三つの願い事を叶えなければならないの、でも天使はその願い事が何なのか 教えないの」 「中々いいじゃないか」 「さすが売れない作家ね」 佐藤家のティタイムは絵本の話で盛り上がった。 二月第一金曜日、再び田中と翔子が『ボナール』にやって来た。二人は腕を 組んで、すっかり恋人同士になっていた。 「僕達、結婚することにしたんですよ」 「へえ、もうそんなに話が進んでいるのか、今日で二回目のデートだろ、それ なのに結婚とはね」 「優二さん、余計な口は挟まないで、うまくいっているんだからいいじゃない の、あなたも初めてのデートでホテルに行ったりするんでしょ」 「ホテルに行くのと結婚の約束するのとは別だろ」 「優二のバカ!」 「エリのバカ!」 74 「あのう、わたし達のことで夫婦ゲンカをするのは止めてください」 田中と翔子は喫茶店を出ると、翔子が運転するバイクに二人乗りしてミナミ に行った。バイクを止めて、二人は裏道を歩いて行く。 「どこに案内してくれるんですか」 「ビリヤード・・やったことある?」 「ないけど」 「じゃあ、教えてあげる」 二人はある小さなビルの地下に下りて行った。看板も飾りもないドアを開け ると、入口からは予測できないような大きく豪華なビリヤード場があった。翔 子は受付に会員証を見せて、タイムカードを受け取った。 「平日の昼間は空いているけど、夜になれば満員になるのよ、隠れた大人の遊 び場かな」 「翔子さんは長いことビリヤードやってるんですか」 「まだ五年ぐらいよ、だからすごく下手だから笑わないでね」 二人はビリヤードを二時間楽しんだ。そして、ビリヤード場を後にした。 「田中さん、お腹空いたわね」 「そうだな」 「わたし、お昼御飯は決めてるの、それでいい?」 「翔子さんが好きな物なら何でも」 「田中さんって優しいんですね、好きになってしまいそう・・わたし昼はモス バーガーなの、お肉類は食べられないんだけど、モスバーガーだけは食べれる の」 二人はモスバーガーに入った。出来てきたバーガーセットを持って二階に上 がった。 「田中さん、一目ぼれって信じる?」 75 「ああ、信じるけど、僕も一目ぼれするタイプなんだ」 「そう、良かった、わたし、田中さんに一目ぼれなの、バイクでぶつかって、 一緒に病院に行って、田中さんが治療されているのを見て、感じたの、この人 だったって」 「・・・・・」 「でも、女はウソ付きだから簡単に信じたらダメよ」 「翔子さんが今言った事も信じてはダメなんですか」 「ええ、でも言葉に行動が伴っていたら・・」 「えっ」 「モスバーガー食べたらホテルに行こうよ」 「えっ、いいのかな」 「二度目のデートでホテルに行くからって、そういう女だと思わないでね、わ たしも一大決心なんだから・・実はわたし、親に見合いを勧められていて、で も見合い結婚なんてしたくないし、早く愛する人にめぐり逢いたいと願ってい たの、あの時もそんなことを考えていたからブレーキをかけるのが遅くなって 田中さんにはねてしまったの・・こんな事を言う女って変かな」 「変じゃないよ、翔子さんは純粋なんだなあ」 二人はモスバーガーを出て、散歩がてらに歩いていた。そして、ホテル街の 方へ足を向けた。ホテルに入り、二人は愛し合った。 それからしばらく田中は喫茶店に来なかった。コンビの吉弘だけが毎朝やっ て来るだけだった。田中は肺炎で休んでいるという噂だけ聞かされた。そして、 一週間が過ぎた二月の第三土曜日午後、田中は一人やって来た。 「よう、田中、病気してたのか、どうりでやつれているわけだ」 「はい・・」 「職場に復帰したのか」 76 「明日から戻ります」 「そうか、元気ないな、焼き肉でもおごってやろうか」 「翔子さん、あれからここに来なかったですか」 「いいや、あの時会ったきりだ・・お金、だまし取られたんだろ、顔に描いて いるよ」 「はい・・」 「えっ、ウソでしょ」 「いくら取られたんだ」 「銀行の預金全部・・三度目デートした時、翔子さんの株でもうけたお金を、 結婚資金として僕の口座に入れると言うから、一緒に銀行に預けに入って、そ の後ホテルに行って、あれが終わった後、寝込んでしまって・・」 「見事な手口だ、田中じゃなくてもだまされるよ」 「最初から詐欺師だと見抜いていたの」 「そんなことはわからないけど、ただ話がうまく出来過ぎてると思っていたよ、 運命がどうのこうのとか、株でお金を稼いでいるとか」 「悔しいわね・・あの女、探してあげてよ」 「探してもムダだ、どうせ暴力団がからんでいるだろ、預金だけで済んで良か ったと思えばいいんだ、殺されて山奥に埋められてたかも知れないぞ」 「そんな意地悪言わないで探してあげなさいよ、明日の午後から喫茶店の仕事 はしなくていいから」 「はい、わかりました・・田中、彼女の素性が知れる手がかりはないのか・・ パチンコをするとか、コミックが好きだとか、行き付けの店があるとか、ラー メン屋によく行くとか」 「デートの時、モスバーガーに行きました、肉は食べないけど、バーガーだけ は食べるって言ってました、それとビリヤード場にも」 77 「じゃあ、明日からモスバーガーの店とビリヤード場を一軒一軒回ってみるか、 もし見つかってもお金は戻って来るなんて期待するなよ」 翌日の午後から、高野は自転車でミナミ周辺にあるモスバーガーの店を尋ね 回った。しかし、本気で彼女を探し出そうというつもりはなかった。自分の金 銭問題で頭の中が一杯だった。そして、五時になると『ボナール』に戻った。 「どうだった、見つかったの」 「見つかるわけないだろ、モスバーガーに来るという保証もないし、もし見つ かったら奇跡だよ、でもミナミにいるように思うんだ」 「どうして」 「最初に会ったのはミナミだし、三度のデートもミナミだというし、その周辺 に生活圏があるんだろう」 「警察に訴えて、モンタージュを作って探してもらったら」 「女にお金を盗られたぐらいで捜査なんかしてくれないよ、一週間探して見つ からなかったら、もういいだろ」 次の日もその次の日も、高野は午後からミナミを探し回った。モスバーガー の店だけではなく、あらゆる店を探した。しかし、海に落とした硬貨を探すよ うで、何の手がかりも得ることが出来なかった。そうして、六日が過ぎ、七日 目になって、彼は彼女を見つけることが出来た。彼は彼女の後を付けていった。 彼女は高級マンションに入って行こうとしたが、二人は彼女の腕を掴んだ。 「ここであったが百年目だな」 「警察に突き出すの」 「いいや、被害届は出していないし」 「じゃあ、その手を離しなさいよ、警察を呼ぶわよ」 「いいよ、おれ達が被害届を出していなくても他の誰かが出しているかもな」 「お金を返せって言うの」 78 「そんなこと言わないよ、おれの金じゃないし、ただ本性を見たかっただけだ、 コーヒーのチケットあるから、気が向いたらまたコーヒーでも飲みに来いよ、 警察に捕まらないように用心しろよ」 「見逃してくれるの」 「カモにするならもっと金持ちを狙ったらどうだ」 高野は彼女を残して、喫茶店に帰って行った。エリは首を長くして待ってい た。 「今日はどうだったの、見付かったの」 「見つかるわけないだろ、一週間探したからもういいだろ、来週は演奏会だか ら準備もあるし」 「そうね、諦めましょう、でも悔しいわね、コツコツ稼いだお金をだまし盗る なんて」 「田中の身から出たサビというやつだ」 翌週の午後、青葉翔子が『ボナール』にやって来た。 「いらっしゃいませ・・あら、翔子さん」 「これ、茂るから盗み取った百万円、返すわ」 そう言って、翔子は封筒に入ったお金をカウンターに置いた。 「どういう風の吹き回しだ」 「警察に行かれたら困るもの」 「もうこれだけしか残ってないのか」 「いいえ、元々百万円程しかなかったのよ、警備会社で十年働いているという から三百万円はあると思ったのに」 「どういうこと、優二さん、本当は見つけていたの」 「まあね」 「ウソ付いたりして」 79 「明日、田中に返しておくよ・・もう詐欺師は辞めたのか」 「いいえ、三日やったら辞められないわよ、次はもっと金のある男を探すわ」 「金のある男はこの喫茶店には来ないな、ゴルフの練習場なんてどうだ、クラ シ ッ ク や ジ ャ ズ の コ ン サ ー ト 、」 「優二さん、詐欺の手解きをしてどうするの」 「コンサートなんかいいわね、金の無い人間がクラシックなんて聴かないもの ね」 「ピラフ、食べるか」 「ええ、いただくわ、店のおごりでしょ」 「どうして詐欺師なんかやってるんだ・・その話を聞いてもらいたいから来た んだろ」 「何もかもお見通しね」 「それほどでも」 「もともとはバイオリニストになりたかったのよ、でも才能がなくて、大学生 の時に挫折して、男と遊び回っている間に、財布からお金を抜き取るようにな ったの、悪い事をする時の快感って最高よね、それから両親の元を飛び出して マンション暮らしをするようになったの、一人で暮らすとたくさんお金がいる わよね、初めて詐欺をやったのは、バーで知り合った中年サラリーマン、不倫 相手になる振りをして、カードを財布から抜き取って、百万円下ろしてカード を元の財布に戻して、ハイ、サヨナラ・・」 「実際に男と寝るのか」 「寝るわよ、人の大切なもの盗むんだから、自分も何かあげないとね、それに 寝ないと信用されないから、男ってバカよね、一度寝たらこの女は自分のもの だと錯覚するんだから」 「今までよく警察に捕まらなかったな」 80 「ターゲットが中年サラリーマンで、不倫願望のある既婚者だから、中々警察 には行かないのよ、それ以外にも捕まらない秘策があるのよ」 「でも田中はターゲット外だろ」 「あれは偶然だったのよ、女と嬉しそうに歩いていたから悔しくて・・」 「なるほど、翔子の話、小説に書きたいな」 「小説も書くしピアノも弾くし、中々器用な男ね、書いてくれたらおもしろい 本が出来るわよ」 「ハイ、ピラフが出来たわよ」 「エリさん、ありがとう」 「あのピアノは妻とその母親が弾くんだ、毎月ここでミニ演奏会をやってるん だ」 「楽しそうね」 「次回は三月第一金曜日、翔子もバイオリンを弾かないか、ギャラは一万円」 「ギャラまでくれるの、いいわよ、弾いてあげても、楽譜さえあれば何でも弾 けるから、腕前は期待しないでね」 「じゃあ、契約成立だ、金曜日の六時に来てくれ」 翔子はピラフを食べると、帰った。 高野は久し振りにまっすぐ家に帰った。翔子を探すという名目で、この十日 間飲み歩いていた。しばらく機嫌が悪かった美雪も、今夜は機嫌が良くなった。 「優二さん、青葉翔子さんという人、見つかったの」 「見つかりましたよ、今日田中の盗まれたお金、返しに来てくれましたよ」 「偉いわ、優二さん、お金もうけの才能はないけど、お節介は天才ね・・田中 君から礼金もらいなさいよ、三割ぐらいもらったらどう?」 「お母さん、それは可哀想だ、一割ですね、百万円の一割だから十万円もらい ます、半分はエリさん、半分はここに渡しますから」 81 高野は冷蔵庫から缶ビールを取って来て、食卓に置いた。 「おめでたいから、お祝いしよう」 「今日の晩御飯は、お好み焼き、キャベツはわたしが刻んだのよ、にんじんも みじん切りにして入れたのよ、わたしのアイデアよ」 「そうそう、今月の演奏会、バイオリニストが来てくれるんだけど」 「すごいじゃないか、ねえ、母さん」 「その人、名前はなんて言うの」 「アマチュアだけど・・」 「だから、名前は?」 「青葉翔子」 「あの結婚詐欺師じゃないの、嫌だわ、そんなの」 「彼女は悪い女性じゃないんだ、付き合っていた男が悪くて、僕がちゃんと話 を付けて、彼女は悔い改めて詐欺から足を洗うと約束したから、盗んだお金も 返しに来たし、バイオリン弾いてもらうぐらいいいでしょ」 「優二さんはお節介にも程があるわ」 「母さん、いいじゃないか、悔い改めたって言っているんだから」 「最初は疑ったのに、今度は信じるの」 「お母さんにはギャラを倍にしますから・・お母さんのお陰で喫茶店の売上も 増えてきたし、ピアノも毎日練習してくれているし、お母さんはマンションの 常連さん達に人気があるし・・」 「ギャラ倍なら、いいわよ」 「翔子は音大出身で、楽譜さえあればなんでも弾けるそうです」 「それが本当だといいのにね」 「バイオリン名曲集の楽譜買って来ますから、それで練習お願いします」 82 翌朝、いつも通りに常連客がやって来た。マンションの六人、警備員の二人。 「みなさん、吉報ですよ・・田中さんの盗まれたお金が戻って来ました、今日 のコーヒー代は田中さんのおごりですから」 「エリさん、本当ですか」 「田中、本当だ、お金を預かっているから・・大変だったんだぞ、青葉翔子に はヒモがいて、ぶっ殺すぞ、と脅されて、でも警察には訴えないからという約 束でお金は返してもらった・・探すのにお金もかかったし、礼金三割寄越せと 言いたいけど一割でいいよ」 「お金戻って来たんですか、嬉しいな、どうぞ、一割でも二割でももらってく ださい」 「一割でいいよ」 田中は大喜びした。 「翔子はどうしているんですか」 「さあ、他の獲物を探しているんじゃないか」 「捕まえて警察に突き出した方がいいんじゃないですか、でないとまた犠牲者 が出ますよ」 「 警 察 に 行 か な い と 約 束 し た ん だ 、」 田中は不満そうにしていたが、それ以上何も言わなかった。 正午を過ぎると、藤子が昼食にやって来た。 「へえ、結婚詐欺師から田中のお金を取り戻したんだって、やるわね、防災セ ンターに注文の名刺を届けたら、噂してたわよ」 「僕も頼りになる男だろ」 「お金もうけは下手だけど、お節介は最高ね」 「藤子、田中とデートしてあげろよ」 「どうしてよ、人に恥をかかせて、二度とお断りよ」 83 「その気持ち、よくわかるけど、田中はプロのの詐欺師にだまされたんだ、毎 日自分に会いに来てくれたら情が湧いてくるよ、許してあげろよ」 「うーん」 「まあ聞けよ・・山村さんの子供は娘さんばかりだろ、後継ぎを作るためには 誰かが婿養子を取る必要がある、田中茂るは婿養子に最適だろ、正直で大人し くて働き者で顔もいいし、いいじゃないか」 「そこまで考えてるの」 「藤子が結婚して遠くに行ったら、寂しいじゃないか」 「善い事を言うと思ったら、結局そういうことなの、答えはノーよ」 演奏会のある三月第一金曜日。高野とエリは五時に喫茶店の仕事を済まして 片付けていた。五時を過ぎると、翔子がバイオリンと楽譜を持って現れた。 「早いじゃないか、翔子・・まだ片付けている最中なんだ」 「練習しようと思ってね、三日間たっぷり練習してきたんだけど、人前で弾く のは十年振りだし、ちょっと聴いてもらえるかな」 「いいよ、聴かせてもらおう」 翔子はバイオリンのケースから取り出すと、調弦を始めた。バイオリンケー スにはサインペンで、教育大学音楽部・青葉翔子と書かれている。高野はその 文字が色あせてるのを見て、彼女の話したことが本当のことだと認めた。 「何を弾くんだ」 「簡単なもので、ショパンの子犬のワルツでも」 「知ってるよ、その曲、どんなのか忘れたけど」 翔子はバイオリンを構えると、軽やかに弾き始めた。それはプロのコンサー トで聴くようなすばらしい演奏だった。そして、次々といろんな曲を演奏した。 高野もエリも思わず拍手を贈った。 84 「すごく上手じゃないか、驚いたよ」 「六歳からやっていたから、これぐらいは朝飯前よ、でもこの程度では、ソリ ストどころかオーケストラにも入れないのよ、コンテストに出ても予選落ちば かりで、両親に冷たくされて寂しいから男遊びするようになったのよ」 六時前になると、美雪と美咲がやって来た。高野は翔子と二人と気が合うか 心配したが、翔子の謙虚な態度は彼の不安を追い払った。 「佐藤さん、きょうはよろしくお願いします、人前で演奏するのは十年振りで、 いろいろ失敗すると思うんですけど」 「いいのよ、翔子さん、わたし達プロじゃないんだから」 「お母さんもわたしも大したことないんだから、お母さんの方がちょっと上手 だけどね・・ウフフ」 二人は翔子の低姿勢に気分を良くしていた。しばらくして、詩織が娘の香織 を連れて、料理を運んで来た。 「香織ちゃん、病院から出ていいの」 「先生は二時間ぐらいなら出ていいって言ってくれて」 「良かったねえ」 「高野さんのお陰です、あの気功の治療が効いているんです」 「この女の子、病気なの」 「そうなんだ、小児ガンなんだ」 翔子は香織に近寄って、親しげに声を掛けた。 「始めまして、青葉翔子です」 「お姉ちゃん、それ何?」 「これ、バイオリンと言って音が出るのよ、弾いてあげるね」 翔子はドレミと音階を弾いてみせた。 「わたしも大きくなったら弾けるかな」 85 「お姉ちゃんは小さい頃から弾いていたのよ、香織ちゃんももう少し大きくな ったら弾けるわよ」 「次の誕生日が来たら教えてね」 「いいわよ、お姉ちゃん、バイオリンを二つ持っているから一つあげるわね」 翔子は悲しげな顔をして尋ねた。 「こんな小さな女の子がガンになるの」 「そう、去年の秋には後半年の命と言われたんですけど、高野さんが気功師の 治療を受けさせてくれて、すごく元気になったです、けど・・」 「けど・・何なんですか」 「一回の治療に一万五千円もいるんです、オーナーの尾藤シェフもお金を貸し てくれたりするんですが」 「大丈夫だよ、何とかするから」 高野はそう言うもののお金は全く無かった。そこに翔子が口をはさんだ。 「良かったらこのお金を使ってください」 そう言うと、翔子はバッグから封筒に入れたお金を差し出した。 「見ず知らずの人からそんな大金もらえません」 「もらってもいいと思うよ、いろいろわけありだから」 「事情は高野さんから聞いていました・・わたし、詐欺師なんです、いいえ、こ の間まで詐欺師でした、でも高野さんと出会って生まれ変わろうと決めたんです、 明日からモスバーガーで働くんですよ、わたしのお金なんて男から盗んだものだ から使ってください」 「そういう事なんだ、遠慮なく使えば、香織ちゃんが大人になれば、その事を他 の誰かにしてあげればいいじゃないか」 「じゃあ、遠慮しながら、使わせていただきます」 「いいにおいがするなあ、今日の料理は何かな」 86 「今夜のは、オーナーのオリジナル料理で、エーゲ海春巻き、海の幸一杯! そ れと、身も心も温まる海鮮スープ」 「おいしそうだね、一つつまでいいかな」 「どうぞ味見してください、たくさん作ってますから・・みなさんもどうぞ」 料理の前に集まって、みんなは小さく切られた一切れを口に入れた。 「おいしいわ、また作り方教えてよ」 「ダメですよ、シェフの秘密ですから」 「ひょっとして、尾藤さん、黒田さんのこと、好きなんじゃないか」 「そんなこと・・わたしなんか・・後で寄ってみると言ってましたけど」 「じゃあ、後でゆっくり話をしよう」 しばらくすると、藤子が山村印刷の川崎益三、河合茂と一緒にやって来た。 「やあやあ、高野、久し振り、相変わらず競馬しているのか」 「してますよ・・喫茶店に昼を食べにきてくれたらいいのに、ピラフの大盛と コーヒーで五百円でいいから」 「他にサービスはないのか」 「エリさんのオッパイ触っていいから、服の上からだけど」 「そんなサービスがあるんだったら、来週から来るよ」 しばらくして、田中がやって来た。翔子を見ると、彼女に詰め寄ったが、彼 女に股間をけとばされた。高野は笑いながら、二人の間に分け入った。 「高野さん、大丈夫よ、田中なんかに負けないから」 「何という女だ」 「今夜のゲストだよ、失礼なことするなよ」 田中は渋々テーブルに着いた。それから、マンションの常連客が来て、近く の人達も来て、佐藤と飯田直子が来て、東條僧侶が来て、店内は満員となった。 そして、演奏会が始まった。高野はステージに立ってあいさつした。 87 「 と り あ え ず 料 理 召 し 上 が っ て く だ さ い ね ・ ・『『 ボ ナ ー ル 』』 の ミ ニ 演 奏 会 も 二 回 目 です、今日のメインはバイオリンで、軽クラシックです、演奏者は青葉翔子さ んです、六歳からバイオリンを習っていてすっごく上手です、曲目は彼女から 聞いてください」 翔子はバイオリンを持ってステージに上がった。 「わたしはモスバーガーの店員です、でも昨日まで詐欺師でした、それが高野 さんと出会って、カタギになるきっかけをもらいました、そして大好きなバイ オリンを人に聴いてもらえる機会ももらいました・・今日はチャイコフスキー の 『 白 鳥 の 湖 』『 く る み 割 人 形 』 の 中 の 有 名 な 曲 を 弾 き た い と 思 い ま す 」 演奏会は無事終わった。 「おれの子供もバイオリンを習わせたいな」 「プロにならなくても、弾けるだけでカッコいいもんな」 「でもお金かかりそうだな」 「良かったら、わたしが教えるけど」 「楽器が高いだろ」 「楽器もわたしが用意するけど」 「じゃあ、習わせようかな」 「こうしたらどう・・日曜日ここは休みだからここで教えたら、平日でも空い て時使ってくれていいし」 「楽器を付けて週一で月三千円、お手ごろじゃないか」 「バイオリンを習う人は手を挙げて・・四人ね、明日バイオリンを用意してお くから取りに来てね」 次 の 日 曜 日 の 午 後 、 翔 子 は モ ス バ ー ガ ー で の バ イ ト を 終 え て 、『『 ボ ナ ー ル 』』 に や って来た。彼女がドアを開けると、高野と美雪がコーヒーを飲んでいた。 「翔子さん、ドアの所見てくれた?」 88 「いいえ、何かあるんですか」 「『 翔 子 バ イ オ リ ン 教 室 』 と い う サ イ ン 作 っ た か ら 」 翔子は外に出てドアの横を見ると、バイオリンの形をした看板が掛けられて いた。 「わたしのために看板を作ってくれたんですか」 「いいや、この喫茶店の売上のためだよ・・佐藤家からの贈り物だ、気に入っ てもらえたかな」 「ええ、とっても」 「昨日楽器屋さんからバイオリンが届いているよ、一台四万円もするんだな、 余り無理するなよ」 「どうせだまし取った金だから、いいのよ」 「そういう言い方をしたらだまし取られた男が可哀想だろ」 約束の二時前になると、四人の子供達が入って来た。女の子が三人、男の子 が一人。高野と美雪は席を立って、ポケットから鍵を出した。 「 こ れ 、『 ボ ナ ー ル 』 の 鍵 、 後 は 閉 め て お い て く れ ・ ・ そ れ と 、 お 母 さ ん が レ ッ スンが終わったら食事に来るようにって、四時半頃に美雪が車で迎えに来るか ら」 「一緒にお風呂に入ろうよ・・ウフフ」 二人は喫茶店を出て、佐藤家に戻った。 「お母さん、ただいま・・翔子さん、真面目にやってるよ」 「良かったわね、詐欺師から足を洗って、これも優二さんのお手柄ね」 「みんなの理解と協力があったからですよ」 高野はそう言ったものの翔子を信じ切っていなかった。彼女はもっと大きな 詐欺を働くだろうと警戒していた。四時を過ぎると、美雪は車で彼女を迎えに 行き、高野は料理の手伝いをしていた。今夜は鍋料理だった。彼は野菜や椎茸 89 を刻み、大皿に盛り付けた。 「今入るところだ・・」 美雪と翔子が『ボナール』から戻って来た。 「お母さん、戻って来たよ、翔子さん、ケーキ買ってくれたのよ、一つ五百円 のモンブランよ」 「翔子さん、ケーキありがとう、あそこのモンブラン、大好きなのよ」 美咲は彼女を出迎え、居間に案内した。 「大きなお家ですね」 「幸夫さんのお父さんが建ててくれたんだけど、まだ十年もローンが残ってる のよ」 「でも家が大きいとたくさんで住めていいですよね、佐藤さんの家庭は理想的 ですよ、美雪さんに子供が出来たら三世帯同居なんですから」 「お父さんがお風呂から出たら、美雪と一緒にお風呂に入ってね」 美咲以外の入浴が終わると、みんなは食卓に着いた。 「父さん、お祈り、お願いします」 「主よ、今日は善き事がありました、一人の迷える者が自分の道を見付け、歩 き始めました、もう迷うことがないように道を照らしてあげてください、卓に 並ぶ主の恵みに感謝します、アーメン」 「アーメン」 祈りの言葉が終わると、それぞれのグラスにビールが並々と注がれた。翔子 には大勢で食事するのは久し振りの経験だった。 「今夜は鯛ちりよ、美雪は鯛が大好きなの」 「お鍋なんか久し振り」 「翔子さんの両親はお元気なの」 「多分・・わたし、二十歳の時家出してから、両親とは会っていないから」 90 「その話、優二さんから少し聞いたけど、良かったら話してみて」 「父親は普通のサラリーマンでした、母親は公務員で、普通の家庭でした、両 親はどちらもクラシックが好きで、子供の頃は音楽の方に進むのが夢だったよ うです、ところが家庭が貧しくてピアノもバイオリンも続けることが出来なく てあきらめたそうです、大人になった父と母は、コンサートで出会って、同じ 境遇の二人は意気投合して結婚し、自分の子供はピアニストかバイオリニスト にしようと誓ったそうです」 「自分の夢を子供に託すというのはよくある話ね、わたしも美雪にデザインや クッキー作りを教えたけれど・・それでどうしたの」 「わたしも音楽が大好きで、バイオリンのレッスンに熱中したんですけど、プ ロを目指している人達とわたしでは、全然能力が違うんですよね、コンテスト に出てもいつも予選落ち、それを両親はわたしの努力が足りないからだと言う んです、大学二年の時、ついに両親とケンカして家出したんです、夜遅く街を ブラブラしていると、年配の男に声を掛けられて、ホテルに付いて行って、男 がシャワーを浴びている間に財布からお金を抜き取って逃げたんです、それが 詐欺師への道の始まりです」 「両親に会いたいとは思わないの」 「時々会いに行っているんです、遠くから父や母の顔を見て、元気だなって安 心するんですけど、詐欺師のままじゃ帰ることもできないし・・あの日、高野 さんに見つかって、でもわたしを責めないでいてくれたから、わたしの気持を わかってもらえるかなと思って喫茶店に行ったら、やっぱり高野さんはわたし のことをわかってくれて、人生をやり直そうと決意したんです」 「きっと胸を張って両親と会える日が来るわよ」 「そうだとも、みんなで応援するからな、今夜は泊まっていったらどうだね」 「ありがとう、でも仕事は朝六時ですから」 91 「そんなに早いの」 「はい、六時から十三時まで、午後からやりたい事があるから」 その時、電話のベルが鳴った。美雪が電話に出て、高野に取り次いだ。 「優二さん、文芸作家社の山田さんから電話です」 「何の電話だったの」 「四月に出版されるそうです」 「優二君もこれで作家だな」 「一応わね、本が売れるかどうか問題ですよ、本が売れて映画になったら最高 だね」 「本って何なんですか」 「優二さん、小説を書いているのよ、美雪のことを書いた恋愛小説『雪のクリ ス マ ス 』、 そ れ が 出 版 社 か ら 出 る こ と に な っ た の 」 良い事がたくさん起きた。しかし、高野の悩みが解決されたわけではなかっ た。相変わらずお金の支払いに困窮する日々だった。午後二時になると、翔子 がやって来た。 「モスバーガーはもう終わったのか」 「ええ、終わったわ、午後はここでバイトさせてもらうから」 「バイトって、僕達も暇なのに」 「クッキーの注文を取りに行こうと思うの」 「そうね、何でもやってみようよ」 「ここのクッキーおいしいでしょ、五百グラムづつ袋に入れて」 「それなら手間が掛からないし、いいアイデアかもね」 「パソコンでチラシ作ってよ」 「いいよ、一時間ほどくれたら」 92 彼がチラシを作ると、翔子は試食用のクッキーとチラシを持って店から出て 行った。翔子は近くの小さな会社を回った。最初に回ったのは、会計事務所。 年配の女性事務員が出て来た。 「ごめんください・・そこの『ボナール』という喫茶店ですけど」 「何か御用ですか」 「手作りクッキーの試食に回っているんですけど、ちょっと食べていただけま せんか」 翔子はそう言うと、サンプルのクッキーとチラシを渡した。そして、次の会 社に回った。五時までに彼女は二十社ほど回った。彼女が喫茶店に戻ると、注 文のファクスが一件あった。 「お疲れさま、注文が一件あったわよ」 「そう、良かった」 四月になると、高野の本は出版され、大阪中の書店に並ぶようになった。第 二日曜日、高野と美雪は彼の本を買うためにキタの大型書店に行ってみた。 「優二さん、すごくカッコいい!」 「本当に作家になったみたいだ」 「優二さんは作家よ」 彼の本は文芸コーナーの片隅に置かれているだけだったが、彼の自尊心は満 足していた。二人でしばらくその近くにいて、自分の本が売れるかどうか見て いたが、買ったのは自分達だけだった。レジで清算する時、店員に彼は尋ねた。 「この本、売れていますか」 「何冊か売れましたよ、わたしもこの本、読みましたけど」 「ありがとう、僕が書いた小説なんだ」 店員は彼の言葉に反応しなかったが、彼は気分が良かった。それから、二人 93 はいろんな大型書店を回って、自分の本の存在を確認した。ミナミ書店に行く と彼の本を立ち読みしている女性がいた。彼は横から声を掛けた。 「その本、おもいしろいですか」 立ち読みしていた彼女は、振り返って彼を見た。 「この物語は実話なんですかね」 「違いますよ・・実話はもっと感動的な話なんですよ」 美雪が答えた。 「だったら、その話を書けば良かったのに」 「でも出版してから、そうなったんだ」 「この本について詳しいんですか、話を聞かせてもらいたいんですけど」 「いいですよ」 彼は彼女の申し出に応じて、店内の喫茶室に入った。そこで、美雪と高野は 彼女から名刺を受け取った。彼女は女性誌の書評を書いているフリーライター だった。 「カワノフミコさんですか・・始めまして、高野優二と妻の佐藤美雪です」 「本の作者なんですね」 「そうです、それと主人公高山です・・注文はコーヒーでいいかな」 「はい、ごちそうしてくれるんですか・・だったらケーキもお願いします」 「いいですよ」 高野はウエイトレスにコーヒーとケーキを注文した。 「わたし、女性誌で書評書いていて、こうして新刊の本は全て目を通している んですよ」 「 そ う で す か 、『 雪 の ク リ ス マ ス 』 は い い 本 で す か 」 「それほどでも、ただ実話か創作かわからなくて、判断しかねていたところで す、作り事という個所はわかるんですが、ラストシーンのクリスマスで出会う 94 というところが本当かどうか」 「 そ の 本 の 初 版 は 2003 年 十 月 な ん で す が 、 ク リ ス マ ス で 出 会 う ふ た 月 前 に 出 版したんです・・本当は、実際の話もクリスマスに出会うはずだったんですけ ど、僕の母が十一月十七日に倒れて入院し一月九日に他界するのですが、その 事で彼女とはクリスマスに会えなかったんです」 「クリスマスに会うつもりで書いていたんですね、それで、実際はどうなった んですか」 「彼女は彼が、つまり僕が来ると信じて、毎日毎日公園で待っていたんですけ ど、急性肺炎と胃潰瘍で大晦日に倒れたんですよ」 「わたし、救急車で病院に運ばれて、そこで死んじゃったんです、でも天使が やって来て救ってくれたんです」 「それは僕も知らなかったよ」 「今まで誰にも言わなかったから・・わたし、血を吐いて高熱で倒れると、お 父さんは救急車を呼んだんですけど、わたしは多分意識不明になったと思うん です、気が付くと雪の中にいて一人で泣いていたんです、そこに白い服を着て 羽 根 の あ る 天 使 が や っ て 来 て 、『 美 雪 は し な け れ ば な ら な い こ と が た く さ ん あ るから命を大切にするんだよ』と言ってわたしの手を引いて空に飛び上がった んです、意識が戻ると病室のベッドにいて、両親が椅子に座ってわたしを見つ めていました、わたし丸三日間意識不明だったそうです」 河野文子はアイスコーヒーを一口飲み、しばらく考えていた。美雪の話の信 憑性を疑っていたのだ。 「その話を、書評と共に掲載していいでしょうか」 「いいですよ、本の宣伝にもなるし」 「それには、交換条件があるんですけど」 「応じられる事だったら応じますけど」 95 「雑誌に広告を載せてほしいんですけど、半ページで八十万円、この不景気で 広告を受注するのも大変なんですよ」 「優二さん、わたしの預金を使っていいから広告載せましょうよ・・増刷した らその印税で返してくれたらいいから」 「そうしよか・・じゃあ、交換条件に応じます」 「掲載の件はまだわたしの考えなので、企画が通るかどうか、明日でも連絡し ます」 高野と河野は連絡先を交換して別れた。 「ヤッタわね、女性誌に紹介されるとミリオンセラーも夢じゃないわね」 「そうだね、大金稼いで一花咲かそうか・・でも美雪ちゃんもウソ話うまくな ったね」 「天使の話、あれは本当のことよ」 「まあ、いいけど」 二人は家に戻る途中、第三市民病院に寄った。香織のいる病室をのぞくと、 香織は元気そうに他の子供の患者と話をしていた。二人が中に入って行くと、 みんなは二人を注目した。 「香織ちゃん、また絵本買って来てあげたわよ」 「絵本だけ?」 「クッキーも買って来たわよ、今日はエンジェルクッキーじゃないけど」 美雪はみんなを集めると、クッキーを食べさせながら、絵本を読んで聞かせ た。日曜日に訪問する彼女は、子供達の人気者になっていた。高野は病室の隅 でクッキーをほうばりながら、彼女達が楽しそうにしているのを眺めていた。 二時間程病院にいて、三時頃二人は家に帰った。居間では佐藤がハーブティを 飲みながら、ゴルフ中継を見ている。 「優二君、本は売れていたのか」 96 「うん、出版社の人が修正してくれているからすごく上手な本になってるのよ」 「そこそこ売れていたみたいです・・女性誌の書評を書いているフリーライタ ーと知り合って、本の書評を掲載してくれるそうなんです、明日連絡がありま すけど」 「へえ、それは付いてるな・・君は実力はないけど、本当に運が良い男だな」 「お父さん、実力はないは余計よ、運も実力の内なんだから」 翌日の午後、河野文子から連絡があった。二ページに渡り『雪のクリスマス 』の書評などを載せるということだった。 四 月 第 三 土 曜 日 、『 ボ ナ ー ル 』 か ら 戻 っ た 高 野 は 門 を く ぐ る い な り 、 美 雪 に 抱 き付かれた。 「どうしたの」 「ついに赤ちゃんを授かったわよ」 「やったね!」 彼も彼女を抱きしめ返した。彼女が妊娠して嬉しいというよりも、彼女の喜 んでいる顔が嬉しかった。 「お父さんとお母さんがお待ちかねよ、祝杯挙げようって」 居間に入ると、笑顔の両親がいた。 「優二君、ありがとう、いよいよ孫の顔が拝めるよ」 「今日から出産が終わるまで、みんなにはお酒を止めてもらいますから、美雪 はコーヒーもダメよ、それと性行為もダメ」 「キスだけならいいでしょ」 「いいけど、エスカレートしないようにね・・優二さんは美雪に心配かけるよ うな行動は慎んでね、例えば浮気とか無駄遣いとかお節介とか」 「はい、わかりました、今まで以上に慎みます」 97 彼はそう返事したものの、その返事は心の伴わないものだった。 「ハイ、どうぞ・・今夜からノンアルコールビールよ」 食卓に並んだグラスに飲み物が注がれた。 「お父さん、今夜はわたしがお祈りの言葉を言うから」 「じゃあ、美雪に頼むよ」 「お祈り、始めます・・神様、天使様、すばらしい贈り物、感謝します、赤ち ゃんは大切に育てます、それと、今日も御飯が食べられることを喜びます、ア ーメン!」 「アーメン!」 「乾杯しようか・・乾杯!」 四人はグラスに注がれた飲み物を一気に飲み干した。 「どうだい、このノンアルコールビール、わが社の新製品なんだ」 「本物のビールには及ばないけど、まあまあですね、アメリカのビールよりう まいですよ」 「美雪の出産が終わるまでこれで我慢しよう」 「わたしに遠慮しないでビール飲んでもいいのよ、家の外ならね」 美雪は 「赤ちゃんは男の子かな、女の子かな」 「女の子よ、わかるの・・だからミサキという名前にしたから、美しく咲くと 書くのよ」 「良い名前じゃないか」 「ただ一つ不安があるのよ・・ちゃんと髪の毛があるかなって」 「美雪、大丈夫よ、そんな心配しないで、神様にお任せでしょ」 「そうか、別にハゲでもいいか・・ウフフ」 98 五 月 末 、『 雪 の ク リ ス マ ス 』 の 書 評 と 広 告 を 載 せ た 『 女 性 時 代 』 が 発 売 さ れ た。高野は『ボナール』のカウンターで雑誌のページをめくっていた。カウン ター越しにエリが雑誌をのぞき込んだ。 「どう? 誉めてくれているの」 「もちろん、作者の僕より作品に詳しいよ、これなら本が売れそうだな」 「わたしにも読ませて・・写真まで載ってるじゃないの、中々いい男に写って るわね・・これで喫茶店のお客さんも増えるといいのにね」 高野もエリも雑誌をはさんで上機嫌になった。そこに河野文子が訪ねて来た。 「いっらしゃいませ」 「あっ、この人が河野さんだ」 「どうですか、書評は?」 「すごく気に入ってるよ、十二月まで広告を掲載させてもらうから」 「本当ですか」 「本当ですよ」 「優二さんもいよいよ作家の仲間入りね」 「 め で た い ね ・ ・『 フ ィ レ ン チ ェ 』 で 凱 旋 パ ー テ ィ や ろ う か 、 六 月 中 頃 に 、 ち ょ うど『ボナール』開店一周年だし」 「そんな無駄遣いしていいの」 「いいよ、幸せはみんなで分かち合わないとね」 「河野さん、優二さんの本、売れそうですか」 「わたしの経験では、大した経験ではないんですけど、十万部位は売れるでし ょう」 「十万部だと印税は千五百万円かあ・・優二さん、偉い!」 「偶然だよ、美雪ちゃんに出会ったこと、詩織さんに出会ったこと、河野さん に出会ったこと、運が良かっただけだ」 99 「そうよね・・ハイ、河野さん、コーヒー入ったわよ・・ハイ、優二さんも」 河野はコーヒーを味わいながら、話を切り出した。 「ところで、いい話があるんですけど」 「これ以上のいい話があるのかな」 「ええ、わたし達の雑誌で『雪のクリスマス』を全面的に応援するから、印税 の半分をいただけないかな、わたしと編集長に」 「というと・・」 「『 女 性 時 代 』 で 企 画 の シ リ ー ズ を や っ た り キ ャ ン ペ ー ン を や っ た り し て 本 が 売 れ る よ う に 協 力 す る か ら 利 益 供 与 を し て 欲 し い の 、『 女 性 時 代 』 は 発 行 部 数 は八万部ですけど、美容院やエステや女性が集まる所で購入されているから発 行部数の十倍以上読まれていると思うんです」 「悪い取引じゃないな、いつもそういうズルをしているのか」 「まさか・・この間喫茶店で話したでしょ、あなたの人間性、おもしろそうだ から、ひょっとしたらブームになるかなと思って」 「本心を言えよ」 「 実 は 、『 女 性 時 代 』 も 廃 刊 に な り そ う で す か ら 、 退 職 金 代 わ り に ひ と 稼 ぎ し ておきたいなあって、編集長と話しているんですよ」 「いいよ、お任せするよ」 「じゃあ、契約成立ね」 彼の本は、雑誌の支援があって再版を重ねていった。 平穏無事というより、幸運に恵まれた半年余りが過ぎ、十二月になった。 翔 子 は 夏 か ら モ ス バ ー ガ ー で の ア ル バ イ ト を 辞 め 、『 ボ ナ ー ル 』 の ウ エ イ ト レスをしていた。また、日曜日ごとに『ボナール』で子供達にバイオリンを教 えていた。始めた頃は生徒四人だったが、今では八人に増えている。練習が終 100 わる頃、美雪は彼女を迎えに行った。そして、戸締りをして車に乗り込んだ。 「翔子さんは車の免許持ってないの」 「持ってないわよ、わたし、詐欺師でしょ、免許なんて取ってると足が付くか ら、バイクの免許も偽造なのよ」 「わあ、すごい、まるでスパイみたい」 車が家に着くと、二人は早速美咲の食事の支度を手伝った。 「今夜は手巻き寿司だから、たくさん食べてね」 夕食が終わっても、みんなはケーキを食べながら、夜遅くまで歓談していた。 そして、翔子はいつものように美雪の部屋に泊まった。翌朝、五時過ぎに高野 はトイレに行くために目覚めた。翔子が寝ている部屋をのぞくと、彼女のもう いなかった。そこにメモが残されている。 『今日は予定があるので、お先に失礼します、夕べは特に楽しかったです』 彼は何の予定か気にも留めなかった。いつもと同じ朝が始まり、みんな仕事 に出かけた。ところが、昼過ぎ美咲から『ボナール』に電話が入った。 『どうしたんですか、お母さん、そんなに慌てて』 『お金が全部無くなっているのよ』 『どういうことですか』 『今買い物するのにお金を下ろそうとしたら、下ろせないの、残高確かめたら 数千円しかないの、他の銀行のカードも試したらそれも同じ・・すぐ家に帰っ て来て!』 「エリさん、大変だ、翔子にお金を盗まれたみたいだ」 「本当?」 「すぐ帰るから、お店のこと頼むよ」 彼はすぐに家に戻った。家に着くと、警察官が三名来ていた。 「優二さん、お帰り・・今警察の人に事情を話してたところなんだけど・・ 101 銀行のキャッシュカードとか無事なのにどうしてお金が下ろされたんでしょ」 「多分・・金庫からカードを盗み出してコピーしておいたんでしょう」 「でも、寝室にある金庫はダミーで、本当の金庫は別の所にあるのよ」 「一度ダミーの金庫を開けてみて、何も無かったから本当の金庫を探し出した んでしょう」 「優二さん、先週印税振り込まれたんでしょ」 「僕のお金も全額盗まれていました」 「わたし達、まんまとだまされたわけね」 「とにかく被害届けを書きましょう」 「もっと詳しい事情も伺いたいし」 警察官達は話に入ってきた。 「みなさん、お掛けになってください、コーヒー入れますから」 高野は事の経緯を詳しく話した。話を聞いた警察官は、金庫やピアノから指 紋を採取したり、携帯電話で撮った写真をコピーしたりした。 「一応これで引き上げます・・指紋の照合をするためにご家族全員の指紋も取 りたいのですが、他の人にも後で交番まで来ていただけますか」 「はい、もちろん何でも協力します」 警察官達が帰った後、しばらくして仕事を早退した美雪と佐藤が家に戻って 来た。高野は美雪が落胆していると思って心配していたが、彼女は意外に落ち 着いていた。ソファーに座ると、大きなお腹をさすりながら笑顔を見せていた。 「ごめんね、美雪ちゃん、僕があんな女に係わったばっかりにこんなことにな って、お金は必ず取り戻すから」 「優二君、いいんだ、私達は幸せ過ぎたんだ、少し位不運な事があってもいい じゃないか」 「でも、大金を盗まれたんですよ」 102 「優二さん、父さんがいいって言っているからいいじゃないの、後は警察に任 せましょう、捕まるのも捕まらないのも、神様の思し召しよ」 みんなからそう言われると、高野は益々翔子を捕まえたくなった。自分の自 尊心を踏みにじった彼女を許せなかった。 「取り合えず交番に行って指紋を取ってもらいましょう」 夕方になって、四人揃って交番に出向いた。 次の日から、高野は青葉翔子を探し始めた。自分の行動が家族の意志に反し ているのを心苦しく思ったが、そうしなければならない衝動の方が大きかった。 今まで彼女と交わした会話を思い返し、彼女の居所を知る手掛かりを得ようと 試みた。しかし、過去の会話の中から、確かな手掛かりは得られなかった。一 つ思い当たることは、バイクに愛着を持っているということだけ。彼は翔子を 探すより彼女の愛用バイクを探すことにした。中央区のマンションを、北から 南へと一棟一棟調べて回ったが、彼女のバイクは見つからなかった。夜になる と、彼は美雪に電話をかけた。 『優二さん、今どうしてるの、喫茶店に行かなかったんでしょ』 『行かなかったよ、朝から翔子を探しているんだ』 『警察に任せておいたら、早く戻って来てよ』 『絶対探し出してみせるよ』 『バカなことは止めて、もうすぐ赤ちゃんが生まれるのよ、不安だからそばに いて・・お母さんが話があるそうだから替わるわね』 美咲が電話に出てきた。 『警察に任せるように言ったでしょ、どうして聞いてくれないの、お願いだか ら美雪のそばにいてあげて』 『・・・・・』 103 『金庫から翔子の指紋は出なかったの、お金を引き出したのは大柄な男だった し』 『その男は翔子が変装しているんだ・・探し出すまで帰らないから』 彼はそう言って電話を切った。電話を切ってから彼は自分の言葉に気付いた。 『変装しているのは、近くにいる証拠だ』 彼はミナミの映画館の裏通りにあるカプセルホテルに入った。部屋を確保し、 入浴を済ませると再び街に出た。コンビニでアンパンと缶コーヒーを買い、ア ンパンをほうばりながら昼間と同じようにマンションを探し歩いた。歩き回り ながら、自分の行為を後悔していた。佐藤家の面々を思い浮かべると、歩き回 っている自分がみじめに思えて来る。十二月の街は、華やかで賑やかだった。 そんな中にいると、寂しさが込み上げてきた。彼は帰ろうと思って、私鉄電車 に乗った。佐藤家に戻ると、美雪が快く出迎えてくれた。 「おかえり、御飯は食べたの」 「まだだけど、何かある?」 「今夜はお好み焼きだったの、帰って来てもいいように焼いておいたから、す ぐ温めるわね」 門をくぐって家の中に入ると、玄関先に美咲が立っていた。 「すごいわね、もう見つけたの」 「いいえ、やっぱり探すのをあきらめました」 「絶対探すと言ったじゃないの、探し出すまで戻って来ないで」 そう言って彼を追い払おうとした。 「お母さん、ひどい、せっかく帰って来たのに」 「母さん、何もそんなに目くじらを立てることじゃないだろ」 「優二さんは美雪の気持なんか全く考えていないのよ、いつも自分のやりたい 放題、もうすぐ赤ちゃんが生まれるというのに」 104 「優二君もお金を盗まれたことを責任を感じているんだ」 二人が言い争うのを聞きながら、高野は黙って玄関のドアから出て行った。 すぐに美雪が後を追って飛び出してきた。 「行かないでよ」 「どこにも行きはしないよ、出産の予定日はいつ?」 「クリスマス頃!」 「それまでには戻って来るから、毎日朝晩電話するからね、今はミナミのカプ セルホテルに泊まっているから」 「お金はあるの、無かったら言ってね、貸してあげるから」 「あるよ」 「泣いていい?」 「いいよ」 「・・・・・」 「・・・・・」 美雪は彼の胸の中でしばらく泣いていた。 「冷えるから家の中に入った方がいいよ」 「うん」 彼女が家の中に入るのを確かめて、彼はカプセルホテルに向かった。家の中 に入った美雪は母親に歩み寄った。両親はすでに言い争いを止めてソファーに 掛けていた。 「どうして追い出したのよ」 「お腹の赤ちゃんのためよ、心配事がこうじて万一の事があったらどうするの」 「美雪、今母さんと話し合ったんだ、出産が終わるまで争い事は禁止だ、優二 君は楽しい男だけど、いろいろ問題も起こす、しばらくは外にいてもらおう、 この話はこれぐらうにして、ソファーでココアでも飲みながらスポーツニュー 105 スでも見よう」 「うん」 美雪は納得していなかったが、臨月の状態で両親に逆らうことは出来なかっ た。母親が入れたココアを飲みながら、気持を鎮めようとしていた。 カプセルホテルに戻った彼は、ベッドに入って、もう一度翔子とのことを思 い返した。彼はどうしても翔子がミナミにいると思えてならなかった。 クリスマスが間近に迫っていた。美雪は両親の反対を振り切って高野に会い に行った。約束の時間の正午に、あの公園で、彼はベンチに座って待っていた。 「今日は少し寒いね」 「うん」 「体調はどう?」 「大丈夫、ただ寂しいだけ」 「朝晩電話をしてるのに」 「電話じゃダメなの、そばにいてくれないと」 「わかってるけど」 「翔子さんは見付からないんでしょ、両親に謝って戻って来てよ、予定日まで 後三日よ、美月ちゃんの顔見たいでしょ」 「見たいよ、もちろん」 「これから一緒に帰りましょ」 「今日は寒いから鍋焼きうどん食べようか」 「うん、一緒に帰ってくれるわね」 彼は何も答えないまま、駅ビルのうどん屋に入った。昼食時で混雑している けれど、個室に席を取った。 「僕も帰りたいと思うけど、帰りそびれたから、美雪ちゃんが病院に入ったら 106 戻る口実が出来るから」 「いいわ、わたしが病院に入ったら付き添ってね」 「約束するよ」 「明日も鍋焼きうどん、食べたいなあ」 「いいよ、公園で待ってるから」 うどん屋を出ると、彼はタクシーで彼女を家まで送った。門の前まで来ると、 美咲が出迎えた。二人は小言を言われると予測したが、美咲は何も言わず、彼 女を家の中に入れた。高野はミナミに戻って、翔子の探し続けた。マンション の駐輪場を一つ一つ探し回った。このひと月足らずの間でミナミのマンション は全て回った。それを再び一から回り出した。しかし何の成果も得られないま ま、その日も終わった。翌日の正午、彼はいつもの公園に行った。美雪が小さ なカバンを抱えてベンチに寒そうに座っている。 「早かったね」 「うん、お母さんと言い合いしたの、それで家出してきたの、取り合えずクリ スマスまでホテルに部屋を取っておいたから、一緒に泊まってくれると嬉しい な」 「ありがとう、一緒に泊まるよ・・鍋焼きうどん、食べに行く?」 「うん、お餅も入れてくれるかな」 「うどん食べたら、映画に行こうか」 「わたしもそう思っていたの」 「その前にお母さんに電話しておいた方がいいよ、心配していると思うよ」 昨日と同じように、うどん屋に入り個室に席を取った。 「お餅、おいしいよ、二つあるから一つあげる」 「ありがとう」 「 そ う そ う 、『 ボ ナ ー ル 』 に は 行 っ て る の 、 毎 朝 行 っ て る よ 、 何 も し な い け ど 、 107 今は学校が冬休みだから女子高生のバイトを入れているんだ、売上が大部上が ったらしいよ」 二人はうどん屋を出ると、電車でミナミに向かった。年末商戦でにぎやかな ストリートを映画館に向かって歩いた。 「どの映画が観たいの」 「『 サ ン タ ク ロ ー ス 3 』・ ・ 知 っ て る ? 」 「知ってるよ、1と2も映画館で観たから」 映画を観た後、二人は全日空ホテルに行った。夕食にはまだ早く、二人はベ ッドに転がった。 「こうして一緒に寝るのは久し振りね」 「三週間振りかな」 「十七日振り、その間キスも無し、お触りも無し」 「興奮するとお腹の子供に悪いだろ」 「我慢している方が体に悪いわよ」 「じゃあ、少しだけ」 「うん、少しだけ」 彼は彼女に寄り添って、キスをし愛撫した。行為の後、彼女は眠り込んだ。 一時間余りで、街は夜へと変わっている。彼はベッドから出て窓辺に行き、大 きなクリスマスツリーが飾られている通りを眺めていた。すると、そのクリス マスツリーを見ている通行人の中に青葉翔子が紛れていた。彼は急いで部屋を 出て、ホテルからそのクリスマスツリーがある通りに向かった。翔子はまだク リスマスツリーを見ている。彼は距離を置いて、彼女の様子を伺った。しばら くすると、流れていたクリスマスソングが終り、彼女は歩き出した。そして、 御堂筋を北上して、心斎橋を西に向かった。彼女は新築のようなマンションに 入って行った。彼はマンションの中まで追いかけることは出来なかったが、居 108 所がわかっただけで満足していた。来た道を引き返しながら彼は美雪に電話を した。 『どこに行ってたの? またいなくなったと思って心配したわよ』 『映画の雑誌を買いに本屋さんに来てるんだけど、何か買って帰るもの、ある かな』 『うん、たまごクラブ買って来て』 『わかった、晩御飯はどうする?、コンビニのおにぎりでいいから、それとド ンベエもお願い』 『わかった、三十分で帰るから』 書店に行き、コンビニに寄り、彼はホテルの部屋に戻った。美雪は窓からイ ルミネーションやネオンサインを眺めている。 「美雪ちゃん、ただいま」 「お帰り、ドンベエ買って来てくれた?」 「買って来たよ、ヌイグルミ当てようと思ってるんだろ、この間ヒヨコちゃん も当てたし」 「うん」 「食事の用意をするから、ソファーに座って」 「うん、御飯を食べたらお風呂の用意もお願いね」 「いいよ」 彼はドンベエに湯を注ぎ、お茶を入れ、食事の支度をした。 「明日はどうする? 実は翔子を見付けたんだ、明日は警察を行くんだけど」 「わたしも一緒に行きたい」 「お腹の子供に悪影響だからダメだよ」 「じゃあ、ホテルで待ってるから、明日は何の日か知ってる?」 「クリスマスイブで誕生日で結婚記念日だろ」 109 「うん、プレゼント、期待してるからね」 「その期待に応えるためには翔子からお金を取り度すことだよ」 「お金戻ってくるかな」 「さあ、わからないけど、お母さんにはまだ報告しないでくれよ」 翌日、彼は朝から警察署に行った。捜査に来てくれた警察官に会って、事情 を話した。 「話はわかるが、その女の犯行という証拠は無いんだよ」 「その女の仕業とわかり切っているのに、参考人として事情徴集することも出 来ないんですか」 「うーん、そうだな、任意同行に応じてくれたらいいんだけどな」 「わかりました」 彼はそう告げて、警察署を後にした。そして、その足で翔子のいるマンショ ンに向かった。郵便受けの名前を見てみたが、彼女らしい名前はなかった。彼 はマンションの入口から少し離れて、翔子が出入するのを待った。昼まで待っ てみたが、彼女の出入はなかった。彼はホテルに戻った。ロビーの喫茶室に美 雪が座っているのを彼はすぐに見付けた。 「翔子さんの事はどうだったの」 「証拠がないから連行出来ないって」 「ダメねえ、警察って」 「自分で捕まえて自供させるよ」 「危ない事は止めてね・・明日クリスマスイブだから、みんなのプレゼント買 わなくては、お買物付き合ってね」 「いいよ、でも大丈夫? そんな大きなお腹で歩き回って、クリスマスが予定 日なんだろ」 「初産の時は遅くなりやすいんだって、まだ何の気配もないみたいだし、少し 110 は 運 動 し た 方 が い い の よ 、『 た ま ご ク ラ ブ 』 に 書 い て あ っ た わ よ 」 軽い昼食を済ますと、二人はデパートに買物に出かけた。クリスマスプレゼ ントを買い込んで、両手一杯の荷物を抱えてホテルの部屋に戻ったのは夕方。 「たくさん買ったね、ココア入れるからね」 「うん」 「晩御飯はどうする?」 「おにぎりとドンベエでいいわ、余り食欲もないし」 「じゃあ、ココア飲んだら買って来るから・・夜出かけていいかな」 「翔子さんの所に行くんでしょ」 「ダメ?」 「反対しても行くんでしょ、仕方ないわね」 「絶対お金取り戻すから、もし帰りが遅くなったら先に寝ていていいから」 夜になると、彼は宅配業者の制服に着替えて、荷物を持ち、ホテルを出て行 った。翔子のいるマンションに入り、郵便受に名前のない部屋を一軒一軒ドア を叩いて回った。そして、十数軒目に彼女の部屋にたどり着いた。ドアのチェ ーンを素早く切り、中に押し入った。彼女は観念したように抵抗するのを止め た。 「よくここがわかったわね」 「偶然見つけたんだ、家賃三十万円か、中々いい部屋だな」 「何の用なの」 「お金を返すんだったら乱暴なことはしないけど」 「わたし、お金なんて盗んでいないわよ、借金取りに追われていたから逃げた だけよ」 「そんな白々しい言い訳、ヘドが出そうだね」 「帰らないと仲間を呼ぶわよ」 111 「どうぞ、ソファーの上のバッグの中に携帯電話あるんだろ」 彼は台所の冷蔵庫からビールを持って来て、飲み始めた。すると、彼女はバ ッグから銃を取り出した。 「物騒な物を持ってるな、ワルサーPPKか、銃口が空いてないね、モデルガン だろ」 「何もかもお見通しね・・所持金の全部あげるから見逃してよ」 「いくらあるんだ」 「一千万円ほど」 「そのお金を元手にして他の金持をだまそうと計画しているんだろ」 「その通り!」 「佐藤家の預貯金とか本の印税とか三千万円以上あったはずだ、本当に一千万 円しかないんだな」 「本当よ」 「一応部屋の中、全部改めさせてもらうから、捜す間、お前をベッドに縛り付 けておくから」 「疑り深いのね、逃げたりしないわよ」 彼女をベッドに縛り付けて、彼は家捜しを始めた。 「今どんな男を狙っているんだ」 「外資系の保険会社の社長、陰であくどい事しているのよ」 「あくどい事をして稼いでいるヤツなら、盗んでも罪悪感が無いっていうわけ か」 「そういうこと!」 「泥棒は泥棒だ」 彼は彼女と言葉を交わしながら、家捜しを続けた。一通りの家捜しを終える と、ビデオデッキから一千万円を見つけ出した。 112 「こんな所に隠すとはねえ・・じゃあ、返してもらうよ」 彼はそういうと彼女を縛り付けているヒモを解いた。 「お金だけでいいの」 「おれを誘惑して味方にしようって考えだろ」 ヒモを解かれて自由になった彼女は、彼をベッドに押し倒した。二人は時間 過ぎるのも忘れて愛し合った。気が付くと、零時を過ぎていた。 「こんな時間か、帰らなくては」 「泊まって行かないの」 「美雪ちゃんが待ってるからね・・また子供達にバイオリンを教えに来いよ、 みんな寂しがっているよ」 「わたし、子供は嫌いだから辞めておくわ」 彼は一千万円のお金を持って、彼女の部屋を出た。零時を過ぎても、祝日の 街はにぎやかだ。深夜を感じさせない程の人通りがある。いつの間にか雪が降 っていて、薄っすらと積もっている。彼は缶コーヒーを飲みながらホテルへの 道程を急いだ。 美雪は眠らないで彼の帰りを待っていた。ソファーを窓辺に移動させて、彼 が歩いて来そうな歩道を眺めていた。彼の姿が視界に入ると、彼女は出迎えに ロビーまで降りた。そして、玄関から歩道に向かった。彼は交差点から彼女の 姿を見付けて、手を振った。彼女は彼のそばをに急ごうと走り出してしまった。 その時、雪に足を取られて車道に飛び出し、ホテルの駐車場から出て来た車に 跳ねられた。大きなブレーキ音が通りに響いた。道路に横たわる彼女の周囲に 何人もの通行人が集まった。彼は走りながら、119に電話をした。 「美雪、大丈夫か、すぐ救急車が来るからな」 彼は話し掛けるが、彼女は何も応えない。彼は自宅にも電話をした。 「はい、佐藤です」 113 「お母さん、高野です・・実は、美雪ちゃんが車に跳ねられてケガをしたんで す、今救急車を待っているんですが・・」 「すぐ行くから・・搬送先の病院がわかったらすぐに連絡をちょうだい」 救急車はやって来て、救急隊員が下りて来た。 「臨月なんですか」 「はい・・」 「外傷はないみたいだな・・衝突のショックで気絶しているんだろう」 「取り合えず、大野病院に搬送しよう、産婦人科もあることだし」 救急車は病院に向かった。医療室に運ばれ、彼は待機していた。そこに佐藤 夫婦は駆け付けてきた。 「美雪の容態はどうなの?」 「今検査中です」 「どうして、こんな夜中に交通事故に遭ったの」 「・・・・・」 「その話は後にしよう・・今は美雪のために祈ろう」 「あなたはいつものん気でいいわね」 美咲の険悪な表情に高野はろうばいした。三人は待合室のソファーで重苦し い時間を過ごした。二時間程して、医療室に入っていた医師が出て来た。 「どうなんですか、娘は?」 「心停止です」 「心停止って、どういう意味ですか」 美咲は狂ったように泣きわめいた。 美雪は大きな河の岸にある花園で、缶コーヒーを飲んでいた。なぜそこにい るのか、いつからそこにいるのか、彼女はわからなかったが、不思議とも思わ 114 なかった。そこに若い男がやって来て彼女の隣りに腰を下ろした。 「この缶コーヒー、すごくおいしい」 「そうかい」 「あなた様は神様なんですか」 「いいや、人間の言葉で言うと天使かな」 「わたし、死んだんですか」 「いいや、だが肉体はかなりダメージを受けている」 「赤ちゃんは死んだんですか」 「いいや、死なせないために私がやって来たんだ」 「無事産まれたんですか」 「まだだ、だが時間が来ると産まれるはずだ、クリスマスの未明ぐらいに」 「ヤッター! 早く会いたい」 「赤ちゃんの名前は?」 「 美 し い 月 と 書 い て 、『 美 月 』」 「いい名前だ・・美月、出ておいで」 若い男がそう言うと、彼の背後から彼女に良く似た女の子が出て来た。 「お母さん、初めまして・・車に跳ねられて、美月もすごく痛かったのよ、お 母さんはそそっかしいから事故には気を付けてね」 「うん・・母さんの所においで」 「いいよ、ひざの上に乗ってあげる」 「あっ、すごく温かくて優しい!・・ありがとう、産まれて来てくれて」 美雪はしばらく美月を抱きしめていた。 「天使様、ここは天国ですか」 「いいや、佐藤美雪の心の中だ、私達はテレパシーみたいなものでコンタクト している」 115 「そう?・・わかった!・・わたしが助かる代わりに誰が死ぬんですね、お父 さんかお母さんか優二さんか」 「どうしてそんな事を考えるんだ」 「神様は時々意地悪をするから」 「そんな事はしないぞ」 「何の交換条件もないんですか」 「もちろんじゃないか」 「良かった!」 「他に質問はないのか」 「うん」 「じゃあ、元気になるまでゆっくりお休み」 「お母さん、また後でね」 天使と女の子は歩いてきた道を戻って行った。 美雪は病室に眠っていた。コーヒーの香りが漂ってくる。香ばしいトースト の匂いもする。夢から覚めたように彼女は目を開いた。 「お母さん!」 「あっ! 戻って来たの」 「優二さん、わたしの赤ちゃんは?」 高野はベッドの横で朝食を食べていた。彼女がよみがえったのを見て、看護 士を呼んだ。 「美月ちゃんはお母さんが育てているよ、すぐに病院に来てもらうから」 「うん」 彼女はベッドから下りようとするが、動くことが出来ない。 「どうして動けないの」 116 「今は一月二十五日なんだ、ひと月も意識不明になっていたんだよ」 彼は彼女を抱きかかえて窓から外の景色を見せた。東の空に真っ赤な大きな太 陽が昇り始めている。 「一緒に夜明けのコーヒー飲もうか」 117
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