「わたしぐらいの年齢に」逃げこむことを拒むプレイ

 トランペットのメイナード・ファーガソンが青山のブルーノート東京にでているのを新聞でしった。
懐かしくなって、でかけていった。
メイナード・ファーガソンは、たっぷり一時間半も、お得意のハイ・ノートをきかせてくれた。思
わず、懐かしくなって、と書いてしまったが、メイナード・ファーガソンの力のこもったプレイをき
いていたら、懐かしくなって、と思ったことがもうしわけなくなった。メイナード・ファーガソンは
一九二八年生まれである。しかし、そのプレイは、あいかわらず情熱的で、だしおしみなどすること
なく、思うぞんぶん吹きまくっていた。Tシャツにおおわれた太鼓腹をつきだしながら、顔をしかめ
てハイ・ノートをヒットさせるメイナード・ファーガソンを、ぼくはほれぼれとみとれた。
ぼくがメイナード・ファーガソンのプレイをはじめてきいたのは、ご多分にもれずというべきであ
ろうが、一九五〇年代前半の、スタン・ケントンのバンドのメンバーだった頃のレコードによってで
あった。当時のスタン・ケントンのバンドには、アルト・サックスのリー・コニッツとか、トロンボ
ーンのフランク・ロソリーノ、あるいはトランペットのコンテ・カンドリ、ギターのサル・サルヴァ
ドルといった名手たちがいた。
スタン・ケントンのバンドの代表作のひとつである、一九五二年に録音された「ニュー・コンセプ
ツ・オブ・アーティストリー・イン・リズム」には、「ギターとトランペットのためのインヴェンシ
ョン」というナンバーがあった。そこで、メイナード・ファーガソンは、ギターのサル・サルヴァド
ルとわたりあって、颯爽とした、切れ味の鋭いプレイをきかせていた。指をおってみて気づくのは、
一九五二年といえば、四十年ちかくも前で、当時のメイナード・ファーガソンはまだ二十四歳の若さ
であった。
それから後、メイナード・ファーガソンはスタン・ケントンのバンドを離れ、ときに十三人編成で
あったり、ときに十六人編成であったりしたビッグ・バンドを結成して、精力的に活動してきた。ビ
ッグ・バンドを維持しつづけるために必要でもあったであろうし、彼のもってうまれたサービス精神
も関係してのことではあったであろうが、メイナード・ファーガソンのバンドは、ききての好みを感
じとりつつ、ジャズ・ロック的な傾向を示したり、映画の主題歌をとりあげたりしながらも、常にエ
ネルギッシュな音楽をきかせてきた。
メイナード・ファーガソンのバンドがジャズ・ロック的な傾向を示していた一九七五年に録音され
たアルバムに「PRIMAL SCREAM(日本盤のタイトルは「クロスオーバー・ファーガスン」
となっていた)」があった。このレコードで、メイナード・ファーガソンは、レオンカヴァルロのオ
ペラ「道化師」でうたわれる「衣裳をつけろ」を演奏していた。妻に裏切られた道化師の男によって
うたわれる、悲痛な表情の、しかしとびきりのメロディによったアリアを、メイナード・ファーガソ
ンは彼の楽器であるトランペットでうたいあげ、大いに泣かせてくれた。その二年後に来日したとき、
メイナード・ファーガソンのバンドは、このアリアをとりあげて、二十分ちかくも、華麗な演奏をく
りひろげた。 今回のブルーノート東京での演奏は、六人編成のコンボによっていた。そういえば、
すこし前にでたメイナード・ファーガソンの新しいディスク「ハイ・ヴォルテージ2」におさめてあ
ったのも、コンボによる演奏であった。
メイナード・ファーガソンは、スタン・ケントンのバンドで仕事をしていたということも関係して
のことであろうが、長いことビッグ・バンドで彼の音楽を展開してきた。しかも、メイナード・ファ
ーガソンのバンドは、アメリカで、特に若い人たちの間に支持者が多い、ときいたことがあった。そ
のように人気のあるメイナード・ファーガソンでさえ、新しいディスクをコンボで録音せざるをえな
いほど、この時代にはビッグ・バンドとしてやっていくのが難しくなった、ということかもしれなか
った。
ブルーノート東京におけるメイナード・ファーガソンの、力のこもった演奏に大いに感銘をうけな
がらも、できることなら、メイナード・ファーガソンの演奏はビッグ・バンドでききたいな、と思っ
たりもした。しかし、メイナード・ファーガソンは、そのようなききての勝手な思いこみをはねのけ
るかのように、若いミュージシャンたちのいきのいいプレイをさらに煽りたてるような、衰えなどと
いうものが微塵も感じられないプレイをおこなった。
わたしぐらいの年齢になりますと、ということばは、しばしば、ある程度の年齢に達した人たちが
若干の逃げ口上のニュアンスもこめて口にする。このことばは、おそらく、一度いってしまうと、後
は楽であろう。メイナード・ファーガソンは、すでに、わたしぐらいの年齢になりますと、というこ
とばを口にする資格のある年齢に達している。にもかかわらず、彼のきかせたプレイは、「わたしぐ
らいの年齢に」逃げこむことを拒んだところでなりたっていた。
だからといって、メイナード・ファーガソンが、薄気味悪く若づくりした音楽をやっていたという
ことではなかったし、つきでた太鼓腹を隠そうとしていたわけでもなかった。メイナード・ファーガ
ソンのプレイは、ビッグ・バンドでやっていくのが難しいのなら、ぼくはぼくなりのやりかたでしっ
かりジャズをやらせてもらう、とでもいいたげな気概の感じられるものであった。そのようなメイナ
ード・ファーガソンのプレイにはおのずと、若き日にスタン・ケントンのバンドできたえられ、その
後も常にひのあたるところでジャズをやってきた男ならではのジャズ・スピリットが輝いていた。
ききてにおもねるのは容易である。時流に流れるのも容易である。これはだれにでもできる。しか
し、メイナード・ファーガソンのように、自分を裏切らずにききてを楽しませつづけようとしたら、
並大抵ではないエネルギーを必要になる。メイナード・ファーガソンは、還暦をすぎた今となっても、
わたしぐらいの年齢になりますと、といったようなおさまったことを口にしたりしないで、まさにメ
イナード・ファーガソン的サービス精神を発揮し、堂々と現役をはっている。
いかにも陽気に、磊落にプレイしているようにみせながら、しっかりジャズをきかせたブルーノー
ト東京のメイナード・ファーガソンをきいて、なぜかわけもわからず目頭があつくなった。
*シグネチャー