琴のそら音 ﹁珍らしいね︑久しく来なかったじゃないか﹂と津田君 ランプ が出過ぎた洋燈の穂を細めながら尋ねた︒ ひざ が し ら 津田君がこう云った時︑余ははち切れて膝 頭 の出そ そう ま やき うなズボンの上で︑相馬焼の茶碗の糸底を三本指でぐる ぐ る 廻 しな が ら 考 え た ︒ 成 程 珍 ら し い に 相 違 な い ︑ こ の 正月に顔を合せたぎり︑花盛りの今日まで津田君の下宿 を 訪問 し た 事 は な い ︒ き ﹁来よう来ようと思いながら︑つい忙がしいものだか 5 ︱ ら ﹂ して見せる︒ い う︒気のせいか当人は学士になってから少々肥った様に ﹁成程少し瘠せた様だぜ︑余程苦しいのだろう﹂と云 や 津田君はこの一言に少々同情の念を起したと見えて いち ごん 余 は 茶 碗 を 畳 の上 へ 置 い て ︑ 卒 業 が 恨 め し い と 云 う 顔 を てしまう︒勉強どころか湯にも碌々這入らない位だ﹂と ろく ろく は ﹁まあ大概その位さ︑家へ帰って飯を食うとそれなり寝 ちとは違うからね︑この頃でもやはり午後六時までかい﹂ ﹁そりあ︑忙がしいだろう︑何と云っても学校に居たう 6 しゃく さわ ひま 見えるのが 癪 に障る︒机の上に何だか面白そうな本を ペー ジ 広げて右の 頁 の上に鉛筆で註が入れてある︒こんな閑 う らや ま があるかと思うと 羨 しくもあり︑忌々しくもあり︑同 時に 吾身が 恨め しくな る︒ あ い かわ ら ず ﹁ 君 は 不 相 変 勉 強 で 結 構 だ ︑ そ の 読 み か け て あ る本 は 何 ていねい す こぶ かね︒ノートなどを入れて大分叮嚀に調べているじゃな いか﹂ や ﹁これか︑なにこれは幽霊の本さ﹂と津田君は 頗 る平 は 気な顔をしている︒この忙しい世の中に︑流行りもせぬ 幽 霊 の 書 物 を 澄 ま し て 愛 読 す るな ど と い う の は ︑ 呑 気 を 7 ぜいたく さ た ︱ どうも毎 だん な 方が気楽でいい様だ︒あれでも万事整頓していたら旦那 せい とん ﹁ あ ん ま り 主 人 ら し い 心 持 も しな い さ ︒ や ッ ぱ り 下 宿 の った質問をする︒ と津 田君は幽 霊を研究するだけあって心理作用に立ち入 は︒一戸を構えると 自 から主人らしい心持がするかね﹂ お のず ﹁そうだったね︑つい忘れていた︒どうだい新世帯の味 が幽霊になりそうな位さ︑考えると心細くなってしまう﹂ 日芝から小石川の奥まで帰るのだから研究は愚か︑自分 ﹁僕も気楽に幽霊でも研究してみたいが︑ 通 り 越 し て 贅 沢 の 沙 汰だ と 思 う ︒ 8 や かん かな だ ら い の心持と云う特別な心持になれるかも知れんが︑何しろ しん ち ゅ う 真 鍮 の薬罐で湯を沸かしたり︑ブリッキの金 盥 で顔を 洗ってる内は主人らしくないからな﹂と実際のところを 白状する︒ ﹁それでも主人さ︒これが俺のうちだと思えば何となく 愉快だろう︒所有と云う事と愛惜という事は大抵の場合 おい に 於 て 伴 な う の が 原 則 だ か ら ﹂ と津 田 君 は 心 理 学 的 に 人 の心を説明してくれる︒学者と云うものは頼みもせぬ事 、れ 、る 、者である︒ を一々説明してく うち ﹁俺の家だと思えばどうか知らんが︑てんで俺の家だと 9 思いたくないんだからね︒そりゃ名前だけは主人に違い う かが ﹁成程真理はその辺にあるかも知れん︒下宿を続けて すぐ不平の後陣を繰り出す積りである︒ 表して相手の気色を 窺 う︒向うが少しでも同意したら︑ け しき 殖えるばかりだ﹂と深くも考えずに浮気の不平だけを発 な ら な く っ ち ゃ 愉 快 は な い さ ︒ 只 下 宿 の 時分 よ り 面 倒 が あね︒主人になるなら勅任主人か少なくとも奏任主人に ところが見事な主人じゃない︒主人中の属官なるものだ たがね︒七円五十銭の家賃の主人なんざあ︑主人にした ないさ︒だから門口にも僕の名刺だけは張り付けて置い 10 いる僕と︑新たに一戸を構えた君とは自から立脚地が違 すこぶ うからな﹂と言語は 頗 るむずかしいがとにかく余の説 と に 賛 成 だ け は し て く れ る ︒ こ の 模 様な ら も う 少 し 不平 を つかえ 陳列しても差し 支 はない︒ ま うずらまめ ﹁先ずうちへ帰ると婆さんが横綴じの帳面を持って僕の こん にち 前へ出てくる︒今日は御味噌を三銭︑大根を二本︑ 鶉 豆 りん を一銭五厘買いましたと精密なる報告をするんだね︒厄 介極まるのさ﹂ よ ﹁厄介極まるなら廃せばいいじゃないか﹂と津田君は下 宿人だけあって無雑作な事を言う︒ 11 いい ﹁僕は廃してもいいが婆さんが承知しないから困る︒そ からぬ事だ︒ いかん 由に働き得ると考えているらしい︒心理学者にも似合し う ゃ宜かろう﹂津 田君は外部の刺激の如何に関せず心は自 よ ﹁ そ れ じ ゃ あ ︑ 只 う ん う ん 云 っ て聞 い て る 振 を し て い り ただ を聞かないんだからね﹂ いがあってはなりません︑てって頑として主人の云う事 がん で︑御台所を預かっております以上は一銭一厘でも間違 云うと︑どう致しまして︑奥様のいらっしゃらない御家 うち んな事は一々聞かないでもいいから好加減にしてくれと 12 しか す お かず つい ﹁然しそれだけじゃないのだからな︒精細なる会計報告 あ が済むと︑今度は翌日の御菜に就て綿密なる指揮を仰ぐ のだから弱る﹂ こしら ﹁見計らって調理えろと云えば好いじゃないか﹂ めい り ょ う ﹁ところが当人見計らうだけに︑御菜に関して明 瞭 な る観念がないのだから仕方がない﹂ ﹁それじゃ君が云い付けるさ︒御菜のプログラム位訳な いじゃないか﹂ た やす ﹁それが容易く出来る位なら苦にゃならないさ︒僕だっ あした 、お 、つ 、け 、の て 御 菜 上 の 智 識 は 頗 る 乏 し い やね ︒ 明 日 の 御 み 13 実は何に致しましょうとくると︑最初から即答は出来な ﹁そんな困難をして飯を食ってるのは情ない訳だ︑君が 困 難だ ﹂ の困難で︑考え出した品物に就て取捨をするのが第二の 選択をしなければならんだろう︒一々考え出すのが第一 聞 か れ る と ︑ 実に な り 得 べ き 者 を 秩 序 正 しく 並 べ た上 で 、お 、 ﹁味噌汁の事さ︒東京の婆さんだから︑東京流に御み 、け 、と云うのだ︒先ずその汁の実を何に致しましょうと つ 、お 、つ 、け 、と云うのは﹂ ﹁何だい御み い 男な んだ か ら ⁝ ⁝﹂ 14 す き 特別に数奇なものが無いから困難なんだよ︒二個以上の こう お 物体を同等の程度で好悪するときは決断力の上に遅鈍な わざわざ る影響を与えるのが原則だ﹂と又分り切った事を態々む ずかしくしてしまう︒ ﹁味噌汁の実まで相談するかと思うと︑妙な所へ干渉す るよ﹂ ﹁へえ︑やはり食物上にかね﹂ ﹁うん︑毎朝梅干に白砂糖を懸けて来て是非一つ食えッ て 云 う ん だ が ね ︒ こ れ を 食 わ な い と 婆 さ ん 頗 る 御 機嫌 が 悪いのさ﹂ 15 ﹁食えばどうかするのかい﹂ よけ るんだからな﹂ に は 出来 な い さ ﹂ ﹁なんて君まで婆さんの肩を持った日にゃ︑僕は 愈 主 いよいよ あるので維持せらるるのだから︑梅干だって一概に馬鹿 ﹁成程それは一理あるよ︑凡ての習慣は皆相応の功力が すべ 一般の習慣となる訳がないと云って得意に梅干を食わせ 出さない所はない︒まじないが利かなければ︑こんなに 理由が面白い︒日本中どこの宿屋へ泊っても朝︑梅干を ﹁何でも厄病除のまじないだそうだ︒そうして婆さんの 16 たた 人らしからざる心持に成ってしまわあ﹂と飲みさしの巻 たばこ 烟草を火鉢の灰の中へ擲き込む︒燃え残りのマッチの散 る中に︑白いものがさと動いて斜めに一の字が出来る︒ ﹁とにかく旧弊な婆さんだな﹂ ばばあ ﹁旧弊はとくに卒業して迷信婆々さ︒何でも月に二三返 でん ずう いん は伝通院辺の何とか云う坊主の所へ相談に行く様子だ﹂ ﹁親類に坊主でもあるのかい﹂ こ づ かい ﹁なに坊主が小 遣 取りに占いをやるんだがね︒その坊 主が又余計な事ばかり云うもんだから始末に行かないの ふさが さ︒現に僕が家を持つ時なども鬼門だとか八方 塞 りだ 17 おおい から極めた訳さ﹂ にん せん 越 す と 云 う 三 日 前 に 例 の 坊 主 の 所へ 行 っ て 見 て 貰っ た ん ﹁人間は慥かに相違ないが迷信には驚いた︒何でも引き 預った婆さんだから 慥 かなもんだろう﹂ たしか ﹁それなら君の未来の妻君の御母さんの御眼鏡で人撰に おっ か ら大丈夫だ独りで留守をさせても心配はないと母が云う ひと だからね︒実はあの婆々も四谷の宇野の世話で︑これな ﹁雇ったのは引き越す時だが約束は前からして置いたの ﹁だって家を持ってからその婆さんを雇ったんだろう﹂ とか云って 大 に弱らしたもんだ﹂ 18 か ない だそうだ︒すると坊主が今本郷から小石川の方へ向いて はな は 余計な事じゃないか︑何も坊主の癖 動くのは 甚 だよくない︑きっと家内に不幸があると云 ︱ ったんだがね︒ もう ごん にそんな知った風な妄言を吐かんでもの事だあね﹂ しか ﹁ 然し そ れ が 商売 だ か ら 仕 様 がな い ﹂ らち ﹁商売なら勘弁してやるから︑金だけ貰って当り障りの しゃべ ない事を喋舌るがいいや﹂ とが つけた ﹁そう怒っても僕の咎じゃないんだから埓はあかんよ﹂ たた ﹁その上若い女に祟ると御負けを附加したんだ︒さあ婆 さん驚くまい事か︑僕のうちに若い女があるとすれば近 19 ま じ め ちょっと い か くだ これは説明が出来悪いと一寸眉を寄せる︒余はわざと落 にく 聯想さえ浮ばんが﹂と津田君は如何に得意の心理学でも れん そう ﹁犬の遠吠と婆さんとは何か関係があるのかい︒僕には 家の近辺で野良犬が遠吠をやり出したんだ︒⁝⁝﹂ とお ぼえ ﹁まるで御話にも何もなりやしない︒ところで近頃僕の ﹁何だか洒落か真面目か分らなくなって来たぜ﹂ しゃ れ ﹁来 んうちから心配をするから取越 苦労さ﹂ ﹁だって︑まだ君の所へは来んのだろう﹂ 独りで心配しているのさ﹂ ひと い内貰う筈の宇野の娘に相違ないと自分で見解を下して 20 ち付き払って御茶を一杯と云う︒相馬焼の茶碗は安くて で がら な みな み 俗な者である︒もとは貧乏士族が内職に焼いたとさえ伝 め 聞している︒津田君が三十匁の出殻を浪々この安茶碗に いや ついでくれた時余は何となく厭な心持がして飲む気がし かの う ほうげん もとのぶ なくなった︒茶碗の底を見ると狩野法眼元信流の馬が勢 よく跳ねている︒安いに似合わず活溌な馬だと感心はし たが︑馬に感心したからと云って飲みたくない茶を飲む たてがみ 義理もあるまいと思って茶碗は手に取らなかった︒ ﹁ さ あ 飲 み 給 え ﹂ と津 田 君 が 促 が す ︒ しっ ぽ ﹁この馬は中々勢がいい︒あの尻尾を振って 鬣 を乱し 21 あと のん ま ほ 段用心の仕様もないから打ち遣って置くから構わない や てはいかんと云うのさ︒然し用心をしろと云ったって別 い︑何でもこの辺に変があるに相違ないから用心しなく ﹁婆さんが云うには︑あの鳴き声は唯の鳴き声ではな 事 とな る ︒ と頻りに後を聞きたがる︒茶は飲まんでも差し支えない しき 犬が急に馬になるのは烈しい︒それからどうしたんだ﹂ ﹁冗談じゃない︑婆さんが急に犬になるかと︑思うと︑ めてやった︒ ているところは野馬だね﹂と茶を飲まない代りに馬を賞 22 が︑うるさいには閉 口だ﹂ ﹁そんなに鳴き立てるのかい﹂ ﹁なに犬はうるさくも何ともないさ︒第一僕はぐうぐう ね 寐 て し ま う か ら ︑ い つ ど んな に 吠 え る の か 全 く 知 ら ん 位 えら さ︒然し婆さんの訴えは僕の起きている時を択んで来る から面倒だね﹂ ﹁成程如何に婆さんでも君の寐ている時をよって御気を 御付け遊せとも云うまい﹂ ふ く そう ﹁ と こ ろ へ も っ て来 て 僕 の 未 来 の 細 君 が風 邪 を 引 い た ん お あつらえ だね︒丁度婆さんの御 誂 通に事件が輻輳したからたま 23 らない﹂ しん だいかぎり 度々引越しをしたら身代 限 をするばかりだ﹂ たびたび ﹁馬鹿あ言ってら︑この間越したばかりだね︒そんなに ﹁移るのもいいかも知れんよ﹂ さ︒飛んだ預言者に 捕まって︑大迷惑だ﹂ つら 是非この月中に方角のいい所へ御転宅遊ばせと云う訳 らんと御嬢様の御病気がはやく御全快になりませんから ﹁それを心配するから迷信婆々さ︑あなたが御移りにな 配せんでも宜さそうなものだ﹂ ﹁それでも宇野の御嬢さんはまだ四谷にいるんだから心 24 ﹁然し病人は大丈夫かい﹂ ど ﹁ 君 ま で 妙 な 事 を 言 う ぜ ︒ 少 々 伝 通 院 の坊 主 に か ぶ れ て お 来たんじゃないか︒そんなに人を威嚇かすもんじゃない﹂ ﹁威嚇かすんじゃない︑大丈夫かと聞くんた︒これでも せ き 君の妻君の身の上を心配した積りなんだよ﹂ きま ﹁大丈夫に極ってるさ︒咳嗽は少し出るがインフルエン ザな んだ もの﹂ ﹁インフルエンザ?﹂と津 田君は突 然余を驚かす程な大 きな声を出す︒今度は本当に威嚇かされて︑無言のまま 津 田 君 の 顔 を 見 詰め る ︒ 25 ﹁よく注意し給え﹂と二句目は低い声で云った︒初めの こ やま おろし り い 時に ぐっ と飲み干し た︒ ひと み とお ぜ る︒余は覚えず相馬焼の茶碗を取り上げて冷たき茶を一 点の運命はこれから津田君の説明で決せられるのであ れるか︑武庫山 卸 しにならぬとも限らぬ︒この瞳程な む 打たれた様な心持ちである︒消えて失せるか︑溶けて流 るのであろう︒碧瑠璃の大空に 瞳 程な黒き点をはたと へき る い ︒ 細 い 針 は 根 ま で 這 入 る︑ 低 く て も 透 る 声 は 骨に 答 え は 中へしんと浸み込んだ様な気持がする︒何故だか分らな な 大きな声に反してこの低い声が耳の底をつき抜けて頭の 26 ﹁ 注 意 せ ん と い か ん よ ﹂ と津 田 君 は 再 び 同 じ 事 を 同 じ 調 子で繰り返す︒瞳程な点が一段の黒味を増す︒然し流れ るとも広がるとも片付かぬ︒ えん ぎ ﹁縁喜でもない︑いやに人を驚かせるぜ︒ワハハハハハ﹂ ふ と無理に大きな声で笑って見せたが︑腑の抜けた勢のな い声が無意味に響くので︑我ながら気が付いて中途でぴ や たりと已めた︒やめると同時にこの笑が愈不自然に聞か れたのでやはり仕舞まで笑い切れば善かったと思う︒津 きい 田君はこの笑を何と聞たかしらん︒再び口を開いた時は 依然として以前の調子である︒ 27 かか ﹁いや実はこう云う話がある︒ついこの間の事だが︑僕 か わい いや 実に夢の様さ︒可哀そうでね﹂と言い掛けて厭 変じたのだ﹂と心配だから参考の為め聞いて置く気にな ﹁へえ︑それは飛んだ事だった︒どうして又肺炎などに な寒い顔をする︒ ったが ︱ が悪い︑じきに肺炎になるから用心をせんといかんと云 った︒その時医者の話さ︒この頃のインフルエンザは性 たち 肺炎に変じて︑とうとう一箇月立たない内に死んでしま 事はないと思って好加減にして置いたら︑一週間目から の親戚の者がやはりインフルエンザに罹ってね︒別段の 28 る︒ ︱ ﹁どうしてって︑別段の事情もないのだが ら君のも注意 せんといかんと云うのさ﹂ それだか こ ﹁本当だね﹂と余は満腹の真面目をこの四文字に籠め のぞ て︑津田君の眼の中を熱心に覗き込んだ︒津田君はまだ 寒い顔をしている︒ おっと ﹁ い や だ い や だ ︑ 考 え て も い やだ ︒ 二 十 二 や 三 で 死 ん で ﹂ そりゃ気の毒だなあ︒軍人だね﹂ は実につまらんからね︒しかも所天は戦争に行ってるん ︱ だから ﹁ふん︑女か? 29 つ や ︱ おっか ﹂ その夫 ﹁うん所天は陸軍中尉さ︒結婚してまだ一年にならんの だ﹂ う こ う も り ﹁それは感心だ︑君にも似合わない優しい事をしたもの 斑 になるから︑僕が蝙蝠傘をさし懸けてやった﹂ まだら 穴 の 傍 へ し ゃ が ん だ ぎ り 動 か な い ︒ 雪 が 飛 ん で頭 の 上 が そば が︑御経が済んで愈棺を埋める段になると︑御母さんが かん ﹁丁度葬式の当日は雪がちらちら降って寒い日だった ﹁泣くだろう︑誰だって泣かあ﹂ 人の御母さんが泣いてね ︱ さ︒僕は通夜にも行き葬式の供にも立ったが 30 ﹁だって気の毒で見ていられないもの﹂ ﹁そうだろう﹂と余は又法眼元信の馬を見る︒自分なが らこの時は相手の寒い顔が伝染しているに相違ないと思 とっ さ った︒咄嗟の間に死んだ女の所天の事が聞いてみたくな る︒ ﹁それでその所天の方は無事なのかね﹂ さいわい ﹁所天は黒木軍に附いているんだが︑この方はまあ 幸 に怪我もしない様だ﹂ ﹁細君が死んだと云う報知を受取ったらさぞ驚いたろ う﹂ 31 ﹁いや︑それに付いて不思議な話があるんだがね︑日本 ﹁馬鹿あ云ってら︑いくら亭主が恋しいったって︑そん ﹁死んで逢いに行ったのさ﹂ ﹁逢いに行くにも何にも当人死んでるんじゃないか﹂ ﹁どうしてって︑逢いに行ったのさ﹂ ﹁どうして?﹂ ﹁逢いに行ってるんだ﹂ ﹁行ってるとは?﹂ ているんだ﹂ から手紙の届かない先に細君がちゃんと亭主の所へ行っ 32 な 芸 が 誰 に 出来 る も ん か ︒ ま る で 林 屋 正 三 の 怪 談 だ ﹂ がん こ ぐ ﹁いや実際行ったんだから︑仕様がない﹂と津田君は教 ︱ 何だか見て来た様な事を云うぜ︒ 育ある人にも似合ず︑頑固に愚な事を主張する︒ か ﹁仕様がないって お 可笑しいな︑君本当にそんな事を話してるのかい﹂ ﹁無論本当さ﹂ ﹁こりゃ驚いた︒まるで僕のうちの婆さんの様だ﹂ じい ﹁婆さんでも爺さんでも事実だから仕方がない﹂と津 いよいよ 田君は 愈 躍起になる︒どうも余にからかっている様に いわ も見えない︒はてな真面目で云っているとすれば何か曰 33 くのある事だろう︒津田君と余は大学へ入ってから科は ちご いん えん むし つか めぐ もっ 祟 だ︑因縁だなどと雲を攫む様な事を考えるのは一番 たたり は能わざるよりも寧ろ好まざるところである︒幽霊だ︑ あた のままに見て常識で捌いて行くより外に思慮を廻らすの さば 鱈目ではあるまい︒余は法学士である︑刻下の事件を有 たら め その津田君が躍起になるまで弁護するのだから満更の出 で 見 る と ︑ 頭 脳 は 余 よ り も 三 十五 六 枚 方 明 晰 に 相 違 な い ︒ めい せき 生は巋然として常に二三番を下らなかったところを以て き ぜん 余は大概四十何人の席末を汚すのが例であったのに︑先 違うたが︑高等学校では同じ組に居た事もある︒その時 34 き らい 嫌 である︒が津田君の頭脳には少々恐れ入っている︒ その恐れ入ってる先生が真面目に幽霊談をするとなる と︑余もこの問題に対する態度を義理にも改めたくなる︒ さっき よう す 実を云うと幽霊と雲助は維新以来永久廃業した者とのみ しか 信じていたのである︒然るに先刻から津田君の容子を見 ると︑何だかこの幽霊なる者が余の知らぬ間に再興され た 様 に も あ る ︒ 先 刻 机 の 上 に あ る書 物 は 何 か と 尋ね た 時 にも幽霊の書物だとか答えたと記憶する︒とにかく損は ない事だ︒忙がしい余に取ってはこんな機会は又とある はら ま い ︒ 後 学 の 為 め 話 だ け で も 拝 聴し て帰 ろ う と 漸く 肚 の 35 きま 中で決心した︒見ると津田君も話の続きが話したいと云 ﹁へえ﹂ こん ぱく ﹁ 必 ず 魂 魄 だ け は 御 傍 へ 行 っ て ︑ も う 一 遍 御 目に懸 り ま お そば 只は死にませんて﹂ ﹁もし万一御留守中に病気で死ぬ様な事がありましても ﹁何を?﹂ に誓ったのだそうだ﹂ ﹁段々聞き糺してみると︑その妻と云うのが夫の出征前 ただ 漢 水 は 依 然 と し て 西 南 に 流れ る の が 千 古 の 法 則 だ ︒ う風である︒話したい︑聞きたいと事が極れば訳はない︒ 36 つ らい らく すと云った時に︑亭主は軍人で磊落な気性だから笑いな い がら︑よろしい︑何時でも来なさい︑戦さの見物をさし てやるからと云ったぎり満洲へ渡ったんだがね︒その後 そんな事はまるで忘れてしまって一向気にも掛けなかっ たそうだ﹂ いく ﹁そうだろう︑僕なんざ軍さに出なくっても忘れてしま わあ﹂ ﹁それでその男が出立をする時細君が色々手伝って手荷 物などを買ってやった中に︑懐中持の小さい鏡があった そうだ﹂ 37 ﹁ふん︒君は大変詳しく調べているな﹂ ︱ あか じみ てんまつ その鏡を先生常に懐中していてね﹂ 実に妙な事があるじゃないか﹂ やつ ﹁青白い細君の病気に窶れた姿がスーとあらわれたと云 ﹁どうしたい﹂ え ︱ 髭だらけな垢染た顔だろうと思うと ひげ うだ︒するとその鏡の奥に写ったのが ︱ いつもの通り ︱ 不思議だね ﹁ あ る 朝 例 の 如 く そ れ を 取 り 出 し て 何 心 な く 見 た んだ そ ﹁うん﹂ なった訳だが︒ ﹁なにあとで戦地から手紙が来たのでその顛末が明瞭に 38 ︱ うんだがね うそ い え そ れ は 一 寸 信 じ ら れ ん の さ︑ 誰 に 聞 かしても嘘だろうと云うさ︒現に僕などもその手紙を見 るまでは信じない一人であったのさ︒然し向うで手紙を 出したのは無論こちらから死去の通知の行った三週間も 前なんだぜ︒嘘をつくったって嘘にする材料のない時だ ほ さ︒それにそんな嘘をつく必要がないだろうじゃないか︒ じみ 死ぬか生きるかと云う戦争中にこんな小説染た呑気な法 ら 螺を書いて国元へ送るものは一人もない訳ださ﹂ ﹁そりゃ無い﹂と云ったが実はまだ半信半疑である︒半 ものすご 信半疑ではあるが何だか物凄い︑気味の悪い︑一言にし 39 うち て云うと法学士に似合わしからざる感じが起こった︒ もっ と こつぜん て わ 気合である︒この時津田君がもしワッとでも叫んだら余 け はい 是非とも信じなければならぬ様になる︒何となく物騒な ﹁妙な事があるものだな﹂手紙の文句まで引用されると よ﹂ 味 噌 を じ ゅ っ と 焚 か れ た 様な 心 持 だ と 手 紙 に 書 い て あ る や い て 出 た と 云 う ん だ が︑ こ り ゃ そ う だ ろ う ︒ 焼 小 手 で 脳 やき ご の中に訣別の時︑細君の言った言葉が渦の様に忽然と湧 けつ べつ の顔をしけじけ見詰めたぎりだそうだが︑その時夫の胸 ﹁ 尤 も話しはしなかったそうだ︒黙って鏡の裏から夫 40 はきっと飛び上ったに相違ない︒ ﹁それで時間を調べてみると細君が息を引き取ったのと 夫 が 鏡を 眺め た の が同日 同 刻 に な っ てい る﹂ ﹁ 愈 不思 議 だ な ﹂ こ の 時 に 至 っ て は 真 面 目 に 不 思 議 と 思 い 出 し た ︒﹁ 然 し そ ん な 事 が 有 り 得 る 事 か な ﹂ と 念 の 為 め津田君に聞いてみる︒ ﹁ここにもそんな事を書いた本があるがね﹂と津田君は 先刻の書物を机の上から取り卸しながら﹁近頃じゃ︑有 り得ると云う事だけは証明されそうだよ﹂と落ち付き払 って答える︒法学士の知らぬ間に心理学者の方では幽霊 41 を再興しているなと思うと幽霊も愈馬鹿に出来なくな と思う︒ く方が簡便である︒ 不透明なるものは理窟を承るより結論だけ呑み込んで置 り くつ るにそう云う事は理論上あり得るんだね﹂余の如き頭脳 ﹁ 僕 は 法 学 士 だ か ら ︑ そ んな 事 を 聞 い て も 分 ら ん ︒ 要 す が感じて一種の化学的変化を起すと⁝⁝﹂ ﹁遠い距離に於て︑ある人の脳の細胞と︑他の人の細胞 さい ほう 幽霊に関しては法学士は文学士に盲従しなければならぬ る︒知らぬ事には口が出せぬ︑知らぬは無能力である︒ 42 ﹁ああ︑つまりそこへ帰着するのさ︒それにこの本にも 例 が 沢 山 あ る が ね ︑ そ の 内 でロ ー ド・ ブ ロ ー ア ム の 見 た 幽 霊 な ど は 今 の 話 し と ま る で 同 じ 場合 に 属す るも のだ ︒ ブローアムたな んだい﹂ 中々面白い︒君ブローアムは知っているだろう﹂ ﹁ブローアム? ﹁英国の文学者さ﹂ ﹁道理で知らんと思った︒僕は自慢じゃないが文学者の 名なんかシェクスピヤとミルトンとその外に二三人しか 津 田 君 は こ ん な 人 間 と 学問 上 の 議 論 を す る の は 無 駄 だ 知らんのだ﹂ 43 と思ったか﹁それだから宇野の御嬢さんもよく注意した うち ﹁ 御 馳 走を す る か ら 是 非 来 給 え﹂ と 云い な が ら白山 御殿 はくさん れその内婆さんに近付になりに行くよ﹂と云う津 田君に い る だ ろ う と 思 う と ︑ 一 刻 も 早 く 帰 り た く な る ︒﹁ い ず これは大変︒うちではさぞ婆さんが犬の遠吠を苦にして く 不 愉 快 で あ っ た ︒ 時計 を 出 し て 見 る と 十一 時に 近い ︒ その方は大丈夫だろう﹂と洒落てみたが心の中は何とな しゃ れ っ と 御 目 に 懸 り に 上 り ま すな ん て 誓 は 立 てな い の だ か ら ﹁うん注意はさせるよ︒然し万一の事がありましたらき まいと云う事さ﹂と話を元へ戻す︒ 44 町の下宿を出る︒ ひ がん ざ く ら に さん ち 我からと惜気もなく咲いた彼岸 桜 に︑愈春が来たな わず なまぬる と浮かれ出したのも僅か二三日の間である︒今では桜自 に じ あぶ ら すな ぼ こ 身 さ え早 待 っ た と 後 悔 し てい るだ ろ う ︒ 生 温 く 帽を 吹 く ひ た い ぎわ お と と い 風に︑ 額 際から煮染み出す 膏 と︑粘り着く砂埃りとを ぬぐ 一所に拭い去った一昨日の事を思うと︑まるで去年の様 な心持ちがする︒それ程きのうから寒くなった︒今夜は さえ えり もう あ 一層である︒冴返るなどと云う時節でもないに馬鹿々々 がい とう しいと外套の襟を立てて盲唖学校の前から植物園の横を つ だ ら だ ら と 下 り た 時 ︑ ど こ で 撞く 鐘 だ か 夜 の 中に 波 を 描 45 いて︑静かな空をうねりながら来る︒十一時だなと思う︒ 時の鐘は誰が発明したものか知らん︒今までは気が ち ぎ る あの音はいやに伸びたり縮 あ られる︒仕舞には鐘の音にわが呼吸を合せたくなる︒今 し まい も鐘の波のうねりと共に伸びたり縮んだりする様に感ぜ んだりするなと考えながら歩行くと︑自分の心臓の鼓動 の様に自然と細くなる︒ ︱ 音に繋がる︒繋がって太くなったかと思うと︑又筆の穂 つな る︒割れたから縁が絶えたかと思うと細くなって︑次の つ音が粘り強い餅を引き千切った様に幾つにも割れてく もち 付 か な か っ た が 注 意 し て 聴い て み る と 妙な 響 で あ る ︒ 一 ︱ 46 夜はどうしても法学士らしくないと︑足早に交番の角を 曲るとき︑冷たい風に誘われてポツリと大粒の雨が顔に げきぜん あたる︒ 、楽 、水 、はいやに陰気な所である︒近頃は両側へ長家が 極 さみ 建ったので昔程淋しくはないが︑その長家が左右共闃然 として空家の様に見えるのは余り気持のいいものではな い︒貧民に活動はつき物である︒働いておらぬ貧民は︑ よ 貧民たる本性を遺失して生きたものとは認められぬ︒余 ごく らく みず 実際死んでいるのだろう︒ポツ が通り抜ける極楽水の貧民は打てども蘇み返る景色なき ︱ までに静かである︒ 47 れそうにもない︒ たちま かす こま きれ しょう しょう み 蜜 二人︑棒を通して前後から担いで行くのである︒大方葬 柑箱の様なものに白い巾をかけて︑黒い着物をきた男が かん 間に余の右側を掠める如く過ぎ去ったのを見ると ︱ 白い者は容赦もなく余の方へ進んでくる︒半分と立たぬ はんぶん 留って︑首を延してこの白い者をすかしているうちに︑ 五六間先に 忽 ち白い者が見える︒往来の真中に立ち まん な か がら空を仰ぐ︒雨は闇の底から 蕭 々 と降る︑容易に晴 やみ 殊によると帰るまでにはずぶ濡になるわいと舌打をしな ぬれ リポツリと雨は漸く濃かになる︒傘を持って来なかった︑ 48 かんおけ 式か焼場であろう︒箱の中のは乳飲子に違いない︒黒い まじ 男は互に言葉も交えずに黙ってこの棺桶を担いで行く︒ にな 天下に夜中棺桶を担う程︑当然の出来事はあるまいと︑ 思い切った調子でコツコツ担いで行く︒闇に消える棺桶 を暫くは物珍らし気に見送って振り返った時︑又行手か ら人声が聞え出した︒高い声でもない︑低い声でもない︑ 夜が更けているので存外反響が烈しい︒ ﹁昨日生れて今日死ぬ奴もあるし﹂と一人が云うと﹁寿 かす 命だよ︑全く寿命だから仕方がない﹂と一人が答える︒ そば 二人の黒い影が又余の傍を掠めて見る間に闇の中へもぐ 49 響く︒ きざ 何だか上りたくない︒暫ら こと く坂の中途で立ってみる︒然し立っているのは︑殊によ ってるのかも知れない︒ ︱ 夜の十一時に上りつつあるのは︑ことによると死にに上 のぼ 死ぬ資格を具えている︒こうやって極楽水を四月三日の 十六年も娑婆の気を吸ったものは病気に罹らんでも充分 しゃ ば 病気に罹って今日死ぬ者は固よりあるべき筈である︒二 返 し てみ た ︒ 昨 日 生 れ て 今 日 死ぬ 者 さ え あ るな ら︑ 昨日 ﹁昨日生れて今日死ぬ奴もあるし﹂と余は胸の中で繰り うち り込む︒棺の後を追って足早に刻む下駄の音のみが雨に 50 ︱ ると死にに立っているのかも知れない︒ あ る 又歩行き出 す︒死ぬと云う事がこれ程人の心を動かすとは今までつ は い い気が付かなんだ︒気が付いてみると立っても歩行いて ふ とん も心配になる︑この様子では家へ帰って蒲団の中へ這入 ってもやはり心配になるかも知れぬ︒何故今までは平気 で暮していたのであろう︒考えてみると学校に居た時分 は試験とべースボールで死ぬと云う事を考える暇がなか った︒卒業してからはペンとインキとそれから月給の足 らないのと婆さんの苦情でやはり死ぬと云う事を考える 暇 が な か っ た ︒ 人 間 は 死 ぬ 者 だ と は 如 何 に 呑 気な 余 で も 51 承知しておったに相違ないが︑実際余も死ぬものだと感 密になるので外套が水を含んで触ると︑濡れた海綿を圧 がい とう これ程いやな者かなと始めて覚った様に思う︒雨は段段 ぬ の は 非 常 に 厭 だ ︑ ど う し て も 死に た く な い ︒ 死 ぬ の は いや ても別に思い置く事はない︒別に思い置く事はないが死 に正直なところ︑功名心には冷淡な男である︒死ぬとし 承知せぬぞと逼る様に感ぜらるる︒余は元来呑気なだけ せま じ込めていて︑その中に余と云う形体を溶かし込まぬと に大きな黒い者が︑歩行いても立っても上下四方から閉 じたのは今夜が生れて以来始めてである︒夜と云う無暗 52 す様にじくじくする︒ たけ はや ち ょ う き り し たん ざか 竹早 町 を横ぎって切支丹坂へかかる︒何故切支丹坂 と云うのか分らないが︑この坂も名前に劣らぬ怪しい坂 せんだっ である︒坂の上へ来た時︑ふと先達てここを通って﹁日 本一急な坂︑命の欲しい者は用心じゃ用心じゃ﹂と書い こっ た張札が土手の横からはすに往来へ差し出ているのを滑 けい 稽だと笑った事を思い出す︒今夜は笑うどころではない︒ すべ 命の欲しい者は用心じゃと云う文句が聖書にでもある格 つ けん のん ね らい 言の様に胸に浮ぶ︒坂道は暗い︒減多に下りると滑って しり もち 尻餅を搗く︒険呑だと八合目あたりから下を見て 覘 を 53 び なた だい まち までがちと気味がわるい︒ まっく ら ふる え の き 茗荷谷の坂の中途に当る位な所に赤い 鮮 かな火が見 あ ざや けば小日向台町の余が家へ帰られるのだが︑向へ上がる こ て︑細い谷道を伝って︑ 茗 荷谷を向へ上って七八丁行 みょう が たに 黒い者に雨の注ぐ音が頻りにする︒この暗闇な坂を下り しき げて見ると︑有ると思えばあり︑無いと思えば無い程な 同 様 あ ま り 善 い 心 持 で は な い ︒ 榎 は 見 え る かな と 顔 を上 いるから︑昼でもこの坂を下りる時は谷の底へ落ちると 無遠慮に枝を突き出して日の目の通わぬ程に坂を蔽うて おお つける︒暗くて何もよく見えぬ︒左の上手から古 榎 が 54 すか える︒前から見えていたのか顔をあげる途端に見えだし ガ ス たのか判然しないが︑とにかく雨を透してよく見える︒ あるい 或 は屋敷の門口に立ててある瓦斯燈ではないかと思っ ぼんどうろう 瓦斯燈ではない︒何だろう て見ていると︑その火がゆらりゆらりと盆燈籠の秋風に ︱ 揺られる具合に動いた︒ これは提 灯の火に相違 ちょうちん と見ていると今度はその火が雨と闇の中を波の様に縫っ ︱ て上から下へ動いて来る︒ な い と 漸 く 判 断 し た 時 そ れ が 不意 と 消 え て し ま う ︒ この火を見た時︑余ははっと露子の事を思い出した︒ 露子は余が未来の細君の名である︒未来の細君とこの火 55 と ど んな 関 係 が あ る か は 心 理 学 者 の 津 田 君に も 説 明 は 出 とっ さ 同 時に 火 の な がつづく︒この辺は所謂山の手の赤土で︑少しでも雨が いわゆる あたりから又向き直って西へ西へと爪上りに新しい谷道 つまあが 坂 を 下 り 切 る と 細 い 谷 道 で︑ そ の 谷 道 が 尽 き た と 思 う でると 膏 汗と雨でずるずるする︒余は夢中であるく︒ あ ぶ ら あせ 消えた瞬間が露子の死を未練もなく拈 出 した︒額を撫 ねん し ゅ つ を咄嗟の際に思い出さしめたのである︒ ︱ 尾の消える縄に似た火は余をして慥かに余が未来の細君 たし ては思い出してならぬとも限るまい︒この赤い︑鮮かな︑ 来 ん か も 知 れ ぬ ︒ 然 し心 理 学者 の説明 し得 るも の でな く 56 たやす ぬか 降ると下駄の歯を吸い落す程に濘る︒暗さは暗し︑靴は かかと く こ がき おぼ 踵 を深く上に据え付けて容易くは動かぬ︒曲りくねっ や たら く て無暗矢鱈に行くと枸杞垣とも覚しきものの鋭どく折れ で 曲る角でぱたりと又赤い火に出喰わした︒見ると巡査で ある︒巡査はその赤い火を焼くまでに余の頬に押し当て す て﹁悪るいから御気を付けなさい﹂と言い棄てて擦れ違 っ た ︒ よ く 注 意 し 給 え と 云 っ た津 田 君 の 言 葉 と︑ 悪 い か ら御気をつけなさいと教えた巡査の言葉とは似ているな と思うと忽ち胸が鉛の様に重くなる︒あの火だ︑あの火 か だと余は息を切らして馳け上る︒ 57 どこをどう歩行いたとも知らず流星の如く吾家へ飛び てい る︒ どうなさいました﹂と云う︒見る どうかしたか﹂と余も大きな声を出す︒婆 ら︑その返答は両方とも云わずに双方とも暫時睨み合っ にら 聞くのが怖しいので御互にどうかしたかと問い掛けなが さんも余から何か聞くのが怖しく︑余は婆さんから何か ﹁婆さん! と婆さんは蒼い顔をしている︒ あお り上げて﹁旦那様! を片手に奥から駆け出して来た婆さんが頓 狂 な声を張 とん き ょ う 込んだのは十二時近くであろう︒三分心の薄暗いランプ 58 ︱ ﹁水が ひさ し 水が垂れます﹂これは婆さんの注意である︒ すそ ほう 成程充分に雨を含んだ外套の裾と︑中折帽の 庇 から用 そば しろじゅ す 捨なく冷たい点滴が畳の上に垂れる︒折目をつまんで抛 ひざ り出すと︑婆さんの膝の傍に白繻子の裏を天井へ向けて 帽が転がる︒灰色のチェスターフィールドを脱いで︑一 振り振って投げた時はいつもより余程重く感じた︒日本 ぶる 服に着換えて︑身顫いをして漸くわれに帰った頃を見計 って婆さんは又﹁どうなさいました﹂と尋ねる︒今度は 先方も少しは落付いている︒ ﹁どうするって︑別段どうもせんさ︒只雨に濡れただけ 59 の事さ﹂となるべく弱身を見せまいとする︒ が 合 わ な い 様だ っ た ぜ ﹂ たのか﹂ 然 中何かあったのか︒四谷から病人の事でも何か云って来 ﹁ え ? ﹂ と 思 わ ず 心 臓 が 縮 み あ が る ︒﹁ ど う し た ︒ 留 守 し 旦 那 様 雑 談 事 じ ゃ 御座 い ま せ ん よ ﹂ じょう だんごと ﹁私は何と旦那様から冷かされても構いません︒ ︱ ﹁御前の方がどうかしたんだろう︒先ッきは少し歯の根 院の坊主を信仰するだけあって︑うまく人相を見る︒ ﹁いえあの御顔色は只の御色では御座いません﹂と伝通 60 ﹁それ御覧遊ばせ︑そんなに御嬢様の事を心配していら っしゃる癖に﹂ ﹁何と云って来た︒手紙が来たのか︑使が来たのか﹂ ﹁手紙も使も参りは致しません﹂ ﹁それじゃ電報か﹂ 早く聞かせろ﹂ ﹁ 電報 な ん て 参 り は 致 し ま せ ん ﹂ ︱ ﹁それじゃ︑どうした ﹁今夜は鳴き方が違いますよ﹂ ﹁何が?﹂ たま ﹁何がって︑あなた︑どうも宵から心配で堪りませんで 61 した︒どうしても只事じゃ御座いません﹂ ﹁こんな事にもあんな事にも︑まだ何にも起らないじ 遊ばすものですから⁝⁝﹂ に︑あなたが婆さんの迷信だなんて︑余まり人を馬鹿に あん せば︑こんな事には成らないで済んだんで御座いますの ﹁ええ︑遠吠で御座います︒私が申し上げた通りに遊ば ﹁犬?﹂ ﹁先 達 中から申し上げた犬で御座います﹂ せんだって か﹂ ﹁何がさ︒それだから早く聞かせろと云ってるじゃない 62 ゃないか﹂ ﹁いえ︑そうでは御座いません︑旦那様も御帰り遊ば す途中御嬢様の御病気の事を考えていらしったに相違御 ひら 座いません﹂と婆さんずばと図星を刺す︒寒い刃が闇に閃 むねうち めいてひやりと胸打を喰わせられた様な心持がする︒ ﹁それは心配して来たに相違ないさ﹂ ﹁それ御覧遊ばせ︑やっぱり虫が知らせるので御座いま す﹂ ﹁婆さん虫が知らせるなんて事が本当にあるものかな︑ 御前そんな経験をした事があるのかい﹂ 63 ︱ だが ﹂ ﹁年寄の云う事は馬鹿に出来ません﹂ ﹁そうかい﹂ と外れた事が御座いませんもの﹂ はず からす な 吠でよく分ります︒論より証拠これは何かあるなと思う 否 定 す る ︒﹁ 同 じ 事 で 御 座 い ま す よ ︒ 婆 や な ど は 犬 の 遠 ﹁いいえ︑あなた﹂と婆さんは大軽蔑の口調で余の疑を けい べつ ﹁成程烏鳴きは聞いた様だが︑犬の遠吠は御前一人の様 い と か 何 と か 善 く 申 す じ ゃ 御座い ま せ ん か ﹂ ﹁有る段じゃ御座いません︒昔しから人が 烏 鳴きが悪 64 然し遠吠がそ ﹁そりゃ無論馬鹿には出来んさ︒馬鹿に出来んのは僕も ︱ よく知っているさ︒だから何も御前を んなに︑よく当るものかな﹂ うたぐ ﹁まだ婆やの申す事を 疑 っていらっしゃる︒何でも宜 み ょ う あさ しゅう 御座いますから 明 朝四谷へ行って御覧遊ばせ︑ きっと何か御座いますよ︑婆やが受合いますから﹂ ﹁きっと何か有っちゃ厭だな︒どうか工夫はあるまいか﹂ ﹂ ﹁それだから早く御越し遊ばせと申し上げるのに︑あな ︱ ともかくあした早く四 たが余り剛情を御張り遊ばすものだから ︱ ﹁これから剛情はやめるよ︒ 65 谷へ行ってみる事に仕よう︒今夜これから行っても好い ﹁な ぜ?﹂ ますから﹂ び ﹁心配は致しておりますが︑私だって怖しゅう御座い か﹂ ﹁それでも御前が四谷の事を心配しているんじゃない せんもの﹂ ﹁なぜって︑気味が悪くって居ても起ってもいられま き ﹁今夜いらしっちゃ︑婆やは御留守居は出来ません﹂ が⁝⁝﹂ 66 めぐ うな 折から軒を遶る雨の響に和して︑いずくよりともなく ほ 何物か地を這うて唸り廻る様な声が聞える︒ ﹁ああ︑あれで御座います﹂と婆さんが瞳を据え小声で 云う︒成程陰気な声である︒今夜はここへ寝る事にきめ る︒ た 余は例の如く蒲団の中へもぐり込んだがこの唸り声が まぶた 気になって 瞼 さえ合わせる事が出来ない︒ な 普通犬の鳴き声というものは︑後も先も鉈刀で打ち切 ま き ざっ ぽ う っ た 薪 雑 木 を 長 く 継 い だ 直 線 的 の 声 で あ る ︒ 今聞 く 唸 り 声はそんなに簡単な無造作の者ではない︒声の幅に絶え 67 ざる変化があって︑曲りが見えて︑丸みを帯びている︒ ろう そく の かす つら しっ 圧迫して陰鬱にしたのがこの遠吠である︒躁 狂 な響を そう きょう 尾はンンンと化して闇の世界に入る︒陽気な声を無理に ぽ に変化する拍子︑疾き風に吹き除けられて遥か向うに尻 と て家の周囲を二三度繞ると︑いつしかその音がワワワワ にも薄る︒ウウウウと云う音が丸い段落をいくつも連ね せま に響くと思う間に︑近づけば軒端を洩れて︑枕に塞ぐ耳 ふさ か分らぬ︒百里の遠き外から︑吹く風に乗せられて微か ほか 油の尽きた燈心の花と漸次に消えて行く︒どこで吠える 蝋燭の灯の細きより始まって次第に福やかに広がって又 68 けん ぺい 権柄ずくで沈痛ならしめているのがこの遠吠である︒自 やむ 由でない︒圧制されて已を得ずに出す声であるところが ぎ 本来の陰鬱︑天然の沈痛よりも一層厭である︑聞き苦し よ い ︒ 余 は 夜 着 の 中 に 耳 の 根 ま で 隠 し た ︒ 夜 着 の 中 で も聞 える︑しかも耳を出しているより一層聞き苦しい︒又顔 を出す︒ 暫らくすると遠吠がはたと已む︒この夜半の世界から 犬の遠吠を引き去ると動いているものは一つもない︒吾 家が海の底へ沈んだと思う位静かになる︒静まらぬは吾 心のみである︒吾心のみはこの静かな中から何事かを予 69 期しつつある︒去れどもその何事なるかは寸分の観念だ しょ う どうも変化しそう す︒何を待っているかと云われては困る︒何を待ってい この一秒も待って過ごす︒この一秒もまた待ちつつ暮ら だ︒今夜のうち︑夜の明けぬうち何かあるに相違ない︒ る︒この静かな世界が変化したら ︱ に入って頭を洗わんので指の股が油でニチャニチャす また 本の指を差し込んで無茶苦茶に 掻いてみる︒一週間程湯 か る ︒ 今 出 る か ︑ 今 出 る か と考 え て い る ︒ 髪 の 毛 の 間 へ 五 はせまいかという掛念が猛烈に神経を鼓舞するのみであ け ねん にない︒ 性 の知れぬ者がこの闇の世から一寸顔を出し 70 るか自分に分らんから一層の苦痛である︒頭から抜き取 った手を顔の前に出して無意味に眺める︒爪の裏が垢で い ぶくろ 薄黒く三日月形に見える︒同時に胃 嚢 が運動を停止し て︑雨に逢った鹿皮を天日で乾し堅めた様に腹の中が窮 窟になる︒犬が吠えれば善いと思う︒吠えているうちは 厭でも︑厭な度合が分る︒こう静かになっては︑どんな かも 厭な事が背後に起りつつあるのか︑知らぬ間に醸されつ つあるか見当がつかぬ︒遠吠なら我慢する︒どうか吠え てくれればいいと寝返りを打って仰向けになる︒天井に かす 丸くランプの影が幽かに写る︒見るとその丸い影が動い 71 ︱ たし ている様だ︒愈不思議になって来たと思うと︑浦団の上 せき ずい び 確かに動い も れ て 馬 鹿 々 々 し い 廃 せ ば よ か っ た ︒ 何 し ろ こ んな 時 は 気 よ 祟っているかもしれん︒つまらん物を食って︑銭をとら たた 料理屋で海老のフライを食ったが︑ことによるとあれが え 合のせいかも知れまい︒今日会社の帰りに池の端の西洋 はた し今夜だけ動くのなら︑只事ではない︒然し 或 は腹工 あるい で過したのか︑又は今夜に限って動くのかしらん︒ ︱ ている︒平常から動いているのだが気が付かずに今日ま ふだん かに動いておるか︑おらぬかを確める︒ で脊髄が急にぐにゃりとする︒只眼だけを見張って︑慥 72 じ はんてん を落ち付けて寐るのが肝心だと堅く眼を閉じてみる︒す に ると虹霓を粉にして振り蒔く様に︑眼の前が五色の斑点 でちらちらする︒これは駄目だと眼を開くと又ランプの 影が気になる︒仕方がないから又横向になって大病人の じっ ふすま 如 く ︑ 凝 と し て 夜 の明 け る の を 待 とう と決 心 し た ︒ い ちち ぶ 横を向いて不図目に入ったのは︑ 襖 の陰に婆さんが てい ねい 叮 嚀 に 畳 ん で 置 い た 秩 父 銘仙 の 不 断 着 で あ る ︒ こ の 前 四 た わい 谷 に 行 っ て 露 子 の 枕 元 で例 の 通 り 他 愛 もな い 話 を し て お ほころ った時︑病人が袖口の 綻 びから綿が出懸っているのを 気にして︑よせと云うのを無理に蒲団の上へ起き直って 73 のだが うめ ひょう のう れん そう 当人 いよいよ 愈 っぱり病気は全快したに相違ない︑大丈夫だ︑と断定し せ が 来 る 筈 だ ︒ 使も 手 紙 も 来 な い とこ ろ を 以 て 見 る と や 肺炎かしらと思う︒然し肺炎にでもなったら何とか知ら うんうん呻きながら︑枕の上へのり出してくる︒ ︱ ょうとさえ言ったのに ︱ 今︑眼の前に露子の姿を浮べ て見ると ︱ 浮べて見るのではない︑自然に浮んで来る ︱ 頭へ 氷 嚢を載せて︑長い髪を半分濡らして︑ ももう大分好くなったから明日あたりから床を上げまし あした いばかりで笑い声さえ常とは変らなかったのに ︱ 縫ってくれた事をすぐ聯想する︒あの時は顔色が少し悪 74 ガラ ス ば り すご て眠ろうとする︒合わす瞳の底に露子の青白い肉の落ち くぼ いま た頬と︑窪んで硝子張の様に凄い眼がありありと写る︒ なお どうも病気は癒っておらぬらしい︒しらせは未だ来ぬが︑ 来ぬと云う事が安心にはならん︒今に来 るかも知れん︑ どうせ来るなら早く来れば好い︑来ないか知らんと寝返 りを打つ︒寒いとは云え四月と云う時節に︑厚夜着を二 枚も重ねて掛けているから︑ 只でさえ寝苦しい程暑い訳 あぶ ら で あ る が ︑ 手 足 と 胸 の 中 は 全 く 血 の 通 わ ぬ 様に 重 く 冷 た な い︒手で身のうちを撫でてみると 膏 と汗で湿っている︒ 皮膚の上に冷たい指が触るのが︑青大将にでも這われる 75 様に厭な気持である︒ことによると今夜のうちに使でも け 巡査が赤い火を持って立っている︒ して︑挨拶もせぬ先から突然尋ねる︒余と婆さんは云い ﹁今しがた何かありはしませんか﹂と巡査は不審な顔を ︱ と答える︒余と婆さんは同時に表口へ出て雨戸を開ける︒ か来たぜ﹂と云う声の下から﹁旦那様︑何か参りました﹂ 音 と 共 に 耳 を 襲 う の で ︑ よ く 聞 き 取 れ ぬ ︒﹁ 婆 さ ん ︑ 何 が飛び上って 肋 の四枚目を蹴る︒何か云う様だが叩く あば ら 突然何者か表の雨戸を破れる程叩く︒そら来たと心臓 来 るか も知 れ ん︒ 76 合した様に顔を見合せる︒両方共何とも答をしない︒ ﹁実は今ここを巡行するとね︑何だか黒い影が御門から 出て行きましたから⁝⁝﹂ 婆さんの顔は土の様である︒何か云おうとするが息が かい わい はずんで云えない︒巡査は余の方を見て返答を促がす︒ ぼうぜん 余 は 化 石 の如 く 茫 然 と 立 っ て い る ︒ や ち ゅ う はな は ﹁いやこれは夜 中 甚 だ失礼で⁝⁝実は近頃この界隈が 丁度御門が開いておって︑何か出て行った様な 非常に物騒なので︑警察でも非常に厳重に警戒をします ︱ ので あん ばい 按 排 で し た か ら ︑ も し や と思 っ て 一 寸 御 注意 を し た の で 77 すが⁝⁝﹂ の ど つか たま いえ別に何も盗難に罹 かか 余 は 漸 く ほ っ と 息 を つ く ︒ 咽 喉に 痞 え て い る 鉛 の 丸 が ︱ 為めであるとも解釈が出来るからである︒巡査は帰る︒ ﹁どうも御苦労様﹂と景気よく答えたのは遠吠が泥棒の しますんで﹂ ましいでしょう︒どう云うものか賊がこの辺ばかり徘徊 はいかい ﹁それなら宜しゅう御座います︒毎晩犬が吠えて御やか っ た 覚 はな い 様 で す ﹂ ﹁これは御親切に︑どうも︑ 下りた様な気持ちがする︒ 78 余は夜が明け次第四谷に行く積りで︑六時が鳴るまでま んじりともせず待ち明した︒ 雨は漸く上ったが道は非常に悪い︒足駄をと云うと歯 は 入屋へ持って行ったぎり︑つい取ってくるのを忘れたと ゆうべ 云う︒靴は昨夜の雨で到底穿けそうにない︒構うものか さつ ま と薩摩下駄を引掛けて全速力で四谷坂町まで馳けつけ し もう さ る︒門は開いているが玄関はまだ戸閉りがしてある︒書 まな い た ぬか 生はまだ起きんのかしらと勝手口へ廻る︒清と云う下総 ほっ 生れの頬ぺタの赤い下女が 俎 の上で糠味噌から出し立 て の 細 根 大 根 を 切 っ て い る ︒﹁ 御 早 よ う ︑ 何 は ど う だ ﹂ 79 じょりん もく たすき ふ きん はず いがと御母さんの顔を見て息を呑み込む︒ 病気も癒っているかも知れない︒癒っていてくれれば宜 犬の遠吠が泥棒のせいと極まる位なら︑ことによると ﹁どうです︑余程悪いですか﹂と口早に聞く︒ 、ら 、靖 、雄 、さ 、ん 、でも埓があかん︒ たと云う風をする︒あ ﹁ あ ら 靖 雄 さ ん ! ﹂ と布 巾 を 持 っ た ま ま あ っ け に 取 ら れ やす お の顔をして叮嚀に如 鱗木の長火鉢を拭いている︒ ていねい 間へつかつか這入り込む︒見ると御母さんが︑今起き立 おっか と云う︒へえでは埓があかん︒構わず飛び上って︑茶の らち と聞くと驚いた顔をして︑ 襷 を半分外しながら﹁へえ﹂ 80 きのう ﹁ええ悪いでしょう︑昨日は大変降りましたからね︒さ ぞ御困りでしたろう﹂これでは少々見当が違う︒御母さ んの様子を見ると何だか驚いている様だが︑別に心配そ うにも見えない︒余は何となく落ち付いて来る︒ ﹂ と聞 い て み ﹁中々悪い道です﹂とハンケチを出して汗を拭いたが︑ ︱ やはり気掛りだから﹁あの露子さんは た︒ ゆうべ ﹁今顔を洗っています︑昨夜中央会堂の慈善音楽会とか に行って遅く帰ったものですから︑つい寝坊をしまして ね﹂ 81 ﹁インフルエンザは?﹂ ありがと こ さめ あお ぞら ろう︑自分ながら愚の至りだと悟ってみると︑何だか 今の胸の中が一層朗かになる︒なぜあんな事を苦にした のではないかと︑昨夕の気味の悪かったのに引き換えて 文句がどこかに書いてあった様だが︑こんな気分を云う 底まで見える心地である︒日本一の御機嫌にて候と云う そろ 寒からぬ春風に︑濛々たる小雨の吹き払われて蒼空の もう もう ﹁ええ風邪はとっくに癒りました﹂ ﹁何ともないんですか﹂ ﹁ええ有難う︑もうさっぱり⁝⁝﹂ 82 馬鹿々々しい︒馬鹿々々しいと思うにつけて︑たとい親 しい間柄とは云え︑用もないのに早朝から人の家へ飛び 何か用事でも出来た 込んだのが手持無沙汰に感ぜらるる︒ ︱ ﹁どうして︑こんなに早く︑ んですか﹂と御母さんが真面目に聞く︒どう答えて宜い とっ さ か分らん︒嘘をつくと云ったって︑そう咄嗟の際に嘘が 一思いに う ま く 出 る も の で は な い ︒ 余 は 仕方 がな い か ら ﹁ え え ﹂ と云った︒ よ ︱ ﹁ え え ﹂ と 云 っ た 後 で ︑ 廃 せ ば 善 か っ た︑ 正直な所を白状してしまえば善かったと︑すぐ気が付い 83 た が ︑﹁ え え ﹂ の 出 た あ と は も う 仕 方 が な い ︒﹁ え え ﹂ 怒鳴ってみた︒ すったの︑ ︱ もん じ どうな 何か御用なの?﹂露子は人の気も知らず ﹁あら︑どなたかと思ったら︑御早いのねえ ︱ ﹁露子さん露子さん﹂と風呂場の方を向いて大きな声で 別段の名案も浮ばないから又﹁ええ﹂と答えて置いて︑ ﹁ 何 か 急 な 御 用 な ん で す か ﹂ と 御 母 さ ん は 詰め 寄 せ る ︒ うものでない︑これを活かすには余程骨が折れる︒ ば な ら ん ︒﹁ え え ﹂ と は 単 簡 な 二 文 字 で あ る が 滅 多 に 使 たん かん を引き込める訳に行かなければ﹁ええ﹂を活かさなけれ 84 に又同じ質問で苦しめる︒ ﹁ああ何か急に御用が御出来なすったんだって﹂と御母 さんは露子に代理の返事をする︒ ﹁そう︑何の御用なの﹂と露子は無邪気に聞く︒ ﹁ええ︑少しその︑用があって近所まで来たのですか ら﹂と漸く一方に活路を開く︒随分苦しい開き方だと一 はら 人で肚の中で考える︒ ﹁それでは︑ 私に 御用じゃないの﹂と御母さんは少々不 審な顔付である︒ ﹁ええ﹂ 85 ﹁もう用を済ましていらしったの︑随分早いのね﹂と露 い ませんか﹂と御母さんが逆捻を喰わせる︒ さかねじ か ﹁あなた︑顔の色が大変悪い様ですがどうかなさりゃし ろそろ︑尻を立てかけると が得策だ︑長座をすればする程失敗するばかりだと︑そ なが ざ に も 馬 鹿 ら し く聞 え る ︒ こ ん な 時 はな るべ く 早 く 帰 る 方 変りはないと思うと︑自分で自分の言っている事が如何 い も困るから︑一寸謙遜してみたが︑どっちにしても別に けん そん ﹁いえ︑まだこれから行くんです﹂とあまり感嘆されて 子は大に感嘆する︒ 86 ひげ ﹁髪を御刈りになると好いのね︑あんまり髭が生えてい あ る せ なか るから病人らしいのよ︒あら頭にはねが上っててよ︒大 お た 変乱暴に御歩行きなすったのね﹂ ひ より げ ﹁日和下駄ですもの︑余程上ったでしょう﹂と脊中を向 い て 見 せ る ︒ 御 母 さ ん と 露 子 は 同 時に ﹁ お や ま あ ! ﹂ と 申し合せた様な驚き方をする︒ 羽 織 を 干 し て 貰 っ て ︑ 足 駄 を 借 り て 奥 に 寝 て い る 御父 っさんには挨拶もしないで門を出る︒うららかな上天気 こう ろ じ ょ う で︑しかも日曜である︒少々ばつは悪かった様なものの ゆうべ 昨夜の心配は紅炉 上 の雪と消えて︑余が前途には柳︑ 87 てい る︒ かぐ ら ざ か あご から︑残したって余り目立つ程のものでもないには極っ と一人で極める︒職人が残しましょうかと念を押す位だ 髯だけかわからない︒まあ鼻の下だけは残す事にしよう ひげ 髯を剃るといいと露子が云ったのだが全体の髯の事か顋 そ ﹁ 旦 那 髯 は 残 し ま し ょ う か ﹂ と 白 服 を 着 た 職 人 が聞 く ︒ っている︒ ない︒実際余は何事によらず露子の好く様にしたいと思 入 る ︒ 未 来 の 細 君 の 歓 心 を 得 ん が 為だ と云 われ て も 構 わ 桜の春が簇がるばかり嬉しい︒神楽坂まで来て床屋へ這 88 ﹁源さん︑世の中にゃ随分馬鹿な奴がいるもんだねえ﹂ かみ そり と余の顋をつまんで髪剃を逆に持ちながら一寸火鉢の方 を見る︒ しょう ぎ ばん 源さんは火鉢の傍に陣取って 将 棊盤の上で金銀二枚 もうじゃ をしきりにパチつかせていたが﹁本当にさ︑幽霊だの亡者 べら ぼう だのって︑そりゃ御前︑昔しの事だあな︒電気燈のつく こん にち 今 日 そ んな 篦 棒 な 話 し が あ る 訳 が ね え か らな ﹂ と 王 様 の よし こう お め え おご 肩 へ 飛 車 を 載 せ て み る ︒﹁ お い 由 公 御 前 こ う や っ て 駒 を あ たかずし 十枚積んで見ねえか︑積めたら安宅鮓を十銭奢ってやる ぜ﹂ 89 は したぞり 一本歯の高足駄を穿いた下剃の小僧が﹁鮓じゃいやだ︑ お か こめ ぬ か な あに ︑ み ん な 神 経 さ︒ 自 分 の 心 に 恐 い と 思 う か ら 自 然幽 霊 だ っ て 増 長 し て 出 た く てて可笑しいもんです︒ ︱ 、や 、け 、 ﹁近頃はみんなこの位です︒揉み上 げの長いのはに ﹁あんまり短かかあないか﹂ と切り落す︒ い訳さね﹂と余の揉み上げを米噛みのあたりからぞきり も ﹁幽霊も由公にまで馬鹿にされる位だから幅は利かな のタウェルを畳みながら笑っている︒ 幽霊を見せてくれたら︑積んで見せらあ﹂と洗濯したて 90 おやゆび ならあね﹂と刃についた毛を人さし指と拇指で拭いなが ら又源さんに話しかける︒ けむり ﹁全く神経だ﹂と源さんが山桜の 烟 を口から吹き出し ながら賛成する︒ ﹁神経って者は源さんどこにあるんだろう﹂と由公はラ ン プ の ホ ヤ を 拭 き な が ら 真 面 目に 質 問 す る ︒ ﹁神経か︑神経は御めえ方々にあらあな﹂と源さんの答 弁は少々漠然としている︒ し ろ の れん 白暖簾の懸った座敷の入口に腰を掛けて︑先っきから 手垢のついた薄っぺらな本を見ていた松さんが急に大き 91 な声を出して面白い事がかいてあらあ︑よっぽど面白い 本だがね﹂ や む や ﹁何だか︑訳の分らない様な︑とぼけた事が書いてある 廻転させている職人に聞く︒ 体これゃ何の本だい﹂と余の耳に髪剃を入れてぐるぐる ﹁何だか長い名だ︑とにかく食道楽じゃねえ︒鎌さん一 に は 浮 世 心 理 講 義 録 有 耶無 耶 道 人 著 と か い て あ る ︒ う 松さんはそうよそうかも知れねえと上表紙を見る︒標題 ﹁何だい小説か︑食道楽じゃねえか﹂と源さんが聞くと と一人で笑い出す︒ 92 ﹁一人で笑っていねえで少し読んで聞かせねえ﹂と源さ ば か んは松さんに請求する︒松さんは大きな声で一節を読み 上 る︒ たぬき ま げん べ え ﹁ 狸 が人を婆化すと云いやすけれど︑何で狸が婆化し けむ やしょう︒ありゃみんな催眠術でげす⁝⁝﹂ い ぺんふるえのき ﹁成程妙な本だね﹂と源さんは烟に捲かれている︒ せつ くく ﹁拙が一返古 榎 になった事がありやす︑ところへ源兵衛 しゅ 村の作蔵と云う若い衆が首を縊りに来やした⁝⁝﹂ ﹁何だい狸が何か云ってるのか﹂ ﹁どうもそうらしいね﹂ 93 ︱ やがる それから?﹂ くそ 随分臭うげしたよ ︱ ⁝⁝﹂ 人を馬鹿にし ふ るふ ん ど し きな声で笑ってやりやした︒すると作蔵君は余程仰天し に榎の姿を隠してアハハハハと源兵衛村中へ響く程な大 ってまごまごしておりやす︒ここだと思いやしたから急 にゃりと卸ろしてやりやしたので作蔵君は首を縊り 損 そくな ﹁肥桶を台にしてぶらりと下がる途端拙はわざと腕をぐ こい たご ﹁狸の癖にいやに贅沢を云うぜ﹂ した ﹁拙が腕をニューと出しているところへ古 褌 を懸けや ︱ ︱ ﹁それじゃ狸のこせえた本じゃねえか 94 たと見えやして助けてくれ︑助けてくれと褌を置去りに して一生懸命に逃げ出しやした⁝⁝﹂ うめ ﹁こいつあ旨え︑然し狸が作蔵の褌をとって何にするだ ろう﹂ きん たま ﹁大方睾丸でもつつむ気だろう﹂ みんな アハハハハと 皆 一度に笑う︒余も吹き出しそうにな おお ったので職人は一寸髪剃を顔からはずす︒ おも しれ ﹁面白え︑あとを読みねえ﹂と源さん大に乗気になる︒ ﹁俗人は拙が作蔵を婆化した様に云う奴でげすが︑そり ゃちと無理でげしょう︒作蔵君は婆化されよう︑婆化さ 95 れようとして源兵衛村をのそのそしているのでげす︒そ ご ま か 西洋二も西洋と騒がんでもの事でげしょう︒今の日本人 げす︒何も日本固有の奇術が現に伝っているのに︑一も の結果で拙などはひそかに慨嘆の至に堪えん位のもので れを応用する連中を先生などと崇めるのは全く西洋心酔 あが 西洋の狸から直伝に輸入致した術を催眠法とか唱え︑こ じき でん らこの手で大分大方の諸君子を胡魔化したものでげす︒ たい ほう 口は今日開業医の用いておりやす催眠術でげして︑昔か こん にち 婆化して上げたまでの事でげす︒すべて 狸 一派のやり たぬき の婆化されようと云う作蔵君の御注文に応じて拙が一寸 96 けい べつ はちと狸を軽蔑し過ぎる様に思われやすから一寸全国の 狸共に代って拙から諸君に反省を希望して置きやしょ う﹂ り くつ ﹁いやに理窟を云う狸だぜ﹂と源さんが云うと︑松さん は本を伏せて﹁全く狸の言う通りだよ︑昔だって今だっ て︑こっちがしっかりしていりゃ婆化されるなんて事は しき あい そ ね え ん だ か ら な ﹂ と 頻 り に 狸 の 議 論 を弁 護 し てい る ︒ し ゆうべ て見ると咋夜は全く狸に致された訳かなと︑一人で愛想 台町の吾家に着いたのは十時頃であったろう︒門前に をつかしながら床屋を出る︒ 97 こう し す 婆さんの真 鍮 の様な笑い声と︑余の銅の様な笑い声が しん ち ゅ う る︒婆さんも嬉しそうに笑う︒露子の銀の様な笑い声と︑ を︑みんな婆やから聞いてよ﹂と婆さんを見て笑い崩れ くず だったから︑すぐ車で来て見たの︑そうして︑昨夕の事 ﹁ええ︑御帰りになってから︑考えたら何だか様子が変 ﹁ あな た来 て い た の で す か ﹂ 明くと︑露子が温かい春の様な顔をして余を迎える︒ ていらっしゃったんだよ﹂と云う声がして障子がすうと 洩れる︒ベルを鳴らして沓脱に這入る途端﹁きっと帰っ 黒塗の車が待っていて︑狭い格子の隙から女の笑い声が 98 か 調和して天下の春を七円五十銭の借家に集めた程陽気で い ある︒如何に源兵衛村の狸でもこの位大きな声は出せま い と思 う 位 で あ る ︒ 気のせいかその後露子は以前よりも一層余を愛する様 な素振に見えた︒津田君に逢った時︑当夜の景況を残り なく話したらそれはいい材料だ僕の著書中に入れさせて ま かた くれろと云った︒文学士津田真方著幽霊論の七二頁にK 君の例として載っているのは余の事である︒ 99
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