橡 山峡 No35

雨上がりの午後パリに消ゆ
ツェルマットスキー行
庄健太郎
同行者のブロフィールI氏60代、基礎スキー指導員、会社社長。 K子さん、I氏夫人5
0代、基礎スキー指導員。 H氏40代、貴金属加工業、スキー1級“準”指導員。 K氏4
0代、印刷会社勤務、基礎スキー指導員。 E氏 40代、国立大学勤務、工学博士、基礎ス
キー指導員。 N嬢20代、都保健所勤務、宋養士、1級の上。 S嬢20代、紙会社勤務、
1級。 私50代、製薬会社勤務、基礎スキー準指導員
以上の面々8名は都内の某スキークラブに所属するいずれも自称足自慢である。 事前に一
回の打ち合わせもせずにツェルマットにでかけたのである。 もっともパックツアーにまるま
る乗るんだからそんな必要はないんだが。 旅行社と連絡を取っていれば間違いなく行って帰っ
てくることができるのである。 で、1989年12月29日、成田を飛び立ったのだが、そ
の前にひと波乱があった。 この冬はヨーロッパもひどい雪不足。 そういえぱワールドカッ
プも会場変更が報道されていたのを思い出した。 空港カウンター前で添乗員が説明を始めた。
実業家のI氏が、『ツェルマットは雪は大丈夫なんですか』。 添乗員『そうですね。はっ
きり言って、3分の2あると思えばいいでしょう』。 とたんにI氏は真っ赤になって怒った。
『そんな大事なことを空港に集まって初めて、しかも聞かれてから答えるとは、何と言う怠
慢か』。 添乗員はさしたる弁解も出釆ず、更にI氏の叱正は続いたのであった。 ちょっど
白けもあるにはあったが、実業家のI氏には戦略があったのである。 雪不足はいまさら仕方
がない。 ツアー中止ということも問題があるだろう。 それを逆手に取ったのである。明ら
かに添乗員の態度は、それから変わったのである。そんなこんながあって、スイス航空SR1
65便は定刻どうり21時に飛び立ったのである。座席は中央側、通路から2番目。大勢のツ
アーではどうしても割の悪いやつが出てくるのだ。 1時間後に食事。 機内食も結構楽しい。
割りと楽に眠った。 6時間後(午前3時、現地時間28日午前9時)アンカレッジに着く。
外は暗い。 空港内のウインドウショッピング。 10時20分、再搭乗、ようやく朝らし
くなっていた。 気温一6℃。 同45分離陸。 11時30分軽い食事。 食べている最中
に『極点通過』のアナウンスがあった。 高度9451m、気温-58℃。 更に飛び続ける。
オスロ付近上空で3回目の食事をとり終るとチューリッヒであった。 日本時間12月30
日13時10分、現地時間同日5時10分。 成田からの所要時間は16時間10分であった。
給油かと思ったら機が変わるという。 同じDC10なのに面倒なこどをするもんだ。 7
時33分に飛ぴ立ち8時にジュネープ到肴。 これで空の旅はおしまいである。 荷物を受取
り、500SFのTCを現金に替えた。 今度はバスドライブである。8時45分、末だすっ
かり朝になりきらない中をバスは走り出した 。空はどんより雨もよい。 クロワッサンを伏
せたような形のレマン湖。 その左のとんがった辺りがジュネーブである。 市外の景色が畑
から次第に起伏を増していくと、道はやがて湖畔に添うようになる。 クロワッサンの上弦を
3分の2程過ぎたあたりがローザンヌであった。 丁度1時間走った。 時間は早いが定番の
場所なのでというこどでひとまず休憩。 湖畔の展望台に上がったが周囲の山々は中腹までも
見えない。 レストランに入って何か食べようど、目がいっている。 大きなチョコレートケーキが旨そうな
ので、そいつとコーヒーで5.5スイスフラン・おおざっぱにいって550円はどうだ。 添乗
員氏がツェルマットでのリフト代を集めに来た。 5日間で194SF。 再び走りクロワッサ
ンが終る辺り、つまりレマン湖の東端にシヨンの古城があった。 高速道路の真下、立ち上がら
ないと見えないので言われなけれぱ気が付かない。 湖に突き出るように立っていたが、あっと
いう間に走りすぎた。 レマシ湖を過ぎると南に下がりMatignyから東に同かう。 傾斜
地では丹念に石垣を積み、こまめに葡萄の木が植えてある。 スイス人だってかなり勤勉なこと
がわかる。 同じ『勤勉』でも休みを取る市民と取らない国民、やってられないね。 ビスブを過ぎるとバスは登りにはいった。 傾斜はぐんぐんきつくなっていった。 ビスプか
らは登山電軍の領域である。 12時丁度。テーシェに到着。 マンモス駐車場。 そう、ここ
からは車(ガソリン)禁止なのだそうな。 この辺りでは空は晴れ上がっている。 バスから荷
物がおりる。 スーパーの買物車のように重なっているところから車を引っ張り出してをスーツ
ケースを乗せて駅のホームまで運ぷ。 スキーは立ててくくり付けるが持っていないからその必
要はなかった。 ここ始発の電軍は車ごとのせられるのである。 深い谷に沿って垂直どんどん
高度を上げていく。 十数分でツェルマットである。 ついに釆た。 どこで見えるのだろう。
車を押してホームを進むとついに見えた。 マッターホルンが。 やっと来たのである。 現地
ガイドの出迎えを受けてまずは駅の食堂へ連れていかれた。 やつらは能率よく事を運ぴ、金を
使わせることを心得ている。 昼食が終って駅を出る。 駅前には馬車がいっぱい待機している。
ホテルの電気自動車が迎えに来てスーソケースを運んでくれた。 身軽になってスキーのレン
タル屋へ行く。 さいわいロシニョールの4Sが借りられた。 前から乗ってみたい機種だった
のである。 しかし、『エッジが甘い』というと、店員が『いや、私はそうは思わない』という。
これ以上は自分の会話力では交渉できないのであきらめた。 5日分でレンタル料89SF。
一同終ると、これまた車でホテルヘ運んでくれた。 これは団体旅行の強みだ。 空身で少し
町見物。 さすが世界のリゾート。 色彩も派手だし、ファッションもいい。 鉄道の延長のよ
うな一本道が町のメインストリートだった。 300mほどで右に郵便局があった。 もう少し
先を右に入ったところに山岳博物館があって、後に見学することになる(この時はそれを知らな
かった)。 そこから200mぽど行くと左手に格式の高そうなホテルがあってたしかモンテロー
ザと覚えてきたのだが、今ガイドブックを見るとモンテローザは右手だと書いてある。 見間違
えだったのかなあ。 ここまでは店がぎっしりであった。 その先左手に教会があって賑やかな
通りはそれで終りのようであった。 その入口まで上がって通りの屋根越しに見えるマッターホ
ルンが実に素晴らしかった。 興奮してシャッターを押し、フィルムがなくなり、入れ替えてま
たシャッターを押し、さてと見渡すど仲間はだれもいない。 たしか戻ったようだが、真直か?
左か?。左へ行ってみることにした。 川を渡った。 あとでわかったが、これがビスブ川だっ
た。 だんだん道は登っていく。 どうも違うようだ。 じゃあ、と川に戻って上流へ向かった
が会うのはスキーをかついで帰ってくる人ぱかり。 さて『おれの行くところはどこだろう?』。
さっきの橋まで戻り聞くことにした。『ドウ・ユウ・ノウ・ホテル・ホリデイ?』。 『コノ
カワニソッテクダレ。イクツメカノハシヲミギニアガレ』。 イクツメだったか今は思い出せな
いが、それからは、焦ったほどには迷わずにホテルを探し当てた。 当然皆は到着していた。 が、私の顔を見てもだれも何も言わないのだ。 『おれがいなくなったのをだれも知らないのだ』『危ない、危ない』。 こうしてツェルマッ
トの第一日は終った。
夕食メニュー
Me1onenper1enmitPort
Gemuesecreme
Schnitze1”Cordon−B1eu”
Kartoffe1staebchen
Schwarzwureln an Rahm
Eisbecher Denemark
私は来る直前3日間会社を休んだという風邪引きのK氏と相部屋であった。 12月31日(日) 快晴
7時30分朝食、8時出発は何としてもきつい。 坂道を下って橋を渡ったところて循環バスを
待った。 左手に、朝日に映えるマッターホルン。 いい構図があったが今はバスが来るのでカ
メラは出せない。 2SFを払ってバスに乗る。 ビスプ川ぞいに上っていく。 昨日迷子になっ
た道であった。 バスではいくらでもないがスキー靴で歩くのはいやな距離であった。 終点で
降りて川を渡るとヴィンケルマッテンのゴンドラ駅だ。 既に大勢並んている。 早く出発させ
られたのはこのせいだったわけだ。 昨日紹介された現地常駐ガイドの河野さんはもう来ていた。
1本目のゴンドラは1620mから1864mのフーリ(Furi 1864m)まで244
m登るが全くの雪無しに等しい。 右手の丘のうえには頑丈そうな木造の小屋が幾つもたってい
る。 何の小屋だろうか。 フーリからは三方にゴンドラが伸びている。 一番左のトロッケ
ナー・シュテッグ(Trocknersteg 2939m)まで一気に1075m登る。 こ
こからゴンドラは3820mのクラインマッターホルン(KleinMatterhorn)まで
伸びているが今は初めてあることを考慮していかないんだそうだ。 駅を出た。 南を向いてい
る。 右手、西にはマッターホルン(Matterhorn 4478m)が東面を余すところ
なく見せている。 快晴。 無風。 しかし指先が冷える。 気温は低そうだ。
マッターホルンを西の押えとして南東陵からフルグホルン(Furrghorn 3466
m)、テオドルバス(Theodu1pass 3290m)と高度を落とす。 ここから稜線
は南に大きく半弧を描きブライトホルン(Breithorn 4164m)に至る。稜線の両
側は緩斜面でスキーエリアである。 ブライトホルンからリスカム(Liskamm 4527
m)、モンテローザ(MonteRosa 4634m)と東に続く。 ここからヴァイス・グ
ラート(Weissgrat)がいくつかのビークを従えて連なっている。 稜線はスイス・イ
タリア国境である。 ツェルマットはこれら大きな弧の内側、北に位置している。 数多くの谷
は氷河で覆われているが大半はスキーには適さない。 ツェルマットは北に出口を持つマッター
タールのどんずまりで三方を急峻な山岳に囲まれている。 有名な山もたくさんあってとても説
明しきれない。 前夜のグループ分けに従ってスキーをつける。 われわれのガイドはここに常駐の河野さん。
固い雪がところどころのぞいている。 ひと滑りでTバーリフトに達しフルクザッテル(Fu
rggsattel 3365m)に向かう。 緩斜面。 雪は固くてよくしまり、初滑りの不
安をぬぐい取ってくれた。 地理が分からないので必死にガイドの後につこうとするがいつのま
にか最後尾。 結局このパターンは最後まで続くのであった。 乗ってていやになるほど長いリ
フト(これがヨーロッバの良きなんだ)のスタートに滑り込む。 もう1回。 今度はコースを
少し変える。 快適にとばす。 止まる。 青水。 クワバラクワバラ、こんなのにうっかりのっ
たらひとたまりもない。 そおっととうり過ぎる。 広い斜面から尾根筋の左斜面に移った。 油断禁物のアイスバーンをやり過ごしなおも滑る。 やっと先頭が止まってくれた。 このガイ
ド、われわれの足並みに安心してかマイペースでとぱし始めたようである。 この下、コブ斜面
がえんえん続いている。 とばす雰囲気ではとてもない。 コブの腹でターンして谷へ入り、
またコブの腹でターンを繰り返す。 ついたところが、ふうふう。 じゃなくてフルグ(Furrg 2432m)。 900m余
りも下りたんだから長いはずだ。 もうひとつ下へ行く。 ところがこの先がひどかった。 巾が多少あるからいいようなものの山道コース。 片や絶壁であった。 とびだしたらまずは
一巻の終りだ。 雪の粒子がいやに細かくてバーンはつるっる。 後の説明によると、雪不足
のためにここは完全な人工雪コースで、足並みを見たうえでしか案内しないのだそうだ。 汗
をにじませながらゴール・イン。フーリーであった。 ガイドがコーヒーを奢ってくれた。 休んだ後、フルク、トロッケナーシュテッグと乗り継ぎ、フルグヘ滑って、反対側のシュバルッ
ゼー(Schwarzsee 2583m)へ上がる。 そこへはスキーは無用だった。 な
んとなれぱ、雪がついていないからであった。 では、なぜ行く。 オ・ヒ・ルだった。 シュ
バルツゼーはマッターホルンの前庭。 見あげれぱ北東陵が真正面である。 すぐそこにヘル
ンリ(Hoern1i 2775m)小屋が。 あそこまでなら私でも行けそうだ。 ここで
の長いお昼は実に充足された時間だった。 写真を撮りまくり、レンズを取り替えてはシャッ
ターを押し、歩いてはファインダーをのぞく。 太陽はこの時期さぽど高くは上らず、山々は
鋭角的な襞が多いので正面でなければ結構影ができるのである。 もう午後の滑りはどうでも
よくなった。 頭ではそう思いつつ、よくの皮が突っ張ってみんなと一緒に滑った。 滑れば、
それはそれでその気になってしまうしようのないものである。 クラインマッターホルン(山
頂は3884m)まで上がって滑りその日のスキーは終りになった。 タ食時、昨日から何となく不審に思っていた事がやっと氷解した。 パスに書いてあった1
66という数字。 渡したのは194SFだったはずだ。 手数料を取るのか。 しかし現地
語のガイドにも194と出ていたし??。 結局わからないままであったが、雪不足の理由に
よる割引だったであった。 こんなの日本じゃあり得ない事だ。 思いつくはずがない。 あ
いまいで金だけはしっかり取る日本の観光地のみなさん。 いやになるぜ。 このお釣り28
SFはE氏が管理してタ食時のアルコール代に当てる事に衆議一決した。
1990年1月1日(月) 快晴
今日は予定どうりチェルビニアヘいく日。 7時半食事の8時出発。 きついけど理解した
以上仕方がない。 2SFのバス代を払って、ヴィンケルマッテン、フーリー、フルグ、トロッ
ケナーシュテッグ、クラインマッターホルンとケーブルを乗り継いだ。 イタリア側なので、
帰りのリフト代25、食事代30、プーツ借料2、合計57SFは前夜のうちに取られていた。
さぞかし上等な食事にありつけるんでしょうな、と思いながら払ったのであづた。 マッター
ホルンはスイス側で、イタリアヘ行くどチェルビーノ(Cervino)、フランスではセル
バン(Cervin、山をつけてMontCervin、モンセルバン)
クラインマッターホルンヘ降りて外へ出る。 しばらく休憩。 カメラを出すがマッターホ
ルンはケーブル駅に邪魔されて面白くない。 頭がふらふらするかなと思ったがそうでもなさ
そうだ。 昨日のとおり緩斜面を下りる。 雪面が凍っていてスキーがスキッドしやすい。 止まれ。 指導標がある。 昨日は気にしなかったが矢印が二つに分かれて、左イタリア、右
スイスと表示してある。 左ヘコースを取って長い下り平地を滑降すると、そこはプラトー・
ローザ(P1ateauRosa3480m)。 すこし先にイタリア側からのケーブルが来
ている。 チェルビーノを右に見ながら滑降開始。マッターホルンが後ろへどんどん流れて
いく。
あの秀麗な山容は左側に子分のようなピークを持った山に変わっていった。 こちらも雪不足
で、小石があちこちに隠れていて避けるのが大変。 たまにはどうしてものっかってしまう。 レ
ンタルスキーで助かった。 途中でこちらのガイドの顔見知りなのだろうイタリア人ガイドに出
会った。 こちらのガイドが『チャオー』というと、イタリアガイドが『ア・オ・ゴ・オ・リ』
といい返したのには驚くやらうなるやら。 チェルビニアは標高2000m。 ツェルマット
より少しだけ高い。 行きつけらしい運動具店によってスキーを預け、2SFのレンタルブー
ソに履き変え、昼食までの1時間半を自由行動として開放された。 女性群は目的意識を持っ
ているので消えるのは早かった。 私はすることも無くウインドウショッピンク。 やがて食
事時になり集まって連れていかれたところは日本人専用どもいうべきレストラン。 ぽかの日
本人ツアー団もいた。 どうして日本人は一一か所にあつまらなけれぱならないのだろう。 そして出てきた料理はピザとスバゲッテイ。 なるぽど、おそれ入りましたの30SFであっ
た。 イタリア料理を堪能?してケーブル2本でプラトー・ローザヘ上りツェルマットヘ溝っ
て帰る。
1月2日(月) 快晴
今日は地下ケーブルでスネガ(Sunnegga 2290m)へ行く。 駅はホテルから
歩いてわずかなので、出発は8時45分。 朝食後をゆっくり出来るのがうれしかった。 ヴィ
スプ川べりの改札口から横穴式にホームヘの長い廊下を行くと電車があった。 670mを斜
めに上がる。 外へ出れば一面の銀世界でほっとさせてくれた。 山は正面方向東へ高く伸び
ていた。 ブラウヘルト(B1auhaerd 2627m)、ウンターロートホルン(Un
terrothorn 3103m)へとゴンドラが伸びている。 マッターホルンの北東に
12kmほど離れていて眺めはすこぷるいい。 マッターホルンとシュバルツゼーの延長線上
にあって北東陵が東面と北面を二等分している。 南側1000m直下はフィンデル氷河がヴァ
イス・グラートに突き上げている。 氷河の対岸遠くにはゴルナークラート。 ケーブルライ
ンが遠望できる。 ここもコースが限定されていて雪は固い。 北面に作られたコースは展望
100パーセントである。 その一番いいところに写真屋さんが出張していた。 マッターホ
ルンを背量の記念写真、滑っている写真、などなど注文に応じて写真を撮ってくれる。 翌日
のタ方村の店によってベタ焼きの写真を見て、いいのがあったら注文する、出来上がりに対し
て金を払う、というやり方である。 ここは乗り物がすいていて滑りの能率はすごくいい。 ほどぽどに滑って下に降りた。 昼は近くのレストランでミート・フォンデュー。ワインが回っ
て腹が膨れるともうスキーといい出すものはなくて午後はお休みになった。 シヨッピンク散
策と、山岳博物館を訪れた。 4時半開館なので、それまで時闇をつぷしてから入る。 3S
F。 マッターホルン登山の歴史が陳列してある。 ウインパー遭難の図だろうか。 そうと
は読めないが、生々しい血と、けが人と、死者が描かれた絵が階段の踊り場一面を占めていた。
1月3日(火) 快晴
今日から雪上ガイドなし。 我がグルーブは昨日のスネガで滑ることにした。 近いうえに能
率がいいからだ。 ケーブルカーに乗ると写真屋が看板のパネルを持って乗っていた。 随分
早い出勤である。 ゴンドラ7本滑って長い休みを取った。 午後はスキーを切り上げてゴル
ナーグラートヘハイキング。 スキーを持っていっても痛めるだけだ、とガイドがいっていた
からであった。 登山電車はマッターホルンの駅前から出る。 パン屋でサンドイッチとジュー
又を買って電軍の中で食べた。 車窓からのバノラマ見物が楽しい。 43分の車窓観光でゴル
ナーグラート(Gornergrat 3100m)着。 立派な4階建てホテルがたってい
る。 モンテ・ローザが正面(南東)、まさに目の前。 南側目の下はゴルナー氷河。 更に
上に伸ぴるロープウエイがあるのでのって見たがこれは失敗。 2本乗り継いでシュトックホ
ルン(Stockhorn 3405m)までいったが景色はそんなに変わらなかった。
1月4日(水) 快晴
いよいよ最終日。 一人でもう一回クラインマッターホルンまで最後の滑りを楽しんでくる
ことにした。 トロッケナーシュテッグからクラインマッターホルンヘ上るゴンドラは圧巻だ。
どうやってこんなところへ来るんだろう、というようなところに鉄往が建っている。 目の
下は見るも恐ろしいウンター・テオドル氷河が横たわっている。 ひしめく巨大な氷塊とクレ
バス。 そしてクラインマッターホルンの岩壁。 ゴンドラはそれにぶつかり這い上るかのよ
うに迫り山頂の穴の吸いこまれる。 トンネルを抜けて広がる世界は南方、イタリア、そして
フランス。 はるかかなたに見えるのははモンブラン、と先日ガイドが教えてくれた 。我が
仲闇たちは山を見ても、いいなあ、という以上の興味を示さない。 今はみんなに遅れる心配
の必要もなく山々を鑑賞できる。 さあすべろう。 ブラトー・ローザ、テオドルバス、テオ
ドル氷河と緩斜面を楽しんだ。 リフトも2本ほど乗って最後の雪の感触を確認して山上で食
事のあと下りにはいった。 この日、5時30分にホテルを出て電車に乗り、ツェルマットを
あとにし、ブリグでタ食、パリ行きの夜行寝台列車を待った。 パリの朝、8時半はまだ暗かっ
た。 ホテルで朝後、おきまりの市内観光、まではよかったが、その後一人で歩き回り、ファ
ストフードでお昼をとり、サントノーレからサンジェルマンにかけてを迷いながら、土産を買
い、写真を撮り、地図をひっくりかえしながら、途中でトイレを探し、暗くなったので地下鉄
でホテルにかえって、ふと気が付くと、手に持っていたはずのフィルムの袋がない。 慌てて
探したがどこにもなかった。どこで手から離れたのかまるで思い出せなかった。 撮影漬のフィ
ルムがそっくり入ったまま。 私のツェルマットがすべて詰まっているのがすべてアウトであっ
た。ああ!!痛恨のパリ。
1990.4.29。