1 『魏志』倭人伝の原文解釈 はじめに 『魏志』倭人伝原文を正確に解釈する上に不可欠な記事が「魏志」韓伝に 二つある。 ① 「公孫康分屯有縣以南荒地帯方郡。遣公孫模、張敞等収集遺民。興兵伐韓濊、 舊民稍出。是後倭韓遂属帯方」 ② 「韓在帯方郡南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里」 と言う二つの記事である。 特に重要なのは ①の句の「是後倭韓遂属帯方」と言う部分と ②の句の「方可四千里」と言う部分である。 倭人伝は「韓伝」と同じ「東夷伝」に載る史書なので、これに関連させて検 証しなくてはならない。 先ず①の重要性について述べる。 倭人伝は本もとの「底本倭人伝」を三回に亘り書き直し、所謂陳寿の通行本 が完成した。本もとの底本は公孫氏の倭人支配下時代に書かれた。 《第一次倭人伝》は、燕國の公孫康の時 (210 年頃)に、書かれた。 《第二次倭人伝》は公孫淵の時(230 年頃)に、第一次倭人伝を書き直して出来上 がった。 《第三次倭人伝》は魏の戦利品として公孫燕國から魏朝に渡った第二次倭人伝 に魏の歴史官が魏の時代に即した事柄を書き加えた物である。 これが「魏志」、「魏略」、「広志」等の底本である。 《第四次倭人伝》とは所謂現在の通行本の陳寿編纂(270 年頃)の倭人伝を言う。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― *第一次倭人伝と第二次倭人伝は、公孫氏の書いた倭人伝である。 合わせて『公孫志』「倭人伝」と呼ぶべきもので、これは上に述べた①に言う、 「是後倭韓遂属帯方」、倭と韓が帯方郡の属国であった期間(204~238 年)に書 かれた倭人伝である。 *岩元学説では、倭人伝に登場する國邑に置かれた所謂「官」は公孫氏が派遣 した「監視官」と言う見方をするので、この「官」が見られる[原文]のフレーズ は例外なく『公孫志』倭人伝時代の記入記事である。 ◎この視点は倭人伝解明の善きヒントである。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― ② の重要性について述べる。 倭人伝の行程叙述は帯方郡を起点に倭地までの区間を述べており、この間に 朝鮮半島南部に位置する韓地を経由する故に、②の「韓在帯方郡南、東西以 2 海為限、南與倭接、方可四千里」と言う記事が不可欠な史料となるのである。 ① と ② を念頭に入れずして、正確な倭人伝原文解釈はありえないのである。 ○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○ 【第一編】行程叙述に関する従来説と岩元説の比較 従来説の代表的訳文として『岩波文庫』所載の石原道博博士の現代語訳を使わせて戴いたことを「茲にお断り致します」 と共に、石原博士には「深甚なる感謝を申し上げます」。尚、第一編 行程叙述とは以下に示す原文の 1~14 を言います。 (1) 倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑 所通三十國 舊百餘國漢時有朝見者 今使譯 石原博士訳 倭人は、帯方(いまの韓国ソウル附近)の東南大海の中に住み、山島によって国邑 (諸侯の封地)をつくる。もと百余国。漢のとき朝見(参内して天子に拝謁)する者があり、 いま使訳(使者と通訳)の通ずるところは三十カ国。 岩元正昭訳 倭人は、帯方郡(今の北朝鮮の海州市を言う。)東南の大海の中の山の多い島に起居 し、國邑(血族で結ばれた部族集落)を作っている。前の前の時代、つまり前漢時代に は百餘國も朝見する者がいたが、今(現在より少し前、つまり公孫氏支配下時代)には 中国が訳(通訳の出来る使者)を倭人の三十の國邑に通わせていた。 【岩元解説】〔著書参照;5~52 頁 「叙」、25~55 頁 第一章 『魏志』倭人伝の時代背景、 417~447 頁 第八章 倭人、それは先天的従順と言われた東夷の異名である、 448~449 頁 注釈 1 『魏志』倭人伝の底本の更なる底本について、 449~445 頁 注釈 2 朝見につて、〕 「魏志」の[原文1]の「倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑」に対して、「魏略」は 「倭在帶方東南大海中依山島爲國」とする。 これは、歴史的時制の違いである。 倭人が國を為すプロセスを ① 倭人が國邑を為す、 ② 國邑が國邑群を為す、 ③ 國邑群が國を為す、 の順序と見れば、「魏略」の言う「倭為國」と言う時制は、③であり「魏志」より二時代未 来を述べている。 この関係において、「魏略」の言う「倭」とは ③ の「國邑群」を言うことが分かる。 従って、「倭王」とは「國邑群」の王であることも判明する。 「魏志」倭人伝の「現在」と言う時制は卑彌呼が「親魏倭王」を貰った時点である。 3 「親魏倭王」は文字通り「倭王」であるから、② の時代を述べたことになる。 従って、① の「倭人が國邑を為す」で始まる倭人伝記事は、 その少し前の時代を述べたこととなり、 「今使譯所通三十國」と、目前の過去を表す「今」字を起用しているのである。 つまり結論として、倭人伝は魏との交渉が行われる時代より、少し前の公孫氏支配下 の倭人社会を述べている。 「今使譯所通三十國」の訳出は、「使」字が使役の助動詞である。 その証拠に「太平御覧」に「今令使訳所通其三十國」とある。 「令」字は同じ使役の助動詞で「某を以て某せしめる」と言う意味になる。 つまり、倭人伝記事は、「譯を以て通わせしめる」となり、 通わせしめるのは帶方郡であり、通うのは帶方郡の「譯使」である。 因って、この句の主体は中国人なのである。 どこへ通うか、は言うまでもない。倭の國邑の三十カ国である。 通説と 180 度異なった訳出が、ここに現れる。「魏略」にこの句がないのは当然である。 魏志のこの句は、魏の時代の目前の時代を言うのである。 国が成立した後のことを語る「魏略」が「今使譯所通三十國」、と言う句を外すのは尚更 当然のことである。 (2) 從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里 始度一 海千餘里至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴母離 所居絶島方可四百餘里 土地山險多深林道路禽鹿徑 有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴 石原博士訳 郡(帯方郡)から倭にゆくには、海岸にしたがって水行し、韓国(馬韓)をへて、あるい は南へあるいは東へ、その北岸の狗邪韓国(加羅・金海)にゆくのに七千余里。はじめ て一海をわたること千余里で、対馬国につく。その大官を卑拘(ヒコ、彦か)といい、副 官を卑奴母離(ヒナモリ、夷守・火守か)という。居るところは絶遠の島で、四方は四百 余里ばかり。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の径(みち)のようだ。千余 4 戸ある。良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北にゆき、米を買うなど する。 岩元正昭訳 帯方郡から倭に行くには、(先ず)海岸に沿って水行し、韓地の西北端あたりで下船し、 半島陸路を南下と東行を幾度も繰り返し、(東南方向へ階段を降りるように)諸韓国を 歴訪し、倭に南北二つある港の『倭の北の岸』と呼ばれる狗邪韓國(今のプサン)に到 着する。ここまで、七千餘里である。(その後)一海千餘里を渡ることによって、對海國 に到着する。この国では、大官を卑狗といい、副官を卑奴母離という。 この国は孤島で、面積は四方四百里余りある。 険しい山や森林が多く、道路は禽や鹿の踏み分けた道のようである。 千戸余りあるが、良田は無く、海産物を食べて自活しているが、船で南北へ行き、穀 物を買いだす。 ※ 但し、この道程は脇道である。何故ならば、「到其北岸狗邪韓國」と言うように「到」 字が使われている。 ※ 「糴」とは「カイヨネ」を言う。因みに、「糶」字「はウリヨネ」と言う。 【岩元解説】〔著書参照;335~351 頁 第六章 倭人伝「趣旨の劇的な変更」をもたらす文法(転注文字)、 122 頁 「始」字について、208~209 頁 第二章(四)1 帶方郡の比定について、461~462 頁 注釈 9 「從」字に ついて、462~463 頁 注釈 10 「乍南乍東」について、463~464 頁 注釈 12 「其北岸狗邪韓國」について、〕 倭人伝では「郡より」の意を表すのに「従郡」と「自郡」の二種類が使い分けられている。 又、「~にイタル」の意に「至~」と「到~」の二種類が使い分けられている。 「従と自」、「至と到」はそれぞれ六書の転注文字である。 我が国では転注文字を「照応文字」と言う。 ※ 「照応文字」を簡単に説明すると、同じ意味を持つ二つの漢字の、一方の漢字の 意味範囲に 制限を与え、他方にはその制限を課さないと言う漢字の用法を言う。 ※ 二種類の「照応文字」で具体的に説明すると、「従郡」は「從郡至倭循海岸水行歷 韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里」の句に使用され、韓地を「乍南乍東」 し、歴訪する。 つまり、「従」字は狗邪韓國に至るまでに諸韓國を寄り道する場合の起点を表す前 置詞として起用される。 ※ 一方「自郡」で始まる区間では、「自郡至女王國萬二千餘里」の句の様に起用され、 女王國に至る間、韓地を歴訪しない。 つまり、「自郡」は「従郡」語に反して「寄り道」をしない、と言うように使われる。 5 これが転注文字〈照応文字〉の原理なのである。 この意味から前者は半島内を陸行するが、後者は半島内を陸行せずに水路をい きなり倭地に上陸する。 ※ 「従郡」の「従」字に何故「寄り道」の意味があるかと言えば、「従」字の本義に秘密 がある。「従」字は「辵(ちゃく)」字と「从」字の会意文字である。 「辵」は更に「彳」と「止」字の会意文字であり、「辵」字の本義は『説文解字』に「乍 行乍止也」とある。 これは、「行きて、止まり、行きて、止まり、の行為を繰り返すことを意味する。 つまり、「従」字は「二人」が「寄り道」をする意となるのである。 ※ 因みに、「辵」とは之繞(しんにゅう)のことである。 ※ 次に、「至と到」の関係を述べる。 先ず、「至」字が「指事文字」であることから、『説文解字』に書かれた「至」の字義、 「高い所を飛ぶ鳥が地に降りる際、途中で休むことが有っても、決して地への方向 を違えることなく、舞い降りる」と言う意味を念頭に「~に至る」と使用された文辞を 理解せよ、と言う示唆を与えているのである。 ※ 一方「到」字は「至」字の意味範囲外に該当する場合に使用される。 飛ぶ鳥が大地へ向かわず、再び高所へ戻ったり、水平に飛び去る様子をイメージ しながら「~に到る」と使用された文辞を解釈せよ、と言うのである。 つまり、二組の転注文字は互いに照応関係にある。 「至」字と「到」字が、この様に照応し合うことから、郡より「到其北岸狗邪韓國」と言 う行程が「自郡至女王國萬二千餘里」と言う行程に対して脇道であることがわかる。 勿論、「自郡至女王國萬二千餘里」と言う行程が独立したルートであることも判明 する。 郡から「狗邪韓國」、「伊都国」等の経路の総括を言うものではない。 この認識を持てるか、否かは倭人伝行程叙述を解明できるか、否かの、 ターニングポイントである。 ※ 倭人伝行程叙述中に、もう一か所「到」字が使われている。 [原文5]の「東南陸行五百里到伊都國」の「到伊都國」である。 末盧國から伊都國へ の道がバイパスであることを物語っている。 6 つまり、末盧國からは本源的な道(邪馬台国への道)が、もう一本存在していること まで、「到伊都國」 と言う字句は物語っているのである。 話が変わるが、「倭に南北二つある港」とは、北の「狗邪韓國」と南の「末盧國」のことで ある。 北の「狗邪韓國」を[原文2]は「其北岸狗邪韓國」と記したのである。 「其」字が「従郡至倭」の「倭」字の代名詞であることは言うまでもないことである。 これは、「狗邪韓國」が紛れもなく倭の端緒国であることを強く主張しているのである。 後に述べる、[原文14]の「計其道里當在曾稽東治之東」の会稽東治の東の洋上に在 るものが「狗邪韓國」であると分かるように「狗邪韓國」語の上で「其北岸」語が光を放 っている。 つまり、この語は「燈台」の役目を担っているのである。 (3) 又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國 方可三百里 多竹木叢林有三千許家差 官亦曰卑狗副曰卑奴母離 有田地耕田猶不足食亦南北市糴 石原博士訳 また南の一海をわたること千余里、瀚海(大海、対馬海峡)という名である。一大國(一 支・壱岐)につく。官をまた卑狗といい、副官を卑奴母離という。四方三百里ばかり。竹 林・叢林が多く、三千ばかりの家がある。やや田地があり、田を耕してもなお食べるに は足らず、また南北にゆき米を買うなどする。 岩元正昭訳 同じく一海千餘里を渡ることによって、一大國に至る。この海を瀚海と言う。 ここでも官を卑狗と言い、副を卑奴母離と言う。凡そ三百里四方ある。田畑は少しある が、食べるのには不足しているので、この国もまた、南北へ米を買いだしに行く。 【岩元解説】〔著書参照;73~113 頁 第二章 『魏志』倭人伝の行程叙述の解明一 1 「重要事項の一」〕 [原文2]の「始度一海千餘里至對海國」 の「始」+「度」の形式は「始+動名詞」となり、 「度たることによって」と訳す。 始めて度たる、とは訳せない。 「始+動名詞」は「従~」、「自~」の仲間で前置詞なのである。 [原文3]の「又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國」と[原文4]の「又渡一海千餘里至 末盧國」に有る「又」字は前出の「始」字の代替詞である。 7 これは古代漢籍のレトリック(修辞法)なのである。 ※ 「瀚海」は「山海経」等に登場する「北海」のことである。この語の起用は後に出る、 「裸國・黒歯國」と「瀚海域」の間に倭人の国を置くことで、倭人が「山海経」の語る 儋耳朱崖族そのものであることを思い込ませることを目論んだものである。 (後に出る[原文]に詳述する。) (4) 又渡一海千餘里至末盧國 有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好 捕魚鰒水無深淺皆沉没取之 石原博士訳 また一海をわたること千余里で、末盧國(松浦・名護屋・唐津附近)につく。四千余戸 ある。山海にそうて居住する。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。好 んで魚やあわびを捕え、水は深くても、みなもぐってとる。 岩元正昭訳 千余里程海を渡る事によって末盧國に着く(今の博多である)。四千戸余りあり、山麓 や海岸沿いに居住している。前の人が見えないほどに草木が生い茂っている。水の 深い浅いに関係無く住民はもぐって魚や鰒(あわび)を捕ることを習慣にしている。 【岩元解説】〔著書参照;114~116 頁 第二章 『魏志』倭人伝の行程叙述の解明一 2 「重要事項の二」、 209~214 頁 末盧國の比定について、456~457 頁 第八章 四 末盧國の名の由来について〕 [原文4]の「水の深い浅いに関係無く住民はもぐって、魚や鰒(あわび)を捕ることを習 慣にしている。」と言うフレーズは、陳寿により恣意的に、後に出る[原文13]の記述内 容に使用される。要注意箇所である。 ※ 「好」字は習慣にすると訳す方がいい。 末盧國は現在の博多であり、『翰苑』が引く後漢書曰くと言う、帥升を王とする「倭面上 國」である。この論拠は如淳が言う「如墨委面」が「順」字の字解き言葉であり、「順」は 「マツロウ」と読み、「末盧」と書かれたものだからである。 末盧國には他の國邑にいた公孫氏帯方郡の派遣官の名が記されていない。 岩元学の説は各國邑に置かれた「官」は公孫氏帯方郡の、倭人監視を目的にした「派 遣官」と見るものである。 しかし、その官の名が「末盧國」には見えない。 これをどう考えればいいのか?___岩元学説は次の推測を行う! 8 末盧國こそ、公孫氏帯方郡の軍隊の終結していた場所であった、と。 九州島、本州島攻略の分岐点と言う要衝だからである。 しかし、倭人伝には、一大卒、或いは公孫氏帯方郡の郡使が伊都國に滞在していた、 と書かれている。 これは伊都國の位置が末盧國よりも邪馬台國から遠隔にあり、より安全だからである。 この考察は伊都國の衛星国であるかの様な奴國、不彌國、狗奴國らが想像以上に強 力な公孫氏帯方郡の協力國邑であったことが類推できるのである。 これらの国々が後の出雲系國邑群を形成したと考える。 又、一大卒と同じ名の「一大國」や「末盧国」に屯(たむろ)している軍勢は万が一、邪 馬台國と一戦を交える場合、伊都國経由、不彌國の延岡、又は奴國の日向から黒潮 に乗って、南紀に上陸した方が、より効果的な戦果が期待できたのであろう。 であれば戦略的に公孫氏は予め伊都國を手中に収めて置く必要性があったと考えら れる。 (5) 東南陸行五百里到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸 王皆統屬 女王國郡使往來常所駐 丗有 石原博士訳 東南に陸行五百里で、伊都國(恰土・糸島郡深江附近)につく。官を爾支(ニキ、稲 置・県主か)といい、副官を泄謨觚(島子・妹子か)・柄渠觚(彦子・日桙か)という。 千余戸ある。世々王がいるが、みな女王國に統属する。郡使が往来し、常駐の場所で ある。 岩元正昭訳 (末盧國から)東南方向に五百里で、伊都國(今の宮崎県日之影付近)に着く。官は 爾支、副官は泄謨觚、柄渠觚と言う。千餘戸有る。 伊都國の世に有った王達、皆は女王國に統屬された。 ここは(公孫氏の時代には)郡使が往來し、常駐した所であった。 【岩元解説】〔著書参照;114~158 頁 第二章 『魏志』倭人伝の行程叙述の解明一 3 「重要事項の三」、 214~217 頁 伊都國の比定について〕 [原文2]の【岩元解説】で既に述べたが、「到伊都國」の「到」字使用で末盧國から伊都 國への道は脇道であることが分かる。 更に、末盧國からは「伊都國」方面以外に本源的道筋(邪馬台國への道)が存在して いることも分かる。(漢字研究の妙である。) 9 ※ 末盧國は、今の博多である。 従来説に洗脳された研究者には、今まで奴國と思い込んでいた博多を末盧國と 言うのであるから、私(岩元学)の説を受け入れるには、相当な抵抗がある筈である。 しかし、従来説の奴國を博多に比定すると、伊都國は福岡県の前原辺りか糸島郡 深江附近に比定しなくてはならない。 しかも、従来説の末盧國は唐津付近である。 そうなると、伊都國は末盧國の東北方面となる。(これが代表的な従来説である。) しかし、[原文5]は末盧國から東南五百里に伊都國があると明記している。 方位も距離も原文に違えている、従来説を信奉する研究者は決して科学的ではな い。 岩元学説の言う「伊都國の世に有った王達」とは、伊都國が公孫氏帯方郡の出先 機関であった頃に、伊都國に協力的な倭人國邑の王達を言う。 「丗有王皆統屬女王國」と言う句は、公孫氏が書いた倭人伝の底本に魏朝の史官 が挿入した文辞である。 これを第三次倭人伝と言う。 (6) 東南至奴國百里 官曰兕馬觚副曰卑奴母離 有二萬餘戸 石原博士訳 東南の奴國(那津・博多附近)まで百里。官を兕馬觚(島子か)といい、副官を卑奴母 離という。二万余戸ある。 岩元正昭訳 (伊都國から)東南に百里ピッタリ行った所に奴國(今の日向である)がある。 官を兕馬觚(しまこ)と言う。副官を卑奴母離という。二万戸余りある。 【岩元解説】〔著書参照;214 頁 奴國の比定について〕 奴國は今の日向である。末盧國から正確に東南六百里にある。 (7) 東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴母離有千餘家 石原博士訳 東行して不弥國(宇瀰・宇美か)まで百里。官を多模(玉・魂、伴造か)といい、副官を 卑奴母離という。千余家ある。 岩元正昭訳 10 (伊都國から)東へ百里で不弥國(今の延岡である)に着く。 官を多模といい、副官を卑奴母離と言う。千戸余りの家がある。 【岩元解説】〔著書参照;218 頁 不彌國の比定について〕 要注意は[原文5、6、7、]に載る、末盧國から伊都國、伊都國から奴國、伊都國から不 彌國、の三区間は「餘里」語が使用していないことである。 厳密に測量した結果が記載されている、と判じられる。 ※ 区間叙述には 「起点」、「方位」、「距離又は時間」、「目的地」、 の四つの要素が不可欠である。 ※ [原文6]と[原文7]に書かれた区間叙述のように、四つの要素の内、「目的地」 の 次に 「距離又は時間」 が最後に書かれた区間叙述が二つ以上書かれた場合、 二つ目以降の区間の起点は、一つ目の起点と同じである。 従って、奴國と不彌國への起点は共に伊都國である。 ※ 又、「東行至不彌國」と言うように方位の後に「行」字が書かれていると、 ここで、郡から綴ってきた行程叙述は終焉する。 「行」字には「進む者が止まる」と言う意味があるからである。 國郡より末盧國を経、伊都國から奴國、伊都國から不彌國と辿ってきたルートは、 ここで行程が終焉する。 従って、「投馬國」への起点は「帯方郡」になる。 (8) 南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸 石原博士訳 南の投馬國(鞆・出雲・但馬、玉名・都万・妻・三潴・薩摩か)にゆくには水行二十日。 官を弥々(耳・美々・御身か)といい、副官を弥々那利(耳成・耳垂か)という。 五万余戸ばかり。 岩元正昭訳 郡より南へ水行二十日程で、投馬國(今の福井県若狭湾の小浜である)に着く。 官を弥弥と言う。副官を弥弥那利と言う。五万戸余りある。 【岩元解説】〔著書参照;218~219 頁 投馬國の比定について、461 頁注釈 8「水行二十日」から「投馬國」の比定について〕 ※ 「投馬國」は若狭湾の小浜で、古事記に「出雲國の伊那佐之小浜」と書かれたとこ ろである。 11 ※ 「太平御覧」には「至於投馬國」の様に「於」字が「投馬國」語の前についている。 これは古代漢籍では「直面」を意味する。 つまり、郡から投馬國まで、海は広がり、何も遮るものがないことを語っている。 (9) 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月 曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸 官有伊支馬次曰彌馬升次 石原博士訳 南の邪馬壱(邪馬台)國にゆくには、女王の都するところで、水行十日・陸行一月。 官に伊支馬(伊古麻・生駒・活目か)があり、つぎを弥馬升(観松彦か)といい、つぎを 弥馬獲支(御間城か)といい、つぎを奴佳鞮(中臣・中跡か)という。七万余戸ばかり。 岩元正昭訳 (郡より別ルートで)南へ水行十日、陸行一月程行くと、邪馬壹國(今の奈良である)に 着く。女王の二代先の位牌が安置されている所である。(女王はこの地にいない。) (邪馬台國を監視する為に伊都國から派遣された)官を伊支馬、次官を弥馬升と言う。 その次を弥馬獲支と言い、その次を奴佳鞮と言う。七万戸余りある。 【岩元解説】〔著書参照;219~221 頁 そじ し の むな くに 邪馬壹國の比定について、305~334 頁 第五章 卑彌呼の膂宍之空 國への遷都、 450~451 頁 注釈 3 「女王之所都」の句について、459~460 頁 注釈 7 「水行十日」について〕 「邪馬壹國」は、その原本には「邪馬台國」と書かれていたと類推する。 その論拠は、「台」字の発音は中国では「Yi」である。 又、『後漢書』に「台」に通じる「臺」が代用され「邪馬臺國」語が載るからである。 ※ 「台」字は「壹」字と同じ発音である。 倭人伝の「邪馬壹國」語は誤りではないのである。 『後漢書』の「臺」字は「Yi」とは発音しない。 「邪馬壹國」が「邪馬臺國」に誤写されたのではなく、元々「邪馬台國」語を「やま いこく」と読ませていたものが、「台」字が「臺」字に通じていたことから、『後漢書』 の「邪馬臺國」語が出来上がったのである。 ※ 『後漢書』の「邪馬臺國」語の割注に「案今名邪摩惟音之訛也」とあり、「惟」字もそ の発音は「Yi」なので、この割注は「考えるに、今(少し前に)は「やまいー」と呼ん でいたが、この音の訛ったものだろう」と説明している。 日本人の先達も当然、『後漢書』をみている。 これによって、「邪馬台國」を「ヤマタイコク」と発音するようになったと考える。 ※ [原文8と9]、も[原文7と 8]、同様に区間叙述中、目的地の次に区間の所要時間が 記されている為、二つの区間の起点は共に帯方郡である。 12 但し、この二つの区間は所要時間で書かれている。 「所要時間」とは、決まった「起点」と「終点」の二点間を移動するのに必要な時間 のことである。 時代により、ことなるが「所要時間」で書かれう場合、二点間の距離は決められてい る。魏朝の場合は徒歩の 40 里で、一日である。 因みに、唐朝の場合は、50 里で一日である。 従って、[原文8と9]の区間距離は現実のものでなくてはならない。 一方、里程で書かれた区間は、韓地を方四千里(一辺が約1750㎞の正方形)と 言う箇所を見ただけでも実際より滅茶苦茶に大き目に書かれていることは明らかで ある。従って、「里程」で書かれた区間は現実の距離を書いていない。 この認識も倭人伝解釈には必須の条件である。 ※ [原文9]には、邪馬台國に伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮と言う四人の官が いる。この官達は公孫氏燕國の総督府、伊都國が邪馬台國監視目的で派遣した 者達であったが、公孫氏燕國の劣勢とともに卑彌呼の捕虜となり、景初二年六月、 魏朝を訪問した難升米により、「男生口四人」として献上される運命にある。 (この件は後に詳述する。) (10) 自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 石原博士訳 女王國から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く へだたり、詳しく知ることができない。 岩元正昭訳 女王より北にある国々は、その戸数や道のりを簡略に記載できるが、それ(以外の国 はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない。 【岩元解説】〔著書参照;222~250 頁 第二章 『魏志』倭人伝の行程叙述の解明三 第三類行程叙述の解明、 474 頁 注釈 18 「自女王國以北」を陳寿がどの様に理解したかについて〕 「自女王國以北」と言う句を解釈するには、「女王國」語と「女王」語の正確な相違を認 識しなくてはならない。 「女王國」とは卑彌呼を盟主として國邑が集まった國邑群を言う。 言わば、これは國邑の広がりであり、「面」である。 「女王」とは卑彌呼の居る所、或いは卑彌呼の為政の本拠地を言う。 13 これは「点」である。 某より以北と言うのであれば、「某」は面ではなく、点か線でなくてはならない。 従って、「自女王國以北」語は「女王」より北にある国々と訳出しなくてはならない。 もう一つ、その論拠がある。 この語の次に続く「其戸数道里可略載。其餘旁國遠絶不可得詳」に出る、二つの「其」 と言う形容詞的代名詞は、共に倭人國邑を意味している。 「自女王國以北」語を「女王國より北方」と訳すと「主体性」が国でなく、渺茫とした広が りとなり、「戸数」、「道里」を測定することができなくなる。 従って、二つの「其」字は共に女王より北にある国々を意味してる。 公孫氏が書いた倭人伝では当然、「自女王國以北」の「女王」語は奈良の邪馬台國の 意であるが、魏の歴史官が認識した卑彌呼の所在地は卑彌呼遷都後の奴國であった。 ここに、通行本の時代錯誤があり、倭人伝解釈を難解なものにしているのである。 ※ 因みに、陳寿は「自女王國以北」語を奴國以北と認識したが、公孫氏倭人伝に載 る「自女王國以北」語は邪馬台國以北の国々なので、陳寿に誤解がある。 (11) 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有奴國 此女王境界所盡 次有彌奴國 次有蘇奴國 次有鬼奴國 次有鳥奴國 石原博士訳 つぎに斯馬國(志摩・桜島か)があり、つぎに己百支國(城辺・磐城・伊爾敷・石城か) があり、つぎに伊邪國(伊作・伊雑・伊蘇・伊予か)があり、つぎに都支國(球珠・串伎・ 榛原か)があり、つぎに弥奴國(三根・湊・美濃か)があり、つぎに好古都國(笠沙・各 務・方県・河内か)があり、つぎに不呼國(日置・不破か)があり、つぎに姐奴國(竹野・ 田野・多度・谿・角野・都濃か)があり、つぎに対蘇國(鳥栖・土佐・多布施・遂佐か)が あり、つぎに蘇奴國(彼杵・佐渡・囎唹・佐奈・佐野か)があり、つぎに呼邑国(鹿屋・麻 績か)があり、つぎに華奴蘇奴国(囎唹、鹿苑・金鑽か)があり、つぎに鬼国(基肄・城・ 大桑・紀伊か)があり、つぎに為吾国(遠賀・生葉・伊賀・可愛・位賀・番賀)か)があり、 つぎに鬼奴国(阿久根・桑名か)があり、つぎに邪馬国(八女・海部・山国・野摩)があり、 つぎに躬臣国(合志・菊池・越・御井・櫛田か)があり、つぎに巴利国(波良・原・尾張・ 播磨か)があり・つぎに支惟国(筑城・紀伊・基肄・吉備か)があり、つぎに鳥奴国(大 野・宇土・宇努・安那・小野・魚沼か)があり、つぎに奴国(重出、また□奴国の誤脱か) がある。これが女王国の境界の尽きるところである。 岩元正昭訳 14 (邪馬台國に続いて)次(驛、宿継ぎ)が有るのは斯馬國(しまこく)、已百支國、伊邪國、 都支國、弥奴國、好古都國不呼國、姐奴國、対蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、 鬼国(き)、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国の順に「宿継 ぎ」が続いている。最後は奴国である。 この「奴国」は前に掲載した「(伊都国から)東南に百里 ピッタリ行って到着する前掲 の「奴国」のことである。ここに女王が居る。(奴国は)境界の尽きるところである。 【岩元解説】〔著書参照;158~159 頁 第二章 『魏志』倭人伝の行程叙述の解明一 4 重要事項の四〕 「次有~」の「次」字はnextの意ではなく、「宿継ぎ」の意である。 『漢書』の析木の次(やどり)の「次」字であり、東海道五十三次の「次」字と同じ宿場の 意である。 邪馬台國から奴國まで、21の連なった「宿場(伝舎)」があると倭人伝は述べているの である。 『後漢書』には「自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許」と言う句がある。 この原文は、「武帝が朝鮮を滅ぼしてから、『宿継ぎ』を通させ、漢に向う駅は三十ばか りである」と訳出できる。 「於漢」の「於」字は「御覧」の「於投馬國」の「於」字と同じである。 決して、倭人伝の「今使譯所通三十國」のミスプリントではない。 「譯」字は通訳のこと、「驛」字は「宿継ぎ」、つまり、「次(やどり)」の意である。以上は邪 馬台國系國邑群の版図の位置関係を語るものである。 この[原文11]の解釈で、従来説に大きな間違いを指摘しなくてはならない。 上の「20カ国と奴國」は半島から見て邪馬台以遠にあるのではなく、邪馬台國と奴國 の間に数珠繋ぎの状態に連なっている。 奴國を北に、邪馬台國を南に連なっている。勿論、公孫氏が描いた虚構の地図であ る。 奴國以下「20カ国」のそれぞれが邪馬台國の北に位置する所以は、これらの国々が、 「自女王國以北」に位置すると記されているからである。 又、[原文9]に「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」と書かれ、邪馬台國が 郡から遥か南方に位置すると書かれていることも、論拠とする。 この解釈は、奴國の南方に邪馬台國が存在する地図を描くことになる。 15 この後に登場する[原文]の「又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」と言う句 により更に、邪馬台國の南、四千餘里に「侏儒國(今の青森)」が存在する地図を描く ことになる。 これが南北に倒立した日本列島図の所以である。 この地図が実在したことは、「混一彊理國都之図(龍谷大学蔵)」がその物証となる。 もう、お気づきのように、所謂「21 カ国」は邪馬台國への道程で経由してきた「驛、つま り宿継ぎ」を逆順に北上しながら述べたものなのである。 倭人伝が「二つの奴國」を書くのはこのUターンを語る為なのである。 私(岩元正昭)の描く、第二次倭人伝地図は九州島の奴國(日向)の南にあると言う狗 奴國以南に逆立ちした本州島が接合するものだが、石原道博博士が言われるように、 奴國の前に書かれた烏奴國は、今の熊本県西部に位置する「宇土」である。 従って、正確に言えば烏奴國の遥か南方に邪馬台國が存在することになる。 「宇土」の烏奴國から「日向」の奴國へは略東方に95㎞移動する。 そして、倭人伝はその奴國の南に「狗奴國」があると記すのである。 恐らく、「狗奴國」は今の宮崎あたりであろう。 石原博士も鳥奴國の前に書かれた「支惟國」を吉備に比定し、「巴利國」を播磨に比 定される。 「吉備」は山陽地方の古代国名であり、「播磨」は今の兵庫県南西部であるから、逆立 ちする本州島は「吉備」あたりが九州島の、今の熊本県あたりに接続した図が描けるの である。(添付の地図参照) もう少し詳しく言うと、末盧國の国都(大宰府)と「宇土半島の先端の地(三角)の中央 部の地(宇土)」を結んだ南北の延長線上の「末盧國の南二千餘里」に邪馬台國であ る奈良を置いている。この線上に、南から北へ向かって、邪馬台國に続いて、斯馬國 (しまこく)、已百支國、伊邪國、都支國、弥奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、対蘇國、 蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國(き)、為吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、 支惟國、烏奴國の順に倭人國邑が北上した図が描けるのである。 これが、倭人伝の記す「自女王國以北」語の意味である。 つまり、邪馬台國以北に在る国々である。 ※ 支惟國を「きび」と発音するのは唐音以降に用いられた慣用音では「支」は「き」、 「惟」は「び」、と発音する。 岩元学説は「支惟國」は「吉備國」であると考える。「支惟國」の前の國邑は「巴利 國」で、これを今日の「播磨」に看做すと本州島の中国地方の二連国に相当する。 随って本州島は「吉備國」以西が切断され、九州島の烏奴國(宇土)と 狗奴國(宮 16 崎)を結んだ線で切断された部分に接続し、南北に長い日本列島が完成するので ある。 しかし、陳寿の手にした底本は第三次倭人伝で、魏の歴史官が手を加えた倭人伝で あった。 従って、陳寿は「自女王國以北」語を「奴國以北」と誤解する。 随って、奴國より北に位置する「不彌國」、「伊都國」、「末盧國」のみに説明文を記す が、奴國を外した「20 カ国」には説明文を恣意的に記さないのである。 ところが、『翰苑』の引く「広志」には「21 カ国」の一つ「伊邪國」に、次の説明文が載っ ている。「次伊邪國、安倭西南海行一日、有伊邪分國、無布帛、以革為衣、盖伊耶國 也」。この通り、伊邪國には説明文が存在したのである。 当然、他の邪馬台國以北の國邑にも説明文が存在した蓋然性は高い。 この見地から、陳寿は恣意的に、「20カ国」の説明を削除したと断案できるのである。 [原文 10]の「それ以外の国のとても遠くにあるため詳しく調べることが出来ない国々」 とは、後に述べる[原文]の「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南 人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至」、に載る 「侏儒國」、「裸國」、「黒齒國」等のことである。 ※ 何故倭人伝は邪馬台國到着後に、それまでに経過してきた國邑を列挙するのかと 言うと、「自郡至女王國萬二千餘里。」と言う句が「従郡~」の句に照応して「途中、 寄り道をしない」と言う意味合いを強く持つからに他ならない。 ※ 「次有奴國此女王境界所盡」と言うフレーズは極めて重要である。 「此女王」の三文字は、第二次倭人伝が魏朝に渡った後に、魏の歴史官に依って 注釈的に記入された。 その時点では既に女王の遷都が終えていたからである。 「此女王」の「此」字は「彼」字と対比して使われる。 彼の地とは邪馬台國を言う。そこには、「女王之所都」と書かれていた。 「都」字の意味は『説文解字』によると、「有先君之舊宗廟曰都。从邑者聲。」と載り、 「先君の舊(まえ)の宗廟が有る所を『都』と言う」と訳せる。 つまり、「都」とは女王の先祖の位牌が安置された廟があるところである。 邪馬台國には既に女王はいない。邪馬台國は「彼地」である。 この地と対比させるために、「此女王」の三文字は上書きされたのである。 「此女王」の句と「女王境界所盡」は時代錯誤を起こしたまま、第三次倭人伝に魏 の歴史官により併記されたのである。 17 益々倭人伝を難解なものにした元凶である。 (12) 其南有狗奴國男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 石原博士訳 その南に狗奴國(球磨・河野・隼人・熊襲・城野・毛野・熊野か)があり、男を王とする。 その官に狗古智卑狗(菊池・久々智彦か)がある。女王に属さない。 岩元正昭訳 その南に狗奴國(今の日向の南であるから宮崎)がある。男子を王としている。 (王は卑弥弓呼素)だが狗古智卑狗と言う官がいる。 狗奴國は女王に服属していない。 【岩元解説】〔著書参照;317 頁 「原文 12、」の「女王」語について〕 「其の南」の「其」は奴國である。 狗奴國にも公孫氏派遣の監視官がいたことが分かる。 しかし、女王に服属しない、と明記されている。 このことは、従来説が倭人國邑に派遣されている官を卑彌呼の派遣官とする説を明確 に否定している。 又、[原文11]は「奴國に女王が居る」と明記したのは、卑弥呼の遷都後の魏の歴史官 である。 ところが、[原文12]は滅びた筈の公孫氏の派遣官が狗奴國に居る記述をする。 これは時代錯誤である。 卑弥呼の遷都の時点では狗奴國も移動している。 『後漢書』倭伝がこれを語っている。 倭人伝編纂後に書かれた『後漢書』には、「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭 種而不屬女王」と言う句がある。 これには官が書かれていない。 伊都國が派遣した官は逃走したのである。 伊都國崩壊後の拘奴國の位置を物語っている。 奴國に卑彌呼が遷都したと同時に、奴國の東千餘里に狗奴國の本拠地も変遷したの であろう。 ※ 因みに、奴國(日向)の東千餘里は437.4キロメートルである。 南紀の串本あたりになる。 18 (13) 自郡至女王國萬二千餘里 石原博士訳 郡から女王國までは一万二千余里。 岩元正昭訳 帯方郡から女王國までは一万二千餘里ある。 【岩元解説】〔著書参照;251~270 頁 第三章 『魏志』倭人伝に付託せしもの〕 「自郡至女王國萬二千餘里」と言う句は、原文に「自郡」と使われ、前出の「従郡至倭」 と言う句と転注文字の関係にあり、照応関係にある。 従って、このルートは単独なルートで、今まで述べてきた行程叙述の総括ではない。 この認識が出来るか、否かが、倭人伝解明のターニングポイントである。 (14) 男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫 夏后少康之 子封於曾稽斷髪文身以避蛟龍之害 今倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以 厭大魚水禽後稍以爲飾 諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差 計其道里當在曾稽東治之東 石原博士訳 男子は大小の区別なく、みな顔や体に入墨する。むかしからこのかた、その使者が中 国にゆくと、みなみずから大夫(卿の下、士の上の位)と称する。夏后少康(夏第六代 中興の主)の子が、会稽(浙江紹興)に封ぜられ、髪を断ちからだに入墨して蛟竜(み ずちとたつ)の害を避ける。いま倭の水人は、好んでもぐって魚やはまぐりを捕え、体に 入墨して大魚や水鳥の危害をはらう。のちに入墨は飾りとなる。諸国の入墨はおのお の異なり、あるいは左に、あるいは右に、あるいは大きく、あるいは小さく、身分の上下 によって差がある。その道里を計ってみると、ちょうど会稽の東冶(福建閩侯)の東にあ たる。「其道里當在曾稽東治之東」と言う句の「東治」語は曾稽郡に東治県がなく、 「東冶」の譌字(かじ)と看做し石原博士に見習い、以降「会稽東冶」と言う。 岩元正昭訳 男は、身分の上も下も、みんな顔にいれずみをしている。 古の頃(公孫氏時代より以前)、この国の使いは中国へやってくると、皆自分のことを 太夫という。 夏王朝の少康王の(子)系統を承け継ぐ者が会稽の領主に封じられると、髪を切って、 体に刺青を入れるのは蛟龍の害を避けるためであるが、今(公孫氏支配下時代)でも、 倭人漁師は魚や蛤を捕るために入れ墨をして水没する習慣がある。 19 これも亦、大魚や水禽を厭うためだが、少し後(現在の魏朝の時代)には、考えてみれ ば、この入れ墨は飾りになった。国によって、体の入れ墨の模様が違う。身分によって も、左に右に、あるいは、大きく、小さく、と差があるのである。 ※ 其(倭)の道里を計る基準は、会稽東冶(大陸の福州)の東方に在って、これと同じ 北緯線上に載っている。(それは朝鮮半島南端の狗邪韓國である。 この表現で、朝鮮半島南端が大陸のどの位置まで垂れ下がっているかが判明す る。) 【岩元解説】〔著書参照;187~222 頁 『魏志』倭人伝の行程叙述の解明二 第二類行程叙述の解明、 187~201 頁 第二類行程叙述の解明二 (一)、(二)、(三)「計其道里當在曾稽東治之東」の解明〕 「少康之子」の「子」字は「系統を承け継ぐ者」と訳す方がいい。 [原文14]の「計其道里當在曾稽東冶之東」の12文字はこの項の主文であり、この項 の前部はその前文である。 つまり、「東冶之東」に在る倭地を恰も「末盧國」であると、読者に信じ込ませる為に陳 寿が[原文4]の「末盧國の説明文」に似せて書いたものである。 陳寿の挿入文である。 「魏略」にも「末盧國の説明文」は有るが、陳寿が倭人の魚蛤の漁法を沉没するとし、 その習慣を表現する為に「好」字を使うのに対して、魚豢は「好」字でなく「善」字を使っ ている。 しかし、魚豢(ぎょかん)「魏略」には陳寿が[原文 14]に「好沉没捕魚蛤」とする部分が ない。 「皆黥面文身」語の淵源は「漢書」地理志の「倭」字を注釈した如淳の「如墨委面在帯 方東南萬里」の句にある。 「如墨委面」語は「順」字を意味し、「順」は「まつらう」と発し、「末盧國」のことである。 古事記には「末羅」等と載る。 又、「順」は「倭」のことであるから、『翰苑』が引く「廣志」逸文には「倭國東南陸行五百 里到伊都國」と載り、「末盧國」を「倭國」と表現している。 陳寿は、これを見て「東冶の東」に在る倭地を末盧國と断定したのである。 岩元学説は、原文の「當」字を「底」の意に捉える。 このことで、会稽東冶の東に在るという主体性が明らかになる。 20 「當」とは、倭の道里を計る基準のことである。 それは倭の端緒国、狗邪韓國のことである。 これを強く印象づける為に「其北岸」語を狗邪韓國の形容句に使ったのである。 つまり、狗邪韓國が朝鮮半島の南端に位置することから、朝鮮半島が大陸の会稽東 冶(今の福州)の位置まで垂れ下がった、大きな半島であることを信じ込ませることにな るのである。 「後漢書」倭伝では会稽東冶の東に在る倭地を「狗邪韓國」と断定している。 陳寿は、倭地を底本の第二次倭人伝より、三千餘里北方に繰り上げるミスを犯したの である。 [原文2]の【岩元解説】に「狗邪韓國」語の前に着いた「其北岸」語は「会稽東冶」から 見える遥かなる洋上の燈台である、と言う解説を思い出していただければ幸いである。 完 ○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○ “ 原文読後の推論 ” 1、 原文解釈により倭人伝には以下の四つの郡を起点とした、独立するルートが書か れていることが判明した。 ①伊都國ルート・・・従郡循海岸水行歴韓國乍南乍東到(其)北岸狗邪韓國七 千餘里→②→對海國→③→一大國→④→末盧國→伊都國 →奴國。伊都國→不彌國(行字使用で終点。) ② 投馬國ルート・・(自郡)南至投馬國水行二十日。 ③ 邪馬台國ルート・(自郡)南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月。 ④ 女王國ルート・・ 自郡至女王國萬二千餘里。 《1の解説》 ① と ④ は「従郡」と「自郡」で照応している。 ① と ④ は区間が「里程」でかかれ、「実際の距離よりも多めに書かれた区 間」である。 ② と ③ は区間が「時間」で書かれ、これは「所要時間」であるから 「実際の距離を時間に直した区間」である。 つまり「里程で書かれた①と④」と「時間で書かれた②と③」は整合しない。 「①と④」は整合するから、照応し合える。 《1の解説》 21 同一区間の「実際の距離よりも多めに書かれた区間の距離又は時間」と 「実際の距離又は時間」の対比から倭人伝行程叙述の「縮尺率」が算出できる。 2、「至女王國」語は「至邪馬壹國」語と同じである。 《2の解説》 「至女王國」語は「至邪馬壹國」語と同じである論拠は以下の通り。 「女王國」とは卑弥呼を盟主とする國邑群を言う。 女王國以外の地点から、若しくは、女王國から他の地点間を計測する場合、 女王國内の起点、若しくは、終点は卑弥呼の為政の本拠地を言う。 公孫氏支配下の卑弥呼の為政の本拠地は「邪馬台國」である。 従って、2に言う「至女王國」語は「至邪馬壹國」語と同じである。 但し、卑弥呼遷都後のそれは「奴國」である。 3、「③の邪馬台國ルート」と「④の女王國ルート」は同一のルートである。 《3の解説》 ④のルートは[原文5]の【岩元解説】に書いたが末盧國を経由する。 4、従って、④の「12000餘里」の旅程の構成は「水行」と「陸行」で成 り立っている。 《4の解説》 ④の「自郡至女王國萬二千餘里」のルートには、その旅程の構成が如何に なっているかが明記されていない。 しかし、③が④と同じコースならば表記のことが言える。 5、(ここより地図参照)④の「自郡至女王國萬二千餘里」と言うルートの移動 方法とその距離 水行部分・・TA=1000 餘里。AB=4000 餘里。BF=5000 餘里。 (末盧國へ上陸。) 陸行部分・・FY=2000 餘里。(末盧國から邪馬台國へ)水陸計 12000 餘里。 《5の解説》 倭人伝叙述にはTA間の距離とBF間の距離を明示しない。 この算出方法は以下の通り。 ✿TA間の距離の求め方 朝鮮半島の地図を見ると、T→A→原文の「乍南乍東」部分→C, つまり、「狗邪韓國」までは通算 7000 餘里である。 つまりTA間=7000 餘里 -「乍南乍東」部分。 「乍南乍東」部分が直線の場合はAからCの「狗邪韓國」までは 22 4,000 2 + 4,000 2 =5,657 の計算式により、5657 里を得る。 これはAC間の最小値である。 従って7、000餘里 -「乍南乍東」部分で算出されるTA間距離の 1343里は最大となる。 つまり、この数値以上のTA間距離はない。 更に、倭人伝行程叙述の郡より末盧國に至る間に使用される距離数は 総て 「千里」 単位である。 以上により、TA間は次の不等式で表せる。 1000≦ TA ≦1343 帶方郡治所Tより、A点に至る距離は「千餘里」と表現する以外にない。 ✿BF間距離を求める。 BFは直角三角形BCFの斜辺である。 直角三角形の直角に交わる二辺が3:4であれば、その斜辺は5である。 つまり、BFの距離は「5000 里」である。 以上の計算により、女王國ルートの「自郡至女王國萬二千餘里」の移動 距離は、「水行」=10000 餘里、 「陸行」=2000 餘里、 『合計』の 12000 餘里である。 6、倭人伝は、女王國ルートの「陸行」、2000 餘里を邪馬台國ルートでは一ヶ月 つまり、30 日と言ったことになる。 《6の解説》 ⑤ のルートは末盧國を経由するので「陸行」は末盧國・邪馬台國間の 「2000餘里」である。 7、当時の一日の歩行距離は「40 里」と計算するから、2000 餘里は 50 日掛か ると計算できる。50 日掛かるものを 30 日と言ったことになる。 30/50=3/5=倭人伝行程叙述の縮尺率 《7の解説》 一日の歩行距離は「40 里」の典拠は魏書の明帝紀にあり。 8、魏の標準里は 437.4 ㍍であるから、 倭人伝に載る一里は 437.4×3/5=262.44 と言う式により、 262.44 ㍍であることがわかる。 《8の解説》 倭人伝行程叙述に載る「里程」の区間は一里、262.44 ㍍で計算できる。 23 9、――――――――――――――――――――――――――――――――― 末盧國・邪馬台國間=2000 里。2000 里×262.44 メートル=524.88 ㎞。 これは、末盧國の国都を大宰府と見て、奈良までの距離に符合する。 ――――――――――――――――――――――――――――――――― 末盧國・奴國間=600 里。 600×262.44 メートル=157.464 ㎞。 これは、大宰府・日向間の距離に符合する。 ――――――――――――――――――――――――――――――――― 邪馬台國・朱儒國間=4000 里。4000 里×262.44 メートル=1049.76 ㎞。 これは、奈良・青森間の距離に符合する。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――
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