Genesis 28 (創世記28:1)「イサクはヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し、そして彼に命じて言った。『カナンの娘 たちの中から妻をめとってはならない。』」 旧約聖書全体を通して神さまは、神さまを信じる人が神さまを信じない人と結婚することを望んで はおられません。また繰り返しますが、これが、創世記6章で神さまの息子たちが人間の娘たちを 見たとき、と言っているのが神さまを信じる家系の人が神さまを信じないカインの家系の人と結婚 したという意味だと私が信じているゆえんです。そのことで神さまを信じる人はたったひとりしか残 らず、大洪水のさばきを招きました。 雑婚はいつでも神さまを信じないことに結びつきます。これは私からの警告です。私たちは、 若い人たちが年寄りの説教者からのアドバイスをあまり聞かない時代に生きています。年寄りに 何が分かるかと思っていますね。正直、本当のことが知りたいなら、特にこのことに関して私はたく さんのことを知っていますよ。何年もカウンセリングをして、とてもたくさんのカップルが私のところ へ来ましたし、彼らを何年にも渡って観察してきました。 お話は大体同じです。若い女性か、若い男性が自分は結婚したい、これぞという人に出会っ たと言います。相手はクリスチャンではありません。でも、その人と結婚して、その人を主に導きた い、と。もしもし、若いお嬢さん。もし彼を結婚する前に主に導けないなら、結婚したあとも導くこと はできませんよ。もしもし、若い男性よ。もしキミが結婚前に彼女を主に導けないのなら、結婚した あとも導くことはできないのですよ。神さまは、神さまを信じる人が神さまを信じない人と結婚する ことを禁じておられます。それは必ず悲しみを引き起こします。私は文字通り何百件もの場合を見 てきましたが、いまだ上手く行ったケースを見たことはありません。まだ一度もです!アナタは神さ まに勝つことはできません。神さまはみことば全体を通して、神さまを信じる人が神さまを信じない 人と結婚するべきでないことをはっきりと書かれています。 (IIコリント6:14)「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法 とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」 新約聖書はクリスチャンが、つり合わぬくびきをつけられてはならないことを厳格に言い渡して います。一部の批評家は私がそうしていると攻撃していますが、同じ講壇の上に未信者と一緒に 座ることは、つり合わぬくびきを負うことではありません!雑婚することでそうなるのです。彼らの 仲間になるのは、そういうことです。そして神さまは厳格にそのことを禁じておられます。 (創世記28:2-4)「『さあ、立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこ で母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい。全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを 与え、おまえをふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。神はア ブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け、神がアブラハムに下さっ た地、おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように。』」 今明らかにイサクは、神さまがアブラハムにくださった祝福、神さまがイサクに移してくださったそ の祝福が彼の息子、ヤコブに受け継がれなければならないことを理解しました。 (創世記28:5)「こうしてイサクはヤコブを送り出した。彼はパダン・アラムへ行って、ヤコブとエサ ウの母リベカの兄、アラム人ベトエルの子ラバンのところに行った。」 もしも、この家族の民族はと聞くなら、シリア人と言わなければならないでしょう。彼らは聖書の中 でそう呼ばれているからです。ときどき、「アブラハムはユダヤ人ですか?イスラエル人ですか?」 という質問が出されます。いいえ、実は彼はそうではありませんでした。イスラエルと名前を変えら れたヤコブのときまで、イスラエル人というのはいなかったのです。ヤコブの12人の息子たちがイ スラエル人でした。アブラハムから出たミデヤン民族の父だからと言って、アブラハムをミデヤン人 とは呼びませんよね。でも、彼はミデヤン人の父でもあるのです。 (創世記28:6-9)「エサウは、イサクがヤコブを祝福し、彼をパダン・アラムに送り出して、そこ から妻をめとるように、彼を祝福して彼に命じ、カナンの娘たちから妻をめとってはならないと言っ たこと、またヤコブが、父と母の言うことに聞き従ってパダン・アラムへ行ったことに気づいた。エ サウはまた、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気づいた。それでエサウはイシュマ エルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹 マハラテを妻としてめとった。」 私がイシュマエルの家系はもうおしまいと言ったときに何を意味したか、誤解する人がいるといけ ないので、聖書は彼の家系を追っていくことはしない、と言っておきましょう。でも、彼の家系がキリ ストの家系と交わるときに、彼の家系が書かれます。ここでは、エサウが行って、イシュマエルの 娘と結婚します。エサウは彼の父親がそれを喜ぶと思っているのです。なんという霊的認識の欠 如でしょう。イシュマエル人はカナン人やペリシテ人と同じように拒否された民族なのです。 神さま、べテルでヤコブに現れる (創世記28:10-11)「ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。ある所に着いたと き、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、そ れを枕にして、その場所で横になった。」 もうちょっとあとに出てきますが、彼がやって来たところはべテルです。文字通り、「神さまの家」で す。べテルはエルサレムの北約20キロのところにあり、ヤコブがあとにして来た家は、エルサレム の南、おそらく40から48キロのところにありました。これは、ヤコブが最初の日に少なくとも64キ ロくらいは旅したことを意味します。ずいぶん大急ぎでエサウから逃れていることが分かりますね。 彼はできるだけエサウから遠くに行きたかったのですが、エサウから遠くに離れることは、すなわ ち、家から遠く離れるということでした。 この夜、彼は何を感じていたと思いますか?まあ、とにかくとっても寂しかったでしょうね。それ だけは確かです。おそらく、ホームシックにかかっていたでしょう。記録に残されていることから考 えると、これが彼にとって、初めての外泊だったのです。 アナタは、初めて外泊したときのことを覚えておられますか?私は確かに最初の外泊のことを 覚えていますよ。そのころ私たち家族は、オクラホマ州のいなかのスプリンガーという小さな場所 に住んでいました。あれ以来、一度も飛びはねてはいない(Springer とSpringing をひっかけ たしゃれ)と聞いています。今も小さな町ですが、道路にはけっこう広いところもあります。 私たちの家の立っている同じ通りに、とても素晴らしい友人が住んでいました。その家までは おそらく、1.6キロにも満たなかったと思うのですが、当時の私は6キロ以上もあると思っていまし た。(大人になってから)そこに帰ってみたとき、何でもみんな近いことに驚きました。私が小さいと きには、すべてのものが遠いと思っていました。さて、その家の人たちがお泊りにおいでと誘ってく れました。そのうちには、私と同じ年恰好の男の子がいたのです。きっと、私たちは9歳か10歳く らいだったでしょう。彼がうちに迎えに来てくれて、一緒に彼の家へ行きました。 あの経験は絶対に忘れませんよ。おいしい田舎料理を頂いて、その家の人たちとその夕方を 楽しく過ごしました。そして暗くなるまでかくれんぼをしました。かくれんぼで、頭が一杯だったので すが、ときどき、暗闇のほうと見やって、ちょっとホームシックになってきました。そして誰かが寝る 時間だよ、と言いました。表の部屋にわら布団を出してくれて、私は小脇に抱えて持って来た寝巻 きに着替え、わら布団に横になりました。あれほど寂しかったことは生涯にまたとありません!ホ ームシックです!ああ、どれほど家に帰りたかったことでしょう!あちらこちらと長いこと寝返りをう っていました。やっとのことでうとうとして少し眠りましたが、次の朝、とても早く目が覚めました。 私が何をしたと思います?寝巻きを脱いで洋服に着替え、寝巻きを小脇に抱えて走って家に 帰りました。家に着くまで、一度も止まりませんでした。まだ誰も起きていませんでしたが、家に帰 ってきて本当に嬉しかったのです。最初の外泊です。そのあと、家からずいぶんと離れましたが、 あのはじめての晩ほどホームシックになったことは一度もありません。 ヤコブもどうだったかなあ、とよく考えます。実際、彼はもう大人でしたが、それでもホームシッ クになったと思いますね。リベカから離れたのは初めてです。彼はママのエプロンのひもにずっと 縛られていて、(tied to mama’s apron string はお母さんの言うなりになるという慣用句)今、そ こからほどかれたのです。彼は自立し、これは初めての外泊です。 何が起こったか見てください。石を枕にして横になりました。べテルは物寂しい場所です。大き なむき出しの岩のある、物寂しい荒野であると説明されてきました。海抜約400メートルの丘の間 にあります。それに匹敵するような場所がカリフォルニアの砂漠にたくさんあります。 べテルの近くを旅行したとき、私はバス・ツアーの一員でした。他の人たちは、私にとってべテ ルほど大切とは思えない場所に行きたがりました。べテルまで800メートルほどのところを通った ので、私はそこまで歩きたかったのですが、バスの運転手さんは時間がないと言いました。遠くか ら見ることができましたが、地形は物寂しく、人を寄せ付けない感じでした。でも、これは、ヤコブに とって、このときだけでなく彼の生涯のあとのほうでも、霊的な生涯のクライマックスでした。彼はこ の場所に来て、ここで眠るためにからだを横たえました。 (創世記28:12-13)「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられて いる。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。 【主】が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。『わたしはあなたの父アブラハムの神、 イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに 与える。』」 ちなみに、アブラハムがパレスチナの地にはいったあと最初に神さまがアブラハムに現れたのは ちょうどこの地域でした。 (創世記28:14)「『あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広が り、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。』」 今、神さまは最初にアブラハムに与えられたと全く同じ約束を与えておられます。神さまはイサク にこれを繰り返しましたし、今、それを確認してヤコブに確かに神さまがこのことをすると再確認し ておられます。 (創世記28:15)「『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、 あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを 捨てない。』」 このことは、とにかく急いで家を出なければならず、寂しく、ホームシックにかかっていたヤコブにと って、慰めだったことでしょうね。彼は遠い国に行く途中で、その最初の晩に神さまが「わたしはあ なたと一緒にいるよ、ヤコブ。そしてわたしがあなたをこの地に連れて帰ってあげよう」と言われま す。 夢の中で神さまがヤコブに与えられた幻は、天まで届くはしごでした。このはしごは何を意味 するのでしょう?主イエスさまが、ナタナエルを呼び出されたときにこれを解釈されたことがヨハネ の福音書1:45-51に記録されています。ちなみに、ナタナエルは知ったかぶりをする人で、イエ スさまのことを聞いたとき、「ナザレから何の良いものが出るだろう」と言いました。私たちの主は、 この男を取り扱われました。ナタナエルは「どうして私をご存じなのですか」とたずねます。イエスさ まは「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」と 言われました。ナタナエルの返事はこうでした。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエル の王です。」最初は疑っていたのに、彼を納得させるのは簡単でしたね。 そのまま引用してみましょう。 (ヨハネ1:50-51)「イエスは答えて言われた。『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、 とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見るこ とになります。』そして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の 御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。』」 このはしごは、何でしょう?このはしごはキリストです。御使いたちが人の子の上を上り下りし ていました。御使いたちがキリストに仕えていました。彼らはキリストの命令に従っていました。ナ タナエルはこのはしごの一番上から神さまの声を聞くのです。「これはわたしの愛する子。わたし はこれを喜ぶ。」 神さまは現在、キリストを通して人類に語っておられるのですよ。私たちが父なる神さまのもと に直接行くことはできません。ときどき、証しの中でだれかがこのように言うのを聞きますね。「わ たしが悔い改めたとき、私は直接神さまのもとへ来ました。私は直接神さまに近づくことができま す。」それはできませんよ。私たちは、“キリスト”を通して近づくのです。私たちが父なる神さまに 近づくことができるのはキリストを通してです。神さまの御前に出るには、その方法しかありません。 主イエスは言われました。 (ヨハネ14:6)「・・・『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなけ れば、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」 主イエス・キリストご自身がはしごなのです。私たちが上るのではなく、信頼することのできる はしごです。 この真理は最初、割り込む者であるヤコブに明らかにされました。私たちの主はナタナエルに 言われました。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」つまり、ヤコブで はなかったのです。ナタナエルは知ったかぶりでひょうきん者でしたが、彼はヤコブのようなペテン 師ではありませんでした。でも、この男、ヤコブは、神さまが取り扱わなければなりませんでした。 神さまは、この素晴らしい、栄光に満ちた約束をくださいましたが、おお、ヤコブには学ばなければ ならないことが何とたくさんあることでしょう! 今日の私たちみんながそうではないでしょうか?かみさまが私たちを訓練しなければならない ことは無理もありません。神さまが私たちをしつけなければならないことは無理もないのです。神さ まはご自分が受け入れる息子を懲らしめられます。神さまは訓戒されます。神さまはアブラハムに もイサクにもそうされました。ヤコブにもそのようにされます。この時点までは、すべてがヤコブの 思うようになっていました。 私は2歳の男の子をある夜に突然亡くしたというカップルから手紙をもらいました。その時まで は、すべては彼らの思うとおりになっていました。彼らは教会のメンバーでしたが、偽善者でした。 あまりにも多くの人たちが、教会のメンバーではあるけれど、主を個人的に知らないのです。主は 私たちをゆすぶらなければなりません。私たちを訓戒するために、神さまは私たちに試練が来るこ とを許されます。試練は私たちの背骨にすじがねを入れます。試練は私たちの生涯に勇敢さをも たらし、神さまのために立ち上がれるようにします。 ヤコブはまだまだ先がありました。彼が何をしたか、見てください。 (創世記28:16-17)「ヤコブは眠りからさめて、『まことに【主】がこの所におられるのに、私は それを知らなかった』と言った。彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれお おいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。』」 この聖書の箇所は、新しい教会を献堂するときに私が良く使う箇所です。「この場所はなんとおそ れおおいことだろう!」私は、ことに会衆が素敵な新しい建物を献堂しに来たとき、きっと何人かの 人たちにショックを与えていると思います。私は立ち上がって、周りを見回して言います。「この場 所はなんとおそれおおいことだろう。」 そのあとずっと、私はこの場所がおそれおおいのは、神さまから逃げようとしているヤコブのよう な罪人にとってだけなのだということを話して、会衆の人たちを友達として取り戻す努力をします。 すべての神さまの家、すべての教会は、神さまから逃げている罪人にとっておそれおおい場所と ならなくてはいけません。その場所は、罪人が、天から送られてきたはしごであるキリストを通して、 神さまと出会うことのできる場所、神さまと顔と顔をあわせる場所でなければなりません。 ヤコブが家から逃げ出したとき、彼は神さまについて偏った見方しかしていませんでした。ヤ コブは家から逃げ出したとき、神さまからも逃げていると思っていました。でも、神さまを家におい てきたのではないことに彼は気づくのです。彼は勢い込んで言いました。「まことに【主】がこの所 におられるのに、私はそれを知らなかった。」 ヤコブ、誓いを立てる (創世記28:18-19)「翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、 その上に油をそそいだ。そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前は ルズであった。」 さて、ヤコブの言うことに耳を傾けてください。彼は多くのことを学ばなければなりません。そしてこ れがその証拠です。 (創世記28:20-21)「それからヤコブは誓願を立てて言った。『神が私とともにおられ、私が行 くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして【主】 が私の神となられるなら、』」 彼は何をしているのでしょう?神さまと取引したいのです。彼は言います。「さて、かみさま。“もし”、 あなたがこのことを私にしてくださるなら・・・」でも、神さまはもうすでに、これらすべてのことを彼に してくださると“言われた”のです。「わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなた を守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは・・・この地を、あなた・・・に与える。そしてわたしは あなたに子孫を与える。」そのあと、ヤコブは振り返って、神さまと交渉します。「“もし”、あなたが このことをしてくださるなら、私はあなたに仕えます。」 神さまは私たちとそのような仕方で取引はされません。神さまはヤコブともそのような取引は されませんでした。もしも神さまがそうされたのなら、ヤコブは決してその地に帰って来ることはで きなかったでしょう。神さまはご自分の恵みとあわれみによって、ヤコブをその地に帰らせてくださ ったのです。最終的にヤコブがべテルに帰ってきたとき、彼は賢い人になっていました。彼が何を しに帰って来たか知っていますか?神さまを礼拝し、そのあわれみをたたえるために帰って来た のです。神さまは彼にあわれみ深くあられました。 現在でさえも、“もし”、神さまがこれこれのことをしてくださるなら、神さまに仕える、と言う人が たくさんいます。そんなことをしてはいけませんよ。神さまはそのような取引はなさらないのです。 神さまはアナタから何も求めることなく、アナタにあわれみをほどこし、アナタに親切にしてください ます。でも、神さまはもしアナタが神さまを愛するなら、本当に神さまに仕えたいと願うだろうと言わ れます。それは、愛の奴隷です。母親が小さな子どもに対して持つのと同じ種類の愛です。彼女 は子どもの奴隷になります。神さまはアナタと私をそのように慕っておられます。 (創世記28:22)「『石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十 分の一を必ずささげます。』」 そしてヤコブはこの石を立てました。彼は神さまと取引しようとしているのです!そして私たちのう ちのあまりにも多くが、神さまと取引しようと試みています。ああ、神さまはただキリストにある 信仰によって、あなたの“父”になりたいと願っておられるのです。
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