コラム 12- 勇敢なる水兵三浦虎次郎(写真)

コラム 12-
勇敢なる水兵三浦虎次郎(写真)
日清戦争において、日本は一兵卒に至
るまで皆命がけで戦いました。その象徴
的存在が、勇敢なる水兵三浦虎次郎です。
1894(明治 27)年 9 月、日清戦争での一
大海戦である黄海の海戦が生起します。
この海戦で清国の主力艦「定遠」「鎮遠」
を含む北洋艦隊と日本の連合艦隊が戦い
ます。
日本艦隊は、終始、整然とした単縦陣
で攻撃を繰り返し、当時、東洋で最強と
勇敢なる水兵三浦虎次郎
言われていた「定遠」
「鎮遠」を打ち破り、
黄海の海戦に勝利することができました。
「日本艦隊が終始一貫、整然たる単縦陣を守り、快速力を利して自己の有利なる形
において攻撃を反復したのは驚嘆に価する。清国艦隊はいきおい守勢に立ち、混乱し
た陣型のまま応戦するだけであった」
これはこの海戦を目の当たりにした米国海軍少佐が報告書に書いたものです。
この海戦で佐賀県出身の三浦虎次郎 3 等水兵が、連合艦隊の旗艦「松島」に乗艦し
ていました。当時の日本は「清国に定遠と鎮遠がいる限り、日本は危ない」というの
が、日本国民の共通認識であり、これが、日本軍の一水兵にいたるまで浸透していた
のです。
この海戦の戦闘中に、三浦虎次郎 3 等水兵が乗艦していた「松島」に敵弾が命中し、
甲板に積んであった弾丸が爆破してその破片によって多くの死傷者がでます。このと
き、三浦虎次郎 3 等水兵も破片によって、腹をえぐられて瀕死の重傷を負います。
そこを「松島」の向山副長が通りかかると、瀕死の重傷を負った三浦 3 等水兵が、
副長に対して「副長、定遠はまだ沈みませんか」と引き絞った声で苦しそうに叫びま
す。
これに対して、副長は「安心しろ、定遠は戦闘不能に陥った」と答えます。これを
聞いて、三浦 3 等水兵は「仇を打ってやってください」と安心して微笑みながら、そ
のまま息を引き取ったといいます。三浦虎次郎 3 等水兵、19 歳でした。
この黄海の海戦に勝って、日本国中が大勝利に湧きかえり、多くの軒々に日の丸が
掲げられました。そして、その後、三浦虎次郎 3 等水兵の勇気に多くの国民が感動し、
「勇敢なる水兵」という唱歌が多くの子供たちに歌われ、長く国民の胸に刻まれたの
です。
昭和 4 年、三浦虎次郎の 35 回忌に顕彰碑が作られましたが、戦後、GHQによっ
て壊すように強要され、拒み続けたものの、ついに、碑文だけを削ることになりまし
た。
その後、佐賀県知事や地元有志の浄財によって記念碑が修復され、昭和 36 年に三
浦虎次郎の慰霊祭が行われました。
<唱歌:勇敢なる水兵(抜粋)>
1 煙も見えず雲もなく 風も起こらず浪立たず 鏡のごとき黄海は
曇りそめたり時の間に
4 弾丸(たま)のくだけの 飛び散りて 数多(あまた)の傷を身に負えど
その玉の緒を 勇気もて 繋ぎ留めたる 水兵は
5 間近く立てる 副長を 痛むまなこに 見とめけん 彼は叫びぬ 声高に
「まだ沈まずや 定遠は」
6 副長の眼は うるおえり されども声は 勇ましく
「心安かれ 定遠は 戦い難く なしはてぬ」
7 聞きえし彼は 嬉しげに 最後の微笑(えみ)を もらしつつ
「いかで仇を 討ちてよ」と いうほどもなく 息絶えぬ
8「まだ沈まずや 定遠は」 その言の葉は 短かきも
皇国(みくに)を守る 国民(くにたみ)の心に永く しるされん