全米女性機構の政治行動様式とアメリカ内政

久保ゼミ最終レポート
2004 年 2 月 10 日提出
全米女性機構の
全米女性機構の政治行動様式と
政治行動様式とアメリカ内政
アメリカ内政
東京大学大学院法学政治学研究科
公共政策Ⅱ専修 2 年 26174
矢本 あや
第一章
はじめに
全米女性機構(NOW)は、アメリカ最大規模を誇る女性組織である。この団体は 1966
年に、連邦政府の雇用機会均等委員会が女性差別を無視し続けていることに不満を持った
人々を中心として設立された。1その目的は、
「すべての特権と責任を行使して、男性とまっ
たく平等の共同関係を構築し、現在のアメリカ社会の主流に女性を参加させるため行動す
ること」とされている。メンバーは男性を含め 580000 人にのぼり、彼らの会費により 74%
の資金が賄われている。その他の資金源として、寄付金が 17%、売り上げが6%となって
いる。組織は、ナショナル、地域、州、支部(Rocal Chapter)とレベル別に分割され、そ
れぞれが異なる役割を分担している。デモや啓蒙活動といった諸活動のすべてを担ってい
るのが支部である。最も草の根的な部分を担当している。しかし、その活動は受動的なも
のばかりでなく、その司令塔となる National conference に代表を派遣することで、活動で
の反省を全体にフィードバックすることができるようになっている。州政府の政策決定へ
の働きかけを担当するのが、州組織である。彼らは、ロビーストを雇ってこの任務を遂行
する。しかし、いくつもの州が独自に行動をすると、相互に調整する必要が生まれる。そ
こであくまで調整に特化した地域組織が必要とされ、それが 9 つある。最高レベルの組織
に当たるのがナショナルである。2 ヶ月に一回 42 人のメンバーは定期会を開催し、資金調
達や National conference の議題などについて話し合っている。機構全体の方向性を決定す
るのは、この National conference であるが、これは 1 年に一回しか開かれないため、その
端境期においてはナショナルの会議でその意思決定を代行することもある。最近の関心事
項としては、中絶問題、憲法上の男女平等、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル権、女
1
60 年代は、公民権運動に代表される平等主義的風潮の高揚した時代であり、数々の画
期的な人種差別是正の法律が制定された。これに呼応して、男女の平等もまた、当然のこ
ととして受け止められるようになり、1964 年、雇用における性差別を禁止した性修正条項
を公民権法に含める法案が下院を通過した。この法律の実施機関として設置されたのが、
雇用機会均等委員会である。
性雇用差別問題、生殖権、D V、人種問題などが挙げられるだろう。2
本論文では、NOW がどのようにして政治に働きかけてきたのかに注目し、その変遷を描
き出したい。また、政治行動様式の変化は政治環境の変化により最も効果的な働きかけの
方法論が変化してきたことを示している。よって、並行してアメリカ政治、社会がどのよ
うな変化を遂げてきたのかを見ていくことも重要だろう。
日本において、アメリカの女性問題を取り扱った文献は数多くある。そしてその随所に
NOW の言及を見つけることができる。しかし、それはあくまで全体の流れの中で NOW が
何か象徴的に行った場合に限られ、通史としての NOW の発展を描いたものはない。また、
その結果当然、NOW の政治行動様式とアメリカ政治の相関関係について書かれたものはな
い。一つの組織に注目し、その組織を通じてアメリカ女性問題の変化を追うというのは新
鮮な試みであると考える。
第二章
政治行動様式の
政治行動様式の草創期
草創期
第一節
政治行動様式の
政治行動様式の発展
1)NOW 設立以前の女性の政治行動様式
アメリカにおいて、女性が社会に対して集団で権利を主張するようになったのは、参
政権獲得運動であると考えられるだろう。それは、1848 年セネカホール大会という会議で、
女性による女性のための女性の市民的権利を世界で初めて要求したことに始まる。この大
会は、その後に続く一連の女権拡張のための大会を生み出すことになるが、この時期は運
動のための恒久的組織が形成されることはなかった。彼女たちの政治的な働きかけは、「嘆
願書の署名」という形をとり 1860 年に最高潮に達した。
南北戦争を経ると、女性の間で運動母体の組織化の必要が痛感されるようになり、1869
年には全国女性参政権協会(NAWS)が設立された。この組織は、当初両政党から無視さ
れた状態に置かれていたが、巨大な会員数を誇る組織に成長したことで、1912 年の大統領
選挙で発言権を確保することに成功し、1920 年女性の参政権獲得に大きな役割を果たすこ
とになった。この間、後に「全米女性党」と改組される議会連合のように、議会での座り
込みや派手なデモ行進、ストライキなどの市民的不服従の行為を通じて公に主張する組織
も現れた。この組織は、参政権を手にすると、新しい女性運動の目標を、女性に対する一
切の法律的不平等の撤廃におき、1923 年以降、毎年、男女平等憲法修正条項を議会に上程
し続けた。しかし、これは当初大半の女性組織を含めた強硬な反対に遭遇した。また、ロ
ビー活動は、組織会員全員を巻き込んで行ういわゆる選挙民ロビー活動ということのでき
2
NOW ホームページ(http://www.now.org)
るものであった。3会員はそれぞれに請願書の作成、あるいは議員を訪問したり、議員への
手紙書き、電話あるいは電報を通して行う圧力行動を行った。こうしたロビー活動は、会
員に参加する活動の機会を与えることによって集団で何か行動をしたという達成感を与え、
組織の存在意義を確認する上で好都合である反面、効果の面ではそれほど期待できないも
のであった。まずそこで働く会員は通常、議員に有益な新しい情報を提供できるほど、十
分熟練していなかった。また手紙や請願書は、最大限の政治的影響力にはならなかったか
らである。
2)裁判訴訟
1966 年、すでに述べた経緯により全米女性機構(NOW)が設立された。全米女性機構
は当初、雇用機会均等委員会の性差別のガイドラインを変更させようとした。しかし、そ
の政策を変更することが困難であることに気がつくと、裁判訴訟を展開するようになった。
この試みは成功し、1969 年、第 5 巡回裁判区で全米女性機構が起こした訴訟、ウィークス
対サザン・ベル・テレフォン判決が下された。同判決は、労働保護法を、公民権法第 7 条
項に違法するとした。4男女平等憲法修正条項の反対意見は、労働保護法を維持することを
主張していたため、この法解釈は大きな打撃となり、次第に反対から賛成へと意見を変化
させる組織が増えていった。また、60 年代末から 70 年初頭にかけて誕生したニュー・フェ
ミニズムの主張は、マスメディアの注目を集めた。結果としてそれは膨大な宣伝効果をも
たらし、男女平等憲法修正条項支持の世論を形成した。
3)議会への圧力(一握りの活動家たちによる議会への集中的な働きかけ)
修正条項支持の世論が高まる中で、全米女性機構は議会への圧力行為を展開した。1970
年 2 月全米女性機構の議長ウィルマ・スコット・ハイドをはじめとする 20 人の女性は、18
才以上の男女の選挙権を認めた憲法修正第 2 条項に関する公聴会の席上、男女平等憲法修
正条項の公聴会を開くことを要求し、同公聴会の審議の妨害を図った。議会の憲法修正小
委員会は彼女たちの圧力に屈して、上院で男女平等憲法修正条項の公聴会を開いた。同公
聴会では、史上初めて、労働省が男女平等憲法修正条項を支持した。5その後この法案は、
70 年 8 月には下院で、72 年 3 月には上院で可決されるに至った。
このころより、女性組織はこれまでの価値提示型の運動から脱却し、6次第に圧力活動を
運動の主要な戦略に組み入れるようになった。議会の多数派が男女平等政策を支持するの
進藤久美子『ジェンダー・ポリティックスー変革期のアメリカ政治と女性』
(新評論、1997
年)102 ページ
4 Freeman,Jo,”From Protection to Equal Opportunity:The Revolution in Woman’s Legal
Status”Tilly,Louse,and GUrin,Patricia,ed.,Women,Plotics and Change,p.469
5 Berry,Mary Frances,”Why We ERA Failed:Politics, Women’s Rights, and the
Amendment Process of the Constitution”Indiana University Press,1986,p.63
6 進藤前掲書、74 ページ
3
を目の当たりにして、もし組織が議会に対して、一層効果的にロビー活動を展開すれば、
さらに多くの男女平等政策が議会を可決する可能性があることを感じ取っていたのである。
また、以下で述べるとおり、修正条項成立のためには全米 50 州の 4 分の3の州批准を手に
しなくてはならなく、そのために多くの女性組織がロビー活動を効果的に展開する必要が
新たに生じていたのである。
全米女性機構も、72 年から 73 年にかけてワシントンにオフィスを解説し、ロビイストを
雇い入れるようになった。そこでは、伝統的な選挙民ロビー活動に変わって、議会の議員
や行政政府の官僚に対して直接圧力行為をかける、直接的ロビー活動の方式をとった。ロ
ビイストたちは、組織の意向を受けて、法案の草案づくりに積極的に参加したり、委員会
で議題にかけられている法案の修正に対する敏速な評価をした。また法案を通過させるた
めに必要な票の収集を行い、法案を支持する議員を援助した。
第二節
州批准キャンペーン
州批准キャンペーンを
キャンペーンを通じての政治参加様式
じての政治参加様式の
政治参加様式の確立
1)参加型同盟
男女平等憲法修正条項は、フェミニスト達を結集させた。ロビー活動をより効果的に行
うため、彼女達が選択した方法が同盟の結成である。72 年ウィメンズ・ロビーの呼びかけ
により、30にのぼる女性組織や市民組織が「男女平等憲法修正条項州批准委員会」を結
成された。同批准委員会では、州レベルの批准を推進するために、男女平等条項に関する
情報の収集と、研究センターの機能を果たすことを目的としていた。7
この同盟では、政策形成戦略集団ともいえる行動決起委員会が内部で形成され、参加組
織の活動が重複する無駄を省くために、それぞれの組織が最も経験をつみ、得意としてい
る活動分野のみに従事できるよう、活動分野の割り当てを行った。たとえば全米女性政治
幹部会は、男女平等憲法修正条項に反対している議員を確認し、同議員に対抗する候補者
を擁立し、再選を阻止する役割が与えられた。全米女性有権者同盟には、選挙民に男女平
等憲法修正条項に反対する人の多い、小さい都市で、ロビーストを要請する役割を分担し
た。全米女性機構に与えられたのは、修正条項に反対する議員の記録やその政治・経済的
同盟者を分析し、どの組織、あるいは個人を動かせば、同条項に反対する議員の意見を支
持に変えられるか調査する役割を担当した。
この方法論は、州レベルの同盟形成を促し、運動の人的資金的リソースの増大を促した
点、運動の戦略が多様になったという点できわめて有利であった。また、女性の権利の主
張を議会で実現させる、いわば受け皿となる議員たちとの間の連携(リエゾン)が円滑に
行われるようになった。
7
進藤前掲書、109 ページ
2)パブリック・キャンペーン
男女平等憲法修正条項は、一方で反フェミニストの政治活動を動員させる争点としても
機能し、新右翼が急速な勢いで台頭してきた。その勢力のカリスマ的存在であるフィリス・
シャフライに対抗して出てきたのが、全米女性機構のエレノア・スミールであった。彼女
は、1977 年全米女性機構の議長に就任すると直ちに男女平等憲法修正条項の州批准キャン
ペーンを全米女性機構とフェミニズム運動の第一優先順位におき、実現のための「歴史的
好機」という立場を貫いた。そして運動のあり方を、州議会に対するロビー活動から、メ
ディアを中心とした全国的なパブリック・キャンペーンへと変えていった。8その具体的行
動は、いまだ批准していない州に関して、その州の生産物の不買運動を展開する戦術や、
ワシントンでの連邦政府と議会への大衆デモ行進などの大衆運動の展開であった。後者の
行進では、フェミニストたちはかつての女性参政権運動に結び付けるために、白い衣服を
まとい、運動のシンボル旗だった紫、白、金の三色旗を掲げた。同行進は、世論とメディ
アの関心を集め、女性運動の歴史的意義を改めて再評価させ、多くの人々を動員させるの
に役立っていた。
第三節 背景となる
背景となる内政
となる内政
19 世紀前半のアメリカは、コモンマンの台頭に象徴される、平等主義の効用した時代で
あった。そして 1830 年代ニューイングランドを中心に、人道主義的なトランセンデンタリ
ズムが興隆し、それは禁酒運動など、一連の人道主義的社会改革運動をいっそう促進させ
ていった。そのひとつである奴隷制反対運動では、女性たちが大きな役割を果たし、ここ
で彼女たちは選挙民ロビー活動とくくられるような一連の政治行動様式を学んだ。この手
法は、また草の根の支持を拡大するのに効果的であり、女性自身の啓蒙を必要としたこの
時期には適合的であった。
こうした蓄積が、70 年代の男女平等憲法修正法案の連邦議会可決に結びつくことになっ
たのだが、これが草の根の女性組織の広範囲な圧力活動の直接的結果ではなかったという
点が指摘されなければならない。9それはむしろ下院議員や一握りの活動家たちによる議会
への集中的働きかけの結果であった。確かに、1920 年に女性参政権が認められ、第二次世
界大戦を経て女性の社会的地位が上がったことで、政治家が彼女らの声に耳を傾ける必要
が生まれたのは事実である。60 年民主党の大統領候補ジョン・F・ケネディーは0.1%
という僅差でニクソン共和党大統領候補を破り、大統領に当選しており、大統領選を通じ
てこれまで民主党を支えてきていたニューディール連合の支持票が崩壊しつつあることを
察知していた。そこでその代替票として黒人票とともに、女性票を民主党のあたらしい支
NOW ホームページ「Chronology of the Equal Rights Amendment」
(http://www.now.org/issue/economic/cea/history.html)
9 進藤前掲書、66 ページ
8
持基盤に組み入れることが賢明であると判断したのである。ケネディーの方針は、ジョン
ソン大統領にも引き継がれ、彼の下で民主党は、積極的に男女平等の政策を展開していっ
た。議会もまた公民権運動の高揚を背景に、平等主義的政策を多く可決していった。こう
した政策を後押しした議会のリベラルな投票集団は、人種差別撤廃の文脈からまた男女平
等を積極的に支持するようになった。有権者の変化を敏感に察知した議員が、新しい票を
開拓しようとし、一部情報を握る活動家と連携しながら議会への働きかけを行ったという
のが事実だろう。
では、なぜ全米女性機構はその行動様式の比重を世論への働きかけに移行させたのであ
ろうか?もちろん、この機構の目的が利権の追求になく、「平等と公平」という「価値達成
方」である以上、政治動員を円滑に稼動させるために世論への積極的な働きかけは不可欠
である。10しかし、スミールが「歴史的好機」と呼んだ背景には、この時代のアメリカ社会
の風潮があっただろう。70 年代中葉のアメリカ社会は、市民の政治不信が極めて強い時代
でもあった。73 年のオイルショックにより、米国政府の経済政策に対する国民の不信感が
募っていた矢先に 74 年、ウォーターゲート事件においてニクソン大統領が議会の弾劾を受
け、大統領府を去ると、民衆の政府に対する政治不信は一層強められていった。また、ベ
トナムへの長期介入は、アメリカ経済に深刻な打撃を与え、失業者の増大を招いた。こう
してアメリカ国民の間では、社会改革の潜在的欲求が高まってきていたのである。その結
果、70 年代は実にさまざまな市民が政治に動員されるようになり、組織化された市民集団
が急増していった。女性団体もその例にもれず、自らの選挙区で女性集団の票に注目せざ
るを得ない議員たちの関心を、これまでになく女性たちの利益と保護へと向けさせる結果
となっていったと考えられる。
第三章
超党派の
超党派の放棄と
放棄と政治活動の
政治活動の開始
第一節 選挙活動
1)ジェンダー・ギャップの強調
80 年の大統領選挙で、守旧的な女性観と女性政策を主張するロナルド・レーガンが大統
領に選出されると女性組織はその巻き替えし策のとして一環として、
「ジェンダー・ギャッ
プ」の存在を強調し始めた。「ジェンダー・ギャップ」とは、本来男性と女性の投票行動の
違いを意味し、政治的態度のジェンダー間の差を示唆している。アメリカ政治の文脈に置
き換えると、その言葉は男性に比べてより多くの女性がレーガン政権に反対し、民主党を
支持しているということを意味していた。11
実際にアメリカ大統領の結果を分析する際、もっとも信頼の置かれている選挙当日調査
(通称出口調査)において、80 年の選挙においては、54%の男性がレーガンを支持した
10
11
進藤前掲書、126 ページ
進藤前掲書、176 ページ
のに対し、女性票の場合、レーガンを支持したのは46%にとどまっていたことを明らか
にし、8%の「ジェンダー・ギャップ」が存在することを指摘した。12この結果に対し、全
米女性機構をはじめとする女性組織は、集団票としての女性票を強調し始めた。中でも全
米女性機構は、大統領選挙後の数ヶ月後に『女性は政治を変えられる』という表題の、20
ページ大のパンフレットを作成し、
「ジェンダー・ギャップ」の存在を分析して見せた。真
実はともかく、この効果は計り知れなく、レーガンは彼の政権にまとわりつく反女性イメ
ージを払拭することに大きな力を注ぐ必要に迫られることになった。
2)女性議員を議会に送りこむための選挙運動
レーガン政権が反フェミニスト的な女性政策を展開していくと、女性組織がその主張を
政策に還元していくためには、従来のロビー活動を中心とする戦略に加えてより積極的な
運動の戦略を新しく開拓する必要が生じた。その結果女性組織は次第に、少しでも多くの
女性議員を議会に送り込むための選挙活動を重要視するようになった。全米女性機構も 82
年より多くの女性を政府の官職につけることを確認すると同時に、フェミニスト的な見解
を持った候補を男女問わず支援することに決めた。また主要なフェミニスト組織の政治活
動委員会(PAC)は定期的に会合を持ち、支援する候補者に対する寄付や資金援助、ある
いは選挙運動をどのように展開するかについて互いの意見や情報を交換するようになった。
13費やされる資金も膨大なものになり、たとえば
82 年、全米女性機構は、連邦下院候補の
選挙キャンペーンに 50 万ドル、さらに週の上下両院議員候補の選挙キャンペーンに 100 万
ドルを与えた。そのうちの85%は民主党の候補に対して使われた。14
もともと、全米女性機構は超党派であった。しかし、80 年代、レーガン政権と共和党の
反女性性政策に対抗していく過程で、特定の政党(民主党)を積極的に支持する必要が出
てきた。15こうした状況で、彼女らは 84 年、88 年の大統領選挙で民主党の登綱領の作成に
New York times,Nov.9,1980,p.28
1980 年代のジェンダー・ギャップに関する本
Mueller,Caroll M.,The Politics of the Gender Gap:The Socical Construction of Political
Influence,Newbury Park:Sage Foundation,1988
13 Sapiro,Virginia”The Women’s Movement,Politics and Policy in the Regan
Era,”Dahlerup, Drude,ed., The Women’s Movement;Feminisum and Political Power in
Europeand the USA,London:Sage Publications,1986,p.136
14全米女性機構では、莫大な費用を要するメディア中心のキャンペーンを行うようになって
から政治資金を調達し、再分配するための「政治活動委員会(PAC)」を設立し、女性候補
に対する資金援助やその他の選挙支援活動を 70 年代半ばから本格的に開始した。
(相内真
子「アメリカの政治―『女性と政治』の視点から」125 ページ)
15 80 年選挙において協和等は 1940 年以来初めて ERA(男女平等憲法修正条項)に対して
も反対の立場を打ち出し、中絶問題とともに、フェミニストの権利要求に対して敵対的共
和党と親和的な民主党という二大政党の女性政策の相違を鮮明に印象付けることになった。
この対比はその後も 84 年、88 年、92 年と大統領選挙の年ごとに再現されていくことにな
る。(荻野 110 ページ)
12
大きな影響力を持ち、84 年の民主党女性副大統領候補の指名に決定的役割を果たすように
なっていた。16なお、ここでも女性組織間で同盟が組まれ、全米女性機構はジェンダー・ア
クション・キャンペーンを担当し、ジェンダー・ギャップの存在を強調する宣伝活動に従
事している。
第二 節
背景となる
背景となる米国内政
となる米国内政
レーガンを支持したのは、東部の大企業経営者、サンペルト地帯の企業家、あるいは愛
国主義的な億万長者といった経済的保守派の人々と、右翼の知識人がいた。だが、そうし
た積極的で伝統的な共和党支持者に加えて、レーガンはいわゆる「新しい共和党員」の票
もまた獲得していたのである。彼らは、79 年代の男女平等憲法修正に象徴される連邦政府
の平等主義や、堕胎の合法化に反対する人々であり、道徳の退廃や家族の崩壊に危機感を
募らせていた人々であった。彼らは、政治的領域よりむしろ社会的領域にあって、保守穏
健的な価値観と生活態度を目ざし続けた社会的保守層を形成する。「新ポピュリスト」とも
呼ばれる彼らは、80 年代選挙で民主党から共和党へと鞍替えした白人中産階級とプア・ホ
ワイトから成り立っていた。
レーガンの政策顧問達は、こうした新しい支持基盤を作り上げていくと同時に、新しい
選挙資金源を作り上げていった。アメリカの企業が、巨額の政治資金を保守的な候補を支
援するために費やすようになった。アメリカ史上初めて、政党を基準にするのではなく、
イデオロギーを基準に選挙資金が提供されるようになった。
いわゆるネガティブ・キャンペーンも広範囲に行われるようになった。新右翼政治活動
委員会は、リベラル派の上院議員に的を絞って彼らを攻撃の対象にした。全米保守政治行
動委員会は、80 年代の選挙を通じて、ネガティブ・キャンペーンに 200 万ドルを費やした。
17
こうした状況において、女性組織が一定の発言権を確保するためには、現政権自体が女
性組織の主張に耳を傾けざるを得ない状況を作り出すか、もしくはより積極的に自らの主
張に同調してくれる議員を送りこむ必要があった。
第四章
第一節
リベラルの
リベラルの復活!?
復活!?
政治環境の
政治環境の変化
1992 年 11 月、連邦政治の場でほとんど無名に近かったアーカンソー州知事ウィリアム・
進藤前掲書、第 4 部 263~322 ページ
古瀬容子「1984 年選挙の考察~フェミニスト団体の活動 そして教訓~」
(http://www.geocities.com/kubozemi10/yfuruse.htm)
17 進藤前掲書、175 ページ
16
ジェファソン・クリントンが、現職の大統領ブッシュを破り、大統領に選出された。同大
統領選で民主党のクリントンは、女性票の45%を確保し、共和党のブッシュを支持する
女性票に 8 ポイントの差をつけていた。クリントン支持の男性票が41%、ブッシュ支持
の男性票が38%で、3 ポイントの差しかなかったことを考慮すると、この大統領選挙の結
果は、女性票のクリントン支持がクリントン勝利に無視しえぬ貢献をしていたことを示唆
していた。18
92 年の選挙ではまた、連邦、州、そして地方の政治レベルで、女性たちが、目覚しい政
治的進出を果たした。同選挙では、連邦下院に、新たに 24 名の女性議員が選出された。そ
の結果、女性議員は下院全体の11%を占めるまでになった。80 年の段階で4%であった
ことを考えるとまさに激増である。19しかも、
「男性の府」と呼ばれた上院も、92 年の選挙
で一挙に 6 名に増大し、6%の女性議員が占めるようになった。20
州議会で女性議員の占める割合もまた、1971 年の4%、80 年の 12%から 93 年には20%
以上へと、約 20 年に 5 倍の増大を見せていた。21全米で 3 万人以上の人口を持つ年の女性
市長の割合は、80 年の8%から、95 年には18%へと倍増を見せている。
しかし、94 年の中間選挙では、クリントンは経済的に有利な条件で望んだにもかかわら
ず、与党民主党が、上院で 9 議席、下院で 52 席を失い、共和党に過半数を制せられた結果
となった。この中間選挙における民主党の敗北はさまざまな文脈で説明されているが、多
くは 80 年代新保守主義を支えていた人々の新しい改革政策を目指すクリントン政権への巻
き返し―バックラッシュ―という文脈で捉えられている。22女性議員は数の上では後退はな
かった。しかし、共和党の女性がかつてない進出を果たしたことは特記に値する。彼女た
ちの中には中絶選択権を否定したり、「貧困の女性化」をいっそう深刻にする福祉政策の見
直しを主張するものもあらわれ、捕獲を問わず連邦議会の女性たちにある程度共有されて
きた「女性の利益を擁護する」政策立場に変化が生じてきていた。23
危機感を抱いたクリントンは、96 年の大統領選挙で何よりも女性票を離反させないこと
を重要な戦略にすえた。24その結果、クリントンを第二期大統領職に就任することに成功し
た。同選挙での女性の投票率は、男性のそれを凌いだ上、25男性票が共和党ドール大統領候
補と民主党のクリントン大統領候補に関して、それぞれ43%、44%を記録したのに対
18New
York times,Nov.10,1992
Heinemann,Sue,Timelines of American Women’s History, New York; The Berkley
Publishing Group,1996、p.101
20 Ibid.,
21 Costello and Kringold ed., The American Woman:1996-1997,Where We Stand, New
York:W.W.Norton&Company,1996,p.338
22 進藤前掲書 334 ページ
砂田一郎「リベラリズムの衰退と再生への模索」
『32 ページ
23 相内前掲書、118 ページ
24 相内前掲書 133 ページ
25 進藤 335 ページ
19
して、女性票は圧倒的多数がクリントンに回った。クリントン支持の女性票は 54%であり、
ドール支持の女性票の 38%を 16 ポイントも上まったのである。26
第二節
全米女性機構の
全米女性機構の貢献
全米女性機構はどのような貢献を行ったのだろうか?
パブリック・キャンペーンを重視し、大衆運動を先導した全米女性機構であったが、1982
年男女平等憲法修正条項の州批准に失敗して以来、しばらくは大規模な運動を組織するこ
とはなかった。それを打ち破ったのが、86 年の「East coast/West coast March for Women’s
Lives」である。ここでは、12 万人を超える人々がワシントンとロサンジェルスに結集し、
中絶権を守るためにデモ行動を行った。89 年に危機がより明白になると、27ついに過去最
高の 60 万人を集めるデモ行動を組織することに成功、それにとどまらず 92 年の「March for
Women’s Lives」においては、75 万人を動員するに至った。ここに来て、中絶問題は 92 年
の大統領選挙の大きな政治争点として浮上しており、全米女性機構が行ったデモ行進がア
メリカ政治に大きな影響力を発揮したことが伺える。28
そのような大衆運動にとどまらず、92 年は選挙に向け「Elect Women for a Change」と
呼ばれるキャンペーンも実施している。これはフェミニストの候補者に対して、各種の選
挙活動、電話、戸別訪問、ポスターや資料の配布といった経験をつんだスタッフやボラン
ティアを派遣し、他組織との同盟により PAC の資金のより効率的な運用を図った。29
こうした活動は、94 年の選挙の失敗を受けてより精力的な形で継続され、95 年には女性
への暴力、中絶阻止のためのテロや議会への政治経済攻撃を含める、に反対する集会や、
視覚的キャンペーンを開催、対共和党からのバックラッシュに対して全米女性機構の姿勢
を誇示する試みを繰り返した。96 年の選挙の年には再びデモ行進を行ったほか、グラスル
ートの活動によりフェミニストの候補者を積極的にサポートした。
第三 節
グラスルート・
グラスルート・キャンペーンの
キャンペーンの実態
アメリカ最大規模の会員数を誇る全米女性機構は、以上のように数で勝負するデモ活動
New York Times、Nov.10,1996,p.28
連邦最高裁ウェブスター判決。最高裁が憲法を根拠に認めた女性の中絶の権利を事実上
否定し、後一歩でロウ判決を覆すところまで行った判決。詳細は荻野前掲書 123 ページ
28 72 年から 92 年までの 6 回の大統領選挙で中絶問題が有権者の投票行動にどのような影
響を及ぼしたかを分析したある研究によればそれ以前の選挙に比べて 92 年には、有権者が
党への支持や政治イデオロギー、国家経済などと並んで中絶問題を重視する傾向が強く見
られたという結果を得ている(荻野美穂『中絶論争とアメリカ社会―身体をめぐる戦争』
(岩
波書店、2001 年)137 ページ)
29 大津留智恵子「
『ジェンダー・ギャップ』と連邦女性議員」305 ページ
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やグラスルートの活動に長けている。では、全米女性機構のグラスルート・キャンペーン
とは、具体的にどのようなものなのだろうか?資料の関係により、もっとも最近の 2004 年
大統領選挙に向けた活動を紹介する。30
全米女性機構では、現在 2004 年の大統領選挙に向け「The Drive for equity」と呼ばれ
るキャンペーンを展開している。その目的とは、G.W.ブッシュ打倒のため、女性有権者を
啓発するに必要なスキルを持つ活動家を備え、効果的な政治能力を構築することである。
具体的な方法論としては、4 つが掲げられている。1、女性有権者とのコミュニケーション
2、動機付けとなる問題への特化
3、活動家の支援
4、重要な州とスウィング・ヴォ
ーターの限定。それぞれについての詳細を以下に述べる。
一つ目の、有権者とのコミュニケーションでは、右翼勢力のネガティブ・キャンペーン
に惑わされず、有権者が議論に参加し正しい選択を行えるよう支援することを目的として
いる。つまり情報の提供がその主たる内容となるが、問題はその手段である。全米女性機
構では、マス・メディアの利用、電子システムの活用(問題特化サイトの増設、E-mail 活
用による活動家の発掘)のほか、web サイトの充実やメッセンジャー・ネットワークの構
築と、新技術の利用に力を注いでいる。最後のメッセンジャー・ネットワークとは、ラジ
オ、掲示板、チャットルームへの「発言者」のネットワークを構築することを意味し、同
時に彼らにより効果的な発言方法を教育することも視野においている。
続いて、動機付けとなる問題だが、政治的にもっともホットな話題である産む権利、経
済的公平の問題に特化し、資源の効果的利用を図ろうとしていることが伺える。
活動家の支援としては、まず地方組織を効果的に地域に配置することを心がけた上で、
活動家を訓練する。具体的に教えるのは、政治評価や支持者リストの作成、メディア広報
のやり方やメッセージの作成方法、地方での行動計画の立て方や緊急対応チームの構築、
資金収集などである。目に見える結果を出すことを重視し、増援部隊を定期的に各グラス
ルーツ・リーダーに送り出すことにしている。
最後に、こうしたキャンペーンを行う地域を特化する。それは大統領選出、重要な上院
議員選出のための票の接近が予想される地域であり、全米女性機構のキャンペーンが過去
に成功した地域という基準でターゲット州を選定することである。また重点を置く階層に
も注意を払い、スウィング・ヴォーターとなる 35 歳から 49 歳の主婦層と学生たちに向か
って、彼らの関心事であるバース・コントロールやあフォーダブル育児に関する教育を行
うことにしている。こうしてキャンペーンの対象を特化することで、コストパフォーマン
スが上がることが予想される。
NOW ホームページ「The Drive for Equality」(http://www.now.org/organization
/driveforwquiality/index.html)
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第五章
結論