『国富論』を読む

『国富論』 を読む
竹本 洋
I.1776年
か ら 1991年
1991年
(関 西学院大学)
ヘ
は 、湾岸戦争 の勃発 で 明け、ソ連 の崩壊 と ヨー ロ ッパ連合 (EU)
の創設合意 とで幕 を閉 じた年 であ り、わ が 国 ではバ ブル の崩壊 によつ て 「
平成
不況」 の 開始 が告 げ られ 、 自衛隊 の初 の海外派遣 と ヒ トゲ ノム計画 の本格的着
手 とに踏み切 つた年 で もある。 そ のいずれ もが 現在 の世界や 日本 の政治 。経済
状況 のみ な らず人 々 の意識 にまで深 い影響 を与 えてお り、そ の意味 で この年 が
21世 紀 の 実質的 な幕 開 けの秋 とい えるか も しれ な い。
そ の 215年
前 の 1776年
も象徴 的な年 で あ つた。 アメ リカ がイ ギ リス か
が 出版 され た年 だか らであ る。 一 般 には 、前者 は
ら独 立 を宣言 し、『国富論 』
ヨー ロ ッパ の重商主義体制 の枢軸 をにな つてきたブ リテ ン帝国 にた いす る弔鐘
であ り、後者 はそ の重商主義体制 を批判 しつつ 、新 しい学問す なわち経 済学 の
生 誕 を告 げ るもの とみ な されて い る。 しか しアメ リカ 13植 民地 の独 立 は 、 ブ
ジテ ン帝国 の一 時的挫 折 ではあ つて も、そ の破産 を意味 しなか つた。1783
ー
年 のア メ リカ の独 立の承認 と、同時期 のイ ン ドにお い て第 1次 マ ラ タ戦争 と
第 2次 マ イ ソー ル 戦争 を切 り抜 けた こと とを分 水嶺 として 、ふ たたびブ リテ ン
帝国 は世 界各 地で膨 張 に転 じ、 19世 紀 の強大 な帝国 の礎 を築 くこ とにな る。
他方 の 『国富論』 も、対 アメ リカ政策 の稚拙 さと誤 りとを手厳 し く批判 しは し
たが 、 ア メ リカ人 には帝 国内 に とどまる経 済 的利益 と本 国 の政治 に参画 し うる
政治的 な うまみ とを説 き、本 国人 にたい しては帝国 の解体 を勧告す る こ とはな
く、西イ ン ド諸島 な どの 引き続 いての保有 と、 さらには帝国 の財政的基盤 を強
固な ものにす るために アイル ラ ン ドの併合 とイ ン ド統治 の強化 とを提案 したの
である。 歴 史 は ス ミスの見通 しにそ つて進 み、1801年
にアイル ラ ン ドとの
にはイ ン ドの直轄統治 が始 ま つた。
が経済学 を創設 した書 の一 つ であ る ことは疑 い をは さむ余地 の な
合邦 が 実現 し、 1858年
『国富論』
い こ とだ が 、 それ をい くら復唱 してみ て も、そ のか ぎ りでは ス ミス の栄誉 を繰
り返 し頭彰す る こ とで しか な い。『国宮論』 を経 済学 の最初 の 古典 にす えるこ
とは 、 それ がその後 の経 済学 に学問的課 題や ブィ ジ ョン を、 さらには経済 の解
析枠組 み の 手本 を提供 し、 それ らがいまなお形 をか えつつ も生命 を保 ち続 けて
い る ことの意味 を問 い 直 し続 ける ことにほかな らない。 そ うだ とすれ ば 、経済
学 の誕 生か ら 200年
あま りの展開 を経 た現在 の経済学 は 、 ス ミスの提示 した
ブィ ジ ョン (後述)を 実現す るた め の諸 理論 を どの よ うな かた ちで産み 出 して
-30-
一
きた のだ ろ うか。 またそれ は現実的妥 当性 一一 それ 自体 は 義的 に規定 できる
一一 を どの
もので はな い し、 また安易 な揚言 も慎 まなけれ ばな らな い もの だが
範 囲 で どれ だ けもちえて い るの だ ろ うか。 この検証 は 、狭 くは経済理論家 たち
に よ つて果 た され るべ き ことで あるが、かれ らは 『国富論』 に さか の ぼ ってみ
ず か らの理論 的 なあるい は政策的な課題 をたて るわけではな く、む しろ 『国富
論』 の成果 を吸収 しつ く し、 あわせ てそ の理 論 の欠陥や誤 りを解 決済み の こ と
新 しい」現代的問題 を設 定
と して 、『国富論』 をま っ た く意識す る こ とな く 「
して い る と自認 して い るであろ うか ら、 こ うした面倒 な検証 は経済学史家 が代
わ つ てになわ ざるをえな い。
現在 の経済学 が ス ミスの ブィジ ョン をい まだ実 現 しえて い ない とすれ ば 、そ
れ は現在 の経済学 の 問題 である と同時 に 、ひ るが え つてみれ ば ス ミス の 問題設
定 の仕方す なわち学問的枠組 み の設定 に も困難 な問題 があ つた の ではな いか 、
とい う疑 間 を生 じさせ るであろ う。 この検証 には同時 に 、重商 主義批判 ( 経済
的 自由主義 の 宣 揚) 、 旧帝 国 主 義批判 、平等 主義 、 さらには労働価値説 を基礎
とす る交換 の理 論や資本 蓄積 ( 経済成長) に よる普 遍的 富裕 の達成 、 とい うこ
れ まで の 『国富論』解釈 史 の基本 的な枠組 み を聞 い直す作業 が伴 わなけれ ば、
ス ミス にた い して片手落 ちにな るであろ う。
1 1 . 峻厳 な古典
文明社会 に到達 した 国 々 のす べ ての 国民 は 、 したが ってその 国 の社会的 に も
っ とも恵 まれ ない 人 たちで も、豊 かにな りうる 一一 これ が経済学 を樹 立す るに
あた って ス ミスの抱 い た ブィ ジ ョンで あ つた。 そ のための もつ とも有効 な方策
は、生産物 の量 をたえず 増 大 させ る ことに よつて 、それ を社会 の 隅 々 にまで行
き渡 らせ ること、つ ま りは ( 分配体系 に注 意 を払 いつつ ) 経 済発 展 を指 向す る
こ とである。 ス ミスの あ との経済学 も、それぞれ独 自の経済成長論や 開発経済
論 な どの分野 を開拓 して きた が 、少 な くとも現在 まで の とこ ろ、 ス ミスの ブィ
ジ ョンは十分 に実現 され てはいない。 ス ミスが 人間 らしく人並み に生 きて い く
うえで の基本 的 な必需 品 とみな した食糧 ( 穀物) で す ら、なお世界 の 多 くの人
々 は 日々 こ と欠 いてお り、飢餓 は克 服 され ていな い。 それ を現在 の経済学 の責
任 だ と短 兵急 に い お うとす るので はない。 しか し 『国富論』 を諸派 の経済学 の
共通 の祖 である と敬意 を表す るので あれ ば 、 い わ ゆる経済先 進 国 の十分す ぎる
先進
くらいの豊 か さの達成 に幻 惑 されず に、常 態化 して い る地球上 の飢餓や 「
国」 にお ける新 たなかた ちで の貧 困 の発 生 を、『国富論』 の ヴィ ジ ョンの延長
線 上 にある克服す べ き課題 として 、い ま い ち ど意識 し直 されて もよい であろ う。
ス ミス は 、 自由貿易 と比 較 生産 費 的 な原 理 と国際分業 との もとで 、食糧 の 国際
-31-
的 な 自働供給 システ ム が機 能 し、飢餓 は発 生 しな い と説 い た。 そ の議論 が抱 え
込む 現実 的 な障害 は 、 自著 の第 一 章や そ のほかの箇所 で 明 らかに したつ も りで
常識 」 の名 で 、上 の 3 点 セ ッ トをよ
あ るが、現在 の経済学 もまた経済学 上 の 「
り洗練 され たかたちで説 き続 けて い ない だ ろ うか。
経済発展 に よつて豊か さが約束 され る とい うス ミスの文明社会 は 、 どの よ う
な特 徴 を もち、 またそ の社会 は人間に どの よ うな生 き方 を求 めるの だろ うか。
ス ミス は この社会 の基本 的性格 が そ の経済的特性 に よつて規定 され る とみな し
た。す なわ ち社会的関係 の大部分 が 市場 を通 した相 互 的な依存関係 の うえに築
かれ る とした ので ある。 なぜ な らこの社会 では 、人 々 はみずか らの 労働 のみ を
頼 りと して 、 しか も市場 ( 交換) に 適合 的な労働 の分割 と結合 つ ま り分業 に依
拠 して初 めて 、豊 かな ものの生 産 と消費 とが保 障 され るか らである。 その意味
で近代 の文明では、物質的 な豊 富 さが第 一 次的 な 目標 で もあ り最重要 の 手段 で
もあ るの だが、それ を糧 として どの よ うな文 明 の花 が 開 くのか は明示 されて い
な い。 む しろ安 全 の 問題 にかんす るかぎ り、後述 の よ うにペ シ ミステ ィ ック認
識 が もたれ て い る。 しか しこの社会 では 、 自分 の生存 を多 くの人 の 労働 の成果
に依存す るために、 いいか えれ ば一 人 ない し少 数 の人 の 労働 の成果 に依存 しな
い ために 、人 間 の 自由度 は少 な くとも外面的 には高 くなるだけでな く、そ の依
存 は 自分 の 労働 の成果 を対価 とす るもので あるために、他人 の恩顧や慈悲 とい
つ た人格 を束縛す るもの に身 を ゆだね る必要 は低 くなる。 こ うして近代 の社会
では 、 自活 と自由 ( 自活 の 自由 といいか えて も よい) へ の道 が 開 かれ る。
しか しこの 自活 の 自由 がただちに豊かな生活 を保 障す るわけではない。人 は
ある規範 を受 け入れ る ことを求 め られ る。それ は他人 との競争 に耐 え うる こと、
そ してで き うれ ば競争 に打 ち勝 つ こ とであ る。 豊か さは競争 の彼方 にあるもの
な ので ある。 この競争 を制度的 に保証 しよ うとす るのが ス ミスのい う 「自然的
一
自由のシ ス テ ム」 である。 このシステ ム は 、 方では競争 の公正 さをで きる う
か ぎ リ ーー 完 全 にではない 十一 整 える こ とを、他 方 では競争 に耐 え うる資 質
( 勤勉 ・才知 ・信用) と 手段 ( 資本 お よび 技術 ) と を人 に身 につ け させ る こと
を 目的 とす るもの である。 このシステ ム を必要 とす るの は 、人間 には安逸 にふ
け っ た り抜 け駆 け を しよ うとす る本性 的 な弱 さが あ る と認識 され るか らで あ
る。 そ の ために 自己判断 を誤 る こ との比較的少 な い私的利害関 心 と私的利益 と
競争 へ の志 向を引き だそ うとす るので ある。
に人 々 の注意 を集 中 させ ることで 、
そ の意味 では 、 ス ミス の推奨す る 自然的 自由の システ ム は 、公正のための制度
で ある と同時 に人 を競争 へ と追 い立て 、 自己選択 ・自己責任 の理念 を強 い る合
法的な脅迫 の ため の もつ とも洗 練 され た制度 で もある。 この 自然的 自由のシス
テム の表象 を受 け入れ た人 々 は 、 そ の表象 の能動性 に よつて 、つ ま り絶 えざる
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自己 の境 遇改善 の渇望 (欲望 の 自由)を 刺激 され る ことによつて 、他者 との差
異 を うみ だす ため の競争 に積極 的 に参加 し、 しか もそれ に勝 ち抜 かな けれ ばな
らな い とい う自己強 迫的 な観念 に と りつ かれや す くな る。
ス ミス は、 自然的 自由 のシス テ ム を制度的基礎 としなが ら、労働 の交換 に よ
って構 成 され る社会 を 「
商業的社会」 と呼 んだが 、現代風 に市場社会 、つ ま り
市場経 済 の論 理 が経済以外 の領域 まで も支配 し妥 当す るか の よ うな様 相 を見せ
ー
る社会 と読み替 えて もかまわない。市場 を通 した交換 は、表面的 には物やサ
ブィスの交換 関係 としてみ えるが 、 それ は各人 がその交換 を介 して他人 の それ
ぞれ の存在 (生存)を 少 しず つ 分担 し合 う関係 、 つ ま り自分 と他人 とが相 互 に
代理入社会」 といい
代 理人 をつ とめる関係 であ り、そ の意味 で商業的社会 は 「
か えるこ とがで きる。 そ の代 理性 は 自己 の他者依存性 を、 したが つてまた他者
・
指 向性 を本質的 に ともな うために、 自然的 自由 の システ ム が求 める 自己選択
自己責任 の原則 は、そ の遂行 にあた つて 実質的 には制約 され 、 自己 の実在性 は
きわめて希薄 な ものに な る。 ス ミス は、 この代 理 関係 の 実態 に強 い危惧 を抱 い
て い る。農場 や企業 にお ける資本家 と経営者 との経済的 な代理関係 か ら、素人
と専門家 との社会的 な代理 関係 、 さらには国民 と官僚や政治家 (議員)や 軍人
との政治的 ・軍事的な代 理 関係 にい た るまで、社会 の それぞれ の領域 での代 理
ー
機 能やそ の 問題点 の論 述 に 、『国富論』 はかな りの スペ
人 subsdtute,agentの
ス を さい て い る。 しか もス ミス は 、 そ の代 理人 問題 の背後 に 、利益 にかんす る
一一 の 限界 とい う迷宮 があ
知識 一一 それ が個人 の もので あれ 集 団 の ものであれ
る こ とを知 っ て い た。それ は重要ではあるが厄介 な こ とが らで あ り、『国富論』
ではそ の 問題 の所在 を指摘す るに とどま つて い る。
一
代理人社会 がかか え こむ こ うした事態 は、 般的 には、文明社会 の不確実性
にかかわ る問題 とみ なす ことがで きる。 ス ミス は安 全 の 見 地か らこの 問題 に接
近 しよ うとす る。 そ の さいかれ は人間 の 肉体 (目)と それ を ささえる小 さな社
会的集 団や組織 に注 目す る。資本 や信用 の安 全性 はそれ らに担保 され る こ とに
よ って 、 いいかえれ ば経済 を地域社会や小組織 に定 置す る ことで それ らの安 全
が保 障 され るもの と期待 された の である。 それ ゆ え分業 は市場 の大 き さに規制
され る とい うス ミスの命題 は、安全 の見 地か ら、市場 の無条件 ・無制限 の拡大
を容認す るもの とはな らない。他方 で生産力 の 増大 (富裕)の ためには市場 の
ー
拡大 も不可避 とす るか ら、 この市場 の拡大 にた いす るア クセル とブ レ キ とを
適度 に調整す る ことが求 め られ る。 そ の微妙 な蛇取 りは人間 の投機 的精神 とそ
れ を統御す る政府 の慎重 な配慮 に ゆだね られ て い る。
一
文 明社会 は富裕 (繁栄)を 追求す るかぎ り、 も う つの安 全 の危機 を恒常的
に抱 え込む こ とにな る。経済発展 の不均等性 は、富国にた いす る貧 国 の怨 嵯 を
-33-
か きた て 、富国 は貧 国 か らの侵略 の危倶 一一 それが現実性 をおびた もの である
か ど うかは別 に して 一一 をもつ か らである。 ス ミス の視点 は貧 国 ではな く富国
におかれ る。 したが つてかれ は、富裕 な文 明国 による武器 の 開発 と正 規軍 の維
持 とを支持 す る。 また近代的 な武器 は、野蛮 な地域 を植 民地化 し、帝国内 の僻
遠 の地 まで文 明化す る うえで も有効 である とされ る。文 明 の名 による野蛮な人
々 (人種)に た いす る帝 国的包摂 を正 当化す る論 理 である。 ス ミス は軍事力 を
放棄す る こ とも軽減す る こ とも求 めては い な い。 富国 の経済発展 (富裕)の い
っそ うの前進 は 、他 国 の怨 嵯 を さらに強 く誘発 し、防衛 の ために よ り大 きな軍
事力 を要請す るか らで ある。 この経済発展 と安 全 とのア ンテ ィ ノ ミー の事態 は
一 常備 軍 とい うテ クノクラー ト集 団 (代理人)に 安全 をあず けなけれ ばな ら
な い ことを含 めて 一一 周到 に も意識 され て い る。 しか しその解決策 が示 され て
い ない とい う点 で 、 そ う した事態 は富裕 の ために余儀 な い もの と、 いい かえれ
ばそれ が近 代 の文 明社会 の宿癒 だ とみ な され る。
そ うだ とすれ ば 、 われ われ は豊か さの代償 として安 全 をも豊か さであがなわ
なけれ ばな らな いの だ ろ うか。 また (依存 しあつてい るはず の)他 人 を蹴落 と
す愉悦 と後 ろめた さ、 あ るい は蹴 落 とされ る屈辱 と憤怒 の どち らも覚悟 しな け
れ ば豊か さは手に入れ られ ないの だろ うか。 ス ミス は いずれ の 問 い に も然 りと
答 える。『国富論』 はそ の意味 で峻厳 な古典 な ので ある。
III.「
自然 的 自由 のシステ ム」 の リア ジテ ィ
ー 般的 にい えば 、あ る表象 ない し観念 が他 の表象 (観念)に 取 つて代 わ る こ
とは可能 で あ り、また表象 には現存 の制度 の変革 を促す力があるが、そ の取 つ
て代 わ るべ き新 しい表象 が新制度 の生 成 を保証す る とはか ぎ らない。『国富論 』
の 「自然 的 自由 の シ ス テ ム 」 の 表象 は 、 「
商業的 シ ス テ ム 」 (重商主義 )の そ
一
一
とい うよ りも代 置す る こ とを 目的 に二つの表象
れ に代置 され うるけれ ども
“
"の
が案 出 され た の であ り、そ の点で この二 つ は 等価
関係 にある 一 、それ
が 「
見 えな い 手」 とい うも う一 つの表象 と必然的 に結 び つ くもの とみ な され 、
こ う した解釈 が広 く受 け入れ られ るよ うにな る と、 「
市場 が判 断 し決定す る」
とい う表現 が 奇異 に感 じられ な い ほ どに、市場 は擬人的に主体化 ・主語化 され 、
い わば リブァイ アサ ン と しての市場 が立 ち現れ る。 しか しその瞬間 に この表象
の動態的 な威力す なわち思想 として の リア リテ ィは消失す る。 なぜ な らこの市
場 の表象 は、競争 の結果 である失業や貧 困 ひ い ては飢餓 、 また貨幣や信用 の不
安定性 ・不確 実性 、 さらには国際間 の経済的摩擦 な どを 自動的 に克服す るかの
よ うな信 条 を、表現 をか えれ ば 「
法則 の支配」 とい うも う一 つの リヴァイ ア ナ
ン を裏 日か らマ モ ンの世界 へ 呼 び入れ るか らである。 こ うして表象 は現実 をお
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きざりに し、さまざまな経済的問題 にたいす る政策的予防や補正は軽視 され る。
しか し 『国富論』は 自然的 自由のシステ ムの構築 を未来 の 「
議会 の叡智」
( 人智) に 期待す るといい、また 自然的 自由のシステ ムの完全な実現は望みえ
ない ともいつてい るか ら、後人 の解釈 のよ うに 自然的 自由のシステム と見えな
い手 との二つ表象 の結合 を緊密 かつ不可欠なもの とはみな してはいない。 む し
ろ上 の よ うな両者 の緊張関係 の婉 出な指摘に こそ 『国富論』 の未決 の奥深 さが
あると思われ る。
注記
一
この レジュメは、本学会 で合評 の機会 を与 えられた 自著 『「
国富論」を読む
ヴィ
ジ ョン と現実』 ( 名古屋大学出版会, 2 0 0 5 年
) の各章を逐条的に要約 した ものでは
な く、討議 の参考 として用意 された ものである。
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