1.はじめに - Hayasoft

1.はじめに
あなたが今、google で検索してヒットしたページを眺めるとき、はてなダイアリ
ーやウィキペディアのページをその中に見ることはとても多くなっているでしょう。
それはここ数年の中で起きたできごとで、二つともそう古くからあったサイトでは
ありません。そして、二つのサイトは似たような形をしていながら、提供してくれ
る情報は全く違った様相を呈しています。
この二つのサイトが日本に登場したのはほぼ同時です。それからさまざまなプロ
セスを経て、共に現在まで成長してきました。近似するシステムを使用しておきな
がら、全く別のアプローチからあるコンテンツに対して挑み、そして、それは近い
形態を成しながらも、内容はやはり似て非なるものとなりました。はてなダイアリ
ーとウィキペディアは一体何が似ていて、
何が違っているのでしょうか。
ここでは、
それについてじっくりと考えていきたいと思います。
また、ここではとりあえず皆さんがこの二つのサイトをある程度閲覧したことが
あって、どのようなものかぐらいは簡単につかめていること前提として進めていき
たいと思いますので、あしからずご了承ください。
それと、はじめに断っておきたいのですが、この項ははてなとウィキペディアと
いう名前を冠しつつも、説明はウィキペディアにかなり偏っています。単純に私の
趣味が出たというだけのことなのですが、本質的にはこれはウィキペディア論とな
っています。ご了承ください。
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2.導入 ― 特徴的機能について
まずは、二つのサイトの来歴や、特徴的な機能について見ていきましょう。
はてなダイアリーは株式会社はてなによって設立されたサービスです。
「はて
なダイアリーキーワード」は、あくまでブログの付属品として出発しています。そ
して今でも基本的にその位置づけは変わっていません。
「はてなダイアリーキーワー
ド」は、各キーワードで独立しており、はてな内のブログから該当するキーワード
を見つけ出すと、そこからキーワードのページに自動的にリンクを張ります。です
から、はてなダイアリーキーワードの発達は、ブログを見ているときに「このキー
ワードがない!」ということを発見する人がいて、そのような人がどんどん増やし
ていく、という流れが基本になるわけです。
また、同じようにして、各キーワード間でも言及のしあいが活発に行われ、それ
ぞれの発達を促成しています。そして、各キーワードページはブログからリンクを
張られるだけではなく、逆にそのキーワードを参照したブログのエントリに向かっ
てリンクを張り返します。このことによって、例えばあるアーティストに対して言
及しているブロガーを探したいとき、それが一度に簡単に行えることになります。
つまり、エントリの充実だけでなく、ブログ間コミュニケ―ションの潤滑化も視野
に入れて作られているわけです。
他にも、このことを高度に利用して、同じキーワードに言及しているエントリ同
士を結びつけることのできる、「おとなり日記」機能などもあります。また、はて
なには、はてなダイアリーキーワードだけではなく、はてなフォトライフ、はてな
アンテナなどといったさまざまなサービスが充実しているので、キーワードでもそ
れらとの結びつきは濃厚に行われています。
このように、はてなダイアリーキーワードは基本的にそれそのものも発達を目標
に作られたものではなく、その周辺のコンテンツ、特にダイアリーの充実化、潤滑
化を目標に作られたものです。
一方、ウィキペディアはどうでしょうか。ウィキペディアは「百科事典プロ
ジェクト」ですので、それで単一に独立したサービスであるということになります
(正確にはウィキペディアにも関連プロジェクトが存在するのですが、ひとまず割
愛します)
。
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ウィキペディアの各記事間での参照も、はてなのキーワードリンクに似た方法で
行われます。ただし、はてなのように自動でリンクされるということはありません。
執筆者は、別の記事に飛ばしたい単語を[[]]で囲む必要があります。
ウィキペディアは多言語プロジェクトですので、
「日本語版ウィキペディア」は、
独立した機関です。ただ、各言語版で同じ意味を示す記事は、互いにリンクで結ば
れています。ウィキペディアはラテン語からアングロサクソン語まで非常に広い範
囲でカバーしていますので、言語間のリンクで飛んで行くにつれ、得体の知れない
ような文字に遭遇してしまうことなどもしばしばあります(ウィキペディアでは
Unicode という多言語文字コードが使われているので、かなりの言語間の汎用性を
実現しているのです)
。
それから、ウィキペディアは匿名ユーザー(正確には完全な匿名ではなく、編集
履歴には IP アドレスが残されるのですが)による編集を大きく歓迎しています。
実は、はてなダイアリーキーワードの編集は「はてな市民」と呼ばれる、ダイアリ
ー上である程度活動したユーザーにしか行うことができません。通りすがりのユー
ザーによる編集を認めたことは、ウィキペディアの発達に大きく貢献しました。
ウィキペディアのインターフェースには「MediaWiki」というスクリプトが使用
されているのですが、これはオープンソースで提供され、誰もが使えるようになっ
ています。オープンソースの概念はウィキペディアの思想的背景に密接に関わって
いて、とても重要なことですので、これも後でじっくり検討していきたいと思って
います。
さて、この二つのサイトは全く別のアプローチから近似するコンテンツに挑んだ
と記しましたが、では、どのようなアプローチによってそれに挑んだのか、どのよ
うなことを目標としてそのサイトをスタートしたのか。について書いておきたいと
思います。
はてなダイアリーは、あくまで、ブログサービスです。そして、それが持っ
ていた特徴的な要素が「はてなダイアリーキーワード」となります。
先も言ったとおり、はてなダイアリーキーワードは、あくまでブログの付属品と
してスタートしました。そしていまでも、基本的にはその領域を出ていません。は
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てな内のブログで書かれた文章の中から、はてなダイアリーキーワードの中にある
単語を見つけると、その単語をキーワードの説明ページに自動でリンクする、とい
うのがはてなダイアリーの一番根本的なシステムです。そしてその「はてなダイア
リーキーワード」は、単にブログ内のキーワードの説明というだけの役割にとどま
らず、それ自身、互いに参照し、リンクを張り合いながら発展していきました。そ
うして、いまのはてなの全体像が出来あがりました。ですが、はてなダイアリーキ
ーワードの目指す目標はあくまでブログの活性化、またブログ間のコミュニケーシ
ョンの潤滑化を目的としたものであって、それ自身の発達ではないのです。
一方ウィキペディアは、アメリカ発のサイトです。ジミー・ウェールズとい
う人物を中心としてかたどられている「ウィキメディア財団」によって作られたウ
ィキペディアは、「永遠にフリーであり続ける百科事典を作ること」というなんと
も大それた目標を掲げています。ウィキペディアが志向しているのはそれそのもの
であって、一次的なコンテンツではありません。逆に、しばしばウィキペディア上
ではメインコンテンツの上で二次的にコミュニケーションが発生する場合があり
ます。それは「ノートページ」と呼ばれるメタ記事上で発生し、ここでは主に記事
に対する議論等が活発に行われています。
3.参照すること
さて、そもそもある時代時代での語彙を集め、それについての解説を体系的に収
集する、ということはどういうことなのでしょうか。ある言葉を言葉で説明する、
ということはどういうことなのでしょうか。これらは一般的には、広義に「翻訳」
と呼ばれる行為です。ある不明な語を別な語で説明する、ということを翻訳と呼び
ます。これはさまざまな場面で、さまざまな形によって見られる行為です。
そういった行為のなかで、一番わかりやすいものは、例えばコンピューター言語
の翻訳です。一番簡単な言語として HTML を例に挙げて考えて見ましょう。
例えば、<title>というタグがあります。これがどのような働きをするか、日本
語で記述しようとすると、
「これは文書のタイトルを表すためのもので、ヘッダの
なかで記述され、</title>までに囲まれた言葉をタイトルとして……」といった風
に、その機能をほとんど完全に、明確に記述することができます。これは、タグを
解釈し、機械語に翻訳し、機能として動かし……といったプログラム上のプロセス
が完全に一定に構造化されており、示すことが出来るものであるからです。つまり、
プログラミング言語と日本語の文法・分節・規則といったものの間に、確固たる構
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造を有されているため、このようなことが可能になるのです。こういったタグを人
間語に訳したものをまとめた体系を「リファレンス」と呼んでいます。
「HTML リ
ファレンス」
「C 言語リファレンス」
、
などという単語はよく耳にすることでしょう。
次にわかりやすい例は英和辞書です。つまりは他言語間の翻訳、もっとも慣例的
に用いられる意味での「翻訳」です。英語を日本語に完璧に直そう、ということに
なると、これはプログラミング言語のように簡単にはいきません。有名な例ですが、
ある言語は「ヤマイヌ」と「カイイヌ」と「オオカミ」を明確に区別しますが、あ
る別の言語は、これを「イヌ」に該当する一語で収めてしまいます。日本語には「小
雨」
「夕立」
「梅雨」
「五月雨」「野分」と、雨のことを様々な言葉で表現しますが、
ある、雨の少ない地方で使われる言語はこれを分けないでしょう。砂漠の地方の言
語には、ラクダのことを表す言葉が膨大な数あるといいます。こういった場面では、
「意味するもの」と「意味されるもの」の恣意性が明確に現れてきます。つまり、
言語間の完全に抜け目のない翻訳は、根本的に不可能です。ただ、そうは言っても
多くの言語の間では、ニュアンスのかなりいい線までは翻訳することは、確かに可
能となっており、多くの文学などならともかく、自然科学的な論文などの翻訳はか
なり完全な形で行うことができるはずです。
そして、実は英和辞書よりかなり困難な翻訳を行おうとしているのが、英英辞書、
もしくは国語辞典の類です。一見この作業は簡単そうに見えるのですが、実は自国
語を自国語で翻訳するということには大きな落とし穴が潜んでいます。ある言語を
同じ言語で翻訳しようとするときに常に付きまとう問題は、
「ある言葉の説明に使
われている言葉もまた、別の言葉で説明されなければならない」ということです。
つまり「石」という言葉の説明を書くとき、
「石は、岩石が小さくなったものであ
る」という風に説明するとします。すると、この場合、
「岩石」という言葉を別の
ところで説明する必要性が出てきます。「岩石は、土砂などが固まって硬く、大き
くなったものである」
。すると今度は「土砂」という言葉を説明する必要が出てく
ることになり……という具合です。普通に国語辞書を使っていく上でこういった問
題に直面することはまずありませんが、実はこういった問題は常に辞書編纂者の頭
を悩ませていることです。この問題は英和辞書の場合も本質的には解決されていな
いのですが、やはり、翻訳の無限ループが起こりうる国語辞典の場合に、色濃く出
てきます。
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そして、はてなやウィキペディアといった語彙体系は、この国語辞典の記述を、
一項目につきかなり長く置き、直接的な意味だけではない、もっと周辺的な記述ま
で成そうとしたものです。このような翻訳を行うとき、もはやさきほどの問題は表
面に出てくることはありませんが、それでも水面下で記事の内容に影響を及ぼして
います。
そして、実は、はてなやウィキペディアはそういった問題を可視的にするシステ
ムでもあります。それが、キーワードリンク・記事間リンクです。http、ハイパー
テキストトランスファープロトコルというアーキテクチャーを使用することによ
り、ある記事からある記事へのリンクはスムーズに行われるようになりました。そ
してこれらを語彙体系に応用し、ある言葉の指示を明確に、可視的にしていくのが
これらのシステムなのです。
4.目的の相違、その源流
近似するアーキテクチャーを持つ二つのウェブサイトですが、その二つの目的は
かなり違っています。二つとも、ある程度確立された思想というか、明確な主義の
下にサイト運営が成されていると見ることができます。
思想的背景という点において、ウィキペディアの立ち位置はかなりはっきり
しています。ウィキペディアは「the free encyclopedia」
、
「フリー百科事典」です。
現代の英語百科事典で最も権威を持ったものは「ブリタニカ百科事典」です。日本
においては平凡社のそれにあたるものでしょう。時代を遡ってみると、百科事典の
というスタイルを取った書物で一番有名なのは、18 世紀フランスの「百科全書」で
しょう。ディドロ等が中心になって書かれ、モンテスキュー・ルソー・ヴォルテー
ルといった啓蒙思想に関係している面面も執筆に関わったこの書は、フランス革命
に大きな影響を与えたことで知られています。つまり「百科事典」という、語彙を
アルファベット順に収集する仕事、それをもたらしたある方向への欲望は、大きな
思想的背景に支えられていたことがわかります。そして、それは実は現代のウィキ
ペディアにおいても変わらないことなのです。まず、ウィキペディアは「GFDL」
というひとつのオープンソース的文脈に通じるライセンスによって書かれていま
す。Linux の影響によって一躍有名となったオープンソース運動ですが、これには
十分思想的と呼ぶことのできる特徴を見ることができます。
「テクノリバタリアン」
と呼ばれる括られるそれらの思想は、黎明期のインターネットを引っ張っていくこ
とになりました。現在は、徹底されつつあるインターネットの企業化・規律化の前
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に立って呆然としながらも、いまだ活発に運動を続けています。ウィキペディアは
そういった運動の延長線上にあるプロジェクトですので、
「フリー」という言葉に
取り憑かれている面を見ることができます。また、ウィキペディアには「三大方針」
という呼ばれるトータルポリシーのようなものが存在します。その三つは「中立的
な観点」
「オリジナルリサーチの排除」
「検証可能性」と呼ばれているものですが、
この中でも「中立的な観点」は、ウィキペディアをいい意味でも悪い意味でも、多
くの面で縛っている規律です。この方針にもハッカー文化的な匂いを嗅ぎ取ること
が出来ます。
対してはてなダイアリーの立ち位置はかなり微妙なものです。ブログブーム
の波に乗って出現したはてなダイアリーには、特に偏って作られた思想的側面を汲
み取ることはできませんが、ただ、そこに集まってきたユーザーの傾向によって自
然に生まれてきた性格を読み取ることはできるものと思われます。
ウェブ進化論以降、
「総表現社会」という表現も一般によく目にするようになり
ましたが、確かに現在はそう言われても文句が言えないほど多くのブログが林立し
ています。
そもそも世界でブログというメディアが注目されだしたのは 2001 年頃からのこ
とです。9.11 テロの影響で、個人から発信されるジャーナルや意見などを必要とし
ていた当時のアメリカにとって、ブログはうってつけのメディアであり、それ以降
急速に広まりました。それが日本に輸入され始めたのは 2002 年、2003 年頃からの
ことで、本格的に普及しはじめてきたのは 2004 年ごろからです。日本には nifty
などが提供していた土着の日記サイトは多くありましたし、当時は 2 ちゃんねると
いうコミュニケーション手段も十分に一般化され、発達していました。にもかかわ
らず、ブログは一気に注目を浴びるようになり、急速に普及することになります。
その原因となった要素としては、コメント機能やトラックバックといったいわゆる
「Web2.0」的な機能が上げられるでしょうが、特にはてなダイアリーは特にそうい
った「ヨコのつながり」に関するシステムを特化させたものだったので、尖鋭的な
ひとつとして紹介されていくことになります。
ブログは百科事典とは違い、極端な例を除けば、基本的に記述される内容の一切
を規制しないので、集まってくるユーザー層はかなり広いのですが、しかしそれら
が必ずしもキーワードの編集等に勢力的なユーザーなわけではありません。ウィキ
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ペディアのログインユーザーの殆どは精力的に活動をしようと試みている人々で
すが、はてなのそれの場合は気ままにただ日記を書いているだけのユーザーの方が
圧倒的に多いでしょう。ですから、はてなユーザーが記事執筆の必要性に駆られる
のは、「あ、この項目ないじゃん」と発見する、あの瞬間でしかないのです。です
から、執筆される項目はランダムになり、ウィキペディアのように統率された項目
の集まりが形成されないことが多くなります。
要求されるコンテンツも変わってきます。ウィキペディアには、臨戦的な現場の
研究にも役立つアカデミックな記事も求められていますが、はてなではむしろ興味
本位の、面白い記事が求められる傾向にあります。はてなでは編集自体、ウィキペ
ディアに比べてかなり自由な環境のもとに行われていますので、いろいろな記事で、
いろいろな人が、いろいろなことを言っています。その中には、かなり執筆者寄り
の視点で書かれたものもありますし、あまり正確で、客観的とはいえないような内
容のものも多いのですが、逆にそこらへんがはてなの面白さとなっています。
記事密度の偏りもかなり大きいものです。はてなにも多彩なユーモアで彩られた
記事はとても多いのですが、それらに求められているのは、interesting なものより
も funny なものであるという傾向が強いように思われます。例えば、はてなの「オ
タクの常識」といった記事は、優れたデータベース的側面を持ち、リンクを辿って
いくのが非常に面白いものとなっています。対してウィキペディアで優れたユーモ
アセンスを持った記事といえば「卵かけご飯」や、「枕投げ」などですが、これは
むしろなんでもないような言葉の記事に、極めて冗長で詳しい説明を加えることに
よって、妙な面白みが出ているというものです。また「Wikipedia:削除された悪ふ
ざけとナンセンス」や、
「Wikipedia:珍項目」という記事にまとめられているいくつ
かの記事は、ユーモアだけに基づいて作られているものも多く、明確な特に
「Wikipedia:削除された悪ふざけとナンセンス」の記事は悪意を持って作られた虚
偽のものばかりですが、しかし、皮肉っぽくそれらの多くはウィキペディア独特の
お堅い文体で塗り固められており、ギャグでありながらも、どことなく知的さを感
じさせるものとなっています。
それと、著作権などの権利関係の問題に寛容なのも、はてなの大きな特徴です。
はてなダイアリー上には、いろいろな人が勝手にいろいろな画像をアップしますし、
また、ほかのサイトからの文章などをコピー&ペーストで勝手に載せたりもします
ので、いちいちそんなものを検閲してても仕方がありません。その影響が強いのか、
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はてなダイアリーキーワード上で掲載されている文章や、貼られている画像は、厳
密に考えると何らかの権利(大抵は著作権ですが)を侵害しているものが多いので
す。ウィキペディアは権利関係に特に敏感ですので、このようなことはほとんどあ
り得ません。しかし、ブログサイトであるはてなダイアリーは、いちいちこのよう
な個人のブログを検閲し干渉していてはサービス自体が成り立ちませんので、仕方
ないことなのでしょう。ただ、もちろん、現行の著作権法ではインターネット上の
知的財産にはどうにも対応できていませんし、そもそも周りのウェブサイト状況も
これらの問題に関してはかなりルーズになっているのが現状ですので、はてなの施
策のほうがより現実的であるともいえるでしょう。いずれにせよ、これらの問題に
は、どちらが正しいということをはっきり言うのはとても難しいのです。
このように二つのサービスの根源には、さまざまな異なった部分を見ることが出
来ます。しかし、繰り返しますが、基本的に二つが取っているコンテンツの形式は、
かなり近いものです。Web2.0 のサービスといえども、所詮は Web1.0 的なハイパ
ーリンクの網をどのようにして活用するか、ということが大きな問題となってきま
す。それをかなり近い形である方向へと持っていったサービスが、はてなとウィキ
ペディアだったのです。
5.具体的なアーキテクチャーの差異
「アーキテキチャー」は、英語で architecture と記し、原義では「建築学」
「建
築物」などを表す言葉ですが、コンピューターの世界においては、ハード・ソフト
面を総合的に見た上でのコンピューターシステムの構成、設計思想のことを指しま
す。ここでは、具体的に利用者に対して提供されるサービスが、どのようなシステ
ムでもってなされているのか、利用者との情報交換がどのようなインターフェース
で行われているのか、という意味で使っています。要するに、ユーザーに与えられ
ている「環境」のことを指す言葉です。というわけで、ここから先は実際にはてな
とウィキペディアが具体的にどのような違いを持っているのかを見ていくこととし
ましょう。
まず、これまで見てきたことからもわかるように、全体的な印象としては「寛容
なはてな」
「規律されたウィキペディア」という構造が見えます。
はてなは、ライブドア問題などが騒がれて以降イメージの悪い IT 企業たち
の中では、異色立って柔らかな印象を受ける企業です。はてなは、もともと自転車
同好の志が集まって出来た企業です。実は私は、幸運にも中2の東京地域研究で、
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株式会社はてなへと取材する機会をいただいたのですが、はてな社の空気は極めて
アットホームで、本当に友達だけでやっている企業のような印象を受けました。そ
のような社風が、提供されているサービスにも現れているのか、はてなのコンテン
ツ――はてなダイアリーを始め、人力検索はてな、はてなアンテナ、ブックマーク、
フォトライフといったものには、どれも共通の軽いノリを感じます。
対してアメリカから出発したサイトであるウィキペディアには、とてもお硬
い印象を受けます。著作権に細心の気を払い、確固たるポリシーを掲げ、細部にわ
たっても培われた民間コミュニティによって行き届いて管理されているウィキペデ
ィアは、堅実ではありますが、あまり人間味を感じません。ですが、それが、荒ら
し対処などに関する強固さを実現しているのです。
① ユーザーへの配慮と荒らし対策
まず、双方のサービスの、ユーザーに対する扱いを見ていきましょう。
はてなにもウィキペディアにも無料で取れるアカウントが存在し、それを取得した
ユーザーは有利にコンテンツを享受することができますが、もちろん匿名でもウィキ
ペディアの記事を閲覧することはできますし、はてなの日記やキーワードを見ること
も出来ます。匿名ユーザーの権利で問題になってくるのは、執筆の権限についてです。
先ほども触れたように、ウィキペディアの場合は匿名ユーザーも自由に執筆する
ことができます。
(ただ、新しい記事を立ち上げることだけは出来ません)この際、
記事の履歴には執筆者の IP アドレスが残るので、完全な匿名投稿を保障しているわ
けではありませんが、これを気にしない人間ならば、ある程度の匿名性を維持したま
ま、記事の執筆に参加することができます。
対してはてなダイアリーキーワードの場合は、かなり厳しい制限を加えられて
います。日記を書くのはもちろん記名アカウントユーザーであれば自由ですが、キー
ワードの編集権限は、匿名ユーザーに与えられていないのはもちろん、アカウントユ
ーザーの中でも「はてなダイアリー市民」と呼ばれる、ある程度日記の執筆を重ねた
(具体的には 30 日分の日記を書いた)ユーザーのみにしか与えられません。
この違いから見えることは、いわゆる「荒らし」に対する対処の考え方の違いと、
匿名ユーザーをどのように活用するか、というところに関する考え方の違いです。即
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ち、ウィキペディアはある程度記事が荒らされるリスクを計算に入れた上で、完全な
匿名ユーザーによる編集を受け入れているのに対し、はてなダイアリーキーワードで
は、キーワードの編集をある程度信頼のおけるユーザーのみに任せることによって、
荒らしの発生確率そのものを下げ、さらに、荒らしが発生した場合の責任追及を容易
にすることのできる手段をとっているわけです。
では、ウィキペディアでは荒らしに対してどのような処置を取っているのでし
ょうか。場合によってかなり違うのですが、とりあえずウィキペディアの「管理者」
と呼ばれるアカウントユーザーたちのことについて説明したいと思います。これらの
ユーザーはシステム上で特別なフラグが立っているだけで、基本的には通常のアカウ
ントユーザーと変わらない人々で構成されています。彼らは、ある程度実績を重ね、
信頼のおけると思われるユーザーの中から投票で選ばれ、管理業務のため特別にウィ
キペディア全体の記事を管理する様々な権限を行使する能力が与えられています。
管理者が使える権限には、たとえば、荒らしにあった記事を一時的に編集できなく
するようにする「保護」などがあります。これに準ずるものとして、IP ユーザーの編
集のみを遮断する「半保護」というものもあり、集中的に荒らしにあったり、編集合
戦(複数のユーザーが自分の書いている内容が正しいと主張し、記事の書き直しが繰
り返されること)になった記事などは、これらの機能で対処します。また、荒らしを
繰り返すアカウントや IP などには「ブロック」といって、任意の時間、そのユーザ
ーからの投稿を遮断する権限を行使することが出来ます。管理者たちは、このような
機能を使って荒らしに対抗して行くのですが、それでも何度も新しいアカウントを取
って荒らしを繰り返すしぶといユーザーもいますし、可変 IP アドレスなどからの投
稿も相次ぎますので、ウィキペディアでは、連日荒らしが絶えません。
それでもウィキペディアが匿名ユーザーからの投稿をカットしないのは、やはり、
匿名投稿という行為に独特の力強さがあるからなのでしょう。英語版ウィキペディア
と比較しても、日本語版ウィキペディアは特に IP ユーザーからの投稿が多いことで
知られています。
ところで、日本では、2ちゃんねる文化という基盤が存在していることもあって、
インターネットと匿名の強い結びつきについての言説をよく見かけます。しかし、本
来はそうではなく、インターネットというものは、極めて匿名性が弱く、逆に「顕名
性」によって成り立っているメディアである、という論がむしろ現在の情報社会論で
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はスタンダートです。現実世界では、私たちがどこどこの町を歩き、どこの駅の改札
を通過し、どこの駅で降り……といった情報がいちいち記録されているわけではあり
ません。私たちは街中すれ違う人間の名前を知っているわけでもありませんし、逆に
知られる心配もありません。そういった本来人間が持っている匿名性に比較すると、
インターネットは、足跡を残したサイトでは IP アドレスが記録され、あるサイトで
は自分のアカウントを使用しなければならず、しかもそこでの行動はすべて記録され
ており……という風に非常に匿名性のない世界であると言えます。ただそれが、こち
らからは不可視になっている、というだけのことなのです。そして、それを可視的し
ていくことは簡単ですし、実際世の中は、直接的にそういうことを行おうとしなくて
も、間接的に可能にしていこうという動きになりつつあります。
そんな状況の中、匿名で投稿する権利を保障するか否かは、大事な決定となってく
るでしょう。IP ユーザーの投稿を取り入れると、ライトでありながらも、広く、大き
な規模の執筆者層が獲得できます。特に、アカデミックな分野よりも、ジャンクな分
野の内容における IP ユーザーの機動力は凄まじいものがあり、また、細かな情報の
間違いなども、大規模な投稿者を確保することによって、迅速に、隅々まで正される
ようになるのです。
はてなでの匿名ユーザーは、日記にコメントをつけることなどは許されていま
すが、他は閲覧以上のアクションが打てません。ですが、そもそもこの場合ブログサ
イトであり、日記が共同で作る作品でなく、執筆者の同一性が必要である以上は、キ
ーワードの投稿者が制限されるのも当然なのかもしれません。荒らしが極端に少ない
はてなダイアリーでは、老獪なユーザーによる口うるさい規制がありませんし、それ
ほど頻繁な書き換えが行われるわけでもありませんので、記事内容はかなり自由な形
(それは文体にせよ形式にせよ内容にせよそうですが)であり、統一化された印象を
受けません。多くの投稿者を受け入れず、意欲的な少人数だけでキーワードを執筆す
るということは、それだけ流動性を低めるということですので、大きな変化は望めな
いものの、安定したキーワードを出来易くすることにつながってきます。このような
違いから、それぞれの個性が形作られていくわけです。
② ソート・カテゴライズ・記事連関
次に、両サイトにおけるカテゴライズなどの分類法について考えてみましょう。
巷にあふれている紙製の国語辞書や百科事典を開いてみましょう。すべての項目は
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必ず五十音順に並んでいます。五十音順というのは言葉の意味から考えると、まった
く恣意的なソートであって、ただ、単語を引くときの利便性を追求しただけのもので
す。ただ、この恣意性というのは実は百科事典にとってはとても大事なことです。
たとえば、百科事典内のすべての項目が、数学、言語学、経済学、物理学……など
とジャンル分けされ、それぞれ最初から読むことによってなされる文脈を考慮した上
で、すべての単語が並べられていたとすると、ここではすでにその並び順に意味が生
じてしまい、物理学のジャンルは物理学の解説、経済学のジャンルは経済学の解説…
…といった風に、本来それぞれの記事には存在しない、まったく別の意味づけが生ま
れてきてしまいます。本来の百科事典、少なくとも百科全書家たちの求めた百科事典
が目指しているのはそういったものではなく、もっと全体的な、幅広い、言ってしま
えば、世界のすべて知識をごった煮にしたようなものです。ですから、その各項目に
も、ジャンルでまとめられてしまうことがない、恣意的に選ばれた他の項目と反発し
あわず、かといって決定的に癒着しないような、そういう無謀な汎用性が要求されて
くるわけです。
現代の百科事典はこのような無謀なものを求めてはいません。ですから、関連付け
られた知識を効率よく手に入れために、ある程度のカテゴライズというのも必要とな
ってきますし、実際、ハイパーリンクはその意味では非常に役立ちます。ただ、それ
と同時に、広い幅の、一見別の領域に見える知識との関連付けも重要になってきます。
ウェブ上の語彙体系は基本的にアルファベット順に並べられることはありませんが、
それに似たアイディアが時に役に立ってくることもあるのです。
まず、ウィキペディアの場合を見てみましょう。ウィキペディアのカテゴライ
ズには、まず、単純明快な「Category」という機能があり、各記事に「[[Category:
~~~]]」というタグを貼り付けることによって、
「~~~」というカテゴリに関連付
けることが出来ます。カテゴリページへのリンクへ飛ぶと、そのカテゴリに関連付け
られているすべての記事の一覧を見ることが出来ます。
たとえば人名記事であれば、1965 年に生まれた人間をまとめたカテゴリがありま
すし、三重県出身の人物をまとめたカテゴリもあります。物であれば、アドベンチャ
ーゲームをまとめたカテゴリ、小説作品をまとめたカテゴリなど様々です。ただ、こ
のカテゴリは誰でも簡単に増やすことができるため、今ウィキペディアには膨大な量
のカテゴリが存在してしまっています。それに、カテゴリタグの貼り付けは自動化で
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きるものではなく、あくまで人間の手で行われるため、これらの一覧はかなり不完全
なものも多いのが現状です。
それと、ウィキペディアにはカテゴリよりも広く、大きな範囲での記事の統括を目
指したものとして「ポータルページ」というものがあります。これは、
「ポータル:歴
史」
「ポータル:哲学」
「ポータル:アニメ」などといった広い範囲の記事を取り扱うも
のです。現在ウィキペディアには数十個のポータルがあります。そして、そのそれぞ
れがある一定のユーザーコミュニティを従えていますので、単なる記事の統括の仕事
だけでなく、そのジャンルの記事管理の中枢的な役割も果たしています。ここでは、
該当するジャンルで新しく作成された記事をリストアップしたり、同じような形式を
取る同ジャンルの記事の、大まかな編集方針などを定めたりもしています。また、ジ
ャンル内でまだ内容が不足している記事があったり、重要と思われる記事でまだ作成
されていないものがあるとき、それらをまとめる仕事なども担っています。
カテゴライズの作業は手作業でやるにはかなり大変ですし、しかも機械化は困難で
す。ウィキペディアではこれらの作業は人間の努力によって行われており、また、そ
れ故に力不足な部分も多いのが現状といえるでしょう。ウィキペディアは、その部分
を勤勉な努力によって補っていると言えます。
はてなダイアリーキーワードの場合は、カテゴライズということにあまり気を
使っていません。手動で設定するカテゴリーとしては、記事それぞれの属性として「一
般」
「ゲーム」
「音楽」
「読書」などと漠然とした内容のカテゴリーをひとつ設定する
だけなので、キーワードのジャンル分別ということを念頭においてはいないものと思
われます。ただし、はてなダイアリーキーワードには、人の手に拠らない、強力なキ
ーワードの関連付け機能があります。
まず、キーワードリンク機能は、もちろん関連するキーワード同士の関連付けを強
固にするものです。キーワードページでは、他のキーワードにリンクが貼られるだけ
でなく、そのキーワードページにリンクを貼っているキーワードページの一覧も表示
されるので、この間の可動性はさらに向上されるわけです。
それから、はてなダイアリーキーワードでは、キーワードに関係あると思われる
ASIN(書籍等の商品のコード)の記事に自動的にリンクが貼られます。これらの、キー
ワードと商品や商品同士の関連付け機能は、アマゾンなどのサイトにもおなじみにな
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っているものです。いわゆる Web2.0 的なビジネスでは、こういった自動的な関連付
け機能は主要な商法となっており、商品の関連付け以外にも広告などの機能に有効に
活用されています。
要するに、ウィキペディアの手動カテゴライズの手法は「人力的」
、今見たはてな
ダイアリーキーワードでの関連付け機能は「機械的」な方法なわけですが、はてなダ
イアリーではもう一つ「半・人力的」な関連付け機能があります。それが膨大な数の
ブログ群とキーワードとの間のリンクです。どんなブログにせよ、それらのすべては、
それぞれなんらかの傾向に基づいて書かれています。ですから、ブログに登場してく
るキーワードというものも、必ずなんらかの傾向を帯びてきます。キーワードページ
からは、そのキーワードに最近言及したブログへのリンクが貼られますので、はてな
ダイアリーでの「キーワードサーフィン」は、このように諸ブログを通して行われる
ようになります。この手のカテゴライズは可視的なものにはなりません。しかし、は
てなダイアリーキーワードはブログ間を通して形成されている語彙体系ですので、ブ
ログを用いた関連付けはかなり重要なものだと思われます。
ブログによるキーワードページの関連付けの話が出てきました。ここで、2 章での
提起を思い出してください。キーワードページというものは、そもそもブログ同士を
関連付ける機能を持って生まれてきたものでした。ここで、逆にキーワードの方に視
点を移すと、ブログがキーワード同士を関連付けるのに大いに役立っていることがわ
かります。このように、はてなダイアリーにおけるブログとキーワードは、互いに関
連付け、関連付けられる関係にあることがわかります。つまり、それは、キーワード・
ブログが、それぞれ内容を持つ一つのエントリとして成立した上で、対岸の関連する
コンテンツを総括するカテゴリとしての機能も持ち合わせている、ということです。
この二つは、要素としての性質を持ちながら、ひとつの集合として他方を包括し、互
いを自分の中に含め合います。はてなダイアリーの中には、このような集合=要素の
二元体の構造を見ることが出来るのです。
③ ユーザー間のコミュニケーション
ウィキペディアにとってもはてなダイアリーキーワードにとっても、ユーザー同士
のコミュニケーションはさして重要ではありません。ウィキペディアにおいては余計
な馴れ合いは疎まれるだけですし、はてなダイアリーキーワードにおいてはダイアリ
ーそのものがそれにおいての基本的な基盤を作ってくれているので、キーワードの執
筆上ではあまり重要ではありません。
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ただ、そのようなレベルのコミュニケーションではなく、項目執筆上の合意形成な
どで、記事に対するメタページなどはどうしても必要となってきます。ここではその
ようなユーザー同士の意思疎通がどのように取られているかについて見ていきまし
ょう。
前に少しだけ触れましたが、ウィキペディアでは、各記事ごとに「ノートペー
ジ」というものが存在し、そこで記事に関する議論が行われています。また、それと
は別に、各アカウントユーザーのページにも「会話ページ」というノートページに相
当する部分があり、特定のユーザーに対して意思疎通を図りたいときはこのページで
行います。ウィキペディアはほぼ完璧に公的な空間ですので、基本的にこのような場
所で、個人的なやり取りが行われることはありません。とはいえ、ウィキペディア上
で知り合ったユーザー同士が別のベースで交流を深めていくことは多く、オフ会等も
しばしば行われているようです。ウィキペディア日本語版にも、一応専用の IRC(イ
ンターネットリレーチャット)チャンネルが用意されていますので、熱心なユーザー
はかなり日常的にここに集まり、雑談めいた会話を交わすことも多くあります。しか
し、それでも基本的にウィキペディア上でのコミュニケーションはミニマムに行われ
るべきですので、それほど大それた交流はありません。ただ、そういったミニマムな
交流を愉しもうという意識のあるユーザーも中にはいるようです。
問題ははてなダイアリーです。ブログとブログコミュニケーションというもの
は表裏一体であり、ブログがここまで発達してこれたのも、コミュニケーションの様
式が簡便化されたことが大きな要因です。
ブログというもののまず一つの特徴として、毎日の日記がエントリ化され、それぞ
れに個別にリンクを貼ることが出来る(パーマリンク)ということがあります。これ
に付け加える形で、まず、各エントリに他のユーザーがコメントを残すことが出来る
機能が出来上がりました。ブログ以前のインターネットでは、掲示板というコミュニ
ケーション形態が一般的だったわけですが、ブログのコメント機能は、掲示板のツリ
ー構造を受け継ぎ、それに変わるコミュニケーション様態として発達していったわけ
です。さらに、ブログの数が増加していくに連れ今度はトラックバック機能が有効な
コミュニケーションとして成立してきます。トラックバックは、簡単に表現すると「他
人のブログに『あなたのところにリンクを張りましたよ』ということを知らせる機能」
で、主に XML という言語を使って提供されています。トラックバックは、相手のブ
ログを参照したことを知らせると同時に、そのブログから自分のブログへのリンクを
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張らせるものです。この強制性を好まない人も多いのですが、ブログ間のコミュニケ
ーションにはとても便利なもので、ブロガー達はお互いのブログに影響されながらも
のを書いていくことになります。トラックバックはもちろん異なるサービス間でも送
ることができますが、はてなダイアリー同士のトラックバックの場合、かなり簡便化
された方法で行うことが出来ます。はてなダイアリーにおける、トラックバックによ
るヨコのつながりはかなり根強いものがあります。キーワード―キーワードのつなが
り、キーワード―ブログ間のつながりについてはこれまで見てきましたが、ブログ―
ブログの間にも強いつながりがあります。そしてキーワード―キーワードのつながり
は「機械的」
、キーワード―ブログのつながりは「半・人力的」でしたが、ブログ―
ブログのつながりは完全に「人力的」です。カテゴライズの構図に見えたものと同じ
ものが、はてなダイアリーの組織そのものにも顕れていることがわかります。
④ 著作権の扱いとオープンソース運動
多数のユーザーの提供によって成り立っている、オープンコンテントのサービスに
とって、権利侵害関係の問題は避けては通れないものです。そのなかでもっともポピ
ュラーなものは著作権侵害ですが、それ以外にも、知的財産権、プライバシー問題、
名誉毀損、差別・人権侵害など、サービス提供側が気を使わなければならないことは
多数あります。ここではそのような問題に関して考えていきます。
ウィキペディアは権利侵害に対して極めて厳重な態度をとっています。膨大な
数の記事を抱えているので、流石にすべての権利侵害記事を洗い出すことは今も可能
となってはいませんが、コミュニティが大変よく規律されているので、明らかに著作
権等を侵害していることが確認できる記事や、出展が明記されていない画像はすぐに
摘発され、審議の末、削除に至ります。
というのも、これはウィキペディアが GFDL というライセンスの下で編集されて
いるからです。大幅な回り道になるのですが、この GFDL という制度と、その周辺
の問題について少し説明しておこうと重います。
GFDL の解説をする前に、まずオープンソース運動について紹介しなければなりま
せん。オープンソース運動は 90 年代後半から広がり、Linux という OS の成功によ
って脚光を浴びました。オープンソースとはその名のとおり「ソース」を「オープン」
にする、即ち、プログラムのソースコードを公開することによって、プログラム全体
の向上等の効用を得ようとする思想です。オープンソースによって成功を収めた OS、
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Linux はフリーソフトウェア財団という組織が提供する GPL というライセンスの下
で開発されていました。そして、GPL の根源に根付いている概念が「コピーレフト」
です。コピーレフトは copyleft と綴り、いわゆる copyright に対抗する概念としてス
タートしました。その定義をまとめると次のようになります
・創造物の使用、コピー、再配布、改変を制限しない
・改変したもの(派生物)の再配布を制限しない
・改変したもの(派生物)の使用、コピー、再配布、改変を制限してはならない
・コピー、再配布の際には、その後の使用と改変に制限が無いよう、全ての情報を
含める必要がある(ソフトウェアではソースコード含む)
・使用、コピー、再配布、改変のいずれにおいても、コピーまたは派生物にコピー
レフトのライセンスを適用し、これを明記しなければならない
(Wikipedia「コピーレフト」より)
GPL は「GNU General Public License」の略ですが、これはもともとコンピュー
ターソフトウェア向きに作られたライセンスです。オープンソース運動はソフトウェ
アのものであり、GPL もそれに貢献しました。この運動が広まるうちに、GPL を一
般の文書に応用できないか、ということが考えられるようになります。そこで開発さ
れたのが GFDL(GNU Free Documentation License )です。
GFDL はコピーレフトな文書の共有を目指すもので、やはり、同じように、GFDL
でライセンスされた文書の自由な複製・改変・再配布を認めます。ただし、そこで配
布される文書にも同様に GFDL に従う義務が発生します。
ウィキペディアはこの GFDL によってライセンスされています。よって、基本的
にウィキペディアはその記事の内容を別のウェブサイトで掲載されることを咎めま
せん(ただし、GFDL を、転載先の文書でも継承することが求められます。
)また、
少量の転載(引用の範囲内)であれば、それらの自由な使用を認めています。
さらに、このようなライセンスを他のコンテンツ一般に応用できないか、というこ
とが考えられて作られたのがクリエイティブ・コモンズ(CC)という組織です。ク
リエイティブ・コモンズは情報を共有する際の権利関係問題を円滑に解決しようと開
発されたライセンスで、基本的にはやはりコピーレフトの思想を持って構成されてい
ます。クリエイティブ・コモンズはフリーソフトウェア財団から離れたプロジェクト
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で、そのライセンス内容も GFDL などに比べ権利継承などの問題が比較的簡略化さ
れているため、現在コンテンツ一般のライセンスには、一般的に GFDL よりこちら
のほうがよく使われています。
さて、ここで、このようなオープンソース運動は、やはり独特の思想を持って進め
られてきたということが予想できると思います。そもそもこのような思想の根源には、
70~80 年代由来の、ハッカー文化という厄介な性質の現象が根付いています。
古くからハッカーたちは、情報技術に対する政府の規制に対抗し続けてきました。
彼らは情報の共有技術が従来の古典的権力を打倒するものと考えていましたし、その
意識は現在まで続いています。今でも「情報技術は、自由な言論等への政府の介入や
操作を無効化するものである」と言ったタイプの言説はよく見かけます。ですが、ハ
ッカーたちはこういった反体制的で左翼的な意識を持ちつつも、どこか大衆迎合主義
的な、資本主義的な側面も抱えていました。それは、ハッカー文化が結果的にウォズ
ニアックやゲイツなどの一部の資本家を生み出したに過ぎなかったという事実から
見ても顕著だったのですが、当時のハッカーたちが情報技術に目をつけた理由には、
それによる権力の打倒、という意識があったのと同時に、それが単なる大きなビジネ
スにもなるという事実があったことも大きかったものと思われます。このようなハッ
カー思想は、いわゆる自由至上主義、リバタリアニズムと呼ばれる思想と呼ばれる類
似性が指摘されています。この場は、情報を自由にしていくことが社会的な利益に繋
がると考えるだけに、情報弱者に対する配慮が弱い、という点で、リバタリアン的な
欠点を持っていると見ることができます。
現在のオープンソースやコピーレフトといった運動・概念は、こういった思想の延
長線上にあります。オープンソース運動家たちは、オープンソースが政府によるソフ
トウェアの検閲や圧力に対抗できると考えています。
たとえば、閉鎖的な組織 A で開発されている、何かの分野に関するソフトウェア B
があるとして、これが業界ではスタンダートになっていたとします。このソフトウェ
ア B の内容が、もし行政上、政府の都合に合わないものだとしたら、政府は法律的な
手段その他の方法によって組織 A に圧力をかけ、ソフトウェア B の不都合な部分の
改変を強制してしまうことができるわけです。ですが、オープンソースはこういった
心配そのものを無にする、とオープンソース運動家たちは言います。もしソフトウェ
ア B がオープンソースで公開されていたとしたら、政府が組織 A に圧力をかけてソ
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フトウェア B の不都合部分の改変を実行させたとしても、必ず他のユーザーが、ソフ
トウェア B の改変された部分をベターな形に変更し、公開しなおすだろうからです。
つまり、オープンソースでは政府の圧力はいたちごっこになり、その完全な遂行を不
可能にする、というのが彼らの考えです。
オープンソース運動は、やがて 90 年代まで継承された周辺のハッカー倫理に影響
を受けつつ、やがて「サイバーリバタリアニズム」と呼ばれるまでに至ります。いわ
ゆる技術至上主義ですが、サイバーリバタリアニズムはやがて、情報を公開さえすれ
ばすべての問題が解決するといった楽観主義を生み出してしまったこと、そして、そ
の基盤が高い技術的知識を要求したがために、知識に格差のあるものを救うに至らな
い、小乗的な思想に至ってしまったという点で批判されることになります。
(詳しく
はローレンス・レッシグ『CODE』などに詳しく書かれています。ネット上で公開さ
れているものとしては、東浩紀『情報自由論』 http://www.hajou.org/infoliberalism/
などが手軽です)
。
さて、ここでウィキペディアの話に戻りましょう。ともかく、GFDL はインタ
ーネット上での情報共有を円滑にするライセンスであるが故に、ウィキペディアは著
作権についてははっきりとした態度を取らなくてはなりません。正しくライセンスさ
れていない記述を流すわけにはいかないからです。
ただ、日本語版ウィキペディアの著作権・知的財産権に対する態度は、他の言語版
と比較しても厳しすぎるのではないか、という意見もあります。
実はアメリカ法には「フェアユース」と呼ばれる概念があり、これが著作権問題の
回避に一役買っているのです。フェアユースは、もともと汎用的な著作権関係訴訟の、
被告側の抗弁事由として開発された概念で、あらゆる著作物には、ある程度参照され、
無許可であっても他者に引用される余地を残している、ということを言っています。
例えば、いかなる値段が付けられた著作物でも、人間はそれを本屋にて、無料で立ち
読みしてしまうことが可能なわけで、著作物には元来このような不可避な余剰を持っ
ている、というのがフェアユースの主張です。これに対し、インターネット上での文
書は厳密なものなので、フェアユースの概念を適用することができるかというのは難
しい問題ではあるのですが、一応英語版ウィキペディアでは著作権をまとっている著
作物であっても、多少はフェアユースによって使用することが出来るようになってい
るのです。
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日本にはフェアユースの概念はないため、これに代わる概念として「引用」が使用
されるのですが、これは著作物の恣意的な利用を許さないなど、フェアユースとは異
なる部分も多く、日本語版では英語版のようなルーズな使用ができないのが現状なの
です。
で、対してはてなの方はどうかといいますと、こちらはかなりルーズです。も
ちろん、著作権に関する明確な方針は持っているのですが、もし権利侵害があっても、
権利者からの要請がないと侵害部分の削除を行わないのが現状のようです。結果、は
てな上では確かにグレーな画像がたくさん載っていますし、明らかにコピー&ペース
トと見られるような文章も多く見かけます。ただし、前にも書いたことですがこれら
は日本の他のウェブサイトの現状から見るとかなり普通のことですし、そもそもはて
なダイアリーキーワードのベースはダイアリーなのであって、ブログに載せられてい
た画像や文章をいちいち検閲しているようではサービスが成り立たないよ、という事
実も大きな障害となっています。はてなの権利物に対する扱いがいい加減すぎるので
はなく、ウィキペディアのほうが神経質すぎると考えたほうが自然でしょう。
そもそも日本のネット文化も、2 ちゃんねるなどの比較的無法地帯な地域から形成さ
れてきたということもありますし、アングラな部分では P2P ネットワークによるフ
ァイル共有もかなり一般的に行われるようになって、新参なところでは YouTube と
いった海外サイトを積極的に利用したりもしています。日本も、著作権に関してもと
もとそれほどタイトな発想をしているところではありません。権利関係がきっちりと
整備され、上手く規制されたインターネットは、これから先もしばらくは見ることは
出来ないでしょうし、きっと大衆もそんなものは望んでいないのでしょう。
6.まとまらないまとめ
さて、はてなとウィキペディアというテーマに沿った上で、いろいろな脱線して
きました。かなりごちゃごちゃしていましたが、それを通して、現在のインターネ
ットのいろいろな側面が見えてきていたら、よかったのではないかと思います。
ここで今一度はてなとウィキペディアの記事の質の違いについて、見てみましょ
う。
最初に断ったとおり、これは、はてなとウィキペディアなどといいつつも完全に
ウィキペディアに傾向した、ウィキペディア的な文章になっています。まぁそれを
承知した上で、ウィキペディアの記事の質を考えるうえで大事なことを一つ、まだ
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書いていないので、これを補っておこうと思います。
それは、前に触れた「中立的な観点」と「検証可能性」
「オリジナルリサーチの
排除」という方針のことです。中でも「中立的な観点」は特に重要なもので、
「ウ
ィキペディアの思想」の根底を成している概念です。百科事典を作るからには、す
べての記事は、何らかの観点に偏ったところからの文章で成されることがあっては
ならない、というのが中立的な観点の論旨です。
「検証可能性」「オリジナルリサーチの排除」はそれを補うように成り立ってい
る方針で、検証可能性は、記事に書かれている事項が、事実であるかどうか、検証
できるものだけが「事実」である、とする、というもので、オリジナルリサーチの
排除は、執筆者個人で行われた、独自の研究の結果や、個人のみの考え方は、絶対
に掲載してはいけない、というものです。いずれも、記事を書く上で陥りやすい落
とし穴でもあります。
例えば、中立的な観点の意識から言えば、
「自由放任型の資本主義が最良の社会
システムである、といった議論を展開するべきではありません。」そのような考え
方には、当然反対意見が生じるからです。ですから、自由経済について述べるとき
はそれに肯定的な議論と否定的な議論を、対称的に配置することが、ウィキペディ
アでは望まれます。この方針が立てられた背景としては、ウィキペディアが「百科
事典」であるということはもちろんあるのでしょうが、それ以上にウィキペディア
が、いわゆるオープンコンテント型の、多くの人間が参加するプロジェクトであっ
たということが大きかったのでしょう。多数の人が集まるということは、多数の思
想が集まり、多数の観点が集まり、多数の意見が集まるということです。そこでい
ちいち主観的な意見を認めているようでは、百科事典の記述は永遠に均衡を迎えな
いでしょう。そういった事態を防ぐためにも、この中立的な観点という概念は非常
に重要です。しかしそれでも、記事において合意が得られずに論争に発達する事態
は後を絶たないのです。
こういった方針ははてなダイアリーには存在しません。はてなダイアリーキーワ
ードでは、ユーモアだけで構成された中身のない記事も大歓迎ですし、
「気ままに
編集する」ことが第一の方針です。
しかし、これは、やはりここで言っておかなくてはならないであろうと思うので
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すが、どこまで行っても中立的な観点というものは観念的な理想でしかあり得ない
だろう、という意見もやはりあります。主観のまったく入らない文章はやはり不可
能です。このような反論に対し、ウィキペディアは「客観性というものが存在する
かどうかという議論が重要なのではなく、『論争』に参加しない態度、論争をフェ
アに描写し、記述することにベストを尽くす、という態度が重要なのである」とい
った風な返答をします。なるほど、確かに客観性なるものが存在しなくても、そう
いった立場で物を書こうと努めること自体は可能でしょう。しかし、こういった立
場を要求することが可能であるというウィキペディアのスタイル自体が、かなり特
異なものだと私は思います。
これは、果たしてオープンコンテント型の創作物は可能なのか、という問いに繋
がってきます。
オープンソースが成功したのは、それがソースコードだからであって、創作物と
しての側面が強かったからではありません。オープンソースは、対象とされるプロ
グラムへの介入を容易にすると同時に、他のプログラムの秀逸な部分を抜き出して
自分のプログラムへの利用することを容易にする、という特性も持っています。プ
ログラムというものがこのように切り貼り可能なものであったものだからこそ、オ
ープンソースは成功したのです。
しかし、創作物、それも芸術作品においては、少なくともそのような考え方は通
用しません。もしそれがたとえ匿名の作品であったとしても、芸術作品は創作され
たと同時に概念的な作者の署名が成され、「どこか」への帰属を自動的に表明し出
します。
CC などのプロジェクトは、著作権を如何に維持したままに情報の共有を目指す
か、ということを考えているものですので、もちろんそのような問題に対する配慮
はあります。しかし少なくともウィキペディアのようなオープンコンテント型の創
作物では、誰かが所有権を表明することは無理ですし、主体性を維持することはそ
もそも不可能に近いのです。
したがって、ウィキペディアにおける中立的な観点という思想は、オープンコン
テント型情報コンテンツを運営する上での当然の帰結であるとも言えます。言える
のですが、しかしそれはやはり、ほとんど創作物としての同一性を無に追いやるよ
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うなとんでもない非現実感を帯びているようにも思えるのです。
しかも、中立的な観点を提起する割には、ウィキペディアはかなり多くのものを
語りかけているように見えます。
例えば、私たちがなにかについて論説した文章を読むとき、その文章はなにかを
語りかけることでしょう。では、広辞苑は私たちに「なにか」語りかけるでしょう
か。おそらく、論説文が語りかけるようなものと同じものを、広辞苑は語りかけて
こないでしょう。百科事典は広辞苑の延長線上にあると考えてほぼ問題ありません。
ウィキペディアは百科事典です。ですが、ウィキペディアは広辞苑よりも、遥かに
多くのものを語っているのだということは、今まで見てきたことからわかると思い
ます。それは、言葉の指示を可視的にする機能であったり、物の分類におけるかな
りの作為性であったり、隠蔽された論争や荒らしであったりしました。
中立的な観点というのは、いわば「私は何も語りません、何にも意見しません」
という宣言です。確かにウィキペディアは、
「そういったもの」に関しては語って
いません。しかし、それにしてはウィキペディアはあまりにも語っていることが多
すぎるのです。
ここで帰結として一つの提起をしておきましょう。ウィキペディアは「ソースコ
ードのような言説」なのではないでしょうか。ウィキペディアの利用方法の理想像
は、記事の部分部分が、ファーストフードのように手軽に持ち出され、あちらこち
らに引用され、張り出されていくような世界だと私は思っています。そして、そう
いった形の言説は、私たちがオープンソースの解説で見てきたソースコードの扱わ
れ方にとてもよく似ています。
また、そういった活動を通すことによって、それらのソースコードが集って、ウ
ィキペディアというソフトウェアのぼんやりとした輪郭が浮かび上がっているの
ではないか、と思います。
文化祭ということで書きたいことのみをだらだらと書き綴っていったのですが、
もし、この拙い文章をしっかりと最後まで読んでくださった方がいたら、本当にあ
りがたいことです。そんなところで、ひとまずこの項を閉じておこうと思います。
ありがとうございました。
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