1 【原爆の記】 (要約版) 山崎恭弘 ●生家~堺町と塚本町周辺 私は、昭和 8 年 1 月 13 日生まれ、生家は、祖父山崎音助の代から、広島市 堺町で蝋燭、石油製品を扱う商家である。猫屋町の光道幼稚園から本川小学 校に進んだが、1 年生の秋、東隣の町、塚本町に転居tした。 我が家は、爆心地から 500m 弱の塚本町 61 番地(現、中区土橋町 61)、本川 の西岸で、本川橋と新大橋(現、西平和大橋)のほぼ中間、今も同じ場所に残 る本川浜恵美須神社の前の小路を西に入った所にあった。 三棟続きのこの家には、伯母(父の長姉)高橋マツ・正作夫妻と、私の父山崎 太佳司、母巴留子、姉迪子、弟公資・功四郎・充豊、従兄(父の長兄利吉の 子)の利夫らの大家族で住んでいた。 家の前には大きな佐方倉庫、その西には宮本下駄店、角の村越内科医院と 続き、自宅側の西隣には風呂屋があった。恵美須神社側の川沿いには、回漕 店、梱包材店、倉庫、旅館が並び、本川橋西詰の西南角には赤煉瓦の芸備 銀行支店、その川側には有名な「本川まんぢう」の店、靴店、理髪店などもあっ た。 本川橋から西へ堺町方面に抜ける筋には、大きな楠原乾物店、水田時計・ 眼鏡店、平井薬局などがあり、この筋の西端の角を電車路沿いに南に折れる と、汽車風の外装の塚本食堂、製氷工場、深川眼科、うどんと串焼肉がおいし い三角屋があった。 ●小学校の先生方 私の通った本川尋常高等小学校は、自宅の北 500m 足らず、産業奨励館(現、 原爆ドーム)から、二股の元安川、本川を隔てて西に 300m ほどの本川西岸にあ り、校庭の北と西に、L 字型に配置された鉄筋コンクリート三階建の校舎、南に鉄 骨造の講堂があった。 担任は、遠藤キヨコ(1、2 年)、方岡勝(3、5 年)、伊達忠之(4 年)、宮地和藤次 (6 年)の各先生である。この他に、入学時の惣野真澄校長、卒業時の川崎政 信校長、姉の担任であった岡本美枝子、小国トシコ、山本知言、音楽の大上俊 春、級友の母上、沖本照恵先生などの名を覚えている。 ●束の間の静穏~地獄へのカウントダウン 昭和 20 年春、私は本川国民学校(当時の呼称)を卒業、千田町にある広島 高等師範学校附属中学校(講師附中)に入学したが、既に戦局は非常事態を 迎え、教練や軍需工場・建物疎開作業への動員、時折の空襲警報などのため、 授業時間はどんどん減少した。 2 それでも広島の街は、大空襲もなく、比較的穏やかな日を過ごしていた。し かしそれは、次に来る地獄へのカウントダウンにしか過ぎなかったのである。 昭和 20 年 7 月 20 日、私たち附中の 1 年生は、農作業支援のため、広島市 を離れ、賀茂郡原村に向かったのだが、体が小さく、胃腸が弱かった私は、消 化不良でたちまち腹をこわし、7 月 29 日には広島に戻るはめになってしまっ た。 ●原爆投下2日前~恵美須神社の別れ 私の母と 3 人の幼い弟たちは、この年の夏前から、空襲の危険を避けて、近 所の河野家のお世話で、能美島の西端にある美能に疎開していたのだが、私 が広島に戻って間もなく、久し振りに塚本町の我が家に帰って来た。 8 月 4 日、美能への帰り船で、弟たちと入れ替わる形で、父、母、2 才の末弟 充豊、私の 4 人が島に向かったのである。 私たちの乗った発動機船が、新大橋の下を潜って見えなくなるまで、恵美須 神社横の雁木の上から、家に残る姉や弟たちが、一生懸命に手を振って見送 ってくれた情景を、今でも鮮明に覚えている。 これが私たちの最後の別れとなったのだが、我が子の死について、ついぞ語 らなかった母が、時折、思い詰めたような表情で、「あの時、皆、手を振って送っ てくれたんじゃがなあ」と、自分に言い聞かせるように呟くことがあった。 母の胸中には、「なぜ、あの時、皆を島に連れて来なかったのか」という悔恨 の思いが、終生残っていたに違いない。 ●8 月 6 日~燃える火の玉 朝 8 時過ぎ、私は、疎開先の茶の間で、父、母、弟の 4 人で食卓を囲んでい た。 突然、出入り口に使っている北向きの大窓の外が、パーッと明るくなった。皆、 驚いて庭に走り出て空を見上げた。 空が、メラメラと燃えていた。中天で、僅かに赤味を帯びた白い巨大な火の玉 が、ギラギラと、しかし音もなく輝いていた。 どれほどの時が経ってか、サーッと異様な北風が空を吹き抜けた。後で考える と、これが爆風だったのかも知れないが、音については記憶がない。 その間にも、火球は、見る見る周縁部から光を失って銀灰色の雲へと変化し、 ぐんぐん膨れ上がり、やがて巨大なキノコ雲となっていった。 漠然とした不安はあったが、まさかその下で家族が押し潰され焼き殺されつ つあるとは夢にも思わず、「あれは軍の秘密兵器じゃ。あの雲でビー(B29)を落 とすんじゃ」などと友人らと言い合いながら、私はあり合せの紙に、その雲をスケ ッチしていた。 しかし、その後、雑音の多いラジオから繰り返し流れる広島放送局からの悲痛 3 な調子のアナウンス(通信方法に関する要請?)を聴くうちに、私たちの不安感は 急速に高まり、やがて「広島が大事(おおごと)じゃ」という確信に変わっていっ たのである。 私たちは、その夜、美能の北側にある松原に立って、15 ㎞の海を隔てて燃え さかる広島市街の劫火を、いつまでも見ていた。 ●8 月 7 日~まだ熱い街を我が家へ 一夜をまんじりともせず過ごした私たちは、翌 7 日早朝、なけなしの米でつく った沢山のお握りと医薬品などを持って、島の人のポンポン船で広島に向かっ た。 船は、本川に入ったが、両岸の家々が崩れ、あるいは焼け落ちている様子に 恐れをなしてか、船は川上の塚本町までは遡らず、2 ㎞ほど下流の東岸、吉島 刑務所の所にある船着場に接岸した。 下船した私たちは、まだ炎さえ上げている熱い瓦礫の中を上流に向かい、新 大橋を渡って我が家へと急いだ。途中の雁木には、赤く火脹れした死体が折り 重なっているのが見えた。 焼跡の壊れた蛇口からこぼれる水の音の他は、生きて動くものの気配とてな く、無残なまでに見通しの利く死の街を、黒焦げの死体をよけながら、ただ夢 中で歩いた。 ●焼跡で見たもの 我が家の焼跡はすぐ分かった。建物は完全に焼け落ち、炭化・灰化した可燃 物、崩れて変色した壁土、焼けてひん曲がったトタン板や金物の残骸の中に、 赤い煉瓦、風呂場の白いタイルだけが、辛うじて原形を留めていた。 焼跡に入ってすぐ、1階の客間とおぼしき辺りで、寄り添うように、庇い合うよう に、並んで横たわった大小 2 つの遺体を見つけた。真っ黒で半ば炭化してい る。体の大きさから、姉、迪子(市女 2 年)と弟、公資(6 才)のものだろうと判断し た。その遺体は、近所の燃え残りを掻き集めてさらに焼き、骨にして島に持っ て帰った。 その日、家族の安否を気遣って美能の浜に出迎えてくれた村人に、骨を納 めた粗末な容器を見せながら、母が、「皆、こんなに小さくなりました」と、乾い た声で言った時の悲しげな顔が忘れられない。 ●焼跡の遺体探し 翌日から海路 1 時間、定期船での焼跡通いが始まった。宇品の桟橋から、御 幸橋、鷹野橋、新大橋を経て塚本町まで、5km 強、1 時間以上かけて歩き、持 参した鍬やスコップで、ここぞという場所を片っ端から掘った。 しかし、結局、伯母夫婦の遺体は、発見できなかった。隣組の世話役をして いた伯母は、何かの用で戸外に出ていたのかも知れない。 4 4 才の弟、功四郎の遺体は、なかなか分からなかったが、何日目であったか、 最後の望みをかけて掘った納戸の一角で、崩れた隣家の土蔵の厚い壁土の 底から、バラバラに砕けた白い骨片として発見された。小さな頭蓋骨片の内側に は、赤い壁土が半ばガラス化して食い込んでいた。 そこは、弟たちの玩具置場だったのである。 ●親戚の安否 広島市内には父の兄、山崎芳助(土橋町)、父の姉、藤野キヨ(空鞘町)、父の 兄の子、山崎利夫(材木町)の三家族が住んでいた。いずれも爆心地にごく近 い。 土橋では、芳助・冨美枝夫婦と、能弘(修道4年)、敦子(県女3年)、友子 (済美小3年)、勝弘、隆弘の5人の子が住んでいたが、学童疎開中の友子を 除き、全員が倒壊した家屋の下敷きとなり、奇跡的に脱出できた 5 才の勝弘の 他は、死亡した。その勝弘も’99 年 6 月、肺ガンで亡くなった。 材木町では、従兄、利夫・ヨシミ夫婦が被爆死、空鞘町では、伯母キヨが大火傷 を負いながら脱出したものの、日ならずして死亡、私と同級生で仲の良かった キヨの一人息子、昌(本川小→広島二中 1 年)は、勤労奉仕で、新大橋東詰北 方の建物疎開作業に出たまま、遂に還らなかった。 ●防空壕の中の帯剣 我が家の玄関土間に、1 坪ほどのミニ壕があったが、原爆で完全にセメント製の 壕の蓋が抜け、入れてあった物資は丸焼け、その上に焼けた姉のピアノの残骸、 私の 16 吋の自転車、瓦などが、うず高く積み重なっていた。 遺体を求めてその中を掘ったところ、遺体はなく、兵隊の帯剣(ゴボウ剣)が出 てきた。 後で分かったのだが、それは母の実家の弟、磯井久二の剣であった。久二 は原爆の直前、姉のいる我が家を訪ね、倒壊した家から脱出したのである。し かし、その後まもなく、彼は急性原爆症により、私たちに会うことのないまま、宇 品の暁部隊で死んだ。 また、この時広島にいた母の末弟、磯井陽三も、広島城近くの兵営で被爆、 顔に火傷を負い、10 年ほど後に原爆症で苦しみながら死んだ。 ●近所と小学校の様子 私たちが焼跡整理をしている際には、周りの家で焼跡を掘り返している様子 は全く見られなかった。恐らく、一家全滅だったのであろう。 本川小学校の被爆の実態は同校の百周年記念誌に詳しいが、爆心地にも っとも近い我が母校は、爆風を真正面から受けた東壁が大きく割れて凹み、内 装は完全に焼け、高熱の炎に曝されたコンクリートのごつごつした地肌と窓の鉄 枠のみが残っていた。 私の恩師の先生方(当時の呼称は訓導)の殆どは、残留の児童、高等科生 5 徒とともに、校内あるいは動員先で被爆、殉職されている。謹んでご冥福をお 祈りしたい。 ●同級生の消息 私の同級生、約 150 人のうち、1/3 以上は動員先もしくは自宅で被爆死、1/3 は生死不明、残りは生存しているが、連絡のつかない者も多い。 私は、’06 年 9 月頃から「同級生卒業名簿復元作業」を始めている。私が生き ている限り、できるだけ多くの友人の消息を確かめたいと念じている。 昭和 20 年 3 月の本川小卒業生に関する情報をお持ちの方は、ぜひ私にお 知らせを頂きたい。 戦火に消えた彼ら、彼女らの記録を残すことは、私たちの記憶の中に皆を永 遠に生かすことであり、それは生き残った私たちの務めだと、私は思っている。 なお、私の姉、山崎迪子ミチコは、昭和 19 年 3 月、本川小を卒業し、祇園高女 から市女に転じ、被爆死した。彼女のこと、彼女の友人のことをご存知の方は、 併せてお教え頂きたい。 ●「過ちは繰り返しません」~語り部活動を通じて 私とともに 8 月 7 日に入市被爆した父も母も’99 年 7 月、’00 年 1 月に相次 いで他界、末弟充豊も’05 年 10 月、ガンで死んだ。 多くの被爆者がそうであるように、父も母も原爆の惨状、とりわけ死んだ子ら のことを語ることは、殆どなかった。 しかし、残った私が原爆を語っておかなければ、焦土に埋もれ七つの川に 沈んだ人々の無念の叫びは、原爆ドームと同じように風化してしまうだろう。 私が、被爆体験を語ることによって、一人でも多くの人、特に次代を担う若い 人が、被爆の実相を知り、核兵器廃絶を志し、さらに不戦への遠い道程を歩く 覚悟をしてくれれば、こんな嬉しいことはない。だから、私は、これまでも、これ からも、被爆の語り部活動を続けたいと思っている。(終) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 筆者 :山崎恭弘、ヤマサキヤスヒロ 生年月日:昭和 8 年 1 月 13 日、(1933) 住所 :〒666-0133、兵庫県川西市鶯台 2-24-14 ℡:072-793-3563 E-Mail:[email protected] 原稿作成日:2016/9/28 被爆時住所:広島市塚本町 61 番地(現、中区土橋町 61) 被爆時℡:広島西 3-3586 本川小学校卒業:昭和 20 年 3 月 被爆時身分:広島高師附中 1 年北組 6 【付録:原爆に関するデータ】(2015/9/11、山崎恭弘) ➀原爆投下の目標都市:新潟、京都、広島(人口 35 万)、小倉、長崎。 ②警戒警報:発令7時09分~解除7時31分。気象観測機(イーザリー機長、後 に心を病んで自殺)の飛来による。晴れていたので、広島に決定。 ③投下機はB29、「エノラ・ゲイ号(機長の母親の名)」、テニヤン島から4機飛来。 ④投下目印は「T型の橋、相生橋」。 ⑤当日の死者 7 万 4 千人、年末までの死者を合わせると 14 万人(20 万人 という説もある、うち子ども 3 万人)、長崎(8/9、11:02 分)は 7 万人。 ⑥広島型原爆の愛称は「リトルボーイ」出力:15キロトン、長崎は「ファットマン」。 ⑦投下高度:9600m、炸裂高度:567m、火球の中心温度100万度。 ⑧爆心地(半径500m以内)の人の数:推定21000人。 火球によるこの地域の温度:3000~4000度。 ⑨炸裂の経過 ◆0秒:起爆装置作動 ◆0~1/100万 秒の間:核反応が内部で進行し、爆弾から中性子を放出、 これが物に当たってガンマ線を放出 ◆1/100万 秒後、炸裂し火球ができる ◆0.2秒後:火球直径320(310?)m、最大に達する。火球は、周りの空 気と反応して、周辺が紫色に光る 火球の表面温度6000℃(太陽と同じ) 衝撃波(爆風)の速度:毎秒500m、3秒後に半径1.5kmまで広がる。9.1秒 で4.5km離れた江波の地方気象台まで届いた。他の体験からは、爆風の進 行速度は距離3~10kmの範囲では、700m/s程度と推定されている。それ 以上は記録がないが、200mまでは落ちないだろう。爆音が聞こえた範囲 は調査がないが、岩国辺でも聞こえたという話はある。 ◆10秒後:火球は光を失い、3分後、きのこ雲になった。 ⑩いろいろな距離 ◆自宅~本川小学校 400~500m ◆原爆ドーム~本川小学校 300m ◆自宅~爆心地 500m ◆爆心地~美能 18km(音速を毎秒350m として、ピカからドンまでの時 間は、 約50秒、衝撃波は毎秒500mとして、36秒)。
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