<第 20 回 担当:田中憲 Case 32-2015> <解説> 本症例は、生来健康な 57 歳男性に生じた発熱、急性の右上葉の浸潤影、市中肺炎に対す るエンピリック治療に反応しない呼吸不全である。 PaO2 / FiO2 比は 91mmHg であり、これは ARDS の診断を満たす。患者はショック状態 となり、昇圧剤を投与されながら挿管管理、ICU へ移室となった。 循環器疾患、自己免疫疾患、悪性腫瘍はこの患者の症状の特徴として原因となりうるが、 気管吸引物が膿性であることや、発熱、臨床症状の急性増悪、にもかかわらず心機能検査 では正常、自己抗体は陰性、補体も正常であり、これらすべてが感染症を疑わせる結果で あった。 感染症の鑑別を進める際、まず最初に考えるべき論点は患者の免疫能が正常であるかど うかである。本症例では幼児期の異常を認めていないことから、もしも先天性免疫不全を 考えるならば成人発症と考える。成人発症の慢性肉芽腫症や高IgE症候群、転写因子 GATA2欠損症、分類不能型免疫不全症が考えられる。これらはいずれも肺感染症によって 発覚しうる。好酸球の増加を認めていないことから高IgE血症は否定的。また、IgGが正常 であることから分類不能型免疫不全症も否定的である。加えて本人や家族に回帰感染の既 往がなく、60年経って慢性肉芽腫症を発症することはかなり稀である。後天性免疫不全の 原因としては、HIV感染や免疫抑制剤の使用などが考えられる。本症例ではグルココルチ コイド治療を受けており、医原性の免疫抑制のリスクは上昇する。慢性的なグルココルチ コイド使用と呼吸不全に関連する感染症としてニューモシスチス肺炎や糞線虫感染があ り、これらは共に世界中でみられる。 ニューモシスチス肺炎は重症肺感染症で、低酸素血症、死に至る疾患である。 S.stercoralisは糞線虫で数十年間にわたり休眠し、グルココルチコイドの使用により再活 性化し、幼虫が循環し肺の毛細血管を破綻、肺出血に至る。典型的にはグルココルチコイ ドの1週間以上の使用を要する。本症例では数日間の使用にとどまっており、追加検査や 根底にあるかもしれない免疫不全状態を鑑別する必要がある。今回、免疫能は正常と考え る。 重症の市中肺炎であったのか。肺炎球菌性肺炎や非定型肺炎としてマイコプラズマやレ ジオネラ、クラミジア、インフルエンザウイルス感染などが原因としてあげられる。グラ ム染色が陰性であり、各種培養も陰性であることから細菌感染は否定的である。加えてイ ンフルエンザウイルスのPCR検査も陰性であった。かつてニューヨークで流行したレジオ ネラは市中肺炎の原因の30%にまで増加している。また、肝炎や電解質異常といった肺外 症状を呈することもある。しかし、本症例はこれらの症状を認めていない。さらにマクロ ライドやキノロン系の抗生剤に効果があるはずだが、今回は効果がなかった。 広域抗生剤に改善がみられなかったことや微生物学的検査で陰性であったことから、 通例の市中肺炎から離れて、珍しい感染症の可能性について考える必要がある。本症例で は渡航歴があることから、地理的な考察をふまえた鑑別診断を進める。 1 <第 20 回 担当:田中憲 Case 32-2015> ① ニューイングランド ニューイングランドでは非典型的な肺不全の原因として、野兎病とハンタウイルス 感染症がある。野兎病はFrancisella tularensis の感染により発症するが、臨床所見は 感染経路に依存する。ダニ咬傷では潰瘍形成を伴い、げっ歯類の物質吸入による感染 では重症肺炎像を呈する。本患者の病態は肺野兎病の症状と一致してはいるが、ニュ ーイングランド滞在中の冬場は体調不良により外出しておらず、暴露は稀である。ハ ンタウイルス肺症候群はシロアシネズミの糞に暴露されることにより感染する。出血 性の急性呼吸不全を呈し、時として血小板減少や心筋症を合併する。急性の呼吸不全 は認めていたが、他の症状を合併しておらずハンタウイルス肺症候群は鑑別診断とし て否定的である。 ② 東南アジア 本患者は搬送の約1ヶ月前に東南アジアへの渡航歴があるが正確な時期や経路につい ては報告がない。もし仮に中東諸国(サウジアラビアなど)を経由してインドネシアや日 本に行っているならば、新興感染症であるMERS(Middle East Respiratory Syndrome)を考慮する必要がある。このウイルス感染症はコロナウイルスによる感染 症でSARSに似た、免疫宿主に影響し急性の肺不全とARDS症状を呈する。MERSの症 状として一致はしているが、渡航経路は不明であり、はっきりとした暴露歴もない。 インドネシアでは腸チフスを媒介するYersinia pestis(ペスト菌)が挙げられる。ペス ト菌感染症は、野兎病と症状は似ていて、臨床症状として関連物質の吸入により感染 し潜伏期間も短い。本患者は単独での発症であり、周囲に同症状の者はいない。 東南アジアに関連する他の病原体としてホイットモア病の原因となるBurkholderia pseudomallei感染がある。緩徐進行性の肺結核に似た結節性肺炎像を呈し、スコール の後に発生率が増加する。さらに糖尿病や慢性肺疾患を合併していると発生率が上が るが、本患者は健康であった。ウェステルマン肺吸虫は東南アジアでみられる風土病 で、ザリガニなどの甲殻類の生焼きにより感染する。腸管壁を遊走し横隔膜を穿孔し て肺に至り空洞性病変を作るが、本患者は画像上空洞性病変はなく否定的である。 Penicillium marneffeiはインドネシアや日本でみられる風土病の真菌症である。肺 感染症と呼吸不全を呈することから本症例に一致するが、多くの場合免疫異常をきた していることから特徴に欠ける。 ③ 北アメリカ 北アメリカでは稀ではあるが真菌感染症により重症呼吸不全を呈することがある。 Cryptococcus neoformansはよくみられる亜種であるが、一般的に免疫不全患者に発症す る。対照的にC.gattiiは免疫機能正常の人にみられ、結節性肺炎や髄膜炎をきたす。本患 者はあまり典型的ではなく、西海岸での発症が多い。Coccidioides immitisは二形成の真 菌症で劇症型の肺不全をきたすが、地域がアメリカ南東部に限局しており、本患者は渡航 2 <第 20 回 担当:田中憲 Case 32-2015> 歴がない。 二形性の真菌症でセントローレンス海路沿いにみられるものとしてBlastomyces dermatitidis と Histoplasma capsulatum.がある。ヒストプラズマ症と異なり、ブラス トミセス症ではARDSと急性の呼吸不全へ10%進行する。そういった場合の多くは免疫能 は正常であり、致死率は60%~80%に至る。気管分泌物の検査でブラストミセスは高濃度 で検出され、一方でヒストプラズマは組織生検でのみ検出される。両病原体ともに多臓器 に進展しうる。ヒストプラズマはリンパ節へ進展するため、時として縦隔リンパ節腫脹を 画像上きたすことがあり、これはブラストミセスではみられない。 要約すると、本患者は広範囲にわたる渡航歴があり、ショック状態、ARDSに至り広 域スペクトラムの抗生剤に抵抗性を示す免疫正常患者である。病歴、臨床経過、画像診 断、微生物学的検査が陰性であったことから、高侵襲性の珍しい病原体感染が示唆され る。北アメリカにおける風土固有のヒストプラズマかブラストミセス症が考えられる。縦 隔リンパ節腫脹を認めておらず、ブラストミセス症がより考えられる。可能であれば、診 断のために生検を行いたいところであった。 追加検査 気管支鏡検査、尿検査 診断 B. dermatitidis 肺炎 経過 アンホテリシンBによる治療を開始。翌日には尿検査では陰性化したが、状態は 悪化し、呼吸管理等を行ったが、数日後に死亡。 3
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