言語間を移動する子どもの言語能力発達の実態と課題

2006 年 3 月修士論文(概要)
言語間を移動する子どもの言語能力発達の実態と課題
-日系ペルー人児童生徒を対象に―
山田初
第1章 本研究の概要
JSL児童生徒、特に日系ペルー人や日系ブラジル人といった日系デカセギ家族の子ど
もは、日本と母国との行き来が多く国を越えて、言語を越えて学習を継続することが多い。
現在、JSL 児童生徒を対象とした調査や内容重視日本語教育からの実践報告が多く存在す
るが、
「JSL 児童生徒への日本語教育」や「日本語でみた子どもの学力」という観点のもの
がほとんどで、「総合的な子どもの言語や認知発達」そのものに焦点を当てたものはない。
つまり、JSL 児童生徒の多くは日本と母国という異なった環境を移動しながら成長してい
くにも関わらず、日本での側面および日本側からの観点のみで JSL 児童生徒の言語発達を
見ているに過ぎないのである。日本と外国を行き来するといった言語間を越えることで学
習や言語発達が分断される児童生徒が多い現状を考えると、日本での言語能力だけではな
く母国への帰国後の言語発達の現状を把握することも必要である。そこで本研究では、対
象を日系ペルー人 JSL 生徒とペルーにいる「日本帰り」児童生徒とし、日本語及びスペイ
ン語能力の発達の実態を調査する。今までの日本側からの視点だけでは見えてこなかった
日系ペルー人児童生徒の側面を明らかにしたいと考えている。また、筆者は相互依存仮説
を支持する立場として、日本語母語の両言語でなくともいずれかの言語で学習言語能力を
獲得することで、認知発達や学校での教科学習を継続することができると考えており、調
査結果から、言語間を越えて移動を繰りかえす子供たちの、学習言語能力獲得に向けた提
言を行う。
第2章 日系ペルー人児童生徒を取り巻く環境
「日本帰り」児童生徒としての日系ペルー人児童生徒を取り巻くペルーの環境と、JSL
児童生徒としての日系ペルー人児童生徒を取り巻く日本での環境という、両国の視点から
日系人、日系ペルー人に関する先行研究や調査をまとめ記述する。
ここからわかったことは、同じ日系ペルー人であってもペルーでの日系社会との関わり
1
の程度によって、日本でのペルー社会との関わりも異なっていた。数多くの日系ペルー人
がデカセギに来日しまたペルーの日系人の 84%がリマに集中することから、リマの日系人
は日系社会の活動に参加することが多く、そのコミュニティーの活動は日本でも継続され
ることが多い。同じように日系ペルーJSL 児童生徒も、次のように分けられる。
①「文化言語継承型」-ペルーで日系社会との接触が多く日本語を使用または日本語教育
を受けたことがある
②「文化継承型」
-ペルーで日系社会との接触が多かったが、日本語を使用せず日本
語教育も受けたことがないもの
③「非継承型」
-ペルーで日系社会との関わりが少なかったもしくは無かったもの
④「日本生活型」
-日本で生まれ育ったもの
同じ日系ペルー人であっても、このような背景の違いにより、日本語に対する姿勢や習慣
への適応状況が異なっていた。これは日系ペルー人 JSL 児童生徒を指導する際などにも有
効だと思われる。また、ペルーの日系校には「日本帰り」児童生徒が数多く在籍している。
彼らの多くが非常に流暢な日本語を話す一方で、スペイン語での学習に困難を抱える。そ
のため、そのような日系校では、継承語でも外国語でもない日本語教育と、外国語でもな
いスペイン語教育の2つの特別な言語教育が必要とされていることが分かった。現段階で
はまだ十分な対策が取れているとはいえず、「日本帰り」児童生徒の日本語力が生かされて
いない一方で、彼らが困難を抱えるスペイン語教育も十分には行われていない。このよう
なデカセギの影響による子どもの言語能力の実態が明らかとなった。
第3章
「デカセギ」と日系ペルー人 JSL 生徒の言語能力発達
-日本でのフィールドワークをもとに
日系ペルー人 JSL 生徒の言語発達の現状を、過去に置かれた言語、学習環境との関係から
理解しようと試み、日本に住む日系ペルー人 JSL 生徒 3 名を対象に調査を行った。対象生
徒は次の表のとおりである。
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ここでは教科学習の躓きから高校中退に至った B や高校後の進路に迷う A の姿等が浮き
彫りとなり、家庭内で支援を受けていた C との対照的な現状が明らかとなった。一方日本
語力だけでなくスペイン語の維持の面でも対照的だった。どちらも特別な支援はないもの
の、C の家族が日系社会と関わりが深いため、C と家族のまわりに常に日系ペルー人が出入
りする環境で多様なスペイン語のインプットがあるため、比較的スペイン語を維持できて
いる。しかし、ペルーの日系社会との関わりがない A.B の家庭では日本においてもあまり
関わりがない。そのため、特に B は家族以外とスペイン語を使った経験がほとんどなく母
語喪失に近い状況である。また、日本語に関しても年齢相応に発達しているとは言いがた
い。これらの調査の結果、家庭での学習支援の有無とその内容、がその後の教科学習の理
解、さらに進路、就職へ影響している点が明らかとなった。
第4章
「日本帰り」児童生徒の言語能力発達
-ペルーでのフィールドワークをもとに
現在はペルーに帰国した日本で教育を受けた経験のある「日本帰り」児童生徒を対象に
調査を行った。これは、日本国内で日系南米人 JSL 児童生徒を対象とした先行研究は多い。
しかし日本と母国との移動を繰り返す子どもが多いなか、その帰国後の言語発達も含めて
多角的に彼らの言語能力を捉えたものが非常に少なく、実際の「移動を繰り返す子どもた
ち」の実態を把握できていない。そこで、筆者は次のような 4 名を対象に調査を行った。
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「日本帰り」児童生徒を対象とした結果明らかとなったのは、ペルーと日本という言語
的にも大きく異なる環境の移動だけではなく、日本国内の移動や転校だけでも子どもたち
の心理や学習に非常に大きな影響を与えること、一度デカセギをした家族はそれを繰り返
す傾向にあり多く子どもたちも複数回ペルー日本間を往復していることである。一度日本
に定住と決めていたものの、ペルーにいる家族の病気等で帰国し、子どもの言語環境が大
きく変わる現状が明らかとなった。
また、日本で受けた支援、特に家庭内でのスペイン語支援によって言語能力の発達も大
きく異なることが明らかとなっている。日本で日本語で教科学習の支援を受けたものは、
もともとのスペイン語力は低いものの、スペイン語が伸びが速く、教科の理解もはやい。
このように、日本語スペイン語という言語に関わらず学習言語能力を得た結果、言語を超
えて移動しても学習を継続できるケースもあった。
このようなさまざま言語状況の「日本帰り」児童生徒とその両親、教師に聞き取り調査
をすることで、学習言語能力を獲得するにはどのような支援が必要か考察を試みた。
第5章
言語間を移動する子どもの言語発達
-日本ペルーの調査をとおしてみえたもの
第5章「言語間を移動する子どもの言語発達-日本ペルーの調査をとおしてみえたもの」
では、第 3 章、第 4 章で扱った調査結果を分析、考察している。ここでは、4 つの観点から
考察を試みた。
・
家庭の教育に対する意識
・
家庭の言語に対する意識、
4
・
家庭での学習支援と子どもの学習に対する姿勢、
・
移動という環境の変化
そこでは、日本での教科学習などから自信や達成感を得たか否かで、その後の学習や将
来への姿勢が非常に異なることが明らかとなった。また、言語の位置づけがアイデンテ
ィティー面だけでなく「財産」や「将来の仕事のため」といった道具的理由である家庭
では、家庭内の支援が積極的に行われ、その結果両言語での学習が可能となっていた。
また、リストラに合いやすい雇用状況のため仕事を探して日本国内を移動することも多
くその場合に子どもが受ける負の影響は、教科学習にまで影響していた。両国において
教科学習に困難がない生徒は、日本で塾や家庭教師といった支援を受けた場合か、家庭
内でスペイン語による教科学習を受けた場合であった。このような日系ペルー人デカセ
ギ家族の JSL 児童生徒の現状は、日本で行われた調査だけでは見えてこない点を指摘し、
両国から見た多角的な調査の必要性を指摘した。このような多角的な調査による JSL 児
童生徒の実態把握もまた年少者 JSL 教育の視点として必要である。
第6章
結論と展望
-JSL 児童生徒の言語能力を伸ばす支援を目指して
本論文の問題と今後の課題を指摘したうえで、日本ペルー両国で行った調査結果からの
論点をふまえ、「ダブルリミテッドを生まないための支援」の観点から、学校や地域で行わ
れる年少者 JSL 教育と家庭との連携や、家庭での学習支援とペルー側との連携など、年少
者 JSL 教育へ提言を行う。
本論文の問題としては、「見えない存在」の実態が把握できなかったことがあげられる。
日本で実際に学習や生活等で困難を抱えていた「日本帰り」児童生徒は、ペルーにおいて
も日系校や日本語教育機関に近づくことなく表面には見えない形でペルー社会のなかにい
る。また、日本において学校で困難を抱えた JSL 児童生徒のなかには、そのまま不就学と
なって統計や調査上に出てくることのない「見えない」存在となっているものもいる。さ
らに、日本でも不就学、ペルーに帰国したのちも不就学となり、両国の調査においても表
面化しない児童生徒の存在もある。今回の筆者の調査では、その「見えない」存在となっ
ているさらに困難な問題を抱えているであろう JSL 児童生徒および「日本帰り」児童生徒
の現状を把握することができず、その点が悔やまれるが、今後の課題としたい。
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