開拓使期における狩猟行政

開拓使期における狩猟行政
―「北海道鹿猟規則」制定過程と狩猟制限の論理―
百瀬
響
はじめに
すでに近代以前からアイヌ社会は和人との様々な形態における接触の過程で変容を遂げてい
たとされているが、明治政府による北海道「開拓」の推進と北海道の「内国植民地」化は、と
くに北海道アイヌの困窮化を招いたと考えられている。その主要因としてあげられているもの
の中に、アイヌの従前の生業を困難とした土地の譲渡、漁業・狩猟の制限を含む法律の施行と
その影響等がある。すでに筆者は、開拓使期(1869 年∼1882 年)におけるアイヌによる河川漁
の制限過程を明らかにし、現時点において考えられる制限論理の矛盾とアイヌ・和人双方が被
った影響に関して論じている〔百瀬
1993〕 1 。
本稿では、北海道アイヌに重篤な影響をもたらしたとされる北海道鹿猟規則(1876 年施行)
について、その制定過程と同規則が定めた狩猟制限の(アイヌの従来の狩猟法である毒矢猟を
禁じた)論理を明確化することを目的としている。まず学説史において、従来の定説を形成し
てきた文献を中心に改めて精査し、当時の状況や制定理由を再検討する。次に、同規則の原型
である「鳥獣猟規則」や他の関連法規と比較することによって、その特色を明らかにし、さら
に同規則の制定過程でなされた議論を通して、その規制論理を検討する。特に、同規則制定に
あたって重要な役割を担ったお雇い外国人 H.ケプロンの建言とそれに関する議論を通して、国
内における狩猟行政の整備過程、すなわち制度の近代化の特質とその過程で浮き彫りにされる
アイヌ‐和人間の関係性をも検討したい。史料は、当時の行政文書である開拓使文書を使用し
た他、後に行政資料等も利用した。
なお本稿は、黒田信一郎記念シンポジウムで行った発表「開拓使期における狩猟行政――北
海道鹿猟規則制定の過程と狩猟制限の論理」(1999 年 3 月 21 日)の内容に基づいており、さら
に学説史を加えた。また同発表の内容の結論部、特に H.ケプロンの影響に関する議論について
は、すでに他所での発表がある〔百瀬
1999、2002(印刷中)〕。
1.学説史とその問題点
(1)
学説史
近代における国内の狩猟行政と北海道の場合を比較するために、まずここで、改めて生業と
しての狩猟の位置付けについて双方の相違を確認しておく必要があるであろう。明治維新以前
には、徳川幕府による禁猟政策によって、一部の例外(大名による鷹狩等の遊猟やマタギなど
職猟者)を除き、一般の狩猟は厳しく制限されていた。また狩猟だけではなく、公には一般に
よる肉食も、仏教の影響によって回避されていた。このような制度的・文化的な理由から、明
治維新直後まで国内に野生鳥獣が豊富に生息していたことはよく知られている。例えば日米和
親条約(1854 年)の付録(第十条)中には、アメリカ人の遊猟禁止が記されているが〔林野庁
101
編
1969:5〕、日本人にとって遊猟が一般に可能になったのは近代以降のことである。従って
狩猟を生業とする人口は決して多くはなく、必然的に近代以降の狩猟行政やその生業への影響
に関する論考は、本州以南に関しては研究例が少ない 2 。
一方、北海道の場合ではアイヌの生業の一部が狩猟であったことから、上記の場合と比較す
れば狩猟に関する研究は多いといえる。特に 1876 年、「資源保護」を理由に制定された北海道
鹿猟規則で、アイヌの従来の狩猟法(毒矢を使用する仕掛け弓猟)を禁止したことは、彼らの
生活に多大な影響を与えたと考えられている。この毒矢の使用禁止については、一次史料に基
づく論考では、高倉新一郎の手による『新撰北海道史』3 巻〔北海道庁編
3
『新撰北海道史』とのみ記述する〕 および『アイヌ政策史』〔高倉
1937a、以下便宜上、
1942〕があり、最も詳し
4
い 。他に、例えば『近代北方史』が当該部分に関し、一次史料を用いて一部論じている〔海
保
1992〕。また行政資料を中心とする「土人救済」や保護の沿革に関する資料では、北海道鹿
猟規の施行や狩猟の不振が、その救済措置の原因の一つとして言及されている〔阿部
北海道庁編
(2)
1920、
1926 等〕 5 。
『新撰北海道史』と『アイヌ政策史』の記述とその問題点
さて、上述の『新撰北海道史』と『アイヌ政策史』は、一次史料を用いて詳細な記述がなさ
れている点で優れており、またその後の当該研究における影響も大きい。現在の同規則に関す
る評価や議論は、ほぼこの二書での議論が踏襲されていると言っても過言ではなく、学説史上
重要な位置を占めている。しかしながら同書においては、記述や引用史料に重複が見られるが
6
、その特徴として以下の点が指摘される。①開拓史の狩猟行政とアイヌへの影響に関する「事
実関係」の記述が、年代順になされていない。②北海道鹿猟規則の制定理由に関する記述が、
同規則中の「濫獲防止」と「資源保護」とに集中しており、同規則が 1873 年公布の鳥獣猟規則
を受けて制定されたものであった点については、ほとんど触れられていない。従って、③鳥獣
猟規則との内容上の相違点に関する指摘及び説明がなされていない。
以上その特徴を 3 点記したが、当該研究がアイヌに対する狩猟禁止に関する現在の「通説」
を形成したと考えられることから、以下に『新撰北海道史』『アイヌ政策史』の記述に見られる
北海道鹿猟規則制定の経緯とその論点を検討する。
1)
「事実関係」の記述
まずは『新撰北海道史』における記述を例に、上記の二文献における当該部分の論述を考察
する。
従来殆どその生活資源を狩猟に求めた彼等は、拓殖政策の進捗と共に、その永年の宝庫
を失ひ、例へば ( A ) 鹿の濫獲がその食料を断たしめ、餓死者を出すに至り 、( B ) 開拓使は
その対策として、九年以来鹿猟規則を設け濫獲を防止し 、( C ) 十二年には十勝国地方及び
勇払の一部は旧土人の外狩猟を厳禁し、彼等に限つてその狩猟税を免ずると共にその従業
を許可し 、( D ) 仕掛弓、毒矢の禁止後は銃器を使用せしめ、その操銃法を教ふる等の便宜
を計ることにした 。然も、濫獲は防止する能はざりし状態で、遂には ( E ) その主食に供す
るものゝ外、一切猟獲を禁じ 、 ( F ) 亦河川の鮭、鱒類をも禁漁することゝなつた 〔『新撰
北海道史』:672〕(アルファベット、下線は筆者による)。
2)
時系列に従う変更例
この論述における具体的な「事実」関係を検討するために、時系列で並び替えると、次のよ
うになる。ただし(
)内は筆者の補足による。
102
(B)
開拓使はその対策として、九年以来鹿猟規則を設け濫獲を防止し 、( D ) 仕掛弓、毒矢
の禁止後は銃器を使用せしめ、その操銃法を教ふる等の便宜を計ることにした 。( F ) 亦河
川の鮭、鱒類をも禁漁することゝなつた 。 ( C ) 十二年には(二月の大雪により鹿が大量死
したが、当時「盛況の絶頂を示していた」〔『新撰北海道史』:466〕)「 十勝国地方及び勇
払の一部は旧土人の外狩猟を厳禁し、彼等に限つてその狩猟税を免ずると共にその従業を
許可し たが、 ( A ) 鹿の濫獲がその食料を断たしめ、餓死者を出すに至り 、然も、濫獲は防
止する能はざりし状態で、遂には ( E ) その主食に供するものゝ外、一切猟獲を禁じ るに至
った(さらに、このアイヌに対する特別措置も、北海道鹿猟規則制定の 13 年後の 1903 年
3 月に廃止された〔高倉
3)
1942:483〕)。
指摘される問題点
以上のような記述から指摘されることは、まず北海道鹿猟規則が制定された時期は、「胆振、
日高地方の鹿猟」が最盛期を迎えた時期と重なっている事実であり〔『新撰北海道史』:466〕、
同規則制定の要因を、「鹿の濫獲」に起因する食料不足によって「餓死者を出すに至り」、「その
対策として、九年以来鹿猟規則を設け」たためという説明は、成り立ちにくい(既に指摘した
ように、同規則は 1873 年施行の鳥獣猟規則を受けて施行されたものである)。これらは 1876
年から数年間の短期間の記述であるが、1)2)で示したように、その順序を変えることによっ
て、記述された「事実」はかなり異なるニュアンスを示すと考えられる。
このような議論は、北海道鹿猟規則中に記された制定理由に「資源保護」が掲げられていた
ことを背景に展開されたと予想される。中でも「従来妄猟濫殺繁殖ヲ欠ノミナラス自然其種ヲ
減シ」という記述については、後に詳しく事実関係に照らして検討することとして、まずは同
規則制定の国内での前提条件の考察が必要であろう。そのため次節では、北海道鹿猟規則制定
の契機となった鳥獣猟規則をはじめとする国内の狩猟行政の整備過程を検討する。
2.国内規定の法制化
(1)
「銃砲取締規則」および「鳥獣猟規則」の制定とその特徴
狩猟行政施行が開始された当時の東京の状況は、おおよそ以下のものであったと記されてい
る。1868 年の明治維新以降、「廃仏思想の高まりとともに殺傷禁断の戒律がゆるみ、江戸時代
の禁猟政策に対する反動のあらわれとして、鳥獣の乱獲が至るところで始まり」、その結果、大
型鳥類が急激に減少したばかりでなく、「江戸市中においても銃猟する者があらわれ、郊外では
しばしば農耕中の農民が銃弾によって負傷するなどの事件が頻発した」〔林野庁編
1969:6〕。
このような状況を背景に、一般による鉄砲の制限を目的に、銃砲取締規則および鳥獣猟規則が
制定された(年表1)。
1872 年「銃砲火薬類取締法令の嚆矢」である銃砲取締規則(明治 5 年 1 月 29 日制定)は、「明
治維新直後なお各地に擾乱が少なくなかった当時…純粋に警察目的のために制定された」〔林
野庁編
1969:6〕。国内の「治安維持」を目的に施行されたこの規定の目的の一つが、一般人
の銃所持の管理・規制であったことから、同規定中では所持可能な銃の種類とその所持目的と
が定められた。銃の所持については、銃の売買を免許制としたほか、一般による銃の所持を「猟
用銃」のみに限って許可し、さらにその場合には鑑札による届出が義務付けられた。この一般
の所持可能な「猟用銃」など銃の種類に関しては、同規則第 5 則において定められている。口
径の大きさに従って「軍用銃」と「猟用銃」に二分され、この分類に従って一般の所持可能な
103
銃は、「和銃四文目八分玉以下」と定められた 7 。
翌 1873 年には、狩猟規制法である鳥獣猟規則(明治 6 年 1 月 20 日制定)が制定されたが、
前年の鉄砲取締規則を受け、同規則では軍用銃使用が禁止された。第 11 条において、「猟銃ヲ
所持スル者銃砲取締規則ニ照準スヘキ事」と但し書きをした上で、特に「猟銃ハ和銃四匁八分
玉以下ノ小筒並西洋猟銃等併セ用フ可シ 軍用ノ小銃ニテ鳥獣ヲ猟スルヲ禁ス 」としている(傍
線筆者)。さらに同規則では、規制対象とする国内の狩猟に関し、第1条で「銃砲ヲ用ヒ鳥獣ヲ
猟シ以テ生活トスル者ヲ職猟トシ遊楽ノタメニスルヲ遊猟トス」と二分した。ここで注目され
るのは、第 1 条において規制の対象が銃を使用する狩猟に限定されたことによって、銃猟以外
の狩猟法は、この時点では規制の対象とはされなくなった点である。すなわち、同規則制定に
よって、弓矢や網、その他の猟具の使用は、規制の対象外とされることとなったのである。
鑑札の授与資格については、第 9 条で、年齢下限など六種類の鑑札授与の不適格者を定めて
いるが、「猟銃用ヒ方ヲ知ラサル者」は鑑札を与えない(すなわち狩猟をすることが許可されな
い)とされていた。これらの規定の他に、同規則の特徴として、狩猟対象が特定されていなか
ったことや期間の規定が緩やかであったことが指摘されている。その後、同規則は制定から 5
年間に 8 回という度重なる改訂を経たが、このような同規則における「融通性」が、乱獲を招
いたことがその理由としてあげられている 8 。
以上、銃砲取締規則と鳥獣猟規則における特徴を記したが、北海道鹿猟規則との比較から、
以下の点に注目したい。第一点として、国内における近代法として初の銃器規制と狩猟規制の
目的が、「治安維持」にあったことによって、銃砲取締規則と鳥獣猟規則では、一般による軍用
銃使用が禁止されたことである。第二点は、
「鳥獣猟規則」において狩猟が銃による猟と定義さ
れたことから、少なくとも施行当初は、銃猟以外の狩猟具使用が規制の対象外となった点であ
る。この二点は、言わば両規則制定理念の根幹に関わる部分であるにも関わらず、後に北海道
で制定された鹿猟規則では、これらの点が変更されているばかりか、両規則の理念から正反対
ともいえる措置が取られた。次項では、この国内法からの根本的乖離ともいうべき、鳥獣猟規
則と北海道鹿猟規則との相違点について指摘する。
年表 1
銃砲取締・鳥獣猟に関わる国内の主な布達類(1868∼1883)
西暦(年号)年
1868(明治 1)
1869(明治 2)
1870(明治 3)
1872(明治 5)
1873(明治 6)
1874(明治 7)
1875(明治 8)
1877(明治 10)
1881(明治 14)
1883(明治 16)
(2)
月 ・ 布 達 類
4 戊辰 4 月 21 日布告 9 戊辰 9 月 4 日達
4 己巳 4 月 28 日達
5 明治 3 年 5 月 7 日達
1 銃砲取締規則 2 壬申 2 月 20 日大蔵省達
1 鳥獣猟規則 2 鳥獣猟規則第一次改正 3 鳥獣猟規則第二次改正
11 鳥獣猟規則第三次改正
1 鳥獣猟規則第四次改正
1 鳥獣猟規則第五次改正 12 鳥獣猟規則第六次改正
9 鳥獣猟規則第七次改正 11 鳥獣猟規則第八次改正
4 明治 16 年 4 月 21 日達 12 明治 16 年 12 月 28 日達
「北海道鹿猟規則」制定に至る過程とその相違点
国内初の狩猟規制である鳥獣猟規則は、順次各地の事情に合わせて改正されながら施行され
ることとなった。後述するように、北海道においても翌 1874 年同規則の施行が検討されたが果
たされず、鳥獣猟規則制定から 3 年後の 1876 年に北海道鹿猟規則が別途制定されることとなっ
た 9 (年表2)。またこの 3 年間には、様々な規制案が提出されるとともに、暫定的な規則も施
104
行されている(暫定措置については後述する)。
鳥獣猟規則制定から 3 年間の議論を経て、新たに北海道鹿猟規則が制定された理由の一つに
は、北海道における特殊な状況が挙げられる。そしてこの「特殊な状況」は、上述の鳥獣猟規
則における制定理念との根本的相違の要因ともなった。その根本的な相違とは、まず北海道鹿
猟規則(及び鹿猟仮規則)において、使用銃器として軍用銃が許可された点である。さらに、
鳥獣猟規則には見られなかった銃器以外の猟――すなわち毒矢による弓矢猟――の禁止事項が
付されたが、禁止されたアイヌの毒矢に対する代替措置として、陸軍から「軍用銃」が貸与さ
れるなど、本来の「国内の治安維持」の目的による従前の措置とは、矛盾した内容となってい
る。以下、この理念上からは矛盾ともとれる根本的相違とその規制論理を、北海道鹿猟規則制
定までの議論から検討する。
年表 2
開拓使期(1869∼1882 年)における狩猟に関する主な布達
西暦(年号)年
1869(明治 2)
1870(明治 3)
1872(明治 5)
1873(明治 6)
1874(明治 7)
1875(明治 8)
1876(明治 9)
1877(明治 10)
1878(明治 11)
1879(明治 12)
1880(明治 13)
1881(明治 14)
1882(明治 15)
注
月
・
布
達
類
7 開拓使設置 11 獣皮買上価格制定及密売禁止[札幌]A
1 熊胆皮買上価格制定[開拓使]A 2 軽物売買[開拓使]A 4 軽物売価取調[開拓使]
A 11 土人収獲品買上[開拓使]A 11 東部物産税則[開拓使]E
1 銃砲取締規則 11 陸産物買上[札幌]A
1 鹿角皮税三件[札幌]A
1 鳥獣猟規則 2 鳥獣規則第一次改正 3 鳥獣規則第二次
改正 5 獣皮買上価格[札幌]F 7 産物収税帳[札幌]E 11 猛獣銃殺[樺太]C
11 鳥獣規則第三次改正
1 鳥獣規則第四次改正 7 旧土人交易停止[札幌] 9 胆振日高両国鹿猟規制[札幌]
A 10 臘虎猟仮規則[開拓使]B 11 石狩国夕張外三郡鹿猟規則[札幌]A
12 猛獣撲殺[函館]C
1 十勝国鹿猟規則[札幌]A 3 鹿猟鑑札料[開拓使]F 3 銃砲検査期限[札幌]G 4
鹿猟規則[根室]A
4 北海道海猟取締規則二件[公達]B
9 獣猟毒矢禁制[札幌]
A
9 猟期外鹿肉販売禁制[札幌] 11 北海道鹿猟規則[開拓使]A 11 銃砲弾薬売買
禁止[札幌]G
12 旧土人猟銃貸与[根室]A
12 臘虎猟引継[公達]B
1 鳥獣猟規則第五次改正 3 銃砲取締方[札幌]G
3 烏鴉銃猟心得[札幌]C
9有
害銃捕獲手当[札幌]C
9 猛獣捕獲手当[函館]C
12 鳥獣猟規則第六次改正
1 烏鴉銃猟心得及鑑札下与三件[函館]C
2 産物上納期限[函館]F
6 北海道鹿猟
規則改正[開拓使]A
1 貂皮買上価格[根室]A 3 熊狼猟殺手当[札幌]C
9 山林官吏有害獣猟[札幌]
C
*1878 年から 1879 年にかけて大雪のため鹿激減
3 釧路在籍旧土人外鹿猟禁止[根室]A 5 物産表差出方[函館]A 7 旧土人収獲品販
売及取締二件[開拓使]B 8 有害鳥獣銃殺及威銃手続[函館]C
3 鳥獣猟期限[根室]A 4 有害鳥獣銃猟手続[札幌]C 9 鳥獣猟規則第七次改正 11
鳥獣猟規則第八次改正 11 有害獣銃殺注意[函館]C
2 開拓使廃使
A∼ G は 布達 部署 を 表 す。
則]
E :[ 会 計
国税 ]
A:[物 産
F:[会 計
陸産 ]
地 方税 ]
B:[物 産
G :[ 警察
水産]
C:[ 勧農
鳥 獣虫 害]
D:[ 警 察諸 規
諸営業]
3.「北海道鹿猟規則」制定の過程とその論理
(1)
鹿猟規則以前からの規制――適正価格の規定と交換財の規制の論理
まず鹿猟規則を検討する前に、ここでは 1872 年以前から北海道で施行されていた狩猟に係わ
る規定を、『開拓使事業報告』の例を用いて検討する 10 。
1869 年 7 月、開拓使が設置されたが、その 4 ヵ月後の 11 月には「獣皮買上価格制定及密売
禁止」が通達された。同種の規定は開拓使期を通して数度にわたって通達されている。その目
的は適正価格売買によるアイヌ利潤の保護、すなわち鹿角や熊胆およびこれらの毛皮の買上げ
105
値段を定めることによって、一部の商人らがアイヌから低価で「収奪」することを防ぐことに
あったが、その規制は価格ばかりではなく、対価として支払われる交換財にまで及ぶことがあ
った。釧路では 1878 年、交換の際に獣皮が「奸商ノ為メ低価ニ買収」されることを防止するた
め毛皮の価格を定めているが、1879 年 6 月アイヌ捕獲の鹿角皮等が、「奸商等旧土人ヲ欺キ無
益ノ器物ヲ以テ交換スルノ弊アリ」として、当分の間売買を「大蔵省商務局用達広業商会」に
一任し、交換物品の種類を定めたものである。ここで注目されることは、第二条で規定されて
いる「交換物品」と「無益の器物」の種類である。例えば前者は、「米塩」を始め、「酒、焼酎、
煙草葉刻両種」の嗜好品、木綿糸や木綿衣類・古着、「山刀、マキリ、タシロ、斧、鎌、鍬、針」
の鉄製品そして「小豆、黒砂糖や飴」などの菓子類とされている。他方で「無益」と定義され
ているのは、「陣羽織」「行器」「飾太刀」であり、「従前交換ノ分ト雖モ自今廃停スヘシ」とさ
れた〔大蔵省編
1885:173-174〕。
この措置は、交換財として「適当な」生活必需品とそうではない「無益な」物品を規定する
ことによって、アイヌが「欺かれる」ことを避ける目的からなされたが、一方「無益」とされ
たこれらの物品は、彼らにとっては宝飾品であり儀礼具でもあった。これらは「宝物」ikorと
呼ばれ、通常は彼ら自身の地位を顕示する財産として屋内に安置され、儀礼の際には正装用の
衣装や宝飾品・儀礼具として使用された。また、何らかの事件・裁判等の際には、補償品すなわ
ち「償い」asinpeとして支払われる代価ともなった。またそれゆえに毛皮交換の際以外にも漁
場労働等の際の対価ともされていた 11 。
表 1
材
アイヌの宝物・祭器
質
名 称( 日 本 語) 名 称( ア イ ヌ 語 )
木製漆器
耳
盥
みみだらい
木製漆器
角
盥
つのだらい
行 器
ほかい
片 口
かたくち
膳・盆
ぼん・ぜん
酒 杯
さかずき
隅 赤
すみあか
木製漆器
木製漆器
木製漆器
木製漆器
木製漆器
ガラス,石,
陶器,角,古
銭
玉 飾
たまかざり
tokom-kor-patchi /
tokom-kor-pe
tek-us-patchi / tek-us-pe
/
kiraw-us-patchi
sintoko
(形状により名称が異なる)
etu-nu-p
otcike:poro otcike:
pon otcike: 盆
tuki:椀
takaysara:椀の受台
膳
用 途( ア イ ヌ )
用 途( 日 本 )
祭時の酒入れ
手洗い・鉄漿の口注
ぎ
同
同
上
上
通常時:穀物・椀類収納,祭時:
酒入れ
椀類収納など、膳行
器
酒注ぎ用
汁・酒などの注ぎ用
来客時、祭時の椀受け渡し用
椀等の受け渡し用
祭時の酒杯、杯・台一組で使用。
食事用
祭時は膳一つに杯4つで一組
matchipop / mat-sipop
女性用,装身具・貴重品収納
tama-say / chikori(雅語) 女性正装用ペンダント
漆塗りの小筥
大陸からの交易品、
あるいは自製品
出 典:〔 米村 ・ 知 里 1980〕 を 特 に参 照 し 、 ア イヌ 語 表 記 も 同書 に 従 っ た 。盆 ・ 膳 に つ いて は、〔 ア イ ヌ文 化 保 存 対策
協議 会編
1969〕およ び〔服 部編
1964〕を 参照 して い る。*以上の うち 、酒杯 、膳・盆 に は木 製自 製 品 が見 られ る 。
これらの物品は、彼らの生活の上でどのような位置を占めていたと考えられるであろうか。
以下参考までに、
「網走郷土博物館所蔵アイヌ土俗品解説」の例を参照して〔米村・知里
1980
(1958 初出)〕、この宝物ikorの種類を簡潔に記し、その位置付けを検討してみよう。表1では、
主なアイヌの宝物及び祭器と考えられるものを取りあげた(なお、男性の正装に用いられる交
易 品 で あ る 陣 羽 織 ・ 飾 り 太 刀 は 省 略 し た )。 こ れ ら の 品 々 は 、 通 常 は 家 の 東 側 に あ っ た 神 窓
rorunpuyarに向かって左側にある上座に安置された。宝物ikorの多寡は物語などでも主人公の
106
貴賎や地位を示す一手段として繰り返し言及されているが 12 、その手段が主に和人からの交易
品であった点は、両者の関係を考える上で特に注目に値しよう 13 。
以上、簡単にアイヌ−和人間の交易品の性質について記したが、「無益の器物」と評された和
人との交易品の一部は、アイヌの威信財として儀礼やある種の交渉に必要とされていた。この
「保護する側」と「保護される側」に見られる齟齬は、文化の差異によるとも指摘しうるであ
ろうが、生業という重大な局面ではどのような形となって現れたのであろうか。次に北海道鹿
猟規則制定の過程から、その事実関係と制限の論理を考察する。
(2)
1)
「北海道鹿猟規則」制定の概況――「アイヌ救済事業」に至るまでの背景
概況
研究史では、北海道鹿猟規則制定に関わる議論の問題点を指摘した。これらの問題を再度検
討するために、まずは北海道鹿規則制定までの概況を、同規則制定理由とされた、すなわちア
イヌの飢餓救済のための保護を行なったとされる、「アイヌ救済事業」に至るまでの期間を含め
てみていく 14 。
前述したように、近代以前には一部の例外を除き、国内の狩猟は一般に対して規制されてい
た。江戸時代の北海道では、狩猟はアイヌのみに許可されており、明治以降になってはじめて
「内地人猟師」に開放されるようになった。1872 年には室蘭新道が開設されたが、それによっ
て和人狩猟者の流入が促されたとされ、特に「鹿の越年場所として有名」であった千歳・勇払
(すなわち「胆振・日高両国」)では狩猟が盛んになった。そのため「猟銃の響四方に喧しく」、
鹿は次第に「遠く函館県下及び十勝以東に逃匿」するようになったという〔高倉
1947:482-483
15
及び 505 注 13〕。一方、北海道全体における捕獲数は 1875 年に最盛期を迎え 、1878 年には開
拓使の鹿肉缶詰所が設立された。
そしてこの鹿猟最盛期の 1875 年以降、狩猟に関する規則が制定された(年表 2 参照)。まず
同年 2 月、開拓使で「乱獲を防止する対策」が協議されたが、この際当時の開拓顧問兼お雇外
国人 H.ケプロンが、開拓使長官黒田清隆からの要請に答える形で「欧米諸国の規則を渉猟して
参考に資せしめ」〔北海道庁編
1937a:466〕、「時期、方法、数量を定めて之を捕殺し、充分に
保護を加ふべし」と提言したと記されている〔『新撰北海道史』:274〕。
北海道鹿猟規則制定までの 3 年間に北海道で取られた暫定措置を記すと、まず同じく 1875
年 9 月、「札幌本道開通以後、狩猟者は交通の便を得て…その狩猟が俄かに盛んになった」胆
振・日高両州方面に鹿猟仮規則が設けられた〔『新撰北海道史』:466〕。この仮規則は、同年 11
月「夕張・空知・樺戸・雨龍」の石狩の 4 郡に、翌 1876 年 1 月に十勝、4 月には根室支庁管内
にこの仮規則が適用された。これらの仮規則では、銃器(口径は十文目とされた)および狩猟
期間が制限されたが、その一方でアイヌの弓矢猟は認められていた。
ところが一転して、1876 年 9 月、仮規則で許可されていたこのアイヌの弓矢猟の禁止が通達
される。その 2 ヵ月後の 1876 年 11 月に、資源保護を理由に掲げた北海道鹿猟規則が公布され
たが、その中では矢猟が禁止され、狩猟人員・猟期の制限や罰則が設けられた。同規則以降の
措置では、1877 年 9 月に「猟期以外の鹿肉売買」が禁止された他、1879 年 1 月に「十勝国一円
並に胆振国勇払郡植苗村字美々より四方四里の間」に禁猟区を設けて、その地に居住するアイ
ヌ以外の狩猟を禁止し、翌年には「釧路国一円の鹿猟を禁止する」措置が取られた〔高倉
1942:
437〕。
北海道鹿猟規則制定に至るまでの措置も含めた評価では、「是等の規定に対してアイヌは常
に例外に置かれ」たという指摘がある〔高倉
1942:437〕。例えば、一連の鹿猟仮規則では、
107
「仕掛弓はアイヌに限つて許され(仮規則第二条)且つ狩猟は年中是を許され(仮規則第五条)」
た。さらに『北海道鹿猟規則』制定後においても、猟業税が免除された他(第三条)、禁猟区を
設けた際も、その中に居住するアイヌに限り内に居住するアイヌの狩猟や仕掛け弓が「漸次禁
止の方針」とされたという〔高倉
1942:437〕 16 。しかしながら、前述した北海道鹿猟規則の
制定理由については、文献上では「資源保護」あるいは「アイヌ保護」と述べられているのみ
で、暫定措置では認められていた弓矢猟が同規則制定の 2 ヶ月前に急に禁止になった理由は明
確化されていない(表 2 参照)17 。そのため、次に「アイヌ保護」が開始された事由と時期を、
行政文書等に記された「アイヌ救済事業」を中心に検討してみよう。
2)
「アイヌ救済事業」の開始
まず「アイヌ救済事業」が行なわれるようになった背景については、明治以降の和人による
狩猟の解禁を契機に鹿の個体数が減少し、分布域が変化したことに加え、その後に相次いだ天
災が、鹿の減少に拍車をかけたことが指摘されている。特に 1878 年から翌年にかけての雪害の
影響は甚大で、中でも 1879 年 2 月の大雪は鹿の大量死を招き、その翌年には鹿は「缶詰の製造
を廃せざるべからざる迄劇減」したという 18 。十勝・釧路地方においては、鹿猟は 1878・1879
年頃「盛況の絶頂を示し」たが、「これ亦乱獲と斃死とのため、十五年(1882 年:筆者補注)
頃には殆ど絶滅したと云はれ」、「厚岸缶詰所にては冬期鹿肉缶詰を製造したのであつたが、二
年にして之を廃止した」〔『新撰北海道史』:436〕 19 。上述の大雪以外にも、これらの原因とし
て 1883 年の旱魃・蝗害などの天災、移民の更なる増加に起因する鹿・鮭の収量減少、開拓使廃
止後の不景気と物価の下落などがあげられている〔阿部
1920:96〕。
次にアイヌの飢餓状態現出に関する記述を、「アイヌ救済事業」の事跡の記述から検討すると、
これらの事業が開始されたのは――地域や居住区域(海浜部と山間部)による差異はみられる
ものの――開拓使廃使以降となっている 20 。年代順に記すと、根室では当時の根室県令湯地定
基によって、1882 年 11 月に政府への陳情書が提出された。また、十勝地方では 1883 年の冬期
から「食料の欠乏を告げ、飢餓に迫る」状態となり、翌年 3 月頃からアイヌによる役場への救
済申請が見られるようになったという 21〔阿部
1920:96〕。1884 年 4 月には、沙流郡でアイヌ
が郡への救済嘆願を申し出、同年 5 月には、「勇払郡他五郡長服部治春」が札幌県庁に救済を上
申し、さらに 12 月には札幌県令調所広丈によって、政府への救済申請が行われた。浦河では、
アイヌによる保護出願が 1885 年になされている〔中島
1998:1〕。従って、少なくともこれら
の資料を見る限りでは、アイヌに対する保護事業が必要とされるほどの飢餓状態が公に論じら
れるようになったのは、1882 年以降、すなわち北海道鹿猟規則制定以降であると考えられる。
以上のことからも、同規則制定の契機が「アイヌ救済」であるという議論は成立しにくい。
以上、まず北海道鹿猟規則制定の議論は鹿猟の最盛期に議論されていることを確認した。こ
の頃施行されていた鹿猟仮規則では、アイヌの弓矢猟は認められていたが、北海道鹿猟規則制
定の2ヶ月前に禁止となった。また、「アイヌ救済事業」については、廃使後の 1882 年以降公
の議論となった背景には、従来の乱獲・規制による減少に加え、相次ぐ天災による鹿の大量死
が飢餓を現出させたと述べられている。ではどのような論理によって、北海道内の狩猟規制は
形成されたのであろうか。以下では行政文書等の史料を検討することによって、この問題を検
討する。
108
(3)
「北海道鹿猟規則」制定をめぐる議論
本節では北海道鹿猟規則制定の経緯と規制の論理を、北海道文書館所蔵の開拓使公文録の中
から、明らかにしようと試みる。この同規則制定にあたり、お雇い外国人 H.ケプロンが提言し
た点については前述したが、実際にこの「ケプロン建言」を境に議論が変化した部分が認めら
れる。従って、まず文書の中からその制定理由を確認した上で、次にその経緯をケプロン建言
前後に分けて記す。
1)
「北海道鹿猟規則」制定の理由
すでに鳥獣猟規則が制定(1873 年 1 月 20 日)された翌 2 月 5 日に、開拓使では同規則が「北
海道内ノ如キハ実地迚モ難ヒ行」いという判断から、実施調査を経た上で現状に合わせて適用
するとしている(6155-12) 22 。次に、前述した同規則の目的である「資源保護」について検討
する。この目的については、1875 年 3 月 8 日付け文書で比較的詳しく述べられている。そこに
は「鹿猟制限」すなわち「予メ 後年猟獲衰微ノ弊害ヲ妨キ 候様」とあり(傍線筆者)、同法の
目的は「資源保善」と記されている(5818-174)。さらに後述するケプロン建言は、「北海道ノ
鹿類保存繁殖ノ為メ該島ニ施行スヘキ方法」を問合せた開拓使長官黒田清隆(2 月 3 日付け文
書)への回答となっている(6155-12)。このような記述から、鹿猟規則における制定理由、す
なわち「鹿ハ北海道物産ノ一ニシテ其利益尠シトセス然ルニ従来妄猟濫殺繁殖ヲ欠ノミナラス
自然其種ヲ減シ其声価ヲ落シ人民亦遂ニ其利ヲ失フニ至ントス故ニ 之ヲ保護シ永ク其利ヲ失
ハセラシメンカ為 茲ニ規則ヲ設ル」(傍線筆者)という文章の中の「保護」とは、そのまま解
釈して差し支えないのではないか。すなわち、絶滅寸前の鹿を保護するというよりは、今後の
収量確保のための、事前の資源保全策を目的に制定されたと考えてよいであろう 23 。
ちなみに、この 3 月 8 日付け文書の付箋には、前述した「鹿猟仮規則」との矛盾が、「鹿猟仮
規則ハ獣猟規則(鳥獣猟規則を示す:筆者補注)ニ准拠シ獣猟取締ノ為ニ設立シタル」もので
あるために、「猟法ノ制限ヲ設ケ獣類繁殖猟獲之利永久衰微セザル猟トノ御旨趣」とは「齟齬ノ
様相」が見られると記されている(5818-174)。この仮規則制定が鳥獣猟規則施行の暫定措置で
あったために、資源保全の目的の点で齟齬があるという説明は、鹿猟規則制定 2 ヶ月前の弓矢
禁止とも関連すると考えられる。しかし、銃猟を許可して弓矢猟を禁ずることが、果たして資
源保全の効果をもたらしうるであろうか。次にその解答を、ケプロン建言およびその前後の議
論の中から探ってみよう。
2)
ケプロン建言以前の議論(1873 年 12 月 5 日∼1875 年 1 月 28 日)
この間の議論は、鳥獣猟規則を北海道内でどのように施行するかというものであった。その
内容を大まかに分ければ、規則制定後の外国人への対策と先に指摘した軍用銃禁止項目に対す
る議論の二点といえるであろう。
まず前者については、鳥獣猟規則制定後には外国人も射程に入れた禁猟区立札指示や函館が
開港場であったことから他の地域に先立って規則を施行する案が提出されている(6155-12)24 。
後者については、銃猟規則に抵触する理由から猟銃の口径が論じられている。1874 年 7 月に提
出された鳥獣猟規則の訂正案では、すでに「和銃十匁以下ノ小筒並西洋猟銃等」(第五条)と記
され、さらに 1874 年 12 月には、第三次鳥獣猟規則改正文に書き込み・付箋で訂正した案が提
出されている。その中では口径の相違について、「有害ノ鳥獣」に限り「拾匁玉以下ノ銃」を使
用することを許可し「無税」とした。この場合の「有害ノ鳥獣」とは、熊・狼・烏等を示すが、
この口径規定は特に熊と狼への対策のために規定されたことがわかる。この案では、「人口稀少
ノ村落或ハ旅中山野狼熊ヲ威シ又ハ殺ス為メ発砲スルハ玉目十文目以下ノ猟銃ヲ無税ニテ差許
109
スヘク条兼テ免許鑑札ヲ受置クヘシ」とした。第九条では「猟銃ハ和洋銃ノ別ナク玉目十文目
以下ノ小銃ニ限ヘシ」とされ、但し書きで「但和洋銃ハ四匁八分玉以下軍用銃ニ属スルニ付銃
砲取締規則第五条ノ手続ヲ踏ムハ勿論ノ事」といういわば制限事項が記されている。付箋には
「十匁マテ許ストキハ此ニ抵触アリ函館ノ調ニ依ルヘシ」とあり、行政サイドでもこの点が議
論されたことが伺える 25 (6155-12)。
3)
ケプロン建言とその影響――開化論への変容(1875 年 2 月 5 日∼同年 5 月 15 日)
既に記したように、1875 年 2 月 3 日付けの開拓使長官黒田清隆の質問に答える形で、2 月 5
日にケプロンによる建言が提出されている。この建言は「鹿猟ニ付ケプロン意見書」として「北
海道鳥獣猟規則案」等と共に同綴されているため 26 、ここではそれを元に検討する(6155-12)。
まず前述したように、黒田の質問は今後の「獣類保存」の方法をケプロンに尋ねたものであり、
その時期は鹿猟の隆盛期であった。それに対してケプロンは、1.「殺猟ノ時限」、2.「殺猟ノ法」、
3.「殺猟ヲ許ス数」の三点を挙げ、狩猟時期及び収量の制限の必要性を述べると共に、アイヌ
の毒矢禁止を建言した。次に建言の具体的内容とその後の議論を記す。
まず 1.と 3.についてケプロンは、北海道内の諸港から積出しする鹿角や鹿皮が莫大であるこ
とを指摘し、このまま「殺猟」を続ければ必ず個体数の減少を招き、「二三年ニシテ絶種ニ至」
ると述べ、その防止策として禁猟期間と収量制限設定をあげた。その際、禁猟期間は「牝鹿ノ
交尾時限ヨリ懐妊ノ間」と「鹿ノ子ノ母ノ養育ヲ蒙ラサルモ成長スルニ至ルノ時間」とした。
収量は、「年々繁殖ノ数ヲ計算シテ之レカ数ヲ定」めるべきであるが、現在の「殺猟ノ割合ニテ
ハ鹿数速ニ減滅スル事」が明瞭であるため、「若干年」の間は「極テ少数ニ定メ」その効果を見
るのが良いとした。
さらに 2.でケプロンは「殺猟ノ法」は銃によるとしたが、その際アイヌの弓矢猟に言及し、
毒矢猟禁止を提言した。その理由は 2 点挙げられているが、その理由は、この猟法が「費ヘア
リ且ツ惨酷ノ習ナリ」であるとした 27 。
この後の議論は、2.を採用する「折衷案」へと変化していった。まず 1.に関し、この案に従
えば「全ク猟期ヲ失シ」「実地ニ施シ難」いと指摘されたために、その後はケプロンの示した狩
猟期間をより「厳縮」すると記されている 28 。また 3.は「一人ノ獲ル所少シトセズ然レ共之レ
ガ免数ヲ限ルモ監視ニ由ナク到底徒法ニ属」すとして退けられた 29 。一方、2.についてはその
後の文書で、「惨酷ノ習」の評価を受けた形での「長官殿御口達」が言及された上で、採択され
ることとなっている。その「口達」とは、「旧土人毒射ノ義ハ 汚習 ニ付廃止可然」というもの
であった(傍線筆者)。これ以降、毒矢猟は「旧習ヲ脱スル類」の問題として、禁止を前提に述
べられるようになった 30 。すなわち、この議論は開化論へと変容したのである。
黒田による「口達」が北海道内に達出された時期については、具体的記述は無いが、既に 1875
年 3 月 15 日の時点で「毒射ノ禁止」が開拓使の懸案事項とされている(6040-6)。この懸案事
項に対する当時の開拓使官吏の意見を見ると、例えば、①「猟数ヲ限ルハ得ヘシ急ニ毒矢ヲ禁
スル恐クハ故障アラン」という意見がある一方で、②「開化ノ一端施行セサルヲ得ス然レトモ
未タ銃猟規則中ニ編入スヘカラス先ツ諭書ヲ作リ官員区戸長ヲシテ教導セシメ土人ノ意中ニ徹
底シタルヲ察シ而後厳制ヲ設クヘシ」という論が見られる。①は、毒矢が「急に」禁止された
と指摘している例であり、この時点でまだ禁止理由を知らなかった故の反応と考えられる。そ
れに対して、毒矢猟の禁止理由を知る②のような場合でも、この規制に関しては懐疑的である
31
。
さてここでは「開化論への変容」と記したが、このような「旧習ヲ脱スル類」あるいは「開
110
化ノ一端」の議論について、官の側が無条件に受容したという態度に疑問が付されるかも知れ
ない。しかしながら、この外国人に「汚習」と見なされるために廃止すべきであるという論理
は、当時の文明開化の潮流を背景に、アイヌのみならず、国内で多く展開された論理でもあっ
た 32 。
ちなみにこのケプロン建言がなされた 4 日後の 2 月 9 日には、アイヌの毒矢猟、すなわちア
マッポと呼ばれる仕掛弓禁止のための実地調査が、民事局から札幌本庁の各出張所へ指示され
ている(6098-4)。その理由は「開拓進捗」に従い「採鉱伐木等之タメ深山幽谷遍子ク跋渉スル」
者もあり、このような「危難之器械」を無制限に使用しては「人畜傷害難計自然数多之妨碍」
が少なくないので、次第に「停止」するべきであるが、「玩愚之土人共一概説諭難相成次第も可
有之」ため、実情および今後の停止方法を調査を指示するというものであった。その結果、3
月 12 日から 6 月 20 日の間に室蘭・小樽・余市・岩内・古平から回答がなされた。これらの回
答には、アイヌ側が「近来邂逅相用候趣実効更ニ無之旨自然廃止ノ姿旁断然停止相成不都合無
之」と申し出たとあり、弓矢猟禁止によるこの地域のアイヌへの影響は少ないであろうと記さ
れている 33 。
4)
その後の議論と布達(1875 年 5 月 15 日∼1876 年 12 月 9 日)
1875 年 5 月 15 日に提出された北海道鳥獣猟規則案は、ケプロン建言が同綴されているのみ
ならず、付箋において規則制定に至る議論の過程が記されている上で興味深い。
まずこの規則案では、「開化の問題」とされた毒矢禁止に関する議論が記されている。矢猟を
禁止して銃猟に転換させることについては、同規則案の第二条付箋に、「 旧土人ト雖モ今日ニ
至リテハ国民平行ノ権利ヲ有セシムヘシ除クヘカラス 況ヤ三条但書ニ土人銃ノ云々アリ抑土
人ハ昔時弓矢ノミヲ以テ獣猟ス今時銃ヲ使用スル以上ハ此規則ニハ遵シムヘキカ」 (傍線筆者)
とあることから、銃猟に関し、アイヌを除外する議論があったことがわかる。この三条但書と
は、張紙で抹消された「但山野未開ノ僻邑ニ居住スル土人銃猟ノ義モ本条ニ依スヘシ」に対す
る議論と考えられる。その後の措置であろう、さらにこの張紙の上に朱書で「但本条ノ銃砲ヲ
以テ獣猟及ヒ遊猟ヲナスハ厳禁タルヘシ」というように、銃の口径の議論が記されている
(6155-12)。
また従来の鹿猟規則まで、代替措置とされていた租税の免除、ないしは軽減に関しては、「旧
土人ナリトモ漁業既ニ税アリ獣猟無税ハ不可然カ」と記されているものの、第六条では職猟・
遊猟の銃猟税規定では、「但旧土人ニ限リ当分納税ニ及ハス」となっている。
銃の口径はここでも引き続き論じられたが、特に「旅中山野ニ於テ狼熊ヲ威シ又ハ殺ス」際
のみ同法を適用すべきという議論は、「職猟及ヒ護身砲ノ如キハ大ニ苦情ヲ起スヘシ」(第十四
条付箋)などとされている。当初、鹿猟規則では使用銃に関わる議論が大型の有害獣からの護
身・駆除のための口径規定であったことがわかる 34 。
この北海道鳥獣猟規則案以降の議論では、規則施行以降の具体的な議論がなされている。1876
年 7 月 29 日には、「出猟期限減縮ノミニテハ到底濫殺難相防」として鑑札数制限が提案された
35
。また同文書では、毒矢禁止による「俄然相禁シ候テハ猟業ヲ以生計相営候土人ハ其業ヲ失
ヒ忽チ窮迫ニ陥」るのは明らかであるとして、アイヌに対する猟銃貸与が論じられている。
布達の内容を見ると、1876 年 9 月 24 日に「獣類生息妨害」が少なくないという理由から、
アイヌの「毒矢ヲ以獣類ヲ射殺スル風習」が禁止された。同法では、「将来生計ノ途ヲ失ハシメ
サル様誘導方厚ク注意」するよう指示している。すなわち、「旧慣一時営業ヲ失ヒ目下困難ノ者」
に対し、「新業」への移行あるいは「猟銃ニ換用セントスル者」への猟銃貸与等以外にも、場合
111
によっては、諸分署で弾薬払下・銃器取扱の教示等も行なうとしている。実際に、規則制定直
前の同年 10 月 13 日には、札幌本庁から陸軍省へ 300 挺の銃を含むアイヌ猟用銃購入願いが出
され(5830-10)、同年 11 月 11 日、北海道鹿猟規則が施行されるに至った。
4.規制への対応――開拓使への請願と嘆願書の提出
開拓使期を通じてアイヌ保護の観点からなされた施策に、彼らにとっては威信財であった
品々を「無用の器物」とみなし、毛皮等の交易の対価とするのを禁じたことは、既に記した。
では弓矢猟の禁止という、生業という重大な側面においてなされた施策は、両者にどのような
対応を生起させたのであろうか。この疑問を解く糸口として、ここでは毒矢猟禁止措置に対す
るアイヌ側の対応とその結果を紹介する(6111-36)。同史料は、『アイヌ政策史』をはじめとす
る様々な文献で、その一部が繰り返し引用されているものである 36 。
その経緯を記すと、まず鹿猟規則公布直前に布達された毒矢猟禁止令(1876 年 9 月 24 日)
かしらだち
に対し、「三郡 頭 立 候者」が、静内分署へ「種々申立」を行なった。分署では彼らに対し「万
方説諭」したが承服しなかった。また彼らの主張を紹介した上で、その主張が「其情調至切ニ出」、
「到底承服可致様無之」として、やむを得ず付添として布施忠治を随行させ札幌で嘆願陳述を
させるとしている。その主張とは、「暮し向可移新業モ」なく、銃猟に「熟達」するものも殆ど
いないため、一度に毒矢を廃止すれば「目下飢寒ヲ不免」というものであった(同年 10 月 18
日付文書)。それに従い、「沙流群土人伍長トレアン外五名」及び「土人取締布施忠治」が翌 10
月 27・28 日の二日間、札幌本庁勧業課へ嘆願書を携えて「情願」した。勧業課では、手続き上
の問題等から一旦差戻して帰郷させ、差戻し先の分署で再度説諭を徹底させるよう指示し、実
状を調査した上で再度対応することとした 37 。
その後再提出された嘆願書の日付を見ると、帰郷直後に対応がなされたことがわかる。「付
添」として随行した布施の帰郡は 11 月 3 日であったが、同文書に同綴の嘆願書(各地の事情が
記してある)の日付は、千歳郡が 10 月 30 日、勇払郡が 11 月 1 日である。沙流郡の嘆願書では
11 月とのみ記されているが、この嘆願書が静内分署から提出されたのが 11 月 15 日付であるこ
とから、同分署に提出されたのは、それより以前と考えられる。この嘆願書では、猟期にあた
る今後六ヶ月間の猶予を願い出たものであった。ここではその内容を簡潔に紹介する(史料1)
38
。
この嘆願書では嘆願理由として、従前弓矢猟を行なっていたため猟銃を扱える者が少なく、
それでは「男女幼稚之者」を養育できない上に、同年 9 月の大雨により田畑が流出し、近来海
山の産物が不猟のため実際に困窮している点を上げている。そして「今や食料之目途ヲ相失シ
既ニ男女老若其途ニ餓倒セン事恐ルゝ」ために、既に不許可となった 3 年間の猶予願いではな
く、新たに同年 11 月から 6 ヶ月間の弓矢猟猶予を願い出ている。静内分署ではこの嘆願に対し、
三郡(勇払・千歳・沙流)では「壮年之者漁場持等ヘ」雇われる以外に「稼業」も無く、「総て
矢猟を以衣食之供来ニ付一時ニ」禁止すると、アイヌが「難渋」するのみならず、(それを破る
ことによる)「犯罪者ノミ多」く輩出し、却って「御旨意モ徹底」しないので、6 ヶ月の猶予を
許可すれば、今後申立も無く「旧習」を改めるようになるであろうと意見を述べて提出した。
これに対し、たとえ銃器が貸与されても「速ニ其業ニ移リ難ク難渋」するので、本年のみ弓矢
猟を許可して欲しいという願意は「一応尤之様」ではあるが、「本年九月中毒射禁止之御達者特
別之御詮議モ」ある等の理由から嘆願を取り下げ、一方「目下生計ニ困」る者・洪水被害者を
112
調べ、別に救助を願い出るように指示した。このように、嘆願は毒矢禁止における「特別之御
詮議」を理由に取り下げられ、困窮の問題は「賑恤」すなわち保護の問題として取り扱うこと
になった。
以上、毒矢禁止に対するアイヌ側の対応を記した。ただしこの件に関しては、後年函館支庁
から仕掛弓設置場所に注意する旨の布達が出されていることから、毒矢猟禁止措置が地方によ
って異なっていた可能性も考えられる 39 。
おわりに
本稿では鹿猟規則制定に関わる史資料を通して、その背景、制定理由、鳥獣規則との齟齬に
見られる国内の狩猟行政理念との根本的相違を検討した。
その結果、「アイヌ救済事業」の開始は開拓使廃使後であり、鹿猟規則制定理由が従来指摘さ
れていたようなアイヌの飢餓対策にあるのではないことを示した。さらに鹿猟規則の目的であ
る「保護」とは、事前策としての「資源保全」であると考えられる点を明らかにした。
次に銃砲取締規則・鳥獣猟規則と鹿猟規則を比較することにより、両者の相違点に、国内の
狩猟行政理念の根幹とは相反すると解釈される部分があることを指摘した。それは具体的には、
猟用銃の口径の規格とアイヌの毒矢猟禁止を指すが、その相違に北海道内で有害獣とされた
狼・熊の存在という実状(「自然条件」)とお雇外国人 H.ケプロンによる判断(文明論の問題)
が関係していることを明らかにした。一般による軍用銃使用は、国内の治安維持を目的とする
銃砲取締規則・鳥獣猟規則によって禁止されたが、北海道では有害獣に対応しうる銃砲の口径
が、軍用銃の範疇に入っていたため、実状に合わせて口径が定められた。後者に関しては、ケ
プロンによって、アイヌの弓矢猟が「惨酷」な習慣であると指摘されたことが契機となり、こ
の問題の扱いが開化論・文明論へと変化し、禁止に至ったと考えられる点を指摘した。この「銃
猟は良いが、毒矢猟はいけない」というケプロンの論理が受容された背景には、開拓使長官黒
田清隆による「汚習」故に禁止すべきという口達や、それを受けた官吏らによる「開化ノ一端
施行セサルヲ得ス」という判断――さらに言うならば、その根源にある開化を是とする当時の
思想状況――があり、これらの背景が存在して初めて実現したものであると考える。資源保護
を掲げ、その一方で毒矢猟を禁止し、(より収量が多いと考えられる)銃猟のみを許可したとい
う矛盾は、文明開化に逆行するという理由から生起したものであった。
しかしその一方で、この禁令に対するアイヌの不利益を保障するために、彼らに対して軍用
銃を貸与するという措置が取られた。このことによって、鳥獣猟規則に見られた狩猟=銃猟と
いう考えは、北海道の実状と開化論を通じて、一般の軍用銃使用とアイヌ保護のための軍用銃
貸与へと変容し、結果的には根本的理念であった一般の軍用銃禁止からの乖離を引き起こした
と推測される。
生業、狩猟に対する位置付けに関して異なる価値観をもつアイヌ‐和人間の関係は、和人に
よるアイヌへの「保護」という側面において、その齟齬はさらに大きい。例えばそれは、威信
財を「無用の器物」として交易を禁じる行為に端的に見られる。さらに鹿猟規則施行にあたり、
予めアイヌに対して、生活困窮を避けるために銃器を貸与するという措置を取ったことも、こ
のような齟齬の一つであると判断して良いであろう。
しかしこれらは生業に関する(規制を含む)「保護」であり、彼らの生活に直接影響を及ぼす
問題でもあった。勇払・千歳・沙流郡在住のアイヌによる毒矢猟猶予嘆願は、結果的に許可さ
113
れることはなかった。しかし開拓使はその一方で、困窮者を救済すべく、彼らにそのための申
請をするよう勧告した。結果的にこの行為は、彼らの生活の自立を促すのではなく、「保護」と
いう異なる側面で、この問題を解決しようとする行為であったとは言えないであろうか。毒矢
猟は、ケプロン建言によって「文明論」の問題へと変化したが、ここでは両者間の文化・生業
の相違から生じる問題が、アイヌに対する「保護」という名目によって、和人側の関与を受け
ることになった。
本来、資源保全を目的として制定された鹿猟規則は、その後北海道でおこった天災による鹿
の大量死等の条件が重なることによってその前提が崩れ、資源保全は果たされなかった。そし
てこれらの天災は、より重篤なアイヌの困窮状況を引き起こす引金となり、開拓使以降の官に
よる「アイヌ救済事業」開始の要因となった。付言すれば、生業の問題に文明論が被さること
によって、さらに負の影響をアイヌにもたらしたと考えるのは、早急に過ぎるであろうか。「近
代的」制度の創生と文明開化という新しい価値観を形成する過程において、両者の論理が様々
に絡み合い、実状に合わせて制度に制度を重ね、結果的にはその理念からも実状からも遠いも
のとなってしまった。そのような過程としても捉えられるように、筆者には思われる。日本の
近代化の特質と、両者間の関係とそのあり方を考察する一手段として、今後も残存する「文字
をもつ側」の史料から「歴史的事実」を探り、アイヌ・和人双方が経てきた近代化の過程を捉
える作業を行ないたいと考えている。
114
史料1
毒矢猟禁止に対する嘆願書
〈アマツポ猟禁止ノ処、期間ヲ限リ解禁方、勇払・沙流両郡土人嘆願ノ件(6111-36)部分〉
第百四十一号(朱書)
土人アマッポ猟六ケ月間御猶予願ニ付伺
沙流郡土人ト レアン外四名 ヨリ土人 旧来 之アマツ ホ猟 向六ケ月間御 猶予相成 度旨 別紙通願 出候 ニ付勘考
仕候ニ付当包 様三郡之如キ ハ従来一 歳中 僅ニ壮年 之者 漁場持等ヘ被 相雇候外 稼業 も無之総 て矢 猟を以衣
食之供来候儀 ニ付一時ニ被 禁候てハ 他ノ 難渋而已 ナラ ス終ニ犯罪者 ノミ多分 出来 候てハ却 て御 旨意モ徹
底不仕儀ニ付 此段万法説諭 之末当分 六ケ 月間願出 候上 ハ一応御聞届 相成右期 限後 段然厳法 ヲ以 被禁候ハ
バ最早申立之詞モ無之自然旧習相改候様被存候処如何御指令相成可然哉別紙相添此段相伺候也
明治九年十一月十五日
静内在勤
十一等出仕
山田
謙
開拓使中判官堀基殿
奉嘆願書*
乍恐再三奉嘆願書
御一新已来我々共従来之旧弊ヲ相廃シ文明開化之域ニ至ラセントノ御公布御
教諭屡々被仰渡難有奉拝体シ候随テ今般北海一円矢猟御制禁向後一般銃猟之
義被仰渡奉承知候処基ヨリ矢猟之業ハ我等生得ノ業ニシテ未タ猟銃之業ヲ得
タル者十カ一二ニシテ実ニ猟銃之業ニテハ男女幼稚之者ヲ養育仕兼且ハ今年
九月天災之大雨ニテ殆ンド開墾之田畑モ流シ猶又近来海山共不猟増ニシテ実
際困窮仕候得故向三ケ年之間矢猟御捨免被仰付度義再二奉嘆願候処御許容不
被仰渡候就而ハ其後一統再三会シ熟談仕候得共何分不熟練之猟銃ニテハ今ヤ
食料之目途ヲ相失シ既ニ男女老若其途ニ飢倒セン事恐ルゝニ付乍恐御愛憐ヲ
以今年十一月ヨリ向六ケ月之間矢猟御捨免被成下候者銃術一簾(廉カ)熟習仕
猶一層開墾ニ勉強シ御趣意ニ基礎シ更ニ旧弊ヲ相改メ候間御寛大之御詮議ヲ
以右願之通リ御聞届ケ被成下度一統惣名代連印仕乍恐此段奉嘆願候也
明治九歳子ノ十一月
日高国沙流郡門別村 二十五番地 アンリキチユウ 印(中略 他十四名)
**
土人取締
布施
忠治
開拓中判官堀基殿
前書之通願出候ニ付依之奥印仕候也
*破線で囲った個所は、『アイヌ政策史』〔高倉
校注
副戸長
新野蔵治
印
1942:506〕及びそれを転載した『差別の諸相』〔ひろた
1990:14-15〕の引用部分である(注 33 参照)。また、新たに解読しなおした結果、同文の解読と
は異なる部分が数箇所ある。
**中略部分の村名・名前は以下の通り(番地は割愛する):トンニカ村アシテクル/ニナツミフ村トコタ
ントク/ ヲサ ツナイ村トミ ヤウク/ アツ ヘツ村ウレン トッカ/カハ リ村マサ ント ク/ヌツケヘ ツ村アム
キリアイ ノ/ ニフタニ村ア ヱトリ/ ニヲ イ村シタカロ ン/ニナ村ラ ツヘウク /ホ ロサル村ヘケ ンノトク
/ヒラト リ村 ヘンリウク/ ヒラカ村 サン ケレキ/同村 サンケマウイ /シモン コツ 村トレアン。 なお、ア
ンリキチユウ以下名前の下には、爪印状の押印がある。
115
註
1
拙稿においては、河川漁の制限が「河口での大規模な漁を容認しつつ、資源保護を理由にア
イヌや比較的小規模な河川漁に制限を加え」ていた点を指摘し、この矛盾が「殖産興業策に則
りその経済性を重視した結果、より経済的な効果を上げ得る営業者の利益を優先した」ために
よるものではないかと推定した〔百瀬
2
1993:55〕。
近年では民俗学の分野から、近代以降の狩猟行政とマタギ(狩猟を生業とする)による狩
猟の変容を論じる研究が提出されている〔田口
2000〕。 特に同論文で指摘されている当該研
究における問題点は、アイヌ研究にもあてはまる部分があり、従来の研究史を考察する上で重
要と考える。
3
『新撰北海道史』第 3 巻には、「通説二」が収録されている。編纂員の担当個所が『新撰北
海道史』第 7 巻巻末に「高倉嘱託は、…本編第二の編纂に当り」とその担当個所が明記されて
いる〔北海道庁
4
1937b:454〕。なお、本編第二は 「通説二」を意味する。
一次資料は紹介されていないものの、近年「鹿猟規則の制限と禁止」『北海道民のなりたち』
〔関・桑原
5
1995:44〕における記述では、当該事項が時系列に従って記されている。
ここで注目されるのは、これらの資料において行政側がアイヌ救済に乗り出す原因となっ
た食料の欠乏や飢餓状態が深刻化したのが、1882 年以降とされていることであり、その記述は、
後の『新撰北海道史』および『アイヌ政策史』の記述とは趣が異なっている。
6
『新撰北海道史』の編纂には高倉が関わっており、同書と『アイヌ政策史』における記述や
引用史料には、重複も見られる。なお、『北海道史』と『アイヌ政策史』および同書との関係
については、既に岩崎らによって学説史的検討がなされている〔岩崎 1998:26-31 および注部
分:37-38 など〕。また戦後の研究では唯物史観の方法論導入による影響からか、結論や解釈に
同様の部分が認められる。この点に関わる議論については、拙稿を参照されたい〔百瀬
2002
(印刷中)〕。
7
すなわち口径により、同規定以上のものが「軍用銃」と定められた。なお、和銃四文目八
分玉とは、口径
8
約 12.4mm程度であるという〔林野庁編
1969:7〕。
第 2 条では、「銃猟ノ事自今免許鑑札ナキモノ一切禁止シ 有害ノ鳥獣ヲ威シ或ハ殺スコト
ハ地方官ノ便宜ニヨリ 臨時ノ免許ヲ与フヘシ」と定められ、地方の事情による変更が可能であ
ったことがわかる。第 11 条の狩猟期限についても、「人家ニ遠隔ノ地」や地方によって斟酌が
可能とされている。
9
1877 年の鳥獣猟規則第六次改正は、北海道鹿猟規則における変更に関するものである。
10
『開拓使事業報告』第 3 編
11
宝物ikorの社会的機能に関しては岩崎〔1998〕による論稿がある。また、ikorが介在する
物産を参照した。
近代以降の紛争解決例としては、砂沢〔1990:22−24、9-30〕がある。この例では、ikorが仕掛
け弓を設置した男性から、毒矢によって死亡した男性の親族への対価として手渡されている。
12
例えば知里編訳
13
『アイヌ語方言辞典』には「金持ち」を表すアイヌ語として殿nisipaの他にikorkorpe(「宝
1975:7など。
をもつもの」の意)があげられている。また、「貧乏人」を表す言葉としてwenkur(直訳すると、
「悪い‐人」の意)があるが、宝物ikorの多寡が既に(特に男性の)社会的地位を示す評価の
指標となっていたとは考えられないであろうか〔服部編
1964:52〕。従来、狩猟採集民社会
の特色の一つに平等的社会が挙げられているが、口承においても物の多寡が論じられているこ
とから、アイヌ社会が和人等との接触を経て、このような考え方がなされるようになっていた
116
ことは十分あり得るであろう。
14
ここでは開拓使廃使後、三県(札幌・函館・根室)が行なった事業を意味する。根室県が
1883 年から救済費として政府から年額 5 千円を、札幌県が 1885 年から年額 7 千円を支給され、
それぞれアイヌ授産のための 5 ヵ年・10 ヵ年計画を行なった。この事業の目的が農業・牧畜奨
励策であったことから、高倉は三県時代の「アイヌ観農策」が、その後の北海道旧土人保護法
の「濫觴」であると論じている〔高倉
15
1942:474〕。
雪害による大量死については、鹿が「逃匿した」十勝をはじめ「鹿の越年地方一帯の大雪
に 加 ふ る に 霙 を 以 て し 、 地 表 凍 結 して」鹿が「凍飢に斃れ」たことが上げられている〔高倉
1942:482〕。1875 年に「全道の鹿皮産額実に七万六千五百枚に達したものが、明治十三年(1880
年:筆者補注)には一万枚を数ふるに過ぎなく」なり、「十勝以南ハ幾ント鹿ノ形跡タモ見ス」
という状況を招いた理由として(文中の『札幌県勧業課第一年報』の引用文を転載。注 11〔高
倉
1942:505〕参照)、高倉は「実は乱獲とその繁殖範囲の縮小を数へる事が出来る」と記し
ている〔高倉
16
1942:482〕。
三県一局時代のアイヌの窮乏を示す記述の中で高倉は、狩猟方法及び狩猟区の制限を「相
対的減少」として濫獲による「絶対的減少」に対置し、前述の 1903 年 3 月の釧路における、
アイヌ主食分鹿猟許可の廃止をもって、「かくしてアイヌは、最も重要な冬の衣服と食料を失
はねばならなかった」と記している〔高倉
1942:483〕。
17
「獣猟毒矢禁制」(1876 年 9 月)を指す(表 2 参照)。
18
勇払郡植苗村美々に鹿肉缶詰製造を主目的に設立された美々缶詰所を指す。同書の他部分
では、1880 年ではなく 1881 年に、「雪害によりて、鹿の産額激減し…製造するもの漸く二万一
千缶に過ぎずして損失夥しきを以て」事業中止に至ったとある〔『新撰北海道史』:506〕。
19
厚岸缶詰所の廃止の理由が別項で次のように記されている。それによれば、牡蠣の缶詰製
造を主としていたが、製品の品質が悪く「著しく舶来に劣り、販路殆ど無く、残品…多きに及
べるを以て、廃使直後十五年三月事業を停止」した〔『新撰北海道史』:507〕。
20
開拓使期にも、撫育・賑恤ないしは救助という名目で玄米等の食料その他が支給されてい
る〔北海道庁編
1934:96-97〕。そのような例では、樺太アイヌ等へ支給された例もあるが、
本稿では樺太・千島アイヌの例は除外している。
21
同書には、飢餓が生起した原因に関するアイヌによる解答が記されている。そこでは、山
間部に住む彼らの冬期の主な食料は鹿と鮭であったが、「鹿は近年著しく減少し、鮭は去る十
三年来禁漁 区域を設けたるによりて、冬季の食料として意の如く之を貯蔵する能はざりしに
由る」と記されている〔阿部
22
1920:96〕。
引用した開拓使公文録については、北海道立文書館によって付された、簿書の請求番号と
件名番号の順に記す。ここでは請求番号№6155、件名番号№12「鳥獣猟規則布告ノ処、北海道
ニテ施行シ難キニ付、鹿猟規則制定、及ビ土人ヘ貸与ノ猟銃購入ノ件」を引用したので、
(6155-12)としている。
23
ちなみにここでいう「声価」とは、誰に対する「声価」を意味しているのであろうか。例
えば「後世の人間による評価」など様々な例が考えられるが、当時の世相における不平等条約
改正論、文明開化の流れから、「外国人の評価」と推察することも可能であろう。
24
1875 年 1 月 28 日付文書で、全道一律の法律を施行するとしている(6155-12)。函館から
は猟銃の口径の問題も照会されている。このような外国人が出入りする開港場を特別視する議
論は、この当時の規制には多く見られる。風俗統制令に関しては〔神谷
117
1977〕および拙稿〔2002
(印刷中)〕を参照されたい。
25
1874 年 12 月 13 日の、柳田友卿から松本十郎宛文書の増補案でも、これらの点が議論さ
れている。
26
同文は、「開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文」として、『新撰北海道史』第 6 巻に収録され
ている〔北海道庁編
27
1936:456-457〕。
この場合の「費ヘ」とは、その後の「毒ニ感スル者茂生セル竹林中ニテ入テ斃レ終ニココ
ニ失フ者多シ」を指し、毒が効くまでの間に獲物が逃げ、収獲できない場合を意味しているか
と思われる。
28
6155-12
29
注 28 に同じ。なお、同文書は「札函第百号」(5 月 15 日付文書)の前に合冊されている
「五ノ四十二号」。文書中には日付はないが、欄外検印に 5 月 20 日とある。
ため、項の対象期間は 1875 年「5 月 15 日」までとしている。
30
5815-29
「鳥獣猟規則中土人ヲ除クノ可否、問合ノ件」。文書では、明治 5 年 5 月 15 日
付となっているが、欄外印には「八年五月十三日出」とある。
31
6040-6
山内堤雩提出分(日付無し)および岡本長之提出分(1875 年 3 月)。抜粋部分は、
西村中判官の示した議案中の北海道鹿猟規則案部分(第十一)への回答である。同議案の付箋
は破損されているため解読不能であるが、「銃」の字が見られる。しかしながら、この時点で
アイヌへの銃貸与が議論されていたかどうかは不明である。同文書ではまた、アイヌの習俗改
変に進捗がみられないという観点から、彼らへの「授産易俗」が論じられている。
32
例えば、国内の風俗改正を定めた違式詿違条例などにはそのような論理が散見される。筆
者はすでにこの条例とアイヌの風俗改正令とを比較し、関連性を論じている〔百瀬
1999・2002
(印刷中)〕。
33
余市出張所、本庁民事局宛文書より抜粋した。各出張所からの回答は、室蘭 3 月 15 日、
小樽 4 月 2 日、余市 3 月 13 日、岩内 6 月 20 日、古平 3 月 25 日となっている。安全を理由と
する規制はまさに鳥獣猟規則の趣旨であり、鹿猟仮規則でも踏襲されている。ケプロン建言と
の関係は不明であるが、例えばこの調査が、北海道鹿猟規則制定の際に使用された可能性など
は考えられる。
34
口径規定は、北海道鳥獣猟規則案に記され、同案と別立てで設けられるはずであった北海
道鹿猟規則案(及び北海道鹿猟規則)には記されていない。北海道鳥獣猟規則案は採用されな
かったため、北海道鹿猟規則では鑑札手続きの際に、口径を届け出る形となっている。
35
6155-12、札第四百三十一号文書。この鑑札数は 1878 年 6 月 29 日の北海道鹿猟規則改正
で規定されている。
36
校注
37
例えば、『アイヌ政策史』とそれを転載した『差別の諸相』(日本近代思想体系)〔ひろた
1990:14-15〕がある。部分的引用では『近代北方史』〔海保
1992:24〕など。
具体的には、布施の届書に「沙流郡土人男女老幼トナリ其後ハ生業ヲ相休ミ罷右候」とあ
るため、「巡査ノ内一両名同地方」へ出張させ、「山中土人之景況」を「探索」させるとある。
38
注 31 でも記したように、この嘆願書はその一部分が何度も紹介されている。紹介部分は
史料 1 の破線部分がそれにあたる。嘆願者についてはこれらの紹介文では「外十三名」となっ
ているが、奥書等も省略されている。筆者は専門が異なるため、このような文書の省略の妥当
性は判断がつきかねるが、奥書の省略によって、この問題への和人の関与、強いて言えば両者
の関係性は見えにくくなっていると考える。
39
「有害獣銃殺注意」(明治 14 年 11 月 29 日函館支庁布達)。また、アイヌの毒矢猟禁止令
118
が、札幌本庁管内のみの措置であったとする説も、本稿脱稿後発表されている〔山田
2001〕。
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