江戸時代前期に於ける「聖人可学」の諸展開 阿部 光麿(早稲田大学非常勤講師) 日本中世に於いて既に朱子学文献は読まれ、一定程度の理解がなされていたが、その本 格的受容は江戸時代の到来を待つ。既に指摘もある通り、禅林に於ける関心が構造論を中 心としたのに対して、それが修養論へと移ることで、はじめて自ら聖人を目指す学として の朱子学が立ち現れる。そして、その朱子学に対する反応として、山崎闇斎(1618-1682)、 中江藤樹(1608-1648)、伊藤仁斎(1627-1705)らが陸続と登場するに至る。 この三者は朱子学、陽明学、古学の図式ならずとも、朱子学者たる闇斎と、朱子学批判 者へと転じた藤樹、仁斎として把握される。しかし、闇斎は「敬」の修養を軸に据え、藤 樹は個別の血縁関係を超えた「孝」を説き、仁斎があらゆる実践を「孝弟忠信」に集約し ている点から見れば、三者は修養論を関心の第一とする点を共有する。朱子学を奉じる闇 斎はもとより、藤樹も同じく「此心学をよくつとめぬれば、平人より聖人のくらゐにいた るもの」(『翁問答』)と「聖人可学」を掲げればこそ、聖人に至る為の方法論たる修養 論が最大の関心事となる。仁斎もあくまで修養論を中心とする思想体系を構築しているの であり(拙稿「伊藤仁斎の「天道」論」、『日本中国学会報』第 60 集)、朱子学と反朱子 学の対立と捉えられる闇斎との関係も、問題意識を共有しつつ手法を異にするものと認め られよう。如上の問題意識、相互の関係は、「聖人可学」を掲げた北宋以来の近世儒学史 に連なる思想家として彼らを捉えてこそ、より明瞭になるのではなかろうか。 従来の個別研究において、かかる理解と位置づけは必ずしも見られない。特に仁斎につ いては顕著であり、朱子学を批判的に克服した仁斎から、朱子学と仁斎とを克服した荻生 徂徠(1666-1728)へ至るとの構図に限らず、仁斎の独自性を検討する研究に於いても、仁 斎の思想は朱子学と根本的に異なり、対立するものとして扱われる。勿論、仁斎の徹底し た朱子学批判は周知に属するところであり、本然の性、すなわち人に内在する聖性の否定 や、時に聖人より君子を目指すことを説く点(『語孟字義』下・君子小人 2)などは、「聖 人可学」の根本を揺るがすものと見えなくもない。しかしながら、仁斎の与するところは、 あくまで地位に拘わらず自ら修養を重ねることを第一とする北宋以来の近世儒学なのであ って、聖人が聖王から解放される前の儒学への回帰を主張するものではない。「古義」の 標榜については、この点を看過してはならないのである。本発表では、仁斎学の前提とし て朱子学が存在することの意味、朱子学を否定するのではなく、むしろその問題意識を尖 鋭化している点についても言及したい。 もとより彼らの生きた社会は、北宋諸子の登場と朱子による集大成、陽明学の擡頭を経 た上にある訳ではない。科挙の有無、経書の権威の相違といった問題があることも言を俟 たない。しかしながら、同じく「聖人可学」を掲げ、その肝腎たる修養論を追究、実践し 続けた点に於いて、闇斎、藤樹、仁斎といった思想家は、日本思想史の文脈に止め置くの ではなく、北宋以来の近世儒学史上に捉えてこそ、その思想的特徴にも迫り得よう。本発 表は、如上の問題について論じるものである。 - 1 -
© Copyright 2026 Paperzz