日本画家の描く女性は、女性そのものというよりも、着物の絵、といった方

日本画家の描く女性は、女性そのものというよりも、着物の絵、といった方が正しいかもしれない。西洋の女性の
裸体画と違って、日本画家の描く女性は、その多くが着物を着ている。わずかに、顔と、手先、時に足先だけが、女
性の体そのものを描いている。池田蕉園の「少女観桜」。左右に描かれた幕の合間から、二人の着物姿の女性が、桜
を眺めている。この絵では、その着物自体が、幕の向こうに隠され、あまり描かれていない。栗原玉葉の「朝妻
桜」。江戸時代、寛永年間に実在した、キリシタンだった遊女、朝妻。死刑を免れることはできなかったが、せめて
もの願いで、桜の季節にその刑が行われたという。黒い着物に、長いロザリオを首にかけ、寂しそうに下をうつむく
朝妻。しかし、その周りには、桜が咲き誇っている。増原宗一の「いれずみ」。いれずみの女性が湯船につかってい
る様子を、上半身のみ描いた作品。風呂場の湯気の気配をぼかしの表現で描きつつ、女性の髪の毛の一本一本を丹念
に描く。そして、少しだけ見える赤い入れ墨と、その女性の穏やかな表情とが、見事な対比で描かれている。これ
は、私がかつて見た女性画の中でも、屈指の作品だ。あらためて、会場を振り返って見ると、顔自体は、すべてが整
った顔立ちをしているわけではない。着ている着物、仕草、場面などが、その女性を美しくしている。
日本画家たちが描いた日本美人は、決して、特定の女性を描いたものではない。女性という存在自体の美しさを描
いたのだと、ということを、改めて感じさせられた。
また、多くの男性画家に対抗して、同性ならではの感覚と視覚で日本女性の美質を理想化して突き詰めようとし
た、女性画家の一群も活躍している。「閨秀美人画家の三園」とうたわれた上村松園、池田蕉園、島成園のほか、伊
藤小坡や梶原緋佐子らの作風には、いずれも共通して、同性のかもし出す美しさへの親しみとあこがれとが宿されて
いるように思われる。
左から伊東深水「ほたる」昭和、竹久夢二「宵待草」昭和、
増原宗一「いれずみ」大正、小早川清「お歯黒」昭和
左から池田蕉園「ほたる」大正、鏑木清方「初夏の雨」昭和、
岡本神草「追羽根」1931 年、島成園「舞妓」1921 年
2