読書ノート:ヘーゲル「フィヒテとシェリングとの哲学体系の差異」 この本はヘーゲルが「キリスト教の精神とその運命」を執筆した後、イェーナに移った 1801 年に発表されている。前著作に現れた「主客合一」の思想が直接のテーマとなり、フィヒテの思 想との違いを明確にすることを中心にまとめられている。内容は前著に対して哲学書としてま とめられ、深化してきた。一部省略された⾯もあるが、哲学の体系を⽬指す⾊合いが強くなって きている。 購入した平凡社の本には、同時期の「惑星の軌道に関する哲学的論⽂」が収められているため、 関係する考え方を追加している。 1. 当世の哲学活動に⾒られる種々の形式 哲学の課題は、有限なものを無限なものの中に生命として措定することにある。分裂こそ 哲学の要求の源泉であり、この分裂は時代精神の形態の不⾃由な所与的側⾯に他ならない。 生命は永遠に対⽴を介して⾃⼰形成してゆくものであり、全体が最も活動的な状態になる のは、最⾼の分裂状態から⾃⼰回復されることにある。 知は積極的な側⾯として直観を持っている。反省と直観との両者を合一するものが、超越 論的知であり、それは概念であると同時に存在でもある。哲学的知において直観されたも のは、知性と同時に⾃然との活動であり、また意識と同時に無意識的なものとの活動であ る。 2. フィヒテの体系の叙述 フィヒテにとっての生産的構想⼒は、⾃我と⾮我との間の一種の動揺であり、理論的認識 では⾃我=⾃我に達する代わりに、⾃我+⾮我として客観が⾃我にとって生じる。⾃我=⾃ 我が実践的認識として要請されると、⾃我が⾮我と因果関係にて捉えられる。このため、 ⾮我が消滅し、客観が絶対的に⾃我によって規定されたもの、つまり⾃我と等しいものと なる。この因果関係により主観=客観は反措定的に対⽴し合う両者の一方として固定され るため、主客合一は不可能となる。 フィヒテはその体系の始まりにおいては、感じる⾃我と思惟する⾃我、衝動に駆られる⾃ 我と⾃由意志によって決断する⾃我とは同じ一つのものであり、⾃然的存在としての⾃我 の衝動と純粋精神としての⾃我の傾向とは、超越論的観点から⾒れば同じ一つの根源的衝 動であった。しかし、体系の帰結においては、衝動としての⾃然は⾃⼰⾃身を規定するも のとして思惟されるが、⾃我の⾃由に対⽴するものとして位置付けられ、意識の主観であ る反省するものの衝動は、⾃然における衝動を⽀配する関係として綜合される。また、概 念は⾃然にたいして因果性をもつべきであり、⾃然は絶対的に規定されたものとして措定 1 されるべきものとなる。 ⾃然法においては、理性的存在者の共同体は、共通の意志による個人的⾃由の制限によっ て成⽴するものとされる。ここでは⾃由は⾃⼰を制限する法則を⾃⼰⾃身に与え、制限と いう概念が国家の「法」として個人の外に固定化され、個人を⽀配する。理性的存在者の 共同体が本質的に⾃由を制限し、無限的にして無制約なる交互関係としての生の関係を否 定するのであれば、それは最⾼の専制体であることとなる。 倫理学においては、道徳の領域にて「義務」のみが端的になすべきものとして⾃我に啓⽰ される。「道徳法則」は無条件に命令するものであり、一切の⾃然的傾向を抑制する。し かし、道徳法則は我々⾃身の本質の内なるものに由来する。このため、⾃分⾃身に服従す ることを命令するものが人間⾃身の内に移され、人間の内⾯において命令するものと服従 するものとが絶対的に対⽴し合うことになる。 また、批判的判断を通して、ある義務概念が他の義務概念に対して優先することを確認し、 最善の洞察に従って、もろもろの制約された義務の中から選択され⾃⼰決定し実⾏される。 しかし悟性により固定化された最善の洞察⾃身は、洞察の偶然性、無意識の決意に従うこ ととなる。 悟性により概念として固定されることにより、どのような⾏為でも、犯罪を容易にし犯罪 に対する防衛と犯罪者の発⾒を困難にするような場合には、断固として禁⽌することとな り、必要以上の警察権⼒の強化を招く。 3. シェリングとフィヒテとの哲学原理の⽐較 主観的な主観-客観についての学は、これまで超越論的哲学と呼ばれ、客観的な主観-客 観についての学は⾃然哲学と呼ばれてきた。この両哲学が相互に対⽴する限り、前者の超 越論的哲学では主観的なものが第一のものであり、後者の⾃然哲学では客観的なものが第 一のものである。 観念的な対⽴をおくのが反省(悟性)の働きであり、そこで反省は絶対的同一性を完全に 捨象することになる。これに対して、実在的な対⽴をおくのが理性の働きであり、そこで 理性は対⽴するもの、つまり同一性と⾮同一性を(認識の形式においても、存在の形式に おいても)同一のものとして措定(同一化)するのである。 個々の人格が他の人格と結ばれた共同体は、本質的には個人の真の⾃由の制限とは⾒なさ れるべきでなく、むしろ個人の⾃由の拡張として⾒なされなければならない。 一切のものは単に一つの全体性の中にあるに過ぎない。根源的同一性は、主観的全体性と 客観的全体性の両者を合一して、完全な全体性の中で⾃⼰⾃身にとって客観的となる絶対 者の直観としなければならない。つまり⾃然の体系と知性の体系とは、まさに同じ一つの ものである。両者は学として一つの連続性の中で、関連する一つの学と⾒なされねばなら 2 ない。 ⾃然はいわば「世界霊魂」として内在的原理を持ちそこに独⾃の生命が内在すると⾒なさ れる。また、⾃然はその一切の現象を相対⽴する一つの⼒の対抗として、つまり「牽引」 と「反発」という両⼒によって説明される。 思弁にとっては絶対者はその無限な直観において⾃⼰⾃身を産出する生命として現れる。 思弁は絶対者を一つの生成として把握するものであり、それにより同時に生成と存在の同 一性を措定する。生成過程において、⾃⼰を⾃然として構成する同一性から知性として構 成する同一性への転換は⾃然における光の内⾯化と同様である。これは観念的なものが実 在的なものに降りかかる閃光であり、絶対者としての根源的同一性の直観による。 「惑星の軌道に関する哲学的論⽂」より 物理学は最初に全体を措定し、そこから各部分の相互関係を演繹すべきなのであって、け して互いに対⽴する⼒、即ち部分から全体を構成すべきではない。 数学によって証明される量の相互関係(量的⽐例関係)は、それが理性的な関係であるか らこそ、まさに⾃然の中に内在するのであり、またそれが概念的に把握される時、これこ そ⾃然の法則を意味するものだからである。 「ヘーゲル初期神学論集」の読書ノートをまとめた後、たまたま、佐藤優さんの「初めての宗 教論(左巻)」を読んだ。ここではシュライエルマハーが中心になり、復古調のプロテスタンテ ィズムから新プロテスタンティズムへ転換するという、この時代の神学上の背景が描かれてい た。主客⼆元論から主客合一論への移⾏が理論的な積み上げよりは、時代の要請からきていると いう解釈は納得がゆく。 シェリングの「世界霊魂について」の発刊(1798 年)、シュライエルマハーの講演「宗教に ついて」の発刊(1799 年)、「キリスト教の精神とその運命」の執筆(1798-99 年)は同時期 にまとめられ、全体との合一、神との宥和、直観と感情(経験を超えた全体を直観することと敬 虔な感情に満たされること)など共通の概念により組み⽴てられているようである。 「主客合一」という思想は、前著にて次の要素から構成されていた。 当為という普遍性に対して多数の特殊性があるという考え方でなく、⾏動時に状況に応じ て特定の適⽤(特殊性)をするという、精神現象学の「良心」の項の考え方。 内なる義務命令に則っているかどうかではなく、生命の感情の中では敵対していた適⽤も 和解しうるという運命の考え方。 どの部分も全体を担っているという有機体生命の考え方。 衝動や傾向という感情を優位に置いた愛の考え方。 3 この「差異」にはいくつかの考え方が追加されている。 弁証法の基本的考え方の明確化。 ⾃然の学から精神の学への生成と、基底としての絶対的生命という考え方。 主客合一を直観として捉える考え方。 全体と部分が有機体的な考え方から、太陽系の捉え方や学の体系へと展開してきたこと。 これらは主客合一という思想が、より広範囲の要素群より構成され、具体化してきたと同時に、 哲学の体系として整備されつつあることを⽰している。ヘーゲルの⾯白みは、その前提が神秘的 な感じを受けるにもかかわらず、こうした要素群をブレイクダウンして具体化し、魅⼒的な論理 展開へ導いている点にあると思う。 今回参考とした図書は次の通り。 「ヘーゲル初期哲学論集」 村上恭一訳 2013 年 5 月 10 日 第一刷 4
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