献金とは、神への感謝をともなったささげ物

献金シリーズ
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2013 年 9 月 22 日
聖霊降臨節第 18 主日
説教者:芳賀弥男
献金とは、神への感謝をともなったささげ物
9 月 8 日に行なわれた、第三回会衆会議において、めぐみルーテル福音キリスト教会は来年度の LECC への納入献金額の増額を
決定しました。(詳細は別紙を参照)
現状の私たちの献金は月ごとに不安定であり、安定した計画と予算を作ることができません。
そこで、私たちが神への感謝と隣人への愛から忠実に献金をするために、月定献金という方法を採ることになりました。しかし、
お金に関することで、ただやり方を変えることは、多くの問題と不満、そして神への罪を引き起こします。ですから、この機会に
今一度「献金」について学びなおしましょう。そして、さらに主に喜ばれるささげものができますように。はじめに、私たちは「献
金」における一番大事な問題である「動機」を考え直しましょう。
その 1: 献金は神のもの
「私は裸で母の胎から出てきた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。
」(ヨブ 1
章 21 節、1 テモテ 6 章 7 節) この御言葉にあるように、私たちはこの世に生まれてくる時に、何も持たずに来ました。この世を
去る時も、何も持たずにこの世を去ります。もし、本当に私たちのものであるならば、それらはずっと私たちのものであるはずで
す。ですから、私たちが所有しているもので、まことに私たちのものは一つもないと言うことです。私たちは弱く、醜く、貧しい
存在なのです。しかし、慈愛深い神は、この世に何も持たずに来た人間のために、肉体、能力、親、家族、仕事、友人など全ての
必要なものを用意し、備えてくださいました。ですから、この世で私たちが所有するものは、私たちのものではなく、神が私たち
に預けてくださったもの、つまり私たちは神のものの管理人だと言うことができます。この点で私たちは大きな勘違いをしていま
す。あたかも、自分が所有するものは、自分のものであるかのように考え、神がそれらを与えてくださった愛さえも忘れて自分勝
手にそれらを用います。人のものを借りているのに、それを自分のものだと主張する人をあなたはどのように思いますか? それと
同じ恥ずべき罪を、私たちも犯しているのです。
その 2:神のものを盗んでいる
「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれ
ば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。――万軍の主は仰せられる。――しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たち
は帰ろうか。』と言う。人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あ
なたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。 あ
なたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。」(マラキ3章7-9節)
どのようにして、ささげものをすることが盗むことにつながるのでしょうか。この当時のイスラエル人たちは、忠実に神への献
金やささげ物をささげているように見えました。しかし、神はうわべではなく、心を見ます。彼らは感謝と愛の動機によってでは
なく、嫌いやながらこれらのささげ物をささげていたのです。しかも、上記で述べたように、彼らは自分の持ち物の中から10分の
1を神にささげると考えていました。このことを神は『盗み』だと言っているのです。それらは一人ひとりがこの世で生きていくた
めに神が預けた祝福であり、本来は神のものです。いつから、それらは人間のものになったのでしょうか。それをあずけた神に感
謝を持ってお返しし、隣人のため、神の望まれるように用いていただくという精神が正しい献金の精神です。私たちも当時のイス
ラエル人たちと同じ罪を犯し続けています。神が健康と仕事と、平和な日常と食物を与えてくださらなければ、私たちには何も手
元にありません。それらは神の恵みです。神のものを自分のものだと主張するおごり高ぶりが、献金をささげる時にさえも神に罪
を犯す機会に変えているのです。
その3: 愛と感謝をもってささげよう
私たちは困った時、病気になったとき、荷物を運んでもらったり、何かを借りたり、また勉強を教えてもらったり、子どもの面倒
を見てもらったり、誰かに助けてもらうことが多々あります。このように誰かに親切にしてもらったり、助けてもらったならば、
お菓子や果物などをもってお礼にいきませんか? 特に日本ではそのようなお礼をすることが、常識だと考えられています。それな
らば、私たちのことを神以上に助けていただいたり、面倒を見ていただいたり、与えてもらっている方はいないはずです。人間同
士にお礼をすれば十分でしょうか? 神にお礼はしなくてもよいのでしょうか? とんでもありません! すべての人間は神に感謝し、
神を賛美する義務があるのです。
もちろん、神は分け隔てなく、全ての人間を一方的に愛してくださる方ですから、私たちから何かの見返りを期待しているのでは
ありません。天地万物を作り、支配しておられる方ですから、私たちのお礼がないと欠乏したり、困ったりするような方でもあり
ません。また、私たちが罪を犯すとき、謝罪の言葉や謝罪の償いがないと赦さないような方でもありません。また、日本のお寺や
神社で行なわれているように、お金をささげる代わりに何かを頼むならば、かなえてやると言うような方でもありません。献金を
たくさんすればするほど、神の御前で地位と功績が積まれて、より多くの祝福が得られるとも約束していません。
ただ、私たち人間はこの世における物質的、精神的、霊的な助け、真の愛と平安と保護、そして死後の罪の罰、よみがえり、天
国での永遠の命など、数え切れないほどの受けるに値しない祝福をいただいているのです。それらを思い出す時、ぜひ感謝を示し
たいと思うはずです。その感謝を示す一つの方法が献金なのです。
私たちが主への感謝を忘れる時、特に思い出すべきことがあります。それはイエスの十字架での姿です。つまり、真の神である
イエス・キリストが自分のために何をしてくださったかを覚えるとき、主への感謝と愛が自然に生まれてくるはずなのです。神で
ある方が私たちの罪の罰を負うために、全てを放棄して人間になってくださいました。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリス
トの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがた
が、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8章9節) 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほど
に、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)
そして、その全生涯をご自分のためではなく、全ての時間、全ての愛、全ての才能を全ての人間のために用いてくださり、その聖
なるいのちさえも私たちのために自ら捨ててくださいました。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てる
ことができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人とし
ての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2章6-8節)
このイエス・キリストがなさってくださったことだけでも、私たちは永遠に主に感謝する理由があります。崖に落ちそうになっ
ているときに、通りかかった人があなたを救出する代わりに崖に落ちて死んでしまったら、あなたは感謝を持ちませんか? あなた
が災害で全財産を失ったのを知り、自分の全財産をあなたにくださる人がいるならば、あなたは感謝を持ちませんか? その人に助
けられた一日一日を、その人に感謝と尊敬と愛を持って過ごしませんか? もし、そのような感情が湧いてこないならば、あなたは
神の愛を知らない方であり、神が自分のためにしてくださったことを受け入れない、拒んでいると言う証拠です。
「愛のないものに
神は分かりません。なぜならば神は愛だからです。
」(1ヨハネ4章8節)
教会での献金は、強制ではありません。牧師に言われたから、または今回の会衆会議で決定されたからという理由で献金をする
のならば、それは献金ではありません。献金箱が置いてあり、回ってくるから献金するのも違います。創世記に出てくる最初の兄
弟であるカインは地の産物を、弟アベルは羊の中から最上のものを主に捧げました。しかし、神はアベルのささげ物だけを受け取
りました。アベルは心からの感謝と愛を主に対してもっており、その目に見える現れが羊の捧げ物だったのです。このように主は
ささげものではなく、私たちの動機を見ています。みなさんも愛や感謝のない贈り物、強制された贈り物、義務感で与えられた贈
り物はうれしくないでしょう。同じように、ただ、神への愛と感謝によってささげられるものが正しいささげものです。アーメン
献金シリーズ
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2013 年 9 月 29 日
聖霊降臨節第 19 主日: 説教者:芳賀弥男牧師
主への感謝のささげものは、お金だけではない
先週から「献金について」の説教シリーズが始まりました。献金の本質とは「主が私たちにしてくださったことへの感謝をお返
しすること」であると先週の説教で学びました。私たちが持っているもので、まことに自分のものは何一つありません。全ては神
が作られたものであり、神のものです。しかし、あわれみ深い神は、それらをご自分のためではなく、あわれな私たちがこの世で
生きていくために与えてくださっているのです。その預けられているものの中から、感謝をもって私たちは一部を神にお返しし、
神の御心に従って用いていただくのです。今日、はじめに私たちは神へのささげものが「お金」だけではないことを学びましょう。
そして、私たちのささげものが誰に対してささげられているかを深く考えてみましょう。
神へのささげものはお金だけではない
ある人たちは、神への感謝は献金によってのみ現わすことができると勘違いしています。または、献金さえしていれば十分であ
ると考えています。しかし、聖書を読むと、神を愛し、感謝を示すクリスチャンは、様々な方法でささげものをしていることが分
かります。
はじめの人間アダムとエバの息子であるカインは地の作物の収穫を、弟のアベルは自分が飼っている羊を主にささげました。ノ
アは大洪水から主が守ってくださったことへの感謝から、祭壇を作り、家畜や鳥の全焼のいけにえを主にささげました。預言者サ
ムエルは一生を神に仕えることでささげました。ダビデやソロモンは人々が主を賛美し、御言葉を学び、礼拝する主にふさわしい
神殿を作るために能力と財産と知恵を主にささげました。また、ダビデは数千人もの大規模な楽団を編成し、さまざまな賛美や感
謝の歌を歌って主にささげました。
旧約時代のクリスチャンたちは、月、週、日ごとに、羊や牛、ヤギなどの家畜から、最良なもの、無傷のものを主に捧げました。
また、畑の収穫の初穂を主に捧げました。それは主ご自身がいつも最良のものを私たちに与えてくださる方であるので、まず主に
最良のものをお返ししたいという感謝と愛の現れでした。
新約聖書の時代になると、農耕社会から貨幣社会に変化しました。それと同時に神へのささげものも、生き物主体からお金によ
って主に感謝を示すことが一般的になってきたようです。しかし、目に見えるささげ物は違っても、ささげものの精神と本質は変
わりません。次第に、神殿に献金箱が設置され、いつでも人々が神へのささげものをささげられるようになったようです。そこに
貧しいやもめが、彼女の全財産である二つのレプタ銅貨(160 円くらい)をささげた有名な話しがあります。(ルカ 21 章 1-4 節)
イ
エスが生まれた時、東の国からはるばるやって来た博士たちは、幼子イエスに「贈り物」として黄金、乳香、没薬をささげました。
それらは本来王にささげられる贈り物であり、彼らがイエスを自分の真の王であると認めた証しでもあったのです。(マタイ 2 章
11 節)
このことは、あなたに何を教えていますか? それは主が人間に与えてくださったものは様々であるということです。主は等しく
全ての人に同じ祝福と賜物を与えません。神の祝福は一人ひとりに異なります。ある人には A という賜物を豊かに与え、ある人に
は Z という賜物を豊かに与えます。ですから、みなが同じ方法でささげるのならば、無理があります。畑仕事をするカインに羊を
ささげることは難しかったでしょう。また、羊の群れを飼うアベルには農作物を主にささげることは難しかったでしょう。一人一
人に主が豊かに与えられた賜物の中から、自分が感謝を示したい方法でその一部を主にお返しするのがささげものの正しい精神で
す。ですから、お金だけが献金であるとすること、お金だけささげれば十分であると考えることは間違えたことであり罪です。時
間、掃除、オルガニスト、伝道、祈り、隣人への助け、御言葉の小冊子の編集や翻訳などさまざまな才能を用いて、私たちは主に
仕えることができるのです。つまり、主に仕えることのできない人はいないのです。
主イエス・キリストはご自身をささげてくださった
クリスチャンはこの点についてもイエス・キリストに焦点を合わせます。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
」(1 ヨハネ 4 章 10 節)
主は私たちにお金だけを与えているのではありません。私たちが生きていくために必要な全て、衣食住、家族、友人、仕事を与
えてくださっています。主が与えてくださっているのは私たちの生活に必要な物質的な祝福だけではありません。目に見えるもの
よりもさらに豊かで、人間が手に入れられないすばらしい賜物も与えてくださっています。それらはいのち、神の愛、平安、喜び、
慰め、希望、罪の赦しです。それらによって人間の心と魂までも養ってくださっています。また、将来、私たちが死んだ後に与え
られる祝福もあります。天国、永遠の命、よみがえり、天国での愛する者との再会、地獄での罪の永遠の罰からの救いを与えてく
ださっています。
「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を作られた父から下るのです。
」(ヤ
コブ 1 章 17 節)
そして何よりも、真の神である方が、罪を犯し、神に背く私たちのために「御自身をささげられた」のです。そ
れは神の持ち物、地位、名誉、体、時間、そしていのちさえもささげてくださいました。私たちは誰かのため自分自身の全てをさ
さげるほどの愛を持っていません。人間の愛はその程度のものなのです。しかし、主は全ての人のために、ご自身をささげられた
のです。それがどれほどの愛であるか、私たちには想像もできません。
このように主は私たちに全てをささげてくださっています。主が持っているもので、私たちのものでないものはありません。神
はイエスのゆえに私たちの罪を赦し、私たちを子供として受け入れたのです。この世でも親が子供と持ち物を共有しているように、
主もまた、私たちのことをまことに子どもとして受け入れてくださっているのです。
人間のためにさえも、喜んで、自らの全てを私たちのためにささげてくだるほどに主は私たちを愛してくださっているので、私
たちもこの方を愛しています。私たちもこの方に愛と信頼と感謝とをもって、自分のできる方法でこの方の愛に呼応するのです。
これがささげものの本質です。その主の恵みに対して、まったく不釣り合いですが、私たちが自分のできる方法で主に感謝を示す
ことを良しとされ、それを心から喜んでくださるのです。子供が親に感謝や愛を何かで示すとき、親はその贈り物や方法よりも、
子どもが自らの意志で感謝を示すことを喜びます。主も私たちが心からささげるささげものを喜びます。
主がもっともよろこぶささげものは、あなたが永遠に天国で生きることです
では、主が一番喜ぶささげものは何でしょうか。それは次の御言葉に書かれています。
「神は、実に、その一人子をささげられた
ほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである」(ヨハネ 3 章 16 節)
イ
エスが御自身とその全てを私たちにささげられたことには、目的があります。それはあなたが「滅びることなく、永遠の命を持つ
ためである」です。あなたがこの世で楽しく、元気に過ごすためではないのです。また、主はあなたからの見返りを期待して、
「投
資」しているのでもないのです。ただ、純粋に、ご自身の全てを犠牲にしなければならないとしても、あなたの罪の罰からの救い、
あなたを永遠の天国の御国で共に過ごしたいという愛のゆえなのです。
ですから、私たちの最大のささげものは、あなたがこの主の愛と罪の赦しと天国の約束を信じて、共に永遠の天国で住むこと以
上にないのです。これこそが主の最高に喜んでくださるあなたからの捧げものであることを覚えましょう。アーメン
献金シリーズ 3
2013 年 10 月 6 日 聖霊降臨節第 19 主日 説教者:芳賀弥男牧師
主への感謝と喜びがあふれ出たものが献金
私はたびたび次のような質問を受けます。「教会での献金の相場は、どのくらいですか?」と。日本人の冠婚葬祭では、相場に従ってお祝いや慰
めを表すことが習慣となっていますので、当然の質問だと思います。私が「感謝や愛に相場などありません」と答えると、たいていの人は困って
しまいます。今日私たちは、神と隣人への捧げものに相場も目安もなく、感謝、愛、喜びの表れだと言うことを学びます。
旧約時代 10 分の 1 のささげもの
旧約聖書の時代、クリスチャンたちは神への捧げものとして、地の産物、羊、家畜などの 10 分の 1 を捧げました。そればかりではなく、長男も
祭司など主の働きのためにささげられ、さらに家畜や農作物の「初穂」を主に捧げました。初穂がささげられるまで、人々は決して作物などを食
べませんでした。彼らはまず主に感謝することを、このささげもので実践したのです。
主に対してだけではなく、今日の牧師のような務めをす
る祭司にも 10 分の 1 が分けられ、3 年ごとに貧しいやもめ、外国人、孤児のためにも 10 分の 1 が分けられました。また、王や支配者に税として
も 10 分の 1 が治められました。これらの 10 分の 1 のささげ物は、ただ人々を束縛するためのものではなく、まず全てを与えられる神に感謝を帰
す機会となり、祭司が副業を持ったりせず、祭司の務めに専心できるように、また身分の低い者や貧しい者たちにも、ちゃんとした生活ができ、
国の行政も滞りなく行なわれるためでした。この 10 分の 1 の捧げもののシステムは、公平さを保つために非常によくできたものでした。もし、こ
のシステムが日本でも忠実に実施されれば、社会的な多くの問題も解決するでしょうし、牧師維持費の不足も絶対に起こるはずがありません。し
かし、このシステムの欠陥は、人々が「形式的」になることです。ただそれらをささげることで満足し、心の伴わないものとなりました。今日、
主はこの規定を廃止されました。(コロサイ 2 章 16,17 節) 決められた相場に従ってではなく、人々が自分の判断に従って、感謝と愛を持って主に
ささげ、喜んで自分たちの牧師を維持し、また貧しい者に愛を持って支えることができるのです。
マケドニヤの諸教会の模範的な献金
8:1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。8:2 苦しみゆえの激しい試
練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。8:3 私
はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、8:4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに
願ったのです。8:5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。
パウロが第三回目の世界旅行に出かけた主な目的は、大飢饉と激しい迫害下にあるエルサレムのクリスチャンたちのための援助を集めて回るた
めでした。このエルサレムの惨状を聞いたコリントの教会は、他の教会に先んじて、エルサレムの教会のために援助を提案し、その援助を集め始
めました。しかし、彼らは自分たちで決定したことをやり遂げませんでした。
そこで、パウロはマケドニヤ地方にある、ピリピ、テサロニケ、ベレヤなどの諸教会の良い模範をコリントの会衆に愛をもって伝えました。彼
らはまだ救われてから10年にも満たない若い会衆でした。さらに、この地方には、ユダヤ人に対する激しい差別があり、パウロがイエス・キリス
トについて宣べ伝えたとき、拷問を受けたり、投獄されたりもしました。同じようにマケドニヤのクリスチャンたちも苦しんでいました。それは
ただの苦しみではありません。2節を読むと「激しい試練の中」「極度の貧しさ」と書いてあるとおり、彼らがまともな生活も送れないほどに辛い
迫害を耐え、貧しく、衣食住にも事欠いていたことがうかがえます。しかし、彼らは「私たちはとても貧しく、今は大変な状況にありますので、
私たちは主とエルサレムの会衆のために献金をしません。」と言ったでしょうか? または、嫌いやながらエルサレムへの献金と援助物資を集めた
でしょうか? その逆のことが起こりました。
彼らは激しい試練の中にあっても、喜びに満ち、それがあふれていました。飲み物をコップに注ぐ時に、コップから満ち溢れた液体は周りのも
のを濡らします。日常生活の中で、それはあまり良い結果にはなりませんが、マケドニヤのクリスチャンたちから満ちあふれた喜びが「惜しみな
く施す富」となったのです。また、パウロから命令されたわけでもなく、お願いされたわけでもなく、彼らは「自ら進んで」エルサレムの兄弟姉
妹のためにささげました。「力以上に」と言う意味は、彼らができる以上の援助をしたと言う意味です。そして彼らは「聖徒たちを支える交わり
の恵みにあずかりたい」と、パウロに「熱心に」願いました。それはクリスチャンが互いに助け合うことを「交わりの恵み」と呼んでいたようで
す。エルサレムの兄弟姉妹にささげただけではなく、それよりも先に、優先的に彼らは「まず自分自身を主にささげ」ました。彼らを豊かに愛し、
彼らが永遠の罰から赦されるためにご自分の全てをささげてくださった主イエスに、まず自分自身のいただいたもの、時間、才能をささげたので
す。このようなひどい試練と貧しさにもかかわらず、彼らのあふれるほどの喜びはどこから来たのでしょうか?
キリストの愛と喜びに満ち溢れた完全な献身
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられ
ました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
マケドニヤのクリスチャンたちからこのような愛が発生したのではありません。その愛の源は主なる神ご自身です。「愛は神から出ているので
す。」(1ヨハネ4章7節) 彼らも神からあふれ出る真の愛、真の喜び、真の慰めと希望に触れ、満たされ、そして今度は彼らからあふれているので
す。その愛について、この9節は詳しく教えています。
誰でも自分の富を分け合うことは難しいことです。愛する家族や恋人や友人のためならば、自分の富をあげることはできるかもしれません。し
かし、全部はあげません。自分の分は取っておきます。しかし、キリストはご自分の全てのものを、全ての人に分け合ってくださったのです。あ
まりにもみじめな罪人で、何も持たず、行く先もなく、ただ地獄で永遠の罰を受けるだけのゴミくずのような私たちをあわれみ、半分どころか全
てを与えてくださったのです。私たちはそのキリストの貧しくなられた二つの姿をよく知っています。一つはクリスマス。家畜小屋の汚く冷たい
飼い葉おけに、神らしい栄光ももたず、天使も従えず私たちを永遠の罰から救うために来られたイエス・キリストの姿を。また、十字架と言う超
極悪人が処刑される屈辱的な方法であっても、私たちの罪の罰を代わりに負うためならば甘んじて受けてくださった御子イエスの姿。このように
イエス・キリストほどにあなたのためにささげ、犠牲にし、分け合ってくださっている方はいません。先ほどのマケドニヤの教会以上に、キリス
トは熱心に、自ら進んで、私たちへの愛と、私たちに仕える喜びに満ち溢れ、まさに自分自身をささげられたのです。マケドニヤの人々も、キリ
ストからあまりあるほどにたくさんの祝福をいただいていることを知っていました。ですから、彼らは欠乏している人に分け合うことを喜びまし
た。キリストがそうであったように。これが「交わりの恵み」の源なのです。
持っているものでささげなさい
8:10 この献金のことについて、私の意見を述べましょう。それはあなたがたの益になることだからです。あなたがたは、このことを昨年から、
他に先んじて行なっただけでなく、このことを他に先んじて願った人たちです。 8:11 ですから、今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思っ
たのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。 8:12 もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持ってい
る程度に応じて、それは受納されるのです。 8:13 私はこのことによって、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているの
ではなく、平等を図っているのです。
この手紙を書いたパウロは、言葉だけで、実行しないコリントのクリスチャンたちに、この「交わりの恵み」に参加することは彼らにとって損
失ではなく、益だと述べています。しかし、パウロはコリントの教会の貧しさも知っています。ですから「持っているもので、それをし遂げるこ
とができるはずです」「持たないものによってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。」と教えています。神は私たちが
耐えられない試練に合わせません。(1コリント10章13節) コリントの教会は他の教会と同じようなことができないかもしれません。しかし、彼
らができないことを要求しているのではなく、彼らができることをするように指示しています。エルサレムの教会は、コリントをはじめパウロを
始め多くの宣教師や伝道者を世界中に送りました。つまり、彼らがコリントの教会を支えました。今度はコリントがエルサレムの会衆を支えるこ
とができるのです。この恵みの交わりには、互いに助け合えば会うほどお互いが物質的にも、愛と友情においても、どんどん大きくなるのです。
めぐみ教会のみなさん、牧師維持費、礼拝堂の修繕も私たちが不可能なことではありません。もっているもので、それを成し遂げることができ
るはずです。残念ながら、近年、私たちめぐみ教会の献金は減少傾向にあります。その原因は何でしょうか。日本の不況の問題、私たちの収入の
減少、物価の上昇でしょうか? この世的に考えればそうかもしれません。しかし、今日の御言葉は、その問題をはっきりと指摘しています。「さ
さげもの減少=キリストへの愛と感謝の減少」なのです。 マケドニヤの教会は私たちよりもはるかに貧しく、大きな迫害を受けていました。しか
し、彼らが主と隣人のために喜んでささげていた原因は、彼らが救い主イエス・キリストが彼らのためになされたことに目と心を向けていたから
です。要するに、キリストの恵み、愛、なさったこと、約束したことについて知ること、学ぶことが、私たちの献金のあり方について正す、もっ
とも良い方法であり、キリストこそが唯一の動機なのです。
神は日本人の習慣にあるように、一律で相場を決めて私たちを圧迫しようとしません。嫌嫌ながらささげることも、主は受け取りませんし、祝
福しません。主イエスはあなたのために愛と喜びを持って100%、10分10をささげてくださいました。この世でも良くしてくださった人や、助け
てくださった人に感謝を表さないことを非常識と言いますが、もっとも多くのものを与え、もっとも大きな助けをしてくださった主に感謝を示さ
ないことは非常識だけではなく、罪です。全てをささげてくださった真の神である主は愛と感謝の表れとして、主と隣人に、自分のできることで
ささげるように、互いに神の恵みを交わすようにと命令されています。アーメン
献金シリーズ 4
聖霊降臨節第 21 主日
2013 年 10 月 13 日 説教者:芳賀弥男
献金の目的は、全世界の救いのため
私たちは何のために献金をしているのでしょうか? 牧師のため? 教会とその団体のため? また、私たちはなぜ献金しますか? 牧師と教会を維持
するため? それらはすべて間違えた動機です。何度も言い続けていますが、そのような間違えた動機によるささげ物を、主なる神が受け入れるは
ずがありません。今日、私たちはこの二つの質問について、御言葉を深く瞑想しましょう。
私の主の命令だから献金する
私たちが献金をささげる一番大きな目的は、主が次のように命令しているからです。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威
が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、父・子・聖霊の御名によって洗礼を授けることによって、また、わたしがあなたがたにめ
いじておいたすべてのことを守るように教えることによって、あらゆる国の人々を弟子としなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあ
なたがたとともにいます。
」(マタイ 28 章 18-20 節/ ギリシア語による正しい翻訳)
このように終わりの日まで、キリスト教会は主イエスのなさったこと、約束されたことを世界中に告げ知らせなければなりません。これは『最も
偉大な命令』とも呼ばれる命令です。そのためには、様々な面で経済力、人材、計画、時間などが必要です。
どうしてイエスのなさったことを伝え続けますか?
もし、私が宝くじを買って 3 億円が当選したとしても、私がその当選の事実を知らなければ、その 3 億円は無駄になります。私が当選の知らせ
を聞き、信じるならば、その 3 億円をもらいに行きます。その当選の知らせが真実であれば、私は 3 億円を手にするのです。
これとほとんど同じことが起こりました。私たちは心と言葉と行いにおいて、神の律法に対して罪を犯すので、永遠の地獄で罰を受けなければ
なりません。当然、律法を完全に守らなければ、聖なる、罪のない天国には入れません。しかし、神は御子イエスを遣わし、イエスは全ての人の
罪の罰を身代わりに負って、自らを犠牲にすることで、全ての人の全ての罪の赦しを獲得されました。また、イエスは全ての人の代わりに神の律
法を完全に守ることによって、全ての人が天国に入り、永遠に生きる権利である「義」と「聖」を獲得されました。神はこれらをイエスの功績と
してではなく、私たちの功績として認めてくださると言われました。
主イエスが全ての人のために 3 億円よりもはるかに尊い宝を勝ち取ってくださいました。その事実はまず知らせなければなりません。また、一
人一人がその知らせを知り、信じなければイエスの勝ち取ったものを自分のものとすることができません。まさにローマ 10 章で書いてある通りで
す。
「しかし、信じたことがない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。
宣べ伝える人がなくてどうして聞くことができるでしょう。」「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみこと
ばによるのです。」(ローマ 10 章 14,17 節)
誰がその良い知らせを伝えますか?
イエスは天に昇られる前に、全ての弟子たちに終わりの日まで、イエスが全ての人のために勝ち取られたこと、すなわち「行いではなくめぐみ
による救い」
「完全な罪の赦し」
「よみがえり」
「天国での永遠の命」などを知らせ続けるようにと命じられました。その時から、イエスの弟子たち
はその知らせを告げ続けています。その知らせを告げるのは、牧師や宣教師や使徒たちだけですか?
いいえ、全ての救われた者の義務です。「あ
なたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、闇の中から、ご自分の驚くべき光の
中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(1 ペテロ 2 章 9 節)
みなさんも、試験に合格したり、赤ちゃんが生まれたり、宝くじが当たったと言ううれしい知らせを黙っていられないでしょう。また、不治の
病の治療法を知っているのに、その不治の病の人にその治療法を知らせない人がいるならば、それは愛のない人です。
死に対してよみがえりがあり、どんな病と苦悩と試練の連続の中にも喜びが満ち溢れ、朽ちない、衰えない、死なない栄光の体と言う希望があ
り、地獄での永遠の罰から解放されると言う赦しがあり、天国で朽ちることのない家が用意され、神の花嫁として、子供として、家族として受け
入れられるというこの知らせは、今までの世界の歴史の中で、最も多くの人を慰め、励まし、希望を与え続けたもっとも良い知らせでありつづけ
ます。もし、私たちがこの素晴らしい知らせを他の人に伝えないとしたら、自分が救われていない、イエスを信頼していないと言う証拠なのです。
救われている人は、知らせたいと言う動機にかられると聖書にも書いてあるからです。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたし
にとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そう言う人は多くの実を結びます。
」(ヨハネ 15 章 5 節)
主は私たちよりもはるかに優れた天使たちにこの命令をしませんでした。人間に伝えるために、人間を用いるようにされました。仲本先生もア
メリカで牧師として仕えていた時に、ミネソタ州のミネアポリス近郊に住む日本人の人たちに、この良い知らせを伝えることが主な役割でした。
日本人には日本人が伝えた方が良いからです。同様に、中国人には中国人宣教師が、モン族にはモン族の宣教師がいたそうです。
現実的な話ですが、メッセージを伝えるために、いくつかの必要なことがあります。電話で伝えるにしても、電話機、通信費、電話番号加入権
が必要です。メールやインターネットで情報を流すにしても、プロバイダー料金、通信費、工事費、パソコンなどの端末費用がかかります。講義
や説教をする場所を設けるためにも、会場を借りたり、教会を立てたりする費用がかかります。宣教師をどこかに遣わすためにも、渡航費、交通
費、滞在費がかかります。聖書の御言葉を読んでもらうためにも、出版費用、翻訳費用、人件費がかかります。そして、御言葉を伝える人である
宣教師や牧師を維持する費用、神学校などで彼らを養成する費用もかかります。これらすべては先ほどのマタイの福音書に書かれているイエスの
命令に携わる機関であり、システムです。私たちが主に捧げる献金は、主のために必要なのではなく、私たち人間のために必要なものです。その
ささげられた献金は、すべて直接的、間接的を問わず、このイエスの良い知らせの世界宣教のために用いられるのです。
それならばなぜ、私た
ちはそれを主にお返しする形式をとるのでしょうか。それは、主がそれを清めて、祝福して、用いていただくためです。
イエスは言いました。一人の救いは、全世界を得ることよりもはるかに価値のある大きなことだと。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まこ
とのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ 16 章 26
節) 伝道、つまり教会の働きは、どの仕事よりも尊い仕事です。それは人間を永遠の死から救うだけではなく、天国での永遠の命と真の家、真の
喜びと平安に導くからです。私たちの献金がそのようなことのために用いられることを、私たちも喜ぶべきであり、誇りとすべきなのです。その
献金によって、誰かの救いに役立てられている、または誰かの弱った魂を励まし、強めている、または天国の永遠の命の希望をあたえていること
を覚えるべきです。この仕事につくために、あなたは牧師や宣教師である必要はありません。祈りによって、牧師になることによって、献金によ
って、世界への宣教師となることによって、日曜学校の先生になることによって、私たちはこの仕事の働き手となれるのです。普通は仕事に就く
ためには、資格や学歴や経験が問われますが、イエスはクリスチャンみんな、子供も床にふす人をもこの仕事に招きます。普通の仕事は働きに応
じて収入をいただけますが、この仕事に関してはすでに私たちの働きに値しない永遠の真の報酬が与えられていることを覚えましょう。ですから、
クリスチャンは報酬を得るためではなく、感謝と愛とを持ってこの働きに就くのです。
私たちの日常生活を振り返ると、なんとも無駄で無意味な事柄に多くの時間と財産が費やされていることでしょう。数年、数十年後に振り返る
と『何であんな馬鹿なことのために、これだけのお金を使ったのか』と思うことが多々あると思います。私たちは自分の生活を振りかえり、少し
の無駄をなくして、その分を主に捧げるだけでも全然違うでしょう。
主にある兄弟姉妹の皆さん。みなさんがはじめてキリストの福音を聞いたのはいつでしょうか。ラジオ放送ならば、誰かがラジオ伝道のために
奉仕し、説教を作り、多額な献金をし、聴衆者のために祈りました。教会での英会話教室ならば、誰かが外国から不慣れな土地にやって来て、才
能と時間を分け合ってくれました。ほぼ無料で参加できるように、全ての金額は誰かが献金で負担しました。プレゼントされた聖書ならば、誰か
がその聖書を出版するために献金し、翻訳し、祈りました。一枚のポストに入ったトラクトならば、誰かの献金でそれが印刷され、誰かが自分の
足でそれを配布し、祈りました。もっとさかのぼると、この東の国のはずれにある国に宣教師を遣わすために、多くの人が献金し、宣教師を育成
し、教会を立て、維持してくれました。ウィスコンシン州のスパルタと言う町のウィカリンクさんご家族は、芳賀師と家族のために献金し、めぐ
み教会のためにも献金をし、祈り続けてくださっています。一度も、芳賀師の家族に会ったことも、この教会に来たこともないのにもかかわらず。
私たちもただ献金するのではなく、この偉大な仕事の一部を担っているという喜びと感謝と誇りを持ってささげましょう。これも「めぐみの交わ
り」です。
確かにこの仕事のためには、一番大きな妨害がいつも、どこでも起こります。悪魔はこの働きをいつも妨害しようと一生懸命です。キリストの
名が伝えられることを嫌う多くの人がいます。キリスト教会を破壊し、クリスチャンたちを捕えて処刑したり、迫害する国や地域があります。し
かし、主はこの仕事を私たちだけに委ねたのではなく、次のように言われました。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともに
います。」と。真の神である主イエスがこの働きのために、共に働いてくださっています。この仕事は、世界の歴史の中でももっとも長く続き、も
っとも多くの希望と慰めと喜び、平安を残してきました。そして、これからも。共にこの働きを担いましょう。アーメン