資料あり

葛飾立石散歩 -立石村の立石様って何?-
島田 明(
‘79 入学)
登場し、江戸名所図会に描かれている
不思議な石です。
南総里見八犬伝の著者である曲亭馬
琴(昔は滝沢馬琴と教わった)が何人か
の仲間たちと各地の奇談を持ち寄って
編集した兎園小説(とえんしょうせつ)
にも、葛飾区立石の名前の由来となっ
たこの石の話が載っています。そして
兎園小説の「立石村の立石様」の下り
には私の先祖の一人 島田新右衛門が
登場します。子どもの頃、
「名主島田新
右衛門が村の衆を先導して三日三晩、
立石と呼ばれる奇石を堀り続けたとこ
ろ、皆が次々と倒れたので、立石様の
祟りだ!と怖れて埋め戻し、お祭りし
た」と言う話を聞かされたことがあり
ました。その内容と兎園小説の内容と
はなぜか異なるのですが、なかなか面
白い話ですので、会報に紹介しようと
思います。
山の話ではありませんが、ちょっと
変わった B 級歴史探訪話を紹介します。
東京都葛飾区 8-37-7 の小さな児童
公園(図 1)に「立石様」と呼ばれる奇石
が埋まっています。
図 1 立石様の埋まる児童公園
[曲亭馬琴、他:立石村の立石、兎園
小説 第十集][3]
下総国葛飾郡立石村〔亀有村の近村なり。
〕の
元名主新右衛門が畑の中に、むかしより高き
図 2 立石様の埋まる石垣と小鳥居
壱尺計の丸き石一つあり。近き比、〔年月未
詳。
〕当時のあるじ新右衛門相はかりて、さま
石は今にも崩れそうな石垣に囲まれて
おり(図 2)、30cm×15cm 程度の大きさ
でわずかに顔を出している何とも情け
ない石ですがなぜか有名で、わざわざ
訪ねて行く人が絶えません。その様子
を記したインターネットサイトまで葛
西城あります[1-2]。先日は、TV の番
組で、お笑い芸人の有吉まで訪ねてい
ました。この石、室町時代の記録にも
で根入りもあるべくも見えず。この石なれば、
耕作に便りよし。掘り出しのぞきなんとて、
掘れども掘れども、思ひの外に根入り深くて、
その根を見ず。とかくして日も暮れければ、
翌又掘るべして、その日は止みぬ。翌日ゆき
て見れば、掘りしほど石ははるかに引き入り
て、壱尺ばかり出でてあり。こは幸のことぞ
とて、そがまま埋みて帰りぬ。又その次の日
ゆきて見れば、石はおのれと抜け出て、地上
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と天文の博物館」(東京都葛飾区白鳥
3-25-1)による立石の発掘調査が行わ
れ、
「立石様」は房総半島の鋸山から採
取されて運ばれた石であり、その近所
で発見された古墳で使われている石と
同質の石であることがわかりました。
古墳の一部と言うわけではなく、はじ
めから道標として埋められたようです
[4]。そもそも、そのあたりは古代の東
海道が通っていたのだそうです。
新右衛門の発掘は文化 2 年(1805 年)。
立石様の後ろに「領主立石新右衛門」
の名が刻まれた石祠が今も残ります。
立石様の石垣は昭和 36 年(1961 年)に
祖父島田太郎が修理をしたようです。
少し離れたところにある大き目の石鳥
居(大正 11 年(1922 年))には奉納者の曾
祖父島田八郎の名前が刻まれています。
私が子供の頃に訪れた際には、その石
鳥居の隣に赤い木製の鳥居が朽ちかけ
て残っていました。それは近所の熊野
神社の明細帳に記される曾々祖父島田
義矩が奉納した鳥居(明治 9 年(1876
年))だったのかもしれません。石鳥居
の横には石碑(昭和 16 年(1941 年))が立
っていて、祖父島田太郎の名前が刻ま
れています。
この児童公園は京成電鉄の青砥駅と
立石駅のほぼ中間にあります。どちら
から散歩しても行けますが、最近、京
成立石駅周辺の商店街に昭和時代の下
町らしさを醸し出すモツ焼き屋や飲食
店が集まっていて観光客も多く訪れま
す。私は、参考文献[1]を公開している
女流作家の柳田由紀子さん(米国在住、
年に一度帰国)と[2]の演劇人の福原忠
彦さん(東立石在住)と知り合いになり、
一度、立石でお会いして南側商店街の
モツ焼き屋ミツワ(立石のモツ焼きの
名店と言われる)に行きました。
にあらわるること元の如し。ここにおいて、
且驚き且あやしみ、その凡ならざるをしりて、
やがて祠を石の上に建て、稲荷としてあがめ
まつれりといふ。
〔一説に、石のめぐりに只垣
のみしてり。祠を建てたるはあらずとぞ。
〕今
も石を見んと乞う人あれば、見するとなん。
右新右衛門は木母寺境内にをる植木屋半右衛
門が縁家にて、詳に聞きしとて半右衛門かた
りき。おもふにこの村にこの石あるをもて、
古来村の名におはしけん。猶尋ぬべし。
(現代語訳)
下総の国 葛飾郡 立石村の元 名主 新右衛
門が所有する畑の中に、昔から高さ 30cm ぐ
らいの丸い石がひとつある。ある日、当時の
主であった新右衛門が考えて、そんなに根深
いようにも見えない。この石がなければ畑の
耕作に都合が良い。掘り出して除こうと考え
たのだけれども、掘っても掘っても、思いの
ほかに石が根深くて、その根っこが見えない。
そうこうして日が暮れたので、翌日にまた掘
ろうと、その日は掘ることを中止した。翌日
石の所へ行ってみたら、掘った分だけ石はず
っと地中へ引き入ってしまい、30cm ぐらい
だけ出ている。これはむしろ都合の良いこと
だと考えて、そのまま埋めて帰った。またそ
の次の日 行って見たら、石は自ずから抜き出
て、地上に現れる状態が元のようである。こ
こに至って、驚くと同時に怪しみ、その様子
が凡庸ではないことを知り、後に 祠を石の上
に建て、お稲荷様として崇め祀ったと言う。
今も石を見たいと乞う人がいれば、見ること
ができるそうだ。この新右衛門は 木母寺(東
京都墨田区)の境内に住んでいる植木屋の半
右衛門の親類であり、詳しく聞いたと半右衛
門が語った。想うにこの村にこの石があるこ
とを以って、昔から村の名前にされただろう。
さらに尋ねてみると良い。
実は平成に入ってから「葛飾区郷土
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立石様の近所にある五方山熊野神社
は、どうってことのない小さな神社で
すが、西暦 1000 年頃に関東ではじめ
てできた熊野神社らしく、陰陽師安倍
晴明の勧請だそうです。敷地が五角形
をしています。宮司の大鳥居信史氏は
神田明神の宮司を兼ね、菅原道真の子
孫だとのことです。この熊野神社の大
鳥居の斜め前にも、島田太郎が建立し
た高さ 4mほどの石塔(昭和 16 年(1941
年))が立っています。
立石様と熊野神社から北東に移動し
(車だと 5 分ほど)、環状 7 号線を水戸
街道との交差点近くまで行くと広い道
路の左右に、これまた何もないような
公園が見えます。青砥駅の北東でもあ
ります。何にも残っていないようなそ
の場所こそ、南総里見八犬伝のモデル
となった里見一族と国府台合戦(千葉
県市川市国府台, 第 1 次国府台合戦は
1563 年)を戦った北条一族の本拠地で
あった葛西城の城跡だとのことです
[5]。さらに第二次国府台合戦(1564 年)
ではこの葛西城は一度炎上消失したそ
うで、城の北西端にあった薬王山宝持
院(島田家の菩提寺、新右衛門の墓もあ
り)も合わせて消失したとのこと。そ
の後、徳川家康が江戸城築城前に再建
した葛西城に一時的に住んだらしく、3
代家光は鷹狩りでしばしば立ち寄った
そうです。江戸川区葛西の地名もその
城を築いた葛西一族に由来します。
以上、半ば、私の祖先紹介になって
しまいましたが、次の散歩コースを紹
介します。京成堀切菖蒲園駅から徒歩
6~7分程にある不思議な B 級ハンバ
ーガー屋さんの「立石バーガー」(葛飾
区堀切 3-17-15)に行き、手動販売機の
ハンバーガーを買い(これも怪しげな
店として有名)、お花茶屋駅北方の「葛
飾区郷土と天文の博物館」(葛飾区白鳥
3-25-1)を見て(参考文献[5]の谷口榮氏
が勤める。地元のボランティアと共に
頻繁に発掘活動をされている)、庭に恐
竜とライオンの置物が並び天文台やプ
ラネタリウムがある證願寺(しょうが
んじ)」(葛飾区立石 7-11-30)を訪れ、
立石駅周辺のモツ焼き「ミツワ」に行
き(これは最後にした方が良いかもし
れません。昔の新宿駅近くの小便横町
を凌ぐ怪しげな店。金曜など pm5 時を
過ぎると混雑して店に入れないことも
あり)、立石様(葛飾区 8-37-7)、熊野
神社(葛飾区立石 8-44-31, 神社裏に大
鳥居宮司が園長を務める熊野神社幼稚
園があり、神社社殿左裏に回るとポニ
ーが飼われている)まで歩き、葛西城跡
(葛飾区青戸 7-21-7 及び葛飾区青戸
7-28-17。発掘調査で、埴輪の他、
最古の古銭富本銭までが見つかるも今
や何の痕跡もない)で戦国時代の戦い
を偲びつつ、京成青砥駅から帰ると言
う B 級散歩コースです。
但し、私自身、
全部通して歩いたことはありません。
相当長いです。 (2012 年 5 月 14 日)
参考文献:
[1] 柳田由紀子: ♪ラブ・ユー立石,
http://keiseitateishi.seesaa.net/art
icle/135302225.html
[2] 福 原 忠 彦 : 立 石 様 巡 礼 ツ ア ー ,
http://blog.livedoor.jp/happyfield/a
rchives/50956717.html
[3] 曲亭馬琴、他:立石村の立石、兎
園小説 第十集,1826
[4] 葛飾区郷土と天文の博物館:立石
遺跡Ⅳ, 葛飾区郷土と天文の博物館
考古学調査報告書 19 集, 2010
[5] 谷口 榮:東京下町に眠る戦国の
城・葛西城, 新泉社、2009
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