vol.42 - ふぉーらむとそのたのかりおきば

vol.42 2013 Mar.
vol.42 2013 Mar.
ペリーの旗立岩
2013.2月
まえがき
特別研究員寄稿
武田 泉
遥かなる島を見つめる日本海の漁村・富山県黒部市生地来訪記
牧 洋一郎
馬毛島のFCLP移転案問題、沖縄の基地問題との関連にて
真栄里 泰山
書評「世界の沖縄学」
安谷屋 隆司
北イタリア地域の地域再生エネルギー(バイオマスメタン発酵
ガス化発電)による地域農業の新たな編成に関する視察メモ
宮良 安彦
36.ふゎー鳥の話
比嘉 光龍
「アメリカ系うちなーんちゅ」の会発足(その過酷な現実)
國吉 まこも
所感とお礼
寄稿
根井 浄:熊野と沖縄を結んだ日秀上人
地域共創センター
離島研究・実践促進プロジェクト最終報告会実施報告
ジュニア研究支援発表会実施報告
社会教養セミナー(24年度最終回)実施報告
実践講座
地域共創学・シマおこし演習
土曜教養講座
3/9 世界遺産と沖縄
ご案内
移動市民大学in奄美 「唄って笑ってうちな∼ぐち」
移動市民大学in粟国島
「島の考える地域共創・未来共創」
新刊案内
世界遺産・聖地巡り
琉球諸語の復興
今月号は3/20に再度更新予定です。
まえがき
東御廻りと今帰仁上り。両方の聖地を合わせると30か所以上になります。今年に
入って全部回りました。間を縫って中城城址とその付近、波の上の護国寺では阿弥
陀仏を拝みました。東御廻りでとった写真は3月9日の「世界遺産と沖縄」のポスター
に使用しました。中城付近ではペリーの旗立て岩を探しました。これは前のページ
の写真です。金色の阿弥陀仏は、この号に掲載されています。
実は3月5日に地域研叢書として「世界遺産・聖地巡り」が全国発売されます。そ
のための泥縄的撮影旅行を繰り返していたのです。東御廻りは何度も行ったのです
ぐに分かりましたが、中城のペリーの旗立て岩は、首をかしげる人ばかり。関東か
ら来たという主婦に聞いてようやく判明。今帰仁上りの何ヶ所かは地元に生まれた
人に聞いても不明。今帰仁グスクを学ぶ会会誌4号の今帰仁上り特集にある写真が
ずいぶん役に立ちました。
さてようやく完成にこぎつけた「世界遺産・聖地巡り」では琉球王国の世界遺産、
東御廻り・今帰仁上りのほか、熊野古道、サンティアゴ巡礼、四国遍路、そして世
界自然遺産の暫定リストに載った奄美・琉球の自然が網羅されています。(3月刊
行予定の「琉球諸語の復興」と共に新刊案内をご覧ください)
「世界遺産・聖地巡り」の前文をご紹介します。
「琉球の世界遺産を記したもっとも古い記録は何だろうか。おそらく「おもろさ
うし」が一番古いはずだ。現代語訳の岩波文庫(外間守善校注)から拾ってみた。
首里王府が、沖縄・奄美に伝わる古謡ウムイを採録した歌謡集。16世紀から17世紀
にかけて編集した神歌だ。探している内に気が付いたのは、風景描写が少ないこと
だった。例えば最初に斎場御嶽(せーうぁーうたき)が登場するのは34首。「聞得
大君ぎや 斎場嶽 降れわちへ うらうらと 御想ぜ様に ちよわれ」。―名高く
霊力豊かな聞得大君が、斎場嶽寄り満ちへに降り給いて、国王様は神の恵みを受け
て、穏やかなお考えのようにましませ―。
すぐ近くの知念城址については沢山あるが、1312首では以下のように謡っている。
「知念杜ぐすく 神降れ初めのぐすく 又大国杜ぐすく 神が降れ初めのぐすく」
−知念杜ぐすく、大国杜ぐすくは立派なぐすくである。祖神が初めて神降りをして
きた、由緒あるぐすくであるよ―。
勝連城址については例えば1134首。「勝連の阿麻和利 玉御柄杓 有りよな 京
鎌倉 此れど 言ちへ 鳴響ま(後略)」―勝連の阿麻和利,肝高の阿麻和利は、
神酒を注ぐ玉御柄杓を持っているよ。大和の京、鎌倉にまで、これぞいい囃して鳴
り響かそう―
珍しく城門や石垣の様子を謡った二首を見つけた。
「聞ゑ中城 東方に向かて 板門 建て直ちへ 大国 襲う 中城 又 鳴響む
中城 てだが穴に 向かて」―名高く鳴り響いている中城は、東方(太陽の穴)に
向かって城門を建てて立派にして、大いなる国を支配する中城であることよ―。
「聞ゑ今帰仁 百曲り 積み上げて 珈玻ら(*王偏に羅という字)寄せ御ぐすく
げらへ 又 鳴響む今帰仁」−名高く鳴り響く今帰仁は、城壁を百曲がりに積み
上げて、珈玻ら(*王偏に羅という字)玉を寄せる御ぐすくを造営して、立派なこ
とよ―
(中略)
時代がさらに下り19世紀、1853年に琉球を訪ねたペリーは探検隊を派遣した。中
城城を調査した一行は、石造りのアーチ門や石垣の優美さに感嘆している。「要塞
の資材は、石灰岩であり、その石造建築は、賞賛すべきものであった。石は・・・
非常に注意深く刻まれてつなぎ合わされているので、漆喰もセメントも何も用いて
いないが、この工事の耐久性を損うようにも思わなかった」(中城城址共同管理協
議会作成パンフレットより)
19世紀に至ってようやく「科学的な精神」が行き渡り、城の素材や建築法に対す
る「観測」が記述されたのだろう。
現在ではグスクの「縄張り」の調査が當眞嗣一氏(元県立博物館長)などによっ
て続けられている。沖縄の世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)は同時に
聖地でもある。當眞氏から聞いた印象深い話がある。世界遺産登録の可否を決める
イコモス(国際記念物遺跡会議)の海外からの調査メンバーがあるグスクを訪れた
時のこと。石垣のふもとに線香を置き、両手を合わせて一心に祈る老女の姿があっ
た。東アジア世界との交流で培われた独自の精神世界がここにある!「これぞ世界
の宝」とメンバーが実感したのだろう。それが世界遺産登録への後押しになったの
ではないか。沖縄では、おもろさうしに謡われた神歌が人びとの心に生きている。
海の安全を守る女神・媽祖を祀る神社も残っている。
奄美・琉球の自然が2013年1月に世界自然遺産の暫定リストに載った。登録に至
れば沖縄県は文化、自然の二つの世界遺産を持つ唯一の県になる。やんばるの森が
世界遺産に登録されるかもしれない。しかしそこには本島の2割を占める米軍演習
地がある。日本国憲法の及ばない軍事基地。その上を危険なオスプレイが飛び回り、
希少生物の命や森が脅かされ、住民の生活も成り立たないようでは世界自然遺産の
価値は半減する。後世の人々に、誇るべき世界文化遺産と世界自然遺産を残さなけ
ればいけない。南海の小国として輝いていた時代の文化と自然を継承してゆきたい。」
さて緒方の前書きはこれが最後です。地域研究所の特別研究員は専任教員約50人、
外部の研究員が約180人、230人の交流を図るためにこのフォーラムを創設しました。
最近ではA4にして50枚、約6万字を超える号もあります。毎月、紙で出していたら
もちません。ユニークなウェブマガジンとして皆様から励ましのお言葉を頂きまし
た。おかげさまで土曜教養講座のレギュラー受講者もふくめ400人を超すフォーラ
ムに成長しました。
4月からは沖縄にあるNPO法人アジアクラブの理事長としてスポーツや文化の振興
の一翼を担うつもりです。長い間ご愛読ありがとうございました。
2013年3月
沖縄大学地域研究所
所長 緒方 修
特別研究員寄稿
vol.42
遥かなる島を見つめる日本海の漁村・富山県黒部市生地来訪記
武田 泉
北海道教育大学札幌校
沖縄大学地域研究所特別研究員
はじめに
先の大戦後既に半世紀以上を過ぎ、日常ではその痕跡もなかなか見出すこともな
くなってきた。日本の隣国との国境は主として海で隔てられているため、海を生活
の舞台とする漁業者以外が認識する機会はなかなか無い。しかし近年、中国・韓国
とは尖閣諸島や竹島を舞台に、領土をめぐる問題が先鋭化しつつある。
その一方で北方の国境線について、対ロシア関係の動きはほとんど見受けられな
い。
大戦の結果を受け入れ、むしろ妥協によって国境線を確定しようとするロシア側
と、固有の領土論を持ち出して4島一括返還を要求する日本側との間の、見解の相
違は決定的であり、未だ膠着状況が続いている。
そして国内では、北方領土返還運動の原点は根室市だとされ、納沙布岬から目視
可能な範囲に歯舞群島が連なり、政治家や政府高官が変わる毎に視察に訪れている。
返還運動について、関係者以外の一般市民が目にするものとしては、札幌雪まつり
での「北方領土の日」関連署名活動や関連団体のデモ行進が目に付く。根室振興局
管内に行くと「二ホロ」をはじめ、展望塔やモニュメント等の北方領土関連の啓発
施設が存在し、外務省等の公的機関作成のパンフレットが配布されている。その他、
青少年の弁論大会等の対若者の行事も開かれているものの、何か「官製」「お仕着
せ」の匂いがするし、根室振興局管内でも根室市を離れると、取り組みも希薄になっ
ているような感を拭えないものである。
しかし今回、道外で最多の北方領土引揚者を有する北陸地方の、富山県それも黒
部市の生地地区を訪れてみて、道内で見られたような、「官製」の予算によって作
られたものというよりは、当事者が直接語りかけるような「手作り感」のある試み
を垣間見ることができた。現地で受け止めたことを記してみたい。
■黒部市生地地区の漁業資料館
今回は11月の後半に、別件(北陸新幹線並行在来線関連の資料収集)で北陸を訪
れたので、懸案の黒部市を訪れることにした。
黒部市は、そそり立つように鎮座する立山連峰から流れ出て、黒四ダムや黒部渓
谷の断崖絶壁を経て日本海へと注ぐ黒部川の平野部の扇状地に位置し、湧水も随所
に見られる。またJR北陸線には生地駅が存在するが、この区間は現在建設中の北陸
新幹線の開業後は並行在来線に経営分離される予定であること、同駅裏にはYKK
のファスナー工場があり、生地地区は駅から少し離れていること、同地区は魚や漁
特別研究員寄稿
vol.42
民文化で地域おこしをしようとしていること、等を事前に仕入れておいた。
当日はまず黒部市役所で概要説明を受けた後、生地地区へと向かった。市役所前
にも「北方領土」の横断幕が掲げられていた(写真1)。市役所での話で印象的だっ
たのは「北方住宅前」というバス停があり、戦後すぐに島からの引揚者が入居した
二十軒程度の地区があるとのこと。現在ではその地区でも代が変わり、また住宅も
改築が進んでいて当時の面影は薄れている、とのこと。その後乗った地鉄コミュニ
ティバスには、確かに「北方住宅前」というバス停が存在した。
写真1 市役所の横断幕
写真2 漁業資料館外観
生地地区の町並みに入った停留所でバスを降り、少し行くと旧信用金庫の建物を
改装した漁業資料館に到着(写真2)。ここは現在、民間の漁業資料館となってい
て、昔の漁具の展示よりもむしろ北方領土関連展示の方が多く、さしずめ「北方領
土資料館」と名乗っても良いほど、中は北方領土関連の展示物で満たされていた
(写真3)。見たこともないような巨大な歯舞昆布をはじめ(写真4)、ビザ無しも
しくは墓参時に収集した現地の石や戦前に残してきて先に持ち帰った銛(写真5)、
戦前の島の手描きの集落地図や写真、そして歴史を語る資料として明治期以降の
「越中衆」と呼ばれた漁民がなぜ北海道や千島・樺太を目指したのかや、戦時中か
ら戦後にかけての島の経過についてのパネル展示がなされていた。
その中で、越中漁民の置かれた立場、つまり背景として、日本海交易でつながっ
ていた北陸出身漁民が北方へ出稼ぎでそもそも早期に進出していた点、富山県内の
海岸線が単調なため海岸線当り漁民数が多く、また明治末期の当時漁業の不振や自
然災害の発生で困窮しており、出稼ぎ特に北洋漁業に活路を見出そうとしたことが
触れられていた・さらに昆布漁を中心に、富山県人が明治期初頭以降志発島等歯舞
写真3 漁業資料館内の
領土関連展示
写真4 館内展示の巨大昆布
写真5 館内展示の持ち帰った石
特別研究員寄稿
vol.42
群島の漁場を開拓し、同地の昆布干場の借地権を
有する富山同郷の網元を頼って北を目指し、根室・
羅臼・歯舞群島・色丹島方面へ集中していた点、
終戦時に富山関係者は1425人を数えていて、他県
に比べて突出して多かった点も、図表により展示
されていた。
これらの展示物は、よく道内で目にするような、
行政お仕着せの展示物というよりは個人的に収集
したようなオリジナルな資料が多く目にした。署 写真6 堀込式黒部漁港と背後の
立山連峰
名簿の他に、北対協富山支部の作成の配布用小風
船も置かれていた。資料館には留守番の方がおら
れたが、どちらかといえば関係者の参観者が多く、
一般の参観がもっと増えればとのことであった。
漁業資料館を辞し、堀込式の黒部漁港に沿って
歩く(写真6)。歩いてきた道路は高くなって水
路を渡って対岸へと続いているが、不思議なこと
に遮断機が付いていた。これは閘門式の橋であり、
漁船出入りの際は遮断機が締まり、この橋が回転
するというのである。また地図によると、掘り込
み港の下を海底歩道も通じ、また漁港の両脇を少
し行くと立山連峰からの伏流水が湧く清水の洗い
場が何箇所かあるとのことであった。そして、堀
込漁港の最奥部には、生地地区の中心のコミュニ
ティセンターと、観光施設である魚の駅「とれた 写真7 コミュニティセンター前の
て館」「できたて館」があった。コミセン前には
領土返還立て看板
「北方領土返還」の大きな立て看板があり(写真
7)、道内に戻ったかのようにも錯覚した。
■北方住宅と高志野中学校内北方領土学習展示室
そしてコミセンで貸自転車を借りて、先程バス
で通った北方住宅を目指す。あたりは黒部川扇状
地の散居村の様相を呈していて、各家屋は家と家
が分散している景観の中、前述のとおり「北方住
宅前」バス停の西側の一角だけは住宅が十数軒密
集する地区が見えた(写真8)。そこが北方住宅
で、戦後すぐに島から追われた引揚者が入った住
宅とのことである。現在は代が変わったり、住宅
の外観も改築され当時の姿は薄れているとは、先
に立ち寄った市役所担当者による説明であった。 写真8 バス停からの北方住宅遠景
次にさらに北上し、高志野中学校へと向かう。
特別研究員寄稿
vol.42
写真9
高志野中学校校舎内の領土資料室
写真10 資料室内に多数掲示された学習成果の壁新聞
市役所で聞いた地元中学校内に領土学習の資料室のある、北方領土学習を積極的に
取組む学校である。丁度昼時に到着し、突然の来訪にも関わらず、教頭先生と社会
科担当の先生に資料室を案内していただいた。校舎3階にあるこの資料室(写真9)
は、半分を領土関連に、もう片方を人権学習の展示に使われていた。領土コーナー
には、代々の生徒が作成した領土関連調査に基づく壁 新聞が所狭しと貼られてい
た(写真10)。また、領土問題の寸劇ビデオや、同校中学生 代表の根室市訪問時
の写真や、領土作文コンクールに応募して首相官邸を訪問した地元北陸中日新聞の
記事も掲示されていた。
同校では、北方領土学習は社会科との関連付けもあるが、特に総合学習の一環と
して「北方領土と環日本海諸国」をテーマに、3年生で中心に取り上げられている。
この総合学習では、3年生で5月から11月までの期間をかけて、ビデオ視聴・調べ
学習(インターネット・文献調査、市内での市役所・図書館・市内在住北方領土在
住経験者等の訪問)、先輩が取り組んだ領土関連の寸劇DVDの視聴、北方領土在住
経験者語り部による講話の実施等を踏まえて、各班毎に壁新聞を制作していく等の
一連の取組みが継続的に実施されているとのことであった。中でも、生徒にとって
島の語り部による島での生活について生の話を聞く機会が毎年設定されている点が
重要である。それは、地元地区に在住の引揚関係者による語り部の存在と積極的姿
勢が大きいとのことであった。
また、根室の高校生が同校を訪れての領土関連の出前講座もあったりして、まさ
に半年以上をかけた多角的な取組みと言える。そして総合学習の最後では、テーマ
が「北方領土と環日本海諸国」であることを反映して、単に返還を叫ぶというより
は「南北逆さの日本海地図」(写真11)を基に、富山県等の北陸各県が目指すよう
な「環日本海圏」として位置付けた上での「対岸のロシア沿海州を想定した広域的
発想」が芽生えないか、という視点も加味しているとのことであった。
特別研究員寄稿
vol.42
写真11 同校資料室内に掲示された環日本海を強調する「逆さ日本海 地図」
■おわりにー道内一般での取組みとの落差が認められるのか?
このような、道内から離れた富山県内の取組みに比べ、他方道内での取組みはと
いえば、地元の根室管内や、教師側が北対協や領土学習関連の研究会に関わってい
るような一部の熱心な学校を別にすると、単なる「返還」スローガンを連呼して終
わりか、消極的に教科書に載った政府公認の事項の羅列で終わりになるような内容
しか聞いたことがない。一般には道内出身学生に聞いてみても、系統的な北方領土
の知識ではなく、何をやったかよく覚えていない方が多いように見受けられるので
ある。
北海道から遠く離れた、富山県内でまさに「飛び地」のように取組まれているこ
うした「草の根」の活動に改めて感心し、このような有意義な取組みがもっと道内
で行えないものかと強く感じた次第である。
特別研究員寄稿
vol.42
馬毛島へのFCLP移転案問題、沖縄の基地問題との関連にて
牧 洋一郎
沖縄大学地域研究所特別研究員
一
はじめに
馬毛島(種子島の属島)、徳之島そして沖縄諸島といった琉球弧の島々は、米軍基地
問題あるいは基地移転候補地問題に翻弄されている現況である。しかし、これらの島々
は台風の常襲地帯ではあるが、豊かな魚種と漁場に恵まれ、またサトウキビ、パイナッ
プルそしてバナナなどの生い茂る島々でもある。よって将来は、軍事基地などの政治
問題や社会問題に振り回されることなく、農林漁業を基本として良好な開発を推進せ
ねばならぬ地域といえよう。その為には琉球弧の島々に点在する比較的広大な入会地
(共同体等が有する共同所有地、総有地)の今後の利用も視野に入れねばなるまい。そ
うではあるが今、オスプレイ配備で、沖縄の住民は不安と危険に向き合っており、ま
た種子島上空ではオスプレイらしきものの飛行が目撃されており(平成24年10月2日付
南日本新聞)、島民らは、危機感を募らせているのである。
そして、当月(2月)3日、西之表市馬毛島への米軍
空母艦載機の陸上離着陸訓練(FCLP)移転案
が争点になった市長選で、移転受け入れ反対を訴
えた候補(長野力氏)が、柔軟な受け入れを容認す
る候補(中野周氏)を大差で退け勝利した。なお
市議選も同時に行われたが、その結果、FCLP
移転受け入れ反対派の議員12人、賛成派1人、どち
らともいえない派3人の議員構成(総員16人)となっ
た。そこで、トビウオの島・馬毛島の米軍FCL
P移転候補地問題と沖縄の今後はどうあるべき
か、を沖縄の基地問題との関連的視点から捉え
西之表市街地
る必要がある。
二
馬毛島FCLP移転問題
2011年6月、日米外務・防衛担当閣僚会合で、馬毛島が「FCLPの候補地として
検討対象」と明記された。この軍事施設等の移転受入れに対し、熊毛(種子島・屋久島)
地区の住民らは、地域経済の活性化を望む推進派住民、騒音被害・環境破壊等に怯え
る反対派住民、そして態度を明らかにせず動揺する住民と、この問題を巡って民意が
分裂している現状である。そして、種子島漁協の組合員(総員約500名)の中には、FC
LP移転案に最初は反対していたが、賛成に転じたという組合員も見受けられる。種
子島漁協の水揚げ高は、2011年度6億6200万円であったが、1994年度(ピーク時)の14億
2400万円の半分以下にまで落ち込んでいる(馬毛島での採石工事による海水汚濁が原
因)。「頼みの綱は、FCLP移転に伴う漁業補償であり、後継者も育たず背に腹は代
特別研究員寄稿
vol.42
えられない」というのが、受け入れ賛成派漁民らの本音であろう。一方、「基地マネー
に依存するまちづくりで果していいのか、米軍が駐留する沖縄など(他自治体)の事例
を聞けば(治安悪化など)いい話は聞かない」と不安を隠さない住民が大半を占めるの
も事実である。
三
熊毛(種子島・屋久島)の現状
種子島では、サトウキビ農業も島の基幹産業であり、サトウキビの原種がヨンタン
ザン(読谷山)と呼ばれ、甘藷(サツマイモ)のみならず沖縄からの農作物の伝播を意味
している。また、種子島のあちこちの集落では、琉球人(ヨンシー)踊りといった郷土
民俗芸能も定着しており、古くからの沖縄との交流を表わすものである。今後はこの
ような史実を踏まえて、新たなる(更なる)文化・経済等の交流を推進すべきであろう。
なお、種子島は温帯地域の島で、南西諸島中最も、鹿児島県本土に近い島である。属
島馬毛島を抱え、適当に人口も多く(約3万1千人、1市2町)、面積は約450平方キロメー
トルで、南北に細長い島である。農漁業を中心とした島で、農作物は、サトウキビ、
甘藷、島バナナの他、園芸が主であり、漁業は近海・沿岸を利用した(馬毛島を漁業基
地としたトコブシ漁、アサヒガニ漁そしてトビウオ漁などの)共同漁業である。熊毛
地区の行政・経済の中心は、種子島の北部に位置する西之表市(人口約1万6千人)であ
る。
種子島は「農漁業の島」と呼ばれるに相応しく、また隣島屋久島(屋久島町、人口
約1万4千人)は「林業の島」と呼ばれるに相応しい島(面積約500平方キロメートル、
その約90%が国有林野)である。そして現在、屋久島は、世界遺産 (1993年に登録)の
島として、豊かな森林を基に観光に力を注いでいる。また近年、馬毛島が米軍FCL
Pの移転候補地となってから、熊毛地区は騒然となっている。
入会権は地域に根づいて生きてきた歴史的に古い権利であり、入会地は地域住民の
共同生活を支える社会保障的共同基盤である。入会地は、軍事基地などに利用されて
はならない地域住民の伝統的共同財産である。沖縄では、入会集団のみならず、個人
地主も、自分らの土地への立ち入りを米軍によって排除されているのである。熊毛の
住民らは、この事実を注視すべきである。
四
終わりに
基地問題に関する私見を述べておきたい。米軍基地の沖縄県内移設は勿論、県外移
設もグアム移設も反対である。グアムに移設しても、チャモロ人という先住民の人た
ちが、沖縄と同じ苦しみを味わうことになるのである。米軍はアメリカ本国に帰って
もらうしかないのである。鹿児島県民の中には、「沖縄にばかり米軍基地を押し付け
ずに、馬毛島に一つぐらい引き受けてもよいのではないか」という意見もあるが、そ
の前に、米軍基地がはたして我が国に必要であるか否かを議論すべきである。そして、
馬毛島は鹿児島を代表するトビウオの島であり、そのために島の自然や浦持地(共有
入会地)は、これからも継続して住民運動や環境裁判によって守られねばならないの
である。
ここで、琉球弧の島民らの権利を主張し守らんがためにも、イェーリング(R.v.Jher
ing) の「権利のための闘争(Der Kampf ums Recht)」を思い起こそう。「権利=法の
vol.42
特別研究員寄稿
目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想
してこれに対抗しなければならない限り―世界が滅びるまでその必要はなくならない
のだが―権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争であ
る。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である」。
塰泊公民館―塰泊漁民らの拠点
塰泊漁港
西之表港
特別研究員寄稿
vol.42
書評:「世界の沖縄学」
真栄里 泰山
沖縄大学地域研究所特別研究員
近来まれな、うちな一んちゆ一が元気になる本
である。
急速に進展するグローバル時代、琉球・沖縄の
歴史文化は、国際的にどう認識され、どう評価さ
れているか。復帰40年、万国津梁をキーワードに
沖縄振興計画の「沖縄21世紀ビジョン」がスター
トしたが、琉球・沖縄のアイデンティティー、国
際社会での琉球・沖縄の可能性など、国際的な視
点から沖縄を考えていくことが不可欠になる。
そういう時期の実にタイムリーな沖縄本だ。
日本学研究者として著名なヨーゼフ・クライナー
博士は、国際的に琉球・沖縄研究を推進してきた
開拓者。本書は、沖縄大学での特別講義、土曜教
養講座、その他のセミナーや講演などを収録した
ものだが、副題の「沖縄研究50年の歩み」という
不要書房出版 1800円
個人の研究史にとどまらない、琉球・沖縄研究の
国際的展開、それを開拓していく知的探検ともいうべき・わくわくする面白さがこ
の本にはある。
「ヨーロッパ製地図に描かれた琉球」など、ヨーロッパでの琉球・沖縄発見にま
い進してきたクライナー先生の「日本文化の半分は沖縄にある」との主張は熱く、
沖縄への限りない愛情に満ちたその語り口は優しい。
沖大講座の受講生の「ヨーゼフ・クライナー氏は神のような人だ。学者はおそろ
しい。今回の講義は生涯忘れないだろう。こんなに励まされた沖大講座はこれまで
にない」という感想が紹介されているが、それが本書の意義・内容のすべてを語っ
ている。
沖縄の自己確認として伊波普猷が開いた「沖縄学」は、柳田國男、折口信夫の碩
学を経て日本学にその位置を占め、今日の民間学、地元学の先駆となり、現在では
法政大学、早稲田大学などに沖縄研究所が設置されるまでになっている。それをさ
らにグローバルに発展させたのは、沖縄協会の清成忠男、故外間守善の諸先生そし
てクライナー先生だ。
日中そして米との関係を軸に展開されてきた「沖縄学」は、今、日本と世界を再
照射する「世界の沖縄学」として、新たな輝きを得たとの思いを深くする。
※本稿は、琉球新報 11面 2013年12月30日を再編集したものである。
特別研究員寄稿
vol.42
北イタリア地域の地域再生エネルギー(バイオマスメタン醗酵
ガス化発電)による地域農業の新たな編成に関する視察メモ
安谷屋 隆司
バイオマス産業エネルギー研究所沖縄地区調整担当
沖縄大学地域研究所特別研究員
1.視察の概要
2013年1月14日から20日の日程で北イタリアの農業とバイオマスメタン醗酵ガス
化発電施設を視察する機会を得ました。
視察した北イタリアのベローナを中心とした地域は、アルプス山脈の南側斜面の
裾野に展開する温帯農業地域だといえます。冬季は霜や降雪のある寒さの厳しい地
域です。アルプス山脈の南斜面から裾野に展開している農業は、南の低平地域の稲
作とトウモロコシと畜産、中間地域のブドウと麦とトウモロコシと畜産、アルプス
山脈の谷深い山間地はブドウとリンゴ、それに麦が傾斜面に栽培される典型的な山
間地農業がおこなわれているように見られました。
この地域の農業は、EUの経済統合によって国境障壁が消滅した結果、大きな動揺
を経て現在に至っているように見られました。今回の視察は、再編が進みつつある
この地域の農業農村を垣間見たことになります。したがって、本文はその感想を述
べることになります。
BTS社のバイオマス事業は、北イタリア及びドイツにおいて着実に普及が進み、
現時点で約140基が稼動し、ヨーロッパ各国に広がりつつあるようです。EU統合に
よる混乱を経て各国の農業は、EU内での地域農業として再編されつつあるようです。
それは、単に再編ということではなく、明確な適地性と経営性を確保する方向で、
経営と技術の組み立てが進んでいます。それは、バイオマスメタン醗酵ガス化発電
施設と売電・地力再生産システム・耕畜連携を体系的に組み入れた地域循環型農業
を形成しつつあるように思われました。
現在、北イタリアを中心に広がろうとしている地域循環型農業は、従来の農業内
での耕畜連携ではなく、バイオマス資源活用とエネルギー生産(売電と廃熱利用)
という社会的な循環システムによって地域農業が一つの生産単位にまとめられつつ
あるという点が注目されました。それは、1500ヘクタール規模の地域の農地がバイ
オマスメタン醗酵ガス化発電施設を核にトウモロコシ・稲作・果樹・畜産などが計
画的に編成されることによって、エネルギーの製造販売に対応した原料供給計画と
農畜産物の生産販売計画が編成され、実施されていることが注目されました。要す
るに、メタン醗酵という生物の生命活動を利用したエネルギー生産は、機械的生産
と異なり、生産において柔軟性を有します。バイオマスメタン醗酵ガス化発電施設
特別研究員寄稿
vol.42
は、農業生産の変動幅を柔軟に吸収するとともに、土地利用を計画的に編成できる
点で沖縄の農村集落を生産組織としてまとめていく上で、有効な手段になると思わ
れました。
2.沖縄農業の土地利用編成機能とバイオマスメタン醗酵ガス化発電施設
明治維新以降における沖縄の地域農業が資本主義的に編成されていく過程を技術
的視点からマクロ的に見れば、製糖技術と農業の土地利用の編成として把握できま
す。明治維新後の琉球処分(明治12年)から土地整理事業終了(明治36年)までの、
いわゆる、旧慣温存期は、旧王府時代の労働地代の段階から生産物地代へ移行し、
納税主体を育成する段階であったといえます。この段階において明治政府は、沖縄
県の農民・地主を地租の負担者として商品経済へ移行させる必要がありました。明
治政府は、沖縄経済を商品市場経済へ誘導するために殖産政策によって多様な商品
生産を試行錯誤する過程の中から砂糖が沖縄県経済を商品市場経済へ移行させるター
ゲットになったと思います。すなわち、この過程において可能な限り、沖縄県の全
農村集落へ黒糖製造を拡大普及しました。一部には織物などが殖産政策の対象になっ
た地域もありましたが、土地整理事業後には、市場商品になることができませんで
した。サトウキビと黒糖の生産は、王府時代に村役人が管理していた「おえか地」
を中心に集落住民の共同作業(出役)によっておこなわれ、それに対応した土地利
用が編成されました。集落の畜力式の製糖場で製造された黒糖は、国が租税品とし
て行政組織を通して集荷され、大阪市場で国が販売し、その販売代金のうちから租
税分を徴収し、残額をそれぞれの村に支払ったとされています。この仕組みの中に
は、砂糖製造資本や販売資本は介在せず、大阪市場を経て砂糖売買資本が介在しま
した。ただし、年月を経ると、農村に進出した商人資本が抜け駆け的に黒糖を買い
集め、本土市場へ販売するようになりました。
土地整理事業が終了し、地租が土地所有者に課税されるようになると、集落共同
体的な製糖に変わって、集落の有力者(主に旧村役人層)が製糖所の経営者になり、
サトウキビの生産は製糖所の経営者とその土地を小作する農民がおこなったようで
す。これは、集落の土地利用の再編成を進めることになりました。一方、土地整理
事業が終了するとともに、外部の製糖資本は、蒸気機関を装備した大型工場(黒糖・
分蜜糖)を進出させ始めました。国もそれを支援しました。
大型工場の製糖は、サトウキビを直営地において生産するとともに農民からも買
い上げておこないました。資本主義的な労働力の商品化もはじまりました。この頃
から、ハワイなどへの移民が始まりました。
在来式製糖の黒糖販売は、県内、県外の産地仲買人が対応しました。第一次大戦
頃から日本本土への出稼ぎ労働者が増加しました。第一次大戦終了後の不況は、集
落の在来式製糖場を経営した地主層を没落させました。代わって、移民から帰った
農民が、改良式の小型黒糖工場を経営する一方で、産業組合などによる集落の中型
の改良式製糖工場も出現しました。戦前期は改良式製糖が普及しましたが、なお、
在来式製糖が圧倒的な数を占めました。サトウキビ生産は、それぞれの在来式製糖
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特別研究員寄稿
場を介した「結い」などでおこなわれました。製糖技術の発達は、それに対応した
原料供給・生産を通して土地利用の編成をおこないました。このような土地利用の
再編は、労働力が農外労働市場へ流出することによっても進められました。
このように、黒糖製造を改良式製糖などで外部化して行く過程で進んだ土地利用
の再編は、甘蔗畑作経営方式を形成しました。それは、以下のような経営方式でし
た。
[「冬季」≪稲(水田)≫+≪雑穀(麦・アワ・キビ・ゴマ・マメ類)+甘藷・
甘蔗・野菜…畑≫]+[「夏季」≪甘藷+甘蔗+…畑]≫]+[家畜(豚・牛・馬・
山羊…)]
戦後においては、基地の拡大によって食糧自給政策は早急に崩壊し、1960年頃に
はサトウキビ・パインアップル・豚などによる土地利用の再編がおこなわれました。
すなわち、サトウキビとパインアップルによる単一作の経営方式が形成され、それ
ぞれ、加工工場(製糖工場・パイン缶詰工場)の原料供給圃場としてそれぞれの工
場による土地利用の編成がおこなわれ、一種のプランテーション的な形態が出現し
ました。それは、以下の経営方式になっていました。
[「冬季・夏季」《甘蔗・パインアップル+…
》]+[畜産]
1972年の復帰後は、農産物の本土出荷に対する国境措置が解除され、国内の市場
経済へ統合されました。このため、サトウキビやパインアップルに加えて多様な作
物が生産され、多品目単一作型の経営方式が形成されました。この多品目単一作型
経営方式の形成は、土地利用の編成が無秩序におこなわれる結果となりました。そ
れは、収益性の高い自由市場作物(野菜・果樹・花卉など)が多く共販として共同
出荷する為に作付調整をおこなう必要がありましたが、十分におこなわれませんで
した。一方、加工々場は原料の作付出荷に関する調整機能を弱体化させた状態で、
土地利用の編成が無秩序化しました。
沖縄農業の土地利用編成は、現象的には製糖技術(製造工場)が変化したことに
対応してきたといえます。しかし、加工技術による土地利用の編成が困難になった
現段階においては、新たな土地利用の編成を推進する技術的な核が必要になってい
るといえます。
バイオマスメタン醗酵ガス化発電施設は、電力の生産販売をコンスタントにおこ
なうことと、耕畜連携、及び農産物の生産加工を計画的におこなうために土地利用
の編成が重要になっています。したがって、売電を前提とするバイオマスメタン醗
酵ガス化発電施設は、農業の耕畜連携、地力再生産、土地利用の高度化など、経済
的土地生産性を向上させるための土地利用の編成をおこないうる重要な技術的手段
であるといえます。したがって、バイオマスメタン醗酵ガス化発電施設は現在の製
糖工場が失った土地利用編成機能を新たに構築し、地域農業の振興に重要な役割を
担うことが可能であると思います。
特別研究員寄稿
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北イタリアを中心に急速な広がりをみせるバイオマスメタン醗酵ガス化発電施設
特別研究員寄稿
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3.バイオマスメタン醗酵ガス化発電施設の土地利用編成機能と事業運営主体につ
いて
大型分蜜糖工場による地域農業の土地利用編成機能が失われつつあるなかで、次
の土地利用編成の主体をどう考えればよいのかについて検討します。それは、土地
利用編成機能の在り方が、常に地域農業として地域農民のために機能しているのか、
それとも、地域外の農外資本のために機能するのかという問題です。
要するに、農業における土地利用の編成は、その編成主体が非地域農民(農外資
本・地域外業者)である場合、はじめの段階では地域農民(非資本)にも分配がお
こなわれます。
しかし、時間を経て資本間の競争が激化すると、農民(非資本)への分配は行な
われなくなります(現在のサトウキビ作)。農外資本は、農民(非資本)への分配
がなくなると、その問題は地域や国(国民)の責任へ転嫁し、自らは撤退すること
もあります(パインアップル加工が例)。一方、産地の衰退は地域による努力と能
力が不十分な場合も生じえます。農業によって生活ができない農民が農業から離脱
すると、装いを改めた農外資本は農地の取得を図り、そして、農民を労働者として
雇用し、農場制農業を展開するか、あるいは、革新的な技術を導入して、一部の農
民を加えた農場制農業を展開しようとします。
このような展開の仕方は、植民地における支配国側の資本が多くおこないます。
そこに進出する資本は、大企業の場合もありますが、明治期の日本国では落ちぶれ
商人資本や行商人のような場合もあります。それは、土地取得を目論む資本による
先住民支配の手法であり、支配国側においても見ぬ振りする場合が多いといえます。
地域外資本が農地を直接取得して農業資本として参入する場合は、土地利用を編
成支配しうる革新的な技術を多く伴います。もし、このよう革新的な技術を伴わな
い場合は、土地利用の編成が困難となり、農場経営は短期間で崩壊します。農場が
崩壊した後の資本は、多くの場合、没落農民から買い叩いて獲得した農地を農外資
本(不動産資本等)などへ売却し、投下資本を回収するのが多くの事例だといえま
す。このようにして、ハワイの先住民の多くは、土地を失い、農業から排除され、
地域住民として主体性を失いました。
したがって、沖縄県民が多くの地域の先住民のようにならない為には、地域の農
業と農民が主体的な農業者・農業経営者として存在することが必要です。それは、
歴史的に正常な地域社会と市民が発展する為に必要な条件です。それは、アメリカ
合衆国の民主主義社会がファミリーファームの成立と発展によって形成されたこと
に留意する必要があります。しかし、このようなファミリーファームの形成から除
外されたアメリカインデアンやハワイアンは、国民としての主体性と農業経営者と
しての主体性と自立性を喪失しています。したがって、沖縄県(民)は、主体性と
自立性の確立と沖縄県民の歴史と文化を存続発展させる為には、沖縄の農業者が農
業の担い手、主人公であることが重要です。沖縄県の伝統的な民族文化は、農耕文
化に基づくものであり、農民と農業なくしては存続できないからです。
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4.沖縄における循環型農業(自然・農業・社会)の形成と集落的な土地利用編成
の調整に有効な技術的な手段について
(1)自然と社会の環境が危機的状況の現代
人類は、おおよそ1万2千年前頃に始まる食料の生産=農業生産によってそれぞ
れの自然を条件として農耕社会を形成し、今、生存し続けています。要するに、農
業及び農村社会は、それぞれの地域の自然的条件を基礎に成り立っています。した
がって、近代以前の人間社会は、それぞれの地域の自然的条件に働きかけて食料を
生産し、消費することによって成立しています。具体的には、地域的な農耕社会は、
地域的な農耕技術の発展によって地域的な自然に基づく地域的な土地の利用と所有
を基礎に農業生産と地域社会を発展させてきたといえます。
近代工業社会は、産業革命によって自然条件と関わりなく世界のどこでも同じも
のを生産できる産業として1830年前後に成立しました。産業革命によって形成され
た技術体系は、(原動機―伝導装置―作業機)の体系で構成されます。技術的には、
動力源が自然エネルギー(水力・風力・人力・畜力)から化石燃料(石炭・石油)
に変換し、作業機の変革があったことです。資本主義は、このような技術革命によっ
て確立しました。
近代工業社会においては、原料とエネルギーと市場を求めて植民地獲得の戦争が
おこなわれました。蒸気機関に代わる内燃機関の出現は石油(油田)の覇権を競う
ことによって、資本主義化が世界を覆い尽くしました。グローバル化した資本主義
は、エネルギーを求めて競合するとともに、一方で、化石燃料の使用拡大が環境問
題を引き起こしています。
工業化社会の発展で労働人口(=消費人口)の増大は、食料供給力の強化を進め、
安価な食料を求めて資本主義国は植民地の開発と拡大を行ってきました。旧琉球王
国もそのような資本主義化の過程で日本に併合された植民地の一つです。
現代の資本主義社会は、世界の人口が急増し、現在70億人超とされ、さらに増加
を続けています。人口の増加は、食料の消費を増大させます。食料とエネルギーの
消費拡大は、耕地の拡張による自然負荷(破壊)の拡大、化石燃料の消費増大によ
る環境破壊(地球温暖化)、都市化・人口増加・消費拡大による廃棄物・排泄物の
増加による環境負荷(破壊)の増大、農業生産の不均衡な発展による環境負荷(破
壊)の拡大など、環境問題は、人類の存続に大きな警鐘を鳴らしています。
このような状況において、「食料生産・バイオマス利用・エネルギー再生」を
「自然―農業―社会」の循環システムとして地域循環型社会を形成し、地域経済の
振興を実現しうる技術革新が北イタリアで進んでいます。
(2)地域農業における土地利用の編成を調整し、生産の拡大と地域産業の振興を
可能にするバイオマスメタン醗酵ガス化発電施設
私どもの周りに生成する廃棄物・排泄物は、その80%以上がバイオマスです。バ
イオマスは、植物の光合成によって太陽エネルギーを炭水化物(澱粉)として植物
体内に固定し、生成した有機物です。
現在、これらバイオマスの廃棄物・排泄物は、多く焼却炉によって焼却し、熱と
特別研究員寄稿
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炭酸ガス等を煙として大気中へ排出し、地球温暖化の一因になっています。また、
焼却残渣は、最終処分場を建設し、埋設処分しています。埋設処分後に有害物質が
滲出して社会問題になる事例もみられます。また、人糞尿・下水汚泥などは、浄化
処理し、残渣物が堆肥として処理されています。
これらの処理施設の建設費と維持管理費は市町村財政を圧迫するとともに、市町
村民に大きな負担となって後々まで尾を引くことになります。
現在、21世紀型の処理システムとして非焼却型のドライバイオマスガス化発電方
式とウエットバイオマスメタン醗酵ガス化発電方式が開発されています。両システ
ムとも売電や廃熱利用によって経済性が高いとされ、炭酸ガスや高温の熱の排出を
抑制しうるシステムであるといわれています。
また、残渣物によって高品質の堆肥・液肥、硫酸アンモニアが製造されます。そ
のほか、廃熱はバガス等の加工残渣物を家畜の飼料として加工利用することができ
ます。家畜排泄物は、バイオマスメタン醗酵ガス化発電の原料とされるように、耕
畜連携を循環システムに組み込むことで、電力等のエネルギーを再生し、売電とい
う新しい産物を生成することが可能になっています。
このシステムは、バイオマス発電の原料確保と、土地利用の高度化及び土地生産
性の向上を図るために、土地利用の編成を調整しうる機能をもつことになります。
とりわけ、バイオマスメタン醗酵ガス化発電施設は、地域の土地利用を編成する機
能を有しています。この土地利用編成の機能は、地域の農民が無自覚の場合には、
地域外事業者の参入を許すことになります。その場合、地域農業に対する地域の主
体性は、失われることになります。この結果、売電の利益は地域外に持ち出され、
地域の農業者は堆肥・液肥の単なる購入者になります。それだけでなく、加工産業
や廃熱を利用した養殖や育苗事業などが全て地域外の事業者に支配されることにな
ります。したがって、地域循環型農業は成立せず、地域外の事業者に農業経営が支
配されることにもなります。この点は、地域産業の振興という面からも地域の農民
が注意しなければならない点です。
古来、日本の稲作は、水利共同体として土地利用の編成機能と集落自治機能を形
成しました。戦後の高度経済成長期に水利共同体は、「田植え機・自脱コンバイン・
ライスセンター」によって土地利用の編成をコントロールしました。しかし、この
体系は、稲作のみに有効で、単に省力化に効果を得ましたが、ついに、土地利用の
高度化や多様化を推進する機能をもつことができず、農村農業を衰微させることに
なりました。
沖縄県の戦後の糖業は、サトウキビ単一作型土地利用の下で大型製糖工場が土地
利用の編成機能を有しました。しかし、復帰後の製糖工場は、多品目単一作型土地
利用の下で、土地利用の高度化や機械利用などで調整機能を発揮できないために、
作付面積の維持や、経済的土地生産性の向上に機能しませんでした。バイオマスメ
タン醗酵ガス化発電システムは、農家の経済的土地生産性を向上させるために、土
地利用編成を含めた調整機能を発揮し、製糖工場の機能をも調整することが可能に
なります。したがって、地域の農業者がバイオマスメタン醗酵ガス化発電施設を所
有管理することは、農業経営の存続に関わることになれるという意味において、地
域の主体的な取り組みが強く求められます。
特別研究員寄稿
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36.はいか星の話 −−星になったおかあさん−−
宮良 安彦
沖縄大学地域研究所特別研究員
昔 ある 村に マナビと いう 女が いたらしいが、 その 女は どんな
罪科が あったのか、生まれた 時から 乳が 四つも あったそうです。
幼い 時は 何とも 思わないで いたが、成長し、年頃に なって 来ると、
自分の 体が 人と 違って、乳が 四つも あるのを 恥ずかしく 思い、
「私は 一生涯 所帯を 持たない。」と
思いつめて いたそうです。
しかし マナビは 美しい 生まれを し、また 愛想が よく、心が 美しく
も あって、それを 見て、
「どうか 嫁に なって ください。」と
求婚する 人が おられ、
「私は こう 人と 違って いる 体を 持って いるが、それでも よいと
思いなさるなら、・・・」と
お話 申しあげたところ、
「さて、さて その 事は 誰も 知って いる。心配するな。」
との ことで あり、安心し、結婚して 行ったそうです。
マナビは 夫婦 睦ましくも あり、家庭持ち よくも あって、次々 子供も
生まれ、マナビアブと 言われるように なったそうです。
若い 時は
「どうして 私を 生んで くださったかな。残念。命も 欲しくない。」と
思いつめる ことも 幾度も あったが、人並みに 所帯を 持ち、生まれ繁盛も
あり、今では 何の 事も 思わない。子を 養うと、懸命に 働いて いた
そうです。
そうして いるうちに ある 日 番所から
「仰せが あるから、出て 来なさい。」と
呼ばれたそうです。
何の ことで ありましょうかねと、恐る恐る 行ったところ、目差(めざす)役
人が 仰るのは
「マナビ。お前には 乳が 四つ あると いうが、本当の ことで あるのか。」
と 仰る。
マナビは 驚き、何と 申しあげようかと 困惑して いたが、まもなく
「その 事は 村中 皆 知って おられる ことである。主の前で あっても、
聞いて おられる はずだ。隠しても、隠せない ことだ。」と
思いあきらめ
特別研究員寄稿
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「主の前さま。私は どんな 罪を 被って 生まれたのか。 生まれた 当時
から 乳が 四つ あります。獣と 変わらない 体を 持ち、恥ずかしくも
あり、悲しくも あり、その ために 毎日 泣いて おります。しかし どん
なわけで 主の前に その ことを 問いただし なさるのですか。」と
恐る恐る お話を し 申し上げたところ、主の前は
「じつは その ことが 御主加那志の 耳に 入り、ぜひ 見たいから、
あなたを 沖縄本島へ 行かせよと 言う 仰せが ある。気の毒だが、沖縄本
島へ 行ってくれ。」と
言いつけた。
マナビは 人前も かまわぬ。
「あがよう。あがよう。」と
声を 出して、泣いて いたが、まもなく
「御主加那志の 仰せで あるなら、たとえ 在番頭で ありなさっても、はい
と 言える。私の ような 平民の 女程度の 者が どうこうと 言う こと
も できない。」と
思いあきらめ、自分の 不運な 生まれを 悲しく 思い、仕方なく 家に 戻っ
て 来たそうです。
旅立ちの 日も 決まり、子供達とも 別れ、生まれ島から 出て行く 時に
なったので、ある日 マナビは 子供達を 呼び寄せて、
「私は どんな 運命で あったのか、生まれの 生まれから 乳が 四つ あっ
た。畜生と 変わらない 体を 持ち、恥ずかしくも あり、悲しくも 思って
来た。しかし 人並みに 結婚を し、家庭を 持ち、お前達も 生まれ、今
では 別に 何とも 思って いなかった。しかし 今頃 その 事が 沖縄本
島で 取り沙汰され、見物に なり、人前で 恥を さらす ことに なる。沖
縄本島に 行ったら、二度と 島に 戻れないのか 分からない。もしか戻れな
く なったら、私は 必ず 星に なり、天から お前たちを 見守り して
いるよ。田植えの 時分と 稲刈りの 時分に 南の 天が 低い 所に二つ
並んで 見える 星が ある。その 星を 私だと 思って 見て くれよ。」と
しとしとと 涙を 落として、話を 聞かせなさったそうです。
それから まもなく して マナビは 船に 乗せられ、沖縄本島に 連れて
行かれたと いう ことです。
母親が 沖縄本島に 行きなさって 六月 たち、夏も 越え、冷風が 吹く
ように なったところ、子供達は 沖縄本島からの 船は 何時 来るかな、母
親は 何時 戻りなさるかなと 待って いたが、船が 来ても、母親は 見え
ない。それから 一年 たち、二年 たっても、戻りなさらない。とうとう 何
時まで 待っても、戻りなさらなかったそうです。
ある 年、苗代の 苗が 伸び、田植えも 近々 始まると いう 日、太陽
が 落ちる 時分から 三人の 子供は 庭に 出、夏に なり、稲刈り時分に
なったところ、約束どおり また 南の 空に 星が 見られて、光って い
たと いいます。
特別研究員寄稿
それから 村の
なったそうです。
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人は
その
星を
はいかぶしぃ、マナビ母と
いうように
(宮良安彦『登野城村民話集』)
解
説
沖縄・八重山の民話で、自然界を語るものは1.星座に関するもの。2.明和の
大地震に関するもの3.その他がある。
しかし、その話柄の数は、明和の大地震の話以外は、他の話柄にくらべて、極め
て少数である。
星座に関するものは、北斗七星に関するものと上記のはいか星に関するものとが
ある。北斗七星に関するものは、天の羽衣伝説との関わりのものが多い。上記のは
いか星は、どの星を指すのかは不明である。しかし「はい」が、南の意味を持つので、
南方の星であろう。
登場人物のマナビは宮良当壮は『八重山語彙』で波照間島の女とし、遠藤庄治
『八重山民話集』では、黒島の女だと、されている。女主人公・マナビは四つ乳を
持っていたが、一人前に結婚もし、子も出来たが、首里王府の王の物好きによって、
見世物として、首里王府に行くことになる。彼女はそのことを「恥」だと、思ってい
る。彼女は3人の子供に私が、もし首里から帰って来なかったら、田植え時期の南
に見える2つ星を私だと思って欲しいという。ついに、母は帰らず、村人はこの星
をはいか星と名づけたという。
この民話は、説明民話(農耕説明)としては、田植えと稲刈りとはいか星という関
係を語っている。
古代オリエントの牧羊民族のカルデア人は、すでに12個の星座を物語りとして、
定着さている。古代ギリシアの詩人ホメロスの作品にはおおぐま座やオリオン座が
歌われている。また古代ギリシアの神話には巨人や英雄が星座の中に登場する。そ
れに比べて、沖縄・八重山の星座の民話は物語りとしては、十分には発展せず、原
初的な形のままに存在する。
特別研究員寄稿
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「アメリカ系うちなーんちゅ」の会発足(その過酷な現実)
比嘉 光龍
NPOアジアクラブ
うちなーぐち講座講師
沖縄大学地域研究所特別研究員
比嘉光龍の生い立ちは小説よりも奇?
私、比嘉光龍(ふぃじゃ ばいろん)は、うちなーぐち(おきなわ語)を「方言」
ではなく言語として、うちなー(おきなわ)、日本社会に認めてもらおうという活
動を行っているが、その原動力は私の生い立ちに関わるのだということを活動を通
して自覚してきた。まずは私の生い立ちを簡単に紹介してみたい。
私は1969(昭和44)年に那覇市で生まれた。琉球政府から沖縄県になる3年前の
ことである。私の父はアメリカ人であるということ以外、まったく実母に教えても
らえなかった。その実母は金武町出身である。実は、私は生まれてすぐに、実母の
兄夫婦に養子としてもらわれた。つまり伯父、伯母が私の育ての親になったのであ
る。事実はそうなのだが、1969年、うちなーは日本ではなく、アメリカの植民地で
ある琉球政府という体制だったこともあるのか、私の戸籍には伯父、伯母の長男と
記載があるのである。これは事実ではない。私は養子として伯父、伯母に育てられ
たのであり、二人は実の両親ではない。私の場合は顔が証拠だといえよう。しかし、
養父母ともに他界しているし、実母も他界しているし、また、祖父母ともに他界し
ている現在では、誰にこの事実を認めてもらえれば良いのか、また仮に皆が生きて
いたとしても、その事実を改めさせることに意味があるのかも分からない。
私の養父母だが、西洋人の風貌をした私がうちなー、日本社会で成長したらどん
な困難が待ち受けているのかどうかまったく意に介さず、私に関してはあまり関心
がなかった。養母は私が16歳で亡くなったが滅茶苦茶な人だった。それは後日暴露
本でも書きたいくらいだが、それに輪をかけて滅茶苦茶だったのが私の養父だった。
その事情もいつか語れることもあるだろう。
簡単に私の生い立ちを書いたが、一般の人には壮絶な人生に見えるかもしれない。
確かに私の生い立ちはドラマや映画にしてみたら面白そうだと自分のことながら思
う。ただ、ここ、うちなーで生まれた私と同じ境遇の
「アメリカ系うちなーんちゅ」の同胞達には、もっと
厳しく、もっと大変な幼少時代を送った人はたくさん
いるのである。
特別研究員寄稿
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アメリカ系うちなーんちゅという呼称
私のことは上で述べた通りだが、実は同じ「アメリカ系うちなーんちゅ」の方々
にはここでは書けないほどの苦労をなされた方がたくさんいる。まず、そもそも、
この「アメリカ系うちなーんちゅ」という呼称だが、これは私が数年前に考えたも
のである。私のように父親がアメリカ人で母がうちなーんちゅという方は、ここ、
うちなーに5千人から1万人ほどいると言われている。その方々を呼ぶ呼称で現在広
く使われているのが「ハーフ」と言う言葉であろう。さらに「アメラジアン」とい
う呼び名も存在する。また「ダブル」という呼び方もある。その他にも過去には差
別的な呼称もあり、それらは人権団体などが、それを使用するメディアなどに使用
を控えるようにと訴えたことなどにより使われなくなった呼称も幾つか存在する。
現在メディアなどで良く見聞きするのは「ハーフ」という言葉が圧倒的で、「アメ
ラジアン」「ダブル」などという言葉は、一部の団体や個人が用いている用語だと
いう印象である。私はこれら「ハーフ」「アメラジアン」「ダブル」という呼称に
関しては自身のホームページでも説明しているので、時間のある方はhttp://fijab
yron.com/を参照願いたい。これらの語は私を表していないし、賛同はできないと
いうのが私の考えである。本当は、どんな呼称も用いず、比嘉光龍(ふぃじゃ ば
いろん)という個人名で私を呼んでもらいたいが、世間では必ず、「ハーフですか?」
「日本語お上手ですね」「日本滞在は長いのですか」という質問を受けてしまう。
これらの興味と偏見に対する答えを、ここ、うちなー、日本社会では用意してあげ
ないと、怒り出すものまでいるのでとても厄介なことである。「ハーフですか?」
と聞かれて「はい」と答えたら、十中八九「お父さんが外国人ですか?お母さんが
外国人ですか?英語教育は受けたのですか?」という、かなり個人的なことを聞か
れる。これが両親ともに仲が良く、英語と日本語の教育を受け、両方話せるのなら
ば、「私のお父さんはアメリカ人でお母さんが、うちなーんちゅです。英語も話せ
ますよ」とスムーズに答えることができる。だが、私に関しては「ハーフという言
葉は嫌いです。父はアメリカ人ですがまったく知らないし、実母には育てられてい
ません。英語も話せません」としか答えようがないのである。これが私の真実であ
り、あまり言いたくない個人情報なのである。こういう私の事情にあてはまる呼称
は現在のところまったくない。世間ではあいも変わらず「ハーフ」と呼ばれるのが
現状である
アメリカ系うちなーんちゅという言葉を考えたいきさつ
私は、ここ、うちなー、日本社会では「ハーフ」と呼ばれている。これは「半分」
という意味であり、NHKではこの言葉を使うのを自粛しているとディレクターの方
は話していた。そうである。「ハーフ」というのは「半分」という意味であり、こ
ういう呼称で私を呼ぶというのは失礼であり、差別的である。それならば何と呼べ
ば?というと、上で述べたように個人名で呼んでもらいたいとなるが、それでは世
特別研究員寄稿
vol.42
間が納得しないのである。そういうことを何年も、何十年も考えてきて、ようやく
納得のいく呼称を思いついた。それが「アメリカ系うちなーんちゅ」という言葉で
ある。これは、私の個人的な事情をうまく言い表せていると思う。つまり、私の父
は、まったく知らないのだがアメリカ人であり、その血を引いているというのは真
実である。そう考えると「アメリカ系」という言葉は私の風貌を言い表す言葉とし
て最適であろう(アメリカ社会はMelting pot と言われるように人種のるつぼであ
り、白人の風貌をしているからアメリカ人だというのは偏見であるが、日本社会で
は、白人はアメリカ人だという偏見があり、それにうまくあてはまるという皮肉も
込めている)。また「うちなーんちゅ」という言葉には説明はいらないだろう。私
は日本国籍を有する「うちなーんちゅ」という存在なのである。
左に写っているのは同じアメリカ系うちなーんちゅである
武田さん。会の主旨を私が読み上げているところ。
アメリカ系うちなーんちゅの会発足
これに賛同してくれる方が数名集まり、2013年2月に第一回「アメリカ系うちなー
んちゅ」の会の会合を宜野湾市の勤労青少年ホームにて開いた。この会合に何と、
同じ「アメリカ系うちなーんちゅ」で、国会議員でもある玉城デニーさんが駆けつ
けてくれた。同じ「アメリカ系うちなーんちゅ」の方が皆を驚かそうと思い、事前
に声をかけてくれていたのである。ゆくゆくは玉城デニーさんにも声をかけてこの
会に加わっていただけないものかと思っていたので、本当に心から嬉しく思った。
デニーさんとは何度かお会いして面識はあったが、この「アメリカ系うちなーんちゅ」
という呼称についてきちんと話しをしたことはなかった。そして、上に述べた「ハー
フ、アメラジアン、ダブル」、また過去に我々を呼称していた差別的な言葉など、
ここ、うちなー、日本社会では色々な呼称が存在するが、考えに考えた末に「アメ
リカ系うちなーんちゅ」という言葉を我々の呼称とし、この言葉を広め、また我々
特別研究員寄稿
vol.42
の真実を社会に広めたいということを私は最初に熱く語
り、「この呼称をデニーさ
んも賛同してくれたら嬉しいのですが」と締めた。そうしたら「この呼称に賛成」
とデニーさんにおっしゃっていただき、今後理事など、何かしらで加わっていきた
いとのありがたい言葉までいただいた。感激至極である。こうしてこの「アメリカ
系うちなーんちゅ」という呼称は国会議員の玉城デニーさんの賛同も得たので、今
後広まっていくことであろう。ようやく我々は自分たちで自分たちのことを、ここ、
うちなー、日本社会で主張していくきっかけを作ったのである。私を含め、同じ境
遇である「アメリカ系うちなーんちゅ」の方々は、日本がアメリカに戦争で負けて、
アメリカ軍が侵入してきた1945(昭和20)年以降に生まれたと言え、戦前、西洋人
とうちなーんちゅの間に生まれた方は私が調べた限りでは聞いたことがない。もし
かしたら数える程の方はいらっしゃったのかもしれないが、我々「アメリカ系うち
なーんちゅ」は圧倒的に戦後生まれが大多数である。そして今年は2013年で戦後68
年になる。実は私たち「アメリカ系うちなーんちゅ」が自らこういう会を発足させ
たというのは我々の歴史だと言える戦後68年間の中でこれが初めてであろう。過去
にこういう会があったということはまったく聞いたことがない。これは、すなわち
それだけ「アメリカ系うちなーんちゅ」たちの問題は見過ごされてきたとも言える
し、当事者が声をあげることができないほど過酷な現実があったからだともいえる
のである。今後、同じ境遇の方の加入は大歓迎なので、私宛[email protected]ま
でにメールをくだされば今後の会合の場所の案内をしたい。
特別研究員寄稿
vol.42
所感とお礼
國吉 まこも
沖縄大学地域研究所特別研究員
2011年、新崎盛暉先生からのお誘いで尖閣諸島について土曜教養講座でお話しさ
せて頂きました。そして須藤義人先生始め地域研究所の皆さんの好意に甘え、今日
迄居候している次第です。先ずは緒方修所長以下皆さんの御好意にお礼申し上げま
す。
さて、地域研究所と僕の縁は、僕が尖閣諸島を勉強している事に依ります。新崎
先生の呼びかけで始まった尖閣に関する講座は、2011年から2013年に都合4回行わ
れました。
宣伝を書きます。現在この講座を本にする作業が進んでいます。おそらく一般に
出ている尖閣に関する本に比べ、雑多な内容です。
新崎盛暉先生、上里賢一先生の現代と平和からの視点。西里喜行先生の歴史から
の視点。花井正光先生、長谷川博先生、水島邦夫先生のアホウドリ。上田不二夫先
生と僕の水産。岩下明裕先生と古川浩司先生の境界研究からの視点。
様々な立場の先生方がそれぞれのアプローチを提起している様な、していない様
な、とにかく雑多です。それぞれが尖閣諸島に近付こうとしている、という外は、
実際に読んで頂く以外ありません。沖縄の人たちがこれから尖閣問題に取り組む時
の記念碑的な仕事になればと願っています。
新崎先生は第480回の講座で「私たちがこのシリーズを手探りでやっているのは、
沖縄にとって尖閣は何かという事、これを国家の論理に巻き込まれないできちんと
考えていきたい。」と述べています。先生のこの意思表示は僕にとって妙なるもの
です。「尖閣諸島は一体、人々にとって何なのか?」これが尖閣を勉強する上で常
に僕につきまとうテーマです。
様々な立場の人々がいて、それぞれ相矛盾する内容を含み、語り尽くしきれない
ものがあると思いますが、国家という得体の知れない論理に巻き込まれない為には、
このテーマを標とする以外ないと思っています。
これからの尖閣の講座について所感を述べますと、矢張り台湾との関係について
知りたいと思う方が多い様に感じます。沖縄と台湾、立場は違えど日本と大陸に挟
まれた島です。今後台湾についての講座が開かれるべきでしょう。
もう一つ、戦後のこの地域は米国という巨大なプレゼンスの下にあります。この
米国が尖閣諸島をどう捉え、そして扱ったのか。現在迄の状況を見つめる上で、も
う少し詳しく考えても良い様に思います。この件に関する講座も有意義なものと思
われます。いずれにせよ、尖閣諸島について結論を求める前に、我々が知り得る事
は多いと思います。
先日、沖縄大学同窓会館で台湾の研究者を迎えた催しがありました。保釣運動に
ついての興味深い講演がありましたが、特に心に残ったのは演者の王氏が終わりの
挨拶で「我々の保釣運動は40年前に始められ、我々はその歴史を受け継いでいる。
40年前に戻りなさいと今言われても、それは出来ない事だとわかって欲しい。」と
特別研究員寄稿
vol.42
云う様な事がありました。
保釣連合の抗議活動と日本青年社の防衛運動が「領土問題」として、一つのか
けあい漫才の様に受け止められている事、これについてここで色々と言う必要は
ないでしょう。王氏の誠実な心情の吐露を受け止めておけば、僕が保釣運動を勉
強する際に、それほど迷う事はないと思っています。
尖閣については以上です。
お世話になった地域研究所の皆さんに改めてお礼を述べたいと思います。
緒方修先生。土曜教養講座並びに移動市民大学の開催ありがとうございます。
特に石垣島の皆さんにアホウドリの映像をご覧頂けた事は先生の手腕に尽きると
思います。ご出身の熊本県の人々について、今後も御教示頂ければと願っていま
す。
須藤義人先生。先生の一言でこの椅子と卓に居候している次第です。結局民俗
調査のお手伝いは全くしていませんね。すみません。先生が久高島に行く際は是
非同行して、沢山教えて頂きたいです。そしてこれからもよろしくお願いします。
名幸妙子さん。同じ島の出身というか、子供になりますね。僕には小さい頃の
思い出しかないですが、小さい思い出でも一緒にお話しできるのは楽しい事です。
紅型でも遊ばせてもらいました。色を触るのは楽しい事です。
後藤哲志さん。研究所業務のお手伝いもせず、だらだらと、色々と迷惑をかけ
ていると思いますが、居候させて頂きありがとうございます。
稲垣暁さん。いつも忙しそうですが、その辺でのほほんと座っていてすみませ
ん。地震津波の対策は大事なものです。がんばって下さい。
仲宗根礼子さん。フォーラムへの投稿ではお世話になりっぱなしですね。一回
り下の世代の僕にとって、仲宗根さんの思い出話は大変楽しいものでした。特に
団子の話は本当に楽しかった。山城さんが話について行けたのは不思議です。
寺井敦子さん。お元気でしょうか。もう少し土のお話を聞きたかったのですが、
寺井さんの事ですから元気に土いじりしている事と思います。
横山正見さん。どうしてもお坊さんの事も一緒に考えてしまいます。色々な事
に一緒に誘ってもらいありがとうございます。紅型では今の学生さんにも触れ合
え、世代間格差も経験できました。これからも色々お喋りしたいなと思っていま
すが。
新美喬之さん。上田先生の新美さんへの接し方を見ていて、ああ師弟愛だなあ
と思っています。東京に戻られてもこの師弟愛は続く事でしょう。沖縄に帰って
くる時は是非水産で頑張って下さい。
名城菜々子さん。英訳をしていただきました。あれは論文と言えるものではな
いかも知れませんが、僕が田代安定という人を好きになる為に必要なものでした。
尖閣の本についても手伝ってもらい本当に感謝しています。お昼御飯を食べなが
らのお喋りは本当に楽しかったです。
山城基乃さん。不思議と話が合う様で楽しかったですが、そんな山城さんも華
の大都会東京へ行くんですね。夢も希望も不安も全部抱えて上京する。他人事な
ので僕はそんな山城さんを想うだけで嬉しくなってくるのですが、僕が東京へ行
く機会があれば一緒にメルシー食べましょう。研究所で食べたお昼みたいに。
以上、所感とお礼です。この一年間本当にお世話になりました。
寄稿
vol.42
熊野と沖縄を結んだ日秀上人
根井 浄
元龍谷大学教授
和歌山県熊野の那智海岸から、はるか千百キロの太平洋の荒海を乗り越え、沖縄
本島東北部の太平洋に面する金武海岸に漂着した一僧があった。日秀上人である。
時は十六世紀初頭。彼は補陀落(ほだらく)渡海僧という。補陀落―耳慣れない言葉
である。補陀落とは南方海上にあると想像された観音菩薩の浄土をいう。補陀落世
界への往生、または真の観音参拝を目指し、船出した多くの人々があった。
観音浄土へ向かって出帆する行為を補陀落渡海と呼ぶ。観音に対する実践的な信
仰表出といえる。日本宗教史上の希有な現象であり、平安時代から明治まで断続的
に、あるいは集中的に行われた。その最大の母港が熊野那智の海岸であった。
日秀が乗った渡海船は、船底に穴がくりぬかれていた。栓を抜けば海水が入り沈
没する。だが船底の穴に密着して海水浸入を塞いだのは鮑だった。奇跡を呼んだ鮑
が現存する。この説話・縁起は那智滝壷に棲んでいた鮑の滝水延命信仰を借用した
ものであろう(『源平盛衰記』)。熊野と沖縄を結びつける話であり、日秀は琉球
に熊野信仰を持ち込んだ。
金武に漂着した日秀は脱水状態だった。しかし、彼は当地が観音浄土だと思った。
『金峰山補陀落院観音寺縁起』(『琉球国由来記』)には、金武の海岸を「北方に向
へば、蓬莱(ほうらい)に似たり、富登(ぶーと)嶽有り、…前に大湖有り、池原(い
ちばる)と名づく」と表記し、『華厳経』などが説く補陀落世界との類似的景観を
記述している。日秀はさっそく観音堂を建てた。現今の金武町観音寺である。
日秀は謎の人物である。一説に彼は加賀国の出自というが、上野国が正しい。大
明嘉靖二十三年(一五四四)那覇波上山護国寺・波之上宮に安置した熊野三所権現
の本地仏銘には「日本上野国住侶渡海行者」と宣言している。また日秀が漂着した
以降は豊作であったといい、民謡「神人来る、富蔵の水清し、神人遊ぶ、白砂、米
に化す」と唄われた。よって金武海岸は富(ふ)花(っか)(福花)とも呼ばれた。今
の億首(おくくび)川(がわ)の河口である。
日秀の活動は島民に響き渡り、やがて彼の名声は国王・中山王の耳元に届いた。
国王は日秀を那覇に招聘、参内を許し、沖寺(臨海寺)、波上権現社を拠点とした
本格的な日秀の寺社再興活動が始まることになる。
日秀上人の縁起には数本ある。『開山日秀上人行状記』(東大史料編纂所蔵『神
社調』)は古態性をもっている。だが日秀渡海の出帆地が熊野那智であるとは語ら
ない。唯一、那智出帆説を記すのは『慶長見聞録案紙』であり、それを引用した国
学者・伴信友の『中外経緯伝草稿』のみである。熊野と琉球を結ぶルートが明るみ
に出るようになった。
琉球での日秀の活動は多岐にわたり、各地に遺跡、記録、伝承がある。なかでも
寄稿
vol.42
妖怪退治のため「金剛経」を小石に写し山中に埋めたという。『球陽』に「碑石に
金剛嶺三字有り」、『琉球国旧記』にも「経塚…碑石に大書の金剛嶺三字有り」と
ある。これが浦添市に現存する六段石組みの経塚塔である。
補陀落渡海僧・日秀は琉球を離れ、薩摩国に渡った。多くの日秀上人縁起は、彼
の琉球滞在期間を三年とする。しかし、文献、遺跡銘を総合的に検証すると、三年
滞在説と合致しない。縁起が説く三年間とは、那覇波上権現社滞在期間であり、琉
球における全ての滞在年数ではない、と私は考えている。
日秀が薩摩国に上陸した最初の場所は坊津である。やがて彼は島津氏の庇護を受
け祈祷僧となり、大隅正八幡宮(鹿児島神宮)を復興する。そして、山陵に三光院
(現・日秀神社)を建立し、天正五年(一五七七)入定し続けていた石室内で没し
た。
「三光院」とは那覇波上権現社の別称である。また三光院への参道を古老たちは
「通堂(とんどう)」
と伝える。通堂とはまた、那覇埠頭の地名でもあった。日秀が終焉を迎えた霧島市
隼人町三光院周辺は、実に那覇そのものの景観であった。日秀上人の生涯には、熊
野那智から補陀落渡海した琉球体験が根底に貫通していたのである。
護国寺(那覇市若狭)の阿弥陀仏
撮影:緒方修 2012年2月
寄稿
vol.42
【日秀上人作仏像一覧】
仏 像 名
安 置 ・ 場 所
備
考
阿弥陀如来像
沖縄金武
観音寺
薬師如来像
沖縄金武
観音寺
正観音菩薩像
沖縄金武
観音寺
地蔵菩薩像
沖縄那覇 西村・東村地蔵堂
大明嘉靖18年(1539)
地蔵菩薩像
沖縄那覇湧田
地蔵堂
六道地蔵木像
地蔵菩薩像
沖縄那覇若狭
地蔵堂
不詳
阿弥陀如来像
沖縄那覇
波上権現護国寺
大明嘉靖23年(1544)
薬師如来像
沖縄那覇
波上権現護国寺
大明嘉靖23年(1544)
観音菩薩像
沖縄那覇
波上権現護国寺
大明嘉靖23年(1544)
阿弥陀如来像
沖縄那覇
西照寺
石像
千手観音像
鹿児島隼人
正護寺密常院
天文20年(1511)
阿@如来像
鹿児島坊津
一乗院
天文24年(1555)
宝生如来像
鹿児島坊津
一乗院
天文24年(1555)
大日如来像
鹿児島坊津
一乗院
天文24年(1555)
阿弥陀如来像
鹿児島坊津
一乗院
天文24年(1555)
釈迦如来像
鹿児島坊津
一乗院
天文24年(1555)
千手観音像
鹿児島上市
行屋観音堂
阿彌陀如来像
鹿児島稲荷
大乗院塔頭西寿院
立像
聖観音菩薩像
鹿児島稲荷
大乗院塔頭西寿院
立像
勢至観音菩薩像
鹿児島稲荷
大乗院塔頭西寿院
立像
薬師如来像
鹿児島西田
薬王寺
木像
日光菩薩像
鹿児島西田
薬王寺
木像
寄稿
vol.42
月光菩薩像
鹿児島西田
薬王寺
木像
虚空蔵菩薩像
鹿児島西田
柿本寺
木像
準提観音像
鹿児島隼人
正高寺
坐像
千手観音菩薩像
鹿児島国分
金剛寺
3寸5分
馬頭観音菩薩像
鹿児島国分
観音寺
1尺2寸、栢製
阿弥陀如来像
鹿児島加治木
能仁寺
木坐像、2尺
釈迦如来像
鹿児島加治木
高倉八幡宮
天正2年(1574)
阿弥陀如来像
鹿児島加治木
高倉八幡宮
天正2年(1574)
鹿児島加治木
高倉八幡宮
天正2年(1574)
薬師如来像
鹿児島隼人町
三光院
本尊、座像、1尺2寸
地蔵菩薩像
鹿児島隼人町
三光院
木座像、1尺
不動明王像
鹿児島隼人町
三光院
木座像、6寸
虚空蔵菩薩像
鹿児島隼人町
三光院
木座像、5寸
金剛界五仏
鹿児島隼人町
三光院
五佛五躰、木座像
歓喜天銅像
鹿児島隼人町
三光院
銅像、立像
三十三観音石像
鹿児島隼人町
三光院
石像、30体
聖観音菩薩像
地 域共創センター
■離島研究・実践促進プロジェクト
報告 2013.2
最終報告会
実施報告
2013年2月8日(金)離島研究・実践促進プロジェクトの最終報告会が同窓会
館で実施されました。本プロジェクトは生まれ島を研究したいという離島出身
の学生や離島のことを勉強してみたいという学生を対象に、離島(沖縄県内・
奄美含む琉球弧)をフィールドとした研究を支援するプロジェクトです。今年
度は4名の学生が参加しました。昨年の6月に第1次審査が開催され、昨年11月の
中間報告会(第2次審査)を経て、今回の最終報告会(最終審査)が開催されま
した。学長をはじめとする審査員の先生方を前に堂々と研究成果を報告する学
生の姿が印象的でした。本プロジェクトでは優秀な研究成果を修めた学生には
各種奨学金を授与しており、今回はそれぞれの研究成果が高く評価されて、以
下のように奨学金が授与されました。
【学長賞】人文学部 国際コミュニケーション学科3年 小湾喜代志
研究テーマ:∼大学生が行う離島の中学生へのじりつ(自立・自律)支援∼
学生団体 学生+の離島語り愛活動から粟国企画についての実践報告
【副学長賞】人文学部 こども文化学科4年 普天間基さん
研究テーマ:離島の自然から学ぶこと
∼石垣(白保)の地域の関わり方を、どう都市部(那覇市)におとせるか∼
【地域研究所所長賞】人文学部 こども文化学科4年 鉢嶺元太さん
研究テーマ:地域に根ざした環境教育の実践づくり
∼石垣島・白保においてのサンゴ礁を学ぶ授業づくり∼
【同窓会長賞】人文学部 こども文化学科4年 高里寿佳
研究テーマ:離島の学力と身体能力についての考察(宮古島市)
共創セン ター 1302_2
【学長賞】
大学生が行う離島の中学生へのじりつ(自立・自律)支援
∼学生団体 学生+の離島語り愛活動から粟国企画についての報告∼
人文学部国際コミュ二ケーション学科3年次
小湾 喜代志
ねらい:「15の春」という言葉をご存知だろうか。高校の無い島の子どもたち
が15歳で高校進学のために、生まれ島を巣立つことだ。沖縄県には、39の指定
有人島がある。うち25島は中学校までしかなく、高校進学のため「仕方なく」
島を旅立つ。15歳で親元を離れる彼らの一部は、学業と生活の両立に戸惑い、
親の目の無い生活に自分をコントロールできなくなる。非行や深夜徘徊、最終
的には自主退学を選択する生徒も少なくない。自主退学を選んだ彼らの多くは
島に戻る(Uターン)。しかし、生まれ時までの生きがいを見いだせず、また本島
に戻る(Oターン)。そうなった若者は、本島に腰を下ろす。生まれ島には、戻ら
ない傾向にある。そこから、人口流出に繋がると考える。そこで、大学生と中
学生の交流を通して、島に誇りを持ち、目的意識の向上を図る。
研究方法:粟国島において、中学生と大学生が「島を出ること」について語り
合う場を提供する。6月・9月・12月の3回企画を行う。対象学年は1∼3年生。
企画内容:プレゼンのムービーを参照下さい。
結果:企画1ヶ月前の企画実施後のアンケートより
普段、島を出ることについて
考えるのはどのくらい考えて
いるか。
島を出ることについて考える
のはどのくらい必要か。
共創セン ター 1302_3
語り合いの様子(1回目∼3回目)
PTA・教師・地域住民との交流
長浜ビーチでのクリーン活動
共創セン ター 1302_4
2012年10月14日 琉球新報
メディア掲載
2012年7月14日
琉球新報
2012年12月22日 琉球新報
2012年11月14日
うちなー地域づくり大賞 奨励賞
共創セン ター 1302_5
【副学長賞】
「離島の子たちのコミュニケーション能力
∼石垣島白保と本島の子の比較から見えてくるもの∼」
人文学部こども文化学科4年次
普天間 基
【研究の目的・動機】
近年、子供たちのコミュニケーション能力が低下しているとよく耳にする。
ししかし、それは本当のことなのか、そもそもなぜコミュニケーション能力が
低下しているとされているのか、どのようにコミュニケーション能力が低いと
わかるのか。そして本当にコミュニケーション能力が低い場合、どうすれば改
善出来るのか。ということが、実際に子どもたちと触れ合う中で、急速に大き
な疑問として私の中で生まれることとなった。
【結果から】
ベネッセの教育情報サイトから、73.5パーセントの大人がコミュニケーショ
ン能力が低下していると答えている。そこから、最近の小学生はコミュニケー
ション能力が下がっていると断定はできないが、大人たちは子どもたちに何ら
かの問題を感じているようだ。
那覇、浦添の小学校教諭に取ったアンケートから、共通してでていた、コミュ
ニケーション能力が低下しているとする理由は、「あいさつが出来ない」だっ
た。これらのことから、子どもがコミュニケーション能力が低下しているとさ
れている原因は、あいさつが出来ていない。ということが大きいのかもしれな
い。そこから、大人がも子どもに求める、コミュニケーション能力向上の第一
歩は、「あいさつが出来る」ということなのではないかと推測できる。
地域を地域で、守ろうとしないことが地域間の関係が希薄化していき、コミュ
ニケーション能力の低下につながるのではないか。そこで、白保のような「少
人数」では、知らない人という認識が低く、村落内のだいたいの人が顔見知り
であるから、コミュニケーションをとることが容易であると推測できる。実際、
白保では世間で騒がれるような大きないじめは見受けられないそうだ。それは、
少人数では否応なしに他の子を誘ったり、付き合ったりしなければ、遊ぶこと
が出来ないのである。
【今後の展望】
今回の研究で一番のカギとなったのが、「少人数」であった。住んでいる集
落が少人数だからこそ、隣近所との関係を築くことが必然的となりうる。それ
が地域活性にもつながり、こどもたちも遊びを通じて仲良くなることによって、
いじめが減少することにもつながるだろう。そして、小さい頃から「誘わざる
をえない。否応なしにつきあわざるをえない。」という遊び方をしているうち
に、無意識にコミュニケーション能力といわれるもの、社会性が養われていく
のではないだろうか。
教育的視点では、小学校のクラスにおける人数の制限を見直していくこと、
そして、社会に出るとコミュニケーション能力、社会性などといったことが重
要視されるいま、「少人数」というキーワードは、社会性、多様な価値観を見
直していく新しい手だと考える。
共創セン ター 1302_6
【地域研究所所長賞】
地域に根ざした環境教育の実践づくり
∼石垣島・白保においてのサンゴ礁を学ぶ授業づくり∼
人文学部こども文化学科4年
鉢嶺 元太
【研究の目的・動機】
私は大学3年の時に白保さんご村のこどもキャンプで授業を行う機会があった。
その際、日頃からサンゴ礁に親しんでいる地元の子ども達でも、実はサンゴの
ことで知らないことがあった。このことから、地域に根ざした環境教育の授業
づくりには、まだまだ考える余地があると思い、「地域に根ざした環境教育の
実践づくり∼石垣島・白保においてのサンゴ礁を学ぶ授業づくり∼」を設定し、
石垣のしらほサンゴ村を訪れ、このプロジェクトに取り組んだ。
【研究方法、地域、期間】
石垣島白保のしらほさんご村を5回訪れ、現地でフィールドワークを行った。
回数
期 日
主な活動内容
1
平成24年
7月15日(日)∼16日(月)
・ウミガメの授業を行う
・シュノーケリング
2
平成24年
8月4日(土)∼10日(金)
・アンパル学習(雨天のため中止)
・シュノーケリングの安全管理
・赤土対策の月桃植え
・赤土調査
・カヌー体験
3
平成24年
10月6日(土)∼8日(月)
・白保中学校と戸倉中学校(宮城県)の交流会に
参加し、アイスブレイクを行う
・シュノーケリング
4
平成24年
11月7日(水)∼14日(水)
・赤土調査
・アンパル学習
・サンゴ水槽のレクチャーを受ける
・ワタンジ学習で砂の授業を行う
【考察・分析】
これまでのフィールドワークで行ってきた環境教育から、環境に関心を持っ
てもらうためには、日常生活のなかであたり前のようにあるものに意外性があ
ることに気づかせることだと私は感じた。なぜなら、これまで私が行ってきた
環境教育は、ウミガメの餌である海綿、海岸の砂、人間や動物の糞などに意外
共創セン ター 1302_7
性を持たせた内容であったが、これらはどれも白保に住む子どもたちにとって
は、生まれた時からあるあたり前のものを利用した内容だったからだ。事実、
最後のフィールドワークで子どもたちに一年間の感想を書いてもらったところ、
「ウミガメの気持ちになり、海綿を自分で探して食べてみたら美味しかった。
(白保小6年・Kさん)」「今まで関心が無かったけど、授業を受けて興味がわい
てきた。(白保中1年・Mさん)」「授業のなかで意外な物やキャラクターとの結
びつきが面白かった。(白保中1年・Hさん)」という声があり、授業で学んだこ
とに興味を持ったり、自ら動物の気持ちになってみたりしている子がいること
が分かる。だから私は、環境教育には、ただ単に地球環境を教えるのではなく、
あたり前のものに意外性を持たせることが重要であり、そのことによって普段
気にかけないものにも関心を持つようになるのではないだろうかと考える。
また、今回のテーマとして、サンゴを学ぶ授業づくりとあるので、最後のフィー
ルドワークで行った授業に改良を加え、授業展開(45分)を考えてみた。
学習活動→黒字
予想される反応→青字
指導上の注意点→赤字
導入5分
Q.好きな食べ物は?→肉。イチゴなど
Q.食べ物は食べたらどうなる?→消化される。栄養になる。ウンコになるなど
<動物の糞の写真や実物を見せ、何の動物の糞かを当てる。(3種類程度)>
→導入なので、あまり時間をかけない。動物園にいるような動物の糞が良い。
展開35分
<現在、人間の糞の処理がどのようにして行われているのかを説明する。>
Q.昔の沖縄は、どのようにして処理していた?→海に流す。埋める。
<畑で肥料として活用する方法と豚便所(ワーフール)で豚の餌になる方法の説
明をする。>→豚便所を簡単な絵にして描くと伝わりやすい。
<しかし、豚便所は沖縄独特の方法なので…>
Q.本土ではどうしていたと思う?→海に流す。埋める。
→沖縄と本土の違いに気づかせる。畑で肥料として利用する方法は同じ。
<本土では海に流して処理していた方法を説明する。>
共創セン ター 1302_8
<沖縄では本土のように糞を海に流すことができない理由を説明する。>
→海が濁ってしまうと生きられない生き物(サンゴ)に気づかせる。
Q.海を汚すのは糞だけ?→赤土。ごみ。肥料など
<沖縄と本土の海の生態の違いについて説明する。>→サンゴの成長方法とプ
ランクトンの話しを中心とする。
Q.プランクトンって知っている?→知らない。動物性プランクトン。植物性プ
ランクトンなど→チリモンジャコがプランクトンであることを明かす。
<チリモンジャコを観察する。>→例として、いくつか写真や絵を用意してお
く
まとめ5分
Q.サンゴの敵は?→オニヒトデ。ブダイ。人間など
<オニヒトデも小さい時はプランクトンであり、それをサンゴは食べるという
説明をする。>→この時、なぜサンゴに食べられるオニヒトデが近年、急増し
ているのかを畑の肥料を原因にあげ、説明する。
まとめ:陸では栄養になっているものが、海(サンゴ)にとってそうではない。
陸と海は別物ではなく、繋がっているから、サンゴを守るためには、海を奇麗
にするだけでなく、陸の環境のことも考えなくてはならない。
共創セン ター 1302_9
【同窓会長賞】
離島のスポーツ活動と地域性に関する考察(伊良部島)
人文学部こども文化学科4年
高里 寿佳
研究の動機・目的
前回、前々回の離島研究・実践促進プロジェクトにおいて、主に「教育」につ
いて考察してきた。その中で、宮古島市では地域性を活かした素晴らしい取り
組みが行われているということに改めて島出身者としての誇りを持った。
しかし、どんなに素晴らしい取り組みが行われていても、教育面で言えば、数
字で見る結果は、沖縄県全体の課題でもあるが、「学力が低い」となっている。
だが、離島の子どもたちの能力は本島の子どもたちに負けない程だということ
や、離島ハンディを抱えながらも素晴らしい成果を出し、活躍している子ども
たちがたくさんいること等を考えれば、学力が低いことだけを問題視するのは
少し違うのではないかと考え、本調査・研究に至った。
本テーマについて研究する目的としては、故郷・伊良部島をはじめ、宮古島市
全体におけるスポーツ活動の向上に役立てたいと考えている。
動機としては、よく耳にする「離島の子は身体能力が高い」に対して、なぜ
なのかを知りたいと思ったことや、離島ハンディを抱えながらも大舞台で活躍
する選手や団体の強さの秘密は何なのかを探りたいと思ったことがきっかけだ。
研究方法、地域、期間
【研究方法】インターネット、本などの文献、聞き取り調査、各種データ分析
【調査対象地域】宮古島・伊良部島
【調査・研究期間】
①9月1日∼9月30日 ②10月26日∼11月8日 ③11月22日∼11月26日
④1月5日∼1月12日
参考文献、調査協力
・「島へ。」平成21年9月1日発行(奇数月1日発売)第9巻第5号通巻第49号
【発売】株式会社萠堂【制作】株式会社海風舎 p.22∼25
・佐良浜小学校バレーボールクラブ監督 友利さん、選手の皆様
・伊良部島出身のバレーボール部OBの皆様
・伊良部高校バレーボール副顧問 山内先生
・佐良浜学区青年会長 仲地さん
・佐良浜学区体育協会関係者の皆様
・宮古島市体育協会関係者の皆様
・佐良浜小学校の陸上指導に携わっている譜久村さん
・伊良部島での学校勤務経験のある先生方(佐良浜小学校・西城小学校の先生
方)
共創セン ター 1302_10
■ジュニア研究支援発表会 実施報告
今年も、去る2月23日(土)に2012年度第11回沖縄大学地域研究所ジュニア研
究支援発表会が開催されました。本発表会は公益財団法人緑の地球防衛基金の
助成を受け、沖縄大学地域研究所が南西諸島・琉球弧の小学生、中学生、高校
生によって構成される共同研究グループへ研究助成費を支援し、研究最終結果
を発表する場を提供するものです。今年は小学生4グループ、高校生6グループ
の10グループが発表を行いました。発表グループは北は奄美から南は石垣島ま
で広範囲に渡ります。今年は博士の姿に仮装したり、紙芝居を利用したり、唄
や踊りを入れるなど発表の仕方にも工夫が見られ、約1年間かけて研究した成果
を緊張しながらも真剣に伝える子どもたちの姿が印象的でした。発表会第2部で
は奄美大島より永江直志さん(奄美自然学校代表)、石垣島より赤嶺真さん
(白保魚湧く海保全協議会事務局長)のお二方をゲストにお招きして子ども達
参加型のワークショップを開催しました。
それぞれ地元で環境保護に携わっている
経験の紹介を織り交ぜながら子どもたち
と将来の夢を語り合うなど活発な意見交
換がなされました。
<プログラム>
【第1部:ジュニア研究発表(小学生の部)】
①龍郷町立大勝小学校 アマミノクロウ
サギ班
「どうすればアマミノクロウサギを守る
ことができるだろうか」
②龍郷町立大勝小学校
「奄美大島のクワガタを守るにはどうす
ればよいだろうか」
③大宜味村立喜如嘉小学校 リュウキュ
ウヨシゴイ追っかけ隊
「喜如嘉ターブクの野鳥観察 パート5 ―身近な自然を考える―」
④石垣市立 白保小学校
「魚湧く白保の海とサンゴを調べ、守ろう」
共創セン ター 1302_11
【第1部:ジュニア研究発表:(高校生の部)】
①沖縄県立開邦高等学校 Team KOKABU
「オキナワコカブトを用いた甲虫類の生活環のモデル化について」
②沖縄県立辺土名高等学校 環境科 サイエンス部 河川班
「奥間川・比地川水系における水生生物調査Ⅴ ∼グマガトビケラの生活史に
ついて∼」
③沖縄県立宮古高等学校
「宮古島の固有種ミヤコマドボタルの分布と生態に関する調査」
④沖縄県立伊良部高等学校 自然クラブ
「伊良部島におけるオキナワキリギリスの分布調査」
⑤沖縄県立八重山高等学校 生物部
「石垣島におけるヤシガニの研究Ⅴ ∼保護条例制定をめざしてPart2∼」
⑥沖縄県立八重山商工高等学校 生物部
「アンパルに生息するシレナシジミ研究Ⅴ∼幼生の生態と分散の解明とノコギリガザミとの
共進化について∼」
【第2部 ワークショップ「伝えたい、シマをつなぐ心」】
講師:赤嶺真さん(白保魚湧く海保全協議会)
永江直志さん(奄美自然学校)
司会:鉢嶺元太さん(子ども文化学科4年)
普天間基さん(子ども文化学科4年)
趣旨: シマで育った若者がシマの自然を大切にした地域づくりに取り組んでい
る白保と奄美の事例を紹介。シマの豊かな自然・貴重な自然を大切にしてこそ
地域の文化が成り立ち、そうした文化を大切にした地域づくりを生業にしてい
る想いを子どもたちに語る。子どもたちの想いや疑問質問にもたっぷり応えて
いく。
共創セン ター 1302_12
■社会教養セミナー
【日時】2013年2月28日(木)18:30∼20:30
【場所】沖縄大学 本館 同窓会館
【講師】新城将孝氏(法経学科教授)
加藤彰彦氏(こども文化学科教授 学長)
【司会】横山正見氏(地域研究所)
【参加人数】117名 (同窓生後援会21名 教職員22名
一般59名)
学生13名 父母2名
●加藤先生のお話に教員としてやっていく勇気をもらいました。本当にありが
とうございました。(女性 教職員)
●加藤先生の本気の想いと沖縄への優しさも感じられ、私も一緒に頑張ってい
こうと思いました。
「君たちは沖大に来てよかった!君たちは最高の大学に来たよ!」なんて素晴
らしい言葉だろう。胸が熱くなりました。私は沖国卒業生ですが、沖大出身の
友達も多くいます。加藤学長のいる沖大は素晴らしい大学だと感じました。今
日は本当にありがとうございました。(女性 一般)
●「人間とは何かを考えるとき、子どもを見ればすぐ分かる」という言葉にハッ
とした。大人は知らぬ間に無意識のうちに何か見えないものをなくしていると
感じた。今の私に何が出来るのか、すごく考えさせられた。先生の言う「地域
社会のキーパーソン」になりたいと思った。(女性 沖大生)
●沖縄大学は地域の宝だと今日改めて深い感銘を受けました。私に何が、これ
からできますかネ!頑張りたいです。学生寮を作ることgoodです。大切です。
(男性 一般)
●沖大を卒業して6年、久しぶりに加藤先生、新城先生の講話を聞けてよかっ
た。特に加藤先生とはゼミでお世話になり、楽しい大学時代のことをひとつひ
とつ思い出しました。こんなにも沖縄の子どもを愛してくれる人がいることに
感謝いたします。沖大バンザイです。(男性 同窓生)
●久しぶりに母校に来ました。新しい校舎も素晴らしい。学生時代にタイムス
リップできたことが又、嬉しかったです。貴重な講座に出席できたことを深く
感謝致します。社会教養セミナーをまた受講したいです。(男性 同窓生)
●初めて沖大教養セミナーに参加させていただきました。これまで参加できず
に残念、これからはぜひ参加したいと思いました。お二人の先生のお話、とて
も勉強になり、心動かされました。ありがとうございました。(男性 一般)
共創セン ター 1302_13
●全8回の取り組みに感謝しております。
トートーメー問題はデリケートであり、相続がからむと解決が難しい。民法
の事例を多く取り入れて聞きたい。戦争が身近な問題になっている。教育を通
して道徳の問題など、国策としてナショナリズムを鼓舞している。政治家、マ
スコミがかつてない勢いで煽り、身に迫っているように感じる。それぞれの立
場で主張することが力になる。(男性 同窓生)
●加藤先生、今日でこども文化を卒業なんですね。少しの時間でも、みなさん
とこの授業に立ち会えたこと、嬉しかったです。ありがとうございました。
(女性 沖大生)
●・新城先生の講座について
トートーメー問題を民法の視点から考える機会は初めてでした。
・加藤先生の講座について
「権力」の考え方、こどもの持つ力など、すべてのお話に感銘を受け、涙が溢
れました。実質最終講義である今日のセミナーを受講できて嬉しかったです。
先生方、準備をしてくださった方々、ありがとうございました。(女性 教職
員)
●・新城先生の講座について
沖縄社会が抱える問題を示していただき、自分の周りのことと置き換えて考え
ました。
・加藤先生の講座について
本当にここに来られて良かった、と幸せに思います。キーパーソンである自
分になりたいです。この機会を作ってくださった皆様に感謝です。ありがとう
ございました。(女性 父母)
●・新城先生の講座について
少子社会・無縁社会の中で今後ますます課題になると思います。
・加藤先生の講座について
たくさんのパワーをいただきました。まだまだたくさん話して頂きたいし、こ
れからも一緒にやっていきたいと感じております。(男性 同窓生)
●・新城先生の講座について
興味深いが時間が足りない。果たして民法はトートーメー問題を解決する手
立てになるのだろうか。
・加藤先生の講座について
ライフヒストリーが多様ですごい。これだけの実体験が教育に活きているの
だろう。共に成長することが子どもへの教育であろう。先生の話には共感でき
るものが多い。(男性 後援会)
共創セン ター 1302_14
●・新城先生の講座について
無意識のうちに個人的なことと思っていたが、社会が作り出していることに
気付くことができた。
・加藤先生の講座について
加藤先生の生き方こそ人生のモデルであると感じました。人に勇気と力を与
えることができるかけがえのない方だと実感しました。ありがとうございまし
た。(男性 教職員)
●お二人の素晴らしい講話をありがとうございました。
加藤先生のご意見を教えて下さい。スーパーでの出来事です。幼児と若い両親
が買い物をしておりましたが、幼児はアザだらけで、一見して虐待と判断され
ました。しかし、私にはどうすることもできず幼児に「可愛いね」と声をかけ
ることしかできませんでした。それを聞いても子どもは虚ろげで淋しげな表情
しかなく後ろ髪を引かれる思いで立ち去ることしかできませんでした。そうい
う時はどのような行動をとるべきなのでしょうか。先日警官に相談したが「通
りがかりなのでしょうがない」というこたえしか返ってきませんでした。
どうすれば助けられたのでしょうか、ぜひ教えてください。
加藤先生のお話を初めて拝聴し、感動いたしました。子供たちは全員が天使で
あり、夢ですね。(男性 一般)
●東京の大学出身のため興味深く聞かせていただきました。沖縄の独自の文化
は財産であるとともに障害でもあると思いまいた。トートーメーにおけるジェ
ンダー平等化の必要性、離島の教育格差。この障害が子どもたちの将来を狭め
てはならないと強く感じました。(男性 一般)
●・新城先生の講座について
改めて長男の嫁として自覚致しました。沖縄の核家族問題、今一度勉強した
いと思いました。
・加藤先生の講座について
沖縄のために力尽くして下さる学長にとても感謝しております。
一言で申しますと、ただ感謝、の一言です。(女性 同窓生)
●内地出身で沖縄に来て5ヶ月のため新城先生の講話は難しかったが、興味深
く聴かせて頂いた。沖縄独自の祭祀に興味がわいてきた。身近な沖縄や地域に
ついて知るとても良い機会だった。
加藤先生の講話を拝聴し沖縄で何ができるか真剣に考えたいと思った。自分
の役割が何であるか、どのようにネットワークを築いていくか等、課題は多い
が見つめていきたい(女性 教職員)
共創セン ター 1302_15
●・新城先生の講座
沖縄の最大のテーマ「トートーメー」について民法の視点で考えるきっかけ
になりました。
・加藤先生の講座
今回も非常に感動的でした。次世代を担う子ども達、人類の宝である。子ど
もへの情熱は私たち一人ひとりが心したいです。どうもありがとうございまし
た。(女性 一般)
●・新城先生の講座
トートーメーのことを聞きたくて受講しましたが、民法が入ったため私にとっ
て難しかったです。
・加藤先生の講座
心のあるお話で大変良かったです。子どもたちとのふれあい、実践教育。本
土から沖縄にいらしゃって、なかなかできないことを沖縄の人に真実の教育を
して下さりありがとうございます。
本当に受講できてよかったです。また受講したいと思います。(女性 一般)
●新城先生の講義パート2をお願いします。「法と慣習」についてディベート。
加藤先生の講義は年2回程度でも開催して欲しい。学生寮設立賛成!!募金OK!!
(女性 教職員)
●リーダーでなく地域のキーパーソンという言葉に沖大卒業生としてしっかり
と心に響きました。何よりも「主体」をもって生きる大切さに気づかされまし
た。ありがとうございます。(同窓生)
●10年ぶりに加藤先生の授業を受けました。講話にあったように「権力」とい
う言葉に衝撃を受けました。「権力」の使い方を間違えれば「戦争」が起きて
しまう。私の平和の考え方は「福祉の心」を持つことです。それが世界を平和
にする一番早い方法だと思っています。なぜなら福祉の仕事は世界共通だから
です。現在老人介護の仕事と講師をしております。(男性 同窓生)
共創セン ター 1302_16
●加藤先生の最後の講義を聞かせていただきました。「子ども」「教育」が加
藤先生の原点であり、全国放浪したり、様々な仕事をしても結局は「子ども」
「教育」に戻ってきたのですね。一本芯が通った理念があるからこそだと思い
ます。
講話も実体験を混じえながら楽しく分かりやすく、胸に訴えるものでした。
加藤先生の「芯」に触れることができ、とても良かったです。(男性 一般)
●トートーメー問題を民法と慣習を比較列挙しながらの講話、頭の中ではよく
分かりました。
学力は目に見える学力、目に見えない学力、一本の樹木に例えたお話がわかり
やすかった。今後もセミナーを続けて頂きたいと思います。(男性 同窓生)
●新城さんにいくつか質問したいことがあった。「承継」と「継承」の意の違
いの説明が欲しかった。大変興味のあるテーマなので今後もチャンスが欲しい。
加藤さんの書いた作品を読みたくなった。(男性 同窓生)
●新城先生の講座は沖縄の原点を考えさせられる時間でした。
加藤先生の講座は子ども、大人、生きる、生きる原点、貴重な時間でした。あ
と1時間でも2時間でも聞きたい。先生ありがとうございました。沖縄大学が
変われば沖縄が変わる。(男性 同窓生)
●10年ぶりに加藤先生の話を聞くことができ、非常に満足しています。加藤ワー
ルドに酔いしれています、ありがとうございました。(男性 同窓生)
●新聞を見て参加しました。トートーメー、学長の考え方に関心がありました。
生きることを大切に、心を育てていきたいです。(女性 一般)
●トートーメーについて、法律からみるとなぜ女性に継がせないのか疑問でし
た。慣習からは難しいのでしょうね。
人間関係をきちんと作れる教師が少なくなっているように感じます。子ども
のSOSに反応し手を差し伸べる世の中にしていきたいと思います。(女性 一般)
●加藤先生の子どもへの愛が伝わってきた。○○は素晴らしい!大丈夫!そう
いう言葉を子どもは待っているのかもしれないと感じた。先月ドイツで子ども
について研究したのですが、ドイツはいつでも何を考えるときも「子どもが主
体」であった。私たちは子どもが安心してのびのびと成長できる環境をつくら
ないといけない。子どもから学んでいるのかもしれない。(女性 一般)
●子育てに関わるNPOです。これまで、いろいろお世話になりました。これから
もよろしくお願いします。私たちも少しずつ前へ進みたいです。(女性 一般)
共創セン ター 1302_17
●加藤学長のお話はひたすら感動モノで、子どもたちの可能性、学生たちの可
能性、教育の重要性を改めて認識させられました。
●名桜大学に通う大学生です。「子どもは社会の活力の源である」という言葉
は心に深く突き刺さりました。子どもを見守り支えていけるような人間になり
たいです。(男性 他大学生)
●琉球大学でこの貼紙を見て参加しました。もっと早くこのセミナーを知って
おけば良かった。来年度もこのような機会を設けて下さればまた参加します。
琉球大学にもバンバン貼紙を送ってください。(男性 他大学生)
●改めて、子どものエネルギーを認識しました。私に出来ることは何かを問い
直したいです。ありがとうございました。初参加でしたが、これからも社会教
養セミナーに参加したいです。(女性 一般)
●ありがとうございます。これからも子ども・若者たちのため一緒に頑張りま
しょう。現場で私も毎日学ばせてもらっています。私も子どもの延長線上で、
まだ夢を追いかけております。子どもは大人の原点だし、私たちの出発点であ
ります。しかし、大人はごまかして、体裁を気にします。子どもといると原点
の戻り、ホッとします。先生と一緒に沖縄の子どもたちの困難を取り除いてい
けるよう頑張りたいです。健康に留意されて頑張ってください。(女性 一般)
●学生時代から20年ぶりに加藤先生のお話を聞き、生き様と沖縄への強い思い
を感じ、エネルギーを頂きました。もう少しじっくり聞きたかったという思い
はありますが、貴重な時間を過ごせました。ありがとうございました。(女性
一般)
●学力を培うものは社会的人間関係である。至言であると思う。沖大が変われ
ば私が変わる。大学周辺が変わる、那覇市が変わる。(男性 一般)
●沖縄大学の卒業生は地域のキーパーソンになって欲しい。リーダーでなくキー
パーソン、すごく良い言葉でした。大変良い講演でした。(男性 同窓生)
●トートーメーの話は上品で庶民からは一段高かった。まとめ、結論は通俗的
で分かるものが良いのでは、と思った。子どもの話は大変ためになる内容で参
考にさせていただきます。(男性 一般)
●今の自分にできること続けて行動したいと思います。続けることにより、楽
しくて仕方のない日が来ると思います。(男性 一般)
共創セン ター 1302_18
●加藤先生のお話は感動的でした。熱い心を見習いたいです。(男性
一般)
●トートーメー問題、沖縄に生まれたものとして興味深い内容でした。
●祭祀財産が相続財産に含まれない、等参考になりました。
●参加してよかった、ありがとうございます。また参加します。(男性
一般)
●平日の夜の時間であったが、面白い、ためになる内容であった。また25年度
も開講して欲しい。(男性 一般)
実践講座
報告
2013.2
■地域共創学・シマおこし演習
地域共創学・シマおこし演習では、本島遠隔離島(粟国島)・近郊離島(伊
江島)・架橋離島(浜比嘉島)の3パータンの離島について課題探求とフィー
ルドワークを通じ、沖縄離島の抱える問題と魅力を研究してきました。
島とスカイプで結んでの講義や民泊の修学旅行生との交流、福祉文化学科の学
生と離島高齢者についてのディスカッション、うるま市の学芸員さんに同行し
てもらって興味深い話を聞くなど多面的に取り組みました。
そのまとめを、受講生各自に「論壇投稿」というかたちで出していただきまし
た。
粟国フィールドワーク防災むらあるき
離島フェア
売り子体験
伊江島フィールドワーク民泊就学旅行生交流
伊計島フィ−ルドワーク 仲原遺跡
実践講座 1302_2
離島離れをどういかしていくか
和田 尭太
沖縄大学人文学部
国際コミュニケーション学科2年次
大学の「しまおこし実践演習」で、沖縄本島周辺にある3パターン(遠隔=
粟国島・近郊=伊江島・架橋=浜比嘉島)の離島を訪れ、ヒアリングした。感
じたのは、高齢者が多い離島にどのように観光客を呼ぶか、あるいはそして島
出身の若い人たちにどう戻ってもらうかということだ。
高齢化が進んだ離島は、特に災害時など問題を多く抱える。若い人が楽しめ
る場所が少ないせいか、島全体が静かな感じがした。島の伝統行事を継承でき
ない状況もあった。若い人だけではなく、子供たちが遊べる場所も島の中心に
なさそうだ。若い人や子供が集まる場を島の中心に持って来れば、子供たちの
声が聞こえ島に活気が出るのではないだろうか。
3パータンとも中学校までしかなく、高校に行くには島を離れなければなら
ない。だが進学や出稼ぎで島を出ると、なかなか帰って来れないのが現状だ。
島を出た人たちの部屋を活用して観光客にも島の一員として味わってもらう事
業を行う離島もあり、こうした活用は島に有益だと感じた。だが、若い人が住
んでいなければ経済もなかなか回らないだろう。
防災面で見ると、粟国島では海抜が低いところが多くあったり、広い道が1
本しかなかったりで、災害時に高齢者を高台地区にどう移動させるかが課題だっ
た。若い人が少なく、援助者は限られる。1人3役を任されるケースもある。
医療機関も小さなものしかなく、ヘリの手配をする人も必要だ。島の働き手の
負担は大きいと感じた。
そこで、災害時は観光客が高齢者の移動を手伝う体制ができないだろうか。
観光客が増えることで島の経済もよくなり、若い人たちの雇用も多くなる。た
だし、ダイビングが観光のメーンだと客層が限定されている感があった。離島
ならではの特産物やその島でしかできないことをアピールし、リピーターを増
やすことが先決だ。まだまだアピールできる部分はあると感じた。もっと大胆
にやってもよいと思った。
島出身の若い人たちが戻れる環境を作ることも大切だ。行事の後継者は、観
光客では難しい。行事が維持できれば島自体が盛り上がり、見に来る観光客が
増える。災害時の負担も減る。結果として住みやすい島になり、島を訪れてよ
かったと思う観光客が増える。彼らが島の高齢者と一緒になって盛り上げるこ
とができれば、今は実現が難しい「島で最期を迎える」ことが実現できるので
はないか。
実践講座 1302_3
私から見る、島の「強み」
与儀 かなえ
沖縄大学人文学部
国際コミュニケーション学科2年次
大学の「しまおこし実践演習」で伊江島に行き、修学旅行生の民泊を受け入
れているお宅を訪問した。感じたのは、民泊で島は活発になったが、産業との
バランスはどうなのかということだ。観光協会のパンフレットでは、民泊は学
生1人あたり9千5百円の利用料を設定している。協会が年間2万人を受け入
れると、2億円近い売り上げになる。民間事業者も合わせ、今年度は5万7千
人が見込まれるという。人口5千人の島で観光事業がこれほど経済効果を上げ
ると、農漁業がおろそかにならないか心配になった。
民泊は島の暮らしをまるごと体験できる修学旅行向けプログラムで、全国の
中学・高校から注目を集める。本島からフェリーで30分というアクセスの良さ
と、自然に触れながら民家の農漁業など体験できること、短い滞在期間ながら
修学旅行生にわが子のように向き合う島の人たちの姿勢などが魅力だ。家族と
して接した修学旅行生がその後も文通などで交流を続け、「里帰り」する例も
ある。名所巡りでは得られない、本当の沖縄ファンを作る仕組みといっても過
言ではない。
事業化のきっかけは、進学で空いた子ども部屋の活用だという。島に高校が
なく、子どもは義務教育後に島を離れる。子どもが巣立っても、民泊で同世代
の修学旅行生に我が子のように接することができる。「ただいま」「おかえり」
が言える家族のような関係が、島の人たちにとって非常に嬉しいのだろうと思
う。
だが、事件や事故、災害が起きたらどうなるだろうか。沖縄戦時、伊江島は
飛行場があったため米軍から激しい攻撃を受けた。今も米軍基地があり、補助
飛行場ではオスプレイが訓練を繰り返す。9・11米国テロの際、沖縄は基地が
あることで観光客数が減った。仮にオスプレイが墜落したら、9・11のような
ことでは済まないだろう。また、民泊もこのまま伸びるという保障はない。民
泊を含む観光産業だけに力を入れると、もしもの時に島の経済が衰退してしま
わないか。
栄養バランスが悪いと体の機能が低下するのと同様、経済もバランスが必要
だ。離島だけではなく、沖縄本島もそうだ。トラブルが起きると観光客数は一
気に減少し、他の事業で経済を支えなければならない。限られた仕事しかない
離島では、観光危機になってからでは遅いと思う。持続性のある事業を、民泊
以外にも向けることが島の強みになると考える。
実践講座 1302_4
私の考えるしまおこし
中村 春葵
沖縄大学法経学部
法経学科3年次
島の人たちは限られた土地で仕事をし、生活を守ってきた。だが、発展と共
に島々の生活は崩れ始めている。若い人は仕事を探しに島を出る。雇用が減り
高齢化が進む。豊富な知恵を持つおじい、おばあがいるが、知恵は継承されず
伝統も途絶える。こうした現状を、大学の「しまおこし実践演習」で島の人た
ちと触れ合いながら知った。
私が考える「しまおこし」は、商品開発だ。島の商品開発は、日々アイディ
アマンを生む。年齢に関係なく誰でもできる。形にすることをゴールにせず、
小さなことでも思い浮かべばすぐに話して大きくする。試行錯誤を繰り返しな
がら、形にする。こうして島の人で開発のプロセスを楽しむことが、島を潤す
きっかけになると思う。
島を出た若者には、いつかは戻りたいという気持ちがある人もいる。帰りた
いと思わせる環境作りが必要だ。外で学んだ知識を生かすこともできる。アイ
ディアマンとなって常に新しいものを考えられる環境があれば、島に戻りたい
人たちも活躍できるはずだ。
演習で伊江島を訪れた。雰囲気がとても明るく、タッチューからの景色はそ
う快だった。驚いたのが、特産品や土産品の多さだ。定番の黒糖ピーナッツの
ほか、ムジヌフという栄養豊富な皮付き小麦粉、モズクを使用した商品や伊江
島焼など様々だった。見ていて楽しく、何を買おうか迷った。
修学旅行生の宿泊を民家で受け入れる「民泊」も盛んだ。長野から来た修学
旅行生に話を聞いた。別れの際、涙を流している生徒も多くいた。島の人たち
が修学旅行生を送り出す様子に感動し、私も泣きそうになった。この光景は、
沖縄の人にとっても観光になると感じた。
演習では離島フェアにも行った。島の素材を生かした化粧水、ジンジャエー
ル、お菓子、アイスクリーム、そばなど刺激的だった。どれも美味しい。少し
高くても買いたくなる商品ばかりで、島の人たちは商品作りがとても上手だと
感じた。容器もかわいく、食後は飾って置きたいと思わせられた。どの品から
も誇りと自信が伝わり、次はどの島に行こうか楽しい気持ちになった。
まずはアイディアマンがきっかけをつくり、島民が開発の楽しさを感じなが
ら徐々に形にする。意見が言い合える環境があれば、多様な角度から商品が生
まれる。商品をきっかけに島が潤い、訪問者も増え、島が豊かになっていく。
アイディアマンが生まれやすい「しまおこし」が重要だ。
実践講座 1302_5
伊江島を未来に残すために
小湾 喜代志
沖縄大学人文学部
国際コミュニケーション学科3年次
本部半島から9キロ離れた場所に位置する伊江島。人口2千人の1島1村の
島だ。
タッチューの愛称で親しまれている城山は、本島から望むことができる。本
部港からフェリーで30分、1日4便と行き来しやすく、日帰りが可能な島とし
て人気が高い。県内では珍しく第一次産業の従事者が40%を越え、農業も盛ん
だ。また、米軍の伊江島補助飛行場がある。基地の面積は島全体の35%に及ぶ。
島では、県外中高生を対象にした民家体験泊(民泊)が好調に推移している。
今年度は311校、約5万7千人の民泊が見込まれる。島内での食材購入など経済
効果を生み、受け入れ民家と生徒の交流や伊江島の全国的な認知度向上につな
がっている。大半が1泊2日の日程で、島の家族と家業体験や食事を共にする。
短い間で関係を深め、離村時には涙の別れをする光景も見られる。
大学の「しまおこし実践演習」で訪れて、伊江島を次世代につなげるために
は課題が2点あると考えた。
1つは高齢化だ。島の住民の4分の1が高齢者だ。事業を始めた2003年に50
歳だった人が、今は60歳。成長してきた民泊事業だが、引き継ぐ担い手を見つ
けなければ、伊江島の発展は今をピークに頭打ちにならないか。
2つ目はオスプレイだ。1990年のイラクによるクエート侵攻、2001年の米国
同時多発テロの後、沖縄への修学旅行が相次いで取りやめになった。テロ発生
の翌月、沖縄への修学旅行者数は前年同月比20・7%減となり、大きな影響を
受けた。
今、同じ危険を感じる。米軍伊江島補助飛行場ではオスプレイの訓練が積極
的に行われている。騒音をはじめ、前が見えなくなるほどの粉塵、竹さおが届
く高さでの低空飛行など、島の暮らしを脅かす状態が続く。昨年10月にはコン
クリートブロックをぶら下げでの飛行、12月には4機編成での訓練を行う姿が
目撃された。オスプレイによる事故が起きる可能性は十分にある。
もし米軍による事故が起きた場合、民泊をしたい学校はゼロになる可能性が
ある。民泊事業による島の大きな収益がなくなると、島の経済は一気に衰退す
るのではないだろうか。
オスプレイ配備に反対活動をすることも必要だが、オスプレイが撤退する可
能性と事故の可能性では、後者の方が圧倒的に高いだろう。島の10年後の発展
を考え未来につないでいくためには、伊江島の魅力を活かした新しい産業を生
み出していく必要があると考える。
実践講座 1302_6
私が考える「離島のシマおこし」
宮里 美有紀
沖縄大学法経学部
法経学科3年次
大学の「しまおこし実践演習」でフィールドワークを行った本島周辺離島の
うち、伊江島での活動を通して「離島の活性化のあり方」を考えたい。
伊江島は本部半島から北西9キロに位置し、人口は1997人と意外に多い。
産業は農業と漁業で、サトウキビ・タバコ・花木・肉牛などに力を入れている。
また第1次産業と第3次産業の比率がほぼ同じという、珍しい産業構造パター
ンである。
本部港からフェリーで30分ということもあり、日帰りが可能だ。戦争に関す
る施設・史跡もあることから、県内外からの修学旅行の需要も多い。最近では
民家で修学旅行生を宿泊させる「民泊」の島として有名になり、人気がある。
演習で、民泊をしている家を訪問した。長野県の高校生が島のお母さんとサー
ターアンダギーを作る様子を見学し、交流もした。とても感動的だった。人と
人のつながりが一番心に残る思い出なのだと感じた。特産物は、今まではピー
ナツ、島らっきょうが一般的だった。最近では商品開発が盛んで、イエソーダ、
ビーフジャーキー、アイスクリーム、あい鴨炊き込みご飯、麦まんじゅうなど
さまざまなアイディアがうまく商品化されている。
演習で訪れた島それぞれに個性があり豊かさを示す特色を感じたが、課題も
隠れていた。特に伊江島は一見観光も特産物も充実しており課題がないように
思えたが、大きな問題があった。それは基地があることだ。基地面積が島全体
の35%を占める。在日米軍の伊江島補助飛行場があり、とても危険だ。家族で
伊江島に行った際、オスプレイが飛んでいたのを見た。那覇にいると近くで見
ることはないが、その時はとても近くを飛んでいた。観光が盛んなのにこんな
危険なヘリが近くを飛んでいるなんて、私は恐ろしく感じた。
他にも、30歳未満の失業率が40%で県内ワースト1だったり、注目を浴びて
いる民泊にも課題があるという。民泊先による質の違い、島外経済への依存、
民家の民泊慣れなどがあげられる。現地で関係者に詳しく話を聞いたが、経験
を重ねることで改善していると話していた。私も改善はそれしかないと思った。
沖縄には、まだまだ飛躍できる島が沢山あることを実感する。特別で貴重な
資源をうまく活用していくことが必要だ。新しいものを作っていくことも必要
だが、沖縄ならではの文化や風習を守りながら活性化につなげることを最大の
目標にすべきだと考える。
実践講座 1302_7
離島の活性化について
宮城 有加里
沖縄大学法経学部
法経学科3年次
沖縄県は、離島の活性に力を入れるべきだ。
大学の演習で、本島遠隔離島(粟国島)、近郊離島(伊江島)、そして架橋
離島(浜比嘉島)でフィールドワークを行い、離島が抱える問題を学んだ。島
には高校がない。15歳で親元を離れる、いわゆる「15の春」だ。一度島から離
れると、戻る確率は極めて低いという。雇用がないことが大きい。若者が減り、
高齢者ばかりなのが現状だ。
にも関わらず、医療環境は不十分だ。粟国島では医者は1人だった。重い患
者はヘリで本島に送られる。台風や地震など自然災害が起こると、支援の手が
足りなくなることもわかった。雇用が少ないため若者がいない。また地域には
使われていない空き家が多く、放置されていた。「自分たちの領域に他の人に
入ってほしくない」という考え方があるという。島では意外に自己主張がある
んだと感じた。
私は演習で離島を訪れるまで、こうした現状を全く知らなかった。高齢化に
より若者が少ないことを予想はしていた。自然が豊かで本島とは違った魅力も
多いが、若者はグローバル化やインターネット普及でニーズを満たしやすい環
境に移るからだ。また、離島は社交的な人ばかりというイメージがあったが、
島独自の考え方があることを知った。こうした問題を知らなかったことを、県
民として恥ずかしく思う。
私のように、若者が離島について知らないのが沖縄の現状だろう。島の困難
を知らず、自分とは関わりのないことだと考える人が大半だ。だが、離島の衰
退が私たちの生活に及ぼす影響は大きいと考える。沖縄の経済を支えているの
は観光産業だ。観光客の目的の多くは離島である。離島が衰退すると、沖縄県
全体の経済基盤が大きく揺らぐだろう。離島の幸福は、私たちの暮らしに深く
関わっている。
演習で訪れた伊江島で、修学旅行生が民家に泊まって生活する「民泊」が行
われていた。ホテルでサービスを受けるのとは違い、相互扶助を体感できる。
県外の高校に多くの支持を得ていた。こうした事業は、橋で結ばれたことによ
る廃校などで衰退の危機にある架橋離島でも行えるのではないか。移動費や時
間を抑えることもできるはずだ。
離島の活性化は、沖縄経済を支える柱のひとつである。小さな島に焦点を当
てることで離島が抱える問題に気付き、解決のヒントを得られる。そのために
は沖縄本島が先頭に立ち、周りの離島に働きかけていくことも必要だ。
実践講座 1302_8
儀間 優介
沖縄大学法経学部
法経学科2年次
沖縄県には、南北約400キロ、東西約千キロの海域に大小160の島々が点在し、
うち有人離島39島に約13万人が生活する。日本で唯一亜熱帯・海洋性気候に属
し、1年中温暖な気候に恵まれることから、リゾート地として多くの観光客が
訪れる。だが、島で生活している人達の生活は必ずしも快適ではない。四方を
海に囲まれ、本土からも遠く離れているため、日常生活の様々な面で大きなハ
ンデを抱えている。
大学の講義「しまおこし実践演習」のフィールドワークで、粟国島に行った。
島が抱える課題について事前学習を行い、「相手の財布の中身が分かるほどコ
ミュニティが小さい」「選挙では村民の仲が悪くなる」「ゆいまーる精神が薄
くなりつつある」などを聞いた。島を出た若者がそのまま移り住んでしまい、
帰って来ないことも重要な課題だと感じた。
実際に訪れて、若者が島に戻らない理由が分かった気がした。若者が楽しめ
る施設がないのだ。ゲームセンターやショッピングセンターがない。点在する
食堂や商店も遅くまでやっているわけではなく、比較的早い時間に閉店する。
言い方は悪いが、これでは若者は島に魅力を感じない。ではこれらを作ると若
者が戻るかといえば、そうではないだろう。目立った産業がなく、若者が十分
に能力を発揮できる職業が少ない。魅力的な職場を求め、本島や本土へ流出す
る。そのため高齢化が深刻である。15歳未満の年少人口の構成比は年々低下、1
5∼29歳の比率も本島平均を大きく下回る。一方、65歳以上の高齢者の比率が本
島平均を大きく上回る。
集落を歩いている人が少なく、寂しく感じたことも確かだ。コミュニティが
小さいからこそ生まれる近隣との絆もあるはずだ。マイナス面は、見方や考え
方次第ではプラスの面にもなるだろう。現状では、若者は島から出たまま帰っ
てこないのではないか。島の発展や活性化を願うのなら、何かしら改革を行う
べきと考える。
やはり、名産品や観光名所を増やすべきではないだろうか。一朝一夕ではで
きないが、やる価値はあると感じた。そこから仕事が増える、仕事が増えるこ
とで若者が島に帰って来るという変化に繋がる。粟国島は、1999年に封切され
た映画「ナビィの恋」のロケ地として知られる。白い砂浜に青い海という、沖
縄を象徴する美しいビーチがある。こうした観光地を整備し、何らかの形でP
Rして、活用することから手を打つべきと考える。
実践講座 1302_9
架橋離島の今と未来
屋宜 寿明
沖縄大学法経学部
法経学科3年次
講義「しまおこし実践演習」の一環で、架橋離島の浜比嘉島でフィールドワー
クを行った。沖縄には多くの架橋離島があり、本島と橋で結ばれる事でさまざ
まなメリットとデメリットが生じている現実を学んだ。
メリットは、島外から人が来てお金を落すことで島の経済が豊かになること、
救急搬送が必要な際に医療機関に車で行けることなどだ。デメリットは、若年
層の人口流出と高齢化の進行、島外からたくさんの人が来ることによる自然環
境の破壊などだろう。
海中道路のドライブや観光で多くのお金が落ちるといった表面的な部分を見
ると、島の活性化が進んでいるように見える。地域の暮らしはどうだろうか。
若年層の流出で学校統廃合が行われ、学校がなくなった地域もある。高齢者も
影響を受ける。世話をする人がいなくなり、病気や怪我の手当てもできない。
子どもが少ない地域では、文化の継承が行われず地域の衰退が起こる。観光客
増加が続くとは限らず、地域的な課題は残されたままだ。
そこで、架橋離島の未来について私の考えを述べたい。
①観光客増加に向け、歴史文化の情報発信を行う。来たことがない人へはもち
ろん、リピーターにも呼びかける。何度も訪れている人もいつかは興味が薄れ、
新しいものを求めるだろう。
フィールドワークで、伊計島にも立ち寄った。竪穴式住居が復元されていて、
沖縄にも本土の縄文・弥生時代のような古代文化があったことを初めて知った。
リピーターもあまり知らないのではないか。「橋を渡れば沖縄の古代がある」
は、新しい魅力だ。本島や大型離島に大規模整備を行うより、架橋離島の歴史
的遺産の復元や修復を行い、もともとあるものを生かす視点が必要だ。
②人口流出に歯止めをかける。人口減は地域の衰退を示す。橋で簡単に本島に
行けるため、若者は働きに行ったまま定住してしまう。浜比嘉島や伊計島では
学校の統廃合が行われているが、地域の将来を担う子供がいないと地域文化が
継承されず衰退につながる。
やはり、雇用の場が必要だ。国が推奨している第6次産業化はどうだろうか。
訪れた離島では、1次産業と3次産業が目立っていた。2次産業も増やして1
+2+3による第6次産業の構築を目指す。学校の統廃合を止めるには、子供
がいる家族をメーンに移住者を増やすことも重要だ。東日本大震災で避難を余
議なくされている人は多く、受け入れを積極的に行うことも考えてよいのでは
ないだろうか。
土曜教養講座
第503回
土曜教養講座
第503回
第503回沖縄大学土曜教養講座
世界遺産と沖縄
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が2000年に世界遺産に登録されて、
12年が過ぎた。今回、奄美・琉球が世界自然遺産暫定リストに入った。本登録
されれば沖縄県は日本で唯一、文化と自然の二つの世界遺産を持つことになる。
ユネスコの世界遺産の理念に立ち返り考えてみる。
【日 時】2013年3月9日(土)13:00∼16:30
【場 所】沖縄大学3号館101教室
【司 会】緒方 修氏(沖縄大学地域研究所所長)
【プログラム】
<第1部>
挨拶:加藤 彰彦氏(沖縄大学学長)
基調講演:松浦 晃一郎氏(沖縄大学名誉教授)
「世界遺産と沖縄」∼沖縄のために何をなすべきか∼
<第2部>
上野 顕氏(熊野速玉大社大社宮司)
「世界遺産と熊野」∼自然災害からの復旧をめざして∼
花井 正光氏(沖縄エコツーリズム推進協議会会長)
「世界遺産の保全と活用」
パネルディスカッション
パネラー/植田 明弘・上野 顕・花井 正光
総括:緒方 修氏
終了挨拶:真栄里 泰山氏(沖縄大学理事)
【聴講料】300円
【主 催】沖縄大学地域研究所
ご案内
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Publications
沖縄大学地域研究所叢書 第28巻
世界遺産・聖地巡り
琉球・奄美・熊野・サンティアゴ約
沖縄大学地域研究所 編
目 次
第1章
世界遺産条約の仕組みと今を知る
…花井正光
世界遺産条約の仕組み/日本の世界遺産事情/世
界遺産条約の歴史と狙い/世界遺産リスト登録ま
での道のり/世界遺産リスト登録に不可欠な要件
/世界遺産の今
第2章 琉球王国の世界遺産
世界遺産を詠う❃高良勉
1 琉球・世界遺産の魅力…當眞嗣一
御嶽等
グスク
2 山麓の巡礼路-「東御廻り」と「今帰仁上り」
…盛本勲
発行:芙蓉書房出版
第3章 聖地巡りとしての世界遺産
電話:03-3813-4466
1 道の世界遺産熊野古道
熊野古道のコスモロジー―浄土としての熊野へ 定価:1900円(税別)
…須藤義人
文化遺産としての「熊野古道」/五つの参詣路
日本人の異界をもとめて
―世界遺産・紀伊山地の霊場と参詣道をゆく―
…須藤義人
2 サンティアゴ巡礼路
パリから始まる巡礼の道…佐滝剛弘
サンティアゴ・デ・コンポステーラへの路…緒方修
第4章 新たな世界遺産に向けて
1 奄美・琉球諸島を世界自然遺産へ❃岡野隆宏
島に生きる多様な生物たち/世界遺産としての価値/
世界遺産の保全上の効果/世界遺産に向けた課題と取
組み/地域が世界遺産を活かすために
2 四国遍路…胡光
New
Publications
沖縄大学地域研究所叢書 第29巻
琉球諸語の復興
沖縄大学地域研究所 編
第1部琉球諸語概説
1 琉球における言語研究と課題〔新垣友子〕
2 「奄美語」概説〔新永悠人〕
3 「国頭語」概説〔西岡敏〕
4 「沖縄語」概説〔西岡敏〕
5 「宮古語」概説〔青井隼人〕
6 「八重山語」概説〔仲原穣〕
7 「与那国語」概説〔伊豆山敦子〕
第2部琉球の島々の唄と言葉――琉球の島々の唄者たち
―琉球諸語の復興を目指して―
〔照屋寛徳・天久勝義・大工哲弘・宮良康正/司会比嘉光龍〕
琉球諸語は「方言」ではなく独立した「言語」/琉球の島々の6つの言
語を味わう/「かじゃでぃ風」はおきなわの祝い曲/祝いの座で歌う
「とうがにあやぐ」/幕開きで嘉利をつける「赤馬節」/与那国の願い
事はまず「旅果報」「トゥグル嶽」/それぞれの地域の「ありがとうご
ざいます」/琉球の島々の情唄/琉球の島々の閉めの唄
「琉球諸民謡」という新しい定義の提唱〔比嘉光龍〕
琉球諸島地域の音楽/「琉球諸民謡」の定義と特徴/琉球諸島地域の民
謡、新民謡、現代民謡/琉球の島々のお祝い曲を含めた3曲/ラジオ番
組を通して伝えた琉球の島々の民謡
第3部琉球諸語の復興〈シンポジウム〉
琉球諸語の復興を目指して
―スペイン・アメリカの少数言語復興から学ぶ―
〔塚原信行・松原好次・比嘉光龍/司会新垣友子〕
伊波普猷作琉歌を唄う/スペイン・カタルーニャにおける言語復興(塚
原信行)/ハワイ語復興運動の歴史と到達点(松原好次)/琉球王国の
言語は方言ではない(比嘉光龍)/〈パネルディスカッション〉言語復
興のきっかけとは/なぜ琉球諸語の復興運動が起らないのか/二者択一
ではなくてバイリンガルで/琉球諸語を学校のカリキュラムに入れる/
うちなーぐちの復興に必要なものは誇り
少数言語復興運動の意義――あとがきに代えて〔原聖〕
少数言語と国語、多言語国家/少数言語復興を支える根拠
*附録DVD「琉球の島々の唄者たち」
発行:芙蓉書房出版電話:03-3813-4466定価:2800円(税別)
地域貢献部門
名城 菜々子
所内雑記
vol.42
地域貢献部門
名幸 妙子
東京出張の際に、時間が少しだけ空
いたので 東京国立博物館で開催中の
「飛騨の円空―千光寺とその周辺の足
跡―」 を見てきました。
円空の彫った仏様は、大半が素朴で、
田舎の家の片隅にそっと置いているの
が 似合うような風情をしていました。
しかし、みんなに親しまれる温和な
顔の菩薩像よりも、孤高の雰囲気をま
とった不動明王像になぜか惹かれてし
まい、しばらく見入っていました。
今年も去る2月23日(土)に2012年
度第11回ジュニア研究支援発表会が沖
縄大学3号館101、102教室にて開催さ
れました。北は奄美から南は石垣島ま
で10校のグループがそれぞれ約1年間
かけた研究成果を発表しました。アマ
ミノクロウサギを守るにはどうしたら
いいかを真剣に考えた結果自分達が行っ
た活動を博士の姿に扮して発表した奄
美の大勝小学校、綺麗な海を守りたい
と普段からゴミ拾いなどの活動を行っ
ていることを紙芝居や唄や踊りを交え
て紹介した白保小学校、ヤシガニの保
護を真剣に考えてその保護条例を目指
している八重山高等学校…全ての学校
の発表に、研究に真剣に向かい合って
来た子どもたちの姿勢を窺い見ること
が出来ました。子ども達の純粋な知の
探求や学ぶ楽しみを体現しているその
姿に教えられるものがたくさんありま
した。これからもそんなきらきらした
子どもたちの興味や好奇心を支援でき
るよう微力ながら精進したいと思いま
す。
地域共創センター
横山 正見
社会教養セミナーの懇親会の折、
神奈川県出身学生のお母さんが話し
かけてくれました。
「鎌倉出身で、横山さんといえば、も
しかして横山先生の息子さん?」
「え、、、」
「なんかねえ、話す姿とかどことなく
似てたからねえ、そうかなあと思った
のよ」と。
お互い驚き、鳥肌がたちました。
幼い頃から、父とウリふたつ、「あな
たは迷子になっても大丈夫だ」と言わ
れたこともありましたが、こんなとこ
ろで、役に立ったようです。不思議な
ものでした。
さておき、今年度から始まった社会
教養セミナーも盛況にて、最終回を終
えることができました。ご来場の皆様、
関係の皆様、に感謝申し上げます。
事務
仲宗根 礼子
いつしか「沖縄のおばあちゃん」に
なったとき、果たして沖縄のことをちゃ
んと伝えられるのか。最近の関心事で
す。
〈地域研フォーラム〉編集に携わっ
て、沖縄の歴史はおろか現状認識もま
だまだ足りないことを痛感しています。
自分の中の感覚的なものだけではだめ
で、しっかりと見つめ、考え、刻み付
けていきたいです。
今号で<地域研フォーラム>の編集
担当を終わります。これまでご寄稿く
ださった皆様、大変お世話になりまし
た。42号まで約3年半、ご愛読ありが
とうございました。
いちご(秋姫)
2013年1月
撮影:山城基乃