コンラッドの中編小説 『 闇の奥 』が意味するもの ― 主として小説の中に

コンラッドの中編小説
『
―
闇の奥
』が意味するもの
主として小説の中にえがかれた医学的事実の考察
目次
序
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
結論
謝辞
要約
年譜
キイワード
引用文献
追記
1
4
7
8
10
15
20
24
26
28
29
31
37
48
49
−
序
稿を始めるに当たってまず考えたのは5つのWである。即ち、
① Who 誰 が 書 い た の か
これはジョゼフ・コンラッドである。
② When こ れ も 1899 年 は じ め は 雑 誌『 ブ ラ ッ ク ウ ッ ズ ・ マ ガ ジ ン 』に 記
載し続いてハードカバーの単行本で出版された。雑誌に連載された当初
は話題になることは少なかったが、単行本が発刊されて、多くの読者の
興味を引きつけた。
③ Where ど こ を イ メ ー ジ し て 書 い た か 。 こ れ は コ ン ラ ッ ド が 実 名 を あ げ
ず ( 白 く 塗 り た る 墓 )と か 、リ ト ル 、ポ ポ な ど 架 空 の 場 所 を 使 用 し て い
るので、いろいろな推定があるが、
It was in 1868, when I was nine years old or thereabouts, that while
looking at a map of Africa of the time and putting my finger on blank
space then representing the unsolved mystery of the continent, I said
to myself with absolute assurance and amazing audacity which are no
longer in my character now; "When I grow up I shall go there."
( HD8)
こ の 文 章 か ら 、目 指 す 旅 行 は ア フ リ カ の コ ン ゴ だ と わ か る 。何 故 な ら 、
アフリカの大部分の地域は各国の植民地主義の犠牲で分割統治がされて
おり、地図で白く塗られその犠牲になっていないのはコンゴだけであっ
た と い う 。次 に マ ー ロ ウ が 初 め て 就 職 の 面 接 に 訪 れ た 貿 易 会 社 の 本 社 は 、
どこにあったのか、中野好夫氏はパリと言いその他多くの著者はベルギ
ーのブリュッセルを考えている。確実なことは、記載がないので判らぬ
が 、後 者 が 妥 当 だ と 考 え た 。邦 訳 の 中 に は は じ め は 中 野 氏 に 習 っ て パ リ 、
最後の段落になり許嫁が訪れた街はブリュセルと一貫していないものも
-1-
あり、どうかと思わせるものもあった。この中編小説の解釈も様々で、
謎めいた大きな河を遡上するがコンゴ河というのが判っており、この河
の領域は、ベルギー王レオポルト2世の所有であった。彼はまた、短い
『コンゴ紀行』を書いている。この大蛇のようにその尾が奥地に消えて
ゆく河はコンゴ河だとわかる。
What Conrad couldn't wriggle out of was his Congo experience; it
seems to permeate Heart of Darkness, even though the novel wasn’t
begun for almost a decade following the author's departure from
Africa.
Some
of
the
parallels
between
Heart
of
Darkness
and
Conrad's Congo adventure are so obvious that it may be tempting to
think of the novel as thinly veiled autobiography.
( HD
1 2 )
④ What ク ル ツ を 主 人 公 に し た 、 意 味 す る と こ ろ の 多 い 小 説 。
ローマ人によるイギリスの征服とヨーロッパの植民地政策を比較して書
いた。
The conquest of both them ends with tragedy; the former dies like a
fly, the latter cannot escape from a feeling of "disgust”. By showing
his taking notice of the disgusting surrender to the wildness, Marlow
tries to condemn the forcible temperament of the masculine heroism
of the Roman conquest and distinguish European colonization from it;
Marlow says,” They were no colonist; their administration was merely
a squeeze, and nothing more, I suspect. They were conquerors..."
( DO
-2-
39)
⑤ Why コ ン ラ ッ ド の 小 説 は 海 洋 小 説 が 多 い が 神 に な ろ う と し た ク ル ツ
の野望が達成されぬまま、死亡するという神不在を言おうとしていたの
ではないか。自由人コンラッドはバートランド・ラッセルと同じく神の
存在を認めていない。これを言おうとして書いたのではないか
It' strange how I always, from the age of fourteen, dislike the
Christian religion, it’s doctrines, ceremonies and festivals.
この小説の中に出てくる女性は5人。叔母(ブリュッセルに住む金持
ち)、貿易会社の事務員2人、この2人はマーロウが「闇の入り口の番
をし、棺覆いを作ろうとするかのように、毛糸を編む、太ったのとやせ
た女」と注意を引かずにはおれぬように記載している。現地の彼の情婦
と考えられる土人、もう一人はベルギーに住む許嫁である。あえてもう
一人をあげるとコンラッドが書いた絵に謎めいた絵が描かれている。こ
の絵には目隠しをされた女性が松明を持っている。背景は陰気でほとん
ど黒で描かれているが、女の動きは堂々としている。これら5人の女性
は何を意味するのであろうか。ヴィクトリア朝末期の女性観即ちコンラ
ッドの抱いていただろう考えも推察してみた。
It’s queer how out of touch with truth women are. They live in a
world of their own, and there had never been anything like it, and
never can be. It is too beautiful altogether, and if they were to set it
up it would go to pierces before the first sunset.
( HD 5 9 )
これとほぼ同じ考えだが、帝国主義のヨーロッパを男性、アフリカを
-3-
女性とする考えをコンラッドは持っていただろうことも推測される。こ
れを本文で解説することにする。多岐にわたる、文であるが、その骨子
は小説の中に描かれた、クルツが陥ったであろう鬱の状態を中心にして
小説全体を通じ医学的な事柄を考えた。
次 に 、米 国 お よ び 我 が 国 に お け る『 闇 の 奥 』の 影 響 を『 地 獄 の 黙 示 録 』
と開高健の生涯を例にした。文末にコンラッドの年譜、キイワードを付
け加えたので参照願いたい。
第1章
1 9 - 2 0 世 紀 を 代 表 す る コ ン ラ ッ ド の 小 説 中 で『 闇 の 奥 』は 著 者 の 鋭
利な感性と、そぎ落とされ無駄のない文章構成に相まって、その意味す
ることが多いものである。
はじめにコンラッドの育った当時のことから考えその一生を通じての
考 え の 中 心 に な る 思 想 を 考 え て み た 。本 稿 の 最 後 に 年 譜 を 付 記 す る の で 、
それを経年的に見ていただくとよくわかるが、1857年東ポーランド
の ベ ル デ ュ チ ェ フ と い う 村 の 生 ま れ で 、 本 当 は Josef Theodora Conrad
Korzeniiowski と い う 長 っ た ら し い 名 で 、 父 方 と 、 母 方 か ら 一 つ ず つ そ の
名 を も ら っ た 上 に ポ ー ラ ン ド の 愛 国 詩 人 Conrad Waller か ら も い た だ い
ているので、仰々しい名前になっている。彼の家系は、双方とも、ポー
ランドの地主階級だった。当時ポーランドは、ロシア、オーストリア、
プロシアなどに分割されていた。そのうち東ポーランドはロシア領であ
り、1830年の大反乱の失敗後は自治権もない直轄領であった。
こういった事情であり、この地は特に反露感情が強く父はペテルブル
グ大学中退のインテリであったが、反乱に与し捕らえられ、北ロシアに
-4-
流刑になった。当時の流刑は家族同伴を許されたので、妻と、5歳のコ
ンラッドを伴いヴォロガダに到着、その地で、母は結核で死に、続いて
父も跡を追うように亡くなった。従って、コンラッドに、反ロシア的感
情即ちアナーキズムの考えが育ったが、ロシア的な目で書いた、『西欧
人の目で』という作品もある。孤児になって以後は、母方の叔父タデウ
スの元で育てられたが、早熟であり、5歳の頃から『ドン・キホーテ』
やデッケンズの作品を読んで育ったと言う。父は、文学好きでシェイク
ス ピ ア の 翻 訳 を 手 が け た と い い 、血 筋 だ っ た の か も 知 れ な い 。以 後 彼 は 、
ロシア支配のポーランドという閉鎖世界の中でマージナル文化の進歩し
た 西 欧 文 化 へ 強 烈 な あ こ が れ を 持 っ て い た と い う 。叔 父 の タ デ ウ ス は「 賢
明に生きる」ことを教え、金銭的援助と共にその生き様をも教えた。彼
は何度も金の無心をしたが、この尊敬せる叔父に、十分に自分の希望を
述べてその許可を得るまでは、行動に移さなかったのである。彼がその
デラシネといわれる葛藤に際し、次のように記載している。
And please let me add, dear Sir (for you may be hearing this and
that
said
of
me)
that
I
have
in
no
way disavowed
either
my
nationality or the name we share for the sake of success. It is widely
known that I am a Pole and that Joseph Conrad are my two Christian
names, the latter being, used as a surname so that foreign mouths
should not distort my real surname---a distortion which I cannot
stand. It does seem to me that I have been unfaithful to my country by
having proved to the English that a gentleman from the Ukraine can
be as good a sailor as they, and has something to tell them in their
own language. I consider such recognition as I have won from this
-5-
particular point of view, and offer it in silent homage where it is due.
このようにして叔父タデウスの許可を得て、16歳でマルセイユに向
かうことになり、フランス船に平水夫として乗り組んだ。この時代をコ
ンラッドが隠したがったり、潤色したりする時代であるが、相当に恥多
きものであったらしい。スペイン王位継承権の主張者カルロス1世に与
して、スペインへの武器密輸に関係したこともあった。中野好夫氏の言
う金詰まりにより自殺未遂などのいわゆる鬱の時代もあったらしい。そ
れが後の彼の作品に死の影を予測させるものが多いのではないかと考え
たい。これには、当時の西欧社会の時代的背景が、すさまじいばかりの
暗黒面を持ち、非常な理念とまで化した所有欲が、ヴィクトリア朝末期
に見られ、帝国主義、植民地主義といってもよい「闇」の世界を形成し
ていたのでないか。私は、作品『闇の奥』の闇は一般に言われるごとく
ア フ リ カ の 闇 だ け を 意 味 す る の で な く 西 欧 世 界 の 文 明 が 持 っ て い た「 闇 」
も兼ね持って意味していたと考えたい。中野好夫氏はあとがきに
『闇の奥』は決して単に暗黒アフリカの奥地というだけではなく、
むしろ人間の深奥に潜む暗黒の深淵こそ、この題名の真の由来で
なければならぬ。
( 中 野
1 6 3 )
と少し異なった意見である。即ち、重ねて主張するが、文明の闇と心に
潜む闇のちがいであるが、アフリカのもつ闇ではなかったのでないかと
思う。
-6-
第2章
『闇の奥』の話の終末で主人公クルツが「恐ろしい、恐ろしい」と言い
ながら死亡するが、ドイツ作家ゲーテの『ファウスト』を連想させる。
即ち、闇に犯されて、痩せ細って死亡するであるが、本稿ではその文章
中に現れた数々の病気に関する事項を考えることにする。 最初に登場す
るのは船に採用される際に受けた身体検査の後、老人の医師から頭蓋計
測をよかったらさせてくれないかと頼まれる。
” The old doctor felt my pulse, evidently thinking of something else
the while.'Good,good for there,' and then with a certain eagerness
asked me whether I would let him measure my head. Rather surprised,
I said Yes, when he produced a thing like calipers and got the
dimensions back and front and every way, taking notes carefully. He
was an unshaven little man in a threadbare coat like a gaberdine, with
his feet in slippers, and I thought him a harmless fool. 'I always ask
leave, in the interests of science, to measure the crania of those going
'out there' he said.’ And when they come back, too?' I asked.'Oh, I
never see them,' he remarked;’ and moreover, the changes take place
inside, you know.’ He smiled as if at some quiet joke."
( HD
2 6 )
計測による白人優位の根拠となるダーウィニズムは、植民地主義華や
かなりし時代の考えで、『種の起源』に示されたとおり、いわゆる科学
的根拠は統計により説明されるが、優位性の検定を受けて初めて証明さ
れ る こ と に な る 。こ の 優 位 性 の 検 定 の 変 わ り に 白 、黒 の 差 異「 肌 の 色 」、
-7-
「鼻の形」など外観で判断することが多いが、もう少し科学的に考えて
脳の重量が白人優位を支配すると診察をした医師は考えたのではない
か。しかし、実際にその重量を測定することができぬので、外部からの
計測を行った。これを老医師が個人的興味と説明した理由だと思う。
この医学統計手法を使った最初の人は、フローレンス・ナイチンゲー
ル(1820-1910)である。彼女はクリミア戦争(1853-1
856)にイギリス陸軍の従軍看護婦として勤務、その戦地スタクリの
病院は収容過多で不潔、そのためにこの病院での死亡率が40%にも達
していた。それで、病院の兵士たちの生活と衛生の改善を図るとともに
データ収集をして改善を提案したが医師たちはおしなべて敵対的であっ
た。最後には提案が認められ6ヵ月後には死亡率2%までに低下したの
である。帰国後収集分析した統計資料を1000ページにもおよぶ『英
国陸軍の健康、能率および病院管理に関する諸問題についての覚書』を
著した。その功績により、彼女は輝けるヴィクトリア人と称せられヴィ
クトリア女王の引見を受けた。白衣の天使と称せられナイチンゲールに
ついてはその憲章を看護学校の入学式に宣誓されるが、上記の功績につ
いてはあまり知られていないのではないだろうか。
第3章
白人巡礼が「闇」に「光」を灯そうとしてアフリカにやってくるが、
こんな例は、ほんの一握りの人たちであり大部分の巡礼は征服者たちで
あり、彼らが見たものは文明化とはほど遠い鉄道敷設現場の荒れ果てた
光景で、従事する黒人たちの首に鉄の鎖を巻き付けられてよろめきなが
ら働く地獄絵図の世界であった。またこの白人優越主義は、自然淘汰の
-8-
原則・・・17世紀以来のヨーロッパ人種の優越性を証明するために、
黒人のように遅れた、または被支配人種を征服する理論的根拠となりそ
れにより奴隷貿易や伝道キリスト教と称して強者が弱者を支配すること
になった。当時のイギリスにおいてはイギリス国教会と無数の伝道団体
が、植民地で現地人をキリスト教徒に改宗するためにアフリカに行った
が、古くからのコプト教会との軋轢があり、また事実は伝道と称してア
フリカ征服に従事したものが多い。バートランド・ラッセルはその著の
中で当時のコンゴをこう記述している。
アフリカに対する帝国主義の動機中最も重要だといえ、貪欲はその一
つだったが、コンゴという「自由」国家の場合のように貪欲がただ一
つの動機だったように思われる場合がある。(コンゴの)上流地域が
初めて発見されたのは1871年のこと、高徳なるリヴィングストン
博士によってであって、彼は研究に対する愛と、アフリカ人をキリス
ト教信仰に改宗させようとする欲望とを同時に持ち合わせていた。タ
ンガニア湖でリヴィングストンを発見したスタンリは、福音に興味を
抱いていたと言うよりはむしろ、キリスト教文化のもついくつかの面
に 興 味 を 持 っ て い た 。彼 の 最 初 の 旅 行 は「 ニ ュ ー ヨ ー ク ・ ヘ ラ ル ド 社 」
出資の下に企てられたものであり、続く旅行は、スタンリがいつも口
を極めて賞賛したベルギー王レオポルト二世(ヴィクトリア女王の叔
父レオポルトの息子)の出資と利益でなされたものだった。
( 新 書 ア フ リ カ 史
2 7 9 )
また、次にアフリカから帰ってきた人はいないと謎めいたことが言わ
れた。これは、医師が経験として闇に犯され、帰ることが出来ないのを
知っていたのでないか?それが、最後の節から窺える。目的の大河(コ
-9-
ンゴ河)河口に到着して200マイルも上流にある中央支所まで行き、
それからが船長の仕事を始めるのである。この蒸気船の中での会話にも
同じようなことが書かれている。
’
It is funny what some people will do for a few fronses a month. I
wonder what becomes of that kind when it goes up country.' I said to
him I expected to see that soon.’ So-o-o! He exclaimed. He shuffled
athwart, keeping one eye ahead vigilantly.’ Don’t be too sure,’ he
continued.’ The other day I took up a man who hanged himself on the
road. He was a Swede, too.'
'Hanged himself ! Why, in God's name?'
I cried. He kept on looking out watchfully. 'Who knows? The sun too
much for him or the country perhaps.'
( HD
29)
この謎は何だったのだろうか?アフリカの奥地には人を迷わす何かが
あ り ,そ れ を 経 験 し た 人 が( 私 の 考 え で あ る が 、黒 人 虐 待 の )罪 の 意 識 か
ら自殺をはかるのだろうか
?普通ではせぬものと思う。
第4章
ここで本稿の骨子となる憂鬱を取り上げたい。精神科の専門医でない
ので、常識的な記載にとどまるがこれは、連合失調症とは異なり、よく
話を聞くと、そのよってたつ原因がありそれを除去すると直ることもあ
るが、できぬ時は、インタビューで話しをきいてあげることが大切であ
る 。次 の 段 階 と し て 薬 物 治 療 を す る が 、3 還 系 の 抗 鬱 薬 が よ く 使 わ れ る 。
これとよく似た症状を呈するものとしては強迫神経症があり、また心的
- 10 -
外傷後症候群(PTSD)も同類の病気である。後者はハワイ沖でアメ
リカの原子力潜水艦が突然浮上して起こった愛媛県立水産高校の救助を
受けた高校生の何人かに起こった。
これらの医学情報の一部は、キイワードで解説をくわえた。推論を広
げると著者のコンラッドもこの憂鬱の時代があったのであろう。それは
年譜で記載したが、青年期に自殺を図ったことがある。彼は、顔の瘢痕
を、照れ隠しのためか決闘により受けた傷痕といっていたが、これは否
定的で、経済的破綻および失恋で極度の鬱になり自殺未遂に起因するも
のだったとする説があり信憑性が高いという。古くはグレイも憂鬱にと
りつかれた人であった。この憂鬱は古くから特に芸術家が陥りやすい病
気であり、これが、芸術の進歩に尽くす役割は大きいとされている。
ヨーロッパ中世の医学説によると、人間には四つの体液と、それ
ぞ れ に 対 応 す る 気 質 が あ り ,「 憂 鬱 」 も そ の 一 つ で あ る 。 デ ュ ラ ー
( Albrecht Duerer,1478-1521) の 「 憂 鬱 」 と 題 す る 絵 や 、 バ ー ト ン
(Robert Burton,1577-1640)の 奇 書 『 憂 鬱 の 解 剖 』 ( 1621) 、 さ ら に
は20世紀のフロイトに至るまで、「憂鬱」は芸術、文学、心理
学などの分野で、ヨーロッパ文化の重要なテーマとなってきた。
「憂鬱」は病的現象である反面、哲学的思索、宗教的瞑想、芸術
的創造性に寄与する心理状態でもある。
近代の医学は憂鬱を双極性障害、即ち、躁と鬱が繰り替えし起こる病
気であると考えているのだが一部には遺伝的素因を背景にもつ鬱のみも
ある。クルツの場合は、原因があって起こった前者だと考える。さて本
題の主人公クルツが陥っていたであろう、その箇所を考えてみることに
- 11 -
する。彼が育った環境は中流家庭であり、次の文章からいかに雄弁であ
り躁の状態であったのが判る。
The original Kurtz had been educated partly in England, and-as he
was good enough to say himself -his sympathies were in the right
place. His mother was half-English, his father was half-French. All
Europe contributed to the making of Kurtz; and by-and-by I learned
that,
most
approximately,
the
International
Society
Suppression of Savage Customs had instructed him with
for
the
the making
of a report, for its future guidance. And he had written it,
too. I’ve
seen it. I’ve read it. It was eloquent, vibrating with eloquence, but
too high-strung, I think. Seventeen pages of close writing he had
found ti me fo r! ・・・・・・ It was very simple ,an d at the en d of th at
moving appeal to every altruistic sentiment it blazed at you, luminous
and terrifying, like a flash of lightning in a serene sky:” Exterminate
all the brutes !"
( HD
最後の節の
"Exterminate all the brutes !"
66)
これは恐ろしい語句である。
また、本国にフィアンセを持っていた彼が、情欲の高まりから現地人の
女性を情婦にしていた箇所即ち
She walked with measured steps, raped in striped and fringed
cloths, treading the earth proudly, with a slight jingle and flash of
barbarous ornaments. She carried her head high; her hair was done in
the shape of helmet; she had brass leggings to the knee, brass wire
gauntlets
to
the
elbow,
a
crimson
- 12 -
spot
on
her
tawny
cheek,
innumerable necklaces of glass breads on her neck; bizarre things,
charms, gifts of witch-men, that hung about other, glittered and
t r e m b l e d a t e v e r y s t e p . ・・・・”S h e c a m e a b r e a s t o f t h e s t e a m e r , s t o o d
still, and faced us. Her long shadow fell to the water's edge. Her face
had a tragic and fierce aspect of wild sorrow and dumb pain mingled
with the fear of some struggling, half-shaped resolve. She stood
looking at us without a stir, and like the wilderness itself, with an air
of brooding over an inscrutable purpose. ・ ・ ・ ・ ・ ”
( HD
77)
これは本題の鬱とは異なるが、最後の場面で、やせ衰え死亡する原因
であったかも知れぬエイズを考えた。なるほどエイズは近年発見された
病気であるが、アフリカに古くから蔓延した病気であり、以前には、宇
宙から来た病気だといわれ、蚊が媒介するのでアフリカに多いと言われ
たが、これらの説は現代では否定されている。従ってこれは後に述べる
ことして鬱の問題を続ける。
日本人作家の憂鬱の例も多々見られる。これが高じるとしばしば自殺
に追い込まれるが、北村透谷は、25歳で自殺、また近代日本文学の代
表者ともされる、夏目漱石もこれにとりつかれた。即ち、ロンドン留学
中の回想として、「もっとも不愉快の二年」(『文学論』)を表し、岡
倉由三郎は「夏目狂したり」と日本に打電した。最近の例では、開高健
がいる。その他にも、江藤淳、三島由紀夫、太宰治、川端康成など枚挙
にいとまないがいずれも最後には自殺に向かった。だが、夏目漱石に自
殺はなく英文学者から小説家に転向、開高健は食道ガンで死亡したので
少し異なっていた。後者は昭和33年に芥川賞を受賞した『裸の王様』
をはじめ『パニック』『日本三文オペラ』などの代表作があり、告白に
- 13 -
よると西洋近代文学の呪縛に苦闘し、小説を書こうと机に向かうが、憂
鬱のため日に1-2枚がやっとであったこともあるという。開高が『闇
の奥』に影響を受けた作家であるのは闇3部作を書いていることからも
推 測 さ れ る が 、 中 井 氏 は そ の The English Book and its Marginalia
の中で開高との関連性を記述している。
Kaiko’s Vietnam-related works range from The Vietnam War Report
(Betonamu senki, 1965) to Into a Black Sun (Kagayakeru yami,
1968) and internationally known Darkness in Summer (Natu no yami,
1972). The Report was written as reportage based on his first visit to
Vietnam (1964-1965) as a temporary correspondent for the journal,
Asahi Weekly (Shaken Asahi).
( ENG
160)
彼の経歴は多くの小説家と異なり、旧制の大阪高校から大阪市立大学
法学部に進んだが家庭は貧しく苦学をして卒業した。また大学時代から
文学に親しみ当時の安保改定反対運動やべ平連運動に参加していた。安
保反対デモ行進に市中を練り歩いたこともあるという。 この開高につい
てもいろいろな人がいろいろなことを言っているが、そのことがいっそ
う 彼 の 評 価 を 高 め る こ と の 証 明 だ ろ う 。一 例 を 挙 げ る と ベ ト ナ ム 経 験 が 、
彼の文学や死生観を一変させた。しかし三島由紀夫、吉本隆明、安部公
房などからは批判された。作家としての想像力を失えばそれは単なるル
ポライターの目に過ぎないというのが彼らの否定的意見の骨子であった
らしい。また医学、病跡学的にみると双極性障害を呈する時期が多く見
られた。佐伯彰一はことあるごとに、海外旅行に出かけたり、釣りに熱
中したりしたのは彼がこれらのことに従事していると鬱病は起こらない
- 14 -
のを知っていたらしいと言う。この行動欲が「内なる鬱」に対するセラ
ピー(治療)に他ならず、しかもその対症療法が、終始一貫卓越した言
葉の語り手たり続けたこの作家の、最大の特徴ともいえるアフォリズム
の 熟 成 に 貢 献 し た こ と を 、「 知 る も の は 言 わ ず 」「 悠 々 と し て 急 げ 」「 死
体を見ずして生を語るなかれ」などの名フレーズを引きながら力説して
いる。
こ の 鬱 の 原 因 に 内 在 す る も の と し て 、あ ま り に 賢 す ぎ る 奈 良 女 子 大 の 物
理学科をでた、妻牧羊子の存在があるようだ。彼女は10歳以上も年上
で、生活力もあり、当時壽屋の研究家課に勤めていた。小説を書こうと
していた彼は収入もなく従って頭を押さえつけられたように思っていた
に違いない。かれらは大阪の文学界で知り合いいわゆるできちゃった婚
であった。彼女の収入での何とか彼らだけの生活はできたが、開高は、
家 に 残 し て き た 母 や 、妹 た ち も 養 っ て ゆ か ね ば な ら ず 困 窮 生 活 は 続 い た 。
鬱の原因はいろいろであるが、このことが大きな内因になったのであろ
う。
第5章
鬱の問題の次に表れた文章は『闇の奥』の中で現れる、前の船長がた
あいのない事件で殺されたくだりである。
「だから、彼は、思い切りこの老くろんぼをひっぱたいた。部下
の村民たちは、あっけにとられ眺めているばかりだった。だ が 、
その時だった。とうとう彼らの一人・・・酋長の息子だというこ
- 15 -
とだったが、・・・年老いた親父の悲鳴を聞くと、矢も立てもた
まらなくなって、ほんの突くともなしに、白人めがけて槍先を突
き出したのだ・・・もちろん槍先は、みる間に 肩胛骨の間に突き
刺さった。」
(中野
17)
この事件を医学的に考えると肋膜を貫通した肺損傷で、気胸を起こし
呼吸ができずに死亡したことになるだろう。特に傷を受けた黒人が肺気
腫にかかっていた場合には緊張性気胸を起こし即死することがある。
次はアフリカでは死亡が極端に多いというくだりだ。
” We gave her
letters(I heard the man in that lonely ship were
dying of fever at the rate of three a day) and went on. We called at
some more places with farcical names, where the merry dance of
death and trade goes on in a still and earthy atmosphere as of an
overheated
catacomb:
all
along
the
formless
coast
bordered
by
dangerous surf, as if Nature herself had tried to ward off intruders; in
and out of rivers, streams of death in life, whose banks were rotting
into mud, whose waters, thickened into slime, invaded the contorted
mangroves, that seemed to writhe at us in the extremity of an
impotent
despair.
particularized
Nowhere
impression,
did
but
we
the
stop
long
general
enough
sense
of
to
get
vague
a
and
oppressive wonder grew upon me. It was like a weary pilgrimage
amongst hints for nightmares.
( HD
29)
アフリカ即ち熱帯には、伝染病が多い。熱のために一日に三人もの白
- 16 -
人が死亡するのは伝染病に対する免疫を持っていないからだろう。熱帯
病は多いが、比較的頻度の高い黄熱病、マラリアを考え、キイワードで
解説を加えた。近日発行されるお札に野口英世の肖像画が選ばれた。彼
は黄熱病のワクチンを作ったといいニューヨークのロックフェラー研究
所からこの成果を示し更なる研究を進めるためにコンゴに行ったが、不
幸にもワクチンの効果はなく黄熱病で死亡した。これは、免疫が形成さ
れるまでに時間を要すること。または、ワクチンが不完全なものだった
のでなかろうか。いずれにしても惜しい人材を失った。この事実は渡辺
淳一氏の『遠き落日』に詳説されている。彼は人の迷惑も考えず借金に
ま み れ て 研 究 を 続 け た と い い 、恵 ま れ た 環 境 に 育 っ た 人 は 例 外 と し て も 、
このような人生の生き方も一つの生き方であろう。
ここで、私も迷惑も考えずに免疫の医学面を考えてみることにする。
免疫を一言で言えば自己と非自己を認識する生体の防御機構であるとい
える。これには、当然病原微生物が関与している。微生物は、DNAお
よ び R N A を も つ が 、こ の 中 に は 原 虫 ,真 菌 、ヴ ィ ー ル ス 、リ ケ ッ チ ア 、
また最近ではプリオンという異常タンパクの概念もあり難しい。これら
のうち、『闇の奥』に関連のある、アフリカ起源の病原体は多く、出現
した時代順に分けるとマールブルグ病、ラッサ熱、HBV,エボラ出血
熱、腎症候性出血熱、成人T型白血病、いわゆるエイズといわれるHI
V-1,2などなど数多く、医師の私も知ってはいるが経験したことが
ないものが多い。これらの伝染病は島国の日本では、空港および海港検
疫 で 、そ の 感 染 経 路 を 遮 断 し て い る が あ り が た い こ と に 今 ま で の と こ ろ 、
亜熱帯性気候という条件が幸いしてHIV、HBV,および成人T型白
血病をのぞいての感染例は見られていない。然し古くは、16世紀にヨ
ーロッパの軍勢により征服された、南米のアステカ文化の例も、ごくご
- 17 -
く少数のコルテス、ピサロの別々の軍勢に率いられ鉄製の銃砲、移動手
段としての馬を使って石器時代のままの兵器で戦った10万以上の現地
の軍勢を打ち負かした。この戦果以上のものは、西欧人が持ち込んだイ
ンフルエンザと天然痘の感染での死亡例ほうが、多かったといわれてい
る。現地人には、この病気に対する免疫が全くなかったのでたくさんの
犠牲者を出した。
免疫には、完全免疫と不完全免疫があり、前者は、はしかがその例で、
後者にはインフルエンザがある。また、先天免疫と、獲得免疫もよくい
わ れ る 。液 性 免 疫 、細 胞 性 免 疫 も あ り 前 者 に は 、補 体 が 後 者 に は 、単 球 、
好中球、NK細胞が大きく関わる。病原微生物が人体を死に至らしめる
方法に、即時型のエンドトキシンによるものと、細胞破壊により例えば
『闇の奥』に度々出てくる、発熱により、衰弱死に至るものがある。ク
ルツや乗組員でこの発熱による病状の悪化から死に至る例が語られてい
る。次に当然プリオンのことを書かねばならぬが、むつかしく、また関
連性もないので、省略するが一言追加すると開頭手術後にドイツから輸
入された代用硬膜を使い、プリオン病を発生、これは発見者の名をとっ
て Kreutzfeldt-Jakob’s disease と 称 せ ら れ た 。 無 辜 感 染 の 例 で あ る 。
今全世界の注目を浴びている問題にアルカイダによるテロ攻撃が言わ
れているが、これに、地球上から撲滅されたペスト、天然痘による細菌
戦争も考えられ、秘密裏に継代培養がなされているようだし、また統計
的にはもう世界には発病例がないといわれているのだが、微生物病原体
が ど こ か に 潜 ん で 生 息 し て い る か も 知 れ ぬ 。ク ル ツ に 習 っ て( 恐 ろ し い 、
恐ろしい)
閑 話 休 題 : 同 じ よ う な 事 実 は 医 学 で は ご く あ り ふ れ た こ と で あ る が 、有
- 18 -
名なのは、ドイツの細菌学者ペッテンコファーが、コレラ環境説を唱え
体の状態が悪い時に発病するといい、観衆の前でコレラ菌が入った飲み
物を飲み、発病しなかったという。これは、ばかげた実験で、もし発病
をしたらどうしたのだろうか?後世の学者が批判するのは容易いが当時
は真剣に論議された。
少し前には、テレビでBSE(狂牛病)の問題
に関して国産肉が安全だと農林大臣がおいしそうにビフテキを食べるの
シーンが放映された。これも、業界から求められたコマーシャリズムに
よる宣伝の一種であり誰もこれを止めるものがいなかったのだろうか
こ こ で 話 題 を 変 え る 。ク ル ツ の 部 下 の 襲 撃 で 黒 人 の 舵 手 が 死 亡 す る 場 面
である。
The thin smoke had blown away, we were clear of snag, and looking
ahead I could see that in another hundred yards or so I would be free
to sheer off, away from the bank; but my feet felt so very warm and
wet that I had to look down. The man had rolled on his back and
stared straight up at me; both his hands clutched that cane. It was the
shaft of a spear that, either thrown or lunged through the opening,
had caught him in the side just below the ribs: the blade had gone in
out of sight, after making a frightful gash; my shoes were full; a pool
of blood lay very still, gleaming dark-red under the wheel; his eyes
shone with an amazing luster. The fusillade burst out again. He
looked at me anxiously, gripping the steer like something precious,
with an air of being afraid. I would try to take it away from him. I
had to make an effort to free my eyes from his gaze and attend to the
steering.
( HD
- 19 -
62)
こ の 文 章 を 考 え て み た 。外 科 医 の 見 方 で あ る が 、中 野 好 夫 氏 は い み じ く
も脾腹(ひばら)と訳している。肋骨の下に突き刺さった槍の穂先であ
るが、左右が書かれていないので推定でしかないが、右下なら大きな肝
臓 が 位 置 し 、こ れ に は 大 血 管 即 ち 、3 本 の 太 い 肝 動 、静 脈 、門 脈 が 有 り 、
肝実質もジヌソイドという、血管に富んだ組織であるので、損傷を受け
ると大出血を起こし、救命は難しい。左下なら、脾臓があるが、これは
肝臓と比べれば小さく、穂先が突き抜ける確率は少ないであろう。もう
少し、下の方なら小腸、大腸がある。管くう臓器であり、これに刺さっ
ての即死は考えられぬ。嘗てのプロレスラー力道山の例のように、数日
後に腹膜炎を併発して死亡する。でも腸管を栄養する血管が、腸間膜に
豊富に存在しているので、これの損傷も考えねばならないだろう。この
場合だと出血死も考えられる。いずれにしても、血管そのものの損傷で
なければ即死にはいたらぬのが普通である。
この恭順黒人ともいえる舵手が、日露戦争で進軍ラッパを手に持った
まま敵の銃にうたれて死亡した木口小平の例といかにも似ている事を考
えるのは、私たち老人が最後だと思う。
第6章
マーロウが見た黒人の地獄絵といってもよい場面であるが、飢餓が問
題になるだろう。作業現場で首を鎖でつながれ、痩せ細った黒人が働か
される場面や、ぼろ蒸気船に乗組員として雇われた、黒人たちも食料と
して、持ってきたものすごく悪臭のするカバの肉を巡礼に河に投げ捨て
られてしましいつも、飢餓状態にあった。でも、共食いはしなかったよ
うだが、飲料水はどうだったのだろうか。これがなければ、3日と生き
- 20 -
続けることは出来ないし、河の水は汚染されているとはいえ、十分にあ
ったのだろう。彼らは、これを飲んで、飢餓に耐えたのだろうが、自分
の経験からすると、腹が空くと気分がいらだち、少しのことでも腹を立
て、喧嘩になったりする。これを1-2日も過ぎると放心状態になり、
食べ物のことばかり考えるが、その後は、意識もはっきりせぬようにな
る。ただ繰り返すが、水がなく従って尿がでぬ場合、生存は出来ぬ。ま
た、日本では、汚染水の問題から離れて、軟水を飲料とするが、世界的
には硬水の地域の方が多い。これは、普段から飲んでおり問題にはなら
ぬだろう。またカバの肉だけで、糖分を食料としないのだろうか。つま
らぬ疑問もわいてくる。この飢餓に対する問題をアフリカ土人の自制心
により人肉を食べないと解釈した本も見られる。この考えは妥当なもの
で、コンラッドの深い意味を含んだ文章であることの証明である。すな
わち
In
a
world
in
which
other
restraint,therefore,becomes an
values
seem
to
be
gelatinized,
important value for Conrad.
In The
Heart of Darkness restraint is by no means the sole property of
Westerns. For Marlow the Africans who accompany him on the
journey up the river display more restraint than any European when
they resist "the debility of lingering starvation" by not killing and
eating the whites. Marlow, however, cannot explain this restraint,
which he finds a mystery greater than the inexplicable sounds of
savagery emanating from the primeval forest. He cannot explain it,
because for Marlow values work is made clear in another break in his
narrative.
- 21 -
でも給料だけは、きちんと針金で支払われていた。これで、現地で食料
と交換するのだが、ヨーロッパ人は、うまい策略を考えた。やすい針金
を上手に使う搾取だ。でも、交換する現地人がいなくては、それも出来
ぬ。
こ こ で 、本 題 の ク ル ツ が 陥 っ て い た で あ ろ う 病 状 と 、死 に 至 っ た 病 跡 を
考えてみることにする。その最初は、25歳のロシア人道化の言である
が、彼は、一方的にしゃべり話などできぬくだりは、躁の時代であり詩
を 書 い て 朗 読 し た り す る 。ま た 情 婦 を 囲 っ て い た の も 、同 じ で あ る が( 性
欲の高まり)、クルツの描いた、女性の暗い絵の話があるのは、鬱の時
代があったのだろう。えてして、躁の時よりも鬱のほうがしっとりと落
ち着いた作品ができる。なるほど、その作品の数は少ないが、また彼が
作った詩の朗読をして見せたりするので道化は宇宙的天才であると評価
する。 痩せ細ったクルツが一旦は、ヨーロッパに帰るのを 納得し、積
み 荷 と し て た く さ ん の 象 牙 を 積 ん で 、川 を 下 り 本 社 に 送 ろ う と す る が 私
の象牙・・・・叫んで丸木船で、奥地に引き返すくだり・・・これも変
で あ り 一 度 熟 考 し て の 本 国 帰 還 を 翻 す の で あ る か ら 、批 評 家 の 多 く は 闇
の奥の魔力に引き込まれた狂気と判断している。でも医師の目から見る
と、自分の病状がいかにも悪いのはわかっており、死んでしまえばもう
ア フ リ カ の 奥 地 に 来 る こ と は か な わ ず 無 謀 と し か 言 い よ う が な い 。ま た 、
蒸気船から逃げだして、密林の中で草むらをもう歩くことが出来ぬほど
に弱り果て、草むらを這いながら(故国に連れ帰られるために乗った)
蒸気船から逃げ出すのは、狂っているとしかいえない。生に対する執着
があるならヨーロッパに帰り、体をもとどおり元気にして、アフリカに
帰れるはずだ。これに関して、クルツの奥集会所近くでマーロウが望遠
- 22 -
鏡で見たのは杭の上の丸い数個の飾りはクルツに背いた現地人のむくろ
だった。これは、明らかに精神の障害を持った者の仕業である。いくら
ク ル ツ に そ む い た 見 せ し め の た め と は い え 、何 人 も の 生 首 を 飾 る こ と は 、
出来ぬ。理解できぬ狂気は即ち内因性鬱病の域を超え、分裂症である。
でも別の見方もある。いろいろの考えがあってこそ論文が生まれるとい
うものだ。以下の文節は私の考えと異なったものである。
マーロウに言わせると、クルツは、始末に悪いことに狂人ではな
い。「その知性は完璧に明晰に働いていた、けれどもその魂は狂
っていた、荒野の真ん中で孤独であったので、その魂は自らのう
ちを覗き込み、そして誓って言うが、狂ってしまったんだ。俺も
・・おそらく俺の罪深き生のゆえに・・それをのぞき込むという
試練に耐えねばならなかった。」
これが、開高健の場合も同じだ、推測に過ぎぬが、娘道子の自殺・・
・電車に轢かれたというが、開高は娘の発病を絶えず心配していた。こ
れも開高の家系に分裂病者がいて、彼はそれを知っていたらしい。遺伝
的素因を持ち、どうしようもない分裂病(連合失調病)の一形態の鬱病
は、二極性障害とは、異なる。一般にこの高度鬱病は躁の時期はないと
言われ、(でも医学には理解できぬことがままある。)自殺に向かいそ
れを成功させる。ヒステリーといわれるものとは、この点で異なること
になる。分裂病の患者は知能薄弱者とは全く異なり、優秀な頭脳をもつ
人 も あ る 。ま た 、こ れ が 、青 年 期 に な り 周 囲 の 人 が 異 常 行 動 を 指 摘 し て 、
病院に行き、正確な診断を得るのであるが、このような悲惨な例は、私
も 経 験 し て い る 。医 学 部 専 門 課 程 4 年 次 に 精 神 科 学 の 講 義 が あ る の だ が 、
- 23 -
テストは、ペーパーと口頭試問の2つに合格せねば卒業は出来ぬ。友人
の一人は最後の精神科の教授 による面接口頭試問で連合失調症(分裂
病)と診断され、医師になることを、あきらめねばならなかった。同級
生の誰一人も、彼が、その病気を持っていたなどと考えたこともなく、
入学試験でわかっていれば6年間も、苦労することもなかったと試験の
不備を友達同士で話し合った。学校側の温情で、医学部卒業の資格はも
らったが、終生、医師国家試験を受けないと約束させられたと聞く。4
0年以上前のことでもあり、彼は同窓会に出席もしないしその消息を知
っている者は、ほとんどいない。
第7章
ま た 本 題 に 帰 る が 、ク ル ツ が か か っ た で あ ろ う 病 気 の 数 々 を 、考 え て み
た。7フィートもの大男で身体、精神共に健全で、アフリカの奥地に行
ったのだろう。でも、精神のことは、既出であるが、道化によると、熱
病 に 、犯 さ れ 危 険 な こ と も あ っ た と い う 。こ れ は 、頻 度 か ら 考 え て マ ラ
リアを病んでいたのだろう。100年前に、この治療薬キニーネがあっ
たかどうかは、知らぬが、この病気であれば7日熱とか、3日熱とかい
うとおり、間欠的に発熱し、自然に緩解するから理解可能だ。他にも、
黄熱病などのヴィールス性疾患やインフルエンザ、赤痢、コレラなどの
病原菌起因の病気に違いない。症状の記載がないので、これ以上の推測
は暴論であるのでやめる。
また、情婦もいたようであるので、現地に多いエイズ、B型肝炎も考
え て み た 。エ イ ズ は 免 疫 不 全 症 候 群 と い わ れ る ご と く 、性 感 染 症 で あ る 。
よく知られたことだが、原虫により、カリニ肺炎を起こすという。また
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今、日本でも話題の肝炎ヴィールスであるが、A,B,C型がありAは
症状が軽く、自然治癒が多く、アジアに多い。Bはオーストラリア原住
民、アボルジニーで発見され、フランスのパスツール研究所、モンタニ
エ 博 士 と 、 東 京 大 学 ,大 河 内 博 士 の 間 で 病 原 体 発 見 の 先 陣 争 い が あ っ た
が、血液からの感染で、胎盤からの母子感染が大部分である。これも、
性行為により感染し、発熱、黄疸等の症状を呈する。アフリカも流行地
であり、当然ながら、一番に考えねばならないだろう。稀に、ゼロ・コ
ンバージョンという自然治癒が有り、肝臓癌への進行もある。これには
安静などで、軽快することもあり、またシューブと称する軽快、増悪を
繰り返し、だんだん肝硬変に向かう。
クルツの場合、何年アフリカの奥地に居住したかは不明であるが、あ
る本には、2年程度とあった。この程度の滞在ではよほどのことがない
限り、癌までの進行はなかっただろう。C型は、放置すれば肝硬変、肝
癌 へ と 1 0 0 % 進 行 す る も の で 、薬 物 中 毒 者 や 入 れ 墨 な ど で 、感 染 す る 。
この治療に、インターフェロンが使われ最近では、かなりの数の治癒を
見ている。C型の慢性肝炎、肝硬変、肝癌と進行するのはそれぞれ10
年の期間を必要とするのが普通である。これも除外すると、B型肝炎の
シューブ(急性増悪)と繰り返し起こった発熱のために、やせ衰えたと
結論したい。コンラッドが持っていただろう女性に対する感情は美しい
ものであるが、男性に従順であらねばならぬとの、戦前の日本人の持っ
た 考 え に 似 て い た の だ ろ う 。そ の 一 部 の 解 説 を 序 で 述 べ た の で 省 略 す る 。
最後にナイジェリアのノーベル賞授賞作家チヌア・アチュベの『闇の
奥』批評の節を引き合いに出して終わりにしたい。
In a 1975 lecture at the University of Massachusetts, Nigerian
- 25 -
novelist China Achbe is attracted Heart of Darkness as "racist".
Conrad "project the image of Africa as 'the antithesis of Europe and
therefore of civilization, a place where man's vaunted intelligence
and
refinement
are
finically
mocked
by
triumphant
bestiality”.
Supposedly the great demystifier, Conrad is instead a "purveyor of
comforting myths" and even "a bloody racist". Achebe adds;” That
this simple truth is glossed over in criticisms of his work is due to
the fact that white racism against Africa undetected"
( HD
277)
こ れ は コ ン ラ ッ ド か ら し て 、7 5 年 も 後 に 発 表 さ れ た も の
で あ り 時 代 差 の 問 題 も あ る が 、 納 得 で き る 発 言 で あ る と 思
う 。
結論
コ ン ラ ッ ド の 小 説『 闇 の 奥 』は 彼 の コ ン ゴ 紀 行 に も と づ く も の で あ る
が、これはほぼ実話と考えてよい。なぜなら、事前にコンゴ河を遡上し
て短い紀行文を書いている。この謎多き20世紀近代小説代表作をその
内容から考えられる、数々の疑問のうち、当時の帝国主義思想への疑問
や、彼に関して人間性を議論する学部論文、修士論文、博士論文など、
また本として発行されたものは多い。このうち代表となる10数編を参
考にして議論を展開した。中井亜佐子さんの論文、中野好夫氏の翻訳、
また最近発行された米国の書籍マーフィンによる編纂の書籍などは特に
参考にさせていただいた。引用させていただいた論文は引用文献として
別記したが番号を付記した。この『闇の奥』の批評は初期にはこれが近
- 26 -
代を代表する小説の一つとして絶賛された。ジッド、バートランド・ラ
ッセルなどがそれである。前者は『闇の奥』を持参して、その光景を実
証して紀行文を書いた。反対に1975年ナイジェリアのチヌア・アチ
ェベが差別小説であると非難した。このことを紹介するとともに私の意
見を述べた。彼の代表作に『神の矢』『部落崩壊』がある。コンラッド
が読んでいたであろうと考えられるフランスの小説家フロベールの文章
構成法なども参考にしていたらしい。また、話の順序として、100年
前のポーランドの歴史、著者の育った家庭環境、作品の紹介もした。ク
ルツ、また著者の抱いていた女性観も考えてみた。しかし
この小説の
中に出てくる疾患の数々は何だったのだろうか。これを予想させるよう
な、論文は見あたらない。著者コンラッドの年譜で示したように彼は自
殺未遂を行っている。彼も、青年期に多い鬱病に極度に進行したもので
あったろう。一般的には、たとえ経済的破綻または恋愛沙汰であったに
せよ自殺を試みることは少ない。たぶんに鬱的状態であったのだろう
か?未開の中央アフリカ
コンゴへの巡礼とは何か、また主人公クルツ
がかかった病気を40年以上の経験がある医師の著者が、無謀のそしり
を受けるのも返りみず推論を試みた。即ち
船では一日に3人の割合で
船員が熱病で死んでいること、この前1人の男を乗せたが、途中で首を
くくったよ、などである。この熱病の原因をマラリアであると考えた。
後者では二極性障害といわれる、躁鬱病を、開高健氏を例にとり多少詳
しく述べた。この中には単極性障害である鬱病だけのものもあり前者は
環境や気分気持ちの持ちようなどに左右され後者の躁鬱病といわれる病
気は遺伝的素因があるという。その例として開高氏の娘道子が電車に轢
かれるという事故は今では躁鬱病による自殺と考えられており、彼は娘
にその素因が遺伝するのを恐れていたらしい。
- 27 -
現地の黒人を船の作業員として何人かを雇い、乗船させたが、彼らが
食料として持参した悪臭のするカバの肉を巡礼者がその悪臭に耐えかね
て河に放棄したので飢餓におちいった。ただ水だけで何日も空腹に耐え
うるのだろうか。人食い人種である、黒人の持つ理性が巡礼を襲い食べ
ることをしなかったのだろう。又、船がクルツのいる近くで、彼の命令
で、弓矢で襲われたが、舵を取っていた黒人が、槍で刺されるが、左の
脇腹の貫通創を受け、ほぼ即死の状態に至るが、大量の出血をして死亡
したことから、脾臓の損傷が考えられる。脾臓は血液の貯蔵所であり、
大量出血は当然で、他に結腸などの腸管損傷もあるが、これでは即死に
至らぬ。最後に最近の医学で、唱えられている、人類の起源がB型肝炎
を 例 に そ の ゲ ノ タ イ プ ( adw,adl) を 利 用 し て 解 明 す る こ と が 出 来 る と い
う新説も見られているが本論とはあまり関係がないので省略した。
又、コンラッドの女性観も考えた。ヴィクトリア朝末期の女性は家庭
を守るという保守的で伝統的なものであった。キイワードは女性、帝国
主義、様々の病気などである。全くの、独断に基づく議論の展開である
ので、間違いもあると思う。ご指摘いただくとうれしい。
謝辞
絶えず、ご指導いただいた、放送大学、山内久明、大石和欣両教授、
徳島文理大学名誉教授植苗勝弘の3氏に深甚の感謝を捧げる。又、多く
の文献を参照させていただいた丸亀市図書館、図書館員にはいろいろ文
献の送付を受けることなどでお世話になった。香川学習センターの高尾
所長には指導教授の選定手続きを教えてもらった。最後に、娘の在米の
野間美津子にも文献の送付などで世話になったことを付記する。
- 28 -
多く
の皆さんの協力がなければ完成に至らなかった。
要約
1 0 0 年 前 の ポ ー ラ ン ド か ら 帰 化 し た 作 家 コ ン ラ ッ ド の 中 編 小 説『 闇 の
奥』は、ヴィクトリア朝末期イギリスの謎の多い、意味するところの多
いものである。従って多くの研究者が何を意味するかについて、いろい
ろの論文を発表している。主人公であるクルツが、最後にコンゴの奥地
で 死 亡 す る 。 語 り 手 マ ー ロ ウ が 、テ ー ム ズ 河 を 遡 上 す る 観 光 帆 船 の 上 で 、
コンラッドに成り代わって経験したコンゴ河遡上でナレーションをする
のであるが、ぼろ蒸気船で、上流の象牙の集積所にいるクルツという所
長が、病気であり、ベルギーの本国に連れ戻し、その治療を受けさせる
ために行く。途中でいろいろなことを聞いたり、経験したりする。ベル
ギー本国からジブラルタル海峡を越えてコンゴ河口に到着し平底の河蒸
気船に乗り換えて奥地に向かうが、最初に経験するのは、船長を務める
予定の船が、すでにないことから始まる。船が、偶然の事件により沈め
られていた。沈んでいる船を引き上げて修理して、現地の土人を船員に
採用、40人の白人の巡礼 を乗せて奥地に向かう。この白人の巡礼が、
未開のコンゴ奥地のなにを目的に巡礼を試みたことも、謎めいている。
これについても仮説を試みる。
次にその小説の中に描かれている様々の医学的内容につき考えてみ
た。その概要は白人優位説を裏付ける脳の重量の大小が知能の発達を意
味し、採用時に、計測をさせてくれと医師から依頼を受けることに始ま
る。帝国主義が衰退に向かう19世紀末にはやった人間の知能は脳の重
量に左右されるというダーヴィニズムの流れを引く計測学であったが、
- 29 -
今日の医学ではあまり意味のないものとされている。即ち一般にいわれ
るごとくアインシュタインの脳の重量は、常人のものと変わりはなく、
また外見的にはいわゆる福助頭はいかにも大きいが水頭症によるもの
で、病的なものとされている。最近ではPETを用いた脳機能の研究が
進みつつある。またその老医師からコンゴから生還したものはなく、闇
に犯されて自殺を図るものがいるなどと謎めいた話を聞かされる。
奥地にいて象牙の採集を暴力的にはかる主人公クルツは、死に瀕する
よ う な 熱 病 に 、何 回 か 冒 さ れ た が 、現 代 の 医 学 か ら 考 え て 、ア フ リ カ は 、
熱帯であり、すべての伝染病の宝庫といわれている。すなわち、マラリ
ア、天然痘、黄熱病
B型肝炎、エイズ、西ナイル熱など、日本の医師
には、なじみの少ない病気である。これらのうち、マラリア、B型肝炎
をその『闇の奥』の小説に出てくる、文章を参照しながら推測をした。
また、病気の彼の看病を、何回かした、クルツを崇めるいわゆる恩人で
もある25歳のロシア人で万国旗のように色彩豊富でつぎはぎだらけの
服を着た道化がいる。その彼が持っている少しばかりの象牙をよこせと
いい、感情の高まりにより撃ち殺そうとした。この話の終わりには、大
男の彼が、やせ衰えて死に至るがこの原因を、当時でもあったに違いな
いエイズ、またはB型肝炎、それから進行して、肝硬変にむかったであ
ろうことなどと、土人の女を情婦にしていたので、性感染症を、話題に
してみた。最後に、感情の起伏が、常人以上に高く、2極性障害(躁鬱
病)であったことは、恐ろしい、恐ろしいといいながら
死に至ったこ
とから予測される。躁病の時期には性欲も高まる。
この小説の映画化は、何度も試みられたが、完成をみたのは、現代風
にアレンジして、ベトナム戦争に場面を設定して、上映された、コッポ
ラ監督の、『地獄の黙示録』と、コンゴ河を、女性の宣教師が、遡上す
- 30 -
る映画、『アフリカの女王』がある。前者は、アメリカ政府に反戦映画
と言われ、その制作の協力を拒否された経緯がある。後者は、コンゴ河
の風景や、船蒸気船の情景がよく理解でき、この二つの映画はアカデミ
ー賞を得ている。
現地の古くからの土俗の宗教と、キリスト教にも、コプトとカトリッ
クの2つがあった。このことについても考察する。次にこの作品の大き
なテーマである、アフリカの闇が主人公クルツを変貌させた謎を、考察
した。クルツの人間性は、彼を神のごとく崇める青年の語りからのみ、
推察されるが、絵を描いたり,詩を作ったり、又新聞に記事を寄稿した
りと万能の天才であると評価された彼が、雄弁であり、ただ聞くだけで
話し合いはできぬと言う異常な性格に変貌している。このことは、医学
的に考えれば2極性障害のうち躁病に該当する。又このロシア青年は彼
の死後の評判を気にするが、語り手のマーロウはそんなことを心配する
には及ばないと述べる。マーロウはベルギーに帰国後、彼の婚約者とい
う女性の訪問を受けるが、クルツが死に直面して最後の言葉は何だった
かと聞かれ、あなたの名前でしたと嘘をつく。これが、彼女に与えた影
響は大きく彼は最後まで、まじめに彼女を愛したことを想像させた。
日 本 の 小 説 家 に 与 え た 影 響 も 大 き な も の が あ り 、コ ン ラ ヂ ア ン ・
グ
ループと称される研究集団もある。また、その代表として、闇三部作を
書いた開高健についても考えた。
年譜
(鈴木
1772年
422より改作)
オーストリア、プロシア、ロシアの第一次
- 31 -
ポーランド分割。
1773-5年
ブガチョフの 乱 。
1793年
第二次ポーランド分割。
1793年
第三次ポーランド分割。
1830年
ロシア領ポーランドで 大反乱起こる。
1832年
反乱の失敗によりロシア領ポーランド自治
権廃止され直轄領となる。
この騒動に、コンラッドの父系の祖父であ
り、文学青年でロマン的愛国者だったテオ
ドール、騎兵大尉として活躍。
シベリアに流刑になり14年後に釈放され
て帰国。
1854年
クリミア戦争起こり、ポーランド独立運動
激しさを加える。
1858年
父 、ア ポ ロ ナ レ ン チ・コ ジ ェ ニ オ フ ス キ ー 、
エヴォリーナ・ボブロフスキーと結婚。
時 に ア ポ ロ は 3 6 歳 、エ ヴ ォ リ ー ナ 2 3 歳 。
ポドリナ地方のルチェニックに住み、アポ
ロは土地管理人となるが、無能。
やがてウクライナのキエフ近くに移る。
1858年
ジョゼフ・コンラッド生まれる。二人の間
には、他に子供はなかった。
Jozef
Konrador Nalecz Korzenjowski と 名
付けられる。
父母の生家は
- 32 -
共に地主階級でカトリック
教徒。
1859年
1歳
アポロ一家ジミトールに移り、アポロはそ
の地の文学グループに参加。
1861年
3歳
アポロ単身ワルシャワに出、表面上雑誌発
行の計画に従事しがら、ポーランド独立運
動 の 急 進 派 と 交 わ り 、そ の 中 心 人 物 と な る 。
秋、妻子を呼び寄せる。
10月ロシア官憲に逮捕され ,城塞に 禁
固される。
1862年
4歳
6ヶ月の裁判の後、軍法会議に移され、流
刑に決まる。
エ ヴ ェ リ - ナ 、夫 に 従 い 流 刑 地 に 同 行 す る 。
コンラッドはモスコワ付近で肺炎になり、
一度医者に診せただけで、流刑地のヴォロ
ガダに到着。
1863年
5歳
エヴェリーナの健康上の理由で気候穏和な
チェルニコフに移される。
彼女は肺結核を病んでいる。
1865年
7歳
エヴェリーナ僅か32歳で追放地にて病
没。
1866年
8歳
母を失ったコンラッドは、父によりヴァス
トフの叔父タデウスのもとに送られる。
彼 自 身 の 回 想 録 に よ る と 、5 歳 の 頃 か ら 読
書家でデッケンズの作品をフランス語と、
ポーランド語で読んだという。
- 33 -
1867年
9歳
妻と同じく結核に冒されたアポロは条件付
きで仮釈放され転地療養を許されたが、体
力はすでになかった。
1868年
10歳
コンラッド親子、旧ポーランド領でもっと
も自由を許されていた
オーストラリア領
のガリシアに行く。
アポロはここの訛りの多い
ポーランド語
を好まず、学校に行かせず、自ら教える。
1869年
11歳
父と共に文化的伝統の古いクラコウに移
り、学校にはいる。
亡き母の思い出にふける
陰気な病気の父
のそばで読書の生活が続く。
父死す。
この後叔父タデウスの世話になる。
1870年
12歳
セント、ジャック校入学 。
ここで
『ノストローモ』 のモデルといわ
れる、ジャニナ、タウベと知り合う。
1872年
14歳
この頃船員になりたいという意向を示しタ
デウスを驚かす。
1874年
16歳
タデウスを説いてフランス商船隊に加わる
許可を得て、クラコフに戻る。
叔父はコンラッドに年2000フランを仕
送る。
毎月マルセイユで受け取る。
1875年
17歳
西インド諸島に向け航行中時化に遭い陸路
- 34 -
パリ経由マルセイユに帰る。
1876年
18歳
サ ン 、タ ン ト ワ ー ス 号 の ボ ー イ と し て 再 び
西インド諸島に向かう。
1877年
19歳
イギリス船に乗り組むことについて叔父タ
デウスに相談。
マルセイユ時代は叔父に度々送金を要請、
浪費について叱責を受けることが多かっ
た。
1878年
20歳
胸部に負傷。
この報を受け、タデウスがマルセイユに来
るコンラッド自身はこれを決闘によるもの
と言うが、恋愛事件の破局と経済上の破局
による自殺未遂説が有力。
イ ギ リ ス 船 メ イ ヴ ィ ス 号 、デ ュ ー ク 。オ ブ 。
サザランド号の水夫としてシドニイに向か
う。
1880年
22歳
二等航海士試験に合格。
1883年
25歳
ジャワ沖で積み荷の石炭が発火、乗員はボ
ートに乗り込みムントクに向かう。
老巧船での経験が『青春』素材となってい
る。
1884年
26歳
ボンベイでナーシサス号の2等航海士隣、
『ナーシサス号の黒人』はこの時の経験を
書いた。
1886年
28歳
ロシア帝国国民コンラッドはイギリス帰化
- 35 -
を許可さる。
船長資格を取得。
1887年
29歳
1等航海士としてフォレスト号に乗り組み
ジャワに向かうが船中で負傷、シンガポー
ルで静養、ロンドンに帰る。
処女作
『オールメイヤーの阿房宮』のモ
デルに逢う。
1888年
30歳
オターゴ号の船長となり、シドニィ着。
死期の近い叔父タデウスから手紙を受け取
る。
1889年
31歳
ベルギー領コンゴ貿易会社の河船の船長に
なるための運動を始める。
1890年
32歳
叔父に会いにキエフに行き、コンゴ行きの
決定を聞く。
コンゴ河を遡上,スタンレイ瀑布あたりま
で行った。
1893年
35歳
フランスからアメリカへの移民船アドア号
の1等航海士となるが、予定の移民集まら
ず。
1894年
36歳
アドア号を去る。
以後二度と船に乗り組むことはなかった。
『オールメイヤーの阿房宮』完成。
1896年
38歳
ジェシィ、ジョージと結婚。
『救助者』、『白 痴』、『進歩の前哨所』
『干潟』を次々と完成。
- 36 -
1897年
39歳
『青春』、『ナーシサス号の黒人』完成。
1899年
41歳
『闇の奥』完成。
1900年
42歳
『台風』、『フォーク』、『エミィ、フォ
スター』完成。
1902年
44歳
『追いつめられて』完成。
1905年
47歳
『畜生』、『アナーキスト』、『密告者』
完成。
1906年
48歳
南フランス滞在。
1910年
52歳
『西欧人の目で』完成。
1913年
55歳
『マラタの農園王』完成。
1914年
56歳
『勝利』完成、家族と共にオーストリア領
ポーランド訪問中第一次世界大戦始まり、
帰国に難渋。
1815年
57歳
『日脚』完成。ワルシャワ陥落。
1917年
59歳
ロシア二月革命、ロマノフ朝滅ぶ。
1920年
62歳
故国ポーランドに帰りたいという気持ち強
まる。
1923年
65歳
アメリカ合衆国に行く。
1924年
66歳
オズワルドの自邸で、心臓発作のため突然
逝く。カンタベリーに埋葬さる。ジッド、
ヴァレリー寄稿。
キイワード
コンラッド
- 37 -
( 鈴 木
よ り 改 作 )
14歳になったコンラッドは、船員になりたいと世話になってい
た、叔父タデウスに述べそれから2年間も、根気よくタデウ ス の
許可を得るまで、待っている。動機は、西欧文化へのあこがれと、
ロシアの属国となっている、ポーランドからの脱出であろう。こ
の叔父の許可を得た後、1874年16歳でフランス船の平水夫
として採用され乗り組んだが、最下等の乗組員であり、苦労多き
ものだった。続いて、1878年から、イギリ
ス船に乗り組む
が は じ め は 英 語 が 下 手 で 困 っ た ら し い 。 何 度 も 東 洋 に 航 海 し ,1 8
80年には、2等航海士、それから6年後 の1886年船長資格
を取った。同年イギリス帰化を許されたが、この際に 叔父のタデ
ウスに当て、祖国忠実の手紙を書いている。それ以後14年間船
員生活を続け、長年書きためた小説を1994年『オールメイヤ
ーの阿呆宮』として最初に出版した。これ以後は船に戻ることは
なく『ナーシサス号の黒人』
『 青 春 』『 ロ ー ド・ジ ム 』な ど を 書
き、作家としての地位を築いていくことになった。でも、海員生
活をやめてからの生活は順風満帆とはいえずその作品制作の遅さ
と、生活のつらさ、体の歩合の悪さなどが伴い、何度も海の生活
に戻りたいと希望した。(書けば書くほど自信がなく、1センチ
さえ書く能力が
ないかという気がする)愚痴を言い、鬱的状態
になってもいる。
1870年を境にイギリスの社会は大きく変化し、産業革命後に
発展を続けた、躍進の時代から、帝国主義時代に移ることになっ
た。即ち、国内産業はその頂点に達したので、更なる飛躍を、外
国に向けた。船の世界でもこの例に漏れず、帆船から 蒸 気 船 の
- 38 -
時代に変わっていく。コンラッドはまさにこの時代を生きたので
あったが、手をかければかけるほど意のままに動いてくれる帆船
を こ よ な く 愛 し 、 そ の こ と を 、 小 説 に し た 『 青 春 』 ( ” Youth、 ”
1902)がある。彼の船員時代はフランス船時代を含めれば、
2 0 年 に も お よ び 、軍 隊 に 次 ぎ 、苦 し い 訓 練 で , い わ ゆ る 上 意 下 達 、
誠実、義務感の認識などを学んだのであろう。
For the great mass of mankind the only saving grace that is needed is
steady Fidelity to what is nearest to hand and heart in the short
moment of each human effort. In other and in greater words, what is
needed is a sense of immediate duty, and a feeling of impalpable
constraint, indeed, seamen and duty are all the time
inseparable
companions.
こ の コ ン ラ ッ ド の 前 近 代 的 と も い え る 義 務 感 、名 誉 、忠 誠 な ど は 彼 が 没
落しかかった小貴族のせがれであったことにも起因するのであろうか。
古代アフリカ教会
アフリカ教会は殉死教会であった。隠修土教会とも言われた。
ローマ教会
殉死は避けられるものであれば避ける方針で、従って激しい対立を見
た。即ち土着の、コプトと、あとから来たカトリック教会との対立で
あった。
コプト
古くからの土着のキリスト教会
- 39 -
アメリカにおけるコンラッド的伝統
アフリカを見る見方は苦痛に満ちた成熟に至る旅と見て、19 3 0
-40年代には優勢になり、軽い冗談のつもりで精神科分
析 医 に 行
くかアフリカに行くかのどちらかだといった。
『地獄の黙示録』
( 立 花
よ り 改 作 )
RKOと話がまとまり撮り始めたが予算の大幅に減額で、撮影1日目
に中止。コッポラはジョージ・ル-カスから引き継いで
制 作 サ イ
ケデリックソールジャー というのが最初のタイトルである。
最 近 衛 星 放 送 で 、 『 地 獄 の 黙 示 録
特 別 完 全 版 "Apocalypse Now
Radix"』 (2001)が 放 映 さ れ た 。 こ れ は 『 地 獄 の 黙 示 録 』 ( 1 9 7 9 )
を再編集して、公開されたものである。これは20世紀文 学 で 難 解
と言われる『闇の奥』を現代風にフランシス・フォード・コッポラ監
督により映画化され、話題を呼んだものであり、
エンディングに
カーツ大佐が築いた、現地の王国を爆撃して、破壊し尽くすというも
の で 、ず い ぶ ん 長 い 作 品 に 作 り 替 え ら れ て い る 。コ ッ ポ ラ は テ レ ビ で 、
こ の 付 け 加 え た 3 0 分 は 、神 話 な い し 寓 話 と 見 て ほ し い い と 語 り 、『 闇
の 奥 』以 外 に も 、ヨ ー ロ ッ パ の 聖 杯 伝 説 を 基 礎 に エ リ オ ッ ト の『 荒 地 』
フ レ イ ザ ー の 『 金 枝 編 』を 参 考 に し て つ く ら れ て お り 、こ れ ら 西 洋 世
界 の 有 名 な 物 語 を 知 ら な い 日 本 人 に は 、背 後 に あ る 意 味 が わ か ら な い 。
然し、これをベトナム戦争の映画と見ても大変おもしろく、または以
後の意味を知ってから見るとさらに面白くなると言う。
『金枝編』の中の古代説話や、文化人類学的諸探求の成果を利用しな
がら、神となった人間、すなわち祭政一致の聖なる王が殺され、殺さ
れることによってその王位が 継承されるケースについて記されてい
- 40 -
る。・・・・
コッポラが巧みに取り入れた材料としては、ドアーズのリーダー、ジ
ム・モリスンが作った「ジ・エンド」が有りコッポラ自身が映画のテ
ーマにぴったりのあの曲を使ったと言っている。
『闇の奥』の主人公カーツが象牙を、暴力的に採集することと、ベト
ナム戦争のいわれなきまた、すさまじい爆撃のシーンが重ね合わされ
ており、モラルもなく原始的本能のみから行動する,愚を描いた、内
容の濃い映画になっている。フレンチ・プランテーションの場面やプ
レイボーイのバニーガールたちのヘリコプターによる慰問など、娯楽
性もあり戦争映画は、嫌いだという人にも背景を考えながら見ると面
白い。
『アフリカの女王』
コンゴ河をぼろ蒸気船で女性宣教師のキャサリン、ヘップ・バーン
と船長のハンフリー、ボガード 演じた名作
ポーランド
北方戦争(1700-1721)、ポーランド戦争に敗れ飢餓と 伝
染病に見舞われた。ポーランド王アウグスト2世はロシアの
ピ ヨ
ートルと結んで対スエーデン戦争に入ったが、カール12
世 の
軍に破れ、王位を追われた。復位を果たしたがポーランド
継 承
戦争が起こり無政府化した。第一次ポーランド分割、再生、16世
紀には中東欧でもっとも豊かだった大国は地図から消えた。
アフリカ人
アフリカ人は生まれながらにして、重労働に適している人種であ
り、肉体的にも精神的にも苦痛を感じないはずだから奴隷にする
のは全く人道的に問題はないとされた時代があった。
- 41 -
コンゴ自由国 (1885-1908)
ベルギー国王レオポルト2世が私有財産として創設した中央ア フ
リカの植民地。現在のザイールに相当する。土地の没収、象牙、
ゴムの強制集荷など過酷な政策が批判され主権をベルギー政府に
移管した。
レオポルト2世 (1825-1909)
1870年代末コンゴ国際協会を創設。スタンレイを派遣して現
地の首長と保護条約をかわしコンゴ盆地を植民地化した。
マーロウは人間を3つの種類に分類している。
① クルツのように野蛮に反応しこれに屈する人
② 野 蛮 に 反 応 す る が 、念 入 り に 作 り 上 げ ら れ た 信 条 を 抱 き 、野 蛮 に 抵
抗しうる人
③ 何も気づかず全く反応しない馬鹿ども
ザイール(コンゴ)河
アフリカ第3の河。全長4200メーター
タンガニーかカ湖の ザ
ンビア側から発し何10もの支流を集めてキンシャサを通って大西
洋に注ぐ。ナイル河の水源とは僅か16キロしか離れていない。河
口域にコンゴがある。
象牙
象の上顎門歯(切歯)が根を生ずることなく一生伸び続けて牙とな
ったもの。 食肉類など犬歯が牙となったものと異なる。このため、
年をとれば著しく長くなるはずであるが、実際は草の根を掘ったり
木の皮を剥いだりして摩滅され、むやみに長くなることはない。ア
フリカ象の雄の象牙が最も長くなり長さ3,1メーター太さ65セ
ンチ105,8キロに達したものがある。生
- 42 -
き た 象 、ま た は 殺
したばかりの象牙は貴重。
開高健
彼の評価に関しては、ノーベル賞作家の大江健三郎に軍配を上げざ
るをえないが、米国のホルトラインハート社が編纂した、世界名作
短編集には、チェーホフ、ゴーゴリ、モォパッサン、カフカ、スタ
インベックなどに混じって東洋から唯一彼が選ばれている。採用さ
れたのは、『玉、砕ける』であった。彼が『闇の奥』に影響を受け
て書いたらしい闇3部作は『輝ける闇』、『夏の闇』、『花終わる
闇』である。またベトナム戦争を記載した『黒い太陽』がある。
双(二)極性障害、躁状態
躁 病 は ,壮 快 気 分 や 高 揚 し た 気 分 を 主 と す る が 、し ば し ば 易 努 的 、攻
撃 的 と な る 。時 に 不 機 嫌 、抑 鬱 を 伴 う 躁 鬱 混 在 状 態 を 呈 す る こ と も あ
る。着想豊富で多弁となり思考内容も誇大となる。発動性も亢進し、
様 々 な 活 動 を 企 画 す る が 、集 中 力 に 欠 け る た め 失 敗 す る こ と が 多 い 睡
眠 要 求 が 減 少 し 、性 欲 は 亢 進 す る 。乱 費 や 社 会 的 逸 脱 行 動 な ど も 見 ら
れ 、そ れ ま で の 対 人 関 係 が 破 綻 し 、職 業 能 力 に 著 し い 障 害 を 惹 起 す る
こ と が あ る 。躁 病 患 者 は 病 識 に 乏 し い が 、不 眠 や 具 体 的 行 動 に 注 意 す
る こ と が 大 切 で あ る 。躁 病 の み が 見 ら れ る こ と は ま れ で 、長 期 経 過 中
に 鬱 病 が 見 ら れ る こ と が 多 い 。双 極 性 障 害 は 再 発 が 高 く 、予 防 が 大 切
である。
アメリカ精神医学会の「DSM-Ⅳ精神疾患の診断・統計のマニュア
ル」によれば、鬱病は気分障害の範疇に入り、気分障害は大きく①鬱
症状だけが見られる鬱病性傷害と、②躁症状も見られる双極性障害の
2つに分けている。鬱病性傷害である鬱病は、さらに①従来の内因性
鬱病を中心とする「大鬱病」と、従来の抑鬱性格や抑鬱神経症を含む
- 43 -
軽鬱状態で、長く続く「気分変調症」に分類される。
強迫性障害(強迫神経症)
強 迫 障 害 と は 、 強 迫 観 念 ( obsession ) と 強 迫 行 為 ( compulsion ) を 呈
する症候群である。我が国では従来、強迫神経症と呼ばれてきた概念
と一致する。強迫概念とは理屈では無意味で不適切なことと自覚して
いても意志に反して、反復的、持続的に進入し、強い不安を引き起こ
す思考、衝動やイメージのことである。強迫行為とは、強迫観念に伴
う不安を排除するため、あるいは患者自身のもつ厳格な規則によって
かりたてられる行為である。手洗いや掃除、戸締まり、火の元の確認
な ど 、無 価 値 な も の の 収 集 の よ う な 反 復 行 為 も 含 ま れ る 。一 般 的 に は 、
患者はその観念の不合理性を認識していることから妄想と区別できる
が、重症になると洞察を伴わぬこともある。
ジッド
1869-1951
フランスの作家。小説、随筆、評論、日
記 、
詩、戯曲、翻訳、書簡など多様な形式を用いて文学の形式 を広げた。
彼 は コ ン ラ ッ ド を 崇 拝 し『 闇 の 奥 』と 同 じ コ ン ゴ 河 遡 上 を 本 持 参 で( そ
の際4回読んだ)経験し『コンゴ紀行』を書いた。コンラッド死亡に
際し、ラッセルと同時に、追悼文を書いている。
バートランド、ラッセル
1872-1770
イギリスの哲学者、数学者、社会評論家。
ケンブリッジ大学で哲学・数学を専攻。
B型肝炎
B型肝炎ウィルス(HBV)により感染する。感染経路としては 、
血液を介した感染、母子感染、性行為による感染がある。
現 在
のB型感染のほとんどは性行為による。たまにゼロ・コンバージョ
- 44 -
ンといわれる自然治癒が見られる。
黄熱病
黄熱病は蚊が媒介する急性のウィルス性疾患で、重症型では発熱、
黄疸、出血傾向とタンパク尿が特徴である。本症は南米およびアフ
リカの熱帯病として流行しているがアジアにおいては見られない。
マラリア
マラリアは現在なお人類にとって最も重要な健康問題の一つであ
る 。年 間 約 2 億 人 の 新 た な 発 症 を 見 、約 2 0 0 万 人 が 死 亡 し て い る 。
その浸淫地はアジア、アフリカ、中南米の熱帯、亜熱帯の国々に集
中している。人間に感染するマラリア原虫は熱帯熱マラリア、三日
熱マラリア、四日熱マラリア、卵型マラリアの4つである。
エイズとHIV感染症
ヒト免疫不全ウィルスと命名された原因ウィルスで、フランスの モ
ンタニエ博士により発見されたレトロウィルスであるが、1986
年その名称がHIV(後天性免疫不全症候群)に統一された。カリ
ニ肺炎として発症することが多く現在のところ不治の病である。
ファウスト
Johann Wolfgang Goethe 1 7 4 9 - 1 8 3 2 の 作 。 第 一 部 、 第 二 部
に 分 か れ る 。悪 魔 メ フ ィ ス ト フ ェ レ ス に 魂 を 売 り 1 0 0 歳 で 死 ん だ 。
ドイツの名作品。
サイード
Edward Said
1 9 3 5 - 2 0 0 2 文 学 研 究 者 。エ ル サ レ ム 生 ま れ の パ レ ス チ
ナ 人 。ハ ー バ ー ド 大 学 で 博 士 号 。コ ロ ン ビ ア 大 学 教 授 を 務 め た 。『 オ
リエンタリスム』の著者。
デラシネ
- 45 -
コンラッドのポーランドより英国への国籍離脱をいうが、友人の ス
テファン・ブチンスキーが別離に際し述べた
( Wherever you may sail, you are sailing toward Poland.)
この言葉を彼は将来忘れることはなかった。
巡礼
サイードは『オリエンタリスム』の中に、巡礼者と巡礼行―イギ
リス人とフランス人― の章を書いている。本来、巡礼はキリスト
の聖遺物、イコンなどを崇拝しながら行う旅であるが、『闇の奥』
に描かれた巡礼は、キリスト教を広めるために行った。むしろ征
服者の立場であったと考えられる。『アフリカの女王』はキリス
ト教女性宣教師のコンゴ紀行の映画である。
コンゴの歴史
旧ザイール現コンゴの歴史はきわめて特異なものであった。即ち、
この国の近代はベルギー王レオポルと2世(1835-1905
年)の意志により決められた。彼はベルギーの隣国オランダがジ
ャワにおいてコーヒーにより莫大な利益をあげたがこのオランダ
のように国力増進のためには、植民地政策が必要だと考えた。 ま
たその彼が、この可能性のある、中国、日本、台湾、ボルネオ、
フィリッピンなどの領有を試みたが、ことごとく失敗した後、ア
フリカの最深部にザイールを発見した。広大なコンゴ地域は西欧
全域にも匹敵する面積であり、西欧諸国の侵略を受けていない国
であった。従って帝国主義の巨大な空白地帯として存在した。レ
オポルト2世はスタンレイをこの地に派遣し、アフリカ人首長と、
- 46 -
貿易独占契約を締結させた。このときフランスもザイール河右岸
で領土的野心を示していた。ベルギー国内ではレオポルト2世の
行動は支持されず、議会も反対するか無関心であった。王は一連
の行動が個人的野望と見なされていたので、それカムフラージす
るためにコンゴ国際協会を設立して、領有権を主張すると共に、
この領域の支配圏内では、一切の関税を課さぬと宣言した。これ
が経済界を喜ばせ、アメリカ、イギリスの承認を得ている。18
84-5年に開催されたベルリン会議で、アフリカにおいて植民
地を獲得するには列強の間で決められた承認を得るのが必要と決
められた、この会議でコンゴ国際技協会は「列強」の一つと認め
られレオポルト2世の統治下に入り1885年コンゴ自由国とし
て独立元首を兼ねることになった。然し立憲君主制をとるベルギ
ーとは異なり彼の私有地としての性格を持っていた。彼は死亡に
際して遺言状でコンゴをベルギーに委譲するとしている。以上の
ごとく従って、彼の死の1908年までは、ベルギーは何の責任
も、権限もなかった。コンラッドがコンゴ河を遡上した当時はう
っそうとしたジャングルが続き、統治者である白人は港町マタデ
ィとザイール河沿いに数100キロ離れた、駐在所にいたにすぎ
ない。このコンゴで行われた過酷な、搾取や暴挙は世界中から批
判されることになった。先頭を切ったのは、イギリス人モレルで
あった。コンゴの暴挙は『闇の奥』に記載されているように象牙
の収集と、熱帯雨林でできるゴムの栽培である。ゴムは需要が多
く、熱帯雨林に自生するので 黒人を使って生産をのばしたが、
『闇の奥』ではこの問題には触れていない。しかしレオポルト2
世は慈善家として知られていた。それでしばしばアフリカ人に暴
- 47 -
力をふるわぬよう植民地司令官に指示したが、ゴム生産の拡大を
要請し続けた。モレルの批判は自国の経済的動機があったようだ
が、各国の公式の主張は、ベルギーによるコンゴ自由国の併合で
あった。各国は、ベルギー王の私有領という異常な体制を改め、
残虐行為の調査を要請した。これに対し、1908年国王も議会
もこの意向に添ってコンゴ自由国はベルギーに併合されベルギー
領コンゴとなった。この後「三位一体」の発展を遂げたが、即ち
行政府、民間企業、キリスト教伝道団がそれぞれ植民地の政治、
経済、文化に大きな影響を与えた。植民地政策はベルギー本国や
議会が関与せずベルギー王の独断で進められた。これが、結果と
して
アフリカ人に対する常軌を逸する行動になったと考えられ
る。一方、文化、教育に関してはキリスト教伝道団の影響が大き
かった。ベルギーはアフリカ人の文明化を重要課題として、多く
の教伝道団を送り込んだのである。彼らが 果たした功績は大きく
初等教育はすすみ、アフリカ植民地全土の中でも10パーセント
に達し最高であった。これに比し高等教育への関心は低く、コン
ゴに大学が設置されたのは1954年と遅れた。
引用文献
著者
書名
Ross C Murfin
Heart
Of
出版社
発行年
Bedford St.Martins
1996
darkness
中野好夫
闇 の奥
岩波文庫
1958
鈴木建三
筑摩世界文学
筑摩書房
1950
- 48 -
大 系 50
瀬藤芳房
コンラッドとジッド
徳島大学教養学部
1992
立花隆
解 説 「地 獄 の
文藝春秋
2002
近 代 日 本 における
放送大学教育
2003
外 国 文 学 の受 容
振興会
仲間秀典
開 高 健 の憂 鬱
文芸社
2004
松村敏秀
流 浪 の作 家 ・
大阪教育図書
2000
Do You See the
日本女子大
2001
Story?
修士論文
黙示録」
山内久明
ジョゼフ・コンラッド
Hisae Oba
Asako Nakai
The
English
Books
And
Rodopi
2000
Its
Marginalia
バートランド・ラッセル
自伝的回想
みすず書 房
小早川隆敏
感 染 症 マニュアル
スパイラル出 版
2002
黒 木 正 興
新 書
講 談 社
2001
ア フ リ カ 史
追 記
引 用 文 献 の 略 号 は 次 の と お り で あ る 。
書名
HD
Murfin
Heart
中 野
『 闇 の 奥 』
Of
Darkness
- 49 -
鈴 木
『 筑 摩 世 界 文 学 大 系 5 0 』
瀬 房
コ ン ラ ッ ド と ジ ッ ド
立 花
『 解 読 ・ 地 獄 の 黙 示 録 』
山 内
『 近 代 日 本 に お け る 外 国 文 学 の 受 容 』
仲 間
『 開 高 健 の 憂 鬱 』
松 村
『 流 浪 の 作 家 ジ ョ ゼ フ ・ コ ン ラ ッ ド 』
DO
Do
ENG
The
感 染
『 感 染 症 マ ニ ュ ア ル 』
黒 木
『 新 書 ア フ リ カ 史 』
You
See
English
the
Story?
Book
And
Its
Marginalia
な お 医 学 的 項 目 は 、感 染 症 マ ニ ュ ア ル お よ び 医 学 辞 典 な ど
を 参 考 に し て 、 著 者 の 経 験 で 改 作 し た こ と を 付 記 す る 。
- 50 -