これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および

これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および
「多摩美術大学修了論文作品集」の抜粋です。無断
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小野 尚人
Hisato Ono
思考の道具としてのコンピュ−タと、そのインタ−フェイスに関する研究
はじめに
アラン・ケイがダイナブックという概念で示したように,コンピュータには
計算機以上の能力,あるいは,その可能性がある。コンピュータは,さまざ
まなメディアをシュミレーションできる。しかも,既存のスタティックなメ
ディアと違って,電子メディア上のシュミレータはダイナミックなはたらき
を持たせることができる。アラン・ケイがコンピュータを「ファンタジーア
ンプリファイヤ(増幅器)」と考えたのは,そのダイナミックなメディアが
もたらす新たな想像的世界を信じたからだ。(ケイ,1992)
この論文は,「情報デザイン」の視点から,その土台――プラットフォーム
となるパーソナル・コンピュータのデザインを論じたものである。「コンピ
ュータのデザイン」といっても多義的なものになるが,ここでは,「コンピ
ュータとひとの関わり方」にぼくなりの答えを与えるつもりで,考察を行っ
た。
言葉を換えると,コンピュータ上で立ち現れる情報メディアそのものの形を
問うという作業である。
Internet Appliance(インターネット家電)など,パーソナルな情報機器は,そ
の目的指向によって形を造りつつあるが,それは,マイコン内蔵の電子レン
ジなどと同様の,コンピュータを背後に隠す試みの一つと捉えることができ
る。この論では,コンピュータそのものの特性を最大限に活かす「はたらき」
として,「思考の道具」としてのコンピュータの姿を顕わにする,一つのモ
デルを提示してみたいと考えている。
「コンピュータ」は,正確に,かつ高速に計算を行う目的で設計されたが,
その計算の手法は「記号」を出し入れして比べる,というものであった。こ
れはぼくたちが日常行っている思考の方法,シンボルの操作と類似している
ことがわかる。そのため,計算目的だけに限らず,コンピュータを使ってさ
まざまな記号の入出力をおこなうことが可能になった。その結果,――正確
には,ぼくたちの思考の系がコンピュータに似ているのではなく,コンピュ
ータを含めた人工物環境が,ぼくたちの思考のアナロジーとして造りだされ
ている,と述べるべきであるが―― 今ではコンピュータは「計算機」では
なく「情報処理機器」と捉えられるようになっている。では,「情報処理機
器」とは,どのようなモノとしてぼくたちの前に現れてきたのだろうか。
本論の概要は次の通りである。まず,一章では,「情報デザイン」という領
域が立ち現れてきた背景,すなわち,情報化社会の中にあってデザインの対
象が拡大し,電子メディアの世界をデザインする必要性が出てきたことにつ
いて述べる。「情報デザイン」という概念がどのように理解されているかを
問いながら,「対象の見えないデザイン」について触れる。これは,情報そ
のものが形が無く見えないという意味と,ものそのものとぼくたちの「関係
性」が見えない,という両義的なものであった。また,ぼくたち自身にとっ
て身体化された道具が「透明になる」という事柄についても述べる。
二章では,情報デザインのアプローチと比較されるべく,従来の「デザイン」
の領域を再度整理し直す。デザイン領域の拡大とは,そもそも「デザイン」
のもつ概念の枠組みに含まれていたのではないか。また,「デザイン」とい
う言葉で語られるさまざまな言説を取り上げ,現代のデザインとアートの関
係を考察しながら,職能としての「デザイナー」の役割を措定していく。
三章では,情報メディア空間を支える,コンピュータ文化の持つイデオロギ
ーについて触れる。それは,西洋の合理的なモダニズムと結びついた普遍的
世界観の実現に基づくものだ。この意味で,情報メディアとデザインとは近
似的な様相を帯びることがわかる。他方,情報メディア空間における,言語
のはたらき,恣意性がその合理主観の限界を規定することを述べる。
四章では,三章で論じたような情報メディア空間をぼくたちが身体化するた
めに,どのようなアプローチがとられているかを探る。電子メディアに具体
性を与える「メタファー」,および,電子メディア空間と実空間とを結ぶ試
みとしての「実世界指向インターフェイス」の特徴,および問題点を述べる。
五章では,事例研究として,修士研究期間で製作したデザインモデルを紹介
する。これらは,本論の契機ともなったコンピュータ上のデザインの企てで
ある。抽象化された情報世界の具象化のあり方に対し,ぼくたち自身の感覚
を具現化する狙いを込めている。
最後に,パーソナルなコンピュータをいかに思考の道具としてつかうかを概
括する。
第一章:情報デザインの視座
1.1 情報のデザイン
「情報」を伝達する
この論文が読まれるとき,あるいは「情報デザイン」というコトバは一般的
になっているかもしれないし,ある一定の意味づけがされているかもしれな
い(もしかしたら他のコトバに置き換わって,死語になっているかもしれな
い)。将来のある時点において,ある言葉の持つ意味が自明となったとき,
振り返って過去の文章に接する際に,その自明となった定義によって読みと
られる,ということは充分想像できる。言葉は必然的に,社会性・時代性と
切り離せないからである。
こと,ぼくたちの生活空間が電子メディアによって地球規模に拡大されたの
はほんの数年前からのことであり,おそらく数年後の「電子情報技術による
メディア空間」は大きく異なったものになるだろうことは間違いない。
しかし,現に今こうした用語が用いられているということは,やはり何かし
らのデザインの問題領域があって,その事柄にアプローチする活動が行われ
ている証左であろう。そのため,まず今の時点での「情報デザイン」の視点
を明らかにし,ぼくなりの定義付けを試みたい。「情報のデザイン」という
言葉が産み出される背景――デザインの概念の変化――を検証することで,
デザインを取り巻く問題点を浮かび上がらせることが可能になるだろう。
そもそも,「情報デザイン」とは曖昧である。「情報のデザイン」と呼ぶと,
あたかも「車のデザイン」「椅子のデザイン」というような,なにか対象物
そのものを指しているように感じられる。けれども,“なにかしら伝えるべ
き情報を,デザインによって視覚化する”という企ては,デザインが本質的
にもっている伝達性にほかならない。ビジュアルコミュニケーションの分野,
たとえば,ダイアグラムなどは,事象を可視化することでデータの集合を意
味のあるかたちに変換し,ぼくたちの認識を大きく助けてくれている代表的
な例といえる。(図 1-1,1-2:ダイアグラム)
ダイアグラムに限らず,数値だけでは理解しづらい事象をわかりやすくビジ
ュアルイメージに置き換える営みは,さまざまなところで行われている。身
近な例として天気予報など,毎日のニュースで必ず流されるものであるが,
単に「晴れ」「曇り」といった予報値だけでなく,前線や気圧の配置や時間
による変化など,さまざまな情報をグラフィカルに提供している。こうした
情報が単に無味乾燥な数値データとして提供されていたとしたら,ぼくたち
は気象のダイナミックな変化を把握できないだろう。ここでは,計算機がは
じき出す 1000 ミリバーレルといった数値データの中に含まれる,ぼくたち
にとっての情報を理解できる形相に置き換える作業が行われている。
(図 1-3,1-4:天気予報図)
こういったビジュアルコミュニケーションのデザイン,グラフィックのデザ
インが情報のデザインでないといえば正反対で,もちろん「情報の」デザイ
ンであるといえる。そして,いま情報のデザインが課題となっているのは,
こうした従来のグラフィック・ランゲージの領域を大きく包み込み,その上
にさらに拡がりを見せているからだ。それは,社会の情報化という,デザイ
ンを(そしてぼくたちを)取り巻く環境の変化がもたらしたものだからであ
る。一般的意味としての「情報」ではなく,「エレクトロニクスによる情報
技術」,そしてそうした「情報技術のもたらす社会の変容」を踏まえたデザ
インの変化が問われているといって良いだろう。この点において,「情報の
デザイン」とは,理工学部における情報工学(インフォメーション・エンジ
ニアリング)の範疇とも離れて,情報化社会をどうぼくたちのものにしてい
くか,という問いかけであることがわかる。
確かに,いわゆる情報化社会,情報社会化によって,ウェブサイトのグラフ
ィックや CD-ROM コンテンツのオーサリング,ゲームなどに代表される電
子メディアの意匠/衣装といった,デザインの新しい需要が起きているのは
事実である。家庭用ゲーム機の普及やインターネット環境が当たり前になる
など,ぼくたちの生活の中で電子メディアはもはや日常のものになっている。
しかし,これらのことをもって「情報のデザイン」と呼ぶのはあまりに皮相
的と言えるだろう。それは単に中身がミニコミ誌なのかウェブサイトかの違
いを持つだけの,表層的なパッケージングの話である。
早くから情報環境のデザインに取り組んできた須永は,「物質の形は目に見
えるが,情報の形は直接見えない。また,物質の形は手で触ることが出来る
が,情報に触れることは出来ない。これらの新しい問題に出会うさまざまな
状況で,これまで見えにくかったデザインの本質が少しずつ見えている。」
と述べている。(須永,1998)
それでは,「直接目に見えない/触れえない情報のデザイン」とはどのよう
なものだろうか。
見えないデザイン
20 世紀の終わりを代表するものとして,情報処理技術と半導体技術,その総
体としての,電子的なテクノロジーが挙げられる。そのテクノロジーが与え
たインパクトは,情報化社会と呼ばれることからも伺える。技術の成果を具
現化する――ぼくたちの目に見えるように,理解できるように,図面をおこ
して生産ラインに載せられるように,カタチを作りあげる――ことがデザイ
ンの一つの目的だとすると,このマイクロエレクトロニクスのテクノロジー
は「デザイン」の大きな転換をもたらしたと言える。電子的なテクノロジー
は,デザインを行ううえで「ブラックボックス」となり,自由な造形を保証
する福音であると同時に,造形の手がかりを失う端緒となった。
日常生活の中での工業製品,カメラを例に取ってみる。
レンジファインダーカメラや一眼レフのカメラは,機械テクノロジーを代表
するものとしてそのメカニズムの精緻さを誇ってきた。ところが,集積回路
の発達によって操作機構は電子制御されることになり,従来の巻き上げレバ
ーやシャッターレリーズといったものは,電気的・電子的な「switch=on/off
を切り替えるもの」に置き換わっていった。また,ダイヤルによって直接操
作していた各種設定,絞り,ピント合わせなども電子化されていったことで,
カメラの状態は可視的なものではなくなり,パラメータ(内部設定値)を表
示する液晶パネルや LED などが逆に必要になってきた(図 1-5)。
デザイナーは,光景を写し取る,文字通り「ブラックボックス」の形体を考
えることになる。個々のディテールは異なっていても,プラスチックのシェ
ルに電子小窓とボタンが付くという要素は,形態として近似したものを作り
出す。80 年代のこうしたカメラの形相の変化を,柏木はコピー機になぞらえ
ている。
フィルムの装填,光と距離の測定,ストロボの使用,フィルムの巻上げ,逆
戻しなど一切が完全に自動化された,いわばこの“画像記録ロボット”はか
つてのカメラというよりは,あえて何に近いかと言えば,ボタンを押すだけ
でコピーが出てくる複写機に近い。
(「カメラによる存在の証明」柏木,1988)
事実,コピー機やファクシミリ,ビデオデッキといった電気製品の操作手順
におけるデザインの問題は,こうした全自動電子カメラのもつそれと類似し
たものといえる。機能の電子的な置き換えによって,ユーザー・インターフ
ェイスの部分がクローズアップされてきたのである。特に,電子化にともな
って高機能化,多機能化されるにつれ,その機能の操作を全て「電子的入力
装置(=スイッチ)」によって行わなければいけないため,いきおい複雑な
手順の理解と学習とをユーザーに強要することになっていった。
かつてカメラを購入するのはプロかマニアと呼ばれるユーザー層が中心であ
り,またメーカーによって競って開発された,交換レンズをはじめとする豊
富な周辺機器群が,利用者に対して「使いこなす」ことそのものを価値のあ
ることのようにイメージを作り上げていた。前述した柏木の言葉を借りれば,
「写真を撮ることそのものよりもカメラを操作することの方へと意識のアク
セントがおかれ,カメラをさわることへのフェティッシュな欲望が産み出さ
れもした」状態であった。
そうした,専門の知識を持つ一部のユーザーだけが使う道具であったものが,
大量生産・消費社会の中でつぎつぎと家庭に入り込み,一般消費財になって
きたことも背景に挙げられるだろう。
また,カメラの持つ「写し取る」という行為に込められる記録性・真実性の
低下と,それは対をなすように思われる。ある特別なハレの事柄を記録し,
記憶していこうとする営みから,コミュニケーションの一手段としてのスナ
ップへの変化。そうした,ぼくたちの行動様式の変化は,モノとの関わり方
を変え,ひいては形態のあり方をも変えていくはずのものだ。
そして,デジタル・カメラの登場,および画像の電子的な処理によって,写
真における真実性の喪失は決定的なものとなった(ミッチェル, 1994)。そ
れと同時に,フィルムを持たないカメラの,「画像として記録する」という
目的のデザインの与件は,スイッチだけで完結することになったと言える。
実際,デジタル・カメラが民生用機器として出始めた 1995 年頃は,各社と
も,銀塩カメラとは異なるフォルムを持たせたものが際だっていた。新しい
機能には,新しいものに相応しいイメージを象徴するものを,という意図が
見て取れる。(図 1-6,図 1-7)
当初数百万円したプロ用のデジタル・カメラは,高級一眼レフシステムのボ
ディを利用して露光部分だけ電子的に置き換え,銀塩カメラのシステム機器
をそのまま使うというスタイルが多かった。ところが,多種多様な形態が模
索されたデジタル・カメラで,1999 年頃から再び,銀塩カメラの構成に近い
ものが増えてきているのである。
日経デザイン誌は,「現在の銀塩カメラの形は,数十年にわたる試行錯誤の
結果たどり着いた究極の機能美である。デジタルカメラのフォルムがそれか
ら離れることは決して容易ではない」という分析(2000 年 2 月号,第 152 号,
日経 BP 社)を行っている。しかしこれは,「究極の機能美」というアフォリ
ズムに縋って,形態の可能性に枷を与えているように思える。むしろ,カメ
ラの形態における制約が少なくなったときの,銀塩カメラのフォルムへの回
帰こそを問うべきだし,そこに造形の見えない/捕らえどころのないデザイ
ン ―情報のデザイン― の課題の一端が顕れていると考えるべきではないだ
ろうか。
こうした事柄は,デザインの問題として,ひと(利用者)とモノとの「イン
ターフェイス」として理解されてきた。
ユーザー・インターフェイスにはさまざまな先行研究があるが,その端緒と
なったのは,認知科学者である D.A.ノーマンからのデザイン批判であろう(ノ
ーマン, 1990)。それは,従来「美的に」デザインされてきたはずの人工物
が,認知科学の視点からはいかに解決すべき課題に満ちているかを発見した。
ノーマンによれば,ユーザがその道具の働きを知り,「やりたいと心に思っ
たこと(ゴールと意図)と実際に行ない得る身体動作の間を結びつけ」そし
て「どの行為をするかを特定した後で,それを実際に行う。」というプロセ
スの中で,適切な「概念モデル」,および「対応付け」を提供することが不
可欠だという(図 1-8)。
「やりたいこと」が見えない,あるいは実際に身体動作として可能かどうか
が明示的でなければ,ぼくたちはそのモノに対して慎重にしか行動できない
だろう。そして,対応づけが正しくなければ,その行動のただなかにおいて,
自分の判断に自身がもてないことになる。
逆に言えば,インターフェイスの問題は,形態からその道具の機能(働き,
目的)がわからない/操作の関連づけが想像できない,ということ,その制
約と対応づけが十分に可視性があり,フィードバックがなされていれば改善
される,ということになる。
こうした研究は,従来のモノの造形・意匠に関わるデザインの課題からは異
なった対象,すなわち,モノとひとの「関係性」の視点が,デザインに大き
く貢献することを明らかにした。そして,またそうした「関係性」の構築も
またデザインの領域なのだという裏書きでもあった。
コンピュータのデザイン
当初のロケット軌道計算機としてのコンピュータと違って,現在ぼくたちが
目の前にしている,強力な計算機であるコンピュータは,適切なプログラム
を与えることによって多様な目的に供することができる。しかし,「何にで
も使える」ことが「何にも使えない」ことは容易に想像できる。これは先の
インターフェイスの問題に照らしてみれば明らかだ。つまり,道具の働きに
汎用性があるために,機器からの〔機能・はたらき〕のメンタルモデルの生
成が困難になるからである。電子テクノロジーを使った「電話」のデザイン
と,「コンピュータ」のデザインは異なるのである。
このことから,ゴールを可視化する=インターフェイスのデザインの働きは,
より難しい問題に直面したことがわかる。
ノーマンは先の書籍の中で,旨くデザインされたスプレッドシート(表計算)
プログラム Visicalc (EXCEL の母体となった,Apple Macintosh 用のプログ
ラム)の例を挙げ「もっともよいコンピュータプログラムとは,コンピュー
タそのものは「消え去って」いるようなプログラムである。そこでは,人は
作業そのものに取り組んでいるのであって,コンピュータを使っているとい
う意識はなくなっている」と述べている。つまり,目的のためのメンタルモ
デルを明瞭にするために,そもそもの動作プログラムこそがユーザーの目的
である位置に置き換わることを評価する(図 1-9)。
直接操作システムを使っているときには,文書を編集しているときでも,絵
を描いているときでも,ゲームを作ったりそれで遊んだりしているときでも,
私はコンピュータを使っているのではなく,まさにその作業をしているとい
う感じをもっている。そこでは事実上コンピュータは見えなくなっているの
である。(中略)
コンピュータシステムを見えなくすること。この原則は直接的であるか間接
的であるかにかかわらず,どんなシステムとのインタラクションの場合でも
成立する。(『誰のためのデザイン』 ノーマン,1990)
そして,最新の著作である『 The Invisible Computer』では,この考え方が整
理されてまとめられている。
実際,電子レンジや,ビデオデッキ,全自動式のカメラを使うとき,ぼくた
ちはコンピュータを使っている。もちろん「コンピュータ」を使っていると
いう意志はないが,そうした電化製品の内部にはマイクロコンピュータが搭
載され,こちらの操作に合わせて最適な機能を果たすように設計されている。
最適な機能(はたらき)の理解と,操作の関連づけをおこなうことがデザイ
ンの主題であることは述べたとおりである。コンピュータを使っているとは
思いもしないで,実は使いこなしている。そうしたデザインが求められてい
るのかもしれない。しかし,ノーマンの例では,単なる表計算マシンとして
『電卓のように』無意識に使えるというだけではないだろうか。モノそのも
のへの「こうしたい」という〔はたらき〕への期待値が必要である。はたし
て,コンピュータは何に使えるのか。 煎じ詰めれば,そこの不明瞭な,か
つ柔軟なところが他の道具ともっとも異なる部分である。
両角は「見通しの良いデザイン」ということばを使って,この事柄を旨く説
明してる。
ビデオテープデッキの操作は一般ユーザーが頻繁に行う操作の中では難しい
部類の一つであるが,目的に対して人工物が何が出来るかは比較的明確であ
る。
これに対して,コンピューターで行う文書作成や表計算,データベース管理
などは,どのようなことができるのかは何となくわかる気がするが明確なイ
メージを持ちにくい。(「知的人工物のインタフェースデザインの課題」両角,
1998)
そして,ユーザーが操作のコンテクストの生成を自律的に行いえるような,
「機能や操作の見通しがもてるような」インターフェイスにしなければ,と
語る。
そのはたらきの一例として,たとえばそれが電子メイルやウェブの受像器と
してしか機能しないのならば,メーラーおよびブラウザという目的を形態に
したデザインがされてもよい。そうした試みの一つとして,インターネット・
ボタンというものがある。
はたらきの特化と可視化
1998 年終わりに,パーソナルコンピュータの市場に,ボタンの数をあらそう
奇妙なスペック競争が起きた。コンピュータの市場は,その価値の意味を問
う間もない虚ろな値=スペックの競争に満ちているのであるが,その一つ,
「インターネット・ボタン」である。コンピュータの本体,キーボードの周
囲などに実装されたそれは,ワンタッチで特化した機能を呼び出せる物理的
なスイッチである。各社さまざまなボタンを付けて,しかもそのボタンの数
を競い合っている。
ほとんどのメーカーに見られるのは,
・電子メイル
・Web ブラウザ
のスイッチであることから,インターネット端末としか使わないユーザーを
取り込む方策であろう。これは,コンピュータの OS 上で特定のタスクを呼
び出すための「ショートカット」が,物理的なキーボードと併置されたスイ
ッチとして独立した形をもったと見ることができる。(Apple の MacOS 上で
は似た動作をするものに「エイリアス」があるが,これはタスクのショート
カットというよりも,やはり文字通り当該システム上のオブジェクトの仮の
姿=エイリアスと見た方が正しいだろう)
元来キーボード上の特殊キー(エスケープやリターン,バックスペースなど)
やファンクションキーは,文字入力や概念的な操作に使われるものであって,
目的的なスイッチは電源投入スイッチやスクリーン画面のコントローラだけ
であった。ここに,特定機能スイッチが付与されたことは,その限定された
機能のために,コンピュータの姿を「見えなくする」試みであるといえる。
そして,電子メイルやウェブブラウザのボタンが選ばれたこと,中でも,pop
サーバにたまった着信メイルを確認する機能であったり,特定のポータルサ
イト(多くの場合は機器メーカーのホームサイト)にアクセスするような機
能を持たせていることは,コンピュータの姿を隠し,「インターネット端末」
として利用者像を想定していることを意味する。インターネットの普及にと
もなうコンピュータの利用者像を考えれば,専用のインターネット端末の姿
が見えない今の段階では一つのアプローチであろう。
しかし,このことから浮かび上がるのは,
・パーソナル・コンピュータはブラウザなのか?
という問いかけである。
マイクロコンピュータが姿を隠し,電子レンジやデジタルカメラとしてぼく
たちの前に現れる。そして,今までコンピュータだと思って接していたもの
も,「メーラー」や「ブラウザー」としてデザインされれば,それはそれで
使いやすいものになるに違いない。
しかしメーラーやブラウザーとして,「目に見えない」道具をデザインする
ためには,ボタンを付けて起動を簡単にするだけで解決しないことは明白で
あろう。このボタンは,専用のメーラーとしての姿と,汎用のコンピュータ
との,安易な折衷案といえる。
こうした場当たり的な解決策に対して,インターフェイスはたんなる「フェ
イス」の小細工ではないという,佐藤の批判を読んでみよう。
本来,デザインの主要な役割は,人と“もの”との間にあるべき関係の提案
にある。(中略)設計のあらゆる段階で,人間と“もの”との関わり方を考
えるべきで,基本設計ができた段階で UI を付け足すのは,設計のあるべき
姿ではない。(中略)
工業デザインの初期には,醜い機械を流線型の厚いクレイの層で覆い隠して
近代的肉付けをしようとしたが,今流行の UI デザインは,同じことを繰り
返そうとしているのではないだろうか。機械あるいはソフトウェア本来の機
能についての基本設計を充分することなしに,現象的,表層的に“フレンド
リー”であるとか“人に優しい”機械を作ろうとしていないだろうか。なら
ば UI はかつての流線型カバーと,本質的に同じようなもので,出来の悪い
機械を,なんとか見れるようにするための厚化粧という皮肉な見方もできよ
う。UI の問題は,コントロールパネルや画面設計レベルで解決できるもので
はなく,設計過程全体を等して解決しなければならない問題であることを強
調しておきたい。
(「ユーザー・インターフェイス設計論」佐藤,1992)
そして,この章のはじめに指摘した「表層的な情報デザイン」とは,こうし
たうわべを飾るものに他ならない。
現在のコンピュータが担っている道具としての〔はたらき〕に今一度目を向
け,そのための姿を探ってみるべきである。
透明な道具
道具が,その利用者にとって無意識のうちに扱えるようになったとき,その
道具は「身体化された」という。大坪がメルロ=ポンティ,ポラニー,ベイ
トソンを援用して述べるその言葉は,もっともなように思われる。盲人が杖
を自身の身体の一部としたとき,杖の手に与える衝撃が「物体が杖に接する
点についての感覚」として知覚される。(大坪,1993)
ピアニストが譜面を意識していては,なめらかな演奏はできないであろう。
まして,ピアノの鍵盤を確認しながらの指運びでは,とても演奏どころでは
ない。ピアニストの意識がピアノから離れて,より上位の概念にレベルをあ
げるとき(創発するとき),楽曲そのものへ注力することができる。このと
きピアノは「透明な道具」となっている。
また,西垣が「透明なツール」と呼ぶものも同様である。
われわれがツール自体を眺めるのではなく,ツールを通して対象を眺めてい
るとき,それは「透明なツール」なのである。およそ新しいツールは当初み
な不透明なのだが,だんだん透明になってくるのだ。(『マルチメディア』西
垣,1994)
この文脈では,受容者側の社会的な変化と,道具の社会への適合の過程が語
られる。けれどもそれは自然進化のように透明になるのではなく,人為的な
企てによって姿を変えていくのである。旧来の道具を自明のものとして無意
識下で使うためには,使いこなすためのトレーニングが不可欠であろう。し
かも,ある特異な状況でまったく無意識に道具を使いこなしていたとしても,
我に返ると現前するその道具を意識しないではおかないということは,よく
経験することである。
道具そのものをまったく意識しないで使いこなしているもの,それは非常に
抽象化されたものだ。たとえば「コトバ」などは,日常的にぼくたちがコミ
ュニケーションを行う上で不可欠の道具であるが,あまりに身体化されてい
るためにその自明の〔はたらき〕を振り返ることは少ない。
しかし,情報化によって道具の透明化は進むかもしれない。すなわち,マイ
クロエレクトロニクスの技術によってその道具の〔はたらき〕を意識しない
まま,道具の機能を享受することができる。ファンクショナルなものが「見
えない」ことは,こうした可能性をもっているのである。
逆に,ブラックボックスであるがゆえに,その振る舞いに適合できないとき
の戸惑いの感覚も大きいものになる。現状での対応づけが困難な事例は,こ
うしたネガティブな部分だけが表面化しているように感じる。
生産と消費を取り持つ
情報社会においては,生産者と消費者とが対になるのではなく,消費する側
がその関わりの度合いに応じて,同時に生産にも関わるような仕組みが生じ
ている。もっとも深い関与の方法は,プログラムそのものであり,前述した
アラン・ケイのダイナブックの思想の中でも,ユーザーはそのプログラムを
使って,都度,その状況(コンテクスト)に応じた,その場にあうツールを
作成しつつ利用することが求められる。その関与のレベルに応じて,プログ
ラムとは言わないまでも,スクリプトをおこしたり,モジュールを組み合わ
せたり,といったことは十分に考えられる(ケイ,前掲書)。インターネッ
トにおけるオープンソースによる開発や,個々人のウェブサイトの編集など
も,そうした試みと捉えることができるだろう。
また,ザナドゥやインテリジェント・パッドのように,各々が独自にプログ
ラミングしたものを,知識として流通させようという試みもある。
各々が「デザイン」することで利便性を上げていく,一つの理想的なかたち
であるとも言えるが,それが電子メディアの振る舞いとして相応しいのかど
うかは判断できない。ノーマンのいうように,道具として意識させない(透
明化する)ためには,プログラミング言語を自然言語のように使いこなすス
キルを持たない限り,困難なようにも思える。プログラミング自体を身近な
ものにしようとする試みは,こうしたプログラムへの関与をより進めるため
の方策だ。
けれども,最近のネットワークの世界においては,情報量の爆発的な増大と
利用の一般化に伴って,受動的な視聴態度が目立ってきているのである。
ADSL や衛星インターネットなど,最新のネットワークインフラにおいては,
受信帯域が大きく,発信帯域が狭く設定されている不均衡が見られるが,こ
うした流れを裏付けている(図 1-10)。
この,一般消費財としてのコンピュータが,単なる「情報の窓」として期待
され/使用されていくのならば,前述したメーラーやブラウザーとして特化
したモノをデザインする方法も無いわけではない。
関係性のデザイン
デザインする際に,受容者側とのかかわり合い ――利用者の中にあるゴー
ルのイメージや,振る舞いの対応づけ,道具の身体化など―― を考えてい
くことが大切であることは,見てきたとおりである。こうした,デザインさ
れる対象とぼくたちの関係は,どのように捉えられるのだろうか。
須永の言葉をよく読み返してみると,必ずしも「情報でできたはたらき」と
「物質でできたはたらき」とを区分しているわけではないことがわかる。む
しろ,「情報」のはたらきにカタチを与える過程で,人工物そのもののデザ
インではなく,「人工物のはたらき」と「人間のかかわり合い」をデザイン
の対象として捉え直したことに力点が置かれている。(須永,1997)
このことを須永は「出来事のデザイン」と呼んでいる。しかし注意しなけれ
ばいけないことは,ものとひとのかかわり合いにおける「出来事」は,情報
技術に関わりなく存在してきたし,見ようと思わなければ見えない事柄なの
である。カメラの形態において,ぼくたちの「写し取る」という意識の変化
が,写真そのものやそれを撮すモノそのものへのまなざしを変えていったよ
うに,「関わり合い」はカタチを規定していくが,カタチからは「関わり合
い」はすぐには見えてこない。
「椅子」を引き合いに出して,『椅子は眼に見えるし,座ることもできる,
それに対して「情報」は眼に見えないし,経験をカタチに出来ない』という
ときの「情報」とは何だろうか。「椅子」と「ぼくたち」の関わり合いもま
た,椅子だけを眺めていては決して見えてこないはずのものなのだ。
1.2 情報のデザインのベクトル
デザインワークの電子化という視点
デザイナーの表現手法が,電子化されることで大きく変わってきている。も
っとも,デザインの直接的な表現にコンピュータが使われることと,ビジネ
スの背景そのものが電子化される影響を受けることは別問題である。また,
それぞれのデザイン領域における電子テクノロジーの影響という視点で,串
刺しに考察することもできるだろう。
ピクセル表現に伴う新たなスキル
電子メディアのデバイスに伴う新たな表現領域――現在中心になっているの
はピクセルの集合で可視的な表象を行うことだが――のための特殊な処理を
行うデザイン領域が認められる。これは些細な作業領域かもしれないが,デ
ィスプレイ上で表現されるその表現の仕方そのものを問う領域として,電子
テクノロジー特有のものとして考えられる。
デザインワークの電子化という意味では,CAD や DTP はデザイン成果物の
シュミレーション/エイドシステムとして考えられ,ピクセル:インクであ
るとか,RGB:CMYK といった実世界とのマッチングを問題にしてきた。概
念的には,これらは旧来のデザインの手法が変化しただけとも捉えることが
できる。しかし,電子メディアのデバイスそのものをアウトプットとすると
き,仮の表象としてのデジタルデータではなくなり,ピクセル表現それ自体
がデザインの領域として問題にされる。
もちろん,電子メディアのフロントエンドの表現デバイスが技術革新によっ
て変化すれば,それぞれ「最終形態としての」アウトプットのためのデザイ
ンスキルが必要になるだろう。これは,シュミレーションとしての電子メデ
ィア利用とはまったく異なる文脈であることに注意したい。
案内/提供するためのデザイン
英語で information design と呼ばれるものは,語義通り,知識をどのように案
内するか,という意識が強いように思われる。含まれる概念としては,キオ
スクに代表されるようなインタラクティブ・システムをどのように構築する
か,また一方向的に情報を送りつけるときにはどのような表現が可能か,望
まれるか,こうしたことを秩序立てていくような領域として捉えられる。
1999 年 10 月 7 日から 3 日間,多摩美術大学上野毛キャンパスで,visionplus7
――情報デザイン国際会議が開催された。この中でピーター・シムリンガー
は,「知識の変移のために情報デザインが有効だ」と強調した。「知識の変
移」(knowledge transfer)とは,まさに情報の多寡を埋めていくような,動的
な働きを表している。
There are three notions which I consider to be of prime importance:
・
Information Design is the key to successful knowledge transfer.
・
Knowledge transfer to facilitate task related activities needs to be adjasted
from time to time.
・
Interactive information design safeguards the constant optimization of
knowledge transfer.(シムリンガー,1999)
情報提供のためのデザインが,サイン,グラフィックランゲージの領域を超
えて取り上げられるのは,ユーザーに合わせたインタラクティブ性,および
時系列的な判断・整理を要求してきたことが理由として挙げられるだろう。
時間概念のもりこみ
こうした時系列的な発想が,ぼくたちを取り巻くもののデザインの視点とし
て認識されてきた。ある,動かないオブジェとしての形態を吟味するのでは
なく,ぼくたちの働きかけに対するモノの振る舞いの検討,そこにはある時
間変化をどのようにモノ世界に投影するかという試みがある。インターフェ
イスは,たとえそれがまったく動かないシンボルのデザインであったとして
も,こうした時間の思考を必要とする。
モノのインターフェイスの問題は,インタラクティブな案内のためのデザイ
ンなどとは平行して,認知的な問題として検討されてきた。しかし,そのい
ずれもが,マイクロエレクトロニクスのテクノロジーによって顕在化してき
たことは間違いない。
この,時間概念を伴うインターフェイスという問題は,客観的な対象物であ
ったデザインの目的を,ぼくたちと対象との関わり方,という次元に引きず
り出すことになった。
「関係性」としてのデザイン
そして,電子テクノロジーによって顕在化した「ぼくたちと環境との関係性」
という視点は,実は機械テクノロジーによるものでも,あるいは手工業的な
もののなかにでも,(もちろん将来のナノテクノロジーやバイオテクノロジ
ーといった技術を具現化するデザインの中にも)含まれるものなのだ。
電子テクノロジーは,その関係性を見えにくくしたために結果として際だた
せたに過ぎない。デザインは,ビジュアルコミュニケーションの事例で明ら
かになったように,ものごとに含まれる「情報」とぼくたちとの「かかわり
合い」の姿を問いかけてくる。デザインの背景としての社会が情報化されて
いくとき,その「かかわり合い」の作法の難しさが,よりいっそう際だって
きたのである。
道具が身体化する,とは,テクノロジーの如何に依らず,ぼくたちとモノと
のもっとも蜜月な関係性を表すことがらとして理解される。
こうした「関係性」を問うていくとき,そこでの「情報」はテクノロジーと
しての一領域を離れ,モノとぼくたちのあいだを規定してゆくさまざまな意
味性の象徴,抽出された概念を代表するものとして捉えられるだろう。この
意味では,冒頭に述べた『表現するものとしての意味性』そのものがデザイ
ンの本質としての「情報」であり,「情報のデザイン」はあらゆるデザイン
問題を通底するものと言えるだろう。
ここでまとめた情報のデザインのベクトルは,それぞれが重なり合っている
部分もあり,くっきりと線引きされるものではない。
しかし,デザインの対象が,「モノ」だけでなく,{目に見えない/モノ/ヒ
トの関わり}に拡がっていくと語られるとき,「目に見えないモノ」という
領域と,「目に見えない関係性」という両義的な事柄が,混同されたまま投
げ出されている。このことに注意しなければならない。
第二章:デザインとその領域
2.1 デザインの領域の拡大
前章でみたように,「情報デザイン」ということばに含まれる概念は,電子
的なテクノロジーの発達に伴って拡大してきたことがわかった。それはまた,
「情報の」デザインという一つの対象物ではなく,情報化によるデザインそ
のものの組み替えを求めるものである。「関係性」のデザインで見てきたよ
うに,デザインとぼくたちとの関わり方を問い直す必要がある。ここで,デ
ザインの領域を,その拡がり,一般に了解されるデザイン,アートとの関係,
職能としてのデザインという視点から検討してみたい。
デザインの区分
「デザイン」という概念ほど,曖昧なまま利用されている言葉も少ないので
はないか。書店で「デザイン」として扱われているコーナーを見ると,「デ
ザイン総合誌」はごくわずかで,「わたしのインテリア」であったり,「すぐ
にデザインできるカット集」「ポップ文字」,あるいは「ハウトゥ」書籍が並
ぶ。
『口紅から機関車まで』とローウィが書いたのは 1951 年であったが,現代
では身のまわりにある道具のほとんどが人工的に作られたもの=デザインさ
れたものになっている。「マッチ箱」から「スカイスクレーパー」と言うべ
きか,「マイクロロボット」から「宇宙ステーション」までというべきか。
これらはすべて人工的な生産物であるが,そうした人工環境の集積である「都
市」や「環境」まで,デザインの対象として含まれてきている。
けれどもローウィは,決して口紅の紅の化学的な組成や色,粘性,香りなど
を規定したはずはない。ましてや機関車のような複雑かつ大規模なものはと
うてい一個人で取り扱えるものではない。従って,各専門分野