奥出雲おろち号

トロッコ列車
「奥出雲おろち号」の旅
若 槻 智 子・(イラスト)原 田 美 恵 子
井野原駅までですが、おもに奥出雲町内
田さん。今回乗車したのは木次駅から三
材に同行してくれたのは、青木さんと原
奥出雲の魅力を探ることにしました。取
取材では、もう一度おろち号に乗車して
まりよく覚えていません。そこで今回の
私は小学生のとき、おろち号に乗った
ことがありますが、そのときのことはあ
日一往復運転されます。
祝日(夏休みと紅葉の期間は毎日)に一
号は、四月から十一月までの金・土・日・
なっている観光列車のことです。おろち
乗客が外気に触れることができるように
いうのは、窓や屋根が取り払われていて、
ロッコ列車の名前です。トロッコ列車と
次︱備後落合間で運転が開始されたト
駅 を 出 発 し た お ろ ち 号 は、
定 刻 に 木す次
さのおのみこと
日 登 駅( 素 戔 鳴 尊 )、 そ し て 下 久 野 駅
いました。
若男女を問わず幅広いお客さんが乗って
は満員で、お年寄りから若い学生まで老
座席やテーブルは木製で、車内はとて
も温かく優しい雰囲気が漂います。車内
て、星の模様が散らばっています。
ます。車体は青と白に塗り分けられてい
機関車とトロッコ列車、そして真ん中に
一〇時過ぎ、おろち号がホームに滑り
込んできました。おろち号は三両編成で、
まさにおろち一色です。
ジェのほかに、「木次線歴史館」まであり、
です。ホームには、おろちの壁画やオブ
られています。木次駅の愛称は八岐大蛇
木次駅から三井野原駅までの十駅に
は、それぞれ神話にちなんだ愛称が付け
探索して、九時五五分ホームへ。
の七つの駅を紹介します。
( 動 動 ) に 停 車 し ま す。 田 ん ぼ の あ ぜ 道
皆さんは「奥出雲おろち号」をご存知
ですか。これは、平成十年に木次線の木
木次駅から下久野駅へ
鉄」たちがカメラを構えています。田ん
や橋の上では、列車の写真を撮る「撮り
あよあよ
雨風をしのげる控え列車が連結されてい
やまたのおろち
七 月 二 十 三 日( 土 )、 午 前 九 時 三 〇 分
木次駅に到着。しばらく駅の構内などを
51 のんびり雲|第 5 号| 2011
にホームまで行くことがで
ました。無人駅なので自由
さん訪れるほどの人気です。
店は、観光客だけでなく地元の人もたく
ともできます。
いるそうです。事前に予約をすると、列
にもこだわりがあり、有田焼を使用して
小説の舞台、亀嵩駅
れています。
四十六年、亀嵩駅は旧国鉄の合理化のた
ゆずそりはばをいただいた後、扇屋の二代目の
杠 哲也さんにお話を聞きました。昭和
車の到着に合わせてホームで受け取るこ
き、映画のシーンにひたる
この駅から出雲横田駅までは、仁多米
を使用した「笹ずし」の車内販売が行わ
のクリーム大福」が販売さ
親の隆吉さんが旧仁多町から駅長就任を
ことが出来ます。
れます。商品を入れた箱を
次の駅は、小説「砂の器」の舞台となっ
た亀嵩駅です。この駅の近くにある湯野
頼まれました。
ンが輝きだします。これもおろち号の呼
内中央の天井でおろちのイルミネーショ
ネルがあります。トンネルに入ると、車
下久野駅を過ぎると、木次線で一番長
い、全長二二四一メートルの下久野トン
ると顔を上げて手を振ってくれます。
ぼや畑で農作業中の人たちは、列車が来
て、コンビニと特産市が併設されていま
けが目立つモダンな造りになっていい
駅舎は、遠くから見るとガラスの吹き抜
は出雲三成駅です。この駅には大国
ぬ次
しのみこと
主 命 と い う 愛 称 が 付 け ら れ て い ま す。
奥出雲の土産がそろう出雲三成駅
とつです。
品を味わえるのも、おろち号の魅力のひ
このように、各駅ごとにさまざまな特産
そばは「割子そば」をいただきました。
本格的な手打ちの出雲そばで、遠方から
つ時間も退屈しません。
名人のサインが飾られていて、そばを待
店内には、映画関係者やその他多くの有
と い う そ ば 屋 さ ん に な っ て い る の で す。
亀嵩駅の駅舎の中には、出雲そばのお
店 が あ り ま す。 昔 の 駅 務 室 が、「 扇 屋 」
ました。
ては珍しい硬券も積み重ねて置いてあり
残っていて、引き出しの中には今となっ
な っ て い ま す。 駅 の 出 札 口 は 昔 の ま ま
だそうです。
をして、昭和四十八年に扇屋を開いたの
さんは、それから松江や出雲でそば修行
手間でもできる、︱︱そう決心した隆吉
ら、切符の販売や荷物を預かる仕事の片
屋を開店することにしました。そば屋な
よ う な 店 を 駅 で 開 け な い も の か と 考 え、
近所の人が集まった時に何か食べられる
し て い ま し た。 農 家 だ っ た 隆 吉 さ ん は、
この駅では、列車の到着
に合わせて「てなづちの里
首 に 下 げ た 売 り 子 さ ん が、
神社には、大国主命と少彦名命が祀られ
その当時、地元ではそばが消費される
ことはなく、そば粉は他の地域へと流出
び物のひとつとなっています。
す。また、国道三一四号線沿いにあるの
しめ縄がかかる出雲横田駅
めに無人駅となりましたが、そのとき父
ホームから窓越しに大福の
ているので、亀嵩駅の愛称は少彦名命と
レトロな雰囲気が残る出雲八代駅
で車で立ち寄る人も多いうえに、朝夕は
も人が訪れる理由がよくわかります。器
すくなひこのみこと
包 み を 手 渡 し て く れ ま す。
トンネルを抜けてしばらくすると、く出
しいな
雲八代駅に着きます。この駅には、奇稲
通学する高校生で溢れます。出雲三成駅
になっています。正面から見た駅は、古
駅の前には大きなシラカシの木が植え
られていて、駅の入り口は大きな引き戸
た奥出雲通の鹿野先生によると、おはぎ
ます。野菜や舞茸などは新鮮で安く、ま
酒、忠善刃物の包丁などが販売されてい
のほか、さまざまな食品や簸上酒造のお
しめ縄がかけられています。特に駅正面
駅 舎 で す。 ホ ー ム の 出 口 と 駅 正 面 に は、
出雲横田駅の魅力は、やはり何と言っ
ても出雲大社を模して神社風に造られた
姫です。
ころにある稲田神社にちなんで、奇稲田
の 愛 称 は、 駅 か ら 南 東 へ 一・五 キ ロ の と
お腹も一杯になったところで、次に列
車が向かうのは出雲横田駅です。この駅
地元のそば粉を生かすことができるそば
田姫の母神である手摩乳という愛称が付
は、奥出雲町内の駅の中ではもっとも賑
民家のようなたたずまいです。また、映
と焼き鯖寿司は絶品だそうです。このお
おおくに
けられています。出雲八代駅は、いまで
やかな駅です。
画「 砂 の 器 」( 一 九 七 四 年 ) で は、 こ の
て な づ ち
も昭和のレトロな雰囲気が残っている駅
地 元 の 特 産 品 を 販 売 す る「 仁 多 特 産
市」では、地元で採れた野菜や生花など
駅で亀嵩駅のホームのシーンが撮影され
■扇屋の割子そば。
だひめ
です。
■(上段)出雲八代駅。駅舎とホーム。(下
段)出雲三成駅。駅の上に見えるのは珍し
い形をした吹き抜け。 52
です。駅の向かって左側には稲田姫の像
いう縁で、このような駅舎になったそう
る大国主命は奇稲田姫の子孫にあたると
なぜこのような駅舎にしたのかを駅員
さんに尋ねると、出雲大社に祀られてい
した。
ぶりに地元の人たちによって新調されま
ています。このしめ縄は、昨年、十二年
のしめ縄はずっしりと太く、風格が漂っ
列車の到着時に受け取ることができま
駅のすぐ近くには「八川そば」という
そ ば 屋 さ ん が あ り、「 ト ロ ッ コ 弁 当 」 を
り。何だか不思議な気分です。
手を伸ばして触ったり、通り抜けてみた
には、古い電話機やテレビなどが置いて
所」と書いてある小さな切符売り場の奥
で、 駅 の 中 を 探 索 し て み ま し た。「 出 札
ま に 残 っ て い ま す。 こ こ も 無 人 駅 な の
す。
ありました。木を組んだ改札口も珍しく、
もあり、駅一帯が神話に満ちています。
暖簾がかかる八川駅
ると、デジカメを動
画へと切り替えて撮
影していました。や
はり、スイッチバッ
クは静止画での撮影
だけではもったいな
いようです。列車は
途中で一度車庫に入
り、車内は薄暗くな
ります。ここでもう
一度方向を変えて進
み始めます。車庫を
ムの出口を過ぎると、名物の焼き鳥の甘
土産などの売店ができていました。ホー
しくなったばかりで、以前はなかったお
川駅の次は出雲坂根駅です。愛称は
あ八
めのまない
天真名井。この駅は昨年四月に駅舎が新
ペットボトルを持ち、お目当ての延命水
が ど っ と 押 し 寄 せ て き ま し た。 手 に は
店でお土産を見ていると、バスで観光客
しながら談笑していました。私たちが売
年寄りが、ブルーベリーを延命水で冷や
東屋がつくってありました。何人かのお
ます。
かる真紅の橋に、車内から歓声が上がり
見えてきます。山奥の緑の中にそっと架
スイッチバックを過ぎ、しばらくする
と車内アナウンスがあり、三井野大橋が
陽光が差し込みます。
出る瞬間に、一気に
改札口には、地元の小学生によって作
られた暖簾がかかっています。暖簾には、
くて香ばしい匂いが漂ってきます。
長寿の水を求めて出雲坂根駅
「 ふ る さ と や か わ す き 」 と い う 詩 が
書いてあります。ついつい口ずさみたく
へと列をなしていました。
駅の愛称は、奇
次は八川駅です。こあの
しなづち
稲田姫の父神である脚摩乳です。
なる、地元への愛が溢れた詩でした。
この駅で有名なのが、「延命水」です。
延命水は、狸がこの水を飲んで百年生き
中国地方で最も高い三井野原駅
八川駅の駅舎は、映画「砂の器」では
亀嵩駅の駅舎として登場します。昭和の
時間が長くなってい
と、この駅では停車
命水を汲めるように
トルを登っていきます。列車は元来た方
進しては後退して、高度差約一六二メー
面に線路が逆Z型に配置されており、前
バック」に突入します。急勾配の山の斜
出雲坂根駅を通過するとすぐに、木次
線の魅力のひとつである「三段スイッチ
にあるからです。駅の周辺には三井野原
ち、最も高い標高七二七メートルの地点
三井野原駅はJR西日本管内の駅のう
三段スイッチバック
たと伝えられる長寿の水です。おろち号
ます。この日はとて
向へ進み出し、緑の中をゆっくりと進ん
ぎると次は三井野原駅
三井野大橋をた過
かまがはら
で す。 愛 称 は 高 天 原 で す。 と い う の も、
も暑かったので、延
に乗車していても延
命水は冷たくて美味
でいきました。坂根駅に見える人の姿も、
車内では、数人が列車の先頭を占領し
て撮影していました。その様子をよく見
徐々に小さくなっていきます。
しかったです。
売店の前に延命水
を 汲 む 場 所 が あ り、
その横には休憩用の
53 のんびり雲|第 5 号| 2011
■(上段)スイッチバック。さっき通った線路が
下に見える。(下段)三井野大橋。
レ ト ロ な 駅 舎 は、 い ま で も 映 画 そ の ま
■(上段)出雲横田駅。(下段)八川駅の
改札口にかかる暖簾。
■ペットボトルに延命水
を汲む原田さん。
高原が広がり、高
ことが、最大の魅力でした。
きっとそこには、新たな発見と出会いが
た歓声や、別れ際に手を振ってくれたこ
たくさんあることでしょう。
そうです。
奥出雲の駅それぞれに個性があり、駅
のたたずまいや雰囲気だけでなく、特産
(わかつき・ともこ/文化資源学系二年生)
となどに、その一体感が表れています。
品や神話の世界を楽しむことができま
(はらだ・みえこ/文化資源学系二年生)
原野菜の産地であ
トロッコ列車おろち号は、肌で風を感
じることができ、トンネル内の音も迫力
す。そして何よりも、そこで暮らす人び
皆 さ ん も、 奥 出 雲 の 風 景 を お ろ ち 号
に 揺 ら れ な が ら 楽 し ん で み て く だ さ い。
はスキー客で賑わ
満点でした。そのうえ、乗客が一体感を
とと出会って、いろいろなお話を伺える
るとともに、冬に
います。
共有することができる、なんとも不思議
出雲坂根
な空間でした。三井野大橋で湧き起こっ
出雲三成
三 井 野 原 駅 も、
出雲坂根駅と同時
出雲横田
期に新しく建て替
亀嵩
えられました。屋
出雲八代
根は緑色、壁は山
吹色の小さな駅です。駅舎の内側は赤く
塗装され、窓枠とイスは白く、床は赤と
三井野原
白の水玉模様になっています。こんな可
■これが有名な「お
ろ ち ル ー プ 」。 お ろ
ちを思わせる迫力あ
る橋です。
愛らしい駅が高原にポツリと建っている
姿は、とても趣があります。冬の雪景色
の中の駅も、ぜひ見てみたいものです。
お ろ ち 号 の 終 点 は 備 後 落 合 駅 で す が、
私たちはここ三井野原駅で列車を降りま
した。別れ際に、同乗した人たちが手を
八川
■ 長 寿 の 水、 延 命
水。冬は暖かく、夏
は冷たいといわれ
ています。
振ってくれました。
列車を見送った後、出雲坂根駅から車
内販売をされていた松崎きくえさんにお
話を聞きました。車内販売では焼き鳥が
一番の人気商品で、他にも仁多米のおに
ぎりや赤飯などもよく売れる、といった
ことを終始笑顔でお話ししてくださいま
した。ワゴンの上の商品を見ると、そば
弁当やブルーベリーなど美味しそうなも
の が 並 ん で い ま し た。 食 べ 物 の 他 に も、
おろち号のチョロQやしおりもありまし
た。しおりは手作りで、しかも無料で配
られています。松崎さんはこの後、出雲
坂根駅まで戻って、売店で販売を続ける
■木次駅で商品ケースを
持ち、移動販売する売り
子さん。笑顔が素敵な方
でした。
木次
■商品の説明をして
くださる松崎さん。
54
おおきくなあれ♪
トウガラシ
わせて取材に行こうということで、この
日になりました。もちろん私たちも定植
の手伝いをするつもりです。当日の天気
は晴れ。日差しも強かったため私たちは
り る と、 二 十 人 くら いの 人 が 作 業
後 一 時 ご ろ 現 地に 到着。 車 か ら 降
みんな麦わら帽子を持って行きました。
午
をしています。私たちもわくわくしなが
ら畑の方に向かって歩き出しました。す
町。 六 月 九 日、 私 た ち 六 人 は 車 で
です。規模はかなり小さいですが。トウ
「 え っ? 北 栄 町 で ト ウ ガ ラ シ?」 と 思
われるかもしれませんが、作っているん
ラーの仕業です。作業する前から服がび
ました。畑に備え付けてあるスプリンク
たちはキャーキャー言いながら逃げ回り
大量の水が降りかかってきたのです。私
落としていきました。それ
育苗トレイを片手で持ち、もう片方の
手で苗を一本一本畝の穴に
ついての説明を受け、いざ作業開始!
とがありながらも、植田さんから定植に
しょびしょになるという悲劇。そんなこ
るといきなり事件。歩いている私たちに
短大を出発し北栄町に向かいました。北
ガラシを取り上げるきっかけになったの
だけでも疲労感。次に苗を
和 泉 早 咲・飯 塚 美 咲
栄 町 と 言 え ば ス イ カ、 長 イ モ、 ブ ド ウ、
は大山自然学校をやっておられる植田節
土に埋めていきます。これ
回私たちが訪れたのは鳥取県北栄
ラッキョウなどの栽培が盛んです。その
明さんという方との出会いです。
ぐ に 腰 が 痛 く な り ま し た。
今
ほかにも、名探偵コナンや風車等が有名
筆者の一人、和泉は小さいころから植
田さんに誘われ、ヤーコンの栽培を家族
汗がしたたり、髪が邪魔し
ます。体力の差に唖然とし
見せず作業を行っておられ
たちは、全く疲れた様子も
うへとへとでした。他の方
ていないのに、私たちはも
ほんのちょっとしか作業し
三 十 分 ほ ど で ギ ブ ア ッ プ。
さに体力を奪われ、二十~
業を続けました。しかし暑
それでも私たちは黙々と作
時 点 で も う ス ッ ピ ン 状 態。
が体勢がとてもきつい。す
です。
中で手伝っていました。その時はまだ小
でも今回の目的は、これらのいずれで
も あ り ま せ ん。 目 的 は ト ウ ガ ラ シ で す。
て前が見えなくなり、この
コンを栽培しているのか
分かりませんでした。今
はトウガラシを栽培して
いますが、やはりなぜか
わかりません。なぜこん
なものを栽培しているの
か、なぜ私の家族はそれ
を手伝っているのか、謎
を解明すべく取材に出か
けることにしました。
どうせなら作業日に合
55 のんびり雲|第 5 号| 2011
■大きくなあれ!
さかったので、なぜヤー
■(上段)作業中のみなさん。(下段)育苗
トレイ。
■定植作業中の私たち(紫色のポロシャツ)。
お話を伺いました。
岩本弘美さんにお話を伺いました。
水耕栽培を行っているそうです。最後に
福山さんはセンコースクールファーム
の方で、普段は主にハウスの中で野菜の
が楽しいです」
「 一 緒 に 作 業 す る 人 た ち が 良 い 人 ば か
りなので、休憩中にお話ししたりするの
んから詳しいお話を伺うことにな
湯梨浜町にあるセンコースクール
プンカンプンだったので、お隣の
す。ちょっと聞いただけではチン
トウガラシ栽培にはいろいろな組織が
ろ い ろ な 組 織 名 が 出 て き ま し た。 こ の
味幸、センコースクールファームと、い
「 な ぜ、 こ の 定 植 に 参 加 し て お ら れ る
のですか?」
「 去 年 も こ の ト ウ ガ ラ シ 栽 培 に 参 加 さ
れましたか?」
ずは、私たちと同世代の和泉百香さんの
休憩時間に、私たちは今日の作業参加
者たちにお話を伺ってまわりました。ま
「 私 が 働 い て い る 会 社 の 仕 事 の ひ と つ
だからです」
ファームに移動し、そこで植田さ
りました。
こでできたトウガラシの販売先、祇園味
ながら植えています」とおっしゃってい
岩本さんは「苗はまるで自分の子ども
のようです。元気に育ってほしいと思い
「 と て も 大 変 で す。 定 植 作 業 は 足 腰 に
くるので体力的にもきついです」
中に入ってみるとバリアフリーに
き ま し た。 壁 に は「 セ ン コ ー ス
目的地に近付くにつれて、学校
のような大きな建物が目に入って
幸に勤めています。次にお話を伺った福
ました。
大
スポーツの分野を繋げるさ
山 自 然 学 校 は 農 業、 医 療、
なっています。驚きました。
クールファーム」の大きな文字が。
山喬之さんも私たちと同年代の人です。
さてこれまでに、大山自然学校、祇園
というわけで、実はこの人は筆者の一
人、和泉の妹だったのです。彼女は、こ
「作業は大変ですか?」
「 い や、 小 学 生 の 頃 か ら 手 伝 っ て い ま
す」
関 わ っ て い て、 な か な か 複 雑 で
「今回が初めての参加ですか?」
「いいえ、今回が初めてです」
「作業をしてみてどうですか?」
ました。
■(上段)インタビューに答えてくださった和泉百香さん(右
端)。(中段)福山喬之さん。(下段)岩本弘美さん(右端)。
まざまな事業を行っています。先ほど出
てきたヤーコンは健康食品のひとつとし
て栽培され、大山の麓で合宿するスポー
ツ選手の食事にヤーコンを取り入れ、彼
らの健康づくりに役立てようという目的
を持っていました。
トウガラシも体によい食品です。トウ
ガラシにはカプサイシンという成分が多
く含まれていて、成人病を食い止める効
果があると言われています。でも、トウ
ガラシの栽培を始めた理由はそれだけで
はありません。このトウガラシの栽培を
障がい者や高齢者にやってもらうこと
で、彼らに働く場を提供しています。農
業と医療とスポーツのほかに、さらに福
にあるセンコーという運送会社の
ンコ ース ク ー ルフ ァーム は、 大 阪
祉を結びつけようとしているわけです。
セ
56
二〇〇六年に廃校となった羽合西小学校
フ ァ ー ム 鳥 取 を 設 立 し ま し た。 建 物 は
年 四 月、 湯 梨 浜 町 に セ ン コ ー ス ク ー ル
こ と だ そ う で す。 セ ン コ ー は 二 ○ 一 〇
い者の雇用に特別な配慮をした子会社の
特例子会社です。特例子会社とは、障が
栽培を行ったり、教室として使用されて
以前グラウンドだった場所で野菜の水耕
す。 セ ン コ ー ス ク ー ル フ ァ ー ム 鳥 取 は、
自治体や企業から注目されているようで
クールファーム鳥取の取り組みは全国の
の 校 舎 を 利 用 し て い ま す。 セ ン コ ー ス
いた部屋できのこの菌床栽
培 を 行 っ た り し て い ま す。
教室は温度、湿度管理がう
まくできるように改造され
ています。センコースクー
ルファーム鳥取の従業員の
方たちは、自分の会社で仕
事をするだけでなく、今回
のトウガラシ定植作業のよ
うに、よその仕事を引き受
けたりもしています。
農業」と呼ばれる独特の方
れますが、ここでは「バザー
さんという方がやっておら
は桑原農園です。桑原敏光
際に運営しているの
もして、祇園味幸という会社に引き渡し
作ったトウガラシは乾燥だけでなく粉砕
て ト ウ ガ ラ シ の 乾 燥 に 利 用 し て い ま す。
た乾燥施設があります。これを借り受け
近年タバコ農家が減り、使われなくなっ
ら、タバコの栽培が行われてきましたが、
ます。また、障がい者や高齢者に働く場
入に頼ることも少なくなってくると思い
組みが全国各地で行われれば、食材を輸
トウガラシ作りは今年で四年目に突入
していると伺いました。このような取り
しているので作りやすいそうです。
ウガラシの栽培を実
法でトウガラシ栽培を行っ
を提供することで、彼らの生きがいにも
やり方です。また、トウガ
たりし、投資を極力抑える
農機具を借りたり持ち寄っ
ます。栽培契約とは、前もって価格・数
を入れ、全国各地で栽培契約を行ってい
すが、祇園味幸では国内原料の調達に力
ラシ需要の大部分は輸入物に頼っていま
売 会 社 で す。 現 在、 日 本 の ト ウ ガ
園味幸とは京都にある薬味製造販
(いずみ・さき/文化資源学系二年生)
末がとても気になりました。
します。私たちはトウガラシ栽培の行く
今回の取材で少し見えてきたような気が
い る の か 全 く 分 か ら な か っ た の で す が、
ぜ北栄町でトウガラシの栽培が行われて
なるのではないでしょうか。私たちはな
ています。
ラシは乾燥して出荷するの
量を取り決め、生産物ができたら契約し
(いいつか・みさき/文化資源学系二年生)
作り手のいなくなった土
地を借り、使わなくなった
で乾燥施設が必要となって
た条件で買い取ることで、作る側も安定
祇
ます。
■(上段)インタビューの様子。(左から)桑原さん、植田さん、取材
メンバー。(下段)看板の前で記念写真。
きます。北条町では以前か
57 のんびり雲|第 5 号| 2011
ト
■皆さんと記念撮影。
■温泉神社。
原田真里
る伝承地、の三つに分けて紹介します。
神社」とありますが、これがもとの社を
指していると考えられます。
すが、希望者が多くて締め切りましたと
ということで、有名な「ヤマタノオロ
チ伝承地探訪ツアー」に申し込んだので
木次町湯村にある「温泉神社」は、『出
雲 國 風 土 記 』( 以 下『 風 土 記 』 と 略 ) に
です。
「 温 泉 神 社 」 や「 長 者 の 福 竹 」 が そ の 例
手 名 椎 に ま つ わ る 伝 承 地 が あ り ま し た。
田比
雲南市には、クシナダヒメ(櫛あ名
しなづち
売、奇稲田姫)の父母神である足名椎と
た。 こ の 話 は、『 雲 陽 誌 』 に も 出 て こ な
者の福竹」と名付けられたとのことでし
です。その際、使っていた竹の杖を地面
この地に立ち寄って休憩した場所だそう
ダ ヒ メ が オ ロ チ の 危 害 か ら 逃 れ る と き、
さんによると、足名椎、手名椎とクシナ
①オロチとの戦い前夜
の こ と。 そ こ で、 ち ょ っ と 贅 沢 だ け ど、
「漆仁社」として記載されている神社で
い話です。
鹿野一厚
ジャンボタクシーに観光ガイドさんを別
す。この神社から約八百メートル南西に
万歳山のさらに東方、芦原地区の山中
にある「長者の福竹」は、ガイドの藤原
途つけてもらって、じっくりと伝承地を
は、同じく『風土記』に「薬湯」と記さ
し て 極 め つ け は、
オロチ伝説の地と
あま
ふち
オ ロ チ の 棲 み 処「 天 が 淵 」 で す。 国 道
簡単に言うと、ヤマタノオロチ伝説がど
私たちは、卒業研究で「ヤマタノオロ
チ の 文 化 資 源 学 」 に 取 り 組 ん で い ま す。
と略)との戦い前夜の伝承地、②スサノ
(八俣遠呂智、八岐大蛇、以下「オロチ」
アーで訪ねた場所を、①ヤマタノオロチ
に天降りました。ここでは、私たちがツ
原から追われて鳥髪山(鳥上山、船通山)
スサノヲノミコト(須佐之男命、素戔
嗚尊、以下「スサノヲ」と略)は、高天
す。
運転手は名原さん、ガイドは藤原さんで
大原郡西日登の条に「國
編纂された『雲陽誌』の
そうです。一七一七年に
歳山の中腹にあったのだ
でいて、神陵ももとは万
にある万歳山の麓に住ん
は、後述する天が淵東方
よると、足名椎と手名椎
陵(二つの岩です)が祀
この温泉神社の境内に
は、足名椎と手名椎の神
しつに
て な づ ち
巡ることにしました。
れている湯村温泉があります。
のように観光や地域おこしに活用されて
ヲとオロチの戦いにまつわる伝承地、③
ばんざいさん
に立てたところ、杖から根が出たので「長
七月十八日、快晴。私たち鹿野ゼミの
メンバーは、雲南市のJR木次駅を訪れ
いるのかを調べようというものです。そ
オロチを退治した後のスサノヲにまつわ
ました。ここでタクシーに乗り込みます。
のためには、まずヤマタノオロチ伝説に
られています。案内板に
ついて知らなくてはなりません。
■オロチの棲み処、天が淵。恐る恐るのぞき
込む取材メンバー。
58
斐伊川はこのあたりで大きく左に蛇行
しますが、天が淵はちょうどその曲がり
でした。
が淵が文献に登場するのは、一五二三年
六〇〇メートルしか離れていません。天
木次町湯村で、前述した温泉神社は南へ
として整備されています。住所は雲南市
三 一 四 号 線 沿 い に あ り、「 天 が 淵 公 園 」
す。
雲南市には、スサノヲとオロチの戦い
にまつわる伝承地も数多く残されていま
②スサノヲ対オロチの古戦場
るかもと、少し心が騒ぎました。
だとか……。いまでもオロチが潜んでい
が、何日か後にこの天が淵に出てきたの
山麓にある養善寺の井戸に落とした杓子
その上が万歳山にあたります。昔、万歳
うです。(ちなみに、このことは『雲陽誌』
社の境内にある「印瀬の壷神」なのだそ
神社の「壷神由緒」によると、この八塩
ま し た。『 古 事 記 』 の 名 場 面 で す。 八 口
廻らした垣の八つの門それぞれに、八塩
えて、スサノヲは
オロチとの戦いにや備
しほをり
足名椎、手名椎に「八塩折の酒」を造らせ、
はありました。
をたどると、その突き当たりに八口神社
落に着きます。集落内の未舗装の細い道
す。しばらく進むと、戸数七戸の印瀬集
折の酒に酔い草枕山を枕に伏せっている
いんぜ
角にあります。川幅は十八メートル前後
(木次町西日登瀬ノ谷)は、
「八口神社」
木次線日登駅の南西約三キロの山中にあ
の『雲州樋河上天淵記』が最初とのこと
うんしゅうひのかわかみあまがふちき
で、それほど広いとは感じませんが、藤
り ま す。 国 道 三 一 四 号 線 を 南 下 す る と、
と こ ろ を、( 須 佐 之 ) 男 命 が 矢 を も っ て
われ、境内の周囲の八ヵ所に幣と供物を
の六月三十日には「壷神祭り」がおこな
をめぐらし」てあります。いまでも旧暦
くの石で壷をおおい玉垣で囲み、注連縄
天変地異が起こると信じられており、「多
錦織良成監督の映画『うん、何?』に
も描かれていますが、この壷に触れると
せん。)
の項にも、スサノヲがオロチの「八の頭
話 で す。『 雲 陽 誌 』「 神 原 の 矢 口 大 明 神 」
スサノヲがオロチに矢を射る話は、『古
事記』にも『日本書紀』にも出てこない
明神」とも呼ばれているそうです。
切 り 裂 い た 場 所 で も あ る の で、「 八 口 大
られた」場所、つまりオロチを十拳剣で
「須佐之男命が八岐大蛇の八つの頭を斬
射られた」ので、矢口社と名付けられた
折の酒を満たした酒槽の一つが、八口神
折の酒を満たした酒船(酒槽)を置かせ
さかおけ
原さんによると、右岸の岩の下には奥行
西日登の八口神社の項には書いてありま
やくち
きの知れない穴があるのだそうです。す
西日登小学校を過ぎて次の道を左折しま
ささげるそうです。私たちが行ったとき
とつかのつるぎ
そ う で す。 ま た こ の 神 社 が あ る 場 所 は、
にも、幣を立てた跡がいくつか残ってお
やぐち
を斬たまふ」とは書いてありますが、や
■オロチが枕にした草枕山。江戸時代に切り開
いて赤川を通した。
り、どこからかオロチがやって来そうな
気配が漂っていました。
やぐちのやしろ
加 茂 町 下 神 原 に も、「 八 口 神 社 」 が あ
り ま す。 こ ち ら の 神 社 は、『 風 土 記 』 に
「 矢 口 社 」 と 記 載 さ れ て い る 神 社 で す。
県道一九七号線に沿って斐伊川の右岸を
北上し、斐伊川が赤川(大東から流れて
くる)と合流するあたりが下神原です。
神 社 の 案 内 板 に よ る と、「 大 蛇 が 八 塩
■スサノヲがオロチの尾を開
いた尾留大明神。
ぐ 東 側 は 道 路 を 隔 て て 崖 に な っ て お り、
■(右上段・下段)印瀬の壷神。(左上段)西日登の八口神社の境内に残る幣串。
(左下段)こちらは加茂町神原の八口神社。
おとめだいみょうじん
れる「尾留大明神」がありま
す。
さらに斐伊川を約三キロ
遡った木次町里方には、スサ
ノヲがオロチの頭を埋めたと
さ れ る「 八 本 杉 」 が あ り ま
す。この地には、スサノヲが
植えたと伝えられる八本の大
杉が茂っていましたが、江戸
時代初期の大洪水で流されま
した。その後も何回か植え直
うな話がいまも語られていることに、こ
はり矢を射る話は出てきません。そのよ
との心の中に生きていることを実感しま
びとの営みに、オロチ伝説がいまも人び
たが、同じ場所に何度も杉を植え直す人
描いていた私たちは少し拍子抜けしまし
られたものだそうです。杉の巨木を思い
は明治六年(一八七三年)に新しく植え
と 言 わ れ て い ま す。 も し か し た ら、『 古
られているのは、神社の原初の姿である
このように巨石や巨木などがそのまま祀
て、注連縄を張って幣が立ててあります。
とクシナダヒメとその子神が祀られてい
鎮座していました。それぞれ、スサノヲ
十五分登ったところに、大きな岩が三つ
ことをこの旅で実感しました。
オロチも人びとに愛されている、そんな
の心に息づいているのです。スサノヲも
ロチの伝説は、いまでもこの地の人びと
明に語られ続けています。スサノヲとオ
の話が、実際の場所と結びつきながら鮮
や『日本書紀』には出てこないたくさん
しては流され、現在の八本杉
の地に根づいた伝説の底知れぬ奥深さを
した。
感じました。
(はらだ・まり/文化資源学系二年生)
③オロチ退治以後
事記』以前の信仰の姿が、いまに残され
八口神社の北西にある山が、オロチが
八 塩 折 の 酒 に 酔 っ て 寝 て い た「 草 枕 山 」
チにほかならないとする説が、現実のも
する暴れ川・斐伊川こそがヤマタノオロ
開いて低くしたのだそうです。毎年氾濫
流れを北向きに変えるために、山を切り
びとが、江戸時代(安政年間)に赤川の
のですが、赤川の氾濫にたまりかねた人
あります。この山は昔はもっと高かった
私たちは、須我神社から約二キロ北東
にある奥の宮にも行きました。車で八雲
与えています。
も言われぬリアリティーをオロチ伝説に
がいまでもその地に存在することは、え
社 」 で す が、『 古 事 記 』 に 登 場 す る お 宮
この宮が日本初の宮と呼ばれる「須我神
に や っ て 来 て、 須 賀 の 宮 を 造 り ま し た。
を 捜 し て 須 賀 の 地( 現 在 の 大 東 町 須 賀 )
オ ロ チ を 退 治 し た ス サ ノ ヲ は、『 古 事
記』によると「新居の宮を造るべき土地」
ジ で き る よ う に な り ま し た。『 古 事 記 』
ノオロチ伝説が頭の中で立体的にイメー
一日かけて、木次町、加茂町から大東
町におよぶ伝承地を訪ねてみて、ヤマタ
ます。
いただきました。全部で十二ヵ所になり
たとされる「佐世神社」などを案内して
園」、スサノヲが木の枝を頭に挿して踊っ
た地とされる木次町新市の「八岐大蛇公
ここには書ききれませんでしたが、私
たちはこの他にも、スサノヲが箸を拾っ
で す。 こ の こ と は、『 雲 陽 誌 』 に 記 述 が
のとして迫ってくる話です。
山登山口まで行って、そこから徒歩で約
あめのむらくものつるぎ
の 尾 を 開 い て「 天 叢 雲 剣 」 を 得 た と さ
口 神 社 か ら 約 一・七 キ ロ 南
下神原の八
みしろ
東の加茂町三代には、スサノヲがオロチ
態人類学)
( し か の・ か ず ひ ろ / 総 合 文 化 学 科 教 員 * 生
■(上段)須我神社奥の宮。(中段)佐世神社
のシイノキ。(下段)八岐大蛇公園。
■木次駅で記念写真。
ているのかもしれません。
■(右)木次町里方の八本杉。(左)須我神社。
60
Jリーグのクラブを目指して
~松江シティフットボールクラブ~
■(右)松江シティ
FC の エ ン ブ レ ム。
(左)廣瀬監督。
ました。そこで、「松江&サッカーチーム」
している本格的なチーム」をと思ってい
せっかく取材するなら「Jリーグを目指
らという軽い理由からでした。それでも、
私たちがサッカーの記事を書こうと
思ったきっかけは、サッカーが好きだか
二 〇 〇 八 年 に は「 ヴ ォ ラ ド ー ル 松 江 」
松 江 シ テ ィ F C の 出 発 は、 一 九 六 八
年 に 誕 生 し た「 松 江 R M ク ラ ブ 」 で す。
地域社会人リーグです。
す。中国サッカーリーグは、中国地方の
リーグがあるという構成になっていま
下にJFLがあり、その下に地域社会人
と 検 索 し た と こ ろ、「 松 江 シ テ ィ フ ッ ト
今まで全然知りませんでした。そのお詫
と が 判 明 し ま し た。 こ ん な に 近 い の に、
鼻の先にある松江総合運動公園であるこ
松 江 シ テ ィ F C 公 式 H P を の ぞ く と、
ホームグラウンドは私たちの短大の目と
と略)」がヒットしました。
営 組 織 を 整 え る と と も に「 松 江 シ テ ィ
二〇一一年からは、島根県サッカー協
会松江支部によるサポートを受けて、運
カーリーグに昇格しました。
1部で優勝し、二〇一〇年から中国サッ
と改名しました。ヴォラドール松江は二
ボールクラブ(以下、「松江シティFC」 (ヴォラドールはスペイン語のトビウオ)
び の 気 持 ち も こ め て、 私 た ち は 松 江 シ
フットボールクラブ」と名前も一新しま
松江シティFCは社会人
の サ ッ カ ー ク ラ ブ で、「 中
チーム紹介
秀和さんです。
ターの城田博之さんと野坂
田 輝 さ ん、 そ し て サ ポ ー
タッフの荒子光晴さんと岩
ワードの尾島徹哉さん、ス
テ ン 松 本 弘 樹 さ ん、 フ ォ
ンの吉岡優さん、副キャプ
らったりしているそうです。皆さん、周
り、試合がある日には仕事を休ませても
らってる」と答えてくれました。仕事の
仕事とサッカーの両立について、イン
タビューした三人は「融通はきかせても
す。
き時間を利用してサッカーに励んでいま
社などで仕事をしながら、いわばその空
松江シティFCは、アマチュアのチー
ムです。したがって、選手たちは昼間会
サッカー中心の生活
きを強調したのだそうです。
した。活動拠点である松江市との結びつ
年連続して島根県社会人サッカーリーグ
ティFCを取材することに決めました。
今回取材を受けてくだ
さったのは、廣瀬康彦監督、
国サッカーリーグ」に所属
囲の人たちの理解を得る努力をしている
小川秀樹コーチ、キャプテ
しています。日本サッカー
のです。
ローテーションの都合をつけてもらった
のリーグは、J1、J2の
61 のんびり雲|第 5 号| 2011
石川紗穂
山本流美
得ることが難
しかし、と
きには理解を
ことができるのだと納得しました。
ともせずに、サッカー中心の生活を送る
からこそ、さまざまな困難や負担をもの
たちはサッカーが大好きなのですね。だ
しいこともあ
ポーターの野
選手の意識が変わった
り ま す。 サ
坂さんから聞
うです。三年前までは「選手は全然走ろ
松江シティFCは、将来はJリーグ入
りを目指す本格的なサッカーチームで
うとしなかった」そうで、練習で選手に
いた話です
試合に臨まないといけなくなったそうで
す。しかし廣瀬監督によると、以前は上
す。その選手は、徹夜をしたのにそのま
走 る こ と を 要 求 し た ら、「 監 督 が 走 れ 」
が、ある選手
ま自分で車を運転して、コンディション
と言い返されたそうです。
を目指せるようなチームではなかったそ
調整もままならないまま試合に出場しま
が夜勤明けで
した。それにもかかわらず、なんと彼は
すが……。
試合に負けてしまいましたが、この試合
と対戦する機会がありました。そのとき、
チームを支える人びと
二〇一一年から新たに小川コーチが参
加して、Jリーグを目指す体制が強化さ
れました。去年までは廣瀬監督が指導を
行っていたのですが、今年からは、サッ
カーの技術や戦術の指導はおもに小川
コ ー チ が 行 い、 廣 瀬 監 督 は チ ー ム の サ
ポート役にまわっています。
松江シティFCには現在選手が二十一
人いますが、試合に出場できるのは十一
人です。以前は、せっかく来たのに試合
に出られなくて、怒って帰ってしまう選
手もいたそうです。
いまでは、そんな選手たち一人ひとり
に廣瀬監督が寄り添い、選手たちの話を
聞いて心のケアをしています。廣瀬監督
は、自分を「監督らしくない監督」と評
慢できる強い選手ばかりが集まっている
んそのことを納得しているし、それを我
監督のお話によると、選手たちはもちろ
手たちが自己負担しているのです。廣瀬
遠征するときの交通費や宿泊費まで、選
ん。年間四万円の部費はもちろんのこと、
カーに取り組む姿勢を通して、選手たち
人として成長している」と語ります。サッ
ス タ ッ フ の 荒 子 さ ん も、「 選 手 た ち が
変わってきてくれている。やる気も出て、
ます。
これから伸びる」と言うほど成長してい
カーに対して一生懸命なので、まだまだ
までは、小川コーチが「選手たちはサッ
との大切さに気づいたのだそうです。い
がきっかけとなって、選手自身が走るこ
のアンケートには、監督とコーチは「チー
も近く保たれているのです。選手たちへ
このようにして、松江シティFCの監
督・コーチと選手たちとの距離は、とて
チが入り込めて互いに言い合えるベース
置 い て 接 す る こ と は せ ず、「 選 手 と コ ー
また、選手たちから「戦術家」と評さ
れる小川コーチも、選手との間に距離を
いることが伝わってきました。
していましたが、サポート役を楽しんで
そうです。
の成長がスタッフやサポーターにも伝わ
ム メ イ ト み た い な 感 じ 」「 と て も 親 し み
いえばサッカーが趣味かな」という答え
が返ってきました。趣味に割く時間がな
いほど、仕事以外の時間はサッカーに取
り組んでいるのだそうです。やはり選手
がえます。
ちと一緒に食事にも出かけるそうです。
作り」を大切にしています。よく選手た
インタビューの最後に、選手三人に「趣
味は何ですか」と伺ったところ、しばら
り、そのことがスタッフやサポーターの
やすい」という意見が多くあり、チーム
く 考 え た 後、「 何 も 趣 味 は な い。 強 い て
さらなる支援につながる、という好循環
全体が一つにまとまっていることがうか
■(左)小川コーチ。(上)松江シティ
FCの魅力を楽しそうに話すサポーター
の野坂さん(左)と城田さん(右)。
がチームに生じているのです。
相手の走力について行けずに、結局その
時間のやり繰りだけでなく、選手たち
はお金のやり繰りもしないといけませ
試合でゴールを決め、大活躍したそうで
二〇〇八年、島根県社会人リーグで優
勝したヴォラドール松江は、全国の強豪
■スタッフの荒子さん(左)と岩
田さん(右)。
■試合前の練習風景。
62
背番号 氏名(年齢)
出身地
―
廣瀬康彦(42) 鳥取県境港市
コーチ
―
小川秀樹( ― ) ―
GK
31
伊藤 淳(26) 島根県出雲市
DF
5
吉岡 優(28) 島根県
2
油木智弘(24) 鳥取県米子市
3
須山雄太(25) 島根県松江市
4
岩谷直人(28) 島根県松江市
6
石橋貴宏(23) 島根県
に専念できるように、資金を含めた運営
■試合風景。
叩ける人などもいたら嬉しいそうです。
を募集しています。スネア(小太鼓)を
心となって、一緒に応援してくれる仲間
とを知らない人もたくさんいると思いま
には、島根にこのようなチームがあるこ
ことをはじめて知りました。皆さんの中
とができるような組織を、いまのうちか
将来JFL、そしてJリーグでも戦うこ
全 般 を 引 き 受 け て い る の で す。 そ し て、
を感じることができますし、ボールを蹴
生で見るサッカーは、迫力が全然違い
ます。テレビでは伝わりにくいスピード
ることに、感動すら覚えました。
格的なサッカーをするチームが松江にあ
カーをしていると感じました。こんな本
が っ て い て、 か な り レ ベ ル の 高 い サ ッ
快勝でした。ワンタッチでボールがつな
戦で、結果は6︱0で松江シティFCの
た。松江シティFCと松江南高校との対
私 た ち は、 今 回 の 取 材 を す る 前、 天
皇杯島根県大会の準決勝を観戦しまし
松江シティFCの魅力
(やまもと・るみ/日本語文化系一年生)
(いしかわ・さほ/日本語文化系一年生)
ページまで。
江シティFC公式HPのスタッフ募集の
を募集しています。興味のある方は、松
最後に、松江シティFCでは、スタッ
フやトレーナー(どちらもボランティア)
きになること請け合いです。
ちと同じように、松江シティFCが大好
シティFCの試合を観戦してみてくださ
す。そんなあなたでも、ぜひ一度、松江
らつくり始めているのだそうです。
どが鮮明に聞こえます。また、サポーター
魅力だと言います。比較的スタンドが小
私たちは、今回取材をしてみて、松江
にこんな本格的なサッカーチームがある
い。そうしたら、あなたもきっと、私た
最 後 に、 チ ー ム を 外 側 か ら 支 え る サ
ポーターの役割も重要です。城田さんと
と一緒に応援すると、チームとの一体感
くためには、いずれもなくてはならない
FW
車の四つの車輪なのです。
る音や、選手たち同士の大きな掛け声な
野坂さんは、松江だけでなく広島や岡山
小松寛規(25) ―
を味わうこともできます。時にはボール
尾島徹哉(24) 島根県松江市
32
などへも遠征して、ほぼすべての試合に
小野直樹(21) 広島県
21
が応援席まで飛んできて、冷や汗タラタ
15
駆けつけています。太鼓を打ちながら自
澁山雄希(24) 鳥取県
ラということもありますが……。
大野卓也(36) 島根県松江市
10
作 の チ ャ ン ト( チ ー ム や 選 手 の 応 援 歌 )
河本大空(20) 鳥取県
28
を 歌 っ て、 熱 烈 に 応 援 を 続 け て い ま す。
23
サポーターの城田さんと野坂さんは二
人とも口をそろえて、選手たちとサポー
岩崎遼太(24) 島根県安来市
サ ポ ー タ ー の 応 援 が、 選 手 た ち の モ チ
小川 優(25) 島根県
20
ターとの距離の近さも松江シティFCの
福島 学(31) 島根県
18
ベーションを高めているのです。
石倉大輔(28) 島根県
17
さい競技場で試合が行われるので、試合
14
が終わると観客のすぐ近くに選手たちが
森 基紀(23) 島根県松江市
やる気のある選手たちに思いやりのあ
る監督とコーチ、そしてそんなチームを
樋口富夫(26) 島根県松江市
9
支 え る ス タ ッ フ と サ ポ ー タ ー。 松 江 シ
松本弘樹(28) 島根県松江市
8
やってきてくれます。
7
ティFCがJリーグを目指して進んでい
佐藤友馬(30) 島根県松江市
MF
森田裕介(33) ―
13
そんなチームを、スタッフたちは内側
から支えています。選手たちがサッカー
監督
11
サポーター側では現在、城田さんが中
■後列左から松本さん、吉岡さん、 尾島さん。
前列の二人は取材メンバー。
松江シティFCのメンバー