① 伝染病・寄生虫類の制圧

インフラ・水 #1220
① 伝染病・寄生虫類の制圧
大正期の前後にさまざまなインフラの整備が進んだ中で、
「良質の水」を求め
る動きには医学的知識の蓄積が下支えになりました。水が関わる病気のうちで、
赤痢やコレラ、腸チフスで代表される細菌性の消化器系伝染病やカイチュウ(回
虫)やサナダムシ(真田虫=条虫)などの腸管寄生虫のことは既によく知られ
ていましたが、「風土病」と呼ばれた症例の解明は遅れていました。「風土病」
の解明と制圧は、地域に根着いた開業医の経験や次第に整備されてきた医学校
のこの時期の研究成果に依るところが多大です。
岡山県関係者の成果の主なものとして、
1)日本住血吸虫の発見
2)肝臓ジストマ(通称)の病原虫確定と宿主の解明
3)「風土病・作州熱」の解明
について顧みることにします。
日本住血吸虫の発見
備後の一部、筑後川下流域、甲州盆地などで、血管が腫れあがり、腹が膨れ
て死に至ると恐れられていた「風土病」の病原虫が明治 37(1904)年に解明さ
れました。当時、岡山医専の初代の病理学教授・桂田富士郎と京都帝国大学の
藤浪鑑教授とのフェアだが強烈な競争の
末、桂田が4~5日の差で「第一発見者」
の栄誉を得ました。大正 7(1918)年には
両者に帝国学士院賞が与えられました。
言い伝えによると教授は、日本の研究
者の総力に因る発見の意味で、
「桂田住血
吸虫」と命名することを固辞して、
「日本」
を冠したと伝えられています。この吸虫
の近縁種が惹き起こす病は、広く、東南
アジアやインド、エジプト、南米にも多
く発見され、研究成果はそれらの病の制
圧にも力を与えました。また、日本住血
吸虫の卵が、古くは、紀元前の馬王堆古
墳の女性の遺体から発見され「日本の固
有種」を意味するものではないことを示しています。
桂田富士郎・かつらだ ふじろう[慶応 2(1867)年~昭和 21(1946)年]石川県の人
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中間宿主・ミヤイリガイの確定
多くの寄生虫類がそうであるように、この住血虫は「中間宿主」を経由して
ヒトに侵入します(次のパネルの模式図参照)。中間宿主は、大正 2(1913)年
に、九州帝大医学部衛生学教授・宮入慶之助と講師・鈴木稔により水陸両棲の
小さい巻貝であると確定され、ミヤイリガイの名がつけられました(別名:カ
タヤマガイ)。この貝の発見に関して、鈴木稔の名前は論文共著者として残るも
のの、実験的な検証での鈴木の功績はそれほど大きく評価されていません。な
お、鈴木は後に岡山医大に赴任しました。
日本住血吸虫の蔓延地帯では、この貝を
撲滅することで、昭和 53(1978)年以降の
発症は認められていません。一つの種を撲
滅することで、「風土病」が制圧されたこ
とは皮肉なことです。なお、現・井原市の
高屋川流域にはかつてミヤイリガイの生
息は認められましたが、発症例の報告は一
度もありません。
左にミヤイリガイ(カタヤマガイ)の標
本の写真を掲げます。この写真と桂田先生
肖像は岡山大学医学部資料室の承認を得
て撮影しました。
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肝臓ジストマの原虫発見と宿主解明
肝臓ヂストマ(当時の呼称・表記法)=肝吸虫の虫体の日本での第一発見[明
治 7(1874)年]の栄誉は、倉敷村の医師・石坂堅壮に与えられています。イン
ドでの世界初の発見から遅れることわずか 3 年でした。この名誉は、残念なが
ら、岡山南部がこの吸虫症の多発地帯のひとつだったことに由来します。
そのことに県当局が関心を寄せたことは岡山縣諭告第 4 号(明治 35.5.1)に
見ることができます。そしてこの不名誉は肝吸虫の研究・肝吸虫症の究明での
岡山県人の寄与に結びつきます。
勝田郡旧豊国村出身の小林晴治郎は、明治 43(1910)年に、肝吸虫の第二中
間宿主がモツゴなどの淡水魚であることを突き止めました。その後の研究でも、
岡山の操陽尋常小学校(当時)の藤原明校長が三蟠地区の淡水魚を採集するこ
とで寄与したことも伝えられています。
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吸血虫類の生活史を、一般的な模式図として、下に示します。日本住血吸虫
の場合は赤矢印のように第2宿主を持ちませんが、肝吸虫では途中の幼虫状
態:メタセルカリアは第2宿主の中で育ちます。この宿主(淡水魚)を生食す
ることで発症しますが、水に出たメタセルカリアを飲用水と共に飲むことでも
罹ります。県南で「良質の水」が求められた要因の一つです。諭告第4号(明
治 35 年)では肝ヂストマ(当時の呼称)を名指して、
「食器や食品を河水で洗
ってはいけない。濾過した水を使いなさい」という趣旨を述べています。
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「作州熱」の病原体確定
今の奈義町の人、井戸泰[ゆたか]は 1900 年
に六高第三部(医学部予科)を経て京都帝大福岡
医科大学に進みました。卒業後、九州医科大学と
名前を変えた母校に籍を置いて、大正 4(1915)
年に、師の稲田龍吉教授と共同で「作州熱」の病
原体・スピロヘーターを確定しました。
「作州熱」は風土病として、日本の幾つかの地
名を冠して呼ばれていたものの当地における名
前です。医学的には、4つの近縁種がある中の「黄
疸出血性レプトスピラ症(Wile 病)」と呼ばれる
ものです。野ネズミ類を中間宿主として家畜やペ
ットが感染し、人間も罹ります。人間の相互感染はないとされますが、水を介
して口や皮膚から侵入します。高熱を発し、肝臓・腎臓の障害を引き起こし、
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高い死亡率を示します。当時、第一次世界大戦の前線で、大きな被害を出し注
目されていました。
その功績に依り、大正 5(1916)
年に稲田と井戸は第 6 回帝国学士院
恩賜賞を受けます。また、第一次世
界大戦で中断していて再開された
最初の 1919 年のノーベル医学・生
理学賞に両者はノミネートされま
したが受賞には至らず、井戸はその
年に急逝し、再度ノミネートされる
機会を失いました。死因は当時のパンデミックであるスペイン風邪でした。井
戸は野口英世とも親交がありましたが、共に研究対象の病原菌に冒される「殉
職」で世を去りました。
この研究が注目されるもう一つの点は、病原体の発見(確定)だけでなく、
感染実験、病原体の累代培養の全行程について実験的に示したことで、今では
当たり前となった研究のモデルを示したことです。稲田の晩年の思い出話しの
中で実験のほとんどの部分が井戸によって行われたと述べています。
資料・画像提供 奈義町教育委(奈義町文化センター)
井戸 泰:明治 14(1881)年~大正(1919)年
稲田龍吉:明治 7(1874)年~昭和 25(1950)年 名古屋の人
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まとめ
以上の「風土病」の例では、解明されてみると、必ずしも「飲用水」として
経口侵入するものばかりではありません。水田に素足で入ることで、皮膚から
浸入する例の方が多数です。しかし、人々、特に農民は早くから「水が媒介す
る」ことを経験的に感じ取っていました。病気の源が解明されるにつれて、一
層「良質の水」を求める要求は高まっていったと言えます。
付:岡山縣諭告四号(明治 35 年 5 月 1 日)の要約
全文は糞便検査表も含めて、3 ページ半あります。「ジストマ病予防法」9条
は:川や溝の水を飲むな、煮沸せよ/魚介水草は生食するな/食器食品を川や
溝の水で洗うな、濾過または煮沸した水を使え/食器食品を漬け置くのもいけ
ない/煮沸・濾過しない川や溝の水で洗面・うがいするな/川や溝の水で湯浴
みするときも濾過するのが宜しい/遊泳しては良くない/患者の糞便は焼くか
煮沸したのち肥料にしなさい/川や溝の貝類を除き尽しなさい。
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