映画鑑賞と - 伊奈いきがいネットクラブ

「劒岳・点の記」映画鑑賞と「わが登頂」を振り返る
(平成21年7月2日)
彩の国いきがい大学伊奈学園の仲間から昨日、
「劒岳・点の記」の映画を山好きの夫と見
て感激しました。
」とメールが届いた。剣岳は私にとっても懐かしい思い出深い山であるゆ
えに、新田二郎の小説「劒岳・点の記」は私の好きな本で今でも大切に持っています。私
も全 3000m 峰を登りつないで日本列島横断の山旅では、欅平から黒部谷の水平道を歩い
て阿曽原から真砂沢に登り、長次郎雪渓を登り、長次郎の頭を越えて剣岳に登頂していま
す。若き日の遠い思い出てとなってしまいました。映画を見たいと思う気持ちもあります
が、本から湧いた自分のイメージを壊したくないこともあって未だに見ていません。新田
二郎さんの本はご自分も登って体験に基づいて創作されていることもあって、我々もそれ
に近いものをイメージできるところがいいですね」とメールで返事を送った。
それから間もなくして、今年、84歳にならんとしている元
都庁山岳の先輩安田さん
と大塚先輩から有楽町の東映映画で上映している新田次郎の「劒岳・点の記」を見に行こ
うとのお誘いを受けた。
「剣岳・点の記」については、それなりのイメージを膨らませて読
んできたことや、私自身も宇治長次郎のコースを通って平成2年7月27日に剣岳に登頂
しているので、
それなりに剣岳に対して自分のイメージが出来上がっていることもあって、
映画には余り関心もなかったが、半年振りに安田・大塚先輩二人との「飲み会」も行うと
いうので有楽町までいそいそと出掛けて行った。
さて、映画を見るなんて何十年ぶりのことか。テレビとビデオデッキ―があるからビデ
オを借りてきて名画などを見てしまうので、映画館に行かなくても事足りて足が遠のいて
しまった。今はITの時代で切符売り場も自分の好きな席を自在に指定できるのだから便
利なったものだ。本題の映画に入る前にコマーシャルや予告編が上映れて一番驚いたのは
ダイナミックな音を出す音響効果で、鑑賞する側は自然とスクリーンに目を向けてしまう。
会場内は相当な高さがあるのに、そこを埋め尽くすような音響に私の頭は狂わんばかりで
身も縮こまってしまう。雪崩は臨場感が出ていたがやはり作り事に過ぎない。
さて、
「劒岳・点の記」も面白おかしく脚色していることもあって、私の頭の中で描いて
いたイメージとはかけ離れていることが多かった。そこには測量隊の責任者柴崎芳太郎を
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中心とした人間関係のやりとりをメインに描かれているのが何とも小説らしいところだ。
日本の山のほとんどが測量隊によって初登頂されており、
剣岳もその中の一つではあるが、
一番の難関だった山であるがゆえに、新田次郎を通して「劒岳・点の記」として大々的に
世の中に出たと言っても過言ではない。その苦労の大変さは当時から本にこそならなかっ
たが、語り継がれてきたように困難を極めた測量であったことを伺い知ることが出来る。
私が残念だったと思うのは、新田二郎が「劒岳・点の記」を書く前に剣沢小屋から一服
剣・前剣・軍隊剣・剣岳という一般コースで登頂しているので、このあたりの岩肌の厳し
さについては小説も映画にも表現されているが、長次郎谷については、登っていないので
急峻な雪渓の長さや八つ峰の鋭き岩峰群などの情景が本にも映画にも余り表現されていな
いことに物足りなさを感じてしまう。今回の映画で一番良かったのは迫力ある景色と、私
に剣岳をもう一度振り返るチャンスを与えてくれたことである。
★私はこれまでに立山周辺には山岳スキーや登山で、
昭和40年4月、昭和40年11月、
昭和46年4月、平成2年7月、平成3年7月、平成20年10月と6回ほど訪れている
が、剣岳に登頂したのは平成2年7月26日のみである。この時は長次郎と同じ雪渓を登
り詰めて剣岳に登頂している。というのは夏休みに入ると一般ルートは混雑して危険なこ
とや時間がかかることもあって我々は真砂沢のテント場にテントを張り、長次郎谷を熊岩
まで登り詰めて、我々は長次郎が登った左の沢には行かず、八ツ峰に沿って伸びる右の沢
を登り詰めて池ノ谷乗越に出て、岩稜を登り詰め尾根に出てからは右左に岩尾根を登った
り下りたりしながら長次郎の頭を越え、長次郎のコルへ下って剣岳へと岩稜を辿り念願の
剣岳の登頂を果たした。
帰りは長次郎のコルから足を滑らしたら命のないことが明らかな、目も眩むような急傾
斜の斜面を遥か下に見える熊岩までアイゼンを利かせピッケルを身構えて恐々下った。熊
岩から下はピッケルによるグリセードで長次郎谷入口まで楽しく下ったことが、ついこの
前のことのように蘇って来る。
剣岳
剣岳
長次郎のコル
長次郎の頭 池ノ谷乗越
長次郎谷
2
熊ノ岩
私の登りルート
下りルート
「劒岳・点の記」で作家が書いているのは、
「剣岳頂上に達する道は、常識的には早月尾
根、別山尾根の二つです。その両方が駄目だときまったら、後はこの大雪渓を詰めるしか
残っていないでしょう。
我々山岳会があらゆる情報を集めた結果、
そのように結論をつけたのです。
」フィクションとはいえ、当時のことを考えると簡単にこ
んなことが言えるのだろうかと思ってしまう。作家は長次郎たちが登れなかった岩稜が今
日の一般ルートとなっていることを意識していたからこそ、そんな言葉も出てしまったの
ではないだろうか。我々の時は、剣岳や八ツ峰
まで雪渓と岩稜を登り標高 1300m 稼ぐことを
考えると一日仕事なので6時半にベースを出発。
長次郎の出会いから用心のためにアイゼンをつ
▲剣岳
ける。右に八ツ峰の岩峰を左に源次郎尾根を見
ながらの登りは、見飽きることはなく、
「その昔、
熊がいたことから名前がついた熊の岩」まですん
なりと稼げた。八ツ峰鋸歯のような岩峰が連なり
ヨーロッパ・アルプスを思わせるような素晴らし
い山岳風景を醸し出している。既に数パーティが
取り付いており、ザイルワークの声が各所で飛び
交っている。滑ったらアウトなるような急峻な雪
渓を登り詰めながら彼らと声を交わす余裕もあり、
急斜面も難なくやり過ごし池ノ谷乗越に着いた。
乗越は三の窓へのアプローチとして利用さ
されている。池ノ谷ガリーを覗けば、足の竦
むようなガレ場となっている。私は用心のた
めにアンザイレンシ、長次郎ノ頭へ通じる岩
稜への取り付イタ。岩尾根の西側は悪く一歩
進めるのに神経を使う。一箇所ルートファイ
デングに時間がかかったが、1907 年(明治 40)7月13日陸軍参謀本部陸地測量官「柴崎
芳太郎」が案内人「宇治長次郎」らと登り詰めた長次郎谷左俣のコルに正午についた。剣
岳は目前、柴崎芳太郎と同じルートを取っていれば、時間も掛からず苦労もしなかったと
思うが、池ノ谷乗越を登ったことで八ッ峰全体を間近に、また、剣尾根や三の窓方面を眺
めることができたのだ。コルから30分で念願の剣岳(2998m)に立てた。ここでも叔母さ
んパワーの声が一段と高く、その逞しさには圧倒されてしまう。晴れ渡り遮るものなき展
望の素晴らしさには言葉は要らない。
柴崎芳太郎は仕事のために登ったとはいえ、人跡未踏の初登頂と思って頂上に立った時
に、既に先人によって登られていたことが分かった時、彼の胸中は複雑な思いだったこと
だろう。それにしても彼もまた山伏修行者の存在や山岳信仰を強く意識させられたのでは
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ないだろうか。山頂で昼食を摂っていたら霧が流れ出したので記念写真を撮り、剣岳を後
にした。帰路は一般ルートから剣沢コースを予定していたが、時間がないので長次郎谷左
俣コルへくだった。コルから幅広い急傾斜の雪渓をアイゼン付けてピッケルを構えながら
一歩一歩慎重に下るも、肩に力が入ってリズム感がなくなっている状態が自分でもわかる
始末。熊の岩までに着くまで意外と時間が掛かってしまった。熊の岩をトラバースすると
八ッ峰でロッククライミングを楽しんできたクライマーが続々と雪渓を下っていく。
若い仲間の二人はアイゼンを脱いでピッケルでグリセードしながら滑っていくが、私は
疲れ果てアイゼンを脱ぐのも億劫なので、そのままテント場まで下った。八ツ峰でロック
クライミングを楽しんだ若手二人が先に帰っており、ビールを冷やし夕食の準備をして
我々を待っていてくれた。雪渓の水で顔を洗い一日の火照りを冷やしながら独り静かに一
日を振り返る。テントの中で夕食時のミーティングでは、みんな今日の山行に満足してい
たのでうれしかった。
▲白馬岳
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●昭和40年4月25日美女平から雪上車で弥陀ヶ原ホテルまで入り、そこから地獄谷の
房治荘を目指して歩き始めた。キスリングと担ぐスキーの重さに耐えながらの登行、天狗
小屋に着いた時に雲が切れ始めて剣岳が顔を出し始めた。私が剣岳を目にした最初であり、
感動したことは言うまでもない。今は亡き谷口先輩が感動して8mm で撮影していたこと
が昨日のように蘇って来る。
こんな時期にスキーを担いで入山するスキーヤーも一部の人たちに限られている。本来は
山屋の領域なのだ。▼立山連峰
▼雷鳥沢
剣御前∼雷鳥沢を滑降。
上部斜度 40 度
★翌日の26日、青空の下、目の前は白き峰々
が広がる大パノラマ。誰かが叫んだ「ヨーロッ
パ・アルプスを思わせる光景だ」
。雄山を目指
して山崎カール付近を登り一ノ越に出て山頂へ。
山頂からの360度の展望に言葉は要らない。
正面左手に連なる白き山並みは、大日連峰
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5
▼
悠然と聳え立つ剣岳に感動する。
▲室堂小屋付近で登頂準備
▲雄山に立つ
★三日目の27日、天気はあまり芳しくないが、別山乗越を目指し雷鳥沢を詰めた。上部
へ登るほど斜度はきつく、股の間から下の山小屋が見えるほどになってしまう。アイゼン
を付けて登っているからいいようなもの、アイゼンがなかったら怖くて登れない。別山山
頂に立つや、目と鼻の先に岩と雪の剣岳が堂々と聳え立つ雄姿は圧巻だ。帰りは一気に雷
鳥沢に滑り込むも、最初の滑り出だしの怖さは凄い、転倒したら死亡事故に繋がりかねな
いので慎重に急斜面を乗り切ってから2時間の登りを10分足らずで滑り下ってしまった。
これこそが山岳スキーの醍醐味なのだ。
午後は雪が腐って滑れないので山小屋でマージャンか、缶ビールを飲みながら外で回り
の山々を展望しながらの日光浴。
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●昭和40年11月17日、カメラを持参しなかったので素晴らしい剣岳の写真は残すこ
とが出来ませんでした。日記を紐解くと「晴天に恵まれたので、雷鳥沢を登り詰めて剣御
前小屋周辺でスキーを楽しんだ。目の前に聳え立つ真っ白な剣岳に感動。粉雪の誰も滑っ
ていない剣沢にシュプールを思いのままに描くことが出来た。雷鳥沢の下りも春の雪と違
って快調な滑りだった。気温が低く乾燥しているので雪質が軽いのであろう。それ故に時
間を惜しんで滑りまくった。
翌日の3日目、独りで奥大日岳を目指した。稜線の雪も最初は硬めで登山靴にアイゼン
を付けて歩けたが、次第に降り積もった新雪に足をとられるようになった。カンジキを持
って行かなかったので奥大日岳の手前で撤退せざるをえなかった。西側から見る剣岳の眺
望は最高だった。
室堂乗越から山肌にシュプールを描きながら浄土川へ
滑り込んだ。小屋に帰ってから自分のシュプールを眺めることができ最高に気分よかった
のは言うまでもない」と。
●昭和46年4月29日、25日より黒部ダムから室堂までケーブル・ロープウェイ・バ
スを利用し入れるようになった。開通4日目に黒部ダムから立山に入った。もはや立山は
一部の人達だけしか入れない領
域では無くなってしまい、スキ
―ヤーがわんさと押しかけて以
前の静けさは無くなってしまっ
た。
地獄谷の房治荘から見える雷
鳥沢を滑るべく蟻の様に列をな
して登って行く。それだけ魅力
も無くなったことは確かだ。夏
は大勢の観光客がこの雄大な山
房治荘の近くにある地獄谷
▼
岳景色に感動することだろう。
昭和40年11月17日にスキー
合宿の時、温泉が熱くて風呂に
入れない。水は凍結してでない
ので窓から外に出て雪の大きな
ブロックを抱えて温泉に入って
は、解けたらそれを繰り返して
いた。それも遠い昔の思い出と
なってしまった。現在、我々が
利用していた房治荘は廃業して
建物も撤去されている。
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★4月30日、青空の下、今回もまずは足慣らしとばかり雄山に向かう。雄山の賑わいも
凄く、一部の岳人やスキーヤーにしか入れなかった5年前と比べると隔世の間ありで、大
勢の人に素晴らしい山岳風景を堪能してもらうことはいいことだが、環境破壊が懸念され
る。山頂から剣岳が望め言うことなし。
▼雄山(3003m)に登頂
★5月1日、曇り空であるが、今回は剣岳の
登頂を目指し、剣御前まで繋がるスキーヤー
の列に入り登ったものの、乗越しから見る限
り剣岳は、冬山に近い状況の残雪や雪崩跡も
あちこちに見えるので登頂を諦めた。
雄山から剣岳眺望▼
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●平成2年7月26日、長次郎谷大雪渓を詰め、池ノ谷乗越から岩稜に取り付き、長次郎
の頭を越えて念願の剣岳に登頂。以下写真で紹介。
真砂沢テント場
長次郎谷入口
▲
恐竜の鋸歯のような岩峰が並び立つ八ツ峰
チンネの岩壁に挑むクライマー▲長次郎谷右俣を登り詰める
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池ノ谷乗越から岩稜に取り付き一休み、バックは八ツ峰
ザイルを組んで長次郎の頭まで来る。バックに剣岳が見える。
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剣岳を望む
3000峰を登りつないで日本列島横断の山旅を目指し、どこで剣岳に登るのか機会を
うかがっていたが、若き仲間二人が私に付き合ってくれたお蔭で一般ルートでない宇治長
次郎のコースを登ることが出来た。感謝の一言に尽きる。
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▲八ツ峰
▲源次郎尾根
長次郎左俣の急傾斜の雪渓を下る
▲熊の岩を振り返る
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お疲れ様でした。仲間に感謝!
●平成3年7月、平成20年10月、立山を訪れましたが、天候が悪く剣岳は望めません
でした。立山の夏は観光客で溢れかえっており、昔の面影は何も見当たらないほど変貌し
ていました。
宇治長次郎について一言
柴田測量管の劒岳初登頂を導いたガイド宇治長次郎の功績は大きい。彼を抜きにしての
初登頂はなかったと言えるのではないだろうか。時代も違いガイド宇治長次郎について私
は、詳しい事は何も知らず本を読んでイメージするしかないので、今回の映画「劒岳
点
と記」の鑑賞記を書くにあたり、宇治長次郎はじめ劒岳について詳しく記述されている
「
(株)ぎょうせい
8 劒・立山と北部北アルプス」より引用させていただき、
日本の名山□
私の備忘録としてまとめましたので紹介します。
「立山のガイドが登山史に登場してきたのは、明治40年(1907年)7月、陸軍参謀
本部陸地測量部の柴崎芳太郎技官一行による測量のための剣岳登攀である。柴崎測量官ら
は、頂上へ三角点建設柴崎測量官のため、大山村の宇治長次郎、宮本金作ら五人を案内人
として、剣沢から雪渓を登り詰めて頂上に達し、頂上で錫杖の頭と剣身を発見した。
このことが立山村のガイドにショックを与え、その後名ガイドを生み出す切掛けとなっ
た。山案内人は猟師や樵から転じる人が多いが、長次郎は平凡な農民であるうえ、熱心な
仏教信者だった。殺生は好まず、狩猟もしなかった。人柄は「温厚、実直な一見農家のお
やじさんといった感じだった」と山行をともにした岳人らが書き残している。柴崎測量官
との剣岳登頂は38歳という人間的にも円熟していた頃で、二年後に剣岳へ案内した吉田
孫四郎も「一点の非難すべからざる資性を有し、余等年来の登山において、いまだかって
見ざる好漢である」と彼の力量と人柄をほめ称えている。冠松次郎と黒部の全域を踏破し
ている。その活躍ぶりが彼を有名にした。昭和20年8月75歳の天寿を全うしている。」
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▲劒岳に三角点が設置されたのは2004年
私の登山・スキー関係ファイルブックに「劒岳の三角点設置に関する一つの資料」が収
録されている。新田次郎の小説「劒岳
点と記」が映画化される2年前の2007年の秋、
元国土地理院北陸地方測量部長だった山田明さんが、
「劒岳観測
成し遂げた三角点設置
道険しき100年」◇
明治期の初登頂に報いる◇を日本経済新聞の文化欄
(2007.11.22)に執筆している。そこには山田明さんが「2004年に劒岳山頂付近に測
量の基準となる三角点を設置し、標高2999mに決定した一連の事業に携わったご自身
の思い」が綴られている。そこから見えてくることは、「明治40年(1907年)、柴崎
測量官が劒岳の高さを測量するために劒岳の山頂をめざして各方面からアタックしたが、
ことごとく敗退を余儀なくされ、最後に掛けたのが長次郎谷雪渓からの登頂であった。こ
のルートで難行の末に100年前に初登頂に成功したものの、岩場や雪渓の厳しさ標石や
観測機材を運び上げることができず、三角点の設置を残念し、近くの山からの測量で割り
出した数値2998mである。それが初めて劒岳地形図の標高となった。その後、測定方
法を変え3003mとなったが、1970年の地形図で再度2998mに戻った。
山田明さんは、国土地理院本院に「明治期の柴崎測量管の初登頂に報いるため、劒岳に
三角点設置」を提案し、承認され2004年の夏に設置にこぎつけた。劒岳は富山県内の
広い範囲から見えるので、地元の高校を卒業し、東京や大阪などで暮らす人が帰省した時
に、
「劒岳の山頂には私が運んだ三角点があるんだ」と思いだしてくれたらと、そんな思い
で設置にあたって富山県内の高校などに話を伝えた。集まった高校生をはじめ総勢55人
が、山のキャンプ場までの2キロの道のりを長さ79cm、重さ63キロの標石をリレー
形式で運び、そこから山頂までヘリコプターで運搬して三等三角点を設置し、全地球測位
システム(GPS)で標高などを観測し、2999mという数値を割り出して標高を決定
した。現在の劒岳の標高は柴崎測量管が計算した数値2998mに極めて近かかったと言
っているように、100年前の測量技術の正確さには驚くばかりである。山田明さんは標
石を山頂付近に設置して、標石に右の手のひらを置き「柴田測量管100年掛かりました
が、ようやく劒岳に三角点が建ちました」と報告したという。このシーンに私までもが感
動し胸が熱くなったことは言うまでもない。
(写真:剱岳山頂の GPS アンテナ、アンテナ左端の峰が八ツ峰六峰、アンテナと八ツ峰
の間が長次郎谷=劒岳の三角点・山田明より引用させていただいています)
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▲三角点とは
今回、新田治郎の小説「劒岳・点の記」映画の鑑賞と山田明さんの「劒岳観測
き100年」◇成し遂げた三角点設置
道険し
明治期の初登頂に報いる◇に触れることができ、
三角点について私自身初めて詳しく勉強させてもらった。点の記とは基準点(三角点・水
準点・基準多角点など)の設置・測量の記録のことで、小説「劒岳
点と記」のタイトル
の意味を理解することができた。
三角点は国土の正確な地図を作成することを目的に、明治から大正期にかけて「三角測
量」という方法により全国の測量が行われましたが、そうした測量のため設置された点の
ことを 「三角点」といいます。その位置は 「標石」で示されています。三角点は三角測
量に用いる際に経度、緯度、標高の基準になる点のことである(標高については別途、基
準となる水準点も存在する)
。測量法で定められている測量標の一つであり、永久標識に分
類される。通常、見晴らしの良い場所に設置されるため高山の山頂付近に設置されている
場合が多い。
このため、
一等三角点を山頂に持つ山の踏破を目標とする登山愛好者も多い。
場所によっては、公立学校などの公的建造物の屋上に設置されている場合もある。三角点
には、基準となる柱石が設置されている。
三角測量の歴史は 明治4年(1871年)、明治政府が東京に13の三角点を設置した
ことが始まりとされ、その後明治17年(1884年)陸軍参謀本部により全国的な一等
三角測量が開始され、大正2年には一応の完成を見たとされています。
三角点は三角測量によって地球上の位置(経緯度)が定められた点で花崗岩(かこうが
ん)製の角柱が埋設してあり、その位置を示す。これを三角点標石というが、この標石が
破損、亡失した場合にも位置がわかるように、一等および二等三角点では標石の真下に花
崗岩製の磐石(ばんせき)が埋設されている。三角点は互いに見通せる地点に選ぶため、
山頂に設けることが多いが、見通しさえあればよいので、かならずしも最高点に設けると
は限らず、平地に設けられた三角点も多い。三角点の経緯度は三角測量によって求められ
た測地的経緯度であり、天文測量によって求めた天文経緯度とはかならずしも一致しない。
この差を鉛直線偏差といい、日本では 20 秒以上の鉛直線偏差も観測されているという。
三角点には原則として一等から四等まで等級がある。この等級を山のランク付けと思わ
れている方いるが決してランクなどではなく設定された順番によるものだという。明治時
代、正確な地図を作成する必要があった政府は日本全国で三角測量を実施した。この作業
は明治15年、現在の神奈川県相模原市にある一等三角点「下溝村」と座間市の一等三角
点「座間村」との距離を正確に測定することに始まり(これを基線測量といいます)全国
を一辺約45㎞の三角の網で覆うことから始まった。この時設定された三角点が一等三角
点の本点(350 点)です。一辺約25㎞ごとに設定された一等三角点補点(622 点)を加
えて作られた三角点の網が一等三角網で、全国 972 点から構成されている。一等三角点の
4割が平地に設置されているという。
実際には平行して行われたが、一等三角網が完成するとより高い精度を求めるため、一
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等三角網を利用して、新たに一辺約8㎞の三角点の網が作られる。これが二等三角網です。
(5062 点)さらに二等三角網を利用して、一辺約4㎞の三等三角網(32501 点)が完成
します。この成果を利用して基本的な地図である五万分一地図が完成しました。三角点は
四等までありますが、これは戦前、戦後で大きく異なる。戦前にも四等三角点は存在した
が、これは三等三角網を補完するためのもので、測量が行われた際に一時的に利用するの
みで標石も埋められませんでした。戦後になり、GHQの指示より日本全国の再測量が行
われましたが、この際、土地の所有を明確にするための地籍測量を目的として一辺約2㎞
の三角網が作られますこれが四等三角点(67690 点)です。また、極めて少数だが、四等三
角網を補完する五等三角点や精度が四等三角点より若干劣りますが製図上のポイントにな
る図等三角点(図根点)も存在する。
一等三角点研究会が山型・展望・知名度を勘案し選定した一等三角点のある百名山の中
にある 3000m から 2800m までの山は以下のとおり。
★3000m 以上前穂高岳(本点)
、御嶽山(本点)
、乗鞍岳(補点)、赤石岳(本点)
★2900m 以上白馬岳(本点)、甲斐駒ケ岳(本点)、木曽駒ケ岳(補点)
、立山(補点)
★2800m 以上八ヶ岳(本点)
●折りしも新田次郎の小説「劒岳・点の記」映画が公開されたこともあって、柴崎測量官
が劒岳の標高を測量するために各方面からアタックしたが、敗退を余儀なくされた踏み跡
の検証、劒岳の標高を測量するため近くの山からの観測で数値を割り出したことから、そ
れらの山の三角点の確認や、プロのガイドに当時と同じ標石を背負わせて長次郎谷雪渓か
らの登頂に挑戦させ、すぐに敗退してしまったドキュメンタリーをNHKがこの秋に放映
していた。私も長次郎谷雪渓から劒岳に登頂しているのでテレビに釘付けになったことは
言うまでもない。ここで印象的だったのは、100年前も現在も長次郎谷雪渓の厳しさは
変わっていないことである。また、私自身、どの山も登頂すれば三角点にタッチすること
にしているが、劒岳の祠の脇に埋もれているものとばかり思っていたのでタッチもしなか
ったが、二年前に山本明さんの執筆文を読んで当時、三角点が設置されていなかったこと
を初めて知ったのである。
今回、映画「劒岳
点と記」の鑑賞を契機に、山田明さんの「劒岳観測
0年」−成し遂げた三角点設置
道険しき10
明治期の初登頂に報いる−や、NHKドキュメンタリー
に触れて、忘れかけていた私の劒岳登頂記を再度振り返る機会をもてたことに感謝!
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