の救済理論

Ramanujaの救済理論
一 一p
r
a
p
a
t
t
i思 想 を 中 心 と し て 一 一
石飛貞典
v
a
i
Sn
f
?
l
!a
v
a の信仰およびその信者が,時に p
r
a
p
a
t
t
i
m
a
r
g
a (自己帰投の道), p
r
a
p
a
n
n
a (自己
帰投せる者)と呼ばれる(1)ことからも知られるように. p
r
印 刷iはこの派の救済理論の中心概念
のーっと言いうる。
周知の如く,救済理論に関して Srïvai~l!ava 内部に二つの対立的な考え方が存在する。 Teñgalai
派は p
r
a
p
a
t
t
iを救いに至る唯一の道とみなし,他の儀礼等の必要性を全く認めない ω。さらに,
この派では神の思寵を極めて重視し, p
r
a
p
a
t
t
iを救いに至る積極的な手段とせず,単に神の恩寵
の妨げを除去するための消極的なものとみなす α〉。人聞の救いは人聞の側からの働きかけ・努力
によって実現するのではなくて,神の思寵を侯って初めて可能となる ω。一方, V
a
q
a
g
a
l
a
i派に
よると解脱には人間の努力も必要である。解脱の手段 (mok
?
f
δ
p
a
y
a
) とLては,万人に聞かれた
がa
p
a
t
t
i
ω と,再生族にのみ許されるバクティ ω とが認められる。但し, p
r
a
p
a
t
t
iはパクティの支
分 (
a
白g
a
) であって (7う独立の手段ではない。
r
a
p
a
t
t
i 思想の典拠とするかについても見解の相違がある。 T
e
n
g
a
l
a
i派
両派の聞には,何を p
は B
h
a
g
a
v
a
d
g
i
t
i
i1
8
.6
6,いわゆる c
a
r
a
m
a
s
l
o
k
aに対する Ramanuja の注釈を典拠とする ω。と
ころが, V
a
q
a
g
a
l
a
i派の方では Ramanujaの G
i
t
i
i
b
h
i
i
$
y
aを S
r
i
b
h
i
i
$
y
a と共にパクティを説くもの
とし ,G
a
d
y
a
t
r
a
y
aを p
r
a
p
a
t
t
i思想の典拠とする ω。
r
i
v
a
i
符a
v
aにおいては共に Ramanujaの著作に典拠を見出し
このように, Ramanuja以後の S
つつも 9 全く別々の救済理論が説かれることとなる。これは, R亘man
吋a がノミクティと p
r
a
p
a
t
t
i
の相互関係や p
r
a
p
a
t
t
iの性格づけ等を明確に示していなかった(10) ことに起因するように思われ
る。そこで,本稿では Ramanuja による p
r
a
p
a
t
t
i の用例, c
a
r
a
m
a
s
l
o
k
a解釈,G
a
d
y
a
t
r
a
y
a特に
Sara
1
}
1
i
ga
t
z
"
gadyaにおける救済理論を検討し, R孟manujaの p
r
a
p
a
t
t
i観を明らかにすると共に,
S
r
i
v
a
i
卸a
v
a の救済理論の発展における R亘manujaの役割についても考察していきたい。
I
Ram瓦n
u
j
a の著作中での p
r
a
p
a
t
t
i という語の用例はあまり多くはない。主著 S
r
i
b
h
i
i
$
y
a では一
e
d
i
i
r
t
h
a
s
a
f
!
'
l
grahaでは b
h
a
g
a
v
a
t
p
r
a
p
a
t
t
iの形で二回 qq
度も使われず〈113,処女作とみなされる V
G
i
t
品 加$
y
a でも b
h
a
g
a
v
a
t
p
r
a
p
a
t
t
i が六回(13), mat(=bhagavat)p
r
a
p
a
t
t
iが二回用いられてし、
る(14)程度である。 G
a
d
y
a
t
r
a
y
aや N
z
i
y
a
g
r
a
n
t
h
aには p
r
a
p
a
t
t
iの用例j
はなし、。
- 10ー
G
i
t
a
b
h
a
$
y
a第七章序文において, Ramanujaは,GUa第七章の内容を概説する中で b
h
a
g
a
v
a
t
:
p
r
a
p
a
t
t
iに触れている。それによると,
「この第七章では,まず,念想対象たる最高プルシヤの如実なる本質が, [ついで、〕根本原質に
よるその隠蔽が,そしてその排除のために b
h
a
g
a
v
a
tp
r
a
p
a
t
t
iが,さらに念想者の種別と知者
田
の優越性とが説かれる。j(15)
とある。周知の如く, Ramanujaの G
i
t
劫>
h
a
$
Y
aは Y亘munaの G
i
t
a
r
t
h
αs
a
f
{
z
g
r
a
h
aの影響を強く受
けている (16) が,この部分も G
i
t
a
r
t
h
a
s
a
f
{
Z
graha1
1と殆んど同内容である。そこで両者の用語法
を比較してみると ,G
i
t
a
r
t
h
a
s
a
f
{
Z
grahaでは G
i
t
a
b
h
a
汐G の b
h
a
g
a
v
a
tp
r
a
p
a
t
t
iに対応する箇所で,
司
S
a
r
al
)a
g
a
t
iを用いている(17)。逆に G
i
t
a
r
t
h
a
s
a
f
{
Z
graha 5の prapannaが G
i
t
a
b
h
a
$
y
aでは s
a
r
a
平
亙g
a
t
a
と言い換えられる例もあり〈山, p
r
a
p
a
d
-と s
a
r
a
平
亙g
a
m
-は同義的に用いられていると考えられ
る
。
h
a
g
a
v
叫 p
r
a
p
a
t
t
i が具体的に説かれている箇所は7.14である。そ
さて ,GUa 第七章において b
こでは神に帰依する (
s
a
r
a
明
r
p
.p
r
a
p
a
d
)者がマーヤーを離れて神を念想する (
u
p
a
おうとあ
る(19)0 Ved
五n
t
aD
e
s
i
k
aはこの部分に注釈して,
「念想 (
u
p
亙鈎n
a
) の支分 (
a
n
g
a
) たる p
r
a
p
a
t
t
iがここで説かれている……。j(W)
と説いている。さらに ,G
i
t
l
i
b
h
a
$
y
a7
.
1
5の導入部分には,
「念想をもたらす (
u
p
a
s
a
n
a
p
a
d
i
n
i
)b
h
a
g
a
v
a
t
p
r
a
p
a
t
t
iをどうしてすべての人々が行なわないの
か,という点に関して日く一一。j(21J
とある。従って, b
h
a
g
a
v
a
t
p
r
a
p
a
t
t
i とは根本原質による神の本質の隠蔽を排除し,念想をもたら
すもの,ということになる。
e
d
a
r
t
h
a
s
a
f
{
Z
graha ~ 78では , GUa 14.27を引いた後,グナと根本原質の結合からなる
一方 ,V
輪廻からの解脱 (
s
ar
p
.
s
a
r
amocana) は b
h
a
g
a
v
a
t
p
r
a
p
a
t
t
iなくしてはあり得ない,と説かれてい
回
る(22)。この b
h
a
g
a
v
a
t
p
r
a
p
a
t
t
iを b
h
a
g
a
v
a
t
-p
r
a
t
i
p
a
t
t
i
,b
h
a
g
a
v
a
t
-p
r
a
p
t
i とする写本もある (2のこと
から, b
h
a
g
a
v
a
t
p
r
a
p
a
t
t
iは「神の獲得」を意味するとの解釈もなされる (24)が,ここでは採らな
4.27に対する R亘manujaの注釈では ,GUa7
.
1
4を引き,そこでグナの超兎
い。何故なら GUa1
(
a
t
y
a
y
a
) とそれに基づ、く不滅なるもの・自在力・神の獲得 (
b
h
a
g
a
v
a
t
p
r
a
p
t
i
)が b
h
a
g
a
v
a
t
p
r
a
p
a
t
t
i
瓦y
a
) とすることが述べられている,として神の獲得の手段として b
h
a
g
a
v
a
t
を唯一の手段 (
u
p
p
r
a
p
a
t
t
iを 説 い て い る か ら で あ る (25)。ところで, Ramanujaにとって「信愛の形態をとった
p
a
r
a
) あるいはナーラーヤナ獲得の手段であり,解脱の達
(
b
h
a
k
t
i
r
u
p
a
p
a
n
n
a
)j 念想は最高者 (
早
a
s
a
d
h
a
n
a
) である (26)。 又,GUabha$ya 7
.
1
9には, mat-prapadana が
,
成手段 (mok
r
我(=神)
の従属物なること (
s
e
号a
t
a
) を唯一の心情 (
r
a
s
a
) とするアートマン (27)の如実な知」に基づくこ
瓦p
t
iと
し
、
とが説かれている。以上を総合すると, atmanの知→ p
r
a
p
a
t
t
i→ u
p
a
s
a
n
a→ b
h
a
g
a
v
a
t
p
r
う過程を想定することができる。さらに ,G
i
t
品加のl
a における p
r
a
p
a
d
-が
, (
飽m-)a
s
r
i
- と言
,
与a
)
い換えうることが報告されている倒〉ことと考え合わせると, p
r
a
p
a
t
t
i とは,神の従属物 (
s
e
としての自己を認識した上で,神に依拠しようとすることであると言えよう。
-11-
E
次に, c
a
r
a
m
a
s
l
o
k
aに対する R亙
manuja の解釈について検討する。 G
i
t
a1
8
.
6
6は
,
「すべてのダルマを放棄して (
p
a
r
i
t
y
a
j
y
a
) 我のみに帰依すベし (
s
a
r
a
明
r
p
.v
r
a
j
a
)。我は汝を一
a
) より解き放たん。」
切の罪(p亙p
と9 一切のダノレマの放棄,神への帰依,神による罪からの解放を説いている。この,いわゆる
c
a
r
a
m
a
s
l
o
k
aに対してRa
manujaは,二通りの解釈を与えている。その第ーは,
「カルマ・ヨーガ,ジュニャーナ・ヨーガ,バクティ・ヨーガを本質とし,至福の達成手段た
m
a
d
a
r
剖h
a
n
a
) として・極度の愛 (
a
t
i
m
a
仕a
p
r
l
討)に基づいて・
るものであって,我への崇拝 (
p
h
a
l
a
),行
資格に応じて・行われているところの,すべてのダルマを,前述の方法での果報 (
為 (
k
a
r
m
a
n
),行為主体性 (
k
a
r
t
r
t
v
a
) 等の捨棄によって捨棄して我のみに行為主体 (
k
a
r
t
r
)・
崇拝対象(亘r
a
d
h
y
a
)・獲得対象 (
p
r
a
p
y
a
)・手段 (
u
p
a
y
a
) を求めるべし。……(中略)……盆旦
汝をすべての罪から解き放たんーーかくの如くにある汝を,我の獲得と矛盾し・無始なる時に
積まれ・為すべきでないことを行うことと為すべきことを行わないことを本質とする・すべて
の罪から,解き放つであろう。悲しむなかれ一一悲嘆しではならない。j(29)
という解釈である。ここではアルジュナに対してパガヴァ
y
トがパクティ・ヨーガを含めたー坊
のダルマを捨棄すべきことを説いているが,これは人間の側からの救済への働きかけを不要と説
くものではない。 GUabha$Ya18.
41に,果報と行為と行為主体の捨棄が次の如くに説明されてい
る。すなわち,果報の捨棄とは行為によって生じる天界 (
s
v
a
r
g
a
) 等の果報を我が物 (mama) で
ないと考えることである。行為の捨棄とは,この行為は私の果報の達成手段であるから我が物で
s
a
r
v
e
s
v
a
r
a
)
ある,という考え方を捨棄することである。又行為主体性の捨棄とは,一切主宰神 (
に行為主体性を想定すること (
a
n
u
s
ar
p
.d
h
a
n
a
)(30)によって自己の行為主体性を捨棄することであ
i
t
a
b
h
a
$Y
a1
8
.
1
0
1
こは,聖典で規定されている捨棄 (
s
a
s
t
r
i
y
a
-t
y
a
g
a
) とは行為における行
る伽 )0 G
為主体性と(行為への)執着 (
s
a
カg
a
) と果報の捨棄であって,行為そのものの捨棄 (
k
a
r
m
a
-
g
a
)ではない,と説かれている αゎ。従って,行為を行う際の自力の心,はからいを捨
s
v
a
r
u
p
a
t
y亘
てるべきことを説くものであって,行為自体を不要としているわけではないく:33)。次に,神に手段
(
u
p
a
y
a
)を求めよ,と説くことに関してー,二付言しておこう。 S
r
i
b
h
a
$
y
a3
.
2
.
3
4にも,最高プル
シャが手段 (
u
p
a
y
a
) である,とする記事がある。へこうした考え方は, Y亘
muna の G
i
t
a
r
t
h
a
1
J
1
graha3
1にある「手段たること (
u
p
亘
y
a
t
a
)を捨棄してそれを神にゆだねるべし (
n
y
a
s
y
e
d
)oj(35)
s
a
という記述と軌をーにしている。 Yamunaの p
r
a
p
a
t
t
i思想が Al
z
l
r
.
加d
h
1
の 的 問l
h
i
t
a の影響を受け
t
o
t
r
a
r
a
t
n
a22 および 48も A
h
i
r
b
u
d
h
n
y
a
s
a
1
J
1h
i
・
t
a3
7
.
3
0
c
d
3
1に言う 1
1
1私は罪障の
ており,彼の S
u
p
a
y
a
) となって下
器であり,何の価値もない者,よるべなき者です。まさにあなたが私の手段 (
s
a
r
a
I
)a
g
a
t
i
) と呼ばれる祈りの気持ちを神に向けるべし。j(3のを反映している
さい。』と L、う帰依 (
と考えられる (37)ことから, Ramanujaもその影響を受けている可能性が高い。 Ah
介 伽 品n
y
α
s
a
1
J
1
h
i
加
-12ー
も Ramanuja も,自己の頼りなさの自覚の上に立って,神に手段 (
u
p
互
.
y
a
) を求めている点では
共通である。
次に, Ramanuja の第二の解釈を見ておこう。伎は次のように言う。
「バクティ・ヨーガの開始に矛盾し,無始なる時より積まれた様々で無限の罪悪に対応し,そ
れぞれの購罪を本質とするところの,グリ
y
チュラ……(中略)……アグニシュトーマ等の・様
々で無限の・限られた時間に生存する汝には実接し難い・すべてのダルマを放棄して,パクテ
ィ・ヨーガの開始を成就するべく,最高の慈愛者 (
p
a
r
a
m
時亘r
u
平i
k
a
) であり・差別を顧慮する
ことなく一切世界の帰依所となる者 (
a
n
a
l
o
c
i
t
a
-v
i
s
e
:
;
;
a
s
e
号a
l
o
k
a
s
a
r
a
J
)y
a
) であり・依存せる者に
対するいつくしみの大海(滋r
i
t
av
a
t
悶 l
y
a
j
a
l
a
d
h
i
)である・我のみに帰依すべし。我は汝をすべ
凶
ての罪から一一前述の本質を有するバクティの開始と矛盾するすべての罪から一一盤主些2
であろう。悲しむなかれ。J(38)
これは,第一の解釈と異なり, 1"一切のダノレマ」をパグティ・ヨーガの開始の妨げとなる罪悪に対
する購罪の儀礼であるとする。そしてそれらすべてを実行しようとすると,いつまでもバクティ・
ヨーガを開始し得ぬことから,それらを捨てよ,と説かれるのだとする。ここでは「一切のダル
マ」が実行不要であれ帰依することによって神によりパクティを妨げる罪から解き放たれるこ
とになる。しかし,この第二の解釈が直ちに後代の p
r
a
p
a
t
t
i思想につながる,と考えることは早
計である。ここではパグティに先行するダノレマが不要とされており,ノミクティそのものの有効性・
必要性が否定されているわけではない。むしろ購罪儀礼による罪の浄化を計ること,つまり自力
に頼ろうとすることがパクティに反するものとみなされていると言えよう。そうしづ点では,自
力の心を捨てて実践すべしとする第ーの解釈と根本的に異なる思想が説かれているわけではな
い。又,第二の解釈への導入部分 (39)では, 1"パクティ・ヨーガは,すべての罪悪から解放された・
バガヴァ
y
トへの極度の愛 (
a
t
y
a
r
t
h
a
b
h
a
g
a
v
a
t
p
r
i
y
a
)をもっ・人によって遂行さるべきものであ
るから」自分にはバクティ・ヨーガを始めることができぬと考えて悲しむアルジュナに対し,神が
c
a
r
a
m
a
s
l
o
k
aを説く,とされている。とすれば,この第二の解釈はバクティ・ヨーガが,神に帰依
することによって誰にでも実行可能な易行であることを説くものとも考えられる。ともあれ,こ
こでは帰依 (
s
a
r
aJ)a
:
r
p
.v
r
a
j
) がノミクティの前提として説かれている。同様に ,V
e
d
a
r
t
h
a
s
a
1
1
'
l
graha
~
9
1で も ふr
a
l
f
a
g
at
i,nya
s
ーがバクティの前提条件として挙げられている (40)。その前提条件とは,
①善を積み悪を滅ぼすこと,②神の足への帰依 (
s
a
r
a
頃g
a
t
i
) による神への専念 (
a
b
h
i
m
u
k
h
y
a
),
③師の教えや聖典の知識による真理の理解に基づく平静 (
s
a
m
a
),克己 (dam
且)等の心の美徳を具
i
えること,④カースト・生活期に適した宗教的実践 (
k
a
r
m
a
n
)の遂行(
u
p
a
s
a:
r
p
.
h
rt
) と禁ぜられ
た行為の捨棄 (
n
i
;
s
i
d
d
h
a
p
a
r
i
h
亙r
a
),⑥神の足へ自己および自己に関わるもの(孟t
m
a
t
m
i
y
a
) を投げ
出す (
n
y
a
シ)こと,⑥神への信愛 (
b
h
a
k
t
i
) による賞讃 (
s
t
u
t
i
)・念想 (
s
m
r
t
i
) 等を嘉する神の恩
p
r
a
s
a
d
a
) によって内なる閣が破られること,の六つである。これらを満たした時,他を動機
寵 (
とせず不断で無上の愛によるきわめて明噺な直観たるに至った念想 (
a
n
a
n
y
ap
r
a
y
o
j
a
n
a
n
a
v
a
r
a
t
a
田
n
i
r
a
t
i
s
ay
a
p
r
i
y
a
-v
i
s
a
d
a
t
a
m
a
-p
r
at
y
a
k
早a
t
a
p
叩 n
anudhy
如 a
) を本質とするパクティによって,神の獲
- 1 3ー
得が可能となる。ここで
が,神獲得の手段でなくパグティによる神獲得の前提条件として示されている。
以上のことから, c
a
r
m
a
s
l
o
k
aを解説するに当って, Ramanujaが p
r
a
p
a
t
t
iを,救済に向けての人
間の側からの働きかけ・努力そのものを放棄することではなく,自力の心を捨てて行うべきことを
説くものとみなしていること,パクティの妨げを除去するもの,バグティの前提条件としてとら
えていることが知られた。従って, Ramanujaの考え方としては,一応, p
r
a
p
a
t
t
i
→妨げ除去→パタ
e
d
a
r
t
h
a
s
a
?
!
!
g
r
a
ティというプロセスを想定することができょう。しかし ,Gït1ibha~ya, Srïbha~ya, V
ha の中では prapatti 思想そのものが直接的・積極的に主張されているとは言い難い。 Gïtabha~a
における prap丘tti の用例を調査した Buitenen も Gîtabha~ya の中には後代の Srïvai明ava の
如き p
r
a
p
a
t
t
i思想,つまり p
r
a
p
a
t
t
i を神獲得に対するパクティとは別の,より好ましい方法とみ
L
なすような思想は存在しなし、,と結論づけているは1
璽
Gadyatraya はおra~lãgatz:旨adya, S
r
i
r
a
旬a
gadya,Srlvaz'初~thagaめla の総称であり,伝統的には
比較的早い時期から Ramanuja の真作として認められてきた (4九教義的には大きな相違を見せ
e
n
g
a
l
a
i派と V
a
q
a
g
a
l
a
i派もその真作性に関しては一致して承認している ω〉。このうち,
るT
prapattì 思想の典拠として特に重視されるのは Sam~丘gatigadya である (44) 。その内容を概観すれ
ば,まず S
r
1に帰依した上で, b
h
a
g
a
v
a
tへの帰依の成就を S
r
1に祈り. S
r
iがそれを約束する
(
1"
'
4
)。つづいて b
h
a
g
a
v
a
tの図像学的措写の後, b
h
a
g
a
v
a
tへの帰依が表明され. b
h
a
g
a
v
a
tの恩
寵を請し、,罪の赦しを請う (
5
"
'
1
1
)。そして p
a
r
a
b
h
a
k
t
i,p
a
r
a
j
n
耐久 p
a
r
a
m
a
b
h
a
k
t
i の実現とそれ
i
t
y
a
k
a
i
n
k
a
r
y
aの祈願が為され, b
h
a
g
a
v
a
tがそれを約す (
1
2
"
'
2
3
),といった内容にな
に基づく n
っている。この中で説かれる救いへの過程は次の如く示しうる。即ち,
dvayaC
m
a
n
t
r
a
)→ daya→ p
a
r
a
b
h
a
k
t
,i p
a
r
a
j
n
a
n
a, p
a
r
a
m
a
b
h
a
k
t
i→ bhagavad引 mbhava→ p
r
i
t
i→
n
i
t
y
a
-k
a
i
n
k
a
r
y
a
となる。
ところで,Sara~aga#gadya を初めとする Gadyatraya の真作性を疑問視する研究者も少なく
ない (45)0 Sara~agatなadya における救済論を取り上げる前にこの点について検討しておこう。
Sara~agatigaめla を偽作とみなす場合して挙げられる根拠は次の四点に集約しうる。
(
1
) s
a
r
叫 a
g
a
t
i(
p
r
a
p
a
t
t
i
) を解脱への独立の手段とすること
(
2
) d
vaya(
m
a
n
t
r
a
) によるパクティの障害の除去を説くこと
(
3
) S
r
i(
L
a
k
:
;
n
n
i
) の仲介者 (
p
u
r
明a
k
a
r
a
) としての位置づけが R亘manuja の他の著作と異なっ
ていること
(
4
) p
a
r
a
b
h
a
k
t
i
,p
a
r
a
j
n
a
n
a,p
a
r
a
m
a
b
h
a
k
t
i並びに n
i
t
y
a
k
a
i
此a
r
y
a等の他の著作にない概念が重
祝されていること
- 14ー
(
1
)に関して言えば, V
edantaD
e
s
i
k
aは G
a
d
y
a
t
r
a
y
a
b
h
a
汐G で,Ga
めl
a
t
r
a
y
aを「苦悩せる者 (
a
r
t
a
)
の嘆願」を説くものとし (46),R
a
h
a
s
y
a
t
r
a
y
a
s
a
r
a2
4では G
a
d
y
a
t
r
a
y
aを ぬr
al
}a
g
a
t
iを説くものとし
ていると言われる (47)。しかし ,S
ara
1
J
a
g
a
t
なαのαの中には p
r
a
p
a
t
t
iの用例は無く,動詞形の p
r
a
-
p
a
d
-が s
a
r
a
明t
pp
r
a
p
a
d
-等の形で二回用いられているのみである。その他 s
a
r
a
頃g
a
t
i,s
a
r
al
}a
g
a
t
a
が各一回, a
s
a
r
a
早y
a
s
a
r
al
}y
aa
n
a
n
y
a
s
a
r
al
}y
a が各二回用いられているのが目立つ程度であり,
ヲ
p
r
a
p
a
t
t
i 思想が積極的に救済手段として説かれているわけではなし、。先に示した救いへの過程の
最初に挙げた dvaya(m
a
n
t
r
a
) は ,Sara
1
Ja
gat
z
"
gadya 中には具体的な内容が示されていないが,
町
五
“r
i
m
a
nn
a
r
亙y
a
平a
-ωra
♀a
uS
a
r
a
♀a
t
pp
r
a
p
a
d
y
e,
五r
i
m
a
t
en
a
r
a
y
a
頃y
anama
}:t"を指すと言われる (48)。
この中で s
a
r
al
}a
t
pp
r
a
-p
a
d
-が用いられているが dvayaは救いへの過程の出発点でしかないし,
S
a
r
al
}a
g
at
iや p
r
a
p
a
t
t
iとし、った術語の形で、その過程に組込まれているわけでもな L、。このように,
a
g
a
t
Sara
1
J
なa
d
y
aにおいて p
r
a
p
a
t
t
iが解脱への独立の手段として説かれているとは言い難 L。
、
次に (
2
)について見てみると. d
v
a
y
a
(
m
a
n
t
r
a
)は確かに本書に特有のものである。しかし, dvaya
を唱えることにより p
a
r
a
b
h
a
k
t
i 等の妨げ‘が滅ぼされて p
a
r
a
b
h
a
k
t
i等を獲得しうるとする考え方
は
, p
r
a
p
a
t
t
iによるパクティの劫げの除去を説く c
a
r
a
m
a
s
l
o
k
a解釈や, S
r
i
v
a
i
開a
v
aとの関わりの
大きい A
h
z
'
刊u
d
h
n
y
a
s
a
1
s
hz
'
t
aにおける n
y
a
s
a
m
a
n
t
r
a による罪の除去の考え方 (49)に通じ,それ自
体決して日新しいものではなし、。他の著作中に dvayaが全く見られないことも ,S
ara
1
Ja
g
a
t
i
g
a
d
y
a
が濃厚に持つ宗派的性格や,他の著作より後に書かれたという伝承があること G
ωを考慮に入れ
れば,これも大きな問題とはなり得なし、。
(
3
)の S
r
i の位置については, Carman も指摘しているように ,Sara
1
J
反g
a
t
i
g
a
d
y
aにおいては必
ずしも人間と神の仲介者として規定されているわけではなく,比較的稀ではあれ他の著作中にも
S
r
iへの言及がある (51)から ,S
ara1
Ja
g
a
t
i
旨a
d
y
aにおける S
r
iへの言及が特に異例のものとは思わ
れない。
最後に, (
4
)の用語の問題のうち, n
i
t
y
a
k
a
i
n
k
a
r
y
aは Raman
吋aの著作中では G
a
d
y
a
t
r
a
y
a
,N
i
t
y
a
-
g
r
a
n
t
h
a等の真作性が疑われているものの中でのみ用いられているが, Yamu
聞によってすでに
解脱の境地を示す語として用いられている (5のことを考えると,これも問題視するにはあたらな
いであろう。次に p
a
r
a
b
h
a
k
t
i 以下の三つの概念は, R孟m亙n
u
j
a,Yamuna いずれにおいてもセ
y
トの形で用いらる例は他になし、 o p
a
r
a
b
h
a
k
t
i(
p
且r
ab
h
a
k
t
i
)は S
v
e
t
i
i
s
v
a
t
a
r
φani$ad
,G
i
t
a等で古く
,R亙manuja共に数回用いている (54)が
, p
a
r
a
j
n
亙n
a,p
a
r
a
m
a
b
h
a
k
t
i の用
から用いられ (53), Yamuna
e
d
a
r
t
h
a
s
a
1
s
graha
例は無い。しかし ,V
S92で二種のバクティが説かれる (55)し,以下に述べる
e
d
a
r
t
h
a
s
a
y
!
1
g
r
a
h
a等の中にトレース可能であるから, R互manuja の他の著作
ように内容的には V
との聞に明らかな矛盾があるとは言い難い。
以上の如く
,Sara1J
i
i
g
a
t
i
'
g
adyaの真作性を積極的に否定するような明確な較拠が見出せない以
上,伝統説にのっとって Ramanujaの真作と考えるのが妥当と思われる。
a1
さて ,Sar
gau
Ja
'
g
a
d
y
a における救いへの過程の中でまず問題となるのは,先に触れた p
a
r
a
b
h
a
k
t
i
,p
a
r
a
j
n
a
n
a,p
a
r
a
m
a
b
h
a
k
t
iである。 Y
a
t
i
n
d
r
a
m
a
t
a
d
,
ψi
k
i
iには, I
知識(
v
e
d
a
n
a
)
,静慮 (
d
h
y
a
n
a
)
.
- 1 5ー
念想 (
u
p
a
鈎 n
a
) 等の言葉で説かるべきバクティは, p
a
r
a
b
h
a
k
t
i
,p
a
r
a
j
n
a
n
a,p
a
r
a
m
a
b
h
a
k
t
iの階梯
(
k
r
a
m
a
)を有し, p
r
a
p
a
t
t
iを支分とする。 J(56)と説かれ,バクティの階梯を為す下位概念として用
いられている。又, VedantaD
e
s
i
k
aは G
a
d
y
a
t
r
a
y
aへの注釈の中でそれぞれ,より高次の直観
(
u
t
t
a
r
δ
t
t
a
r
a
s
a
k
?
i
a
t
k
a
r
a
) への欲求,より高次の直観,直観したものに対する断えざる直証の欲求
(
n
i
r
a
n
t
a
r
a
n
u
b
u
b
h
u
号孟)と説明している (57)。こうした後代の解釈を離れた R亘manuja 自身の用法
については彼の著作に直接の説明がないため,様々に理解されている。例えば. B
u
i
t
e
n
e
nは
,
karman→ j
百
五n
a→ b
h
a
k
t
i に対応させ (58), Sampatkumaran は Gi
t
1
i1
1
.
5
4
;1
8
.
5
4
5
5で説かれる
b
h
a
k
t
iの三つの段階に対応させるく59)。又, L
e
s
t
ε
r1
i
.
, V
e
d
a
r
t
h
a
s
a
1
f
l
graha ~ 1
4
1,1
4
4や G
i
t
a
b
h
a
$
y
a
1
2
.
1
1から推定されたもの(但し不当な拡大解釈とするが)として,それぞれ,根本原質と区別
されたアートマンの直観によって生じひきつづき神の明断な知覚を生じるもの,明噺な知覚,信
r
i
v
a
i
早
l
!a
v
a の説として G
i
t
a
b
h
a
$
y
a1
8
.
5
5の
愛という三つのものに対応させる説を,又,或る S
「信愛J
,I
我(=神)を知る J
,I
我に入る」に対応させるもの,および前述の B
u
i
t
e
n
e
n説を紹介
している (60)。
ここでは ,Sar
a
'
l
J
a
g
a
t
i
g
a
d
y
a1
2,,-, 1
5を手掛りとして p
a
r
a
b
h
a
k
t
i以下の意味を検討しよう。まず,
2では,奴隷たる者(付
d
a
s
鈎a
札
札
匂
その内容を概観しておく。 1
e
ゐ 白
御身の奴隷(付
dお
a
s
a
司)なり。叫」と説く我をして,神的でグナから成るマーヤーを渡らしめよ,と説
かれる。 1
3では G
i
t
a7
.
1
7 1
9を引き, Iこの三信に説かれた知者(j鼠n
i
n
) と我を為せ。」と述
",
4では G
i
t
a8
.
2
2
;1
1
.
5
4
;1
8
.
5
4を引し、て「以上の三箇所で、説かれた高次の信愛 (
p
a
r
a
b
h
a
k
t
i
)
べ
, 1
を具えたものと我を為せ。」と述べてその実現を神に祈っている。ついで 1
5では 1
p
a
r
a
b
h
a
k
t
i
,
p
a
r
a
j
白 n
払 p
a
r
a
m
a
b
h
a
k
t
iを唯一の本性とするものと我を為せ。」と祈願する (61
)
。
1
2に言う「神的でグナからなるマーヤー」は G
i
t
a7
.
1
4に基づく
(62)0
GUa7
.
1
4では「何とな
れば,この神的にしてグナからなる我がマーヤーは超え難いからである。まさしく我に帰依する
v
ay
ep
r
a
p
a
d
y
a
n
t
e
) がこのマーヤーを渡る (
t
a
r
a
n
t
i
)o
J と説かれるが, R亘m亘n
u
j
aは
者 (mame
p
r
a
p
a
d
- を ぬr
al
!a
r
pp
r
a
p
a
d
-, r
マーヤーを渡る」を「マーヤーを超えて (
u
t
s
r
i
y
a
) 我を念想ず
u
p
a
s
a
t
e
)J と注釈している (63)。従って,帰依→マーヤーの超克→ up
亘s
a
n
aの順序を想定し
る (
うるから,ここでは p
r
a
p
a
d
-は u
p
a
s
a
n
aの前提と考えられていることになる。それを受けた
Sar
a1
Jaga
t
z
'
gadya1
2は,まず「奴隷たる者であり……」と帰依を, Iマーヤーを渡らしめよ」と神
の u
p
a
s
a
n
aを祈願しているわけであり, u
p
a
s
a
n
aの前提としての帰依の考え方が示されていると
言えよう。
1
3に引かれる G
i
t
a7
.
1
7 1
9は
, 7.16で a
r
t
a,j
i
j
n
a
s
u
,a
r
t
h
a
r
t
h
i
nj
n
a
n
i
nという四種の人々を普行
ラ
",
ある人 (
s
u
k
r
t
i
) として説いた後, j
n
a
n
i
n こそが神に愛される存在であれ四種の人のうちで最も
i
t
a
b
h
a
$
y
a7
.
1
6で
, j
n
亙mnを神の従属物たるこ
重要であることを説く部分である。 Ramanujaは G
とを唯一の心情とするアートマンの本質を知る者 (
b
h
a
g
a
v
a
c
c
h
句a
t
a
i
k
a
r
a
s
a
t
m
a
s
v
a
r
u
p
a
v
i
t
)のこ
a
t
p
r
a
p
a
d
a
n
aを生じるとしている。 Sar
a
'
/
J
a
g
a
t
i
二
とであるく64うとし, 7.19ではこの知によって m
ga
のa13 の「知者」とはこのような,自己を知って神に帰依する存在を意味する。
- 16ー
つづく 1
4でヲ│かれる G
i
t
i
i8
.
2
2は最高プルシャが他心無きパクティによって得られることを
1
.
5
4では「他心無きパクティによって正しく知れ見,入ることができる」と説いてい
説き, 1
る
。 Ramanujaは 1
1.54
に対する注釈で,他心無きパクティにより聖典に基づいて正しく知り正し
s
a
k
苧
亙t
k
r
) し正しく入る (
p
r
a
v
iふ)ことができる,と説明を加えている価〉。さらに, 1
4
く直観 (
田
では G'
t
ti 1
8
.54c
dを引くが,そこでは「高次の (
p
a
r
a
)我(=神)へのバクティ」が説かれる。
R亙manujaはこれを「我に対する……極度の愛の直証 (
a
t
y
a
n
t
ap
r
i
y
a
n
u
b
h
a
v
a
) を本質とする高次
目
のパクティ (
p
a
r
亘b
h
北t
i
)
J と解する (66)0 SaraJ!
J
i
g
a
t
従αの'
a1
4に は 引 か れ な い がp つづく OUii
1
8
.
5
5は高次のパクティによって神を知り,神を知って神に入ると説く。 Ram
亘n
u
j
aはこれを「そ
の (=18.54のパクティの)結果」ととらえ,神の知の直後にパクティによって神に入る,とす
る (67)。ここでバクティ (
a
)→神の知→バクティ(b)→神の獲得というプロセス伽〉が説かれるが,
R亘m亙n
u
j
aは バ ク テ ィ (
b
)を r(
神の)本質 (
s
v
a
r
u
p
a
)・本性 (
s
v
a
b
h
a
v
a
)・特質 (
g
ul
}a
)・威光
(
v
i
b
h
u
t
i
)の経験 (
d
a
r
s
a
n
a
)の直後に存 L,無限定で無上のもの」とし,さらに「神に入る」とは
「神を獲得する (
p
r
a
a
p
)
J ことだとする伽〉。次に述べる如く, Ramanujaは u
p
a
s
a
n
aと d
a
r
勾闘
を同義的に用いる。又,Sarm
z
;
i
i
g
a
t
t
"
gadya 1
2
"
'
1
3で示されるプロセスは,公明としてのアートマ
ンの知→ s
a
r
a
l
}a
g
a
t
i(
p
r
a
p
a
t
t
i
)→u
p
a
s
a
n
a であり, p
a
r
a
b
h
a
k
t
iは神の知 (
d
a
r
Sa
r
a
) を生じるもので
4で言う「高次のパクティ J はパクティ (
a
)
すなわち, s
a
r
al
}a
g
a
t
i(
p
r
a
p
a
t
t
i
) に当るこ
あるから, 1
とになる。
従って, 1
5で説かれる p
a
r
a
b
h
a
k
t
i
,p
a
r
a
j
n
a
n
a
,p
a
r
a
m
a
b
h
a
k
t
iはそれぞれ,パクティ (
a
)
,神の知,
b
)に対応すると考えることができょう。つまり, p
a
r
a
m
a
b
h
a
k
t
iは神獲得の直接の原因と
バクティ (
してのパクティということになる。
ところで, Ramanujaによれば,S
v
e
t
i
i
s
v
a
t
a
r
o
"
ρani:;ad 3.8等の中で説かれる v
i
d
-は思念の連続
(
s
m
r
t
is
a
nt
a
n
a
),経験 (
d
a
r
s
a
n
a
),静慮 (
d
h
y
呂田),念想 (
u
p
a
s
a
n
a
) と同義であり,これはバクティ
に他ならない (70)。パクティは特殊な知(jn
a
n
a
v
i
s
e
号a
)(71)であるが,単なる知 (
v
e
d
a
n
a
m
a
仕a
)で
p
r
i
t
i
v
海軍 a
)である (73)。又,バクティの形態をとっ
はない (72)。静慮,念想であり,特殊な喜悦 (
た念想が最高者の獲得手段であり
(
7
4う念想の中で、喜悦が生じた時最高プルシャが獲得される (
7
5
)
。
r
この時念想、は, 他を動機とせず不断で無上の愛によりきわめて明断な直観たるに至った」と表現
される (76)。以上を総合すると,神の念想(経験,静慮,知,思念)が/パ〈クテイの形をとり1),その中
で神をきわめて明噺にまのあたりに体験して喜悦を生じるまで
いうことになるσ
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π
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7
)
〉
弘
。
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ま
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1
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訂
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口
吋
1
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a の言う p
伊a
ram油
a
bh
a
:
北
k
t
i とはこのような状態にまでで、達した
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ar
α
仰
,
伊i
i
g
α
a
t
i
旨
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な
σ
rの
めyσ1
立2 日
1
5でで、は,アートマンの知→p
a
r
a
b
h
a
k
t
i
バクテイを指すことになる。従つて S
",
l
}
亙g
a
t
i,p
r
a
p
a
t
t
i
)→p
a
r
a
j
n
a
n
a (=upasana)→p
a
r
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m
a
b
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a
k
t
i(→神の体験→p
r
i
t
i
)→神獲得とい
(=sara
i
t
i
i を典拠として示されていることが知られる。これは
う神秘体験の深まりゆく過程が,主に G
J
i
i
g
a
t
i
g
a
d
y
a1
6,1
7,2
0等で説かれる救いへの過程とほぼ同一越旨のもの
亜の初めに記した Sara1
である。
- 17ー
I
V
以上検討してきたととから知られるように, R亙m互nuja の 説 < p
r
a
p
a
t
t
i はパグティへと進むた
めの出発点・前提として位置づけられ,様々な行為 (karman) を手段 (up亘ya) とみなすことを
放棄すること,自力の心を捨てて神に帰依することを意味するものであった。 p
r
a
p
a
t
t
i という言
葉は未だ術語として完全に定著するには至っておらず,
s
a
r
a
平均旦t
i
, tyaga,nyasa 等の用語も並
r
a
p
a
t
t
i と分離されておらず,Bhaga
行して用いられている (78)。また karman,yoga が完全に p
幽
v
a
d
g
i
t
l
i→Ah
i
ゆu
d
h
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y
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s
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1
J
l
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i
t
a→ L
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m
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t
a
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r
a と展開される p
r
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p
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t
t
i思想の流れ【79)に 則 し て み
ると , A
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1
J
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i
t
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iと L
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t
a
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t
r
aの中間に属すると言える。しかし, R加 l
a
n
u
j
aは
p
r
a
p
a
t
t
i を救いへの手段として強調しているとは認めがたい。彼が救い・解脱の手段として重視
するのは,あくまでもバクティであった叩〉。これは彼の主著たる S
r
z
b
h
f
i
主
y
aや,G
a
d
y
a
t
r
a
y
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一つで極めて宗派的色彩の濃い内容を持った S
r
i
v
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i
k
u'
l
Jt
h
昭 a
dyaの帰敬倍で, p
r
a
p
a
t
t
i ではなく
バクティ(もしくはパグティ・ヨーガ)が説かれている (81)ことからも明らかである。
a
r
a
t
}
l
i
g
a
t
i
g
a
d
y
a で説く救いへの過程について見ておくと,これは伎に先行する
次に,彼が S
Yamuna の考え方 (82)ときわめてよく一致する。 Yamuna は karman→yo
伊→ atm却 の 経 験 → para
b
h
a
k
t
i→神の認識→ sukha
→kinkaratva というプロセスを説いており,用語法に若干の相違がある
R亙manuja の場合,このプロセスの中に神の
ものの基本的には大きな違いは見られない。ただ,
憐れみ (
d
a
y
a
) ・恩寵 (
p
r
a
s
a
d
a
) の考え方をはっきり組み込んでいるのが特徴と言える。これが,
p
r
a
p
a
t
t
i とバクティの相互関係の不明確さや p
r
a
p
a
t
t
i の性格づけの不充分などとも相まって,神
の恩寵を強調して人為的手段の放棄を説く Teugalai派とバクティを重視して解脱に向けた人間
の側からの努力を求める Va
.
q
a
g
a
l
a
i派の分裂を可能ならしめた一因と考えられる。
RamanujaはAt
vむたちを中心に起ったノミクティ運動を伝統思想の中に組込むことによって,
理論化・体系化していこうとしている。パクティをウパニシャツドの章句に見られる v
i
d
-等と結
びつけて解釈しようとする態度 ωおにも伎のこうした意図がよく現われていると言えよう。
(
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“ The Prapatti-Marga" S
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仏
) 徳永宗雄 i
P
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t
i思想の歴史的展開 J (
1
1
宗教研究.Jl 2
1
1号
, 1
9
7
2
年
)
, 7
9
ページ。
(
5
) “
p
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p
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i
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.bySwamiA
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a,
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Madras:S
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iRamakrishnaMath,1
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7,.
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4
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7
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(
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a (Prasaranga:U
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i
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r
s
i
t
yo
f
9
6
7
),p
.
1
9
4
.
Mysore,1
側 Cf.M.へーダ zート 9 ':1 ラ,宮元啓一訳『中世インドの神秘思想,ヒンドウー・ムスリム交流史Jl(
万
水害房, 1
9
8
1年) 1
3
9ページ。又, Ram亘n
u
j
aに大きな影響を与えた Y亘muna も
, b
h
a
k
t
iと p
r
a
p
a
t
t
i
の相互関係等についてははっきりした態度をとっていない。拙稿 iYamunaにおける mol
三戸と s
五d
hanaJ
(
I
f
'
印
仏
研j
j3
2
1, 1
9
8
3年) 507-506ページ参照。
I
f
'
文
化j
j2
0-4,1
9
5
1年
)
, 6
1
3ページ,注
間神舘義朗「シュリー・バーシュヤに於けるカルマンの問題J (
(
7
),および S
.R
. Bhatt,S
t
u
d
i
e
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n Ramanuja Vedanta (New D
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l
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i
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b
l
i
s
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s
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9
7
5
),
p
.
1
5
2
.
臼松本照敬 i
V
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t
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a
s
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r
a
h
aにおける mok
切と p
r
a
p
a
t
t
i
j(
I
f
'
印
仏
研 j 27-1,1978
年
)
, 2
38
ページ。
凶
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.1
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n
t
r
.7
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5,i
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t
r
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.1
,1
5
.
6に各一回, 1
4
.
2
7に二回用いられてし、る。
白
[
4
) 1
5
.
1
1に二回用いられている。その他, mat-prapadanaの形が7.19にある。
目
日 S
r
i Bhagavad G
i
t
aw
i
t
hS
r
i Bhagavad Ramanuja'sBhashya and Srimad Vedanta D
e
s
i
k
a
's
d
.byS
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iAbhinavaD
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U
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3
5
.
(Madras: UbhayaVedantaGranthamala) [以下 U本と略記], p
U
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) j
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. vanBuitenen,R面manujaont
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8
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, p
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9
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閥
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U本
, p
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, p
.
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7
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) U本
, p
.
2
4
7
.
C
2
) J
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. vanBuitenen,Ramanuja'sVedar
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t
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.
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1
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. なお,V
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a
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パラグラブ番号は本書に拠る。
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9
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6
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1
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2
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. 松本照敬 (
1
9
7
8
),238ページ。
間
U本
, p.
4
7
5
.
間
GUabha!
j
yai
n
t
r
.7
.
1 (U本
, p
p
.2
3
2
2
3
3
)
.
聞
ここで言うアートマンは個我を指マナ。 Ramanujaはプラフマンとアートマン,神と個人我の関係を
品e号 a-se~i-bhãva としてとらえている。類似の考え方は Ahiゆudhnyasaf!lhi沼 52.7にも説かれている (cf.
Dasgupta,ぁ'
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.
5
3
.
)
o
(
2
& Buitenen (1968),p.25.
U本
, p
p
.5
9
8
5
9
9
.
倒
側
これは Y孟
如
m
加1
の影響を受けていると思われる。
i
l
D U本
, p
.
5
4
2
.
倒
U本
, p
.
5
4
7
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, p
.
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1
) でも p
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aを伴う karmanにより束縛が, p
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a
l
aを
捨て神の崇拝(孟r
a
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h
a
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) を本質とする純粋な(k
e
v
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l
a
)karmanが解脱の原因となる,と説かれてい
る
。
倒
これは Yamuna も同様に説くところである。前掲拙稿5
07
ページ参照。
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aparama-puru~asya s
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,Madras:Ubhayavedantagranthamal
,
亘 1
9
6
7
,p.
45
3
)
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u
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9
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8
),p
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1
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6
),p
.
3
5
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関 前 掲 拙 稿5
0
7ページ。
側
U本
, p
p
.
6
0
0
6
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倒
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7
),
Kumaracharya
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m 73-74 (松本照敬「ラーマーヌジャの生涯一一Yatirajavaibhavam和訳一一J
.1
成
田山仏教研究所紀要』第 7号,昭和5
7
年
, 4
9
ページ)。
経
3
) N
.
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3
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(松本照敬「ラーマーヌジャの生涯 J
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9ページ)。但し ,G
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7で同様のことを説く(本稿2
4
ページ参照)。
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, p
.
2
4
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. 又,注 (
2
7
) 参照。
制
U本
, p
p
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U本
, p
p
.
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6
.
制
U本
, p
.5
8
7
.
パクティによって知が生じ,知によってパグティが生じるという考え方は Madhvaによっても説か
側
1
1インド思想史』東京大学出版会, 1982年,第四章
れてし、る。前田専学「マドヴァの多元論的実在論J (
l
.a
),
1
9
5ページ。又,日野紹運「ヒンドゥーの宗教世界一ーヴェーダーンタ学医の教説をめぐってーーム
(
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,1983
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, 77
ページ。
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4
)
. そもそも,神秘体験を知
として把握するのがインドの神秘家の特徴である,といわれる(岸本英夫『宗教神秘主義, ヨーガの思
想と心理』大明堂,昭和48
年,第 9版
, 209ページ以下特に 216-217ページ)。
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)
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.,p
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1
2
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)。
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1
9
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),7
5ページ。
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々dya と Nityagranthaに 各 1回, pra-pad- は
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gadyaに 各 2回
, ny園田ーは Ni
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孟s
aに相当する例
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は多数)みられる。また ,GU
亘b
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1 序文ては, tyaga=sa
早n
y
a
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a とされ,共に mol
王将 s
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と呼ばれて L、
る
。
開徳永宗雄, 93-94
ページ。
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aにおけるバクティの概念については,松本照敬「ラーマ
, 1984
年 5月
, 119-137ページ)参照。
ーヌジャにおけるパクティの概念J (Iiインド古典研究』第 6巻
s
U“
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"bhavatu mama... semu号ib
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),
“… bhakti-yogakhya平 ratnaq
:
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出 yamy aham" (
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i
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即 n
:
.
Granthamala0伍 c
e,1
9
5
6,p
.
1
7
8
)
.
翻
Yamunaの救済論については,前掲拙稿5
0
5ページ参照。
船 本 稿 30ページ参照。
- 21ー