翻訳者は3か国語に対峙する(前編)

言
葉
翻訳者は 3 か国語に対峙する(前編)
岩沢 節
ソフトウェアのマニュアルを英
語から日本語に翻訳する仕事に携
わる者はしばしば、「この言葉は
英語なのか、プログラミング言語
なのか」という疑問に直面する。
英語圏のソフトウェア技術者と日
本の技術者は、プログラミング言
語という 共通語 だけでは十分
に意思を通わせられないのだ。
その原因の根底にあるのは、す
でにバイリンガル(英語とプログ
ラミング言語)である著者が、同
様にバイリンガルであるソフト
ウェア技術者に向けて多くのマ
ニュアルを書いていることであ
る。ソフトウェア技術者は「include
する」とか「UNION をとる」といっ
た概念を互いに分かりきった事柄
として、説明なしでどんどん使う。
include や UNION(共用体、論理
和、和集合)といった語は英語で
はあるが、プログラミングの世界
で独特の意味を持つ。AND や OR
でさえ、独特の意味を持っており、
英 文 マ ニ ュ ア ル に は ANDing や
ORing といった 現在分詞 が登
場することさえある。つまり、著
者も読者も「これは英語かプログ
ラミング言語か」など、いちいち
気にしなくても大丈夫なのだ。
されるわけだが、ここで問題とな
では、ほとんどのプログラミン
グ言語が英語をベースにしている
のであれば、「日本人でもプログ
ラミングに通じた技術者なら英文
マニュアルなど苦もなく読めるだ
ろう」と思われるかもしれない。
しかし、多くの場合、そう簡単に
はいかない。日本人読者は英語が
それほど苦手でなくても、忙しく
て英文マニュアルなど読む気がし
ない。さらに、英文原典の著者が
日本語や他の言語のことをまった
く知らないことも、問題を複雑に
しているように思われる 。つまり、
そこでマニュアル翻訳者が必要と
るのは、翻訳者がたとえ英語と日
本語の完全なバイリンガルであっ
ても、十分ではないということで
ある。理想は、翻訳者がプログラ
ミング言語の理解も持っていてト
リリンガルになっていることだが、
現実にはプログラマ出身ではない
翻 訳 者 も 多 い。( 以 前 プ ロ グ ラ マ
だった翻訳者にとっても、最近の
プログラミング言語特有の概念に
習熟するのは大変なことである。)
た と え ば、 テ ー ブ ル の 定 義 を
include する場合、テーブルの定
義全体をそこに長々と打ち込むの
ではなく、テーブルの定義は別の
ファイルに記述されていて、その
ファイル名を #include 文で呼び
出すだけである。そうした基本的
なプログラミング作法を知らずに
翻訳者が「テーブルの定義を最初
に含めます」と漫然と訳すなら読
者は戸惑うだろう。
ある程度プログラミングに通じ
た翻訳者であっても、「ここでの
print は普通の印刷の意味だろう
か、それともファイルへの出力も
ありうるとして『プリントする』
くらいが無難だろうか」といちい
ち悩むことになる。そういう場合
の一般的な逃げとして音訳が便利
であるため、ときに、プログラミ
ング的な意味合いのない言葉さえ
カタカナにしてしまい、「取り出
す」でよいのに「リトリーブする」
といった、意味不明の日本語を頻
出させてしまう可能性がある。
long fields ? integer fields ?
longvarchar や int32 と い っ た
独特の名前が付いていれば、それ
はすでに英語でないことは明らか
だが、普通の英語の単語が変数や
フィールドや列のタイプ名になっ
ている場合もある。さらに、int32
や int64 などのフィールドをひっ
くるめて integer fields と呼ぶこと
もあり、その場合は総称として「整
数フィールド」(あるいは、整数系
のフィールド)と訳す必要がある。
同様に、long 自体がタイプ名であ
る可能性がある一方、各種の長い
フィールドをまとめて long fields
と呼んでいる可能性もある。
こうした疑問は、翻訳されたマ
ニュアルの読者だけでなく、英文
原典の読者も抱く疑問と思われる
のだが、英文読者のプログラマは
文脈に沿って適宜解釈している
のに対し、日本語のマニュアルで
は「integer フィールド」と「整数
フィールド」のどちらか一方で表
記されることになる(しかも複数
形が訳されない)ので、プログラ
マが文脈に沿って適宜解釈するこ
とは困難になる。翻訳者に重大な
責任が負わされているのである。
この点であいまいさを避ける最
良の方法は、本文中にキーワード
(つまり英語ではなくプログラミ
ング言語)が登場する箇所では、
著者が最初から書体を分けること
である。「この語はプログラミン
グ言語に属するもので、英語では
ない」ということを、モノスペー
ス書体などで明示すること、それ
が、マニュアルを書く人が常に心
がけるべき親切であろう。
(後編に続く)
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