(1989)「科学をめぐるイデオロギーの形成」『制度としての科学』

佐野正博(1989)「科学をめぐるイデオロギーの形成--科学・技術についての19世紀における社会的意識」『制度としての科学』木鐸社,pp.15-42
佐 野 正 博 (1989)「 科 学 を め ぐ る イ デ オ ロ ギ ー の 形 成 ---科 学 ・ 技 術 に
つ い て の 19 世 紀 に お け る 社 会 的 意 識 ---」
『 制 度 と し て の 科 学 』木 鐸 社 、
pp.15-42
1.
序 −科 学 の制 度 化 と、技 術 、そして科 学 イデオロギー ...................................................... 1
2. 歴 史 的 前 景 (1) − 実 用 主 義 的 な科 学 イデオロギー ....................................................... 2
3. 科 学 研 究 の舞 台 の 19 世 紀 における変 化 −− 科 学 アカデミーから大 学 へ ...................... 4
4. 歴 史 的 前 景 (2)− 「実 用 主 義 」と「教 養 主 義 」の対 立 ........................................................ 5
5. 自 然 科 学 研 究 と教 養 主 義 −科 学 の教 養 主 義 的 基 礎 づけ................................................. 7
6. 科 学 イデオロギーにおける教 養 主 義 と実 用 主 義 の統 合 − ハックスリーとヘルムホルツ ....... 9
7. 19 世 紀 ドイツにおける技 術 学 研 究 ・教 育 と研 究 イデオロギー .............................................. 9
8. おわりに ...................................................................................................................... 10
注 .................................................................................................................................... 11
1. 序−科学の制度化と、技術、そして科学イデオロギー
現 代 の科 学 活 動 の社 会 的 特 徴 は、その活 動 が十 七 、十 八 世 紀 のようなアマチュア科 学 者 や自 然
哲 学 者 によってではなく、科 学 を専 門 職 業 とする研 究 者 によって担 われていることにある。十 八 世 紀
後 半 に起 こった産 業 革 命 以 後 、科 学 活 動 は「重 商 主 義 社 会 の科 学 から産 業 社 会 の科 学 へ」(1)と
転 換 し始 めた。そして科 学 的 知 識 の形 成 は、新 しい産 業 の社 会 的 発 達 とともに、個 人 的 趣 味 から専
門 職 業 へと十 九 世 紀 に変 化 したのである。
なぜ、どのようにして科 学 研 究 が十 九 世 紀 において制 度 化 、専 門 職 業 化 されるにいたったかにつ
いては、本 書 の他 の章 でも論 じられている。本 章 では、科 学 が専 門 職 業 化 される過 程 で展 開 された
さまざまなイデオロギー(2)に焦 点 を当 てて論 じることにしたい。すなわち、科 学 研 究 活 動 が専 門 職 業
活 動 として社 会 的 に認 知 されていく過 程 において、科 学 がどのような意 味 を持 つものとして論 じられ
たのか、科 学 研 究 者 は自 らの営 みを一 つの専 門 職 業 として社 会 的 に認 知 させる「戦 い」をどのような
形 で遂 行 したのか、という観 点 から分 析 していくことにしたい。
さて、古 くからある科 学 イデオロギーは、科 学 の実 用 主 義 的 基 礎 づけである。人 間 による自 然 支 配
のために役 に立 つ知 識 としての科 学 的 知 識 という主 張 は、機 械 論 的 自 然 観 とともに広 まっていった。
そして科 学 に関 する伝 統 的 イデオロギーであるこうした「役 に立 つ科 学 」という主 張 は、現 代 において
も有 力 な考 え方 の一 つ である。しかし科 学 の専 門 職 美 化 の過 程 が進 行 した十 九 世 紀 はまた、科 学
の実 用 主 義 的 基 礎 づけに代 わる新 しい科 学 イデオロギーが登 場 した時 代 でもあった。すなわち十 九
世 紀 には、「教 養 としての科 学 」、「科 学 のための科 学 」というような新 しい主 張 が展 開 された。以 下 で
は、科 学 をめぐるこうしたイデオロギー的 展 開 過 程 を中 心 に論 じることにしたい。
ただここで一 つ注 意 しておかなければならないことがある。すなわち、科 学 という言 葉 の意 味 である。
科 学 という言 葉 は、抽 象 的 に言 えば、経 験 性 と理 論 性 を統 合 した知 識 活 動 および知 識 形 態 を指 す
ものと言 えよう。近 代 科 学 は、ツィルゼルが主 張 したように(3)、職 人 的 伝 統 とスコラ的 伝 統 との結 合 と
して特 徴 づけられる。それゆえ科 学 ということの中 には、技 術 に関 する理 諭 的 認 織 である技 術 学 (工
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学 や農 学 など)も当 然 含 めて考 えるべきである(4)。本 章 においては、自 然 科 学 の対 象 が自 然 現 象
であり、技 術 学 の対 象 が 技 術 現 象 であるとい う意 味 において対 象 が異 なるものとして両 者 を一 応 は
区 別 しながらも、科 学 という言 葉 で両 者 を代 表 することにしたい。少 なくとも本 章 で扱 う歴 史 的 時 代 に
属 する人 人 のイメージの上 では、科 学 と技 術 学 とはいわば渾 然 とした未 分 化 な状 態 にある。裏 返 して
言 えば、人 々のイメージのこうした未 分 化 さ、渾 然 性 それ自 体 が、科 学 をめぐるその時 代 のイデオロギ
ーの構 造 を象 徴 的 に映 し出 している。
以 下 ではこうした観 点 から、科 学 イデオロギーの歴 史 的 な展 開 過 程 と論 理 を扱 うことにしよう。
2 .歴 史 的 前 景 (1)
−
実用主義的な科学イデオロギー
科 学 は人 間 に自 然 支 配 のための力 を与 えるものであり、自 然 科 学 的 研 究 が社 会 的 に有 用 である
という考 え方 は古 くから主 張 されてきた。「科 学 は実 用 的 に役 に立 つ」という実 用 主 義 的 イデオロギー
は、科 学 に関 して歴 史 的 に古 くからあるイデオロギーの一 つである。「知 は力 なり」という言 葉 の背 後
には、科 学 は実 用 的 に役 立 つという観 念 が前 提 されていた。自 然 科 学 的 研 究 の社 会 的 意 味 づけの
一 つのルートは、その実 用 性 の強 調 ということにあったのである。
このことは十 七 世 紀 から十 八 世 紀 にかけてさまざまな国 で設 立 された科 学 アカデミーの設 立 趣 旨
の中 にも見 ることができる。科 学 アカデミー設 立 の意 味 づけは、科 学 に関 する実 用 主 義 的 イデオロギ
ーに基 づいていた。例 えば、1660 年 に創 立 されたイギリスのロンドン王 立 協 会 は、フランスのパリ科 学
アカデミーとともに 18 世 紀 にはさまざまな国 の科 学 アカデミーのモデルとされたものであるが、それは
「技 術 と科 学 による福 祉 」を目 的 として設 立 されたものであった。1663 年 にフックが書 いたそれの規 約
前 文 草 案 には、「自 然 の事 物 に関 する知 識 、およ び、あらゆる有 用 な技 術 、生 産 、機 械 の実 際 、機
関 、実 験 による発 明 を増 進 すること(To improve the knowledge of natural things, and all useful
Arts, Manufactures, Mechanic practices, Engines and Inventions by Experiments)」が王 立 協 会 の
目 的 (the business and design)であるとされている(5)。
またドイツのベルリン王 立 科 学 協 会 は、ドイツ語 およびドイツ史 の研 究 ならびに育 成 とともに、実 用
的 学 問 ならびに技 術 の奨 励 を任 務 として設 立 されたものであった。その協 会 の設 立 に重 要 な役 割 を
果 たしたライプニッツは、明 確 に実 用 に役 立 つものとしての学 問 ということを強 調 している。協 会 設 立
当 時 にライプニッツが述 べた言 葉 によれば、「協 会 は、単 なる好 奇 心 や求 知 心 のためでなく、また役
に立 たない実 験 をするためのものでもなく、われわれはむしろ最 初 から学 問 の研 究 全 体 を実 用 に志
向 すべきなのである。従 って協 会 の目 的 は理 論 と実 践 とを結 合 すること であり、しかもそれは単 に 学
術 を改 善 するためではなくて、土 地 とその住 民 を、農 業 、工 業 、商 業 を、簡 単 に言 えば、生 活 手 段 を
改 善 することである」(6)とされていた。
科 学 を実 用 に役 立 つものとするこうした実 用 主 義 的 イデオロギーは、フランスにおいても見 られる。
例 えば、18 世 紀 フランス啓 蒙 主 義 者 たちの重 要 な成 果 の一 つである『百 科 全 書 』の副 題 は、「科 学 ・
技 術 ・工 芸 の合 理 的 辞 典 」というものであった。そしてこのことはフランス革 命 当 時 も変 わることがなか
った。例 えばラヴォアジェは、1793 年 にパリ科 学 アカデミーの閉 鎖 が決 定 された時 に、その閉 鎖 方 針
に反 対 して自 然 科 学 の技 術 に対 する意 味 を、そして自 然 科 学 の国 家 的 有 用 性 を強 調 した(7)。コン
ドルセもまたフランス革 命 の高 揚 の中 、1792 年 4 月 に国 民 議 会 に提 出 した報 告 書 において、「自 然
科 学 はすべ ての職 業 に とって有 益 である。・・・ 自 然 科 学 の 進 展 を注 視 する人 々は、自 然 科 学 を応
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用 した場 合 の実 際 的 有 用 性 が、何 人 もあえて予 想 しなかったほどに高 まる時 期 、自 然 科 学 の進 歩 が
技 術 面 においてよろこばしい革 命 を生 みおとすにちがいない時 期 、こうした時 期 が迫 りつつあることを
知 っている」(8)と主 張 した。
職 業 教 育 のためには自 然 科 学 的 知 識 を必 要 と するというこうしたコンドルセの主 張 は、エコール・
ポリテクニークに結 実 したと見 ることができる。エコール・ポリテクニークは、中 央 公 共 土 木 事 業 学 校 と
して1794年 に設 立 されたものが、その翌 年 に改 称 されてできたものである。その創 立 時 の法 令 によ
れば、それは土 木 工 業 につくすべての青 年 のために作 られたのであり、「数 学 及 び物 理 学 的 知 識 を
必 要 とする職 業 を無 料 で」学 ばせることを目 的 としていた。さらに1799年 12月 の改 正 規 則 では「数
学 、物 理 、化 学 及 び図 面 の学 術 を普 及 」するとされた。エコール・ポリテクニークではそうした目 的 の
ために、図 書 室 、実 験 室 を備 えるとともに、ラグランジュ、ラプラス、フーリエ、ベルトレといった当 時 の
一 流 科 学 者 を教 授 として迎 えた。
フランスにおける科 学 の有 用 性 イデオロギーは、十 九 世 紀 半 ばのパストゥールにおいても同 じよう
に 見 出 せ る 。彼 は、電 信 を「 近 代 科 学 の 最 も す ばらしい 応 用 の 一 つ であ る」 ( 9 ) と 位 置 づ ける など、
「フランスは物 質 的 な繁 栄 を科 学 上 の発 見 に」(10)負 っていると主 張 している。
このように科 学 の有 用 性 を主 張 するイデオロギーが一 般 的 に用 いられた社 会 的 背 景 の一 つとして
は自 然 現 象 を対 象 とする科 学 としての物 理 学 ・化 学 ・生 物 学 ・地 質 学 などの自 然 科 学 と、生 産 技 術
を対 象 とする科 学 である技 術 学 とが社 会 的 に独 立 した研 究 活 動 とはなっていなかったことが挙 げられ
よう。確 かに「産 業 革 命 期 は物 理 学 の形 成 期 で あると同 時 に工 学 の形 成 期 でもあった」(11)が 、物
理 学 研 究 や化 学 研 究 お よび生 物 学 研 究 などの自 然 科 学 研 究 と、物 理 的 知 識 や化 学 的 知 識 や 生
物 学 的 知 識 などの自 然 科 学 的 知 識 を利 用 した技 術 学 研 究 、技 術 開 発 は同 一 の個 人 、同 一 の社 会
組 織 によって担 われており、二 つの活 動 の間 の社 会 的 分 業 はまだ発 達 していなかった。
まず科 学 活 動 の担 い手 から言 えば、エコール・ポリテクニークの中 の指 導 的 学 者 の一 人 となったモ
ンジュは、幾 何 学 者 であるとともに、大 砲 の鋳 造 や硝 石 の採 掘 ・精 製 などの技 術 改 良 に携 わった。ま
たラムフォードは、熱 学 者 として熱 運 動 説 を展 開 するとともに、暖 炉 の改 良 など技 術 改 良 にも熱 心 で
あった。しかも彼 の熱 運 動 説 の実 験 的 基 礎 の一 つは大 砲 のなかぐり作 業 から得 られたものであった。
さらに、スコットランド技 術 者 協 会 会 長 であり科 学 的 工 学 の形 成 者 とされるランキンは、熱 力 学 の発 展
にも大 きな寄 与 をなしたことで知 られている。モンジュやラムフォードやランキンのように、しばしば同 一
人 物 が自 然 科 学 者 であるとともに技 術 学 者 や技 術 者 であった。
次 に科 学 活 動 を担 う社 会 組 織 という観 点 から言 えば、ラムフォードがその創 設 に寄 与 したイギリス
の王 立 研 究 所 は、「知 識 を普 及 し、有 益 な機 械 的 発 明 と改 良 を一 般 に導 入 することを促 進 し、哲 学
的 な 講 義 や 実 験 の コ ー ス に よ って 教 育 し 、 生 活 の 普 通 の 目 的 に 科 学 を応 用 す る た め の 公 共 の 協
会 」として作 られた。ラム フォードは、「哲 学 的 な講 義 や実 験 」すなわち自 然 科 学 的 な講 義 や実 験 に
基 づく教 育 によって、科 学 の実 際 的 応 用 を担 う人 間 が形 成 されると考 えていたのである。またフランス
のエコール・ポリテクニークは、技 術 者 養 成 を本 来 の目 的 としていたにも拘 わらず、そのカリキュラムの
中 には、「土 木 、築 城 、鉱 山 、機 械 、造 船 への画 法 幾 何 学 の応 用 」「鉱 物 学 」「工 業 化 学 」といった授
業 とともに、「解 析 学 」「理 論 力 学 」「純 粋 なる画 法 幾 何 学 の理 論 」などの、当 時 における最 新 の自 然
科 学 理 論 や数 学 理 論 の講 義 が含 まれていた(12)。すなわちエコール・ポリテクニークで教 えられた内
容 は、実 用 的 な事 柄 だけではなく、現 代 で言 うところの純 粋 自 然 科 学 に属 するものの最 新 の知 識 も
含 まれていた。そうしたことの結 果 として、初 期 のエコール・ポリテクニークから卒 業 生 として S・カルノ
ー、ゲイ・リユサック、ビオ、ポアッソン、アラゴ、フレネル、コーシーなど数 多 くの自 然 科 学 者 が輩 出 さ
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れた。このようにイギリスやフランスでは、教 育 において自 然 科 学 と技 術 学 は明 確 に制 度 的 に分 離 さ
れてはいなかった。現 代 日 本 の理 学 部 と工 学 部 。農 学 部 というような形 で制 度 的 に明 確 に分 離 して
はいなかったのである。
もっとも十 九 世 紀 フランスにおいては、ラグランジュの解 析 力 学 のような直 接 的 な実 用 には向 かな
い抽 象 的 な力 学 とは別 に、ポンスレーの『機 械 に応 用 せる力 学 講 義 』(1828年 )、『産 業 力 学 』(182
8−1829年 )などの著 作 に代 表 されるような産 業 力 学 、すなわち実 際 的 な応 用 を考 慮 した力 学 が形
成 されていた。しかしこのことは、自 然 科 学 と技 術 学 とが社 会 的 に明 確 に区 別 されていたことを必 ずし
も意 味 するものではない。
これをイデオロギー内 容 の面 から考 えれば、パストゥールが「応 用 科 学 」という言 葉 を嫌 って、科 学
とその応 用 しか存 在 しないと強 調 したことに注 目 すべきであろう。
「応 用 科 学 というようなものはない。〔科 学 と応 用 という〕二 つの言 葉 をつなげることさえけしからぬこ
とである。もっとも科 学 の応 用 は存 在 するが、これは全 く別 のことである。……もし科 学 の応 用 しかない
とすれば、取 るべき道 がはっきりしてくるように思 われる。すなわち、専 門 職 業 教 育 は、できる限 りの純
粋 ・理 論 科 学 の知 識 や原 理 や方 法 論 を体 得 しており、その上 、科 学 の応 用 という面 にも強 い関 心 を
抱 いている教 授 たちの手 に委 ねなければならないのである。」(13)
こうした発 想 は、イギリスのハックスリーにも見 られる。ハックスリーは、実 用 性 のない科 学 知 識 として
の「純 粋 科 学 」と、すぐに役 に立 つ科 学 知 識 としての「応 用 科 学 」という異 なる二 種 類 の科 学 的 知 識
があるという見 解 は全 くの誤 りであるとした。すなわち、「人 が応 用 科 学 と呼 ぶものは、純 粋 科 学 を特
定 の種 類 の問 題 に応 用 すること以 外 のなにものでもない」と主 張 した(14)。
このようにパストゥールやハックスリーによれば、自 然 科 学 は直 接 に応 用 可 能 であり、それ自 身 が直
接 的 に役 に立 つものである。そして自 然 科 学 を産 業 や技 術 に生 かすことそれ自 身 を対 象 とする科 学
としての「 応 用 科 学 」 、す なわち、技 術 学 なるもの は存 在 しない。パ ストゥー ル的 な発 想 によれば、自
然 科 学 とは相 対 的 に区 別 されたものとしての技 術 学 は存 在 しないことになる。科 学 の実 用 主 義 的 イ
デオロギーの背 景 には、こうした発 想 があった。
3 .科 学 研 究 の 舞 台 の 19 世 紀 に お け る 変 化
学へ
−−
科学アカデミーから大
近 代 における科 学 活 動 は、中 世 的 性 格 を残 していた大 学 制 度 の外 に活 動 の場 所 を求 めざるを得
なかった。すなわち、十 七 、十 八 世 紀 における科 学 活 動 は、科 学 アカデミーを中 心 として行 われた。
そしてイギリスやフランスでは、十 九 世 紀 においても科 学 研 究 は科 学 アカデミーを中 心 として推 進 す
るという体 制 が取 られていた。
例 えば、ケンブリッジ大 学 数 学 教 授 のバベッジが 1830 年 に『イングランドにおける科 学 の衰 退 につ
いて』の中 で主 として論 じたのは、王 立 協 会 についてであって、大 学 における科 学 研 究 についてでは
なかった。またフランスでは、パリ科 学 アカデミーに所 属 した科 学 者 に典 型 的 に見 られるように、科 学
活 動 が直 接 的 に国 家 によって支 えられていた。19 世 紀 初 頭 にナポレオンによって作 られたユニヴェ
ルシテ・アンペリアルの中 には理 学 ファキュルテがあったが、それは現 在 イメージされるような大 学 の学
部 とは異 なり、リセのバカロレア試 験 などを実 施 するための行 政 機 関 であり教 育 機 関 ではなかった。
シェルスキーによれば、科 学 アカデミーのような機 関 は、フランスやイギリスや帝 政 ロシアにおいて「永
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いあいだ、近 代 諸 科 学 、特 に自 然 科 学 の研 究 が大 学 で行 われるようになることを妨 害 し、あるいは阻
止 した(15)」のである。(実 際 、オックスフォードやケンブリッジといったイングランドの旧 二 大 学 の中 に
科 学 教 育 が位 置 を占 めるようになるのは、1870 年 代 以 降 である。)
これに対 して、イギリスやフランスに比 べて産 業 革 命 の遅 れたドイツは、イギリスやフランスとは異 な
る歴 史 的 道 筋 をたどった。ドイツでは、早 くも 1820 年 代 にはイギリスやフランスにはまだなかった新 し
いスタイルの科 学 教 育 が開 始 された。例 えば 1824 年 にはリービッヒがギーセン大 学 の員 外 教 授 とし
て迎 えられ、実 験 室 を中 心 とした化 学 研 究 と教 育 が実 行 された。以 後 ドイツの大 学 における自 然 科
学 教 育 は、19世 紀 を通 じて順 調 に拡 大 していった。ドイツにおいて科 学 研 究 が大 学 制 度 の中 にこの
ように位 置 を占 めたことは歴 史 的 に重 要 な意 義 を持 っていた。ドイツの自 然 科 学 研 究 が 19 世 紀 後 半
から 20 世 紀 初 頭 の時 期 にエネルギー保 存 則 や量 子 力 学 など輝 かしい成 果 を挙 げたのも、こうしたこ
とが一 つの要 因 であったと考 えられる。
科 学 研 究 活 動 に対 する実 用 主 義 的 基 礎 づけだけが、科 学 活 動 の社 会 的 発 展 にとって重 要 な促
進 要 因 であったわけではない。大 学 制 度 との関 係 で科 学 研 究 活 動 を捉 え るならば、科 学 的 知 識 が
人 間 精 神 に対 して持 つ 意 味 の強 調 とい うことが 、なぜ 実 用 主 義 的 基 礎 づけと並 ぶ重 要 な科 学 イデ
オロギーとなったのかということが理 解 できよう。
科 学 研 究 活 動 の「社 会 的 再 生 産 」を保 証 するためには、科 学 アカデミーという新 興 の社 会 制 度 の
中 に自 らの存 立 基 盤 を確 保 するだけではなく、中 世 以 来 の伝 統 的 社 会 制 度 の一 つである大 学 の中
にも場 所 を確 保 することが重 要 であった。というのも科 学 アカデミーは、すでに科 学 研 究 活 動 に興 味
を持 ち、科 学 研 究 活 動 を行 うのに必 要 な知 識 を身 につけた 人 々のため の社 会 制 度 だ ったか らであ
る。
科 学 アカデミーは、現 代 で言 えば学 会 に相 当 する機 能 を果 たしていた。科 学 アカデミーは、講 演
などを通 じての科 学 的 知 識 の一 般 への普 及 、科 学 活 動 の一 般 的 イメージアップには意 味 があっても、
科 学 研 究 者 のための 制 度 的 教 育 機 関 で はなか った。そ してまた 、多 数 の科 学 者 に職 業 と しての 科
学 研 究 を保 証 する制 度 でもなかった。このように科 学 アカデミーは、科 学 研 究 者 の社 会 的 な再 生 産
過 程 を傍 証 するものとしてはあまり優 れたものとはいえなかった。
それゆえ科 学 研 究 活 動 が社 会 化 する 過 程 にお いては、教 育 機 関 と しての大 学 制 度 の中 に科 学
が入 り込 むことがどうしても必 要 だったのである。そしてそのためには、大 学 において科 学 研 究 や科 学
教 育 を行 うことの意 味 を論 じる必 要 があった。その際 にドイツにおいては、ドイツ的 特 殊 性 と相 倹 って、
科 学 研 究 活 動 に関 して実 用 主 義 的 イデオロギーとは異 なるイデオロギーが展 開 された。そのイデオロ
ギーがどのようなものであったかを次 節 で見 ていくことにしよう。
4 .歴 史 的 前 景 (2)−
「実用主義」と「教養主義」の対立
まず最 初 に、十 九 世 紀 ドイツにおいて新 しい科 学 イデオロギーが主 張 される前 の歴 史 的 背 景 を見
ていくことにしよう。
十 八 世 紀 ドイツにおける大 学 の社 会 的 役 割 は、他 の諸 国 と同 じく法 律 家 ・官 僚 ・聖 職 者 。医 師 の
養 成 ということにあった。しかし萌 芽 的 であったにせよ中 世 とは異 なる新 しい産 業 や技 術 の発 展 ととも
に、新 しい職 業 人 教 育 すなわち技 術 者 教 育 が 社 会 的 に必 要 とされるようになってきた。実 際 、十 八
世 紀 後 半 のドイツでは、技 術 者 教 育 を行 うため のさまざまな専 門 学 校 が 創 設 された 。例 えば 、鉱 山
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学 校 (アカデミー)は 1770 年 にベルリンで、1775 年 にクラウスタール・ツェラーフェルトで、1776 年 にザ
クセンのフライベルクで設 立 された。そしてさらにまた、1790 年 には獣 医 学 校 (アカデミー)が、1796 年
には工 芸 学 校 が、1799 年 には建 築 学 校 (アカデミー)が、1806 年 には農 業 学 校 (インスティチュート)
が設 立 された。このように新 しい専 門 職 業 教 育 機 関 は大 学 制 度 の外 に作 られていった。
そうした一 方 では、従 来 的 な大 学 を廃 止 すべきだとする「大 学 廃 止 論 」という過 激 な見 解 もあった。
例 えば、汎 愛 派 の教 育 家 である C・G・ザルツマンは、諸 大 学 はまったく無 用 の長 物 にすぎないと断 じ
ていた。またマッソーはプロイセンの高 等 学 務 委 員 会 委 員 長 になる前 年 の 1797 年 には、大 学 を廃 止
し、ギムナジウムと医 学 ・法 学 その他 のアカデミーだけにすべきだという意 見 に賛 意 を示 していた。
こうした大 学 廃 止 論 の背 景 には実 用 主 義 的 イデオロギーがある。そして実 用 主 義 的 イデオロギー
からの現 状 批 判 は、大 学 に対 してだけではなく、当 然 のことながら科 学 アカデミーに対 しても向 けられ
ていた。例 えばプロイセン科 学 アカデミーに対 するフリードリヒ・ヴィルヘルム三 世 の 1798 年 の閣 令 の
中 で、「朕 は、アカデミーに対 し、その研 究 全 体 が必 ずしも一 般 福 祉 (l’utilité publique, allgemeinen
Nutzen)へ十 分 に向 けられているようには見 えない、という不 満 をもらさざるをえない。各 人 は抽 象 的
な事 柄 を論 ずること、街 学 的 な発 見 によって形 而 上 学 や思 弁 的 な理 論 をふくらますことで満 足 しきっ
ており、そして、真 に有 益 なる事 柄 、すなわち技 芸 や産 業 の改 善 に洞 察 を向 けようとは考 えない。だ
がしかし、例 えばかつてパリのアカデミーが、その種 々の欠 陥 や組 織 の不 完 全 さにも拘 わらず、他 に
抜 きんで ていたの は、技 芸 や 産 業 の 改 善 に洞 察 を向 けたがためであ り、それはまたきわめ て重 要 な
功 績 でもあった。……朕 は、アカデミーがその取 り組 んでいる研 究 分 野 に関 する諸 法 則 を国 内 産 業
に提 供 することによって、これを振 興 させるよう希 望 する」(16)と主 張 されていた。十 八 世 紀 後 半 のド
イツにおいては、実 用 主 義 が有 力 な主 張 の一 つであった。
ドイツにお ける新 人 文 主 義 者 や ドイツ観 念 論 者 らの教 養 主 義 はこうした 状 況 を背 景 と して形 成 さ
れてきた。ドイツ大 学 の中 の哲 学 部 の利 害 を代 表 する新 人 文 主 義 者 やドイツ観 念 論 者 は、神 学 部 、
法 学 部 、医 学 部 のいわゆる上 級 三 学 部 が中 心 的 位 置 を占 めるという大 学 の中 世 的 性 格 を批 判 する
という画 においては実 用 主 義 者 と一 致 しながらも、大 学 の改 革 の方 向 において対 立 した。例 えばシラ
ーは、イェーナ大 学 教 授 就 任 講 演 の中 で「学 問 を生 活 の手 段 とする学 者 」を批 判 し、「パンのための
学 問 」すなわち特 定 の職 業 に関 係 する学 問 を否 定 した(17)。ドイツにおける教 養 主 義 は、実 用 主 義
批 判 を展 開 する中 で哲 学 部 の意 味 づけを与 えたのである。
「学 問 による教 義 」の理 念 の提 唱 者 として名 高 いフンボルトも実 用 主 義 に対 して批 判 的 であった。
フンボルトは学 問 イデオロギー(Wissenschaftsideologie)の立 場 から、純 粋 な学 問 が大 学 の主 要 目
的 で あ る と し た 。 例 え ば 、ベ ルリ ン 大 学 の 創 立 に 関 連 し て 著 した 覚 え 書 き の 中 で 、 大 学 に お い て は
「学 問 を学 問 として追 求 する」という原 則 が重 要 であるとし、大 学 は「学 問 の純 粋 理 念 に仕 える場 合
にのみその目 的 を達 成 し得 る」ものと規 定 している。そしてフンボルトはそうした立 場 から、職 業 教 育 を
目 的 とした高 等 教 育 機 関 に対 して否 定 的 な態 度 を取 った。すなわち彼 は、「国 家 にとっては、人 間 に
とってそうであるように、知 識 や言 尭 ではなくて人 格 と行 為 こそが重 要 」であるとするとともに、「国 家 は
その大 学 をギムナジウムや専 門 学 校 として扱 ってはならない」とし、大 学 を堕 落 させないためには「そ
れを学 校 から(一 般 的 理 論 的 な知 識 を教 える学 校 からだけでなく、とくに実 際 的 な知 識 を教 える学 校
から)潔 癖 に、頑 固 に切 り離 すこと」が必 要 であると主 張 した。
また学 問 研 究 の中 心 的 場 所 として大 学 を位 置 づける フンボ ルト は、科 学 アカデミ ーに対 しても 批
判 の矛 先 を向 けている。「大 学 が適 切 に整 備 されていさえすれば、学 問 の拡 充 の仕 事 は大 学 だけに
まかせておくことができるのであって、この目 的 のためにはアカデミーなんかなくてもすむのである。・・・
佐野正博(1989)「科学をめぐるイデオロギーの形成--科学・技術についての19世紀における社会的意識」『制度としての科学』木鐸社,pp.15-42
近 年 におい ては特 に目 立 った 貢 献 を示 している アカデミー はないし、ドイツの学 術 の独 自 の発 達 に
対 してアカデミーはほとんどまったく貢 献 していないのである。(18)」
またフンボルトと同 じような立 場 から、フィヒテは、「自 己 の全 能 力 の全 き主 人 、全 き支 配 者 となる機
会 (19)」を人 に与 えることが教 育 であると規 定 した。しかしそうしたフィヒテにとって自 然 科 学 は単 に博
物 学 の延 長 線 上 でしか捉 えられていなかった(20)。
実 用 主 義 への批 判 と結 びついたこうした教 養 主 義 においては、結 局 のところ、大 学 の中 に科 学 研
究 のための位 置 はなかった。フンボルトが例 外 として認 めたのは数 学 であり、数 学 だけは純 粋 の学 問
のための予 備 的 訓 練 に役 立 つものとされていた(21)。そのことはフンボルトが宗 務 公 教 育 庁 の長 官
をしていた時 にそこの学 術 委 員 会 が哲 学 者 、言 語 学 者 、歴 史 学 者 、数 学 者 から構 成 されていたこと
にも示 されている。フンボルトは数 学 以 外 の自 然 科 学 の専 門 家 を入 れることに反 対 したのである
(22)。
また一 方 では教 養 主 義 は、ドイツのナショナリズムに訴 えかけるものでもあった。すなわち当 時 のド
イツにおいて、学 問 に対 する実 用 主 義 的 な基 礎 づけは、フランス的 な啓 蒙 主 義 、そしてフランス的 な
専 門 学 校 主 義 、職 業 教 育 につながるものと位 置 づけられていた。そしてプロイセンが 1806 年 にナポ
レオン軍 に大 敗 北 を喫 したことは、ドイツのナショナリズムをいやがうえにも高 揚 させた。そうした状 況
の中 で、フィヒテの『ドイツ国 民 に告 ぐ』という講 演 がなされ、ベルリン大 学 が創 設 されたのであった。
以 上 のよ うなことか ら考 えれば、ベ ン・デー ビッドも主 張 するよ うに、ベ ルリ ン大 学 の創 設 の直 接 の
結 果 は「他 ならぬ 経 験 的 自 然 科 学 の 衰 退 」だ ったのであり、新 人 文 主 義 者 らの学 問 主 義 、教 養 主
義 に基 づく大 学 教 授 像 が「経 験 科 学 には適 合 しにくいもの」であったということは明 らかであろう(23)。
ヴォルフやベークらの古 典 文 献 学 に見 られるような実 証 的 スタイルの研 究 の成 功 から田 接 に経 齢 的
自 然 科 学 研 究 がドイツ大 学 の中 で正 当 化 されるというわけにはいかなかった。まして技 術 学 的 研 究
や技 術 者 教 育 がこうした教 養 主 義 と両 立 しえなかったことは明 らかである。
5 .自 然 科 学 研 究 と 教 養 主 義 − 科 学 の 教 養 主 義 的 基 礎 づ け
このように教 養 主 義 は、科 学 研 究 に関 する 伝 統 的 イデオロ ギーである実 用 主 義 的 立 場 とは矛 盾
するものであった。教 義 は、精 神 的 。道 徳 的 陶 冶 の中 で形 成 されるものであって、実 用 性 といった低
い次 元 の事 柄 に関 わることによっては形 成 できない。それゆえ自 然 科 学 者 が大 学 制 度 の中 に自 らの
位 置 を確 保 するためには、教 養 主 義 と矛 盾 しない新 しい科 学 イデオロギーを必 要 とした。自 然 科 学
研 究 者 はこうしたことを可 能 とするために、当 時 のドイツ大 学 における支 配 的 イデオロギーである学 問
イデオロギーに積 極 的 に同 調 した。こうして自 然 科 学 における教 養 性 が主 張 されるようになった。すな
わち、人 文 主 義 者 が自 然 科 学 は功 利 的 補 助 学 に過 ぎないと非 難 したのに対 して、自 然 科 学 者 は自
然 科 学 もまた精 神 の訓 練 として意 味 を持 っているのであり、教 養 の形 成 に役 立 つと反 論 したのである。
学 問 イデオロギーに立 脚 した人 文 主 義 者 の攻 撃 に対 する反 論 として、自 然 科 学 者 における科 学 的
教 義 主 義 が形 成 されたのである(24)。例 えば、ベルリン軍 医 学 校 生 徒 による大 学 の講 義 の聴 許 に
対 しフンボルトが制 限 を設 けようとしたのに対 して、ベルリン軍 医 学 校 長 ゲールケは「ベルリン軍 医 学
校 は決 して専 門 学 校 ではなく、立 派 な学 術 機 関 である。ただ軍 医 の教 育 という点 に相 違 があるだけ
であって、学 問 的 教 養 という点 では相 違 はない」と述 べてフンボルトに反 論 している(25)。
しかしまた一 面 では、自 然 科 学 者 による教 養 イデオロギーの利 用 、すなわち、「科 学 的 教 養 」という
佐野正博(1989)「科学をめぐるイデオロギーの形成--科学・技術についての19世紀における社会的意識」『制度としての科学』木鐸社,pp.15-42
主 張 は、科 学 に関 する実 用 主 義 的 基 礎 づけが困 難 な場 合 の、一 つの対 処 法 でもある。科 学 は、理
論 化 が進 むとともに具 体 的 経 験 との関 係 が希 薄 なものとなり、直 接 的 に実 用 に役 立 つかどうかが不
明 確 になる。そのため科 学 を有 用 性 イデオロギーによって社 会 的 に基 礎 づけることは次 第 に困 難 に
なる。そういう意 味 において、理 論 化 や抽 象 化 が高 度 に進 んだ科 学 研 究 に携 わる科 学 者 の取 りうる
選 択 の一 つとして、人 間 精 神 にとって科 学 が持 つ意 味 の強 調 、すなわち、科 学 を通 して教 養 が形 成
されるというイデオロギー的 主 張 を位 置 づけることができる。
自 然 科 学 が教 養 の形 成 に意 味 あるものとするイデオロギー、いわば自 然 科 学 的 教 養 主 義 によっ
て、自 然 科 学 は精 神 文 化 の中 に位 置 づけられることになった。自 然 科 学 的 知 識 が人 間 的 教 養 の一
部 をなすものであるならば、自 然 科 学 研 究 それ 自 体 を追 求 することに意 味 が認 められることになる。
すなわち、自 然 科 学 研 究 は他 の活 動 のための補 助 的 手 段 なのではなく、人 間 精 神 を形 成 する過 程
の一 部 をなすものとなる のである。そしてまたその ことによって、自 然 科 学 の水 準 はその国 の文 化 水
準 を示 す尺 度 の一 つとされることになる。
こうした戦 略 を最 初 に採 用 したのは、数 学 者 であ る。実 際 、抽 象 化 。理 論 化 が歴 史 的 に最 も早 く
から進 んだ分 野 は純 粋 数 学 の分 野 であった。純 粋 数 学 を実 用 主 義 的 に基 礎 づけることは明 らかに
困 難 であった。純 粋 数 学 者 たちは数 学 を一 般 教 養 として基 礎 づけようとした。
例 えばドイツの数 学 者 ヤコービは「数 学 それ自 らのために」研 究 を行 った。彼 は、教 夢 主 義 的 イデ
オロギーを主 張 し、フランスのフーリエと論 争 した。その論 争 には、科 学 に関 する実 用 主 義 的 立 場 と
教 養 主 義 的 立 場 の対 照 が見 事 に示 されている。
フーリエは、『熱 の解 析 的 理 論 』(1822 年 )の序 説 の中 で公 益 を重 視 すべきことを主 張 した。そして
そうした立 場 からヤコービを批 判 し、「解 析 数 学 を完 成 するにもっとも適 当 な人 たちが、人 智 の進 歩 の
上 にあんなにも必 要 な、数 学 上 の高 い応 用 の方 へ、その研 究 を向 けられんことを、人 は切 望 せざるを
得 ない(26)」と主 張 した。
これに対 してヤコービは、1830 年 にルジャンドル宛 の手 紙 の中 で、「人 間 精 神 の純 粋 な発 露 」とし
て数 学 を位 置 づけるべきだと考 える立 場 から、「フーリエ氏 の意 見 では、数 学 の主 要 目 的 が、公 共 の
利 益 と自 然 現 象 の説 明 にあるとのことでした。しかし彼 のような哲 学 者 は、科 学 の唯 一 の目 的 が人 間
性 の名 誉 であり、そうした理 由 によって、数 に関 する一 問 題 が太 陽 系 の一 間 題 と同 じ価 値 を持 つとい
うことを悟 るべきでした(27)」と反 批 判 した。
こうした科 学 的 教 養 主 義 イデオロギーは、1828 年 からプロシア文 部 省 の参 与 となり、1830 年 にフラ
ンスを遊 歴 したドイツの技 術 者 クレーレの報 告 の中 にも見 ることができる。彼 の報 告 には、「フランスで
は応 用 数 学 が余 りにも多 く教 えられ、純 粋 数 学 の教 養 については、反 抗 的 な偏 見 に囚 われている。
しかし数 学 の其 の目 的 は、悟 性 の内 的 啓 発 と精 神 力 の訓 練 にあるのである(28)」と書 かれていた。
上 述 のフーリエとヤコービの対 立 に象 徴 的 に示 されているように、科 学 イデオロギーの十 九 世 紀 的
展 開 は、新 人 文 主 義 者 らの教 養 主 義 に呼 応 した科 学 者 による実 用 主 義 的 イデオロギー批 判 から始
まった。科 学 者 集 団 は決 して一 枚 岩 的 な集 団 ではない。それはさまざまなサブ科 学 者 集 団 からなる
のである。そうした中 の一 つのサブ集 団 であるドイツの数 学 者 らが科 学 の教 表 主 義 的 基 礎 づけを正
当 化 のイデオロギーとしてまず最 初 に採 用 したのである。科 学 研 究 の教 養 主 義 的 基 礎 づけは、他 の
分 野 の科 学 者 集 団 にも採 用 されていくことになる。そしてやがて、自 然 科 学 が教 養 形 成 に意 味 を持
つことは科 学 者 集 団 以 外 の人 々にも広 く一 般 に認 められるようになった。例 えば 1900 年 にプロイセン
で中 等 教 育 問 題 討 議 のために開 かれた学 校 会 議 の中 で、ヴィルヘルム二 世 の教 育 者 であった枢 密
顧 問 官 ヒンツペーターは「以 前 は、古 典 語 、古 典 文 化 及 び歴 史 が教 養 人 のものであった。現 在 は、
佐野正博(1989)「科学をめぐるイデオロギーの形成--科学・技術についての19世紀における社会的意識」『制度としての科学』木鐸社,pp.15-42
ドイツ文 化 、歴 史 、及 び、自 然 科 学 の知 識 が教 養 人 のものとなっている」と発 言 している。自 然 科 学
の教 養 性 という主 張 は、科 学 者 のイデオロギーというだけではなく、一 般 的 なイデオロギーになった。
6 .科 学 イ デ オ ロ ギ ー に お け る 教 養 主 義 と 実 用 主 義 の 統 合
リーとヘルムホルツ
−
ハックス
ただし経 験 的 自 然 科 学 者 の場 合 には、純 粋 数 学 者 らの場 合 と異 なり、実 用 主 義 的 基 礎 づけを必
ずしも放 棄 する必 要 はなかった。経 験 的 自 然 科 学 に関 しては、それが実 用 的 な意 味 を持 つとともに、
教 養 の形 成 にも意 味 があるというように主 張 することができた。実 用 主 義 的 基 礎 づけと教 養 主 義 的 基
礎 づけの両 立 が可 能 だったのである。そして実 際 に、経 験 的 自 然 科 学 者 はそうした戟 略 をとった。す
なわち十 九 世 紀 後 半 になると、実 用 主 義 と教 養 主 義 という二 つの科 学 イデオロギーは、科 学 の両 側
面 を表 わすものとして一 つに統 合 されるようになった。
例 えばヘルムホルツは、自 然 科 学 の有 用 性 を人 間 による自 然 支 配 、すなわち、産 業 への影 響 との
関 連 で論 じるとともに、そのことよりも「ずっと奥 深 く、広 範 な」影 響 として「人 間 精 神 が進 む方 向 に対
して」自 然 科 学 が与 えた影 響 を挙 げている。そしてそのことのゆえに自 然 科 学 は「人 間 教 育 の新 たな
本 質 的 要 素 」であるとしている(29)。
実 用 主 義 と教 養 主 義 のこうした統 合 は、ハックスリーにも見 られる。ハックスリーは、まず「実 用 主 義
の代 表 者 たることを誇 る実 業 界 の面 々」を批 判 して、科 学 の「実 用 的 価 値 」を主 張 し、「徹 底 的 な科
学 教 育 の普 及 こそ工 業 の進 歩 発 展 のために絶 対 不 可 欠 な条 件 である」とした。ただしハックスリーに
よれば、こうした実 用 主 義 者 による科 学 教 育 批 判 は、「三 十 年 前 には手 ごわい相 手 であったが、こん
にちではすっかり絶 滅 している」としている。彼 によれば科 学 教 育 に対 するその当 時 の強 力 な反 対 者
は、教 養 主 義 的 立 場 をとる人 文 主 義 者 であった。そのためハックスリーは、教 養 が「自 由 教 育 」
(liberal education)によってしか得 られないという見 解 を批 判 し、自 然 科 学 も教 養 を与 えるのであり、
人 文 的 教 養 と科 学 的 教 養 という二 つの種 類 の教 養 がともに必 要 とされると主 張 した。ハックスリーに
よれば、教 養 は「 理 想 をもつこと・理 論 から導 か れた基 準 に照 らしてこと がらの価 値 を批 判 的 に 判 断
する習 慣 をもつこと」を意 味 するのであって、「習 得 や技 術 的 技 能 」とは全 く違 うものであるにしても、
「国 民 にせよ個 人 にせよ、もしその共 通 の教 養 が自 然 科 学 のたくわえからは全 然 なにも汲 みあげない
ならば、ほんとうに進 歩 するはずがない」のである(30)。
このように自 然 科 学 的 研 究 活 動 に関 しては教 養 主 義 的 基 礎 づけと実 用 主 義 的 基 礎 づけの統 合
が可 能 であり、自 然 科 学 者 は人 文 主 義 者 との「 戦 い」では自 然 科 学 の 教 養 性 を主 張 し、実 用 主 義
者 との「戦 い」では自 然 科 学 の実 用 性 を主 張 した。これが十 九 世 紀 後 半 における自 然 科 学 者 の用 い
た科 学 イデオロギーの構 造 であると考 えられる。
7 .19 世 紀 ド イ ツ に お け る 技 術 学 研 究 ・ 教 育 と 研 究 イ デ オ ロ ギ ー
十 九 世 紀 ドイツにおいて自 然 科 学 研 究 が大 学 の中 で徐 々に地 位 を占 めていったのに対 して、技
術 学 研 究 は 大 学 制 度 の 外 で 発 展 せ ざ る を 得 な か っ た 。 そ し て 工 業 専 門 学 校 ( Technishe
Hachschule)が、実 質 的 には大 学 と同 等 の高 等 教 育 機 関 であったにも拘 わらず、学 位 授 与 権 などの
佐野正博(1989)「科学をめぐるイデオロギーの形成--科学・技術についての19世紀における社会的意識」『制度としての科学』木鐸社,pp.15-42
問 題 をはじめとして教 育 機 構 としては大 学 よりも低 い位 置 しか十 九 世 紀 には与 えられなかった。これ
にはさまざまな原 因 が考 えられるが、イデオロギー 的 側 面 か ら言 えば 、フン ボルトに代 表 されるドイツ
的 教 養 主 義 との対 立 ということが挙 げられる。技 術 学 研 究 および技 術 教 育 は、それに関 する実 用 主
義 的 基 礎 づけが 可 能 で あることは明 白 であった が、自 然 科 学 研 究 およ び自 然 科 学 教 育 と は異 なり
教 養 主 義 と明 らかに矛 盾 するものと考 えられた。
ドイツにおける技 術 教 育 の遅 れに関 して、プロイセン商 工 省 商 工 局 ボイドは 1822 年 の報 告 書 の中
で、「ごくわずかの例 外 を除 き、わが国 には工 業 経 営 者 の必 要 とする数 学 と製 図 の知 識 を伝 達 する
市 民 学 校 は存 在 しない。・・・さらに工 業 経 営 者 にとって不 可 欠 な物 理 と化 学 についても、ギムナジウ
ムはほとんどこれを正 課 として採 り入 れない」と嘆 いた(31)。しかしながら、結 局 のところドイツにおける
技 術 者 教 育 は、さまざまな技 術 学 校 を中 心 として行 われ、一 八 三 〇年 代 から一 八 七 〇 年 代 にか け
て進 行 したドイツの産 業 革 命 とともに順 調 に拡 大 した。一 八 七 〇年 代 以 降 には工 業 専 門 学 校 がドイ
ツ各 地 で 続 々と 創 立 され た。そ してまたドイツにおける技 術 学 研 究 の発 展 を支 えるものとして、1887
年 には他 の国 に先 駆 けて国 立 物 理 ・工 学 研 究 所 が設 立 された。
その時 に展 開 された技 術 学 研 究 のためのイデオロギーは、研 究 それ自 体 を職 業 とする新 しい科 学
研 究 者 、すなわち、研 究 所 に属 するフルタイムの科 学 研 究 者 の必 要 性 ということであった。というのも
大 学 の中 の科 学 研 究 者 は、研 究 と教 育 の統 一 という理 念 の下 に研 究 と教 育 をともに遂 行 することが
義 務 づけられている。そういう意 味 において大 学 の科 学 研 究 者 は、大 学 教 官 として学 生 に対 する教
育 の義 務 を負 うものであり、フルタイムの研 究 者 ではなかった。1883 年 春 にドイツの帝 国 議 会 でジー
メンスが主 張 したように、「科 学 研 究 自 身 は、国 家 構 造 の中 における専 門 職 業 的 活 動 ではなかった。
科 学 研 究 は、専 門 職 業 のかたわらに行 われるものとして黙 認 された個 人 的 活 動 に過 ぎなかった。」し
かしこうしたことは、産 業 が加 速 度 的 に発 達 しつつある十 九 世 紀 後 半 のドイツの状 況 においては好 ま
しいことではなかった。「こうしたことすべての悲 しき帰 結 として、生 活 を全 領 域 にわたって活 気 づけ刺
激 するような科 学 的 研 究 課 題 に対 する取 り組 みがほとんどなされなかった」のである(32)。産 業 の発
達 は社 会 発 展 にとってきわめて重 要 な要 素 であるが、産 業 発 展 は新 しい自 然 科 学 的 発 見 とそれの
技 術 的 利 用 にか かっているとすれば、フルタ イム で科 学 研 究 に取 り組 む 研 究 者 の 存 在 が社 会 的 に
必 要 とされることになる。こうした状 況 認 識 に対 応 した新 しい科 学 研 究 イデオロギーが十 九 世 紀 末 ご
ろから展 開 されはじめた。これによって「科 学 的 教 養 ではなくして科 学 的 業 績 が一 国 民 に文 明 民 族
中 での名 誉 ある地 位 を与 える」というように考 えられることになり、技 術 学 研 究 及 び技 術 教 育 に対 する
力 強 いイデオロギー的 基 礎 づけが与 えられることになった(33)。
8 .お わ り に
科 学 に 関 する イデオ ロ ギー 的 分 析 は、科 学 の 歴 史 的 発 達 の 表 層 をた どる ものに 過 ぎ ない 。1820
年 代 以 降 に自 然 科 学 者 のポストがドイツの大 学 の中 に確 保 されていくことに関 しては、大 学 に対 する
行 政 当 局 の介 入 が大 きな役 割 を果 たしたと考 えられる。しかしそれにも拘 わらず、当 時 の科 学 者 が持
った意 識 や理 念 を理 解 するためには、当 然 のことながら当 時 のイデオロギー構 造 の分 析 も必 要 不 可
欠 である。本 章 で分 析 したのは主 としてドイツであるが、ここまでの分 析 が正 しいとすれば、科 学 研 究
の意 味 のイデオロギー正 当 化 のためには教 養 主 義 と実 用 主 義 という二 つの伝 統 的 イデオロギーに対
する「二 正 面 作 戦 」 を展 開 する必 要 があった。そ して結 果 として教 養 主 義 と実 用 主 義 を統 合 する 科
佐野正博(1989)「科学をめぐるイデオロギーの形成--科学・技術についての19世紀における社会的意識」『制度としての科学』木鐸社,pp.15-42
学 イデオロギーが形 成 された。そしてそれがフルタイムの研 究 の必 要 性 という研 究 イデオロギーと結 び
つく中 で、科 学 活 動 それ自 体 が人 類 の追 求 すべき基 本 的 価 値 とされるようになり、「科 学 のための科
学 」という科 学 イデオロギーが形 成 されたと考 えられる。
注
(1) J.G.クラウザー(鎮 目 恭 夫 訳 ,1964)『産 業 革 命 期 の科 学 者 たち』岩 波 書 店 、p.2。
(2) 本 章 では、イデオロギーを「虚 偽 意 識 」という意 味 においてではなく、「観 念 諸 形 態 」を意 味 する
ものとして用 いる。すなわち、科 学 活 動 の意 味 づけに関 する社 会 的 意 識 を「科 学 イデオロギー」
という言 葉 で表 わすことにする。
(3) Edger Zilsel(1942) "The Sociological Roots of Science", Amer. J. of Socio1., XLVII,
pp.544-62.〔エドガー・ツィルゼル(青 木 靖 三 訳 ,1967)「科 学 の社 会 学 的 基 盤 」『科 学 と社 会 』み
すず書 房 〕
(4) 技 術 に関 する認 識 としては、経 験 的 規 則 などの経 験 的 認 識 もある。カンやコツといった技 能 は、
経 除 的 認 識 の一 種 として取 り扱 うべきであろう。自 然 現 象 を対 象 とする純 粋 自 然 科 学 的 認 識 と
同 様 に、技 術 を対 象 とする認 識 には経 験 的 な認 識 と理 論 的 な認 識 がある。技 術 学 者 はそうした
二 種 類 の技 術 的 な認 識 を取 り扱 いながら、理 論 的 認 識 としての技 術 学 (工 学 や地 学 など)を発
展 させることに携 わっている人 々として定 義 できよう。すなわち本 章 では、技 術 者 と技 術 学 者 とを
次 のように区 別 することにする。技 術 者 は、先 行 の技 術 的 認 識 や技 術 学 的 認 識 などを用 い、技
術 を直 接 に産 み出 すことに関 わる社 会 階 層 として定 義 される。これに対 し技 術 学 者 は、技 術 に
関 する理 論 的 認 識 の生 産 を担 う科 学 者 であり、間 接 的 に技 術 を産 み出 す社 会 階 層 として定 義
される。
(5) C.R.Weld (1848) History of the Royal Society, Vol.1, pp.146. 同 書 は Google ブックスからダウ
ンロードできる。また該 当 箇 所 は次 の通 りである。
http://books.google.co.jp/books?id=5CUEAAAAQAAJ&dq=%22History%20of%20the%2
0Royal%20Society%22%20Weld&pg=PA146
(6) F.Paulsen (1919) Geschichte der gelehrten Unterrichts, Bd.1, S.507.
(7) Roger Hahn (1971) The Anatomy of a scientific Institution: The Paris Academy of Sciences
1666-1803, California U.P., pp.234-238.
(8) コンドルセ (松 島 鈞 訳 「公 教 育 の全 般 的 組 織 に関 する報 告 および法 案 」1792 年 (『公 教 育 の原
理 』明 治 図 書 ,1962 年 ) p.143。
(9) パストゥール(成 定 薫 訳 、1981)「ドゥエ講 演 (1854 年 12 月 7 日 )」<科 学 の名 著 .第 10 巻 >、『パ
ストゥール』朝 日 出 版 、p.356。
(10) パストゥール、成 定 薫 訳 、「フランス科 学 についての省 察 」同 上 書 、p.418。
(11) 高 山 進 「十 九 世 紀 前 半 における物 理 学 と工 学 の関 連 について」『十 九 世 紀 物 理 学 史 研 究 』1
1986 年 ,p.2。
(12) 小 倉 金 之 助 「階 級 社 会 の数 学 」『小 倉 金 之 助 著 作 集 』第 一 巻 、勁 草 書 房 、1974 年 、p.165。
(13) パストゥール、成 定 薫 訳 「専 門 職 業 に関 する教 育 」前 掲 書 、p.398.
(14) T・H・ハックスリー、佐 伯 正 一 ・栗 田 修 訳 、「科 学 と教 養 」1880 年 (『自 由 教 育 ・科 学 教 育 』明 治
図 書 1971 年 )pp.80-81。
佐野正博(1989)「科学をめぐるイデオロギーの形成--科学・技術についての19世紀における社会的意識」『制度としての科学』木鐸社,pp.15-42
(15) H. シェルスキー、田 中 昭 徳 ・ 阿 部 謹 也 ・ 中 川 勇 治 訳 、『大 学 の孤 独 と自 由 - ドイツの大 学
ならびにその改 革 の理 念 と形 態 』未 来 社 、1970 年 、p.37。
(16) Jahrbucher der preußssischen Monarchie, 1798, Bd.2. p.186f. 〔引 用 は、H.シェルスキー、同
上 書 、pp.48-49 による〕なお同 書 は Google ブックスからダウンロードできる。該 当 箇 所 は次 の通
りである。
http://books.google.co.jp/books?id=0NMpAAAAYAAJ&pg=PA186
(17) F.シラー「世 界 史 とは何 か。また何 のためにこれを学 ぶのか」1789(筑 摩 書 房 版 世 界 文 学 体 系
18『シラー』pp.94-106 に所 収 )。
(18) W. von Humboldt, "Über die innere und äußere Orgnization der höheren wissenschaftlichen
Anstalten in Berlin", Gesammelte Schriften, Bd.X〔W・フンボルト、梅 根 悟 訳 、「ベルリン高 等
学 問 施 設 の 内 的 ならび に外 的 組 織 の 理 念 」『 大 学 の 理 念 と 構 想 』 明 治 図 書 、1970 〕 。教 養 主
義 的 に大 学 を教 養 の機 関 として規 定 する ことは、アカデミーの排 斥 に直 接 につながるものでは
ない。例 えばシュライエルマッハは、大 学 をギムナジウムと科 学 アカデミーの中 間 に位 置 するもの
と考 えており、科 学 アカデミーに生 産 的 な学 問 研 究 を行 わせようとしていた。
(19) J.G.フィヒテ、椎 名 千 吉 訳 、「教 育 寸 言 」『ドイツ国 民 教 育 論 』明 治 図 書 、1970 年 、pp.163。
(20) J.G. フィヒテ「ベルリンに創 立 予 定 の 、科 学 アカデミー と緊 密 に結 び ついた、高 等 教 授 施 設 の
演 繹 的 プラン」『大 学 の理 念 と構 想 』p.48。
(21) W.フンボルト、同 上 論 文 、訳 書 p.216。
(22) F. Schnabel, Deutsche Geschichte im neunzehnten Jahrhundert, Bd. 2, pp. 219-220.
(23) Joseph Ben-David, The Scientist's Role in Society, 1971, pp. 118-119 〔ヨセフ・ベン−デービ
ッド、潮 木 守 一 ・天 野 郁 夫 訳 、『科 学 の社 会 学 』至 誠 堂 、一 九 七 四 年 、p.158〕。
(24) R.S. Turner, "The Growth of Professional Research in Prussia,1818 to 1848 - Causes and
Context", H.S.P.S. 13(1982), pp.147-148.
(25) Eduard Spranger, Wilhelm von Humboldt und die Reform des Bildungswesens, Berlin 1910,
Tübingen, 1960, p.142。
(26) 小 倉 金 之 助 、前 掲 論 文 、p.178。
(27) C.G.J. Jacobi, Gesammelte Werke, Bd.I, p.454.
(28) 小 倉 金 之 助 「数 学 教 育 史 」『小 倉 金 之 助 著 作 集 』第 六 巻 、p.288。
(29) ヘルムホルツ、三 好 助 三 郎 訳 、「科 学 の普 及 的 傾 向 について」『科 学 のすすめ』弘 文 堂 、一 九
四 九 年 、p.13,p.17。
(30) T. H. ハックスリー、前 掲 論 文 、pp.67-72。
(31) P.C.W. Beuth, Bericht des Geh. Ober, in Verhandulungen des Vereins zur Beförderung des
Gewerbefleisses in Preussen, Bd 1, 1822, p.133.
(32) Werner Siemens, "Votum betreffend die Grundung eines Instituts für die experimentelle
Förderung der exakten Naturforschung und der Präzisionstechnik", in Wissenschaftliche und
Technische Arbeiten. 2. Aufl., 2 vols., Berlin, 1889. 1891.
(33) ジーメンスが政 府 に宛 てた 1884 年 3 月 20 日 付 の書 簡 〔天 野 清 『量 子 力 学 史 』中 央 公 論 社 、
p.9 より引 用 〕