地味なペパーは ピースが好き

地味なペパーは ピースが好き
知恵沢
俊
遥か遠いどこか。
人々は互いに助け合い、恵みをわかち合う生き方を選び、
穏やかな暮らしを送っていた。
ゆっくりと進歩し、少しずつ栄えていった。
私利私欲のない、愛溢れる社会。
しかし、やがて、それに不満を抱く者たちが現れ、秘かに蠢きはじめた……。
第一話
「星降る先端都市」
室長のマジョラムは激怒した。
なんぢゃ~この地味な女わァ~!
もちろん、心はシールドしてある。
“いい女の子”を配属してやろう。そう局
長は言った。なるほど、それを“イイオンナ”と勝手に勘違いしたのは私だ。
いい女の子とは“優秀な”という意味だ。成績は確かに優秀。以前在籍した世
界開発省では北アルディカで図書館を建設するなど実績を残している……。
ノックの音がし現れたのは、ケープを肩に纏い、髪を耳半ばでぱっつんカッ
トした、いかにも有能然とした……地味な女だった。
「世界調和省・調停管理局・実務執行課・第十一執務室に本日付けで異動とな
りました、ペパー=心を癒す、です」
その地味女は儀礼的な笑みを浮かべ挨拶した。
部屋にいた五人の男性は一斉にペパーに視線を投げ、初めは笑顔で、そして
顔を見るや間髪入れず落胆の表情に崩れた。
失望感。
馴れてるわよ。と、ペパーは唇を真一文字にして心を引き締める。二十四年
の人生の中で、何度も何度も見てきた光景。
どうせ私は地味女よ。それが何か?
小首を傾げるも、男どもに抗議しても仕方がないので、作り笑顔に戻る。人
を顔で判断するなんて最ッ低の男ども。気になんかしない。あなたたちだって、
全然イケてないじゃない。いかにも役人然とした顔とスタイル。私の方こそガ
ッカリだわ。
「私が室長のマジョラム=知恵で助ける、だ」そう言って、あきらかに面倒く
さそうに立ちあがり軽く頭を下げる。
「そして隣に立っているのが私の補佐役カ
ルセドニ、ご覧のとおりベルム族だ」
カルセドニと紹介された若い男性は素早く頭を下げた。
続いて、コエンドロ=奉仕が我が魂、エルブド=老若男女に手を差し伸べる、
ロベージ=慰めの唄を、とそれぞれが名乗り、握手もせずそそくさと自分の席
に腰を降ろし業務を続けた。
取り残されたように戸口で突っ立つペパーは、落胆しつつも顔を曇らせるこ
となく、小さく肩を竦めた。
「私はどちらで奉働すればよろしいでしょうか?」
張りのある声は、十人入れば呼吸困難になりそうな部屋に清涼感をもたらし
た。その清々しい声に室長は少し考えを変えたように、ペパーに微笑みかけた。
「ああ、失礼した。その隅の、カルセドニくんの隣の席を使い給え」と掌を上
に向けて指し示した。「彼から細々としたことを訊くといい」
ペコリとペパーは頭を下げ、自席に戻るカルセドニに近づいた。
彼はペパーに控えめな笑顔を向けている。ベルム族は私たちカンティオに常
に従順だ。世界開発省時代、彼らの大陸アルディカで奉働していた時も、何故
か彼らにはモテた。あの時だけが私唯一のモテ期……。
席に近づくとペパーはカルセドニに話しかける。
「いろいろご迷惑をおかけすると思いますがよろしくお願いします」
それに応えてカルセドニも周りに気遣いながら応える。
「いえ、こちらこそよろしくお願いします。何でも気兼ねなく訊いてください」
と言い、続けて小声で、
「室長のことはあまり気になさらないように。ドスケで
すから」
「ド、ドス…?」あやうく声を漏らしかけたペパーはあわてて口を手で押さえ
た。まったく意表を突く言葉。ここはお堅いことで有名な世界調和省じゃなか
ったっけ?
わざとらしく室長は咳払いし、
「そうそう、キミにふさわしい初奉働がある」と言った。
ペパーは降ろしかけた腰を起こし、ハイと元気よく応えた。
「砂の大陸にあるアグライアに行ってほしい」
「アグライア?」
「知らないかな? ステラの南にある農村だ」
「ステラなら存じております。獅子像で有名な都市ですよね」
「その少し南に小さな村がある。それがアグライアだ」
ペパーは思い出した。そう言えばステラの街を流れる大河ニールの上流に小
さな農村があったことを。
しかし砂の大陸へ渡るには、アグニホーバーで飛んでもここユネイブからで
は半日はたっぷりかかる。
「これからでしょうか?」
「いや、今日は事案の資料に目を通し、明朝一番で現地に向かってくれ給え」
「泊まりでしょうか?」
「そうだな、三日ほどで解決できるだろう」
はあ、とペパーはため息をついた。いきなりの出張。しかもリミットまでさ
り気なく切られた。流石は世界調和省、何ごともシビアだ。
「あの、私一人ででしょうか?」
老眼鏡のフレームの上から室長はペパーを見上げた。
「あいにくみんな自分の奉働で手一杯だ」とわざとらしく狭い部屋を見回す。
…キミが美人なら私が一緒に行ってやってもいいのだが。
ハ?
ウン?
ペパーと室長の視線が一瞬絡む。
軽く咳払いし、室長は続けた。
「確か、キミは開発省では優秀だったと聞いているが?」
弱々しくペパーは頷くも、なるほどと察しをつけた。これは私をここに配置
した局長への当てこすりなんだ。私の失敗を望んでいる。そして室長は、あな
たが配属した部下は実は無能でした。他の部下の配属をお願いします。そう言
うつもりなのだ。できれば美人の部下を、と言い添えることだろう。確かに、
ドスケベオヤジだ。
再び室長と視線が合う。
何か?
いえ、と言うようにペパーは微笑みを浮かべて見せる。
やるわよ。やってやるわよ。ちゃんと調停してきてみせる。と、強がってみ
る。そのために三ヶ月間の研修を受けたのだ。しかし、もう一人の自分は弱音
を吐き、厳しいと思う。他省で三年の経験があるとは言え、異動の翌日に現地
へ赴き、たった一人でトラブルを解決せよとは厳しすぎないか? 全身にどっ
と不快な汗が滲み出る。
「あの〜」とペパーは藁をもすがるように声を絞り出した。
「バートラを帯同さ
せてもよろしいでしょうか?」
「バートラ? ああ、家事要員ね。キミもベルム族に奉働を与えているのか。
構わんよ」
少し安堵し、ペパーは小さくため息をついた。
「カルセドニくん、彼女に資料を」
※
事案の概要はこうだった。
訴えを起こしたのはアグライア。訴えられたのはステラ。ステラは気象・天
文など自然界の現象を観測し、様々な災害を予知する役目を担っている都市だ。
しかし、今年は洪水警報を出さなかった。そのせいでアグライアは突然襲って
きた洪水に対応できず、死者を出す大きな被害を被ったというのだ。互助互恵
の社会にあって、ステラはアグライアから農作物などを受け取っているにもか
かわらず、アグライアに対しては何も施さなかったことになる。心情的には、
アグライアの多くの人々は、そのことに対しては問題視していない。他者に何
かを施すことに喜びを感じるのが互助互恵社会の神髄だからだ。しかし、アグ
ライアの最長老は示しがつかなくなるとの判断から、敢えて提訴に踏み切った
とのことだった。
何故ステラは警報を出さなかったのか? 予測できなかったのか、それとも
怠慢か? 近頃、ステラの動きが不穏だとペリシアなど近隣都市から報告が届
いている。
そこで、何が起こっているのかを調査し、アグライアの訴えにステラがどの
ように対処するのかを見届けること。場合によっては自らが働きかけ、調停を
図ること。これが任務だった。
マニュアルでは提訴した側から訪問する。しかし、訴えられたステラの状況
を見てから対処した方が早いと考え、ペパーは先にステラに向かうことにした。
※
空港に降り立ち、半日乗ってきたアグニホーバーを見上げた。機体の上部に
はクリスタルのようなアース管が天を向く。ゾンデ界からライデンを受け取る
貴重な装置だ。都市で消費するライデンも、同様のシステムで獲得している。
「調停官!」と誰かが遠くで呼ぶ。
しかしペパーは大きな鞄を抱え、うっすらと額に浮かんだ汗を腕で拭い、そ
れに気づかず歩き続ける。
これから地球は氷の時代を脱し、どんどん暖かくなるとステラは予測する。
それが本当ならとても耐えられないわ、とペパーは心の中でぼやく。初夏でこ
の暑さ、これ以上暑くなるなんて想像できない。私は涼しいユネイブが好き。
小さな高山植物を愛でたり、遠くの万年雪をいただく山々を眺めたりするのが
好き。
「調停官!」
また、誰かが呼ぶ。
「ペパーさん、あなたのことじゃないですか?」
背中はもちろん両手にも大きな荷物を抱えたアゲートが、近づく声の主を見
ながら注意を促した。
「調停官って言ってるわね。そう言えば、私、調停官という身分だっけ?」
苦笑いを浮かべ、ペパーは声のする方へ、
何気なく、無防備に、スッと目線をスライドさせ……、
思わず、息を飲む。
流れる濡れ羽色の髪。倒立した円錐のフェイスライン。深い瑠璃色の瞳。ま
っすぐな鼻筋。ああ、そして極めつけはやわらかそうな誘う唇……。まさに白
皙の美青年♡
一瞥でペパーはハートを射抜かれた。
と、次の瞬間、感情がそのまま放射される。
ズドーン!
男性が吹き飛ぶ。
「あたたたた!」
「あ、シールド忘れた!」
「な、何が起こったのですか?」
男性は尻餅をついたまま呆然。
「す、すみません!」ペパーは顔を真っ赤にしながら男性に駈け寄る。
「私には
ヘンな力がありまして……」
「あなたは超能力者……ですか?」
相手は困惑した表情を控えめに浮かべながらペパーを見上げる。
「そ、そんな大したものではなく、ただちょっと……」
ペパーは頚を傾げながら笑顔で誤摩化そうとする。
飛ばされた相手は小さく肩を竦めると立ち上がった。そして平常心を取り戻
し、尻を両手で軽くはたき、「調停官ですね」と笑顔を浮かべて改めて尋ねた。
ああ、笑顔も素敵♡ でも、マズい、私、事務メイクだった。こんなイケメン
が出迎えに来るとわかっていたらフルメイクしたのに……。
「ようこそステラへ。私は技士のメース=悩みを解決する、です」
儀礼的に会釈をしてみせる。ペパーも相手の会釈に応じる。しかし、互いに
正装。この陽射しに黒色の長衣は見た目にも暑苦しい。動くたびに金の刺繍が
眩しく陽光を反射する。
「今日は今年一番の暑さです。さ、涼しい建物の中に入りましょう」
※
大理石がふんだんに使われた会議室はひんやりとしており、ノースリーブの
腕をテーブルの上に置くと冷たく、心地よかった。
「説明は以上ですが、何か質問はございますか?」
ステラの男たち六人が世界調和省からわざわざ足を運んできた調停官である
ペパーに小一時間、説明を続けていた。
「では、あなた方は宇宙や素粒子ですか、それを観測するエムと呼ばれる機器
の開発に全力で取り組んでおり、洪水警報を出すのが疎かになったと釈明する
訳ですね」
「我々の怠慢と言われれば誠に左様でございます」と、ステラの最長老マアト
が申し訳なさそうに頭を下げた。
「しかし」と空港で出迎えたメースが口を挟んだ。
「洪水は毎年のことで、明け
方南の地平線に青白い星が出ると起こることは誰もが知っている筈。いまさら
我々が注意喚起しなくてもよい事柄かと考えておりまして……」
彼の言葉を最長老が咳払いして遮った。
「それが我々最大のミスだったという
ことじゃ。一般の人々、特に星や自然の営みなどフュシス学に深く関心をもた
ない人々には、わからないことなのだ。我々は心を改めねばならん」
「ええ、そうです」とペパーは厳しい口調で言った。
そう、厳しく彼を追いつめるのよ。そして、追いつめてピンチになった時に
私があたたかい手を差し伸べるの。そうすればきっと、彼は私に好意を持つわ。
「事実、アグライアでは洪水で死者が出、家畜や田畑が流されました。被害は
甚大です。人々の悲しみも如何ほどのものか」
男たちは沈痛な面持ちで俯いた。
重苦しい空気が会議室を支配する。
「あなた方はもっと自分たちの役割を自覚すべきだったのです。素粒子です
か? そうした目に見えない粒の力を研究するより、カンティオ文明の発展に
寄与する研究に専念すべきだったのです」
「お言葉ですが」とメースが口を開いた。
そうよ、私に食ってかかればいいのよ。私に関心をもって。
「宇宙の真理を解明すれば、それはカンティオ文明の発展に大きく貢献するこ
とになります」
「はあ?」とペパーはわざとらしく目を丸くして見せた。「この時空は 26 次元
だの、11 次元に折り畳まれているだの、そんな訳のわからないことが、この現
実の世界に対してどのように役立つと言うのですか?」
先ほどから説明を受けた内容を、まったく理解しないままペパーは反論に利
用した。
「宇宙には無限のエネルギーが存在しています。そのエネルギーを何らかのカ
タチで取り出せれば、文明を飛躍的に発展させられることになるでしょう」
「でも、宇宙に関してあなたが発見したことと言えば、一千三百億年前に大爆
発があり、それでこの宇宙が誕生した、ということぐらいでしょ?」
皮肉を籠めてペパーは言った。
「それはエムの実力のほんの一部。派生的な成果です。素粒子の世界ではトン
ネル効果という不思議な現象も起きています。これは他次元の襞を素粒子が突
き抜けている証拠。縫い針が布の襞を突き抜けているのと同じ理屈です。この
原理を応用すれば、瞬間移動も可能になると考えています」
メースは少年のように瞳をキラキラ輝かせながら言った。
「アグニホーバーに何時間も乗ることなく、一瞬でユネイブに帰れるの?」
メースはニッコリと頷いた。
熱の籠った瞳を見つめ、あり得ない妄想にペパーの心は熱くなった。私のこ
と、好きなの? 胸をときめかせつつも、冷静さを印象づけようと「ま、何か
の役には立つと言うことですね」とさり気なく流した。
「そうです。これらの研究には無限の可能性が潜んでいるのです」
「だからと言って、アグライアの件は帳消しにはなりません。私はこれからア
グライアの最長老とお会いします。どなたかローダーか何かを用立てていただ
けますか」
※
陽が傾きはじめた頃、ペパーはアグライアの最長老と会見を終えようとして
いた。
「かなり大きな被害が出たのですね。お気の毒に」
そう言って、ゆっくりと頭を下げ、死者を悼むため、両の掌を天に向けた。
「フェネクレスという農夫は非常に才があり、同時に屈強な肉体の持ち主だっ
たそうじゃ。不意に襲って来た真っ黒な濁流に、彼はとっさに荷車を横倒しに
して流れを変え、一瞬の隙に濠を作っていた工夫たちを逃がしたと言う。しか
し、自然の猛威に人の力が勝てる訳もなく、ほどなく彼の姿は濁流に呑み込ま
れ、消えてしまったそうじゃ。そして不幸なことに、下流に住んでいたコント
レンヌたちや子どもらの命も奪われた」
「本当に、お気の毒なことでした」
「ステラは大きな都市じゃ。わしらのアグライアは小さな農村。彼らにとって
わしらの存在より、そのエムとやらの研究の方が遥かに重要じゃった訳だ」
「彼らはもちろん善良です。怠慢でもなく、過失だったと思われます」
メースという少年のように純粋な目を持つ素敵な男性もいます。悪である筈
はありません。そう、心の中でペパーは付け足した。
「確かにわしらも悪い。南の地平線に現れる星を見てはおった。じゃが、ステ
ラが何も言わぬから、まだ洪水は来ぬものと判断した。それがいけなかったの
じゃ。わしらにも瑕疵はある」
これで和解の足掛かりが掴めた、とペパーは笑顔を見せた。しかし、そうで
はなかった。
「村民の意向を伝えよう。農作物や建物の被害は目を瞑ろう。しかし、洪水で
奪われた命に対する代償を求める」厳然と最長老のエルブドゥースは言った。
「彼らが生きた証を永遠に残してやってほしい」
「は?」
思わずペパーは声を漏らしてしまった。あまりにも意表を突く要求だったか
らだ。多くの場合、奉働による弁済で交渉は成立する。つまり、洪水で流され
た農地をステラ市民が開墾する、ないし、流された家屋を建て直す、などだ。
そうした要求に対して、彼女はある程度の想定をしていた。ステラから屈強な
男どもを調達し、アグライアの復興に従事してもらう。その数およそ二百人。
これならアグライアも納得するだろうと考えていた。研修の模範解答だ。しか
し現実は違った。いきなり彼女は現実の厳しさを思い知らされた。
「命に対する代償?」
最長老は頷いた。
「生きた証を永遠に?」
最長老はさらに深く頷いた。
「石像などでは、いけませんよねぇ……」
最長老は明らかに落胆した表情をペパーに投げかけた。いくら何でも獅子像
が名所のステラだからって、それはないか……。
「お見受けしたところ、あなたはまだお若い。調停官としてのキャリアも浅い
のじゃろう。時間は与える。村民の身になって考えてやってほしい」
キャリアが浅い?
浅いなんてもんじゃないわよ。昨日着任したばかりよ!
ペパーは叫びたかった。もっとお手柔らかにしてほしいものだわ。なのに何
よ、命の代償だなんて、しかも永遠? 冗談じゃないわ。そんなのできる訳な
いし、要求が厳しすぎるわ。法外よ!
もちろん彼女はそんなことは口に出さない。代わりに、一度頚を縦に振った。
「さらに」と最長老は声を落して言った。
「ステラには不穏な噂がある。彼らは
密かに怪し気なマシンを造っている、というのじゃ」
ペパーは頷いた。
「それは先ほど申し上げたエムという装置かと思われます。確かに怪し気なマ
シンで、宇宙の暗黒物質なども探っているとのことでした」
「いいや、そうではない」と最長老は頚を横に振った。
「彼らは攻撃装置を造っ
ておると言うのじゃ」
「攻撃装置?」ペパーには理解できない言葉だった。
最長老は頷いた。
ペパーは怪訝な表情を浮かべつつ、記憶の棚から該当する単語を引き出す。
「攻撃とは第三者に危害を与えること……ですか?」
ゆっくりと最長老は頷いた。
「攻撃をしてどうするのですか?」
「支配じゃ」
支配?
まったく理解不能。互助互恵社会にあって支配という概念は真逆。支配して
何をどうしたいと言うのか? 何のメリットもない。
「噂じゃ」と最長老はぽつりと言った。
「わしも深くはその件に関し考えてはお
らぬ。ただの噂じゃ。ここ数年、ステラに怪し気な装置が次々と陸揚げされて
おると隣の都市ペリシアが吹聴しており、そのような疑念が生まれたのじゃろ
う。この際その噂も潰しておきたいと思うてな」
ペパーの脳裏にメースの笑顔が浮かんだ。彼は私に嘘をついたのか。いや、
彼の笑顔は偽りではない。何かの濡れ衣だ。ああ、メース様♡ 彼のことを想う
ペパーの目が思わず潤む。
最長老は誤解したのか、雰囲気を和らげようとして無理に笑顔を見せた。
「期待しておりますぞ」
そう言うや席を立ち、飲み残した水をカップから飲み干し、背後の壁に投げ
つけた。陶器でできたカップはやわらかい音をたてて砕け散った。その音を聞
くや、部屋の外で待機したベルム族の子ども一人が飛び込んできて、破片を拾
い集めた。
ペパーも長老に倣ってカップを壁に投げつけ、粉々にした。
これで話し合いは終了したのだ。
ペパーのカップはまた別の子どもが拾い集めている。
「今日はもう遅い。長旅でお疲れでしょう。部屋と食事を用意しております。
ゆっくりおくつろぎください」
部屋を出た最長老に続き彼女もドア代わりのカーテンに手をかけた。そして
ゆっくりと子どもたちに振り向き、「ありがとう」と言って証紙を取り出した。
サインしその紙片を手渡す。これがベルム族の子どもたちの小遣いとなるのだ。
※
ペパーは夕食を済ませ、瀟酒に纏めあげられた部屋で深いため息をついた。
なんて長い一日だったのだろう。開発省でもこれほど緊張したことはない。
「もう、くたくた」と少し震える声でペパーは呟いた。
「せめてアゲートでも連
れて来ればよかった。そうしたら愚痴を百ほど言えたのに」
不意に心細くなり、ペパーは窓辺に立った。窓外には三日月が浮かんでいる。
何故アゲートをステラに残してきたのか? このために帯同させた筈ではなか
ったのか。こちらに来るのに急ぐあまり、アゲートを置き去りにしてしまった
のだ。自分の失敗にペパーは軽く舌打ちした。
アゲートもあの三日月を見ているのかな……。
いや、とペパーは頚を振りアゲートの顔を消し、メース様よ、と心の中で叫
んだ。メース様は私のことを想いつつ、あの三日月を見ているのかしら?
ふと気づくと右側にメース様が私と肩を並べて三日月を見上げている。
「ここは空気が澄んでいるので、月も綺麗でしょ?」
そう、メース様は穏やかな口調で言う。
「ええ」と私はうっとりした瞳で、メース様の横顔を見ながら頷く。
「ユネイブ
で見る月も綺麗だけど、ここであなたと見る月は、世界一、いいえ、宇宙一美
しいわ」
ゆっくりと顔を動かし、メース様は私の瞳を覗き込む。そして微笑みを浮か
べる。
ああ、何て甘いマスク。そして何て理知的な瞳なんでしょう。その瞳に私は
惹き込まれそう。
ああ、メースさまぁ♡
「ペパーさん」
ああ、熱い抱擁を……。
いいえ、熱い口づけを……。
腕が腰に巻かれ、強く抱きしめられる。
ああ、と自然と声が漏れる。
目の前にメース様の顔。
だめよ、私の荒い息遣いがバレてしまう……。
私の顎をメース様の繊細な指が掴む。そして真正面を向かせる。
もうダメ。心が溶けてしまう……。
彼の唇が一ミリ、一ミリと近づいてくる。
私の目は自然と閉じられ……。
な~んて私は一体何を考えているのかしら……。
ふ~っとペパーはため息をつく。
「ああ、メース様!」
空想に想いを馳せるも、現実の世界が突然彼女の背中に重くのしかかる。研
修で何度か聞かされた通信機の呼び出し音が鳴っているのだ。
急いで文机に向かうとカルセドニから渡された通信機の蓋を開ける。小振り
の鞄ほどもある通信機のキューブ管が明滅し、受信中であることを告げている。
ああ、報告書を作成しないといけないのよね。そして、ステラにもアグライ
アからの要求を報告しなければならない。
ほどなくして明滅は止まり、受信が完了したことがわかった。彼女は習った
通り、出力紙をセットし、孔が穿たれるのを待つ。キューブ管の光が消えるご
とに一つの穴が穿たれる。数分後に紙片が排出された。
案の定、室長からだった。状況を質してきたのだ。
ペパーは思探ティアラを被り、思念を集中する。カンティオ族特有のテレパ
シーを使い、文章を入力するのだ。しかし不慣れなため、一文字一文字をキュ
ーブ管に記憶させる作業が思うように進まない。それでもキューブ管に小さな
光が灯り、徐々に文字が記録されていく。数十分をかけて報告書を作成すると、
送信ボタンを押した。
随分夜も更けたのに、室長はまだ奉働をしている。私のことを心配していた
のだろうか?
フム、とペパーは鼻を鳴らし、あり得ない、と頚を振ってみせた。誰もいな
いのに。
数分後には返信が届いた。そこには、難事案だが頑張って解決してくれ、と
あった。心配しているのか、それともこれで美人が異動されることが決定した
と喜んでいるのか量りかねた。ま、後者だろう、とペパーは見当をつける。
「残念でした。そうはさせない。私はこの事案を解決してみせる」
そう呟くとペパーは拳を握りしめ、低い声で叫んだ。
「そしてメース様の心を射抜くのよ!」
でも、どうやって?
それが思いつかない。
※
次々打ち出される紙片の滝。そのなかの一枚に目を止め、男はほくそ笑んだ。
数分後、男は重厚な扉をノックし、主にその一枚の紙片を手渡した。
「おお、遂に見つけたか」とシルバーグレイの髪の男は膝を叩いて叫んだ。
「お
嬢ちゃんはこんな所に隠れていたのか。これだからカンティオ族って奴はおめ
でたいというのだ。いくら隠れたって、名前を変えなくっちゃ隠れたことには
ならんのだよ。なあ、シビングストーン」
男は左頬に傷のある男に不敵な笑いを向けた。
「如何がなさいますか、アルクウス様」
「ま、つかず離れず様子見といこう」と言ったが、すぐに思い返したように続
けた。
「いや、面白いことを思いついたぞ。シビングストーン、ちょっとステラ
まで飛んでくれ」
※
翌朝、食事を済ませると挨拶もそこそこにペパーはステラに戻り、最長老た
ちと会談の場をもった。しかし、前夜に知らせてあったにもかかわらず、妙案
は出なかった。
もう一つ、彼女はアグライアの最長老から託された事実確認をすべく、メー
スにエムの見学をさり気なく申し出てみた。すると予想どおり、彼はニコニコ
して案内すると言った。その素敵な笑顔にペパーは、自分と一緒にいられるこ
とに対して彼は喜んでいるのではないか、と妄想を抱きそうになった。しかし、
それは妄想以外の何物でもない、と彼女は自分を戒めた。
研究施設は巨大だった。見上げれば足がぐらついた。不気味な低周波の振動
も全身に伝わってくる。油や鉄が焼けるような臭いも漂っている。
「まるで何かを造っている工場のようにも見えますね」
ペパーはわざとらしくカマをかけてみた。相手の表情を読み解こうとしたの
だ。しかし、メースは相変わらず少年のように光り輝く笑顔のままだ。
「ある意味そうかもしれませんね。だって、目に見えない素粒子をここで創っ
ているんですから」
「そんな小さなものを創るのに、こんなに巨大な装置が必要なんですか? 何
だが逆のような気がしますね。顕微鏡サイズの機器で十分じゃないですか?」
「素粒子を創るのには、想像を絶する強大なエネルギーが必要なんですよ。実
はこの施設の屋上には世界最大級のアース管が十二基も設置されています」そ
う言って自慢気に胸を張ってみせる。
「ちなみに世界最大のアース管はどこにあ
るかご存知ですか?」
「う〜ん」と言ってペパーは腕組みする。が、すぐに閃く。「ハヴーンですね」
「正解! 流石調停官。私たちカンティオ文明の根幹であるハヴーン島には一
回り大きいアース管が三十基も環状に設置されています。そして、ゾンデ界か
らライデンを受けているんです」
じゃあ、ここにあるアース管は世界で二番目ということね。それを彼は誇り
に思っているんだ。
「そんな強力な設備を持っているとは、ステラが如何に重要な都市かという証
左ですね」
ペパーの褒め言葉にメースは胸を張る。
「その強大な装置から得たライデンを、この世界最大のリングに通し、素粒子
を光速近くまで加速させ、標的にぶつけるんです」
「標的にぶつける? それってとても危険なことじゃないですか?」
ペパーは核心に迫ろうと質問を重ねる。
「もし、あなたがケーキを三十七回も切った大きさだったら大変かもしれませ
んね」
「三十七回?」
「半分に切って、半分に切って、さらに半分に切っていく。十回も繰り返せば、
もう普通のナイフでは切れない。それをさらに繰り返していくと、この宇宙を
構成する最小の物質の大きさになります」
ぽかんとするペパーを悪戯気にメースは見つめる。
笑いながらメースは唄いはじめた。そう、カンティオ族とは、歌を唄う種族
という意味だ。何より歌が好きなのだ。
その歌は、物質は原子で構成され、原子は陽子と電子で構成され、それらは
さらに細かな素粒子で構成されている。物質をどんどん拡大していくと、際限
なく新たな素粒子が発見される。ひょっとするともっともっと拡大していくと
宇宙が見えるかもしれない、というような内容だった。
「ヘンな歌」とペパーは笑った。
「二番もあるんですよ。それは宇宙の歌。三番は次元の歌。そして四番は……」
「もういいですよ。私にはまったくわからない」
ペパーは頚を振ってメースを遮った。
メースは申し訳なさそうに、頭を掻いた。
「すみません。つい力が入ってしまって。いつもこうだから、彼女にも呆れら
れるんです」
ペパーはその言葉を聞き逃さなかった。
彼女!
そう、彼には彼女がいる。当然よね。きっと可愛い女の子なんだ。
「難しいことばかり言っているとフラレますよ」
ペパーはそう言いつつ、心の中では逆を願う。
「ええ、実は先週大喧嘩をしてしまって。それ以来顔を見てないんです」
え、それはチャンス!
と思うも、もちろん表情には出さない。
「この巨大なリング状の施設の中心には何があるんですか?」
プライベートには全く興味がないと言うように、急に話題を変える。
まだ彼女のことを話したかったのか、一瞬メースは口をぽかんと開ける。そ
して我に返ったようにペパーの質問に答えた。
「中心には開発中のマイクロ・エムがあります」
「マイクロ・エム?」
何だか怪しそうね。それが攻撃装置?
「マイクロ・エムはコンパクト化された次元の襞を突き進む装置です。次元の
襞はカラミ/アウと呼ばれていて、量子テレポーテーションのカギを握ってい
ると考えています。つまり、この襞を縫うように突き進むことで瞬間移動がで
きるのではないかと考えている訳です」
「昨日、おっしゃっていたことですね。そのマシンを見せていただけますか?」
その言葉に、メースは少し顔をこわばらせた。
ほら、やっぱり。ヒットね。このマシンが攻撃装置なんだ。
「いいですが、研究室の扉が開きません」
「は?」
「中から鍵がかかっていて、研究員が出てこないんです」
「それは不穏な行動ですね」
メースの表情が曇る。何かを隠している。ペパーはそう確信した。
「マスターキーがあるでしょ。それでは開かないのですか?」
「そうですね。それはもちろん、物理的には可能です」
なんだか歯切れが悪い。ますます怪しい。ぜひとも見なければ。
「開かない原因は、ぼくにあるんです」
「?」
俯きながらメースは呟くように言う。
「中には彼女がいるんです。ぼくと喧嘩して、出てこないんです」
はあ……。
どっと疲れが出た。
痴話喧嘩かぁ?
「この都市はどうなってるんですか? 研究施設が個人的な喧嘩で出入りでき
なくなるのですか?」
ペパーは呆れたことを強調するように天を仰ぎ、両手を広げて見せた。
「す、すみません」
ペコリとメースは頭を下げた。
その時、不意にペパーの頭に妙案が浮かんだ。
そうだ、この機会に彼女を施設から追い出そう。そして彼と別れさせてやる!
ああ、なんて私はイヤな女! こんなことが頭に浮かぶなんて。
ニヤリとしたと思った次の瞬間には、ペパーは額に手を当てていた。
「どうかされましたか?」
「いえ、何でもありません」顔を赤らめながらペパーは続けた。
「世界調和省か
ら来たと言えば開けてもらえますよね」
「それは、もちろん……」
自信な気に頚を縦に振るメースにペパーが近づく。
「開けなければ、私の権限で、彼女をこの施設から追放しますよ」
そう囁くように言い放った。
ああ、言っちゃった。私としたことが! 本能には勝てない。こんなことを
言ったら、権力を傘に着たイヤな女だって思われちゃうじゃない!
なのに私ったら、何でこんなことを言っちゃったんだろう?
私の口のバカ!
悔やみながらペパーは唇を自分の親指と人差し指で挟んだ。
メースは眉間に皺を寄せ、アヒル口になったペパーの顔を凝視する。
「調停官……」
慌ててペパーは手を降ろし、作り笑いを浮かべた。
「今のは冗談よ。私にはそんな権限なんてありませんからァ」
妙に媚びたような声が出た。
これにもまた、ペパーは自分で驚いた。
何て声を出すの。まるで盛りのついた猫みたい。ああ、私、どうしちゃった
んだろう?
「可愛いですね」
「?」
笑顔でペパーを見つめるメースと視線が交わる。
今、何て言ったんだろう? 聞き間違い? 可愛い?
も、メース様、私をからかってるの?
心臓がドキドキしている。
まさかね?
それと
メースの笑顔がすぐそこにある。少し香ばしい汗の匂いも漂ってくる。爽や
かな香り。髪の毛に麝香でも少し着けているのかしら、謎めいたいい香り。
「何とおっしゃいまして?」
ぴしゃりと言う。
「いえ、あの、気になさらないでください。独り言ですから」
気まずそうにメースはそう言って、俯く。
まるで少年ね。カワイイ!
弾み車のように彼女の頭は猛烈な勢いで回転していた。妄想が爆発している
のだ。
気を鎮めなくっちゃ!
へんよ、私、へん。
咳払いをして、ペパーは気持ちを抑さえ込む。
「とにかく、そこへ案内してください」
小さな軌道車に揺られ、しばらく行くと問題の扉が見えてきた。
さあ、出てらっしゃい。攻撃装置! 私にとってこの扉の向こう側にある物
はいずれにせよ攻撃装置なのよ。
扉の横に設置されている通話器のレバーを下げる。ビーと無骨な音が響く。
しばらく待つが反応がない。ペパーと目を交わしたメースは、ほらね、という
ように眉毛を上げる。もう一度ペパーはレバーを下げ、そして間髪入れず、自
分の身分と名を名乗った。さらに三回、扉を叩く。「開けなさい!」
渋々、といった感じでゆっくりと扉が開く。向こう側に見えたのは、ペパー
が予想していた以上に可愛い女の子の顔だった。
ズキューンと衝撃が走った。
や、ら、れ、た……。
最強の攻撃装置!
奉働もそっちのけで、ペパーは頭を項垂れた。
「どうかされましたか?」
可愛い、鈴の音のような声がペパーを気遣う。
いい子ね。外見だけじゃなく心も綺麗。しかも素粒子だか何だかの研究もす
る才媛。普通の女の子ならともかく、頭のレベルでも完敗、ルックスでも完敗!
重力が何十倍にもなったかのように感じられた。
もういい。もう、帰りたい。
ペパーは心の中でシクシク泣きはじめた。
「ペパーさん、彼女がバニラ=気持ちを明るく、です。マイクロ・エムの開発
責任者です」
それから様々説明を受けたが、ペパーの頭には何一つ入ってこなかった。ひ
たすら敗北感に打ちのめされ続けていたのだ。
重い足を引き摺り十分ほど歩いた頃、伽藍としたドーム状の部屋に三人は足
を踏み入れた。
「これがマイクロ・エムです」
真っ白な機械を指差しバニラが言った。
直径三メートルほどの輪が聳え立ち、輪の中心を全長五メートルほどの筒状
の装置が貫通している。複雑な形状の装置だった。マイクロと言ってもかなり
大きい。
敗北感に打ちひしがれつつも、ペパーはバニラの説明を憶えていた。輪が正
電荷と負電荷のバランスを崩し、時空の襞を生成する。次に中心の筒がビーム
を放射し、襞に穴を開ける。その穴を通り抜けることで瞬間移動が可能になる
という。
「立派な装置ですね」とペパーは意味不明の感想を述べた。
何と応えてよいのかバニラも少し困惑を覚え、
「ええ、北アルディカの都市オ
ルニアから技術支援を受けて、ここまで完成させることができました」と、自
らの研究成果を誇ることなく他者の協力を讃えた。互助互恵社会ではよく使う
言い回しだ。
何が喧嘩の原因なんだろう? 場違いな方向にペパーの思考は向かっていた。
こんなに完璧な女の子との間にどうして喧嘩する原因が生まれるのか? 一週
間も扉を閉ざし籠り続けるほどの大喧嘩の原因って何だろう?
敗北感から徐々にペパーは立ち直りつつあった。それどころか、バニラの人
柄に共鳴し、いい友だちになれればと思うようになっていた。二人がずっと仲
良く幸せに暮らせるように応援したい気持ちでいっぱいになってきていた。
ペパーはふっと顔を上げ、バニラを見つめた。澄んだ瞳に見返され、ペパー
はやさしく微笑んだ。
「仲直りしなくっちゃね」とペパーは言った。
「は?」とバニラはきょとんとした表情を浮かべたが、すぐに理解し顔を赤ら
めた。「メースが言ったんですね。申し訳ありません」
「謝る必要なんてありません。でも、感情的になって公的施設を封鎖するのは
如何なものかとは思いますがね」
バニラは素直に頷いた。
「研究の方向性でちょっと食い違ってしまって。私が折れれば良かったんでし
ょうが、譲れなくて……。でも、彼が言うこともありかなって」
細かな事情は量りかねた。しかし二人は和解の道を歩み出そうとしている。
「この装置を動かすことはできますか?」
ペパーの質問に二人は顔を見合わせた。少し空気が澱む。
何だろう?
「まだ、開発中なんでしたよね。でも作動はするんでしょ?」
「完成はしていませんし、試作段階で襞の生成も不安定です」
メースが答えた。
「それに……」
バニラが口籠る。
「何ですか、バニラさん?」
「マシンを作動させるエネルギー体を使い切ってしまっていて」
「エネルギー体? ゾンデ界のライデンを使っているのではないのですか?
確かメースさんは世界最大級のアース管が五つもあるっておっしゃってました
が?」
「時空を歪ませるためにはそれでも足りなくて、コアという別のエネルギー体
も使用しています。でも、それは私たちには開発できなくて、オルニアの研究
機関からいただいているんです」
そばにあった黒い容器をバニラは手に取り、三角のマークが描かれた重い蓋
を開け、空っぽの中身を見せた。
「これを使い切ってしまったと?」
ええ、とバニラは頷いた。
可愛い香りが漂ってくる。
可愛い子っていいなあ、とペパーは無脈絡に思う。何をしても可愛いんだか
ら。ただ頷くだけでも可愛い粒子を撒き散らす。それに引き換え私なんか、歩
くだけで地味菌を撒き散らすといじめられたものだ。
だから私は頭で勝負しようとした。沢山勉強して、世界を救うような大きな
奉働をする人間になってやろうと決心した。頭脳で、自分をいじめた奴らを見
返してやる、と。でも、その頭脳も、目の前にいるバニラには敵わない。彼女
の方が私より数倍賢い筈だ。そして、何倍も可愛い。
ああ、人生って残酷! 地味女には恋愛を勝ち取る方法すらない。
ふと我に返り、ペパーは自分を見つめる二人の視線を感じた。
「あ、あの、何でしたっけ、コアですか、それをオルニアに頼めばいいんじゃ
ないですか?」
メースが深いため息をつく。そしてバニラが諦めたような表情を浮かべて答
えた。
「コアを渡す代わりにマシンの設計図を渡してほしいと言うのです」
「渡せばいいじゃないですか?」
「それはそうなんですが……。そうなんです、そうなんですよね。渡せばいい
んですよね、わかります」
自分を納得させるようにバニラは何度も頷いて、そう言った。
「互助互恵の社会にあって、それは特別なことではない筈。すべてはみんなの
ものでしょ。そして、あなた方もオルニアからコアをいただいているのなら、
なおさらじゃないですか。それとも、オルニアはアルディカ大陸の都市で、ベ
ルム族だから渡さないと?」
「いえ、私は決してそんな偏狭な意味で言っているのではなくて……。ええ、
そうですね。これから彼らに連絡を入れます」
「そうしてください。世の中の基本は一歩譲ること。そうすればすべては丸く
収まります」とペパーは言い、このことが二人の諍いの原因だったのではない
かと察しをつけた。
「それではこのマシンは今は動かないのですね。コアが来る
までには、ええっと、オルニアは北アルディカ大陸の西岸だから三、四日はか
かるでしょう。私には待つ時間がありません。ここの見学はこれで結構です」
※
一時間後、ペパーは与えられた宿舎にいた。
「もう、今日の奉働は終わりですか?」
アゲートが、ソファーに横たえるペパーを見おろしながら尋ねた。時計は三
時を差していた。
「疲れたの。とっても疲れたの」
ぶっきらぼうにペパーは言い放った。こんな言葉遣いでもアゲートは決して
怒らない。それがわかっている。甘えか? 甘えだ。でも、だから何よ。別に
アゲートを傷つけることもない筈だし。言い放った方がストレスの発散になる。
地味女にはストレスのはけ口が必要なのよ。
そして、ペパーの愚痴タイムがはじまった。
気づくと夜の帳が落ちていた。
「それで、ペパーさん、あなたはメースさんを手に入れたいのか、任務を成就
させたいのか、どちらなんですか?」
「どっちもよ!」
ふう、とアゲートはため息をついた。
「相変わらずですね。でも、メースさんにはバニラさんという恋人がいるんで
しょ。しかも可愛くて聡明。どう客観的に見ても……」
「うるさい! みなまで言うな!」
どうせ、見込みのない片想いよ。でも、二人は喧嘩をしている。この喧嘩の
行方を左右する鍵は私が握っていると言ってもいい。バニラさんをトバすこと
はできなくても、メースさんをあの研究から遠ざけることは可能だ。アグライ
アとの調停をこじらせればエムの研究も中止に追い込めるのだから。目標をな
くした彼は失意のどん底に陥る。ステラから追放されるかも。その時、私がユ
ネイブに誘うのよ。そうすると二人の生活がはじまって……ムフフ♡
「ペパーさん、何を考えてるんですか?」
ボム、とペパーの妄想が霧と消える。
「もう、うるさいなあ。想像ぐらいさせてよ」
「勝手な妄想は構いませんが、明日が刻限でしょ」
「あ! そうなのよね。そうなのよ! どうしよう。ね、ね、アゲート、どう
しよう。何かいいアイデアはない?」
「そんなことを急に言われましてもねえ」
「もう、この役立たず」
ペパーは俄に腕を組んで部屋をうろうろしはじめる。
「あのスケベ室長、しっかり刻限だけは切るんだから」
「奉働はキッチリしているってことではないですか」
「それが気に食わないの。スケベならもっとルーズであるべきよ」
「スケベ人間がルーズであるという法則はありません。また、スケベでルーズ
なら彼は室長にはなってないでしょう」
そんなことは今はどうでもいい。調停案を考えねばならないのだ。ステラの
長老たちにも妙案が浮かばないようだ。
困ったなあ。
うろうろするペパーにアゲートが「そう言えば」と一枚の紙片を二本指で挟
んで見せた。「このようなメモに先ほど気づきましたが……」
会話の流れから、調停案のヒントでもあるのかと思い、ペパーはその紙片に
飛びついた。しかし、それを読むや怪訝な表情を浮かべた。
「何よこれ? 困ったことがあれば、お気軽にご相談ください。白馬の才子よ
りって?」
アゲートは頚を傾げて見せる。
「コールサインがありますから、通信してみては?」
「新手のナンパ?」
「あなたを?」
「通信だと顔は見えないわよ」
「でも、メモを寄越しているから顔は知っているかも」
「じゃあ、私に一目惚れしたのかしら?」
アゲートは肩を竦めた。
「何よ、私だって誰かのタイプなのよ、きっと」
「はい、それは否定しません。あくまで可能性としては。ファンができてよか
ったですね」
「気に食わない言い方ね。でも、いいわ。事実を確認してみる。コールすれば
明らかになりますからね!」
言うが早いかペパーは隣の部屋へ行き、バタンと扉を閉めた。
小一時間ほど経った頃、ペパーは足取りも重く部屋を出てきた。
「どうでしたか?」
笑みを浮かべながらアゲートが訊いた。
「白馬の才子という人はいたわ。でも、答えははぐらかされた」
当然、と言うようにアゲートの唇は大きな半円を描いた。その半円がペパー
には信じられないほど大きく見えた。まるで、顔じゅうが口になったよう。
気を悪くしたペパーは通信機から打ち出された用紙をハラリと捨てると、バ
ルコニーへとゆっくりと歩みを進めた。
ヤレヤレと思い、アゲートはペパーが落していった紙を拾った。彼もバート
ラとしての嗜みで、穿孔文は読める。
『はじめまして! 私は白馬の才子。才子と自ら名乗るからにして、かなりの
自信家。あなたと同じ。だから、あなたの悩みに答えて助けてあげたい。でも、
ここで安易に答えを伝えても、あなたの成長にはプラスにならない。だから、
本当に困った時だけ現れましょう。もう少し、努力してみませんか? あなた
の自慢は頭脳なんでしょ? 今回はあなたに声援を贈るだけにしておきます。
本当に困れば、その時は手助けしましょう。そんな人がいるって思っただけで、
心にゆとりができるでしょ。そんな存在として心に仕舞っておいていただけま
せんか?
「それじゃあ、あなた、役立たずね」と思われるのも心外なので、ちょっとヒ
ントを。リラックスしましょう。束の間、奉働を忘れましょう。ボーッとしま
しょう。効果的なのは外に出て、新鮮な空気を胸いっぱい吸うこと。天を見上
げ、暫く目を瞑る。そうすると、きっと素敵な答えが見つかりますよ。
問題が解決したら、また、お便りください。いつでもあなたのご相談に乗りま
すよ。
あなたの白馬の才子より』
穿孔文を読み終えると、アゲートは紙を丁寧に二つに折って、壁際の文机に
置いた。
バルコニーの先端に立ち、天を仰ぎ、両手を広げているペパーの姿が見えた。
白色の薄手の部屋着が静かに風になびいている。漆黒の空。空気が澄んでいる
せいか、とても星々が綺麗に見えた。
その時、あっとペパーが叫んだ。
白馬の才子に言われたようにペパーは心を鎮め、満天の星空を仰ぎ見た。そ
して目を瞑る。何も考えないようにしようとしたが、自然とメースの顔が浮か
ぶ。「ああ、メース様」とため息まじりに彼の名を心の中で呟く。
永遠の愛を誓い合うってとってもロマンチックね。彼は私をコントレンヌに
選んで、契約を交わしてくれないかしら?
いいえ、とペパーはかぶりを振る。バニラさんと契約を結ぶに決まっている
……。
ゆっくりと瞼を開けると、星空にメースの顔が残像として映る。
星を辿る。何となく彼の顔。
星は永遠に巡る。
永遠に……
「あっ!」とペパーは叫んだ。そして呟いた。
そうよ!
そうなの!
私は、
できる女、
なのよ!
一件、ソリューピョン♡
ペパーは駈けるように部屋に戻り、鞄から特製のメイク用タブレットを取り
出した。裏蓋を開け、小さく作られたメイク道具を机に並べる。そして裏蓋を
支えにしてタブレットを立て、ミラー面に向かい精神を集中させる。
半時間ほど格闘した末、仕上げに頬骨のラインに少し青をのせ、ラメを振る。
「ほーら、メイク、決まったぁ。名付けてスターダストメイク!」
少しミラーから離れ、顔全体を確認する。
「うん。フルメイクペパー、できあがり!」
黒地に金の装飾を施した長衣、ステラの正装にピッタリだ。
満足気に頷くと部屋を出ようとし、戻る。
「おっと、忘れるところだったわ。流星型のイヤリング!」
耳の三分の二ほどのところでカットされた髪の下で、細いシルバーのライン
が幾本も重なるイヤリングがキラキラと輝く。