本編 第四章_PDF - Akira Togawa

第四章
約束事
北柳の言葉が亮二に重くのしかかっていた。
「浅賀、おまえナオミとやらなかったのか、いい身体してるからな、考えただけでもゾクゾクするな」
暗闇の中で聞こえる音は夜の音、見える明かりはモニターの明かりだけだった。
「また呼びましたね」
「やはりもっと知りたいんだ、何があったのか」
「あなたが知るべきことはたくさんありますよ、これも知っておくべきだと思います」
女たちの嬌声に混じって聞こえてきた声に聞き覚えがあった。
「この間連れてきたお客さん、覚えてらっしゃいます」
「どいつのことだ」
「ほら国交省でしたっけ、お役所の方で、お好きな方」
「あの野郎、どうしてもナオミがいいって言うから無理やり連れて帰らせたんだ、しかもホテル代まで
握らせて」
「北柳さんの本心はどうなのかしらって思っちゃったわ、面倒見が良すぎよね」
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「俺は人に幸せを与えたいと思ってるんだよ、皆が楽しく愉快に暮らせるようにな。どうだ、これから
飯でも食いに行くか、その前にナオミちゃん、1曲踊らないか」
男はダンスフロアーへ上がったとたんにナオミを抱きかかえるように両手を腰にまわすとナオミの剥き
出しになった肩のあたりに頬擦りしそうになっていた。
「先週、俺が連れてきた浅賀って覚えてるかな、今度彼を連れて来るから」
「浅賀に惚れてるんだろう、間違いなく連れて来るよ」
ナオミの腰を抱いていた男の手が下へ降りて行った。
「今度浅賀を連れて来たら浅賀と二人きりでいいことすればいいじゃないか、俺からママに言っといて
もいいよ。だから今日は俺と一緒に食事へいこう、ママと黒川も一緒にね」
「かわいい唇してるね、一度キスしてみたいと思ってさ、1回ぐらいいいだろう、減るもんじゃないし、
それはそうと先日の国交省の奴どうだった、一緒に行ったんだろう」
あんな図々しいやつを連れて来るんじゃなかった、俺だってまだこの身体に触ってもいないのに。
今日こそは、男は半ば涎を垂らしそうになりながら、
「いいんだよ、ママに言われた通りやってれば、だから今日は・・・」
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男は不自然なぐらい身体を密着させて、かれの太腿がナオミの下半身に触れるごとに彼のものが硬くな
っていくのが、亮二には感じられるような気がした。
自分の股間へ手をやってみる。淫らな想いが襲ってくるような気がした、夢の中の連続した絵図のよう
にこれでもかこれでもかと亮二にのしかかって来た。
映っているのは料亭の座敷のような場所だった。
座敷のふすまが開いて女将らしき中年の女が現れた、
「いつも御贔屓にしていただきありがとうございます、また今日は一段ときれいなお嬢様とご発展なこ
とで、いつもお若くて本当にうらやましいかぎりですわ」
「女将こそ、商売繁盛で不景気知らずでしょう、うらやましいのはこちらのほうですな、今日も美味し
いものを頼みますよ」
「お任せください、ではまずはおビールからにいたしましょうか」
「いや、もう大分出来上がってるから食い物を頼むよ、あと水割りと、それから女の子にはいつものや
つを頼んだよ」
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「ええ、ええ、承知いたしております」
女将は腰を上げて部屋を出ていく際に若い女の方をじろと見た、餌食の品定めをするように。
それからは他愛もない話が続き、ほどなく料理が続々と運ばれてきた。
場は明るく、すべてが和やかに進んでいるようだった。どこにも企みや秘密は隠されていそうになかっ
た。
しかし男にとっての今晩のごちそうはあくまでもナオミだった、男は今晩ナオミをただで帰すことなん
てこれっぽっちも考えてもいないのだろう。ママも当然そのことは知っていたし黒川も薄々分かってい
た。もちろん料亭の女将はよく承知しており、いつものように2階に寝床まで用意させていた。宴が始
まって 1 時間を過ぎたころ、ナオミに2杯めのスペシャルドリンクが出された、少し甘めの液体とシェ
イクされたソーダが喉に心地よく吸い込まれていく、とともに身体がだるくなっていくのが感じられた、
身体が熱く、ほてりが残るような、眠気が襲ってくるような感じさえした。周りの人の話し声が徐々に
遠のいていくように感じられた。
「それじゃあ、私はそろそろ失礼しようかしら、お二人のお邪魔はしたくありませんからね」
「いやいやまだいいじゃないか、これからだよ、面白いのは」
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「何回も見せられてますからもう結構よ、黒川さん、よかったらあなたは残っていらしたら」
「もちろん私も帰らせてもらいます、明日も朝から仕事がありますので」
「じゃあ残念だけど、この子がこんな具合だから、面倒見てやらなくちゃあ」
と言って男はナオミを舐めるように見てから、
「黒川君帰りに誰かよこすように言ってくれるか」と言ったまま一人で酒を飲み始めた。
「それじゃあ、お先に失礼します、お楽しみのところをご一緒できなくて残念ですけど」
ママは立ち上がってふすまを開けて、まだ未練が残っていそうな黒川を追い立てるように出て行った。
画面には引き込まれるような魅力があった。この先どうなるのかを見たくなるような魔力も備わってい
た。
部屋には1組の布団が敷かれ、若い女が寝かされていた。
部屋に入って来た男は上着を脱いで、部屋の隅に用意されているハンガーにかけ、衣装籠を手前に引き
寄せてワイシャツと靴下を脱いだところで女の横に添い寝するように横たわった。
男がごくりと生唾を飲み込む音が部屋に響くように感じられた。
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右手を女の身体に沿わせた男は悶えるように女に抱きついた、まず唇に続いて首筋から胸へと自分の唇
を這わせていった。
「ああ、いい気持ちだ・・・」
「ブルルルルル、ブルルルルル」
男の心臓の鼓動しか聞こえなかった部屋の中に、突然携帯電話の震動音が響き渡った。
「何だ、今頃、真夜中じゃないか」
出ようか出まいか男の顔に一瞬の迷いがあった。お楽しみを取り上げられそうになった子供の如く不満
そのものだったが、立ち上がって部屋の隅のハンガーにかかっている上着のポケットから携帯電話を取
り出した。画面を見て納得したのか、
「ん、俺だ」
「えっ、何?
今仕事の打ち合わせが長引いてるんだ、今日は帰れないかもしれない」
「えっ、何だって?」
男の顔色が変わった。
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「お義父さんが倒れたって、どうして?
それで大丈夫なのか」
「分かったよすぐ帰る、タクシーなら拾えるだろう、お前はすぐ病院へ行きなさい、俺も直接病院へ行
くから」
「打ち合わせか?
後は若い者にやらせておくから」
「分かった分かった、すぐ帰るから」
男は携帯電話を切って、
「畜生何てことだ、よりにもよってこんな時に」
と言いながらも恨めしそうに女の寝姿を眺めていたが、今夜は諦めざるを得ないと覚悟したのか、衣装
籠からワイシャツを引っ張り出して腕を通し始めた。最後に背広の上着を着て、部屋の隅の鏡でネクタ
イを改めた後、女の上掛けをかけてやってから、備え付けのブザーを押した。
「お呼びですか」年配の仲居が遠慮気味に現れて、
「何かご入り用の物でも・・・」
「いや、私はちょっと急用ができたんで今から帰りますから、お嬢さんが起きたらタクシーを拾って帰
してやってもらえるかな」
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と言って、背広の内ポケットから札入れを抜き出し、中から1万円札を2枚取り出して年配の仲居に掴
ませた。
「いつもいつもありがとうございます、後はわたくし共でやっておきますのでご安心ください」
「それじゃあ頼んだよ」
と言い置いてそそくさと部屋を出て行こうとしたが、出がけにもう一度女の寝顔を見て何やらぶつぶつ
言葉にならない言葉を口ごもっていたのだ。
ただ単にこの先を見たかっただけだ、しかしプロメテウスの考えは少し違うようだった。
「続きを見ていただく為にはちょっとした約束事を守っていただく必要があります」
「約束事?」
「プロメテウスは人間の営みについてありとあらゆる事象を見てきています。それらの中には称賛され
るべきものもあれば、悲しむべきものもあります、憎むべきものもあります、更に言うならば人間の行
為として許し難いものも多数あるのです。プロメテウスはこれらの許し難い行為を行う人間に対して常
に正義を行いたいと強く願っているんです。しかし残念ながらプロメテウス自身の力だけでは何ともし
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難く、人間の協力なくしては正義が行えない状態なのです。
これからお見せする映像はプロメテウスのバージョン4と呼ばれるプログラムに因っています。
このバージョン4においては、あなた自身の感情がプログラムに影響を与えることになります。つまり
あなたの感情が大きくブレるようなことがあれば、物語は意外な結末を迎えるかもしれないのです。
私自身にも先のことは予測がつきませんが、怒りであれ、悲しみであれ、喜びであれ、あなたの感情の
起伏がもたらす重大な結果はあなた自身に責任を取って頂かなくてはならないものです。それ故続きを
見て頂く為にはあなたにとって大切なものを担保していただく必要がありますが、宜しいでしょうか」
「言っていることは分かるが、僕に何を担保しろと言っているんだろうか」
「理解していただければ十分です、あなたにとって大切なものが何かはあなた自身が決めることですか
ら」
「よく分からないけど、まあいいか」
亮二は安易に納得したが、その結果についての責任は安易に取れるものものではなかった。
「ではこの先をご覧ください」
プロメテウスが亮二に見せたものは、現実世界のものでは無かったのかもしれなかったが、亮二の頭の
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中では更に残酷さが加えられようとしていた。
亮二は魔女の火あぶり刑を思い起こしていた。プロメテウスによって暴かれた康雄の醜悪な行動を罰す
る方法としては火あぶりの刑が妥当と思えたのだ。
男は酔っていた、夜しかも雨が降っている中で足取りの覚束ない男に女が傘を差しかけていた、女が手
を挙げてタクシーを停める、タクシーのドアが開いて男は女に押される様に後部座席に乗り込んだ。
「三鷹までお願いします」女が男の代わりに言った。
「承知しました」マスクのせいか運転手の声はくぐもっていた。
車はドアを閉めて夜の街へ走り出した、黒のロングドレスの女はタクシーが走りだすのを見送っていた。
「この車仕切りがあるんだね、珍しいね」
「日本で見るのは初めてだな、アメリカじゃイエローキャブなんかみんなそうだけどな、日本もそのう
ちみんなそうなるのかもしれないな」
男は気持ちよさそうに後部座席でリラックスして少し斜めに足を組んで腰かけなおした。
運転手が「便利なこともありますし」と言ってにやりと笑ったが、後部座席からは見えなかったようだ。
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「そうだな」と男は言ったものの、すでにその話題には興味をなくしたようだった。
男は上着の内ポケットから携帯電話を取り出して、メールを確認していた。
メールの確認作業が終ったところで、メールから電話機へと役目を変えた機械を耳にあてた。
呼び出し音が3回続いた後、
「ル・ジタンですが」
「ママいるかな」
「お待ちください」
男はママが電話に出てくるまでの間、無意識に車外を流れていく景色を見ていた、何か新鮮なものでも
見ているような感覚で。
「いや~だ、どこからかけてるの?」
「タクシーの中だよ、横浜でちょっとあってな、まっすぐ帰るところだけど急にママの声が恋しくなっ
てね」
「嘘、嘘仰い、そんなことでわざわざ電話してくるなんて思わないわよ、何かあるんでしょう」
「嘘じゃないさ、君が耳元でささやいてくれるのをいつも楽しみにしてるんだ」
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「あら、何てささやけばいいのかしら」
「そりゃあ『抱いて』とかね」
「まあいやらしい、そんなことしか考えてないのね。それより何よ、本題は何なの?」
「さすがだな、女の感は恐ろしい、ちょっと確かめておきたいと思ってね、自殺したっていう女のこと
で刑事がやってきたって聞いたけど、何を調べて行ったんだ、まさか俺の名前なんか出てないだろうね」
「さあどうかしら、刑事さんにそれらしいこと聞かれたから」
「本当か、本当に聞かれたのか?」
「嘘よ、心配しちゃった、ごめんなさい」
「なんだ冗談か、びっくりするじゃないか、地検捜査との関連を疑われるとやばいかもしれないと思っ
たんでね」
「ちょっと脅かして見ただけよ、でも案外小さいのね、大丈夫よ、今のところ何も言ってないから」
「おいおい待てよ、おれは何にもしてないんだよ、言っただろう、あの時はたまたまうちのやつの親父
がひっくり返っちゃって、いいところではいさようならっていうわけで」
「聞いたわよ、残念だったわね、でもそこまででもいい思いしたんだから、多少の心配は罪滅ぼしなん
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じゃないかしら、それにその話、証拠は無いし」
「あんな女のことで、サツに疑われちゃたまらないよ」
「何を仰ってんのよ、楽しんでたくせに、いい身体してるいい身体してるって」
「うん、それはそうなんだが、あんな女のことで疑われるのは御免だからな。親父に何て言われるか、
今は大事な時期なんだ。それが証拠に国交省のやつに・・・」
「そういう女の子を預かってんのは私ですからね」
「あんたにはいろいろ世話になってるからな、頭が上がらんよ」
「私はかよわい女よ、北柳様に支えていただかないととてもやっていけないの」
「なに言ってんだ、この女狐が、ハハハハハ」
言って男は大笑いして不安を吹き飛ばした。大笑いしたことで目が正気になったのかもしれない、見慣
れない景色が車窓を流れていた。
「君?」前の座席の背中を掴んで運転手の方へ近づこうとした。
「じゃあ今晩はまっすぐお帰りになるのかしら」
「ああ君の夢でも見ながら寝るしかないようだな」
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「じゃあ明日またお待ちしてるわ、愛をこめて、お休みなさい」電話が切れた。
男は思い出したようにもう一度車外の景色を確かめて見た。
「君?
道が違うんじゃないか」
車がどこを走っているのか男にはまったく分からなかった、田舎道を走っているということだけはわか
るが、ここはとても東京都内だとは思えない景色だった。
運転手の男は何も答えない。
「君、どこへ行ってるんだ、俺は三鷹へやってくれと言ったんだよ」
男は自然に前の座席に手を伸ばした、しかし前の座席の背中を掴むどころか男の手は前の座席との間の
透明な仕切り板にぶつかるだけだった。
そして仕切り板の中央、右と左の座席の間に開いていた空間にシャッターが下りて今まさに閉じようと
していた。男は次の瞬間ドアに手をやろうとした、とその時だドアロックがガシャンと音を立てて下り
た。
「何だこれ、君どういうつもりなんだ、俺を誰だと思ってるんだ」
運転手の男は何も言わない。
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「止めろ、ドアを開けるんだ、何をするつもりだ」
「止めるんだ、こんな子供だましのようなことを」
その時、車のスピードが急に落ちた、田舎の道ではあるがそれまでは舗装されていた、しかし右にカー
ブして狭いたんぼ道のようなところへ入り込んでからは車は大きく左右にそして上下に揺れた、そして
広い野っぱらのようなところへ出て左折、また細い道に入り、今度は雑木林の中へはいって行った。周
りは真っ暗な闇に包まれている、もちろん人っ子ひとりいるわけがない、ほとんど山奥のようなところ
で人家の明かりもまったく見えない、でも車は何処かへ向かっていた。男は初めて恐ろしくなってきた。
「そうだ、携帯電話だ」
男はさっき上着の内ポケットに仕舞った携帯電話を静かに取り出した、一瞬考えてからメールを打つこ
とにした。
(助けてくれ)と入力して、送信ボタンを押した。
「送信中」のメッセージが消えない、なかなか消えない、いらいらしてきた、
「早く行け」
(電波状態が悪く送信できませんでした、電波状態の良いところで再送信してください)とメッセージ
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がでた。
「携帯は通じないよ」
運転手の声は甲高く無表情だった。
「畜生こんなことをして、何が目的なんだ」
「金が目当てなのか」
背広の内ポケットから財布を取り出した。
運転手は何も言わず、運転に集中しているようだった。
「何故何も言わないんだ、おれを誘拐しようとしているのか」
車は山道を登っているようだった、枯葉や枯れ枝を踏みつける音に混じって、時折砂利を跳ね飛ばすよ
うな音がガツンと聞こえる、道は相変わらずデコボコだ、上下に揺れている、しかし男にとって乗り心
地は問題ではなかった。
「金じゃないとしたら、目的は何だ、何が欲しいんだ、何でもする、許してくれ」
男の声に恐ろしさからか泣き声が混じってきた、とその時男があることを思い出したような気がした。
「お前、もしかして・・・・」
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「もしかして、あ、あさが、浅賀か?」
「浅賀なんだな、何が目的なんだ」
男が確信を持って言った瞬間、車が急ブレーキをかけた。男は座席の前の方に身体を乗り出していたか
ら、急ブレーキにたまらず前の座席との間の透明な仕切り板に体ごとぶつかった。
男は相手が浅賀だと思ったことで少し自信を取り戻した、やつなら何とかなるはずだ、とにかくこの場
を逃れることだ、若いやつをカッとならせちゃまずい。
車は山道を登りつめたと見えて、少し開けたところへ出てきた、そしてスピードを落とし、ゆっくりと
停車した。前のドアが開いて、若者が降りてきた、野球帽を深めにかぶりサングラスにマスクまでして
表情はまったく見えない。
車の後部座席から男が叫んだ「これからどうするつもりだ?」
後部座席側の窓がスルスルと下がって、新鮮なそして冷たい空気が車内に流れ込んできた。
男は車の周りを見渡して、場所を確認しようと思った。
その瞬間、開いた窓から何かが投げ込まれた。
男が投げ込まれた物を見ようとした時、窓が閉まっていくのが感じられた。そして投げ込まれた缶のよ
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うなものから激しく煙が出てきた。
男が再び気がついたときは椅子に座らされていた、手も足も椅子に縛りつけられて動けなかった。
「気がついたか・・・」
運転手の若者の声はぼそぼそとして語尾がはっきり聞こえなかった、男か女かもはっきりしない声だっ
た。
「お前、浅賀なんだな、どうしてこんなことを?」
「なぜ俺を恨んでるんだ」
何故か理由は分からないが、この若者は自分に対して恐ろしいほどの怒りを持っていると思わざるを得
なかった。その本当の理由を知りたいとも思った。
「知りたいのか」
浅賀の声とは違う。やはり浅賀ではないのか。
「何故なんだ、俺がお前に何かしたか?」
「何も」
「何も?
じゃあ何故?
俺の何が気に入らないんだ。これからどうするつもりなんだ」
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男には浅賀以外に思いつく人間もいなかった。
「お前は誰かの恨みを晴らそうとでも思ってるのか、誰の恨みなんだ」
若者は黙っている。男の言葉を無視しているのか、何か考えているのか。
「分かったぞ、あの女のことだろう。お前はやっぱり浅賀なんだな」
男は確信した。
「そうだったのか。しかしあの女は自殺したんだぞ」
若者は何も言わなかった。
「俺の責任だというのか、俺が彼女に何をしたというんだ」
男の頭を布団に横たわった女の身体が横切った、手足を縛られて自由にならない手に彼女の乳房のぬく
もりが蘇ってきた。男はにやりと笑ったのだ。
「浅賀、お前はあの女に惚れたんだな、でも何もできなかったんだな。かわいそうになあ、いい身体し
てるのに、残念だったな死んじゃったとは」
若者は黙っていた、月明かりさえも雲の間に隠れて真っ暗闇となった中でこの若者の表情は見えなかっ
たが、黙っていても怒りは伝わってくるようだった。
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「浅賀、女なんていくらでもいる、あの女のことなんか忘れろ」
若者の沈黙は続いていた。
「浅賀、許してくれ、お願いだ、女のことは許してくれ。お前のいうことは何でも聞く、頼む許してく
れ、俺にも家族がいるんだ」
若者の眼はもう男を見ていなかった、若者の耳はもう男の言うことを聞いていなかった、若者の心はど
こか遠い所へ行ってしまったようだった。
「浅賀、聞いているのか、俺は逃げも隠れもしない、俺が悪かった、謝るから」
若者が動き出した、車の後ろへ回ってトランクを開ける、中から赤い灯油缶を持ちあげた。
男の目玉がめくれ上がった。
「何をするつもりだ」
若者はただ黙って灯油缶のふたを緩め始めた。
「馬鹿なことはやめろ、そんなことをしても・・・」
若者はふたを外して、灯油缶を持ち上げた。
「殺人罪で一生逃げ回ることになるぞ、一生を棒に振ることになるぞ、やめろ、俺を殺して何が楽しい
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んだ、たかが女ひとりのこと・・・」
男がそのあとを言い終わらないうちに液体が男の全身を襲った、べっとりとした油が頭の先から、顔、
上着、腕、ズボン、靴にいたるまでを覆いつくした、強烈な匂いが鼻に食い込んでくる。
「やめろ、ここまでにしろ、今なら止められる、俺を殺して何の得がある、やめろ、止めてくれ、お願
いだ、女の命と引き換えなんかに・・・・」
灯油が十分に肌に、髪の毛に、衣類に染み込んだのだろう、マッチの火が男に向って投げられた瞬間、
あたり一面が真っ赤に染まるぐらいに炎は広がった。
「う、う、う、助け・・・・・」
ほとんど声も出せないぐらいの火のまわりようだった。
そして何もかもを焼きつくした炎は一気に収縮していった。
朝、いつも通り営業部のドアを開けて机に向かった浅賀亮二が、いつもと違う社内の雰囲気を感じるの
に、時間はかからなかった。
「常務が昨日から行方不明なんですって」
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「日曜日の朝、取引先とのゴルフに出かけてから行方不明らしい、家族からは昨夜中に捜索願いが出て
るそうだ」
「ゴルフ、で何処へ?」
亮二は聞こえてくる雑音を拾おうと努めていた。
その時「浅賀」と声をかけてくる人間がいた。
振り返ると黒川の姿があった、そう言えばここ数日黒川の姿を見ていない。
「浅賀、ちょっといいか?」
「久しぶりだな」
「常務のことだけど」
「行方不明だって」
「ああ俺も今朝になって知ったところだ。金曜日の夜は横浜からの帰宅途中六本木のママに電話したら
しいが」
「へぇ~、ずいぶん詳しいことまで知ってるんだな」
「お前と違って情報網があるからな」
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「常務のことは何もかも知ってるということか」
「お前の言ってる意味が分からないな、それよりお前はどうなんだ、その後」
「その後って?」
「もちろん彼女のことだよ」
「どういうことなんだ」
何故今彼女のことを、黒川の真意を測りかねた。
「まあ、分からなけりゃいいさ。しかし気をつけるんだな、女は怖いからな」
黒川はとぼけたが、亮二には彼の言葉に何かが隠されているように感じられた。
その時、事務所内に置いてあるテレビのまわりが急に騒々しくなった、誰かがニュースのボリュームを
上げたようだ、髪をアップにした女性アナウンサーがカメラにアップされていた。
「たった今入ったばかりのニュースによりますと、今朝早く栃木県XXX町の山林の中で50歳前後の
男性と思われる焼死体が見つかったようです。地元警察による検証の結果、死体は死後5~6時間を経
過しているとのことで、昨夜1時から3時ぐらいまでの間の出来事ではないかと推測されております。
現在身元の確認を急いでいるとのことですが、事件の背後関係などまだまだ不明な様です。
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一方、昨日から行方不明となっている国際的な石油会社である帝都石油の取締役北柳康雄氏ですが、身
体つきなど栃木県の焼死体に似通っている点もあることから、この焼死体が北柳康雄氏ではないかとの
疑いが浮かび上がっている模様です。この焼死体については自殺・他殺の両面から身元確認が急がれて
いますが、もし焼死体が北柳さんご本人だった場合、北柳さんには自殺する理由が見当たらないこと、
更に遺書・遺品等も残っておらず、現場には新しいタイヤの跡や靴跡が多数残っていること等からも、
北柳さんが何らかの形で事件に巻き込まれ、この場所に連れてこられて殺害されたのではないかとの疑
いも出ております・・・・・」
事務所内はシーンと静まり返っていた、あまりにも現実離れした展開に事務所内は誰しも口をきけない
でいるという様子だった。
「・・・ご家族の話によると、北柳さんは日曜日の朝早く取引先とのゴルフに自ら車を運転し相模湖カ
ントリークラブへ向かったとのことですが、相模湖カントリークラブ側では当日北柳さんのプレイ予約
も入っておらずまた実際にゴルフをされた形跡も無いとのことで、北柳さんが何らかの事件に巻き込ま
れたのではないかと思われます。栃木の焼死体事件並びに北柳康雄さんの行方不明事件につきましては、
このあと「ニュースの裏側」でも引き続きお送り致します」
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いつの間にか黒川の顔から笑いが消えていることに亮二は気づいた、黒川はテレビを見て茫然としてい
るのだ。
「どうしたんだ、何か思い当たることでもあるのか、細かいことでも何か気が付いたら警察に届けた方
がいいかもしれないぞ」
何が黒川を刺激したのか、
「冗談じゃない、警察なんて」
「ふ~ん、でももし何か知ってて隠してると、ばれた時にやばいぜ」
「浅賀、何を根拠に隠してるなんて言うんだよ、お前こそ何か知ってるのか」
ちょっと刺激し過ぎたようだ。
「いや、俺は何も知らない、常務ともお前ほど親しくないからな」
「浅賀、それは言いがかりというもんじゃないか、俺が北柳と2~3回酒の席で一緒だったからと言っ
て、行方不明の理由なんて知らないし、まして焼死体なんて、関係あるわけないだろう、言いがかりも
いいところだ」
「まあそう怒るなよ、何もお前が関係してるなんて言ってないさ、今日はここまでにしようぜ」
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黒川は「ああ」とぶっきら棒に言って去って行った。
一方警察には異常な緊張が走っていた。北柳一郎氏の死体が見つかってからまだ2週間と経たずして、
息子の康雄氏が行方不明となった。最悪の場合北柳家の親子が立て続けに殺害されるという事態に直面
することになる、連続殺人事件というおぞましい言葉が捜査本部全員の頭をかすめるとともに、警察の
捜査が十分な成果を上げていないのではないかというマスコミの格好の餌食になりかねなかった。
「まだ行方不明というだけだ、安易に殺しに結び付けない様に」
「しかしもし殺しだとしたら同一犯人の仕業だとしか考えられません」
「とにかく結果を待つしかないな、それで一郎のほうは何か無いのか?」
「一郎と対立していた専務のアリバイは確認できました、こっちははずしていいと思いますが」
「分かった。康雄と別れた女のほうはどうだ、こっちのほうがありだろう」
「女の身許は未だですが、もし子供が生まれているとしたら、聖母園という施設に関係あるかもしれま
せん。聖母園というのは北柳家が後援している児童養護施設のようですから」
「それにしても何故女が見つからないんだ、さっさと探せよ」
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「27年前のことですからね、そう簡単には」
「しかし、これが一番の鍵かもしれないんだよ」
「分かりました、康雄が焼殺されたとなると尚更ですね」
「おい、勝手に決め付けるなよ」
「ナツキさんというんですね」
「ええ、従業員の一人です」
ナツキに質問しているのは若い咲田刑事だった。
「それで、何か話があるんですね」
咲田の袖を引っ張ったのはナツキのほうだった。
「私の知ってることで、もしお役にたてればと思ったものですから」
「どういうことですか」
「3週間ほど前に自殺して死んだホステスがいるんです、名前はナオミっていうんです。彼女はフィリ
ピンから出稼ぎに来ていた子で、かわいいし、スタイルもいいし、それに性格もいいから、お客さんか
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らすごく人気があったんです」
「ああ、自殺者が出たということで私もアパートへ行きましたよ。死因は自殺で問題無かったと思うな」
「問題無かったって、彼女の自殺の原因て刑事さんご存知なの?」
咲田刑事は一瞬考えたが、
「いや私は」
「彼女ね、売春を強要されてたっていう噂なの」
「売春?」
「そうなんです。うちのママと北柳康雄で示し合わせて、国交省のお役人に提供したのが最初で、その
後北柳康雄自身が麻布の料理屋に連れて行って、その店の二階で無理矢理らしいのよ」
「女性はそれを苦にして自殺したということですか」
「もちろんそれだけじゃないかもしれないけど。それにもう一つ気になるのが、そういう場面に必ず居
合わせるのが黒川太一という男なのよ」
「黒川太一?」
「黒川太一っていうのは帝都石油販売の社員で北柳康雄の部下なのよ」
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「いつも一緒なんですか、ということは今回の事件についても、彼が何かを知っているのかもしれない
ということですね」
「多分。北柳康雄とママと黒川の3人で、ナオミに売春を強要していたんじゃないかしら。それを苦に
して、あんなことに」
「ということは北柳康雄の事件にもママと黒川が何らかの形で絡んでいる可能性もあるということか
な」
「そんなこと私には分からないわ、警察が調べることなんじゃないの」
「黒川はここへはよく来るんですね」
「北柳康雄が来る時はいつも一緒だったわ、そして必ずナオミをつけるのよ、彼のお気に入りだったか
ら。ママと黒川がそう仕組んでたのね」
「ママと黒川?
しかし黒川は客ですよね」
「それが不思議なの、黒川は客であって客でないような」
「ママと黒川は以前から知り合っているということですかね」
「多分。もしかしたら親子かも、いくらなんでもそれはないか。でもうちのママは・・・」
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「何ですか」
「いや、この辺で止めとかなくちゃ。私喋りすぎよね」
咲田にも彼女の駆け引きぐらい分かっていた、分かっていたからそろそろ引き上げ支度に入ったのだっ
た。
「あら、もう帰っちゃうの?」
「ええ、お話が無いんなら早く帰らないと、叱られますから」
「叱られるなんて小学生みたいね」
「別にそういうタイプの叱られ方とは違いますけど」
ナツキが一段と腰を寄せてきた。
「洋子ママなんだけどね、表向きは生涯独身でもちろん子供もいないということになってるんだけど」
咲田もあわせるようにナツキとの触れ合いに応じざるを得なかった。
「一人か二人はいるんじゃないかと思うのよ、少なくとも一人はいるわね」
「もちろん自宅にお子さんがいるわけではないですよね」
「聖母園て知ってる、あそこで聞いてみた方がいいんじゃないかな」
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「どうして聖母園なんですか」
「だって北柳家のできちゃった子ってみんな聖母園に預けられるんだっていう話よ、たくさんいるんだ
って」
咲田はわざわざノートに書き留めるふりまでした。
「聞いた話じゃ、洋子ママの相手は一郎、康雄だけに限らないで他にも男がいるようだから、聖母園に
持ち込んだ子も父親が誰か分かったものじゃないかもしれないわよ」
*
*
*
つ
づ
く
*
*
*
135