諏訪考古学研究所 意識 し て 伊那考古学研究室

考古学研究所アルカ提供
NO.77
2010.2.1
Archaeological Laboratory,Co.,Ltd.
ARUK A News l et t er
*考古学研究所(株)
アルカは石器と土器の実測・整理・分析を強力にバックアップする企業です。
﹁諏訪考古学研究所
意識して伊那考古学研究室﹂
田舎考古学人回想誌
11
神村 透
藤森栄一先生の終の家旅館
「やまのや」
が人
最後は11 ∼12月の茶臼山遺跡発掘日誌で、
手にわたりこわされるという。年月の流れに
11月27日
「戸沢・松島現場に登る
(中略)
調査
くる無情を知り淋しく思う。が、
私にとっては
終了、帰所後河西、戸沢、松島、松沢は種々歓
「やまのや」よりも、先生が戦地から帰ってき
談。夜、藤森も交えて石器をおそくまで論じ
た昭和21年からの9年間住んでいた旧宅、
先
た。就寝2時」
とある。旧家の2階書斎か1階の
生の本『考古学とともに』に「湖の見える崖の
居間での談論でした。こんな研究所の雰囲気
中腹の小さな家」とある2階家の方に思いが
が大好きでした。
強い。
昭和26年、
今村賢司さんと相談して私たち
戦後の日本、
新しく見直された日本の歴史、
もと下伊那考古学研究室を開室した。夏に下
考古学の高揚期、
戦前の研究仲間杉原荘介・小
伊那郡誌編纂室が飯田市仲之町下伊那教育会
林行雄両先生が大学教授として活躍、
自分は
南別館に開室され、
市村咸人先生が常住して
田舎で商売人、
心の中でのジレンマの中でか
仕事していた。私は編纂室に入り浸り、
時には
かげた諏訪考古学研究所の立看板。私が足繁
泊りこんだ。南別館は江戸時代堀氏家臣の武
く通うようになった昭和25年は、
先生の本に
家屋敷で、その土蔵が先生の書庫で2階があ
よるⅡ期、
スポンサーになって高校生に遺跡
いていた。その頃、
私は授業をさぼって部室で
発掘体験、
書斎を開放して研究考察、
ガリ刷り
飯を炊いたのが火事騒ぎとなり、
部活停止と
であるが機関紙
『諏訪考古学』
の刊行と育てて
なった。部室に持ちこんだ遺物も追いだされ
い た 時 期 で し た。キ ヨ ミ ツ、タ コ、カ ジ カ、
た。先生に頼みこんで土蔵2階を下伊那考古
TON、
マッチャンがその仲間で、
TON
(戸沢充
学研究室とし、
遺物や本を運んだ。諏訪に負け
則)が中心でした。私も同人の一人となった
まいと読むのに苦労するガリ刷雑誌等も作っ
が、
月に一度訪れるのが精一杯で、
先生にとっ
た。私が大学生になって2年で終った。持ちこ
ては客人で、
本の中には出てこない。
んだ遺物は下伊那教育会教育参考館ができた
『諏訪考古学研究所日誌』の最初の一頁、
昭
時、
考古学資料室資料として寄贈した。
和26年2月18日
「松島(私)
・今村両君研究所
不思議な縁で、
中央道遺跡調査が昭和45年
訪問、
藤森、戸沢、松沢を交えて踊場式土器の
に始まった時、
調査団宿舎が教育会南別館に
様式構造に関して一日中議論止まず」
Ⅱ期の
おかれ、
調査主任の私は家族と共に郡誌編纂
室だった建物に住んだ。土蔵は調
査団図面保管所として利用した。
去年、善光寺御開帳に合わせて
御開帳 さ れ た 元 善 光 寺 を 参 詣し
た。その折に仲之町を訪ねたら、
主
屋は新しい建物になっていたが、
武
家屋敷門と土蔵は残っておりなつ
かしく見た。
▲諏訪考古学研究所の藤森家旧宅
▲下伊那考古学研究室の土蔵
※巻頭連載は隔月です。次回は「縄文の使用痕」です。
目 次
■田舎考古学人回想誌 諏訪考古学研究所 意識して伊那考古学研究室 神村 透 …1
■特別寄稿
■リレーエッセイ マイ・フェイバレット・サイト
(第70回)
相模考古学研究会の軌跡と月見野遺跡群(3) 矢島國雄 …2
高橋一夫 …3
■考古学者の書棚 『無文字社会の歴史―西アフリカ・モシ族の事例を中心に― 』古屋紀之 …4
1
A R U K A Ne wsle t te r No.77
特 別寄稿
―連載―
相模考古学研究会の軌跡と月見野遺跡群(3)
明治大学教授 矢島
國雄
相模野No.149遺跡の調査
月見野遺跡群の第2次調査が終わり、1969年度の授業が
始まる頃、前年から高揚し始めていた70年安保闘争や全国
の学園闘争が明治大学でも大きな動きとなり、学生集会や
デモの日々が続いた。アカデミズムの牙城である大学に対
する問いかけはきわめて真剣なものであったと今でも思っ
ている。考古学の世界でも、政治と経済エゴの犠牲となっ
相模野 No.149遺跡出土土器
ている遺跡の保護・保存の問題をはじめとして、学問その
ものの存在意義やその社会的役割が鋭く問われたことはい
期の撚糸文土器や沈線文土器などとは全く異なる土器で、
うまでもない。こうした大学やそれを取り巻く社会の大き
器形は室谷遺跡下層の土器を想起させるものであった。隆
な動きの中で、月見野遺跡群の資料整理は事実上ストップ
起線文土器などとは異なる草創期の未知の土器を発掘した
していた。
のであったが、その位置づけなどを含めて、この時には分
相模考古学研究会の分布調査そのものは、なお続けられ
からないことだらけであった。脆弱でもあったことから一
ていたものの、踏査の機会は少なくならざるを得なかっ
部の土器は、土ごと切り取って持ち帰り、後にバインダー
た。1970年の正月、恒例の正月分布調査で、月見野第Ⅲ
で処理をすることになる。
遺跡の向かい側の相模野No.149遺跡で、細石刃石器群の
次第に凝灰岩製を主体とする細石刃や細石刃核の出土量
ブロックが露出していることを確認し、月見野遺跡群の2
が増加してきて、安山岩製の尖頭器、無文の土器、細石器
次にわたる発掘調査では十分に確認できなかった細石器の
の関係が問題となった。分布の範囲はかなりの部分で重な
発掘調査を模索した。
るものであったが、最終的には人工層位で取り上げた遺物
時まさに東大安田講堂の攻防戦の頃で、大学が継続して
の垂直分布を検討し、尖頭器石器群と土器、細石刃石器群
第3次の調査を行えるような時期でも環境でもなかった。
に二分できた。
そこで、相模考古学研究会として、現場事務所の協力を仰
発掘調査以前に採集されていた遺物に、有茎尖頭器と細
ぎ、工事予定のやりくりをお願いして1970年1月末に3日
石器があり、これらが共伴するか否かも調査の眼目のひと
間の猶予をもらって発掘調査を行うに至ったのである。小
つであった。結果的には、これらは時期を異にするものと
野正敏、鈴木次郎、村山昇、金子豊貴男と私の5人での調
考えるべきであるとの結論に至る。発掘では有茎尖頭器は
査であったと記憶している。私は、ちょうどドイツ語の試験
出土しなかったが、安山岩製の尖頭器石器群と共伴すると
があった日であったが、それを投げて現場に行ったことを
考えるべきで、これに土器が伴うと理解し、草創期の新し
覚えている(実際にはほとんど勉強していなかったので受
い一事例と考えようという結論であった。しかし、この土器
けても落ちたはずが、運のいいことに皆、出来が悪かった
と石器群が草創期のどこにどのように位置づけられるのか
らしく再試験があって何とか可をもらえることになる)
。
は、当時は確たる見通しはなかったといえよう。
短期間しか余裕がなかったことから記録の取り方を工夫
細石刃石器群は、野岳・休場型の石核で、細石刃の分割
し、人工層位で50cm四方、厚さ5cm毎に一括して記録す
も他の例に同じであった。特筆できるのは、かなりまとまっ
ることとした。富士黒土層の下部に至って、安山岩製の大
た削器類の出土で、当時、関東以西の細石刃石器群では、
振りの剥片や尖頭器が出土し、次いで無文の土器が発見さ
あまり明確ではなかった石器群全体の様相がうかがえるも
れた。ソフトローム層に入っても土器が出土し、その一つは
のであったことであろう。後にこの課題は、報恩寺遺跡の
折り返しの口縁を持ち、その折り返しの下部に刺突文を持
発掘を通じてより明確に石器群の全体像をとらえることに
つものであったし、小さい平底の底部破片も出土した。早
なる。
リ レーエッセイ
マイ・フェイバレット・サイト 70
高岡廃寺 ∼ 埼玉県日高市
高橋 一夫
高岡廃寺発掘 余話
博物館準備室に配属され、同年11月に開館した。その年は
私が埼玉県教育委員会に奉職したのは昭和46年である。
社会教育課から文化財部門が独立し、文化財保護室が新設
2
A R U K A N e ws l e t t e r No.77
された年で、柳田敏司さんが室長補佐だった。発掘調査専
ては、奥さん自慢の中華料理を堪能した。
門の係はできたが、調査体制は十分に確立されておらず、
少しは調査内容にも触れておこう。
対応しきれないと博物館施設に発掘がまわってきた。
最高所には金堂。その脇に方形ピットと石組遺構、その
日高町(現・日高市、古代の高麗郡)でゴルフ場の開発
下に須弥壇と敷石のある仏堂、僧房と考えた2棟の掘立柱
があり、寺院跡が存在するので調査が必要となった。町に
建物跡とカマド状遺構が検出された。
は専門職員がいないので、調査担当者として私が選ばれ
方形ピットの土層断面では柱痕が確認できた。整理の段
た。一人欠けると他の職員に負担がかかるので、「どうし
階で瓦塔がここを頂点に扇状に分布していることから、瓦
て発掘に行くのか」と同僚に詰問された。当然、館の上層
塔を建てるための柱を埋め込んだピットであることが判明
部は了解していたと思っていたが、学芸部長からは「二度
した。鈴木君が遺物分布図を作成してくれたので、各遺構
と博物館に来るな」と送り出された。
の性格も把握することができたのである。元は空洞であっ
私は博物館に5年在籍したが、その間に6回も発掘に出か
た石組遺構は、出土した須恵器が創建期のものなので、地
けている。これでは嫌われるわけだ。その後、歴史資料館
鎮に関わる遺構と判断した。掘立柱建物跡の切り合い関係
に3年間在籍したが、ここでも3回の分布調査と5回の発掘
も把握でき、寺院の変遷を知る上で役立った。実際に掘っ
に従事。その後の整理・報告書作成。当時を知らない人
たのは卒業生と学生で、当時の学生は高い発掘技能を身に
は、何をしていたのかと思うだろうが、そういう時代だっ
つけていた。昨今とは雲泥の差である。
た。
当時、麻生優先生の原位置論が流行っていた。私も学生
高岡廃寺の発掘は昭和51年2月7日からはじまったが、
時代に仲間と原位置論に基づき、野田市堤台遺跡で1軒の
発掘まっただ中の4月に新設の歴史資料館に異動となっ
住居跡を足掛け2年かけて調査した。いまから思うと、下
た。二度と来るなといわれたからには意地でも行くものか
津谷達男先生はよく我々のわがままを許してくれたと感
と、博物館には顔を出したのは3月31日の一日だけであ
謝。そして、全点ドットはオップンサイトの高岡廃寺で威
る。
力を発揮した。
さて、調査組織は、事務を日高町教育委員会、団長:大
調査期間は5月までだった。予定通り調査を終えたが、
護一郎、副団長:古代寺院研究家の織戸市郎、担当者:高
最後に全測が残った。岩盤を削り、それを盛って金堂平場
橋、補助員:就職浪人の伊藤研志・中村倉司、東海大学生
を形成しているので、基壇の半分は細かな石敷きである。
の鈴木徳雄・高橋信一という布陣。寺院跡の調査は初めて
また、基壇前面には石組があり、谷部の湧水地や山頂まで
だったが、何の恐れも気負いもなかった。通常の調査手法
グリッドを入れたので、地形を含めて手測りしていたなら
を踏めばいいと考えていたからだ。寺院跡は山の斜面にあ
到底期間内には終わらない。最後の難関である。そこで、
るので、遺物が流れ動く可能性があるので全点記録するこ
人件費と空測費を秤にかけ、空測を実施することにした。
とにし、まずは全体の把握に努めた。しかし、織戸さんは
県内初の空測である。空測のための清掃作業をしていた
中心建物の規模を早く把握する必要があると主張。私は全
ら、新たに1棟の掘立柱建物跡が出てきてしまった。これ
体像がつかめないと調査の段取りがつかないと主張。何度
には参った。予定通り空測を行ったが、工事関係者に事情
もぶつかった。私は29歳。若かった。織戸さんの意見をあ
を話して工事を延期してもらい、その後は休日を利用して
まり聞かなかった。すると織戸さんは、我々より早く現場
学生2名とひっそりと調査した。不手際は担当者の責任と
に来ては発掘していた。まさに、若者の突っ張りと老いの
思い、期間延長や予算追加という気は端からなかった。調
一徹の対立。主要遺構の様相を早めに把握することは必要
査が終了したのは7月である。
なことだといまでは思うが、私は当時の織戸さんの年齢に
発掘中に寺院跡を保存して欲しいと要望したが、遺構の
近づきつつある。複雑な気持ちである。
残りが悪いというので却下された。目を見張るものなかっ
私のつたない発掘歴でも、これほど現場でやり合い議論
たが、調査後に高麗氏に関わる重要な寺院とわかった。し
した経験はない。議論が調査精度を高めたに違いなく、こ
かし、時すでに遅し。研究の浅さが露呈してしまった。気
れが思い出深い発掘になっている所以であろう。
に入った発掘ではあったが、この点だけが心残りとなって
一方、折戸さんからは古代寺院関係の文献をお借りし、
いる。
コピーさせて頂いては学んだ。これが、私の古代寺院研究
ところで、浪人と学生はその後仕官が叶い、文化財保護
の第一歩である。
の道を歩んでいる。寺院跡の発掘のだけに御仏の御利益
大切な作業員頭は、70歳を超えていた郷土史家の天野萬
か。一方の私は、「二度と来るな」の呪文が解けて博物館
一さん。みんなが疲れたと見るや、「腰のばし―」と号令
に戻ったのは28年後で、博物館統廃合の最中だった。
をかけて休みを入れた。この号令は、私も後々現場で使わ
※次回のマイ・フェイバレット・サイトは田島明人さんです。
せて頂いた。天野さんは満鉄の出身。時々、自宅に招かれ
3
A R U K A Ne wsle t te r No.77
考 古学者の書棚
『無文字社会の歴史 ―西アフリカ・モシ族の事例を中心に―』
川田順造(原著発行1976年)/同時代ライブラリー16 岩波書店(1990年)
古屋 紀之
この本は学生時代に手にしてからしっかり読むことをし
「意 図 的 な 付 加」を
なかったが、しかし気になる本として常に書棚の目立つと
読み取ることであ
ころにおいて置いた本でもある。今回、あらためて読み直し
るといえるだろう。
てみて、文化人類学の本ではあるが、考古学に携わる人(特
極端な事例を挙げ
に先史・原始社会専門の方)には大変有益な情報が満載され
よ う。図 は 本 書 中
ていると感じたため、ここに紹介する次第である。
の挿図でモシ族の
著者の川田順造は1934年に東京深川に生まれ、戦後、発
中のある王朝の系
足してまもない新制の東大教養学科文化人類学を修了し、
譜を表したもので
その後、20代末からの15年間の大半は留学先のフランス
ある。
(イ)に示した
とフィールドワークの舞台であるアフリカで暮らしたとい
も の が1924年 に
うから、
生活そのものを研究に投げ込んだような人である。
フランス人の学者
本書で語られるのはアフリカ西部モシ族の諸王国の成り立
が採集した王統譜
ちやとくに王の系譜について、口承史料を材料として復元
で、川田自身が王の
的考察を行った研究過程である。
「口承史料」とは口伝えに
宮廷楽師から聞い
よって世代を超えて語り伝えられてきた「ことば」の歴史資
たものもほぼ同じ
料である。川田以前には、例えばドイツの著名な探検家フロ
で あ っ た。と こ ろ
ベニウスが20世紀初頭に採集した口承史料などもあるが、
が、王の一族でこの
基本的には川田が長年にわたり根気良く現地の社会に溶け
地方の行政連絡員
込み、
自らがモシ族の人々に聞いて回った生の史料である。
をしているという人物が代々語り継いできた王統譜は(ロ)
なぜ「ことば」なのかというと、それはモシ族が文字を持
に示したまったく別のものだったという。ふたつ図の番号
たない「無文字社会」の民族だからである。
「無文字」という
はそれぞれ王の継承順位を示しており、両図の同じ番号は
と「文字を知らない」というネガティブなイメージを抱きが
同一の王名を示している。つまり左図では縦に長い直系の
ちだが、川田はそのイメージを明確に否定する。
「文字社会」
系図だが、右図では「傍系間循環継承」と呼ばれる、兄弟間を
と「無文字社会」は相反する社会の形態ではなく、
「文字社
基本として傍系親族にも及ぶ安定した継承の系図となって
会」にも「無文字性」の側面は存在する。要は二つの異なる社
いる。川田によれば(ロ)の系図のほうが実際に近く、
(イ)の
会とみなすのではなく、両者を基本的には連続した相で捉
直系的な系図は王統の歴史をより古く遡らせるために世代
えつつも、なぜ一方は文字を必要とし、もう一方は文字を
的に並列する王を直系的に縦に並べてしまう作為的なもの
「必要としなかった」のか?という問いの立て方が、川田の
と判断している。私などはこの事例を見て、はたして日本に
本書における一貫した姿勢である。
おける『記紀』や埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘などの史料批判
川田がフィールドワークを行ったモシ族社会の伝承の魅
は十分なのだろうかと思わず考え込んでしまった。
力は、本書の冒頭部分である印象的なエピソードによって
さて、このほかにも無文字社会における口承史料を駆使
語られる。それは、ある王国の宮廷でのことだった。王の系
した研究例が紹介されているが、それらを読んで率直に感
譜は季節ごとの祭りでとくに丁寧に朗誦されると聞き、そ
じたのは、自分が研究対象としている弥生時代や古墳時代
の場に行って録音をはじめた。ところが、前奏とおもわれる
前期までが文字資料が欠如していることは当然知っている
太鼓だけの演奏があまりにも長いので、テープ節約のため
が、当時の人々が文字に書かれた歴史をもたない社会で生
途中で録音を停止したところ、やがてふいに太鼓を叩き終
きていたということを本当の意味で理解していなかったと
えた楽師たちが「録音はうまく出来たかね」という意味の言
いうことである。私たちが考古資料から知りえる範囲を文
葉を川田にかけ、去ってしまったという。あっけにとられ
化の骨とすれば、遺存しなかった文化の血肉の部分を考慮
て、人に彼らはまた戻ってきて朗誦をはじめるのかと聞い
に入れる想像力をもつことに、われわれ考古学者は常に努
たところ、朗誦なら今終わったではないかという。つまり、
力しなければならないだろう。
モシ族は王の系譜を太鼓の音のみで歴代の王の系譜や王た
不 器 用 な 雑 文 で、本 書
ちへの賛美を表すという風習が今なお続いているというこ
の持つ魅力をいくばくも
とで、これは文字社会を生きる我々にしてみれば想像も出
伝え切れていないが、と
来ないことだろう。
もあれ一読して原文にじ
川田の研究の優れたところは口承伝承を丹念に採集し、
かに接していただくこと
異伝同士を比較検討することによって、伝承に加えられた
を強くお勧めする。
4
アルカ通信 No.77
発 行 日 2010年2月1日
編集・発行 考古学研究所(株)アルカ
〒384-0801
長野県小諸市甲49-15
TEL 0267-25-0299
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URL:http://www.aruka.co.jp